一月のことばは、酸田総文先生のお言葉です。
藤田先生は昭和十六(一九四一)年、大阪府に生まれ、龍谷大学大学院文学研究科
真宗学専攻を修了、広島県の浄土真宗本願寺派光徳寺住職を昭和五十五(一九八〇)
年から平成十八(二〇〇六)年まで務められ、その後、前住職として寺院を中心に全国で布教活動を行われました。
長く宗派の要職に就かれ、浄土真宗本願寺派門徒会運動・同朋運動の両本部事務室長、両運動を一本化した基幹運動本部事務室部長、浄土真宗本願寺派伝道院部長・主任講師を歴任されました。
令和元(二〇一九)年には仏教伝道協会より「第五十三回仏教伝道文化賞」を受賞されています。法味豊かな数多くの著述にも見られるように、わかりやすい語り口で「日常の仏法」をテーマに、広くみ教えを伝える活動に取り組んでこられました。

今月のことばは、「はじめて仏教を聞く人のための13章」(一九八四年、本願寺出版社)の一節です。タイトルにある通り、はじめて仏教に出遇う人の入門書として、生活のなかの人々の思いを出発点にして、懇切に語られています。
また、如上人の法語を伝える「如上人御ご代記開書」のなかに、「化法者申さ
れ候ふ。わかきとき仏法はたしなめと候ふ」(「註釈版聖典」一二五二頁)と、仏法は若
いうちに心がけて聞きなさいと示されているように、若い世代の方々に読んでいただきたいとの思いでこの書は書かれています。
藤田先生は、自分の確かなよりどころとなるものは、結局自分しかないと考えている人も多いのではないか、と語りかけます。
たしかに日常の生活では、自分しか頼ることができない、人に迷惑をかけてはいけない、弱さを見せられない、このような感覚が強く根付いています。しっかりすること、我慢強くあること、人に頼らないことが、いわゆる「自立」であると強調される傾向にあります。
これはある意味、過去の経験から学んだ知恵であり、社会を生き抜くために必要な武器、自分を守る鎧のようなものとも言えるでしょう。
こうしたことが求められる一方で、頼りにすべき自分自身に対して、弱さや不確かさを思い知らされ、大きな不安を抱えてしまうことがあります。
自分のことを、どれだけ人の役に立てるか、どれだけ我慢できるかで、その価値を測るとなると、何もできない自分では意味がない、外部に助けを求めてはいけないと、自分を追い込んでいってしまいます。
そして、自分とは違って甘え上手な人を見ると相手に不満を抱き、それでも自分はがんばり続けなければならないという関係性をつくり出して、八方ふさがりな状況に陥ってしまいます。
藤田先生は水のようにおっしゃっています。
他人は用できないといいますが、それ以上に用できないのが自分です。倍用できないものを用できると思いあやまって、自分に固執して、結局、自己と人生の方向を見失っているのが私たちではないでしょうか。
(「はじめて仏教を聞く人のための13章」本願寺出版社)
私たちはこれまでの人生でさまざまな経験を積み、知恵を身につけてきました。
それは社会を生き抜くうえでは必要なものであり、私を支える力になることは事実です。
そして、このやり方でうまくいったという経験があると、同じやり方にこだわりを持って、それを離さず握り締めてしまうところがあります。
私たちはそれぞれに、これまで培ってきた「ものさし」を持っていて、その「ものさし」で物事を測って判断します。
しかし、自分の「ものさし」にこだわり、それを自分の正しさとしてふりかざすと、他者の「ものさし」との違いに苦しむことになり、他者の思いを受け入れられなくなってしまいます。
「ものさし」を問う
仏教では、自分の「ものさし」で問うのではなく、自分の「ものさし」を問うこ
とを教えています。
若い頃には自分の「ものさし」が頼りなく、不安も多かったけれども、経験を積んできた今ならもう大丈夫、いろいろなことがわかるようになってきた。普段の生活ではそういうこともあるでしょう。
ですが、しっかりと準備をしていればすべて安心、自分のことは自分が一番よくわかっている、そのように思ってこれまで過ごしてきたとしても、やはり、思いもよらない出来事に出会わなければならないのが私たちの人生です。
自分の作り上げてきた「ものさし」を大事にし、これこそまちがいないと思っていた私が、思いもよらない出来事に出会ったとき、根底から揺さぶられます。
なぜ私がこんな目にあわなければならないのか、こんなにがんばってきたのに何が悪かったのだろうかと、その苦しさ、悲しさを受け入れるのは簡単ではありません。
今たよりとしている若さも、健康も、生命も、確かなものはありません。いつまでも若くありたい、できるだけ健康でいたい、長く生きていたい、そのような自分の切実な思いに自分自身が、裏切られなければなりません。
藤田先生は「宗教は、一時しのぎの道具ではありません。どんなことがあっても、びくともしない確かなよりどころをあきらかにするのが宗教です」と述べられます。
自分の「ものさし」で物事を測ろうとするとき、私たちは自分の都合のいいように、自分の心地よいものを選んで測ってしまいます。
すべては自分から見た見方、自分の都合で見えてくるものを見ているのですね。
それはちょうど、自分の都合という色メガネをかけて見ているのと同じです。
同じものを見ていながら、自分の見ている色と違う色だと言う人がいたら、その人の見方はおかしいと思うでしょう。白いものを見ているのに、私自身が色メガネをかけて見ていたら私にはその他にしか見えません。相手もまた同じように自分の色メガネで見ていたら、それは何であるとその人と言い合いをしても、いつまでも平行線です。
世間では、他人を変えようとしても変わってはくれない、自分が変わらなければ何も変わらない、ということを言います。
それはそうでしょうが、自分が変わることは本当にたいへんです。自分のかけている色メガネが、これまでの経験で身につけてきた自分の武器であるなら、それを捨て去ることはとても難しいものです。自分を変えること、自分の「ものさし」を手離すことは、自分でしょうとしても本当に難しいものです。
自分の「ものさし」にこだわり、そのこだわりが自分を苦しめていることに気づかされるのは、自分から出てくるのではありません。外から気づかされるはたらきが、私に届いていたのです。
み教えに照らされて
今月のことばの「み教えによって、自分のありのままの棚が知らされるのです」という藤田先生の言葉は、倍心について記されている箇所に出てきます。
浄土真宗の心とは、自分の「ものさし」で判断するのではなく、自分の「ものさし」が問われ、明らかになったところに頂戴しているものなのです。
藤田先生はおっしゃっています。
僧心とは、寒らかになることなのです。
真実のみ教えを聞いて、鶏らかになることが心です。
み教えに照らされて、私と、本当に確かなものがらかになることが信心なのです。
(「はじめて仏教を聞く人のための13章」本願寺出版社)
「審」とは「審査する」「審理する」などの言葉に見られるように、あきらかにする、くわしく知る、という意味の文字です。
心とは、何かにすがって一時しのぎをするためにお願いをするものではありません。み教えを聞き、み教えに照らされて、自分の「ものさし」にこだわって苦しんでいた自らの姿があきらかになる、そのような私であることを受けとめることを言います。
そして、自らの愚かさが知らされて、ただ絶望するのではありません。闇を照らしだし、気づかせるはたらきは、闇を破る光であり、真実に導くが火なのです。
親鸞聖人は、私の姿を審らかにするはたらき、私を照らし導く光のことを、次のようにお示しになっています。
無明 長夜の灯なり
智眼くらしとかなしむな
生死大海の船筏なり
罪障おもしとなげかざれ
(「正俊末和護」三時護、「註釈版聖典」六〇六頁)
弥陀のはたらきは、暗く長い夜の闇を照らす大きな灯火である。部数の腿が暗く閉ざされているといって悲しむことはない。阿弥陀仏のはたらきは、迷いの大海を渡す乗りものである。罪のさわりが重いといって嘆くことはない、とおっしゃっています。
「灯姫」という言葉について、親望人は漢字の読みや意味などを傍に記す左訓を付してくださっています。そこには、「常のともしびを弥陀の本願にたとへまうすなり。常のともしびを灯といふ。大きなるともしびを短といふ」とあります。
「灯」は灯火のことで、明るい光を表しています。「姫」は炬燵などというように、あたたかい光を思い浮かべることができます。
仏さまのはたらきを、智慧と慈悲という言葉で示すことがあります。智慧とは物事を正しく見きわめることをいいます。慈悲とは相手を憐れみ悼んで何とかしてやりたいと思う思いやりの心をいいます。
明るい光は私を照らし、真実の姿を教えてくれる智慧のはたらきを表しています。
あたたかい光は私を包み、真実の歩みに導いてくれる慈悲のはたらきを表しています。
ありのままの相
み教えによって照らし出された、自分のありのままの相とは、自分の「ものさし」が問われて明らかになる、真実の姿でした。
仏さまのはたらきに包み込まれた、自分のありのままの相とは、「何があってもあなたを見捨てることのない私がいます」と言ってくださる仏さまとともに生きる、真実の歩みでした。
あてにならない私であることと、本当に確かなものである仏さまのはたらき、その二つが審らかになって、自己と人生の方向が明らかになることを、藤田先生は「心とは、審らかになること」とお示しになったのです。
み教えによって、自分のありのままの相が知らされるという、念仏者としての確かな歩みが、私には恵まれているのです。
(佐々木隆見)
















