言葉となった仏さま
十月のおことばは、坂東性純師が「新講歎異抄」のなかで著してくださったお言葉です。坂東先生は、一九三二一(昭和七)年に東京都に生まれられ、真宗大谷派坂東報恩寺の住職を務めるかたわら、大谷大学や上野学園大学で仏教学者として活躍されました。そして、二〇〇四(平成十六)年にご往生されました。
念仏というのは私に現れた仏の行い
(二三八頁)
ここでは、他力念仏のお心を、簡潔かつ明快に表現してくださっています。
念仏は私のはたらきではなくて、阿弥陀さまの具体的な現れであります。「念仏する」という行いは、私の行いであるままが阿弥陀さまの行いであるという意味を持ちます。
親鸞聖人は、「教行証』「行巻」に「しかるにこの行は大悲の願(第十七願)り出でたり」(「註釈版聖典」一四一頁)といわれ、また「これ凡聖自力の行にあらず」(「同』一八六頁)と、称名はこの私の口から出てはいますが、私の「はからい」の心から出たものではなく、阿弥陀さまの「大いなるお慈悲の願い」から出た清浄真実な行いであることを表してくださいました。
「はからい」とは論功行賞の考えのことです。これは、功績の有無や大小に応じてふさわしい賞を与えることです。「これだけの功徳を積んだのだから、阿弥陀さまは救ってくれるだろう」と期待したり、また「このようなことでは救われるはずもない」と不安になったりと、人間の知識でもって阿弥陀さまのお救いをはかり知ろうとすることなのです。
南無阿弥陀仏のお念仏は、阿弥陀さまが一切の自力の行を選び捨てて、念仏一行を選びとり、善悪・賢のへだてなく万人を平等に救い取ろうと願われた、選択森風の行なのです。そしてその会仏は、阿弥陀さまが南無岡弥陀仏という声・言葉となって、私たちの煩悩生活のなかに入り満ちて、煩悩という自分の殻に閉ざされている私たちを喚び覚まし、さとりの世界へと向かわせるはたらきであって、これは私たちの上に現れている阿弥陀さまの行いなのです。
『仏説無量寿経」のなかには、
われ仏道を成るに至りて、名声十方に超えん。
究意して聞ゆるところなくは、誓ひて正覚を成らじ。
(「重誓偈」、『註釈版聖典」二四頁)
と、阿弥陀さまが私たちを救うために声・言葉の仏になろうと誓いを建ててくださったことが記されています。
そして、その願いが願いのままに終わることなく、南無阿弥陀仏の言葉の仏と現れ出てくださったのでした。南無阿弥陀仏は名号といいます。名号とは名前という意味ですが、単なる名前ではなく、「究意して聞ゆるところなく」とありますから、今、この私に届いているということです。また名前は言葉です。言葉はその人の心そのものといえますので、阿弥陀さまのお心が南無阿弥陀仏となって私に届いているともいえます。
阿弥陀さまの喚びかけ
親鸞聖人は、「「命』は本願招喚の勅命なり」(「註釈版聖典」一七〇)といわれました。「帰命」とは「たのみにする」「依りどころにする」という意味になります。ところが、親鸞聖人は「私にまかせなさい」「必ず救う」という阿弥陀さまの「喚び声」であるといわれたのです。また、ここではその喚び声を天皇の命令になぞらえられたのです。
「平家物語」巻第三「頼実」には、
天子には戯の詞なし、論言汗のごとし
(「平家物語I』二九八頁、岩波文庫)
とあります。「天子には冗談の言葉はない。天子のお言葉は、汗のように一度出れば取り消せない」という意味です。論言とは天皇の命令のことで、天皇の言葉は一度下しますと決して取り下げられることはありません。そのことを「汗の如し」といわれたのでした。汗は体温調節のために皮膚から外へ排出されますが、その汗がもう一度毛穴に戻ることはありません。
親鸞聖人は、「あなたを必ず救う仏がここにいます」「だから心配しないで私にまかせなさい」という阿弥陀さまのおおせを、取り消しのない絶対的な命令として受け取られたのでした。阿弥陀さまがどうか浄土に生まれてきてくれと願いを込めてこの私にはたらいてくださっていることを表し、しかもそのお言葉に二言はないことを現わしてくださったのです。私がそのようなことを願う前に、阿弥陀さまの方から「お願いだから、お念仏申して、わが極楽浄土に生まれてきなさい」と。
そのお心を、京都女子学園の創設者の一人で歌人であった甲斐和里子さん(一八六八ー一九六二)は、
側仏をよぶわがこゑは御仏のわれをよびます御声なりけり
(「草かご』二四四頁)
と、私の口から出るはずのないお念仏が私の口から出るということは、ひとえに阿弥陀さまの大いなるおはたらきである、と慶ばれたのでした。
また、親鸞聖人は「如来、諸有の群生を招喚したまふの勅命なり」(「註釈版聖典」二四一頁)とも表してくださいました。
「群生」とは「むらがりいきるもの」です。かつて群生とは「もやし」のようだと聞かせていただいたことがあります。植物は太陽の方向に向かって伸びるのですが、もやしは光のないところで栽培しますので、一本一本がそれぞれ別の方向に生えます。つまり、方向性を持たずに生きている私たちのすがたなのです。また、地上に生まれ出て雑草のように生きる私ども庶民大衆のことでもあります。
私はこの世に生まれてきたからといって、歴史に名を残せるような人生ではありません。せいぜい親子とか兄弟、夫婦といった、ほんのわずかで身近な者だけがその存在を気づかい合いながら、肩を寄せ合うようにささやかな生活を営んでいるだけです。いのち終えたとしても、「去る者は日々にうとし」ということわざのとおり、いつしか忘れ去られ、やがて生きていた証しさえもこの世から消えていくような存在です。特別な才能もなく、日々の生活に追われ、とるに足らない生涯であったとしても、私にとっては二度と繰り返すことのできない人生です。だからこそ、思うようにならない人生のなかで、辛くとも、苦しくとも、そこに尊い意味を見出そうと必死に生きているのです。
生まれてきた意味と生きていく意味、そしていのち終えたらどうなってしまうのか。阿弥陀さまは、その答えも見出せず、もがき苦しむ私たちに、「あなたを必ず救う仏がここにいます」「だから心配しないで私にまかせなさい」と、喚びかけ続けてくださっているのでありました。
選択本願のお念仏
選択とは物事を取捨することで、粗悪なものを選び捨てて、善妙なものを選び取るということです。阿弥陀さまは、平等の慈悲にかなわない自力の行を選び捨てて、念仏を一切界生の往生成仏の行として選び定めてくださいました。つまり選択の主体は阿弥陀さまであって、人間が選び定めたものではありません。
また、阿弥陀さまはこの私に選択肢を与えられませんでした。本来、自分の人生は自分で選択し、その選択したことに責任をもって生きていくべきものなのでしょう。しかし、迷うことなく自分の決めた道を歩んでいくということは、たいへん難しいものです。選択したことが順調に運んでいるときは「私の選択は間違いではなかった」と自信をもって進めるのですが、一転、事がうまく運ばなくなった瞬間、「この選択は間違いであったかもしれない」と動揺します。しかも後戻りもできません。
後悔と不安を抱えたまま、前に進むしかないのが私たちではないでしょうか。人間の選びには誤謬がつきものであり、選びの基準となる価値観もつねに揺れ動いているからなのでしょう。自らの選びに不安と動揺を抱えながらでしか生きようのない私だからこそ、阿弥陀さまは一切の自力の行を選び捨てて、念仏一行のみを選び取ってくださったのでした。自力の行がダメなのではなく、「自力の行はあなたの手にはおえない。最初はできるような顔をして取り組んでいても、行きづまるときが必ず来る。あなたの手に合うお念仏の行をこちらで仕上げたから、どうかこれを行じて浄土に生まれてきてください」「それがあなたにとって歩むべき道である」と、生きる方向性と為すべき行を定め与えてくださったのでした。
今のお救い
親鸞聖人の頃までは、お念仏といえば私の行いであり、そのお念仏によって臨終の際、阿弥陀さまのお迎えにあずかって、初めて救いが成立するという考え方が一般的でした。特に、臨終に心を静めて一心不乱にお念仏できるか否かが往生できるか否かを決める、と考えられていたのです。ですから、南無阿弥陀仏とは、「どうか阿弥陀さま、浄土へ迎え取ってください」といった意味になります。それに対して、親鸞聖人の教えは、阿弥陀さまの「我にまかせよ、必ず救う」という喚び声を疑いなく受け入れて、「有難うございます」とおまかせするとき、必ず往生すべき身に定めていただきます。
親鸞聖人のお弟子に、高田の覚信房というお方がおられました。あるとき、関東から親鸞聖人にお会いするため京都に上られたのですが、聖人にお会いして安心したのか重病に陥り、聖人のお住まいで臨終を迎えられたのでした。その臨終を迎えた覚信房を見舞われた聖人の目に留まったのは、苦しいなかで一心に念仏している覚信房のすがたです。それをご覧になった聖人のお心によぎったのは、阿弥陀さまのお迎えを祈るお念仏でした。聖人の教えを長年受けてきた覚信房に限ってそのようなことはあるまいとは思いつつ、聖人は覚房に対して、「どのようなお心でお念仏しているのですか」と聞きただされたのでした。そうたずねられた覚信房は、「お浄土に生まれるときが近づいております。ですから、いのちある限り、往生という利益を与えてくださった阿弥陀さまのご恩を感謝しなければと思って、お念仏させていただいております」と答えられました。そこには、大切な方との別れゆく寂しさのなかにも往生について少しの不安もなく、お救いにあずかったことを慶びながら歩みを運ぶ、念仏者のすがたがありました。
南無阿弥陀仏を、「我にまかせよ、必ずたすける」「だから安心して生き抜いてください」という阿弥陀さまの喚び声とわが耳に聞き、阿弥陀さまの「行い」といただくからこそ、苦難多き人生を浄土に向かって精一杯生きていくことができるのです。(宮部雅文)