宗教に遇い自らを知る
宗教のことを RELIGIONと英訳しますが、本来違うものではないかともいわれています。語源をみてみますと、強く (RE)結ぶ (LIGI)こと (IO)、 つまり、「自らを信仰に縛ること、神への信仰」という意味があるそうです。神さ
まと名づける存在と人間と名づける存在とがあって、この二つの存在を結びつける、むね。
それが信仰というものであるというのです 一方、宗教とは宗とする教えでありま す。「教え」とは、正しい道理を説いて、人々をさとし導いていくものです。また、「宗」とは「心」であり「中心」ということですから、教えを人間生活の中心としていくことといえます。
もし、阿弥陀仏という仏が向こうにいて、こちらに人間がいる。その阿弥陀仏と 人間を結びつけるものが念仏なら、それは人間の要求でしかないのかもしれません 。
現代では、多くの人が、自分の苦脳や、この世をどう生きるか、
幸せになるにはどのような宗教が自分にふさわしいのか。その解決法を情報収集するような態度で
宗教に触れています。しかしそれは情報の消費であって、
へたをすれば次から次へ と情報を取り込んだことで、かえって迷いを深めてしまうことにもなりかねません 。
どのような教えであっても、それを利用し、何かに至るための道筋のように考え るのではなく、その教えそのものが私たちの行きつくところ(目的)なのです。宗 教 に遇うということは、自分が何者であるかが知らされるということです。そして自分の考えを中心に生きてきた生き方が、教えを中心にして生きていく生き方へと転 換されるのです。それこそが救いなのです。その教えのように生き抜くということ ができて、初めて人は宗教のなかに生きているということがいえるのだと思います。
浄土真宗は阿弥陀仏の本願を宗とする教えです。本願とは、私たちにかけられた 阿弥陀仏の願いです。すべての悲しみ、苦しみを超えた平等なる世界 (極楽浄土) に生まれしめたいという願いを受け入れてお念仏させていただく、これよりほかに はありません。浄土真宗では、教えを利用し役立てようとする心から離れられない私たちに、生の依りどころを与え、死の帰するところを与えてくださるのが、南無
阿弥陀仏のお念仏であると、金子師はいわれたのでした。
念仏とは自己の発見
金子大榮師は、 一八八 (明治十 四)年に新潟県 に生まれられ、真宗大谷派での教学の近代化に尽力された仏教学者で、 一九七六(昭和五十一)年にご往生されました。師は 『歎異抄』 の解説書のなかで、
念仏の心において、まず明らかになることは自分というものです。念仏とは自 己を発見することであるわたくしはそういいたいのであります。 (中略) 自分を見出したということにおいて、その見出さしめた光として、そこに仏というものが感知されるのです 。 (「歎異抄 」 四六頁 、 徳間書店 )
ともいわれています。阿弥陀さまによって見出されたすがたは「凡夫」というすがたでした。
『教行証文類』(「顕浄土真実教行証類』)「行巻」に「凡夫道は究して星戦に至ることあたはず」(「註釈版聖典」一四七)
とあるように、凡夫であるとは仏に成れない身ということであり、それは仏道を歩もうとする者にとっては大いなる悲しみなのです。
小説家の幸田露伴氏が、
一切の人は皆愚人なり、皆凡人なり。若し人ありて我は愚人にあらずといはご其の人は既に真の愚人にして、又人ありて我は凡人にあらずといはご其の人は既に真の凡人たればなり。
(「牛庵夜譚」、『明治大正文学全集」第六巻、六五九頁)
といわれています。仏法に遇わせていただいて初めて「我は凡夫なり」と顧みることができるのです。
善導大師は、そのことを
「経教はこれを喩ふるに鏡のごとし」(「観経疏』「註釈版聖典(七祖備)」三八七頁)
と鏡に替えてくださっています。昔の鏡は今の鏡とは違って、銅鏡ですからつねに磨いていないと鏡が出て、顔がうまく映らなくなります。そこで絶えず磨き続けることが大事です。鏡をよく磨けばすがたが明らかに映るように、幾度も仏法を聞かせていただきますと、自分は真実について何も知らない愚か者であるということと、その愚かな者を捜め取り決して捨てないという阿弥陀さまの大いなるお慈悲がかけられたわが身であることが、知らされます。
大悲無倦常照我が親鸞聖人の「正偈」には、
「大悲無常照我」(大悲、倦きことなくしてつねにわれを照らしたまふといへり。「註釈版聖典」二〇七頁)
とあります。阿弥陀さまの大悲は、「無」(ものうきことなく)照らしてくださいます。
この「無総」とは、衆生(私)が阿弥陀さまの思いのままにならない状況であっても、嘆いたり、あきらめてしまうことがないという意味です。また「照」とは育てるという意味と、今まで気づかなかったことを気づかせるという意味があります。私が阿弥陀さまの願いに背くような状況であっても、阿弥陀さまは嘆いたり、あきらめたりすることなく、私を一方的にさとりの身になるまで育て続けられていらっしゃいます。このように、「無倦常照我」とは慶びとともに私のありようが知らされ続けられることでもあるのです。
私は今から十八年前に、夫婦二人で入寺をさせていただきました。当時、右も左もわからない私にご住職は優しく、丁寧にご指導くださいました。
毎朝、ご住職から「今日はAさんのお宅にうかがって、お勤めはお正偈さま。
それから何月何日にお寺の法要があるから、お参りに来ていただけるようご案内をして、帰って来てください」と言われておりました。私は言われたとおり、日々お務めをさせていただいておりました。またご住職自身も、ご門徒さまとお会いする際は、「今度の法要には必ずお参りください」とお誘いをされておりました。
しかし三年が経過しても、ご住職は私に毎朝、同じことを言われるのです。私は、「さすがに毎日同じことを言われなくてもわかっているのに・・・・・」と思いながら、少し聞きにくく感じておりました。特に、「お寺の法要にお誘いをしてください」という言葉が、徐々に聞きにくくなっていました。なぜなら私には、「僧侶として自分が聞かせていただいた仏法を、ご門徒の皆さまにも聞いていただきたい」「仏法に遇えた慶びをご門徒さまとともに分かち合いたい」という思いが、心の中に沸き起こっていたからです。
ですから、「そんなことは住職に言われなくても、自らの思いでご門徒さまにはお誘いいたします•••••・」と言えたかというと、そのようなことは口にはできず、心の中で何度も呟いていました。
それから数年が経ち、私は住職を継職させていただきました。いつものように法要のご案内をしておりますと、あることに気づかされました。それは毎回お参りをしてくださる方には、何度でもこの言葉を言えるのです。しかし、いくらお誘いをしても、まったくお参りになられない方やお誘いすることを拒絶するような方に対して、「今度の法要にお参りしてください」という言葉が言えなくなっている自分に気づいたのです。お誘いに応じてお参りに来てくださる方には言い続けることができますが、そうでない方には、「この人はいくらお誘いをしてもお越しになられない」「お誘いしても意味がない」と、なかば諦めた気持ちになり、魁を投げてしまっている私がいたのです。
一方、前住職は、「あなたがお参りになろうが、なるまいが、そのようなことは関係ない。むしろ、お参りされないのなら、お参りになるまで私はあなたをお誘いし続けます。それが住職として果たすべきことであります」と、どのような方にも同じことを言い続けておられたのだと思うと、改めてお誘いし続けることの難しさと尊さを感じるのでありました。
阿弥陀さまは、私が願いに気づいているか、そうでないか。いや、仏法に背を向け、煩悩を抱えてしか生きられない私を、決してあきらめることなく照らし育て続けてくださっているのです。
念仏者の生き方
ときに、私たちは「凡夫」という言葉に座り込んで漫然と過ごしがちです。しかし、浄土真宗に「凡夫だから仕方ない」といった言葉は存在しません。同じ善導大師に、
学仏大悲心
(仏の大悲心を学して「帰三宝偈」『註釈版聖典(七祖)」二九八頁)
という言葉があります。仏の大悲心を学ぶと読みますが、また「仏の大悲心に学ぶ」と聞かせていただいたことがあります。「広辞苑』では、「まなぶ」と「まねぶ」とは同義語とあります。したがって、学ぶということは真似ることでもあるのです。また、ご門主はご親教「念仏者の生き方」のなかで、仏さまの真似事といわれようとも、ありのままの真実に教え導かれて、そのように志して生きる人間に育てられるのです。と表してくださいました。
「凡夫」とは、自己中心的なものの考え方によって他を傷つけ、自分自身をも傷つけているすがたを表します。ですから「凡夫だから仕方がない」という言葉は、相手に対しても、自分に対しても、たいへん申し訳ない言葉なのです。本当の意味で、お念仏にも自分自身にも出遇っていないのではないでしょうか。
今、自他ともに傷つけていくようなわが身の愚かさに気づかせていただき、その愚かなものを見捨てず、一方的に育て、救おうとしてくださる阿弥陀さまのお慈悲さに心開かれたならば、少しでも身を慎み、言葉を慎んで、自己中心的なあり方を改めていこうとする、新たな方向性が恵まれるのです。
(宮部雅文)