永六輔先生
八月の法語は、水六輔先生の著書「庭説法」(二〇〇七年本願寺出版社)の中から選ばれた言葉です。永六輔先生は、一九三三(昭和八)年に、東京都台東区の最尊寺(浄土真宗の単立寺院)に誕生されました。早稲田大学在学中に放送作家としてデビューし、その後、日本のテレビ黎明期に久くことのできない存在となりました。
永先生は、放送作家の枠にとどまらず、司会者や作詞家としても大いに活躍され、ラジオ・パーソナリティや作家など、多方面においてマルチな活動をされました。
周囲からは「言葉の天才」と評され、特に言葉の表現者として、その能力を如何なく発揮されました。
「上を向いて歩こう」や「見上げてごらん夜の星を」、「こんにちは赤ちゃん」、「遠くへ行きたい」、「いい湯だな」、「帰ろかな」などの作詞を手掛け、後世に引き継がれている名曲を生み出しました。さらに、一九九四年に出版されたエッセイ『大往生」(岩波新書)は、二百万部を超える大ベストセラーとなり、作家としても大きな飛躍を遂げられました。著書は、単著だけでもゆうに百冊を超え、その業績は枚挙に選がありません。

テレビやラジオの出演が数多い中で、先生がもっとも大切にされた番組が、毎週ラジオ放送されていた「全国こども電話相談室』だそうです。四十年間、全国のこどもたちの疑問や相談に真正面から向き合い、ときにはユーモアを交えて回答されていました。
また、尺貫法の復権運動や佐渡島の独立運動、安保改正に反対する運動など、社会活動にも意欲的に参加され、特に一九九五(平成七)年の阪神・淡路大震災では、被災地の障がい者支援に尽力されました。
晩年は旅暮らしで、各地で味わった感動や社会の矛盾を語りながら講演活動を続けられ、二〇一六(平成二十八)年七月七日に往生なされました。
見えない世界
永先生の著書「庭説法」には、「マグロを育てる森」という興味深い内容の章があります。そこには、スキューバダイビングを長年の趣味としてきた俳優の本郷淳さんの話が紹介されています。
マグロは森のおかげで育つ。マグロと森は、一見関係のないように見えて大いに関係があるのだ。マグロは、アジャイワシのような小魚を食べて育ち、アジャイワシは海洋性のプランクトンを食べて育つ。海洋性のプランクトンは、大陸棚のプランクトンを食べて育ち、大陸棚のプランクトンは、川から流れてきた水の栄養で育つ。そしてその川の水は、森から流れてくるのである。
ートンのマグロを漁獲しようとすると、十トンのアジャイワシが必要で、アジやイワシが育つためには、その十倍の海洋性プランクトンが必要になる。その海洋性プランクトンが育つには、その十倍の大陸棚のプランクトンが要る。
森が豊かでないと大陸棚が豊かでなくなり、大陸棚が豊かでないと海洋性の微生物が育たない。そうするとアジやイワシがいなくなり、アジやイワシがいなくなると、マグロも育たない。だから、マグロを育てるためには、豊かな森が必要なのである。
(以上、本文要約)
見えない世界を想像することは、たいへん難しいことだと思います。しかし、それは、とても大切なことだとも思います。
見えない世界を想像し、さまざまな物事の関係性について知ることができたなら、私が勝手に「関係ない」と感じていたことが、「実は深いところでつながっていたのだ」と感じることができるでしょう。そのような経験の中から、「この世に関係のないものはない」と受け止められるようになるのだと思います。
マグロはイワシやアジを食べて育つとありましたが、私はイワシやアジだけではなく、他の魚もいただくし、肉や野菜もいただきます。マグロが森によって育てられているのなら、私は森羅万象、あらゆるものに育てられ、生かされているといえるのです。
深い関係があるのに、その関係を知らないまま、まるで関係がないように思ってしまう。本当はつながっているのに、つながっていないと感じてしまう。「関係ない」、「つながりもない」、そう考えると何だか孤独で淋しい気持ちになりませんか。
関係性を知る
みなさんは、お仏塩にお供えする菓子や果物について考えたことはありますか。
そもそも、なぜ、お仏壇に菓子や果物をお供えするのでしょうか。
浄土真宗のお仏壇は、阿弥陀さまの浄土の世界が具現化されたものですから、その中のものはすべて、阿弥陀さまの功徳によって仕上げられた「浄土の糖厳(お飾り)」ということになります。一つ一つの荘厳には意味があり、それぞれに阿弥陀さまの「恩徳」を見ることができるのです。
目の前の灯明(ローソク)は、私を照らし世界を明らかにしてくださる阿弥陀さまの「智慧」、きれいに飾られた事は、その仏華のように私を浄土に生まれさせようとなさる阿弥陀さまの「慈悲」を象徴しています。また、中央に置かれた香炉は、海士からの香りを運び、今にも逃げようとする私をとどめ、おさめ取ろうとする阿弥陀さまの「すくい」を表わしているのです。
それでは、菓子や果物には、どのような意味があるのでしょうか。菓子や果物に、
阿弥陀さまのどのような恩徳が見えるというのでしょうか。
お仏壇に供えられた果物、それは何年も前に植えられた果から収穫されたものでしょう。果が実をつけるまでには豊かな土を必要とし、豊かな土には土を肥やす微生物、微生物の餌になる細菌が不可久であったでしょう。さらに、果を枯らさないための雨と、光合成のために必要な光がなくてはなりませんでした。
土、水、光、いや、きっとそれだけではないはずです。私が見えていないだけで、そこには、さらに「はかり知れない恵み」があったことでしょう。それらが、想像もつかない関わりを持ちながら成長を支えたのです。
その果物が、いま、私の目の前に供えられている。お仏壇の果物は、そのことを
私に教えてくれているのです。
阿弥陀さまの光に照らされたお仏壇の中の果物、それは肉眼では見えない「はかり知れない恵み」を映し出し、私に説法をしてくれているのです。いや、その果物を通して、阿弥陀さまが説法をしてくださっている、といったほうがよいのかもしれません。阿弥陀さまの光に照らされなければ、きっとこのことには気づけなかったでしょう。
恩を感じる喜び
見えない関係性に目を向けないと、他に対する慈しみや思いやりの心が生まれてこないように思います。そればかりか、周囲の人の気持ちを理解しようとせず、自分勝手なことばかりを考えるようになりそうです。
「誰の世話にもなっていない」「誰にも迷惑はかけていない」とは本当でしょうか。
そう思い込んでいるのは、世話をしてくれている人や迷惑をかけられている人が見えていないだけなのではないでしょうか。
ここで、東井義塩先生の「つながりあっているいのち」という詩を紹介します。
見えないところで
ひとつながりに
つながりあって生きているのは竹藪の竹だけではない
土手の
すぎなだけではない
つながりあって生きさせていただいている
このいのち
見えないところで「いのち」を支えてくれるもの、気づかないところで「私」とつながってくれるもの、それを感じることができたなら、なんとありがたいことでしょう。深い関係性を知れば知るほどに、私にとどけられている多くの恩恵に気づかされるのです。
知恩、感思、報恩。
恩を知り、恩を感じるならば、自然と「ありがとう」という心が生まれます。もし、「ありがとう」という感謝の心が生まれないのであれば、それは恩を知っただけで、恩を感じていないからでしょう。
恩を感じると、とてもありがたい気持ちになり、それが喜びとなる。恩を感じる喜び、その喜びで心が満たされると、「おかげさまで」と頭も下がるのです。
実るほど頭を垂れる稲穂かな
恩を恩とも知らずに生きてきた私が、たくさんな恩を感じて頭が下がる、これがまさしく恩に報いる姿でありましょう。
そして、多くの恩を感じられるようになると、目に映るものすべてが「ありがたい」と受け止められ、喜びに包まれた生活になるのではないでしょうか。自分にとって都合のいいことも、自分にとって都合のわるいことも、いただいているこの「いのち」も、すべてがありがたいと思える、そんな仕合せな人生を送りたいものです。
阿弥陀さまとの深い関係
世の中には、阿弥陀さまのことを知らない方もいます。また、阿弥陀さまの話を聞いても「自分には関係ない」と思う方もいるでしょう。さらに、「なぜ、阿弥陀さまは関係のない私を救おうとされるのですか」と疑問を抱かれる方もいるのではないでしょうか。
しかし、阿弥陀さまの側からすれば、関係のない人などは一人もいないのです。
生きとし生けるすべての「いのち」を見そなわし、「必ず救う」と誓ってくださる如
来さまだから、私に向けて「阿弥陀」(無量寿・無量光)と名のられ、「南無障弥陀」ととどいてくださるのです。
私が子どものころ、常念仏のお婆さんがおられました。当寺で法座が開かれるたびにお参りに来られ、毎座聴聞されました。いつでもどこでもお念仏なさるお方で、お念仏の後には決まって「ありがたい、もったいない」と、阿弥陀さまのご恩を喜ばれておられました。
ご恩を知り、ご恩を感じて、ご恩に報う。すべてが、「南無阿弥陀仏」の一声です。
願いがかけられていることも知らずに、「関係ない」と背を向ける。そんな私を放っておかない阿弥陀さま。おかげさまで、今日も「南無阿弥陀仏」が聞こえてきます。
(緒方義英)
















