2025年1月のことば いつでも どこでも 誰でも たすける行 それは念仏

竹中先生のご生涯

一月のことばは、「浄土真宗の葬儀』(東本願寺出版)に出てくる竹中智秀先生のお言葉です。

先生は一九三二ー(昭和七)年、兵庫県市川町に所在する、真宗大谷派光園寺に誕生されました。一九五九(昭和三十四)年に京都の大谷専修学院を卒業の後、縁あって大阪に所在する真宗大谷派定久寺に入寺されました。先生は大谷専修学院指導や同学院主事を経て、一九八八(昭和六十三)年には同学院長に就任され、数多くの真宗学徒を教導なさいました。また、海土真宗の葬儀をはじめとする儀礼についての見識は広く、真宗学はもとより民俗学の知見から、浄土真宗に相応しい儀礼のあり方について、常に新しい視点で示唆や提言をなさったのです。

このように多くの功績を残された先生でしたが、二〇〇六(平成十八)年十月、御年七十四歳にてご往生されました。

仏教と神道

さて、今月の言葉は前述した『浄土真宗の葬儀』からの引用ですが、目次は「真宗の数学と薬送後札」となっています。つまり、この言葉が出てくる背景は、海士真宗という「み教え」と、私たち真宗門徒が行う葬儀という「儀式・儀礼」の関係性について語られた場所にあるということです。

現在、日本の伝統的な仏教宗派は「十三宗五十六派」と呼ばれています。このように数多くの仏教宗派には、その宗派の教えや考え方に基づいた儀礼・儀式がそれぞれに制定されてあり、私たちの宗派(浄土真宗本願寺派)においても、葬儀については「葬儀規範」という取り決めによって葬送の儀礼が定められています。

一方で、日本には仏教以前より神道という神観念が存在し、その概念は現在でも共同体仰という形で生き続けているのです。全国各地で執り行われているお祭りや神事など、例を挙げれば切りがありません。そのことが、葬儀という人生において殊に厳粛であるべき儀式へ大きな影響を与えてきたことを、先生は次のように指摘されています。

(神道における)「禁別」、これはしてはならないことを決めることです。神道というのは共同体仰なのです。共同体仰というのは怖いのです。(略)神道を共同体仰として共同体が提んだという時には、その神道に「私はノーだ」と言えば、その共同体から排除されるのです。(略)共同体の禁忌を破った者を自分たちの手で殺してしまう(居ても居ない者と扱う)のです。(『浄土真宗の葬儀」)

つまり、神道が持つ「死」(死を穢れだと考え、忌み嫌う)という概念を共有する地域には、死を畏れるが故に取り決められた「禁尽」事項が暗黙の了解として存在しています。そして、そこに住む住民である限りそれを守らねばなりません。しかし、そのことが仏教の葬儀やそれにまつわる習俗を神道化させている、という現実があるのです。例えば、葬儀の際の清め塩や忌中札、正月年賀の久礼など地域によってその形はさまざまですが、根本的な考え方に差異はありません。

先祖の行方

さて、死をどのように受け取るかによって、その後の仏事のあり方も変わってくるのは当然のことです。これは宗派の考え方によってまちまちのようですが、例えば年回(年忌)法要を「追善供養」という呼び方で言い表す場合があります。「追善」を辞者で引くと「死者の冥福を祈って、生存者が善根を修めること。特に、仏事供養を営むこと」と出てきます。「冥福」とは「冥土の幸福」ということであり、「冥土」を再び辞書で引けば「死者が行く暗黒の世界」となっています。つまり、死者は暗黒の世界でさまよっている存在なのです。ですから後に残る者が、死者を暗闇から救い出すために追善の供養を行う、これが追善供養というものです。

これに対して、私たち浄土真宗を生きてゆく者に開かれている死後の世界は、まったく違います。親鸞聖人は

すべての世界に至り届いている阿弥陀仏の無光は、無明の闇を明るく照らし、信心を得て風弥陀仏の救いを喜ぶ心に、必す化のさとりを開かせるのである。
(「高僧和讃』「三帖和讃(現代語版)」九〇頁)

と示されています。そして、「無光」という阿弥陀仏のはたらきについては

「無」というのは、栗生の煩悩や悪い行いに少しもさまたげられず、そこなわれないことをいうのである
(『一念多念文意(現代語版)』三二頁)

というご解釈をいただいています。ここで、今月の言葉との繋がりが出てきます。

いつでも、どこでも、誰でもたすける行、それは念仏

つまり、時と処と人のあり方を選ばれない救いのはたらきが念仏なのです。ここで気をつけたいことは「たすかる行」と「たすける行」という言葉の違いです。

「たすける行」という言葉の中には、念仏を称えているのは私ですが、その念仏は「あなたを必ずたすける」という阿弥陀仏のはたらきを感じ取ることができます。

また、「無明の闇」(暗闇)とは、死者がさまよう世界ではなく、今現に智慧なき(無明)の私が、自らの頃悩によって描き出している虚妄の世界のことです。その世界が阿弥陀仏の智慧の光明によって照らし出されるのです。自分自身を、そしてまた他者を、ありのままに受け止めることができず、対立し、私たちは常に地獄を作り続けながら生きています。しかし、そのような世界が照破されるのです。

犬は跣足なり

ある日みんなと縁側にいて

ふいにはらはらと涙がこぼれおちた

母は眼に埃でもはいったのかと訊き

妻は怪訝な面持をして私をみた

私は笑って紛らそうとしたが溢れるものは隠す術もなかった

センチメンタルなと責めるなかれ

実につまらぬことが悲しかったのだ

愛する犬 綿のような毛立をふさふささせ

私たちよりも怜悧で正直な小さな魂が

いつも足で地面から見上げているのが

可哀相でならなかったのだ

『丸山薰全集』(角川書店)

犬が裸足で地面から人間を見上げているという光景は、いたって当たり前の光景です。しかし、作者の中ではその当たり前の世界が翻されたのです。それはとても不思議な出来事です。飼い主と思い上がっていた自分が、飼い犬と見下げていた「怜悧で正直な小さな魂」によって照破されたのです。「虚例不実で傲慢な私」が照らし出された出来事でした。

阿弥陀仏の光明に照らされた者も、その智慧のはたらきによって、未代無知な私であることが眼前にさらされ続けます。それは、救われようのない、お恥ずかしい私であることが知させられることなのです。

報恩の仏事

私のありのままの姿を知らしめ、私に「煩悩具足の凡夫」だと自覚させたのは阿弥陀仏の智慧でした。そして、この智慧は真実であるが故に、あらゆる来生の迷い(苦悩)を我がこととして引き受け、背負い、見捨てることができないという大悲心として成就されたのです。これが十方来生を救うという如来の本願でした。

ですから、私より先にこの世を出て行かれた方々(先祖)も、残された私たちも、阿弥陀仏の世界の中では、ご子地(一人子)のような大切な存在なのです。

また、親鸞聖人は

阿弥陀仏の浄土に往生すると、速やかにこの上ない涅槃のさとりを開き、そのままだいなる慈恵の心をおこすのである。このことを風弥陀体のはたらきによる回向というのである
(「高僧和讃』「三帖和談(現代語版)」八一頁)

とお慶びになっています。

この世で阿弥陀仏の本願に出遇い、硫、のその時に往生し、覚りの仏さまと成られたのがご先祖さま方でした。そして大悲心を起こし、「いつでも、どこでも、誰でも、たすける行」(念仏)となって私を西方の浄土へといま現に誘い続けてくださっています。

浄土真宗の葬儀は、そのような亡き人のおはたらきに「ありがとうございます」とお礼を申す、報恩の仏事なのです。

(田中 信勝)

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