2026年7月のことば 浄土とは違ったものが違いをもったまま 調和することができる世界

坂東性純先生

七月の法語は、東性、純先生の著書「親業和談倍心をうたう」(二〇10年 NHK出版)の中から選ばれた言葉です。

坂東先生は、一九三二(昭和七)年、東京都台東区の報恩寺(真宗大谷派)にお生まれになり、東京大学文学部インド哲学科を卒業、同大学院を修了され、イギリスのオックスフォード大学に留学されました。その後、大谷大学の教員となられ、同大学教授、上野学園大学教授を歴任され、二〇〇四(平成十六)年一月、七十二歳でご住生されました。

先生は英語がお得意で、木太輔博士の英訳「数行倍証」の出版ではグロッサリー(用語解説)部分の翻訳を担当されたり、財団法人仏教伝道協会の仏典英訳事業の中心メンバーを務められたりと、深奥なる仏教学の知識と卓越した英語力を発揮され、仏教の国際化に大きく貢献されました。

また、坂東先生が住職を務められた報思寺は、熟聖人の主者「お第行、熊女類」の草稿本(通称「製東本」を伝えてきた寺院で、二十四龍(親葉理人の二十四人の高弟)の筆頭である性信が開基したことでも有名です。

浄土という世界

さて、七月の法語は、海土という世界が「違ったものが違いをもったままに調和することができる」と教えてくださっています。そこで、まず、その意味について考えてみたいと思います。

「調和」という言葉を国語辞典「辞海」(三省堂)で調べると「矛盾または衝突がなく、互いにほどよく和合すること」とあり、「広辞苑」(岩波書店)には「うまく釣り合い全体がっている。矛盾なく、互いに程良い」とあります。「離える」、「触らぐ」という漢字の意味からしても、もの同士の釣り合いが取れて調い、和合している様子がイメージできます。

そうすると、違ったもの同士が、その違いのままに釣り合い、衝突することなく仲良くしている。違いを違いのままにお互いが尊重し、そこに良好な関係を築きながら一つの空間をつくっていく、それが浄土の世界であると解釈できます。

「仏説無量寿経」には、浄土の世界が、阿弥陀さまの「四十八の願い」によって成就されることが説かれています。「四十八の願い」とは「生きとし生けるすべてのものを救いたい」という阿弥陀さまの悲願のもと、その救済を実現するために選び抜かれた四十八の行(手だて)のことです。

この四十八の行が浄土を完成させ、その浄土の功徳が「生きとし生けるすべてのもの」の救済を成立させるのです。「四十八の願い」の中、第三番目の願いと第四番目の願いには、次のように誓われています。

第三願文(悉告金色の願)

わたしが仏となるときに、わたしの国の人々が、ことごとく金色とならないならば、わたしは決してさとりをひらきません。

(著者意訳)

第四願文(無有好の願)

わたしが仏となるときに、わたしの国の人々が、容姿に違いがあり、それによって好き嫌いや美酸の思いをいだくようであれば、わたしは決してさとりをひらきません。

(著者意訳)

この両願によって、阿弥陀さまの浄土の人々は、みな金色に光り輝き、その容姿は端正で、互いに「好き、嫌い」とか「美しい、醜い」というような執着を持たないことがわかります。

私たちの世界では、誰でも「好き嫌い」の一つや二つはあるものです。食べ物の「好き嫌い」、音楽の「好き嫌い」、洋服の「好き嫌い」、そして人間の「好き嫌い」。

多くの人が、自分の幸福のためにと、好きなものばかりを追い求めて、嫌いなものを遠ざけようとしますが、実は、嫌いなものばかりではなく、好きなものにも苦しみは伴うのです。試しに頭の中で、一番嫌いな人と一番好きな人を思い浮かべてみるとよいでしょう。

嫌いなものに関する苦しみは、おそらく説明は不要だと思いますが、嫌いなものが江づいてくる苦しみと、嫌いなものが離れていかない苦しみです。嫌いな人が向こうからやってきたときの気持ち、嫌いな人が居座って帰らないときの心境を思うと、確かに苦しいものです。

次に、好きなものに関する苦しみは、好きなものが遅づいてこない苦しみと、好きなものが離れていく苦しみです。大好きな人が近づいてこないときの気持ち、また、大好きな人が離れていくときの心境を思い浮かべると、確かにこれも苦しいものです。

このように、「好き嫌いことらしくしまうと、とここ必ず苦しみが生まれます。

そして、これは「好き嫌い」に限ったことではなく、美醜・優劣、善悪・正邪の意識にも通じます。

「説無量寿経」や「心』弥経」には、「浄土は苦しみのない世界である」と説かれていますが、それはこの二つの願いに誓われているように、浄土の人がみな平等に輝き、好嫌・美醜などといった分別にとらわれないことが要因の一つと考えられます。「好き・嫌い」、「美しい・醜い」といった分別にとらわれると、必ず苦しみは生まれます。そのような分別を離れ、すべての存在を「平等に尊い」と受け止めることができたなら、すべてのものがありがたく見え、すべてのことをありがたく感じられるのではないでしょうか。

浄土とは正反対の世界(矛盾と衝突の世界)

それでは、私たちが住む世界はどうでしょう。坂東先生の著書の中には手を認めようとしない。自分とは違う意見を嫌い、否定して、最後はそれを排除する、それが不協和音です。

目己を愛し、自己を正当化して自分の久点や過ちを認めないばかりか、他者に勝利し、他者を支配しようとして相手の矢点や過ちを許さない。そのような姿勢を変えようとしないから、違ったものを排除しないと安心ができないのです。これは、まさしく「矛盾と衝突の世界」といえましょう。

一方、海士に不協和音がないのは、どのような性質をもった人が集まっても、みな互いを尊重し、譲り合って、一つにまとまることができるからです。自他の違いにこだわることなく、自分の意見や考えにもとらわれない、そのような自由で調和的な環境が浄土だというのです。

浄土の中には、美醜もなければ優劣もなく、善悪もなければ正邪もない。なぜなら、そのような分別は、本来、存在そのものにはないからです。

存在に美醜や優劣、善悪や正邪をつくるのは娑婆の人間で、その分別は、他ならぬ「私たち」の見方によって生まれるのです。「私たち」の見方は、いつも自分の価値観によって都合のいいように対象を分別しますから、とても身勝手で自己中心的なものといえましょう。それなのに、その分別にとらわれ縛られて、「思い通りにならない」と苦しんでいるのが現実です。

違ったものが違いをもったままに調和する世界

タンポポがバラの花を咲かせることはできませんが、バラもタンボボの花を咲かせることはできません。タンポポがバラの花を咲かせる必要はありませんし、バラもタンポポの花を咲かせる必要はないのです。タンポポはタンポポとして輝き、バラはバラとして輝く。違う者同士、それぞれが唯一無二のものとして、最高の輝きを放ちながら共存している、それが浄土の世界です。

「仏説阿弥陀経」には、海土の世界について、決のように説かれています。

道のなかの選剰は、だきさ車輪のごとし。背色には青光、黄色には黄光、赤色

には赤光、白色には自光ありて、無効を潔なり。

(「註釈版聖典」一二二買)

浄土の池には、大きな車輪のような達の花が咲き、青い花は青い光を、黄色い花は黄色い光を、赤い花は赤い光を、白い花は白い光を放って、それぞれにかぐわしい香りを放っている。

(著者意訳)

の花の色はそれぞれ違っても、それぞれの色でそれぞれに輝き、みなが何とも言えない芳しい香りを漂わせます。それぞれが個性を発揮し、ともに「浄土」という世界を作り上げているのです。

そして、この浄土の逆を輝かせているのが、阿弥陀さまの光のはたらきなのです。

阿弥陀さまの光に照らされなければ、蓮は輝くことができません。阿弥陀さまの光のはたらきこそが、違ったものを違いのままに輝かせ、調和させているのです。

私たちは、こうして浄土という世界を知ることで、自分の見方や考え方がいかに誤っているか、自分の住む世界がどれほどあてにならないか、自分がいかに自己中心的であるのかを思い知らされます。

違ったものが遠いをもったまま調和することのできる世界、そのような浄土が、私の住む娑婆世界の問題点を明らかにしてくれるのです。

(緒方義英)

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