1996(平成8)年1月26日 サンデー下関掲載

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ご存知ですか

維新史跡・光明寺

維新史跡の一つに「光明寺」があります。

常陸国(茨城県)の人釈正善の開基により、大永年中(1521~1527)豊浦郡西市村(豊田町)に一宇を建立。のち内井村・幡生村(下関市)と転じ、享保17年(1732)に細江町高台の現在地に移されたと伝えられる浄土真宗のこの寺、昭和20年7月の大空襲では、周囲は火の海と化し、炎は石垣まで迫りましたが、本堂は焼失をまぬがれ、維新時の姿を今に伝えています。

文久3年(1863)の下関攘夷戦の際には、久坂玄瑞率いる浪士隊約50人がこの寺に駐屯しており、5月11日未明、アメリカ商船ペンブローク号に対して庚申・癸亥両艦で海峡に乗り出し、また亀山八幡宮境内に築かれていた砲台から攘夷の第一弾を射ち出したのが彼たちでした。今日この浪士隊を「光明寺党」とも呼んでいます。

『白石正一郎日記』の中に

6日(文久3年4月)、中山公子今日又狐狩ニ御出長府より御猟方来ル、得もの狐壱疋光明寺へ御持行被召上候

 

という記述が見られます。

中山公子とは、悲劇の死をとげた急進派公卿中山忠光のことで、狐を食べたとは少々荒っぽい話ですが、一党を激励する意味での訪問であったのでしょう。

また、癸亥丸(英国より購入した長州藩軍艦)を飾っていた「艦首像」を切り取って来て、光明寺本堂の階段下に据え置き、出入りのたびごとにその像を蹴とばし、攘夷の思いを高揚させていたとも伝えられています。若者らしい稚気ではありますが、これもある意味で強い結束のための踏絵であったと言えましょう。

若き志士たちの足跡が刻まれたこの古刹、下関における重要な史跡としてもっと顕彰されてよいのではないでしょうか。

文・写真:清永 唯夫

 

 

 

 

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