二月のことばは、釜子が先生のお言葉です。
金子先生は明治十四(一八八一)年、新潟県の真宗大谷派の寺院に生まれ、東京へ移転開校していた真宗大学(現大谷大学)に入学、卒業後は新潟に帰郷して寺務に従事しました。その後、東洋大学教授、大谷大学教授、広島文理科大学(現広島大学)専任講師、大谷大学教授(復職)を歴任し、昭和五十一(一九七六)年にご往生されました。
真宗大谷派の僧侶であり、仏教思想家である金子先生は、清沢澈之氏の私塾、満を洞に学び、清沢氏が創刊した雑誌「精神界」の編集責任者を務めました。
同期の曽我量氏と親交を深めるとともに、教え子の安田理氏、松原相善氏、山崎俊英氏などと一緒に京都に私塾、無法学園を開設し、後進の指導に尽力しました。

教学理解の相異によって、一度は大谷大学を辞任しましたが、後に復職し、真宗大谷派最高の学階である講師を授与されました。そして、大谷大学名誉教授、真宗大谷派宗務顧問となっておられます。広範な学識と深い自己省察にもとづいて、伝統的な仏教、浄土真宗の教えを近代思想界にひろめたのです。
今月のことばは「金子大楽対話集」(一九七九年、弥生音房)の一節です。この書は
和大氏や故出@鉄氏、武感素ご氏といった方々との対話で構成されています。
仏教の教えにふれるとき、その専門用語の難しさから、人々に敬遠されることがあります。この書は対話集ですので、ずっと話し言葉が続いていて、比較的読みやすいです。
金子先生の信仰が、身近な出来事を通して柔らかく語られていくのですが、そこには仏教、浄土真宗の教えを自らの人生に照らして深く洞察された先生の、み教えとの出会いの喜びがうかがえると言えるでしょう。
金子先生には、一般の人にも語り継がれる有名な言葉がいくつかあります。
「やり直しのきかぬ人生であるが、見直すことはできる」
「花びらは散っても花は散らない、形は滅びても人は死なぬ」
これらは浄土真宗のみ教えを伝える言葉ではあるのですが、悩み多い現代社会を
生き抜くための、教訓のようなものとして受け取られることも多いようです。
人生には、出会わなければならない悲しみや苦しみがあります。いくら涙を流しても尽きないほどの悲しみのどん底にある方に対して、どれだけ力になりたいと思っても、なかなかかける言葉は見つかりません。少しでも励まそう、男気づけようと思っても、悲しみの只中にある人の心にはとても届きもそうもありません。
そんなとき、その悲しみはどうしようもないものなのだから、乗り越えてがんばって生きていきましょう、というのはあまりにも酷なことです。
教訓としては、いろいろな考え方があるでしょう。
この世に喜びばかりだったら、日常をありがたいと思うこともなかったかもしれない、今の悲しみにも学ぶことのできる意味がきっとある、いつか悲しみを乗り越えて生きていけます。このような言葉は、まちがってはいないのかもしれませんが、悲しみの淵にある方には酷な言葉です。
自分がこれまでしっかり考えてこなかったからだろうか、学ぼうともせず甘えているだけなのだろうか、いつまでも泣いていないで、深をこらえてがんばって生きていかねばならない。そのような思いを持たせてしまうなら、それは溺れて今にも沈みそうな者に泳ぎ方を指導するようなものであり、あるいは溺れていること自体を責めて反省させるようなものです。
金子先生の言葉は、親鸞聖人が明らかにされた他力の念仏、阿弥陀如来のはたらきのなかに生かされる念仏者のこころを伝えるものであって、人生をうまく生き抜く教訓を教えるものではないでしょう。
私の悲しさを知る仏さまの悲しみ
金子先生の言葉に、次のようなものがあります。
悲しみは悲しみを知る悲しみに救われ、涙は涙にそそがれる涙にたすけらる。
(「数異抄領解」一九五六年、在家仏教協会「金子大栄選集」第十五巻)
これは、「数異抄』に対する金子先生自らの受けとめを述べる著述のなかの言葉で
す。
この著述では「数異抄」の本文を現代語に訳し、親鸞聖人の言葉に対する解説が記されているのですが、金子先生独特の時的な表現で語られているので、その言葉自体が情感豊かな響きを持っています。それが読む人に対してさまざまにメッセージ性を持って、時に教訓的に読まれることになるのかもしれません。
「悲しみは、悲しみを知る悲しみに、救われる」この言葉は、「数異抄」後序の火の言葉を解説された部分に出てきます。
聖人(親業)のつねの側せには、「弥陀の五期思僧の職をよくよく染ずれば、ひとへに親紫ールがためなりけり。さればそれほどの業をもちける身にてありけるを、たすけんとおぼしめしたちける本殿のかたじけなさよ」と御述懐使びし(「註釈版聖典」八五三頁)
親心がつねづね側せになっていたことですが、「障弥陀地が五期もの長い間、思いをめぐらしてたてられた本願をよくよく考えてみると、それはただ、この親紫で人をおいくださるためであった。思えば、このわたしはそれほどに重い罪を背負う身であったのに、数おうと思い立ってくださった弥陀の本職の、何ともったいないことであろうか」としみじみとお試しになっておられました。
(「数異抄(現代語版)」四八頁)
「数異抄」の著者といわれる唯円が、親鸞型人がいつもおっしゃっていた言葉を懐かしく思い出して語っています。
親聖人が、自分ではどうすることもできない迷いの深さ、愚かさを悲しみながら、このような私を包んで支えようと願いをおこしてくださった仏さまの、大悲に対するかたじけなさが示されています。
それを、「ひとへに親一人がためなりけり(ただ私をお救いくださるためであったのだ)」といただいていかれたのです。
今のこの悲しみがなかったら、日常をありがたいと思うこともなく、あたりまえに過ごしていたかもしれない。この悲しみは自身が立派な人間になるために必要な試練だったのだ。こんな悲しみは早く忘れて元気に生きていこう。
このように思うことができるなら、それに越したことはありません。
ですが、気の持ちようでなんとかなるような、そんなことでは済まない、どうすることもできない悲しみに、出会わなければならない私たちです。
いのちあるものは、必ず死ななければならない。そんなことは誰もが知っていることです。自分が死ぬ、ということについては、ひょっとしたら考えようがあるかもしれません。そこそこ年令を重ねれば、残りはどれくらいであろうか、いつまでも生きていられるものではない、そんな覚悟も少しはできてくるということもあるでしょう。
世の中では、人間死んだらおしまい、という言い方があります。
死は誰も避けることができないのだから、生きている間にできることを精いっぱいしようというような、そんな前向きな思いを表しているのなら、意味のある言葉だと思います。
本人にとってはそう言えるかもしれません。死は一つの区切りであり、それまでにできることをしよう、というのはわかります。でも、そのようにおっしゃる方がいたら、私はこう申し上げたいのです。あなたの死を悲しむ人にとっては、死で終わりではないのです。あなたが亡くなった後も、あなたのことを忘れずに、涙を流さずにおれない人がいるのです。どうぞそんな悲しいことを言わないでください、と。
一切無生の救われる道
私たちはこれまでの人生で、まわりの方々を見送るという経験をしてきました。
年が上の方もいれば、同世代の方であることもあるし、時に自分よりも年が下の方であることもあります。
身近な方々を見送るということは、私たちに大きな傷が残ります。
どうしてこんなことになったのだろうか。
何かしてあげられることはなかったのだろうか。
あれでよかったのだろうか。
それは見送った後も続きます。他人だったらすぐに忘れることができるかもしれませんが、「死んだらおしまい」などと忘れてしまうことはできずに、痛みを持ち続ける人のことを遺族というのでしょう。
死別の悲しみは、早く忘れて、乗り越えて元気に生きていくものではありません。
悲しみを抱きつつ、亡き人の思いとともに歩んでいくものと言えます。
私のどうすることもできない悲しみを、ともに悲しんでくれる方がいるとき、悲しさはなくならなくとも、支え合って生かされていく道が開かれます。
自分ではどうすることもできない迷いのなかにある私を、救わずにおかない、包んで支え、ともに歩もうと願いをおこしてくださった仏さまのが悪です。
それを金子先生は、「悲しみは、私の悲しさを知る仏さまの悲しみによって救われる」と示してくださったのでした。
そして、そのような大悲を一切菜生の救われる道といただいていかれました。
死の悲しみは自分一人の悲しみではなく、ともに悲しむものでありました。仏さまとともに歩み、海土へ生まれ往くという道において、自分も救われ、ともに救われていくといただくことができるのです。
それが、親鸞聖人がお示しになった自らの迷いを悲しむ思いであり、仏さまのはたらきを喜ぶ思いでもありました。
すべての人の救われる道であったからこそ、私も悲しみのなかではありますが、しっかりと歩んでいくことができます。
ともに歩んでいく道だからこそ、この先に浄土という行き先が開かれていきます。
私が仏さまとともに歩んでいく海士への道を、親鸞聖人がお示しくださったことを、金子先生は一切衆生の救われる道、私が救われる道と教えてくださったと味わわせていただきます。
(佐々木隆晃)
















