別修永代経法要及び仏教壮年会十月例会のご案内

 

十月のご案内

 

別修永代経法要

 

十月二十六日()二十七日()

          朝 席 午前十時より

          おとき 正 午

          昼 席 午後一時半より

 

        熊本市出町 両厳寺住職

  講  師  群 浦 智 明 師

 

仏教壮年会十月例会

 

十月二十七日()

午後一時半より

 

        熊本市出町 両厳寺住職

  講  師  群 浦 智 明 師

 

 

二○一二年十月一日

 

          下関市細江町一丁目七番十号

 

光 明 寺

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2012年10月 信心よろこぶそのひとを如来とひとしとときたもう 法語カレンダー解説

 

底ぬけに人を信じる

 

六十を超える仏教教団の協力のもと、青少年の豊かな生活と未来を願って、一九六二(昭和三七)年に結成された、全国青少年教化協議会という財団法人があります。

 

主に、仏教子ども会や日曜学校の推進を目的としています。

 

その全国青少年教化協議会の定めた青少年が実践すべき徳目として、「わたしたちのねがい」という名で六つの項目が掲げられています。その第一番目に、「底ぬけに人を信ずる人間となろう」というものがあります。私がこの言葉に出会ったのは四十五年ほど前です。龍谷大学に入学して宗教教育部というサークルに所属し、京都市内の本願寺派寺院の日曜学校のお手伝いを始めた頃です。

 

底ぬけに人を信じることなどできるだろうか。それが、この言葉を聞いて感じた率直な思いでした。そのような自分ではできないことを、日曜学校の子どもたちへ伝えることができるだろうか。深く考えれば考えるほど難しくなっていきました。この場合の人とは、自分以外の人間のことだろうか。それとも自分を含めてのことだろうか。いったい、人間の何を信じるのだろうか。そして思い出しだのが、太宰治の『走れメロス』という小説でした。この小説では、人間を信じられない王に人を信じることの大切さを知らしめた青年、メロスという名の主人公の行動と心情がテーマとなっていました。

 

メロスは、王を批判して処刑されることになりますが、かねて念願であった妹の結婚式を済ませてからという許しを、王からもらいます。ただし、それは三日間の猶予であり、それを過ぎると、彼の身代わりに親友が処刑されるという恐ろしい約束でありました。そして、故郷で妹を結婚させ、刻限ぎりぎりに困難を乗り越えて処刑場へ到着し、友の命を救うのです。その間、メロスはたびたび友を裏切る心を抱き、友もまた、メロスを疑う心を抱くのでした。

 

小説では、幸いなことにメロスは友を救えますが、現実ではどうなるかわかりません。人間の心ほど変わりやすくもろいものはなく、また約束を果たそうとしても、周りの状況が許さない、そのようなものです。それでも「底ぬけに人を信じる人間となろう」ということが、先の徳目です。この疑問を抱きつつ、私はその後、龍谷大学で仏教を学んでまいりました。

 

 

菩薩行としての徳目

 

そして、後年、この徳目は菩薩行のことであったと知らされたのです。この徳目が実践できるのは菩薩だけなのです。なぜならば、信じるという行いは信じられる根拠があって初めて成り立つものであり、菩薩は人間を信じることができる根拠をお持ちになっているからです。

 

菩薩は、人間の何を信じられる根拠とされるのでしょうか。

 

菩薩行の中心は利他行であります。衆生を苦しみから救うことこそが、その行の中心です。この行は、人は必ず救われるものであると信じることなくしてはなし得ません。人が救われるとは、煩悩のない仏となることであります。煩悩がなくなれば苦しみもなくなる。それが仏になるということであって、人間であれば誰にでも可能なことです。これこそが信じるに足る根拠であります。だからこそ、菩薩は私たちの想像を超えた、長い時間をご修行されるのです。「底ぬけに人を信じる人間になろう」という徳目は、菩薩を鑑にして自身を考えてみようということなのでありましょう。

 

人間は、菩薩を鑑にしてみると実に愚かなものであり、他人のみならず、自分さえも信じることのできない、まさに煩悩具足の凡夫であります。その愚かな私たちのために菩薩はご修行くだされるのです。特に、法蔵菩薩はすべての衆生を救うために五劫(ごこう)という長い時間お考えくださり、不可思議兆載永劫(ふかしぎちょうさいようごう)のご修行をなさって、阿弥陀如来となってくださいました。それは、すべての人を必ず仏にするためのご修行でした。法蔵菩薩は、私たち凡夫に底ぬけに信じる心などないことはすでにお見通しです。

そこで、自力の信心がいかに不確かなものであるかを知らせてくださり、如来となって南無阿弥陀仏の他力金剛の信心を施してくださるのであります。この信心は、煩悩具足の私が必ず浄土へ往生し仏とならせていただけることが間違いないと、知らされたことであります。その心は、私にとって何ものにも比べることのできない大きな喜びであります。それを「信心よろこぶ」(『註釈版聖典』五七三頁)と、親鸞聖人は『浄土和讃』に詠われました。「そのひと」(『同』)を「如来とひとし」(『同』)とお釈迦さまは教えてくださいます。これが法語の内容ですが、お釈迦さまは、他力の信心を賜った人をなぜ如来と等しいと仰せになったのでしょうか。

 

如来とひとし

 

親鸞聖人は、『御消息』第三十二通でお弟子の浄信房に宛てて、次のように記されました。

 

まことの信心をえたる人は、すでに仏に成らせたまふべき御身となりておはしますゆゑに、「如来とひとしき人」と『経』(華厳経・人法界品)に説かれ候ふなり。

(『親鸞聖人御消息』『註釈版聖典』七九四頁)

 

このように、「如来とひとし」ということは『華厳経』という経典に説かれているとお教えくださいます。『華厳経』は、今の私たちにはあまり馴染みがないようです。しかし、親鸞聖人ご在世の頃は、『華厳経』を根本経典とする華厳宗の東大寺が大きな力をもっていました。その有力寺院の華厳宗の根本経典に、この言葉が説かれているのです。それがどれほどの確証になることでしょうか。改めて申すまでもないことでありましょう。

 

続けて、親鸞聖人は記されます。

 

 弥勒はいまだ仏に成りたまはねども、このたびかならずかならず仏に成りたまふべきによりて、弥勒をばすでに弥勒仏と申し候ふなり。その定に、真実信心をえたる人をば、如来とひとしと仰せられて候ふなり。

(『同』七九四頁)

 

かつて、私は台湾で布袋(ほてい)さまの大仏を見ました。日本で布袋さまといえば、七福神のお一人に数えられますが、七福神のなかでは唯一実在した人物です。十世紀に中国で弥勒菩薩の化身として尊ばれた禅僧です。名を契此(かいし)といい、大きな体でいつも財貨の入った袋を担いでいたと伝えられますが、弥勒の化身という信仰から中国では弥勒仏として安置されることが多く、台湾の大仏も弥勒仏として作られたものでした。この弥勒仏は、今はまだ仏ではなく菩薩なのですが、五十六億七千万年の後に仏として私たちの世界に誕生し、お釈迦さまの救いに漏れた人びとを済度してくださるというのです。つまり、未来に必ず如来になることが決まっていますから、今は菩薩であっても弥勒仏と呼ばれるのだということです。それと同様に、私たちも必ず浄土で如来になることが決まっているので、お釈迦さまが「如来とひとし」と仰せになったということであります。

 

思えば、私たちの世界に必ず成ることなどありましょうか。明日のことさえ不確かです。そもそも、自身の命さえどうなるかわからないのです。必ず成ることをあげてみると、私も世界も刻々と変化するということがありましょう。いわば、諸行無常という道理こそが必ず成るということです。加えて、私の行いを考えてみますと、行くべき道は苦しみの世界です。これも必ず成ることであります。

 

それに対し、如来・仏は常住であり、浄土は変わることがないのです。その常住の如来が私たちを必ず浄土へ迎えてくだざるのが、他力念仏の教えです。無常な人間が必ずと言ったのではなく、常往な如来が必ずとおっしゃったのであります。だからこそ、私が如来に成ることが確実なのです。そこで、「如来とひとし」という頼もしいお言葉を頂戴することができたのです。本願他力、南無阿弥陀仏のお救いがなければ苦しみの世界しか行きようがない私です。その私が必ず仏にさせていただけるのです。今の世界で、私にとってのこれ以上の喜びはありません。

 

 

真実の喜び

 

親鸞聖人は、この喜びを『教行信証』「総序」に、次のようにお記しになられました。ともに深く味わいたいと思います。

ああ、この大いなる本願は、いくたび生を重ねてもあえるものではなく、まことの信心はどれだけ時を経ても得ることはできない。思いがけずこの真実の行と真実の信を得たなら、遠く過去からの因縁をよろこべ。もしまた、このたび疑いの網におおわれたなら、もとのように果てしなく長い間迷い続けなければならないであろう。如来の本願の何とまことであることか。摂(おさ)め取ってお捨てにならないという真実の仰せである。世に超えてたぐいまれな正しい法である。この本願のいわれを聞いて、疑いためらってはならない。

(『顕浄土真実教行証文類(現代語版)』五頁)

(北塔光昇)

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教化団体の枠を超え、研修旅行が開催されました。

【がんばる門徒推進員】

教化団体の枠超え、研修旅行主催

 

山口教区第5ブロック(邦西、豊田、小月、豊浦、下関各組)の門徒推進員(門推)が協力し、初めて企画した地元の妙好人「六連島のお軽さん」を訪ねる研修旅行が7月21日に行われた。この旅行は、門徒推進員だけにとどまらず、仏教壮年、仏教婦人会員など教化団体の枠を超えて声をかけて実施。門推の積極的な取り組みに119人が参加し、下関市・六連島の西教寺をチャーター船で訪ね、浄土真宗のみ教えに出あい喜びの人生を送った「お軽さん」の生き方を共に学んだ。

今年2月の「門推教区のつどい」に一台のバスを借りてブロックで一緒に参加したのが縁となり研修旅行を企画。中心的に準備に携わった田村茂善さん(63)は「み教えを喜ぶ輪を広げたかった。仏壮、仏婦会員でもある門推が各団体で声をかけていった」と話す。

各組の組長や門推担当住職らのサポートもあり、定員枠は締め切りを待たずに埋まった。事前に僧侶と門推で下見し、当日も僧侶としっかりタッグ。道案内や進行は門推が行い、妙好人に詳しい僧侶が同行し、船内や西教寺、お軽さんの墓前で説法を行った。

下関組若婦人部の塚本江身子さん(46)は「門推の父から誘われ、若婦の仲間と一緒に参加した。いろんな世代の方と交流できたのが楽しかった」と語る。同じく若婦人部の植田公代さん(40)は子供2人と参加。「いろんな方と出会い、お寺を堅苦しく考えなくていいんだと感じた」と話す。
小月組の門推担当住職の酒井由華さんは「教化団体の枠を超えたつながりを作ろうと門推の方が一生懸命だった。行動力があり、『ついていきます』と安心しきっていた。参加した皆さんが喜んでおられ、うれしかった」と話す。

第5ブロック門推代表の安成信一郎さん(66)は「活動の停滞を感じていただけに、今回の活動が自信になった。さらなる活動につなげていきたい」と語る。

 

※門徒推進員=組で開かれる門徒推進員養成連続研修会(=連研。2年以内36時間以上のカリキュラムで、話し合い法座を中心にして、教義や現代社会に関わる諸問題について学ぶ)を修了し、宗派の中央教修を経て門徒推進員として登録される制度。現在7700人が登録している。

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秋季彼岸会法要と仏教壮年会九月例会のお知らせ

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2012年9月 如来の願船 いまさずは 苦海をいかでか わたるべき 法語カレンダー解説

「船」の喩え

 

小慈小悲(しょうじしょうひ)もなき身にて
有情利益(うじょうりやく)はおもふまじ
如来(にょらい)の願船(がんせん)いまさずは
苦海(くかい)をいかでかわたるべき

(『註釈版聖典』六一七頁)

 

小さな慈悲心さえ持ち合わせないこの身では、自力で人びとを救うことなどできるものではありません。阿弥陀さまの大悲の船がないならば、この迷いの苦海を自他ともに渡ることなどできましょうか。

 

七月に紹介した和讃にもありましたが、親鸞聖人は、阿弥陀さまの本願・救いのはたらきをたびたび「船」に喩えておられます。『高僧和讃』のなかにも、

 

生死(しょうじ)の苦海(くかい)ほとりなし
ひさしくしづめるわれらをば
弥陀弘誓(みだぐぜい)のふねのみぞ
のせてかならずわたしける

(『同』五七九頁)

 

迷いの世界は苦しみが多く、はてしなく広がっている海のようなものですが、阿弥陀さまの大悲の船は、その大海に沈んでいる私たちを必ず救いあげ、浄土へと渡してくだざるのです。

 

と、「弥陀弘誓のふね」という表現があり、さらに二つの和讃ともに、自力・煩悩の心のために「生の依るところ、死の帰するところ」を見失って生きている様子を、「苦海」に喩えられています。『教行信証』「総序」にも、

 

難思(なんじ)の弘誓(ぐぜい)は難度海(なんどかい)を度(ど)する大船(だいせん)

(『註釈版聖典』一三一頁)

 

とあって、思い計ることのできない阿弥陀さまの本願は、渡ることのできない迷いの海を渡してくださる大きな船であると明かされています。

 

 

宗教の役割

 

「難思」である本願のお心をいただくとは、どのような世界をいだくことといえるのでしょうか。『御消息』には、

 

如来(にょらい)の誓願(ぐぜい)は不可思議(ふかしぎ)にましますゆゑに、仏(ぶつ)と仏との御(おん)はからひなり。凡夫(ぼんぶ)のはからひにあらず。

(『親鸞聖人御消息』『註釈版聖典』七七九頁)

 

と、如来の誓願を「不可思議」という表現で表されています。これは「難思」と同じ意味で、凡夫の「はからい」、思慮分別を超えたお心をいただくことであると示されています。私は、それを「いのちの真実」について大切な目覚めをいただくことと同じ意味であり、それが真実の宗教といわれるものの役割ではないかとも考えています。

 

日本を代表する宗教哲学者である西谷啓治師は、

 

宗教はその功用から考へられてはならない。(中略)我々の通常のあり方はさういふ自然的・文化的な生の段階に止まつてゐる。然るに、さういふ普通のあり方を根抵から破り覆へすということ、…生の根源に我々を帰らしめるといふこと、そこに宗教の必要性があり、人生に於ける宗教の必然性がある。

(『宗教とは何か』『西谷啓治著作集』第十巻・四頁)

 

といわれ、御利益信仰が宗教の本質なのではなく、「生の根源に我々を帰らしめる」ことが(本当の)宗教の役割であると示されています。

 

また、仏教学者であり宗教哲学者である上田義文師も、

 

富とか健康とか地位とか、すべて人間が生きて行くために役に立つ、あるいは必要であるものについては、役に立つという基準によって、それがほんものであるかどうかを判断することができるが、宗教は本来そういう意味で役立つことを目的としているものではない。…健康を失って病気であれば、人生を生きている意味はないであろうか。(中略)「生」ということのほんとうの意味は何であるか。…「生そのものの根源においてほんとうであること」は何であろうか。この「ほんとうのもの」こそが真実の宗教、特に仏教の問題である。

(『仏教をどう理解するか』二二~二三頁)

 

と述べ、「生の根源」における本当のものについて明らかにするのが、本来の宗教の問題であると指摘され、いずれも、「生(いのち)の根源」ということに言及されています。

 

 

真実の宗教

 

その「いのち」の真実を、縁起・無常・無我といった言葉でお示しくださった宗教が、お釈迦さまの仏教です。私たちのいのちの根源を時間的に訪ねていきますと、自分のいのちのことでありながら自分のはからい(思議・分別)を超えて、縁をもらっていのちが形成せしめられたという事実に行き着いてしまいます。そして、そのいのちは私の思いとは関わりなく、絶えず変化し滅する性質をもっています。年を取りたくもないのに、病気にもなりたくもないのに、死にたくもないのに勝手に変化していきます。また、いのちを私のものと思ってみても、それは縁(脳や心理作用)の働きによってそう認識しているのであって、私の体も六十兆からの細胞が寄せ集まった仮そめの集合体でしかなく、確かな「私の本体」というものがあるわけではありません。

 

いのちの根源を訪ねていくと、時間的にも空間的にも、確かな私ではないことが知られます。つまり、いのちそのものは私たちの思議・分別を超えて存在しているのです。私をはじめ、生物・無生物、宇宙のすべてが不可思議な縁の働き・関係性によって形成せしめられ変化・消滅せしめられているのです。私のいのちでありながら、自分で心臓の働きや血液の流れをコントロールすることもできません。他のいのちをはじめ、無量無数のいのちの働きをいただきながら、「生かされて生きている」のです。

 

私のはからいによって計算して生まれたものではなく(生)、私のはからいによって変化を止めることのできないいのち(老・病・死)を私のものと思い、自分にとって都合の悪いいのちを流れを変えていこうと力み計らっているのが、私たちの日常であります。テクノロジーや医学の進歩によって、その流れを一時的に抑えたり延ばしたりすることはできます。私もその恩恵をいただいております。

 

しかしながら、生死の世界の根源は人間の思議を超えたものであって、最終的にはそれはいのちの真実をさとった「如来(仏)の領域」のことであるから、「如来におまかせする」しかないという知見をいただくことができれば、人生の見方が大きく変えられることと思います。それが如来の願船に乗せていただくということです。「生死の一大事は阿弥陀さまにおまかせしました。この上は、私の上に届けられたご縁(都合の良し悪しにとらわれず)を精一杯生き抜いていきます。」こうした境地に至らしめるのが、真実の宗教の世界でありましょう。縁起・無常・無我の心を阿弥陀さまの本願として集約し、私たちに届けられているのが他力念仏の世界なのです。

 

「他力(たりき)には義(ぎ)なきを義とす」(『親鸞聖人御消息』『註釈版聖典』七四六頁)、「念仏には無義をもって義とす」(『歎異抄』第十条『同』八三七頁)といわれているように、親鸞聖人は、他力の念仏には、自力のはからい(人間の思慮分別)をまじえないことが本義であると示されます。他力に目覚め念仏申すとは、不可思議なるいのちのはたらきに目覚め、そのはたらきを知らせる本願に信順する象徴的な行いといえます。

(河智義邦)

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8/25 連続公開講座のご案内

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8/4 追悼会のご案内

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2012年8月 信心のひとは その心 すでにつねに 浄土に居す 法語カレンダー解説

信心の人

 

今月の言葉は、『親鸞聖人御消息』第十一通の終わりに出てきます。親鸞聖人は「信心の人」を「真の仏弟子」と称されますが、それは、その身は娑婆世界・穢土(えど)にありながらも、「浄土(の教え)」を根拠・畢竟依(ひっきょうえ)として人生を歩んでいる人だからとお考えだからです。この消息では、その「真の仏弟子」が、仏教の修道上、どのような境位を得ているかについて簡明に説明されています。

まず、前半から後半にかけては、次のように述べられています。

 

信心をえたるひとは、かならず正定聚(しょうじょうじゅ)の位に住するがゆゑに等正覚(とうしょうがく)の位と申すなり。『大無量寿経』には、摂取不捨の利益に定まるものを正定聚となづけ、『無量寿如来会』には等正覚と説きたまへり。その名こそかはりたれども、正定聚・等正覚は、ひとつこころ、ひとつ位なり。等正覚と申す位は、補処(ふしょ)の弥勒とおなじ位なり。弥勒とおなじく、このたび無上覚にいたるべきゆゑに、弥勒とおなじと説きたまへり。

 

さて『大経』(下)には、「次如弥勒」とは申すなり。弥勒はすでに仏にちかくましませば、弥勒仏と諸宗のならひは申すなり。しかれば、弥勒におなじ位なれば、正定聚の人は如来とひとしとも申すなり。浄土の真実信心の人は、この身こそあさましき不浄造悪の身なれども、心はすでに如来とひとしければ、如来とひとしと申すこともあるべしとしらせたまへ。弥勒はすでに無上覚にその心定まりてあるべきにならせたまふによりて、三会(さんね)のあかつきと申すなり。浄土真実のひとも、このこころをこころうべきなり。

(『註釈版聖典』七五八~七五九頁)

 

信心の人が現生において「正定聚」「等正覚」の位に入り、「弥勒とおなじ位」に至っていることを示され、「如来とひとし」とも表現されています。正定聚・等正覚とは、「仏に成るべき身となる」(『弥陀如来名号徳』『註釈版聖典』七二九頁)ことをいいます。阿弥陀さまの真実のはたらきに目覚めた人は、この世界で仏そのものに成ることができたわけではないが、如来のはたらきによって間違いなく仏に成ることが決定せしめられるというのです。それを、親鸞聖人はお釈迦さまの意を承けて、その位を「弥勒菩薩と同じ」「如来と等しい」といわれるのです。

 

『御消息』は、帰洛された親鸞聖人が関東の門弟宛てに認(したた)められたもので、四十三通残されています。その第十二、十三通においても「如来とひとし」ということについて言及されています。おそらくは、さまざまな念仏の受け止め方が存在した関東において、真宗念仏に生きる人びとの尊厳性に関わる何らかの問題が生じ、それに対して聖人がお答えになる必要があったものと考えられています。すなわち、信心を得て生活を送る人は如来と等しい徳を身に得ていることを明らかにして、真宗念仏を相続することの意義深さを強調されたのだと思います。

 

 

「おなじ」と「ひとし」

 

しかしながら、親鸞聖人はこれを即身成仏義と誤解されないよう、慎重に言葉を使っておられます。辞書では、「おなじ」と「ひとし」はほぼ同義で扱われています。しかし、聖人の著述の上では、原則的に意味を区別して使われています。お釈迦さまは、信心の人を「如来(仏)とひとし」と説かれていますが、聖人はそれを、「仏のような人」であると解釈されています。菩薩は次の生で仏に成る位にあるけれども、仏そのものではありません。聖人は、信心の人は「娑婆(しゃば)の縁尽きて・・かの土(浄土)へはまゐる」(『歎異抄』第九条『註釈版聖典』八三七頁)ことは間違いなく、「臨終一念の夕、大般涅槃(だいはつねはん)を超証(ちょうしょう)す」(『教行信証』「信文類」『同』二六四頁)るけれども、今は仏そのものではないと示されます。その区別をつけるために、信心の人は、立場上、菩薩とは同一であるといえるけれども、如来・仏と比べる時は、決して「おなじ」ではなく、未だ仏には成っていない(「ひとし」)という言い方をされています。二つの言葉に、そのような意味の違いを見ておられるのです。

 

仏であるお釈迦さまのまなざしには信心の人にはたらく仏心が観取されて、それで「仏と同じ」という意味でおっしゃったのかも知れません。それは、唯仏与仏(ゆいぶつよぶつ)の知見の上のお言葉といえます。しかし、如来のはたらきによって救われる側にはそう解釈しきれない事情がありました。

 

相矛盾する心

 

阿弥陀さまの本願のはたらき・仏心をいただくとは、「真如一実の功徳宝海」(『教行信証』「行文類」『註釈版聖典』 一四一頁)を、お覚りの心そのものを、いただくことであります。信心の人は「あさましき不浄造悪の身」(『親鸞聖人御消息』『同』七五八頁)でありながら、阿弥陀さまのはたらきによって真実の心で満たされ、如来と同体に成ることができるのです。それはまた、

 

しらず、もとめざるに、功徳の大宝その身にみちみつがゆゑに、大宝海とたとへたるなり。

(『一念多念文意』『註釈版聖典』六九二頁)

といわれるように、私たちの側に何か功績があってそうした境位に入るのではなく、如来のはたらきによって知らず求めずに恵まれるものなのです。阿弥陀さまは、私たちのことを真実の心で満たしてくださっています。しかしながら、親鸞聖人はその人を指して「仏と同じ人」とはいえなかったのです。さらにいうと、それは真実に出遇ったからこそ、気づかされる白身の姿への目覚めゆえにいえなかったのです。

 

浄土真宗に帰すれども

真実の心はありがたし

虚仮不実(こけふじつ)のわが身にて

清浄(しょうじょう)の心もさらになし

(『正像末和讃』『註釈版聖典』六一七頁)

 

浄土真宗のみ教えに帰依しましたけれども、真実の心になることはありません。

うそ・偽りのわたしには、清浄の心などあるはずもありません。

 

鏡に照らしてわが身を見ることができるように、如来の真実のはたらきを身に受けたからこそ、わが身の不真実に目覚めざるを得なかったのです。如来の本願真実は、「この身こそあさましき不浄造悪の身」であるという苦悩の存在であるという気づきを通して出遇うことができる性質のものでありながら、その真実に出遇い信心が恵まれるがゆえに、また「虚仮不実」と吐露せざるを得ない深い自覚が生ぜしめられるのです。これが、「仏と同じ」と解釈できなかった理由だといえます。そして、その自覚は本願に出遇う前の自覚とは質的に大きな違いがあります。いわゆる「二種深信」の文には、

 

自身は現にこれ罪悪生死の凡夫、曠劫よりこのかたつねに没しつねに流転して、出離の縁あることなしと信ず。(中略)かの阿弥陀仏の、四十八願(しじゅうはちがん)は衆生を摂受したまふこと、疑なく慮りなくかの願力に乗じてさだめて往生を得と信ず。

(『註釈版聖典(七祖篇)』四五七頁)

 

とあります。ここには、本願真実に出遇ったことにより、いっそう悲愴感・絶望感が深まったというよりも、死ぬまで煩悩(罪業)から離れられない「ありのままの自己の姿・本性」に出遇うことができたという深い懺悔と、阿弥陀さまとともにありのままの自分を引き受けて生きていけるという喜びが語られています。このような一見相反する気持ちが交差し、ひとつの心の上に現れているのが浄土真宗の信心の特色ともいえます。

 

 

浄土に居す

 

親鸞聖人は、光明寺の和尚(善導大師)の『般舟讃』の文を解釈して、

 

「信心のひとは、その心すでにつねに浄土に居す」と釈したまへり。「居す」といふは、浄土に、信心のひとのこころつねにゐたりといふこころなり。これ弥勒とおなじといふことを申すなり。これは等正覚を弥勒とおなじと申すによりて、信心のひとは如来とひとしと申すこころなり。

(『親鸞聖人御消息』『註釈版聖典』七五九頁)

 

と述べられています。

 

このように、消息の終わりに示された今月の言葉も、この身は娑婆世界にあって煩悩具足の身であることは変わらないけれども、阿弥陀さまのはたらきに満たされ、覚り(浄土)の教えを依りどころとして人生を生き抜いていく身となった、ということを述べておられるのです。

 

慶(よろこ)ばしいかな、心を弘誓(ぐせい)の仏地に樹(た)て、念(おもい)を難思(なんじ)の法海に流す。

(『教行信証』後序『同』四七三頁)

 

聖人の著述の諸所に、確かな依りどころを得て生きていくことのできる慶びが豊かな表現で表されています。

(河智義邦)

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7/15に真空管アンプ音楽鑑賞会が開催されました

2012年7月15日14:00から光明寺本堂で「真空管アンプ音楽鑑賞会」が開催され、邦楽・洋楽・JAZZといった、さまざまな曲が真空管アンプから広い本堂に響きわたり、まるでコンサート会場のようでした。

また、当日はとても暑い中、老若男女問わずたくさんの人が会場を訪れ、心地よいひとときを過ごされました。

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7月15日に開催される真空管アンプ音楽鑑賞会の記事が朝日新聞に掲載されました。

2012年7月11日 朝日新聞 朝刊 に7月15日に開催される真空管アンプ音楽鑑賞会の記事が掲載されました!

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