表紙のことばは「お念仏を申す人生を生きる」(自照社出版)に収められている中西智海先生のお言葉です。この本は兵庫県に所在する、浄土真宗本願寺派善教寺さまにおいて執り行われた報恩講法要でのご法話を、そのままの言葉で文字起こしされた書物です。先生晩年の領解(お味わい)が、本堂での臨場感の中に伝わってくる内容となっています。
中西先生のご生涯
先生は一九三四(昭和九)年に、富山県氷見市にある浄土真宗本願寺派西光寺に誕生されました。幼少年期は第二次世界大戦の最中にあり、終戦後は国の復興という混海とした世相の中にありながらも、先生は真華に学業に励まれ、一九六一(昭和三十六)年に龍谷大学大学院文学研究科博士課程を修了。そのまま同大学に講師として就任されたのでした。また、西光寺のご住職を務められる傍ら、龍谷大学以外にも本願寺派関係諸学校にて永年にわたり教鞭を執られ、真宗僧侶・同行の育成にご尽力を賜りました。その間にはブラジルで南米開教区の開教総長を務めるなど、海外における伝道教化にも貢献されています。その後も本願寺築地別院(現・築地本願寺、東京都中央区)の輪番、また載学(真宗教学の最高学階)として、私たちに浄土真宗のみ教えを現代的な視点で説き明かし、導いてくださいました。

このように数多くのご功績を残された先生でしたが、二〇一二(平成二十四)年にご往生なさいました。御年満七十八才のことでした。
法話の主題
さて、このご法話におけるお話の中心は、講題によって明らかです。講題は「浄土真宗の二つの恵み」となっています。これは浄土真宗というみ教えの根幹を成すもので、親鸞聖人のお書き物の中に
つつしんで、浄土真宗すなわち浄土真実の法をうかがうと、如来より二種の棚が回向されるのである。べつには、わたしたちが~北に街生し応はするという往標が向されるのであり、ごつには、さらに迷いの世界に還って熟生を救うという還相が回向されるのである。
(『顕浄土真実教行証文類(現代語版)」九頁)
とある、阿弥陀如来から賜る二つの恵み、すなわち「街機前」と「還棚回向」のことです。
私をお浄土に往き生まれさせる阿弥陀如来のはたらきを「往相」といいます。そして浄土に往生した私が、阿弥陀如来と同体のさとりを開き、あらゆる迷いのいのちを救い遂げるために、この世に還り来てはたらきかけることを「還相」というのです。私が苦悩の世界であるこの世から離れて浄土に往生するということは「部和」(自らが救われる)の成就です。しかし自らが救われるということだけで完結するならば、それは真の仏教(成仏道)とはいえません。「和他」(悪心の成就)がなければ真実の教えであるとはいえないのです。つまり、自らの救いが他のものへの大悲のはたらきとなって(自利利他円満)、はじめて智識と慈悲の完成をめざす大乗仏教と呼べるのです。また、この二つの回向について親鸞聖人が出信側に
往棚も還相も他力の前である
(「顕浄土真実教行証文類(現代善版)」一四八頁)
と教示されておられる通り、往相回向も還相回向も私の功徳ではなく、阿弥陀仏の不可思議な大慈大悲心のおはたらきに他ならないことを忘れてはなりません。
先生の自省
先生はご法話の中で、あるキリスト教の立場の人から指摘された次のような言葉を紹介されています。それは「仏教というのは、この世を、この人生を、苦しみの世界とか迷いの世界だ、人生は苦なりということを言って(中略)この世が苦しい迷いの世界だから、そこから脱出する。その解放、脱出をさとりということで教えるのが仏教でしょう。(中略)自分の仰しているキリスト教は逆である。神のメッセージをこの現世の底の底へぶちこんで、救いを説くのがキリスト教である」というものです。この指摘に先生は、「非常に考えさせられたし反省もさせられた。
・・ある一面ではこの仏教に対するイメージは当たっているのではないか」ともおっしゃるのです。そして、そのことに対して、
「親鸞聖人はお浄土に行きっぱなしではない、還ってくると言われたんです。「還来団」汚れた煩悩に、濁りの多い世の中にまた還る。還るということは、この人生やこの世を捨てられないということでしょう。目覚めさせて翻して、真実のさとりの世界にまで高めてゆく命のありがたさを教えてくださったのでしょう。この世に還ってくるところが、全然伝わってないんじゃないですか」
と、還相回向をあまり積極的に説いて来なかった、これまでの伝道のあり方を、自らのことも含めて反省していらっしゃるのです。
宗教は生死を貫くまこと一つの教え
ドイツの哲学者マルクスが残した「宗教はアヘンである」という言葉は大変有名ですが、もし仏教がキリスト教の方が指摘されたような「この世の苦悩から逃れて、来世における自分の幸福だけを求める教え」であるならば、この世が作り出す罪業やその罪業に喘ぐ人間に「あきらめ」と「なぐさめ」だけを与える、まさにアヘンのような教えにと凋落してゆくことでしょう。
先生は真実の宗教「海土真宗」とは「生死を貫くまこと一つの教え」だとおっしやっています。「貫く」とは貫通するということです。人間は無知(無明)なるが故に、そこが自らの煩悩によって描き出している迷いの世界であることに、気づくことができません。心底は死に怯えながらも、まだ見ぬ幸福を信じて、暗闇の中を手探りで歩いているのです。
しかし、その暗闇が阿弥陀如来の智慧の光明(はたらき)によって照破(貫通)されるのです。それは、光によって、暗闇が暗闇であったことを知らされることであり、暗闇が暗闇のままに光に包まれることでもあります。愚かなる私が、ありのままに照らし出され、抱かれ、暖め続けられてゆく(摂取不捨)、そんな世界への目覚めです。そして、それはこのような私が阿弥陀仏の不可思議なはたらき(回向)によって浄土に生まれ、必ず仏にならせていただく身であることを、知せしめられることでもあります。そのことを親鸞さまはお書物に
念仏の生は他力の金剛心を得ているから、この世の命を終えて浄土に生れ、たちまちに完全なさとりを開く。
(「顕浄土真実教行証文類(現代語版)」二五七頁)
とお示しくださいました。私たち念仏者にとって、職約とは成仏(阿弥陀如来の光に溶け込み、還相の仏となる)のことなのです。
今年で東日本大震災から十四年の歳月が流れました。震災直後には全国各地から数多くのボランティアの方々が現地に入り、その姿が毎日のようにメディアで報じられていました。その中で、特に私の心に残っている場面があります。
それは、休日だけではなく会社の有給休暇をすべてボランティア活動に使っているという男性の言葉です。テレビ局の方が、「どのような気持で、いつもここに来られているのですか」と尋ねると、その男性は、
「被災された人たちのことを考えると、家で何をやっていても楽しくないんですよ。ここの方々の笑顔が、今の私の生きがいです」と応えたのでした。私はこの言葉を聞いて自問しました。また、それとは逆に、まだ現地に行ったことがないという女性との会話では、そのことの後ろめたさに毎日が何となく憂鬱で、テレビをあまり見たくないとの本音も聞かせていただいたことでした。
親鸞聖人がおっしゃった、
聖道門(自力で成仏をめざす人)の慈悲とは、すべてのものをあわれみ、いとおしみ、はぐくむことですが、しかし思いのままに救いとげることは、きわめて難がしいことです。が、
海士限(他力の街生地に生きる人)の慈恵とは、念仏して速やかに仏となり、その大いなる慈悲の心で、思いのままにすべてのものを救うことをいうのです※()内著者意訳(「歎異抄(現代語版)」九頁)
という歓びの言葉の中に、浄土真宗の救いが「往相」と「還相」の二つの恵みであることを、もう一度深く味わってみたいと思います。
(田中 信勝)