米沢英雄さんは、福井県におられたお医者さんです。浄土真宗のみ教えを深くよろこばれ、病院のお仕事をされながら講演活動をし、み教えの味わいを多くの方に伝えられました。
十月のことばは「本願はいのちなり」(東本願寺出版)と題された米沢さんの講演録の中の一節です。
私は今回「月々のことば』の法話原稿を依頼された時に、法語の中に米沢さんのことばがあると知り、力不足だとは思いながらもぜひ書かせていただきたいと思いました。というのも、私たちのお寺の本棚の中に米沢さんの本がたくさんあったからです。昔、私の祖父が買ってきたものです。生前の祖父は、米沢さんの語る浄土真宗の味わいにずいぶん薫陶を受けていたようなのです。

「祖父が慕った米沢さんとは、どんな方なのだろう?」そう思いながら本を読ませていただきました。
ところが米沢さんのことばが、私にはとにかく難しかったのです。決して難しい理屈を語っておられるわけではありません。米沢さんは浄土真宗を深く学ばれながらも、教学的な用語にとらわれることなくご自分の言葉で自由自在にお話ししておられるのです。それが私にとっては初めて聞く浄土真宗のお話のように思えて、戸惑ってしまったのです。
困り果てた私は、祖父が書き残してくれた寺報にヒントがないかと目を通してみました。何十年も書き溜めた寺報を綴じたファイルはもうすっかり色褪せていました。ふと、一九八二年十一月号の寺報に目が留まりました。「ご利益」について書かれてあったのです。
私たちが何かをじるというのは、ご利益があることを期待することである。
四十年以上前の祖父のことばが、今を生きる私に迫ってきたように感じてドキッとしました。
私はいろいろなものに期待しながら生きています。人生の中で私は期待をしなかったことがないのです。このことはお釈迦さまが「仏説無量寿経」の中にお説きくださっています。
「田があれば田に悩み、家があれば家に悩む」
田んぼがあれば「今年の取れ高はどうだろうか、不作になりはしないだろうか、米の値段が高騰しているこのご時世、倉庫に泥棒が入りはしないだろうか」とあれこれ悩みが尽きません。立派な家が建っているのを見れば「あの家の人はさぞ何不自由ない幸せな毎日を送っているのだろう、それに引き換えこの私は・・・・・・」と悩む。
有れば有ることに悩みが尽きないし、無ければ無いことに悩みが尽きません。悩むのは、悩みとは正反対のご利益を期待しているからではないでしょうか。
以前、いつも飲んでいるサプリメントを買いにドラッグストアに行った時のことです。お会計を済ませると、店員さんがくじ引きの抽選券をくださいました。
「今、隣接する家電量販店でくじ引きをやっていて、この抽選券でくじ引きができるのでよかったらどうぞ」
せっかくもらったのだから、と私はその足でお隣の家電量販店に行きました。入ってすぐの所に店員さんがおられたので抽選券を見せると、店員さんは快くくじ引き会場に連れて行ってくださいました。くじ引きはガラガラポン。店員さんが固唾をのんで見守る中、私はガラガラと回す…・・。すると、中から青色の玉がコロンと出てきました。次の瞬間、「ガランガランガラン!」と店員さんが鐘を鳴らし、「おめでとうございます!一等賞です」
と声高らかに言ったのです。何を隠そう、私はこれまでくじ引きに当たったためしがありませんでした。たいてい残念賞のポケットティッシュをもらうのが関の山。
そんな私が一等賞です。それも、家電量販店での一等賞です。次の瞬間から私は「何がもらえるんだろう」とわくわくしました。最新の薄型テレビ、機能性抜群の掃除機、洗濯機、マッサージ機..なんならその景品をもらってから後の快適な生活が、頭の中にホワワーンとイメージされました。景品引き換え会場に通され、「それでは、一等賞の方はこちらの二つの商品から、お好きな方を一つお選びください!」
店員さんが、とびきりの笑顔でジャジャーンと私の前に出された物は・、台所
用洗剤と食品用ラップでした。
「えっ、これが一等賞?」
私はこの時とてつもなくがっかりしたのです。
さて、この時私はなぜ、とてつもなくがっかりしたのでしょう?店員さんは何も悪くありませんね。また、台所用洗剤だって、食品用ラップだって、日頃使っている物です。普段は買っている物がもらえるのならば、嬉しいはずなのです。なのに、なぜがっかりしたのか。それは、私が期待をパンパンに膨らませていたからです。最新の便利な家電製品がもらえると手に期待し、期待通りの現実にならなかったからがっかりしたのです。
くじ引きに限らず、私は人生のあらゆる場面で、「こうなったらいいな」と、人に期待し自分に期待し、社会や世界に期待しながら生きています。その期待はほとんどが裏切られ、期待はそのまま「なんで自分ばかりこんな目に遭わなければならないのだろう」と憂いへと変わります。期待したものが得られても、それで満足することはなく、また新たな期待が湧いてキリがありません。何が得られたら、どんな自分になれば満足することができるのか、その何かがわからないままに、あれやこれやとご利益を求めるのが私なのでした。
また、祖父は寺報の中でこうも語っています。
さきの戦争中、日本の国民は殆ど全員が戦いに勝つことを至上の願いとしていた。神にも祈り、仏にも願った。正義の戦いであり全人類のためだと倍じていたからである。(中略)一たん何かの縁で非常事態となると、人間のもっている恐ろしさが怒涛のように押しあげられて、止まることができなくなるものである。
八十一年前の戦争を経験した一人の声です。私たちの起こす願いは、時に人間同士で殺し合う戦争をも生み出してしまうような、危ういものであることをまざまざと知らされます。
世間的なことでは心の底から満足できない、そういうものが人間にある
祖父と同じ時代を生きられた米沢さんのこのことばの奥には、何事にも満足しきれず、自分の期待に苦しめられてきた人間の深い苦悩の歴史があります。そして、悲しき私たちの為に届けられたものに「出遇え!」という強いメッセージが込められてあるように、私には思えてなりません。
実は、祖父がご利益について書いた寺報には、発行される約一カ月前に生まれた私のことが書かれていました。私が生まれた時に、姉二人が「赤ちゃんの名前はマリちゃんがいい!」と言ったのだそうです。祖父はそれを聞いて、マリにするならどんな漢字をあてたらいいだろうと、お経にたずねたようです。すると『仏説無量寿経』の中で、お釈迦さまがこの人間の世にお出ましになられた訳を説かれたところに、「これだ!」というおことばがあったのです。
前以出興於世 光闡道教
欲拯群群萌 恵以真実之利
(加来が)世にお出ましになるわけは、他の教えを説き述べて心んを救い、まこりやくとの利益を恵みたいとお考えになるからである。
(『浄土三部経(現代語版)」|四頁)
私たちのご本尊阿弥陀如来という仏さまは、何を求めればいいのかわからない、自分の願いに苦しんできた私のことをよくよく知り抜いて、「この者を、一切の・苦しみから解き放たれた仏と成らしめたい」と願いをおこされました。
私は仏さまになりたいなんて思ったことはありません。阿弥陀さまの方が私のことをよくよく見通してくださり、本来私が願うべきことを阿弥陀さまが願い、阿弥陀さまの方で仕上げてくださった功徳を余すことなく南無阿弥陀化の名号に込めて、私に届けてくださったのです。
真実の利益とは南無阿弥陀仏のこと、これを私たちに恵まんがために、お釈迦さまは人間の世界にお出ましになられたとお説きくださっています。ここの御文を読み、祖父は、
「今現に私が恵まれている真実の利を、この子にも影恵まれてほしいという願いをこめて、かつまたこの子によって我々が、真実の利を一層深く受とらせていただく授かり子として、ふさわしい名と考えてみた」と書いていました。きっと改めて「仏説無量寿経」が説かれたいきさつを知らされ、感のうちに書いたのでしょう。
でもその後に「結局は真和を排して亜紀子に決定して落ち着いた」とあり、私は思わず吹き出してしまいました。「亜紀子」と名付けたのは、父なのです。父にとっては舅である祖父に対して日頃はあまり主張しない父が、この時ばかりは譲らなかったのでしょう。その様子を想像して、私はクックッと笑いながら、自分がどれほどに願われている存在なのかを思い知らされて、グッとこみ上がるものを感じたのです。
別の号にはこんな話もありました。
ある日の晩、家族みんなで夕飯を囲んでいると、この時一歳半の私が何を思ったのか、急に立ち上がってヨチョチ歩きで部屋の隅に置いてあったゴミ箱の前に行き、両手を合わせて「マンマンアッ、マンマンアッ」と拝み始めたというのです。家族みんながどうしたことかと不思議に思いゴミ箱の中を覗いてみると、中に金色に光る菓子箱の包装紐が捨ててありました。なるほど、この子は普段大人たちがお仏壇で金ぴかの阿弥陀さまを拝んでいるのを、見様見真似でやっているのだと判明しました。幼い妹が無心に両手を合わせるのを見て、姉二人も後ろに続いて拝み始めたそうです。
子どもたちが手を合わせるのに、「拝んだらどんないいことがある」なんて期待はありません。どうすれば儲かるかとか、明日の米の値段を心配する必要もありません。なぜならまかせきっているからです。そのいのちを願い支えてくださる存在に、ただ念仏の姿なのです。
「自分中心の計算づくの心から離れることができず、いつもはからいに明け暮れてしか生きられない私が一歳半の幼児から大きな教えをいただいたことでありました」
おじいちゃん、ごめんなさい。お父さん、親さま、お釈迦さま、阿弥陀さま、ごめんなさい。あれから四十年ちょっとが経ち、一歳半の時のことなど微塵も記憶に残っていない私は、すっかり自分中心の計算づくの心を振り乱しながら生きています。ようこそそんな私の為に真実の利益を届けてくださいました。米沢さん、ありがとうございます。私はこの度あなたのことばのお蔭で、自分にこの上ない宝物が届けられてあることを聞くことができました。
ようこそ、ようこそ。南無阿弥陀仏。
(田坂亜紀子)
















