教化団体の枠を超え、研修旅行が開催されました。

【がんばる門徒推進員】

教化団体の枠超え、研修旅行主催

 

山口教区第5ブロック(邦西、豊田、小月、豊浦、下関各組)の門徒推進員(門推)が協力し、初めて企画した地元の妙好人「六連島のお軽さん」を訪ねる研修旅行が7月21日に行われた。この旅行は、門徒推進員だけにとどまらず、仏教壮年、仏教婦人会員など教化団体の枠を超えて声をかけて実施。門推の積極的な取り組みに119人が参加し、下関市・六連島の西教寺をチャーター船で訪ね、浄土真宗のみ教えに出あい喜びの人生を送った「お軽さん」の生き方を共に学んだ。

今年2月の「門推教区のつどい」に一台のバスを借りてブロックで一緒に参加したのが縁となり研修旅行を企画。中心的に準備に携わった田村茂善さん(63)は「み教えを喜ぶ輪を広げたかった。仏壮、仏婦会員でもある門推が各団体で声をかけていった」と話す。

各組の組長や門推担当住職らのサポートもあり、定員枠は締め切りを待たずに埋まった。事前に僧侶と門推で下見し、当日も僧侶としっかりタッグ。道案内や進行は門推が行い、妙好人に詳しい僧侶が同行し、船内や西教寺、お軽さんの墓前で説法を行った。

下関組若婦人部の塚本江身子さん(46)は「門推の父から誘われ、若婦の仲間と一緒に参加した。いろんな世代の方と交流できたのが楽しかった」と語る。同じく若婦人部の植田公代さん(40)は子供2人と参加。「いろんな方と出会い、お寺を堅苦しく考えなくていいんだと感じた」と話す。
小月組の門推担当住職の酒井由華さんは「教化団体の枠を超えたつながりを作ろうと門推の方が一生懸命だった。行動力があり、『ついていきます』と安心しきっていた。参加した皆さんが喜んでおられ、うれしかった」と話す。

第5ブロック門推代表の安成信一郎さん(66)は「活動の停滞を感じていただけに、今回の活動が自信になった。さらなる活動につなげていきたい」と語る。

 

※門徒推進員=組で開かれる門徒推進員養成連続研修会(=連研。2年以内36時間以上のカリキュラムで、話し合い法座を中心にして、教義や現代社会に関わる諸問題について学ぶ)を修了し、宗派の中央教修を経て門徒推進員として登録される制度。現在7700人が登録している。

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秋季彼岸会法要と仏教壮年会九月例会のお知らせ

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2012年9月 如来の願船 いまさずは 苦海をいかでか わたるべき 法語カレンダー解説

「船」の喩え

 

小慈小悲(しょうじしょうひ)もなき身にて
有情利益(うじょうりやく)はおもふまじ
如来(にょらい)の願船(がんせん)いまさずは
苦海(くかい)をいかでかわたるべき

(『註釈版聖典』六一七頁)

 

小さな慈悲心さえ持ち合わせないこの身では、自力で人びとを救うことなどできるものではありません。阿弥陀さまの大悲の船がないならば、この迷いの苦海を自他ともに渡ることなどできましょうか。

 

七月に紹介した和讃にもありましたが、親鸞聖人は、阿弥陀さまの本願・救いのはたらきをたびたび「船」に喩えておられます。『高僧和讃』のなかにも、

 

生死(しょうじ)の苦海(くかい)ほとりなし
ひさしくしづめるわれらをば
弥陀弘誓(みだぐぜい)のふねのみぞ
のせてかならずわたしける

(『同』五七九頁)

 

迷いの世界は苦しみが多く、はてしなく広がっている海のようなものですが、阿弥陀さまの大悲の船は、その大海に沈んでいる私たちを必ず救いあげ、浄土へと渡してくだざるのです。

 

と、「弥陀弘誓のふね」という表現があり、さらに二つの和讃ともに、自力・煩悩の心のために「生の依るところ、死の帰するところ」を見失って生きている様子を、「苦海」に喩えられています。『教行信証』「総序」にも、

 

難思(なんじ)の弘誓(ぐぜい)は難度海(なんどかい)を度(ど)する大船(だいせん)

(『註釈版聖典』一三一頁)

 

とあって、思い計ることのできない阿弥陀さまの本願は、渡ることのできない迷いの海を渡してくださる大きな船であると明かされています。

 

 

宗教の役割

 

「難思」である本願のお心をいただくとは、どのような世界をいだくことといえるのでしょうか。『御消息』には、

 

如来(にょらい)の誓願(ぐぜい)は不可思議(ふかしぎ)にましますゆゑに、仏(ぶつ)と仏との御(おん)はからひなり。凡夫(ぼんぶ)のはからひにあらず。

(『親鸞聖人御消息』『註釈版聖典』七七九頁)

 

と、如来の誓願を「不可思議」という表現で表されています。これは「難思」と同じ意味で、凡夫の「はからい」、思慮分別を超えたお心をいただくことであると示されています。私は、それを「いのちの真実」について大切な目覚めをいただくことと同じ意味であり、それが真実の宗教といわれるものの役割ではないかとも考えています。

 

日本を代表する宗教哲学者である西谷啓治師は、

 

宗教はその功用から考へられてはならない。(中略)我々の通常のあり方はさういふ自然的・文化的な生の段階に止まつてゐる。然るに、さういふ普通のあり方を根抵から破り覆へすということ、…生の根源に我々を帰らしめるといふこと、そこに宗教の必要性があり、人生に於ける宗教の必然性がある。

(『宗教とは何か』『西谷啓治著作集』第十巻・四頁)

 

といわれ、御利益信仰が宗教の本質なのではなく、「生の根源に我々を帰らしめる」ことが(本当の)宗教の役割であると示されています。

 

また、仏教学者であり宗教哲学者である上田義文師も、

 

富とか健康とか地位とか、すべて人間が生きて行くために役に立つ、あるいは必要であるものについては、役に立つという基準によって、それがほんものであるかどうかを判断することができるが、宗教は本来そういう意味で役立つことを目的としているものではない。…健康を失って病気であれば、人生を生きている意味はないであろうか。(中略)「生」ということのほんとうの意味は何であるか。…「生そのものの根源においてほんとうであること」は何であろうか。この「ほんとうのもの」こそが真実の宗教、特に仏教の問題である。

(『仏教をどう理解するか』二二~二三頁)

 

と述べ、「生の根源」における本当のものについて明らかにするのが、本来の宗教の問題であると指摘され、いずれも、「生(いのち)の根源」ということに言及されています。

 

 

真実の宗教

 

その「いのち」の真実を、縁起・無常・無我といった言葉でお示しくださった宗教が、お釈迦さまの仏教です。私たちのいのちの根源を時間的に訪ねていきますと、自分のいのちのことでありながら自分のはからい(思議・分別)を超えて、縁をもらっていのちが形成せしめられたという事実に行き着いてしまいます。そして、そのいのちは私の思いとは関わりなく、絶えず変化し滅する性質をもっています。年を取りたくもないのに、病気にもなりたくもないのに、死にたくもないのに勝手に変化していきます。また、いのちを私のものと思ってみても、それは縁(脳や心理作用)の働きによってそう認識しているのであって、私の体も六十兆からの細胞が寄せ集まった仮そめの集合体でしかなく、確かな「私の本体」というものがあるわけではありません。

 

いのちの根源を訪ねていくと、時間的にも空間的にも、確かな私ではないことが知られます。つまり、いのちそのものは私たちの思議・分別を超えて存在しているのです。私をはじめ、生物・無生物、宇宙のすべてが不可思議な縁の働き・関係性によって形成せしめられ変化・消滅せしめられているのです。私のいのちでありながら、自分で心臓の働きや血液の流れをコントロールすることもできません。他のいのちをはじめ、無量無数のいのちの働きをいただきながら、「生かされて生きている」のです。

 

私のはからいによって計算して生まれたものではなく(生)、私のはからいによって変化を止めることのできないいのち(老・病・死)を私のものと思い、自分にとって都合の悪いいのちを流れを変えていこうと力み計らっているのが、私たちの日常であります。テクノロジーや医学の進歩によって、その流れを一時的に抑えたり延ばしたりすることはできます。私もその恩恵をいただいております。

 

しかしながら、生死の世界の根源は人間の思議を超えたものであって、最終的にはそれはいのちの真実をさとった「如来(仏)の領域」のことであるから、「如来におまかせする」しかないという知見をいただくことができれば、人生の見方が大きく変えられることと思います。それが如来の願船に乗せていただくということです。「生死の一大事は阿弥陀さまにおまかせしました。この上は、私の上に届けられたご縁(都合の良し悪しにとらわれず)を精一杯生き抜いていきます。」こうした境地に至らしめるのが、真実の宗教の世界でありましょう。縁起・無常・無我の心を阿弥陀さまの本願として集約し、私たちに届けられているのが他力念仏の世界なのです。

 

「他力(たりき)には義(ぎ)なきを義とす」(『親鸞聖人御消息』『註釈版聖典』七四六頁)、「念仏には無義をもって義とす」(『歎異抄』第十条『同』八三七頁)といわれているように、親鸞聖人は、他力の念仏には、自力のはからい(人間の思慮分別)をまじえないことが本義であると示されます。他力に目覚め念仏申すとは、不可思議なるいのちのはたらきに目覚め、そのはたらきを知らせる本願に信順する象徴的な行いといえます。

(河智義邦)

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8/25 連続公開講座のご案内

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8/4 追悼会のご案内

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2012年8月 信心のひとは その心 すでにつねに 浄土に居す 法語カレンダー解説

信心の人

 

今月の言葉は、『親鸞聖人御消息』第十一通の終わりに出てきます。親鸞聖人は「信心の人」を「真の仏弟子」と称されますが、それは、その身は娑婆世界・穢土(えど)にありながらも、「浄土(の教え)」を根拠・畢竟依(ひっきょうえ)として人生を歩んでいる人だからとお考えだからです。この消息では、その「真の仏弟子」が、仏教の修道上、どのような境位を得ているかについて簡明に説明されています。

まず、前半から後半にかけては、次のように述べられています。

 

信心をえたるひとは、かならず正定聚(しょうじょうじゅ)の位に住するがゆゑに等正覚(とうしょうがく)の位と申すなり。『大無量寿経』には、摂取不捨の利益に定まるものを正定聚となづけ、『無量寿如来会』には等正覚と説きたまへり。その名こそかはりたれども、正定聚・等正覚は、ひとつこころ、ひとつ位なり。等正覚と申す位は、補処(ふしょ)の弥勒とおなじ位なり。弥勒とおなじく、このたび無上覚にいたるべきゆゑに、弥勒とおなじと説きたまへり。

 

さて『大経』(下)には、「次如弥勒」とは申すなり。弥勒はすでに仏にちかくましませば、弥勒仏と諸宗のならひは申すなり。しかれば、弥勒におなじ位なれば、正定聚の人は如来とひとしとも申すなり。浄土の真実信心の人は、この身こそあさましき不浄造悪の身なれども、心はすでに如来とひとしければ、如来とひとしと申すこともあるべしとしらせたまへ。弥勒はすでに無上覚にその心定まりてあるべきにならせたまふによりて、三会(さんね)のあかつきと申すなり。浄土真実のひとも、このこころをこころうべきなり。

(『註釈版聖典』七五八~七五九頁)

 

信心の人が現生において「正定聚」「等正覚」の位に入り、「弥勒とおなじ位」に至っていることを示され、「如来とひとし」とも表現されています。正定聚・等正覚とは、「仏に成るべき身となる」(『弥陀如来名号徳』『註釈版聖典』七二九頁)ことをいいます。阿弥陀さまの真実のはたらきに目覚めた人は、この世界で仏そのものに成ることができたわけではないが、如来のはたらきによって間違いなく仏に成ることが決定せしめられるというのです。それを、親鸞聖人はお釈迦さまの意を承けて、その位を「弥勒菩薩と同じ」「如来と等しい」といわれるのです。

 

『御消息』は、帰洛された親鸞聖人が関東の門弟宛てに認(したた)められたもので、四十三通残されています。その第十二、十三通においても「如来とひとし」ということについて言及されています。おそらくは、さまざまな念仏の受け止め方が存在した関東において、真宗念仏に生きる人びとの尊厳性に関わる何らかの問題が生じ、それに対して聖人がお答えになる必要があったものと考えられています。すなわち、信心を得て生活を送る人は如来と等しい徳を身に得ていることを明らかにして、真宗念仏を相続することの意義深さを強調されたのだと思います。

 

 

「おなじ」と「ひとし」

 

しかしながら、親鸞聖人はこれを即身成仏義と誤解されないよう、慎重に言葉を使っておられます。辞書では、「おなじ」と「ひとし」はほぼ同義で扱われています。しかし、聖人の著述の上では、原則的に意味を区別して使われています。お釈迦さまは、信心の人を「如来(仏)とひとし」と説かれていますが、聖人はそれを、「仏のような人」であると解釈されています。菩薩は次の生で仏に成る位にあるけれども、仏そのものではありません。聖人は、信心の人は「娑婆(しゃば)の縁尽きて・・かの土(浄土)へはまゐる」(『歎異抄』第九条『註釈版聖典』八三七頁)ことは間違いなく、「臨終一念の夕、大般涅槃(だいはつねはん)を超証(ちょうしょう)す」(『教行信証』「信文類」『同』二六四頁)るけれども、今は仏そのものではないと示されます。その区別をつけるために、信心の人は、立場上、菩薩とは同一であるといえるけれども、如来・仏と比べる時は、決して「おなじ」ではなく、未だ仏には成っていない(「ひとし」)という言い方をされています。二つの言葉に、そのような意味の違いを見ておられるのです。

 

仏であるお釈迦さまのまなざしには信心の人にはたらく仏心が観取されて、それで「仏と同じ」という意味でおっしゃったのかも知れません。それは、唯仏与仏(ゆいぶつよぶつ)の知見の上のお言葉といえます。しかし、如来のはたらきによって救われる側にはそう解釈しきれない事情がありました。

 

相矛盾する心

 

阿弥陀さまの本願のはたらき・仏心をいただくとは、「真如一実の功徳宝海」(『教行信証』「行文類」『註釈版聖典』 一四一頁)を、お覚りの心そのものを、いただくことであります。信心の人は「あさましき不浄造悪の身」(『親鸞聖人御消息』『同』七五八頁)でありながら、阿弥陀さまのはたらきによって真実の心で満たされ、如来と同体に成ることができるのです。それはまた、

 

しらず、もとめざるに、功徳の大宝その身にみちみつがゆゑに、大宝海とたとへたるなり。

(『一念多念文意』『註釈版聖典』六九二頁)

といわれるように、私たちの側に何か功績があってそうした境位に入るのではなく、如来のはたらきによって知らず求めずに恵まれるものなのです。阿弥陀さまは、私たちのことを真実の心で満たしてくださっています。しかしながら、親鸞聖人はその人を指して「仏と同じ人」とはいえなかったのです。さらにいうと、それは真実に出遇ったからこそ、気づかされる白身の姿への目覚めゆえにいえなかったのです。

 

浄土真宗に帰すれども

真実の心はありがたし

虚仮不実(こけふじつ)のわが身にて

清浄(しょうじょう)の心もさらになし

(『正像末和讃』『註釈版聖典』六一七頁)

 

浄土真宗のみ教えに帰依しましたけれども、真実の心になることはありません。

うそ・偽りのわたしには、清浄の心などあるはずもありません。

 

鏡に照らしてわが身を見ることができるように、如来の真実のはたらきを身に受けたからこそ、わが身の不真実に目覚めざるを得なかったのです。如来の本願真実は、「この身こそあさましき不浄造悪の身」であるという苦悩の存在であるという気づきを通して出遇うことができる性質のものでありながら、その真実に出遇い信心が恵まれるがゆえに、また「虚仮不実」と吐露せざるを得ない深い自覚が生ぜしめられるのです。これが、「仏と同じ」と解釈できなかった理由だといえます。そして、その自覚は本願に出遇う前の自覚とは質的に大きな違いがあります。いわゆる「二種深信」の文には、

 

自身は現にこれ罪悪生死の凡夫、曠劫よりこのかたつねに没しつねに流転して、出離の縁あることなしと信ず。(中略)かの阿弥陀仏の、四十八願(しじゅうはちがん)は衆生を摂受したまふこと、疑なく慮りなくかの願力に乗じてさだめて往生を得と信ず。

(『註釈版聖典(七祖篇)』四五七頁)

 

とあります。ここには、本願真実に出遇ったことにより、いっそう悲愴感・絶望感が深まったというよりも、死ぬまで煩悩(罪業)から離れられない「ありのままの自己の姿・本性」に出遇うことができたという深い懺悔と、阿弥陀さまとともにありのままの自分を引き受けて生きていけるという喜びが語られています。このような一見相反する気持ちが交差し、ひとつの心の上に現れているのが浄土真宗の信心の特色ともいえます。

 

 

浄土に居す

 

親鸞聖人は、光明寺の和尚(善導大師)の『般舟讃』の文を解釈して、

 

「信心のひとは、その心すでにつねに浄土に居す」と釈したまへり。「居す」といふは、浄土に、信心のひとのこころつねにゐたりといふこころなり。これ弥勒とおなじといふことを申すなり。これは等正覚を弥勒とおなじと申すによりて、信心のひとは如来とひとしと申すこころなり。

(『親鸞聖人御消息』『註釈版聖典』七五九頁)

 

と述べられています。

 

このように、消息の終わりに示された今月の言葉も、この身は娑婆世界にあって煩悩具足の身であることは変わらないけれども、阿弥陀さまのはたらきに満たされ、覚り(浄土)の教えを依りどころとして人生を生き抜いていく身となった、ということを述べておられるのです。

 

慶(よろこ)ばしいかな、心を弘誓(ぐせい)の仏地に樹(た)て、念(おもい)を難思(なんじ)の法海に流す。

(『教行信証』後序『同』四七三頁)

 

聖人の著述の諸所に、確かな依りどころを得て生きていくことのできる慶びが豊かな表現で表されています。

(河智義邦)

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7/15に真空管アンプ音楽鑑賞会が開催されました

2012年7月15日14:00から光明寺本堂で「真空管アンプ音楽鑑賞会」が開催され、邦楽・洋楽・JAZZといった、さまざまな曲が真空管アンプから広い本堂に響きわたり、まるでコンサート会場のようでした。

また、当日はとても暑い中、老若男女問わずたくさんの人が会場を訪れ、心地よいひとときを過ごされました。

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7月15日に開催される真空管アンプ音楽鑑賞会の記事が朝日新聞に掲載されました。

2012年7月11日 朝日新聞 朝刊 に7月15日に開催される真空管アンプ音楽鑑賞会の記事が掲載されました!

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7/14 光明寺仏教壮年会(みどり会)総会のご案内

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2012年7月 生死のうみにうかみつつ有情をよぼうてのせたもう 法語カレンダー解説

観音・勢至の二菩薩

 

この法語は、親鸞聖人が『正像末和讃』に

弥陀(みだ)・観音(かんのん)・大勢至(だいせいし)
大願(だいがん)のふねに乗(じょう)じてぞ
生死(しょうじ)のうみにうかみつつ
有情(うじょう)をよばうてのせたまふ

(『註釈版聖典』六〇九頁)

 

阿弥陀仏・観音菩薩・勢至菩薩の三尊は、大悲の船(本願の船)に乗り込んで、生死の海に浮かびながら、有情(衆生)を喚びつづけ救い取ってくださいます。

 

と詠まれたなかに出てくる言葉です。和讃のなかには、この一首のように、観音・勢至の両菩薩が登場するものがいくつかあります。その一つが、『浄土和讃』のなかの次の一首です。

観音(かんのん)・勢至(せいし)もろともに
慈光世界(じこうせかい)を照曜(しょうよう)し
有縁(うえん)を度(ど)してしばらくも
休息(くそく)あることなかりけり

(『同』五五万頁)

 

観音・勢至二菩薩は、そろって慈悲の光明によって世界を照らし、縁のある衆生を救済して、しかもしばらくも休むことがありません。

 

阿弥陀如来と観音勢至の二菩薩は、古来「弥陀三尊」と呼ばれ、三尊形式では阿弥陀如来を中心に脇侍(きょうじ)として左側に観音菩薩、右側に勢至菩薩が立っておられて、それぞれ阿弥陀如来の慈悲と智慧のはたらきを象徴しています。

 

説明が相前後しますが、「智慧」とは、自己中心的な思いを交えず、すべてのものを分けへだてなく照らし見るという心を、「慈悲」とは、すべてのものを慈しみあわれんで救おうとする心のことをいいます。両者は別々のものではなく「覚り」の内実・二側面であって、真の智慧は自ずから慈悲としてはたらき、真の慈悲のはたらきは智慧を根拠として行われます。それはまた、「智慧の光明」「慈光」といったように、ともに光明と譬喩されます。『浄土和讃』では、二菩薩がともに慈悲の光明によって娑婆世界を照らされて、衆生を救済されることが示されています。

 

また、この和讃の前二首には、浄土に生まれた無数の菩薩たちが功徳を修め、穢国に戻って衆生を教化し、「弥陀の本願」に帰依せしめられることが詠われています。

 

観音・勢至の二菩薩は、特に菩薩からの上首とされ、阿弥陀さまの救済活動の手伝いを休むことなく行われているのです。親鸞聖人が、聖徳太子の上に観音菩薩のはたらきを、法然聖人の上に勢至菩薩のはたらきの具現相を見ておられたことは、よく知られているところです。

 

 

観音菩薩の御利益

 

このうち、観音菩薩は、阿弥陀如来の一脇侍という立場とは趣を異にする、独白の側面を持ち合わせています。日本では、『観音経』に基づき平安時代に成立したとい われる西国三十三力所の観音霊場巡りや、病気治し・災難の身代わり・厄除けなど、各地に伝わるいわゆる「御利益信仰・民間信仰」の対象となっている、単独での「観音信仰」が有名です。こうした独白の信仰が生まれ広まったのも、観音菩薩の慈悲的性格によるものと思われます。しかしながら、少々むずかしいことを申すようで恐縮ですが、そうした信仰と浄土教思想における阿弥陀如来の脇侍としての観音菩薩とは一線を引き、交通整理をしておくことが大切であろうと思います。

 

すべての人の覚りの実現を目指す大乗仏教(浄土真宗もその一つです)には、膨大な数の経典があり、そこに説かれる表現法や実践法などもバラエテイに富んでいます。

 

そのため同じ仏・菩薩であっても、経論釈によって意義付けが異なり、人びとの受け入れ方や関わり方(信仰形態)も、時代性や地域色を帯びています。

 

阿弥陀さまの浄土へ往生させていただく教えを聞信していくにあたっては、親鸞聖人が『無量寿経』等を根拠として解釈されたように、観音・勢至の二菩薩は無数の菩薩とともに、人間の欲望充足を目的とする御利益信仰を勧める聖者(しょうじゃ)ではなく、果てしない欲に振り回されて生きる衆生を、煩悩を超えた領域に生きる阿弥陀如来の本願に帰依せしめるという、いわば真の仏教的御利益を与えるために活動をされている聖者と受け止めることが大事かと思います。

 

すなわち、浄土真宗においては、二菩薩が仕えておられる弥陀一仏を念ずることが肝要で、帰するところ南無阿弥陀仏の念仏の教えをいただいて往生浄上させていただくことが、何よりもありがたい御利益といえるのです。

 

 

やわらかいこころ

 

その三尊が、遠い彼岸からではなく、大悲の船に乗って生死の海に浮かび、私たちを覚りへと導こうとされる姿が讃えられているのが、初めの和讃です。それは、さきほど触れましたように、私(たち)が日々の生活のなかで我欲から離れることができず、「智慧・慈悲」と真逆な心で自損損他(じそんそんた)して生きていることを心配されたからに違いありません。また、迷信など根拠のない言い伝えや信仰にとらわれている姿も、大きな心配事であると思います。その心は三毒の煩悩ともいかれ、存覚(ぞんかく)上人は、

 

貪欲(どんよく)を生じ瞑恚(しんに)をおこすことも、そのみなもとをいへば、みな愚痴よりいでたり。

(『顕名紗(けんみょうしょう)』『真宗聖教全書』第三巻、三二六頁)

 

と述べられています。

 

人間は、自分の都合に合わせて、無ければないで有ればあったで、際限なくものを欲し満足を得ず(貪欲)、欲が妨げられたり、自分の思うようにいかなかったりすると、怒り、ねたみ、言葉や行動で他者を排除しようとする性分を持っていて(瞋恚)、それらはすべて愚痴から生まれたものと示されます。愚痴とは、自己(自我)中心的な頑なな心で世界を捉え生きている「凡夫」の姿を指します。

 

この凡夫の姿を「セトモノ」(瀬戸物)と表現した人がいます。書家・詩人であった相田みつをさんです。

 

セトモノと
セトモノと
ぶつかりッこすると
すぐこわれちゃう
どっちか
やわらかければ
だいじょうぶ
やわらかいこころを
もちましょう
そういうわたしは
いつもセトモノ

(『生きていてよかった』五四頁、角川文庫)

「やわからかいこころ」とは、自分をセトモノと自覚する心のことだと思います。

私も何ら偉そうなことを言えたものではないのですが、日頃の人間関係でぶつかり合い感情が乱れると、ついついその原因を自分以外に求めようとしてしまいます。しかし、ご縁に導かれた結果かどうかはなはだ自信はありませんが、近頃は以前よりは少し冷静に事態を見つめ、対処できるようになった気でいます。

 

大願の船に乗らせていただいても、私の煩悩が消えるわけではありません(いつもセトモノ)。しかしながら、常にセトモノ(煩悩具足の凡夫)と自覚せしめられる世界(やわらかいこころ)をいただいていることは、凡夫の仏道にとって極めて大事なことで、そこには緊張感とともに安心感があります。

 

二菩薩は、またそうした念仏者に常に寄り添ってくださっています。

 

南無阿弥陀仏(なもあみだぶつ)をとなふれば
観音(かんのん)・勢至(せいし)はもろともに
恒沙塵数(ごうじゃじんじゅ)の菩薩(ぼさつ)と
かげのごとくに身にそへり

(『註釈版聖典』五七五頁)

 

「南無阿弥陀仏」と阿弥陀さまの御名を称えると、観音菩薩や勢至菩薩がともに、他の砂や塵ほどの無数の菩薩方と一緒になって、その称える人を添い護ってくださいます。

 

(河智義邦)

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