阿弥陀仏の本願とは
この歌は、甲斐和里子さんの『草かご』の詩集から引かれた言葉です。
親鸞聖人の『教行信証』教文類には、
それ真実の教を顕さば、すなはち『大無量寿経』これなり
(『註釈版聖典一三五頁)
と述べられています。
この『仏説無量寿経』(『大無量寿経』)には何が説かれてあるかと言いますと、あらゆる人を念仏ひとつで救おうという、阿弥陀仏の本願が説かれています。その阿弥陀仏の本願とは何かと言うと、阿弥陀仏という仏は、もと法蔵という菩薩が四十八の願いをおこし、長い修行を経て、理想の浄土を建立して仏となられました。その浄土を極楽と名づけ、その仏を阿弥陀仏と名づけられたのです。
その四十八願の十八番目の願を、特に「本願」と呼んでいます。この本願は、あらゆる衆生に対して、「われを信じ、わが名を称える者を、わが国に必ず往生させる」という誓願であります。
この阿弥陀仏の誓願が成就したことを、釈尊が説かれだのが成就文(じょうじゅもん)です。第十八願の成就文には、
あらゆる衆生(しゅじょう)、その名号を聞きて信心歓喜(しんじんかんぎ)せんこと、乃至一念(ないしいちねん)せん。
(『註釈版聖典』四一頁)
とあるように、何を信ずるのかというと、名号のいわれを信じることで必ず救われていくのです。したがって、あらゆる人びとを念仏ひとつで救うと誓われた阿弥陀仏の本願を説かれた経典が、『仏説無量寿経』ということになります。
『仏説無量寿経』の終わりには、
それかの仏の名号を聞くことを得て、歓喜踊躍して乃至一念せんことあらん。まさに知るべし、この人は大利を得とす。すなはちこれ無上の功徳を具足するなりと。
(『註釈版聖典』八一頁)
と、「名号を聞いて歓喜踊躍する者は、無上の功徳を具足する」と説かれてあります。
名号のいわれを聞くものは、無上の功徳を得ることができるというのです。この無上の功徳とは、浄土に生まれて仏と同じ覚りを開くということです。親鸞聖人は、この経典によって、凡夫が阿弥陀仏の本願力によって信心をめぐまれ、正定聚不退の位に定まり、浄土に往生して仏の覚りを開くことを、明らかにされました。
仏願の生起本末を聞く
名号のいわれをどのようにして聞くかというと、親鸞聖人は『教行信証』信文類に、
しかるに『経(きょう)』(大経・下)に「聞(もん)」といふは、衆生、仏願の生起本末(しょうきほんまつ)を聞きて疑心あることなし、これを聞といふなり。
(『註釈版聖典』二五一頁)
と示されます。仏願の生起本末を聞いて疑う心のないことを「聞」と言われるのです。
「仏願の生起」とは、阿弥陀さまの本願を起こされた理由ということです。本願の起こりは誰のためのものかというと、それは煩悩に振り回され真実の心を持たない私のために説かれたものです。「仏願の本末」とは、その起こりと結果ということで、阿弥陀さまは五劫もの長い間修行されて、本願を立てられた苦労(本)の結果、覚りを開いて阿弥陀仏(末)となられました。阿弥陀さまは、あらゆる人びとを救うために名号を誓われました。そして、阿弥陀仏の本願を信じて、念仏を称えることによって救われていく教えを明らかにされたのです。
このように、名号のいわれを聞くということは、聞き流したり、自分の思いで聞くことではありません。聞くということは、阿弥陀さまのまことを聞くことです。聞こえたということは、まことが受け取れたということです。まことが受け取れたならば、それは仏のおおせにすべてをまかせたということになります。阿弥陀さまと私との接点が結ばれるためには、仏の喚び声を聞くしか方法はありません。
そのことを『歎異抄』後序には、
聖人(親鸞)のつねの仰せには、「弥陀の五劫思惟(ごこうしゆい)の願をよくよく案ずれば、ひとへに親鸞一人(しんらんいちにん)がためなりけり。さればそれはどの業をもちける身にてありけるを、たすけんとおぼしめしたちける本願のかたじけなさよ」と御述懐候(ごじゅつかいそうら)ひし
(『註釈版聖典』八五三頁)
と言われています。
南無阿弥陀仏の喚び声
聞くとは、阿弥陀さまの私たちを救わずにはおれないという喚び声を聞くことであります。
親鸞聖人は『教行信証』行文類に、善導大師の「六字釈」を引いて、
「南無」の言は帰命(きみょう)なり。(中略)ここをもって「帰命」は本願招喚(ほんがんしょうかん)の勅命(ちょくめい)なり。
「発願回向(はつがんえこう)」といふは、如来すでに発願して衆生の行を回施(えせ)したまふの心なり。
「即是其行(そくぜごぎょう)」といふは、すなはち選択本願これなり。
(『註釈版聖典』一七○頁)
と延べられておられます。
「南無」とは帰依することで、「よりかかる」という意味です。「帰命」とは「本願招喚の勅命」とあるように、招喚とは、念仏を称えて浄土に生まれてほしいと、阿弥陀仏が「我を信ぜよ」と招き喚んでくださっているということです。すなわち、「この弥陀にまかせよ」と喚んでくださる阿弥陀さまからの喚び声です。「発願回向」とは、阿弥陀さまがわれらが往生するための名号を与えてくださる、大悲のこころを言います。「即是其行」とは、阿弥陀さまが与えてくださった功徳、すなわち、名号が行者の上に称名となって現れている姿を言います。
このように、阿弥陀さまの上にできあがった万行の徳(名号)が、帰命の信心のところに領受されて、私たちの往生が決まるのです。南無阿弥陀仏とは、「念仏ひとつで必ず救う、我にまかせよ」という阿弥陀仏の喚び声です。すなわち、「よりたのめ、よりかかれよ」と、私を呼んでくださっている喚び声です。私の心に届いた名号が信心ですから、口には称名となって出てきます。このように、私たちの救いは、名号の独りばたらきということになります。
『歎異抄』第一条には、
弥陀の誓願不思議にたすけられまゐらせて、往生をばとぐるなりと信じて念仏申さんとおもひたつこころのおこるとき、すなはち摂取不捨の利益にあづけしめたまふなり。
(『註釈版聖典』八三一頁)
と、親鸞聖人は「阿弥陀仏の誓願は、不思議なはたらきによって必ず浄土に生まれさせてくださると信じて、念仏を称えようと思い立つ心の起こる時、ただちに阿弥陀さまは摂取して見捨てることなく抱き取ってくださいます」とおっしゃっています。
さて、私が本願寺派の宗学院で学んでいる時のことです。『教行信証』の講義は故大江淳誠(じゅんじょう)和上でした。和上がいつも言われていたことがあります。
「名号は動いている。名号は動的存在で固然たるものではない。じっとしているものではなく、常に活動しているものである。名号は死にものではない。我らの口には念仏が出てくるはずがないのに、念仏の声がいつの間にか口に出てくるようになったということは、名号が私にはたらいて、私の口を動かして称えさせているのである。
たとえば、太陽は常に全世界の生きとし生きるものに向かって照らして、地上のものに芽を出させ、花を咲かせ、実を実らせている。このように、念仏を称えているのは念仏者の声であるけれども、名号が行者の信後の上に相続として生き生きと出てくるよろこびの声となり、称名となって現れて出てくるのである」(『教行信証講義録』趣意)
このように、大江和上はおっしゃっておられました。
信心と称名
浄土真宗の信心とは、阿弥陀仏のいわれを聞いて疑いなく信じる心を言います。また、「つつしんで往相の回向を案ずるに、大信あり。大信心は、すなはちこれ」(『教行信証』信文類 『註釈版聖典』二一一頁)といって、十二の名前を挙げ、そのなかに「証大涅槃(しょうだいねはん)の真因(しんいん)」という言葉を出し、覚りを開く因(種)が信心であることを述べています。また、「『信心』といふは、すなはち本願力回向の信心なり」(『同』二五一頁)
真実信心うるひとはすなはち定聚のかずにいる
不退のくらゐにいりぬれば
かならず滅度にいだらしか
(『註釈版聖典』五六七頁)
とあり、親鸞聖人は「真実信心の人は正定聚の数に入って、不退の位に就いて必ず滅度に到る」と述べられます。信心をよろこぶ人は、煩悩を持つたまま「正定聚」という浄土往生の仲間となり、阿弥陀さまの大きな慈悲に抱かれながら、生き生きといのちを輝かせながら生きていく生活が展開してくるのです。
浅原才市さんは、
かぜをひけばせきが出る
さいちが御ほうぎの風をひいた
念仏のせきが出る(鈴木大拙編『妙好人 浅原才市集』一四七頁)
と言われました。信心をよろこぶ人として生きていかれた人の言葉です。
たとえば、ススキの穂がゆれているのは、風がある証拠です。風は私たちの目には見えないけれども、ススキの穂がゆれていることで、風のあることを知ることができます。ススキの穂をゆらしているのは、風の力がススキに宿ったからであります。
私たちは、如来の本願力によって名号をめぐまれ、わが心に届いたところが信心です。その名号には、私たちが成仏するための功徳が込められていますので、この功徳がわが心に満入しますと、信心となります。その信心には、必ず念仏(称名)がついております。
煩悩にまみれた私の口から出るはずのないこの尊い念仏が、私の口から出てくるということは、ひとえに阿弥陀仏の大いなる力によるもの以外にありません。南無阿弥陀仏、おかげさまと、よろこばさせでいただく念仏であります。
(石田雅文)