7/15 真空管アンプ音楽鑑賞会を開催します。

オーディオマニアにはたまらない、本格的なオーディオ設備を使用した音楽鑑賞会を光明寺の本堂で開催します。

歴史が刻まれた由緒ある場所で木造ならではの音の響き、最高の音楽と共に一日をごゆっくりお過ごし下さい。

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6/9 連続公開講座のご案内

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2012年6月 ただ如来にまかせまいらせおわしますべく候う 法語カレンダー解説

誓願不思議・名号不思議

 

今月の法語は、「ただ如来にまかせまゐらせおはしますべく候ふ」(『註釈版聖典』七八一頁)という、『親鸞聖人御消息』第二十三通の結びの文です。その直前には、

 

往生(おうじょう)の業(ごう)には、わたくしのはからひはあるまじく候ふなり。

(『註釈版聖典』七八一頁)

 

とあります。これから、この法語は「お浄土参りは自分の力ではとても不可能です。それには阿弥陀さまをたよりにする生き方しかほかに道はありません」という、親鸞聖人の思し召しです。このお心をたずねてみましょう。

 

このお手紙と『歎異抄』第十一条の内容が、ほぼ同じです。親鸞聖人ご在世の時に、誓願と名号を別々にみる異安心がありました。それは、誓願の不思議力に救われると信じるのは他力真実の信心で、名号の不思議力に救われると信じるのは他力のなかの自力の信心である、という主張です。この異安心を、親鸞聖人は「これみなひがごとにて候ふなり」(『註釈版聖典』七八一頁)と判定されています。このことは、

 

誓願(せいがん)の不思議によりて、やすくたもち、となへやすき名号を案じいだしたまひて、この名字をとなへんものをむかへとらんと御約束あることなれば、まづ弥陀の大悲大願(だいひだいがん)の不思議にたすけられまゐらせて、生死(しょうじ)を出づべしと信じて、念仏の申さるるも如来の御はからひなりとおもへば、すこしもみづからのはからひまじはらざるがゆゑに、本願に相応して、実報土(じっぽうど)に往生するなり。これは誓願の不思議をふねと信じたてまつれば、名号の不思議も具足(ぐそく)して、誓願・名号の不思議ひとつにして、さらに異なることなきなり。

(『註釈版聖典』八三八~八三九頁)

 

という『歎異抄』の文をみれば、正義(しょうぎ)がわかります。誓願と名号を別々にわけては阿弥陀さまのお心がわかりません。私たちは親鸞聖人の思し召しを正しくいただかねばなりません。

 

 

たまわりたる信心

 

中央仏教学院の講堂は、毎日、全学生が講義の前に仏前で勤行をしている尊い空間です。講堂の正面には、ご門主御染筆の「学仏大悲心」(仏の大悲心(だいひしん)を学して『観経疏』「玄義分」『註釈版聖典(七祖篇)二九八頁』)の額が、かかっています。学生たちはこのお言葉を肝に銘じて、日々僧侶の自覚をあらたにしながら精進をしています。「学仏大悲心」とはご本願を聞くことであり、如来のまことを信じる生き方です。ご本願を信じて生きてゆかねば、空しさがのこる人生です。「宝の山に入りて手を空しくして帰ることなかれ」(『往生要集』『同』八四二頁)とありますが、まことに人生は仏法が聞ける宝の山のなかの生活です。しかし、この人生はあっという間に過ぎてしまいます。急いで後生の一大事の解決に心がけねばなりません。

 

生きてよし死してまたよし法の身は
今日の一日(ひとひ)を よろこびに生(う)く

 

と、曽我是精師が詠っています。この念仏者は、お聴聞を通して生死をのりこえる道を確信されていたのですね。まさにお聴聞は人生の師です。

 

『歎異抄』第六条と後序に、「如来よりたまはりたる信心」(『註釈版聖典』八三五、八五二頁)という表現があります。世間では人が信心をつくるようにいうのですが、浄土真宗は私がつくる信心とはいいません。人生で、ご法義話は大切な時間ですが、相手に浄土真宗の信心を誤解されないように気をつけるべきです。阿弥陀さまのお慈悲そのものが信心ですから、浄土真宗ではこのように「たまわりたる信心」という表現をつかいます。お名号ができあがった理由がわかれば、ただ「ありがとうございます」とお念仏するだけです。称えるお念仏は、そのまま「まかせよ」の阿弥陀仏の招喚の勅命です。「必ず助ける」如来の願力が阿弥陀仏の四字の意義で、これを法といいます。「必ず助かる」衆生の信心が「南無」の二字の意義で、これを機(き)といいます。

 

阿弥陀仏は、「若不生者不取正覚」(もし生(しょう)ぜずは、正覚(しょうがく)を取らじ。「無量寿経」『註釈版聖典』一八頁)と誓った正覚の御名ですから、お名号には必ず「助ける」という誓願の成就があります。「南無」は帰命と訳され、「必ず助ける」の勅命に帰順する信心です。信心は救われた人に現れたことがらですから、「阿弥陀仏」の法に対して「南無」を機といいます。このように、「阿弥陀仏」の法によって「南無」の機が成ぜられ、「南無」と「阿弥陀仏」は一体不二に成就しているから、私がまちがいなく救われる証となります。蓮如上人は、これを「機法一体(きほういったい)の南無阿弥陀仏」といわれました。
『御文章』第二帖目第十四通の「秘事法門の章」に、

 

ただひとすぢに阿弥陀如来を一心一向にたのみたてまつりて、たすけたまへとおもふこころの一念おこるとき、かならず弥陀如来の摂取の光明を放ちて、その身の娑婆(しゃば)にあらんほどは、この光明のなかに摂(おさ)めおきましますなり。これすなはちわれらが往生の定まりたるすがたなり。されば南無阿弥陀仏と申す体は、われらが他力の信心をえたるすがたなり。この信心といふは、この南無阿弥陀仏のいはれをあらはせるすがたなりとこころうべきなり。さればわれらがいまの他力の信心ひとつをとるによりて、極楽にやすく往生すべきことの、さらになにの疑(うたがい)もなし。

(『註釈版聖典』一一三一頁)

 

と説かれていますが、このご文が今月の法語を説明し尽くしているように思われます。

 

 

親のよびごえ

 

明治時代に、原口針水という和上がおられました。

 

われ称えわれ聞くなれど南無阿弥陀
つれてゆくぞの親のよびごえ

(梯實圓著『妙好人のことば』二二七頁)

 

という歌をつくっています。とてもありがたい歌です。私が称えるお念仏でありますが、その声が私の耳にとどけば、阿弥陀さまの招喚の勅命といただかねばなりません。

南無阿弥陀仏は、阿弥陀さまが私を救ってくださっているすがたです。同時に、私が阿弥陀さまに救われているすがたです。これが、親鸞聖人が伝えてくださった称名念仏の意義です。『教行信証』「行文類」と『尊号真像銘文』には親鸞聖人の六字釈があり、ここに南無阿弥陀仏の意義が明らかにされています。

 

六字釈は、善導大師と親鸞聖人、それに蓮如上人の三人の方のものがあります。そのなか、善導大師の六字釈は、「南無」の二字と「阿弥陀仏」の四字にわけた解釈です。親鸞聖人は。「南無阿弥陀仏」の六字全体を帰命・発願廻向(ほつがんえこう)・即是其行と、三義の解釈をされています。両者の解釈には相違がありません。発願廻向は、「二尊(にそん)の召しにしたがうて、安楽浄土に生れんとねがふこころ」(『尊号真像銘文』『註釈版聖典』六五六頁)で、私を往生成仏させる阿弥陀さまのはたらきのことです。お慈悲のありったけを衆生にもたせてやりたいという、阿弥陀さまのお心です。どのようにして私にお慈悲をもたせるのかを示すのが、帰命です。それを「帰命は、すなはち釈迦(しゃか)・弥陀の二尊の勅命(ちょくめい)にしたがひて、召しにかなふと申すことばなり」(『同』)とお示しです。蓮如上人は、称名念仏は阿弥陀さまが私を「われをたのめ、必ず助ける」という喚びかけであり、それを聞き信じる私が「必ず助かると弥陀をたのむ」すがたであるとお示しです。お念仏をするそのままが、阿弥陀さまの勅命を聞いて信順しているすがたなのです。

 

「即是其行(そくぜごぎょう)」は、

 

法蔵菩薩(ほうぞうぼさつ)の選択本願(せんじゃくほんがん)なりとしるべしとなり。安養浄土(あんにょうじょうど)の正定(しょうじょう)の業因(ごういん)なりとのたまへるこころなり。

(『尊号真像銘文』『註釈版聖典』六五六頁)

 

とお示しです。この即是其行は、私を往生成仏させる阿弥陀さまのはたらきです。善導大師は、このことを『無量寿経』を引用して、

 

一切善悪の凡夫生ずることを得るものは、みな阿弥陀仏の大願業力(だいがんごうりき)に乗じて増上縁(ぞうじょうえん)となさざるはなし

(『観経疏』「玄義分」『註釈版聖典(七祖篇)』三〇一頁)

 

といっておられます。「若不生者不取正覚」(もし生ぜずは、正覚を取らじ)の本願が成就したお名号ですから、「われにまかせよ、必ず助ける」のはたらきが称名念仏です。私のお救いは阿弥陀さまの一人ばたらきです。このことを先哲は「唯信独達(ゆいしんどくとつ)」といいました。親鸞聖人は、「私のためにできあがった南無阿弥陀仏が往生の行になる」とおっしゃいました。第十八願が成就して名号になり、名号が正定業となるのです。
信心そのものがお名号ですから、お念仏を称えているままが、私の往生浄土の因となっているのです。

 

私たちは目に見えないものは信じられない性癖があります。それなら見えないものをどうして信じられるのでしょうか。このことで思いだすのが、「私たちは本願力をどこで知るのでしょうか。たとえば野原に花が咲いていたら、すでにそこには春がきているとわかります。阿弥陀さまが私のところにきてくださっていると知れるのは、私が称えているお念仏からです。お念仏は阿弥陀さまのはたらきそのものだといただくべきです。」(『親鸞聖人の教義』一八~一九頁、取意)といわれた、大江淳誠和上の言葉です。ご本願が如実に念仏生活のうえに現れているといただくべきです。お念仏している姿は、阿弥陀さまとともに生きているすがたなのです。このようにお念仏をいただいていくのが、親鸞聖人のお考えです。浄土真宗の称名は、称えさせられているところのお念仏といえます。

 

 

そのままのお助け

 

多くのお同行に慕われていた一蓮院秀存師が、「浄土真宗の要は、そのままのお助けじゃ」と、話されたことがあります。それを聞いたお同行が、「このままのお助けですね」と念をおしました。一蓮院は首をふり、「ちがうぞ、そのままのお助けじゃ」と言い放ちました。お同行はしばらく沈黙した後に、「このままのお助けでございますか」と聞き直しました。一蓮院は、ただお念仏をしているだけです。お同行はどう理解していいのかわからず、「もう一度お聞かせください。私はどうにもわかりません」と懇願しました。一蓮院は「そのままのお助けじゃ」と同じことを言うだけでした。それを聞いたお同行ははっとして、「ありがとうございます。もったいないことです」と言い、一蓮院とともにお念仏を称え始めました。一蓮院さまはお同行のその領解を喜び、「お互いに尊いご法縁にあわせてもらいましたのう。お浄土では必ずお会いしましょう」と、うれしそうに言われたそうです。ありがたい逸話ですね。

 

これと似たような話を、ずいぶんと前に『大乗』(本願寺出版社刊)で読んだ記憶があります。梅原真隆和上のもとに、大病を患っていたお同行が、「今生のみやげに浄土真宗の要を書いてほしい」と懇願しました。そこで梅原和上は、

 

なにもかもまかせまつりて
南無阿弥陀
この身このまますくわれてゆく

(大乗刊行会編『珠玉のことば』一九九頁)

 

という歌をつくって渡されたという話です。この歌からも浄土真宗の核心が伝わってきます。むずかしい言葉を覚えて得意げに話すよりも、「そのまま助けるぞ」という招喚の勅命をすなおにいただいて喜ぶ人生にこそ、私が救われる道がひらけてくるのです。いや、私の救いの道はすでにひらかれていたと気づかせていただけるのです。

こうなると、生きていることがうれしくなってきますね。

 

(鎌田宗雲)

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宗祖降誕会法要のご報告とおときのご紹介

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親鸞聖人のご誕生をお祝いする宗祖降誕会法要が2012年5月18日、19日に行われました。 [nggallery id=7]   おとき(お斎)のご紹介 ●5月18日 左下/豆ご飯、左上/お煮しめ、中央/酢の物、 … 続きを読む

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5/19 みどり会のご案内

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5/18、5/19 宗祖降誕会法要のお知らせ

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東日本大震災災害義援金 経過報告

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2011年3月12日より受け付けております東日本大震災災害義援金について、光明寺から144,444円の義援金が集まり、東北教区教務所へ送りました。

たくさんのご支援ありがとうございます。

引き続き宜しくお願いいたします。

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2012年5月 極重の悪人はただ仏を称すべし 法語カレンダー解説

善人と悪人

 

今月の法語である、

極重悪人唯称仏(ごくじゅうあくにんゆいしょうぶつ)
(『日常勤行聖典』三二頁)

(極重の悪人はただ仏(ぶつ)を称すべし 『註釈版聖典』二〇七頁)

 

という「正信偈」のご文は、『往生要集』の、

 

極重の悪人は、他の方便なし。ただ仏を称念(しょうねん)して、極楽に生ずることを得

(『註釈版聖典(七祖篇)』一〇九八頁)

 

がもとです。法語は、「とても仏になれない私をお救いくださる阿弥陀さまを信知し、お念仏を大事にして、お浄土に向かう人生を生きていきましょう」という、親鸞聖人の思し召しです。このお心をたずねてみましょう。

 

ここでは、浄土真宗でいう悪人の意味を正しく理解することが必須です。『歎異抄』に、善人は〈自力作善(じりきさぜん)のひとは、ひとへに他力をたのむこころかけたる〉(『註釈版聖典』八三三頁)人であると示し、悪人は〈他力をたのみたてまつ〉(『同』八三四貢)人で、〈煩悩具足(ぼんのうぐそく)の凡夫〉(『同』八五三頁)の私であると、善人と悪人を定義されます。これが浄土真宗の悪人と善人の使い分けです。ご法義からいう悪人は、世間でいう悪人とはまったく意味がちがっていることを知っていないと、たいへんな誤解が生じます。これは、『歎異抄』第九条の、

 

しかるに仏(ぶつ)かねてしろしめして、煩悩具足の凡夫と仰せられたることなれば、他力の悲願はかくのごとし、われらがためなりけりとしられて、いよいよたのもしくおぼゆるなり。

(『註釈版聖典』八三六~八三七頁)

 

というご文からわかるように、阿弥陀さまの仰せをいただくと、浄土真宗で自らを悪人という理由がうなずけます。曇鸞大師が『往生論註』で、

 

火は木より出でて、火、木を離るることを得ず。木を離れざるをもつてのゆゑにすなはちよく木を焼く。木、火のために焼かれて、木すなはち火となるがごとし。

(『註釈版聖典(七祖篇)』八二頁)

 

といっておられますが、この木と火の関係が阿弥陀仏と私の関係です。大悲の招喚を信じた時、すでにお慈悲が煩悩の心にみちてきて、生きる喜びがわいてきます。

 

これを、親鸞聖人は『高僧和讃』に、

 

五濁悪世(ごじょくあくせ)の衆生(しゅじょう)の
選択本願(せんじゃくほんがん)信ずれば
不可称不可説不可思議の
功徳は行者の身にみてり

(『註釈版聖典』五九九頁)

 

真実を見極めることの難しい世の中で、何が正しくて何が正しくないかを判断することは、難しいことです。五濁悪世の時代に生きている衆生が、阿弥陀さまのご本願を信じて生きるようになれば、その人の人生は変わってきます。その人は、語り尽くすことのできない不可思議な功徳に満たされるようになってくるのです。

 

とお示しです。私を見透かされた阿弥陀さまは、

 

大悲は苦あるひとにおいてす、心ひとへに常没(じょうもつ)の衆生を愍念(みんねん)したまふ。ここをもつて勧めて浄土に帰せしむ。

(『観経疏』「玄義分」『註釈版聖典(七祖篇)』三一二頁)

 

と、いつも救いの手を私にはたらきかけてくださっています。

このことで思いだすのが、ある布教先での出来事です。「最後の財産と思っていた健康もむなしいと知りました。さいわいに浄土真宗の家に生まれた私は、お念仏のご縁がありました。〈いのちの行方〉を知ったおかげで、病気の今でも、しあわせな時間を感じています。いつ死んでもおかげさまです」と言いきっておられた、お同行の言葉とお顔が忘れられません。

『教行信証』「信文類」には「回施(えせ)したまへり」(『註釈版聖典』二三一、二三五、二四一頁)という表現がありますが、この言い回しのなかに浄土真宗の真髄が表されています。如来の真実心が私に回施され、如来のお徳がわがものとなってくるのです。後に一〇一頁で触れますように、不可思議の功徳が私にそなわることを「即是其行(そくぜごぎょう)」といいます。このことを、

 

利他の真心(しんしん)を彰(あらわ)す。ゆゑに疑蓋(ぎがい)雑(まじ)はることなし。

(『教行信証』「信文類」『註釈版聖典』二三一~二三二頁)

 

と示されています。お名号のおいわれをまったく疑わない浄土真宗の信仰のすがたは、『歎異抄』第十六条にあるように、阿弥陀さまをほれぼれと仰ぐ生き方しかありません。このことを稲垣瑞剣先生が、

 

あれごらん 親に抱かれて 寝る赤児
落ちる落ちぬの 心配はなし

(大乗刊行会編『珠玉のことば』一三二頁)

 

と詠っています。母を疑うことを知らぬ赤児は、母に抱かれるままで安穏と生きておれます。母に抱かれてすやすやと眠っている赤児の姿は、阿弥陀さまの摂取不捨のはたらきのなかで生きている念仏者の姿です。

 

大悲のまなざし

 

善導大師の「二河白道の譬」には、

 

なんぢ一心正念にしてただちに来(きた)れ。われよくなんぢを護らん。

(『観経疏』「散善義」『註釈版聖典(七祖篇)』四六七頁)

 

とありますが、これを親鸞聖人は『愚禿鈔(ぐとくしょう)』に、

 

「能」の言(ごん)は、不堪(ふかん)に対するなり、疑心の人なり。「護」の言は、阿弥陀仏果成(あみだぶつかじょう)の正意(しょうい)を顕(あらわ)すなり、また摂取不捨(せっしゅふしゃ)を形(あらわ)すの貌(かおばせ)なり、すなはちこれ現生護念(げんしょうごねん)なり。

(『註釈版聖典』五三九頁)

 

と注釈しておられます。「能」(よく)は、凡夫の煩悩にさまたげられず衆生を救うことができる本願力という意味です。ご本願を疑う人は救いを拒んでいるのだから、その人は救われないと知らしめるために「不堪」といっておられます。次の「護」(護らん)の註釈がありがたいですね。阿弥陀さまの仕事は、煩悩だらけの私をお浄土に導き仏にしてくださることです。念仏者はいつも摂取の光明にいだきとられているのですから、「護」を「阿弥陀仏果成の正意を顕すなり」といわれているのです。

島地黙雷(もくらい)和上が築地別院に駐在していた時のことです。一人の僧から揮毫(きごう)をたのまれました。和上は気楽にその場で、「二河白道の譬」にでてくる「汝一心正念直来我能護(汝)」(なんぢ一心正念にしてただちに来れ。われよく(なんぢを)護らん『観経疏』「散善義」『註釈版聖典(七祖篇)』四六七頁)の文を、さらさらと書いて渡しました。

その僧は喜びながら読むと、「我能護汝」とあるはずの最後の「汝」の一文字が書かれていないことに気づきました。そこで、おそるおそると「和上さま。申しかねますが、ここの汝の一文字がぬけているのですが」と言いました。それを聞いた和上はうれしそうに、「ようよう気がつかれましたのう。そこは文字がぬけているのじゃあないぞ。あなたがそこに入るように空けているのじゃあ。善導大師が申されている汝は文字じゃない。この生身の私のことであり、あなたのことじゃあぞ」と言われたそうです。浄土真宗の神髄が伝わってくるありがたいエピソードです。

このことを、『観無量寿経』の「真身観(しんしんかん)」には、

 

一々(いちいち)の光明(こうみょう)は、あまねく十方世界(じっぽうせかい)を照らし、念仏の衆生を摂取して捨てたまはず。(中略)無縁の慈(じ)をもつてもろもろの衆生を摂したまふ。

(『註釈版聖典』一〇二頁)

 

と説いています。

源信和尚は、『観無量寿経』の「念仏衆生摂取不捨」(念仏の衆生を摂取して捨てたまはず 『註釈版聖典』一〇二頁)の経文を、

 

われまたかの摂取のなかにあれども、煩悩、眼(まなこ)を障(さ)へて、見たてまつることあたはずといへども、大悲(だいひ)倦(う)むことなくして、つねにわが身を照らしたまふ。

(『往生要集』『註釈版聖典(七祖篇)』九五六~九五八頁)

 

といっておられます。これは、「私は、お念仏を喜ぶ身になった。念仏者は阿弥陀さまの光明に摂めとられて捨てられないとあるので、この私もお救いの光明のなかに摂めとられているはずだ。煩悩だらけの生活をしている私は、阿弥陀さまに救われていると感じたり、見たり知ったりすることができない。ちっとも阿弥陀さまに気づかないが、阿弥陀さまはこんな私をきらわないで、いつも私を照らし護っていてくださっている」というお領解(りょうげ)です。いくら仏さまがましますと聞かされても、私はその仏さまを見ることができません。こんな私を知ろしめて、阿弥陀さまは私をお救いくださっているのです。私は煩悩があるから、阿弥陀さまを見ることができません。しかし、み仏の大悲のまなざしのなかで安心して生きられる、お念仏の世界があったのです。

 

摂取不捨のはたらき

 

『浄土和讃』に、

 

十方微塵世界(じっぽうみじんせかい)の
念仏の衆生をみそなはし
摂取してすてざれば
阿弥陀となづけたてまつる

(『註釈版聖典』五七一頁)

 

あらゆる世界で念仏を称えている人びとを、漏れることなくご存知の阿弥陀さまです。その人びとを光明で摂め取ってお護りくださる阿弥陀さまです。このような仏さまだから、阿弥陀さまとお呼びしているのです。

 

とあります。親鸞聖人は「摂取」の文字の左側に、

 

摂(おさ)めとる。ひとたびとりて永く捨てぬなり。摂はものの逃ぐるを追はへとるなり。
摂はをさめとる、取は迎へとる

(『註釈版聖典』五七一~五七二頁)

 

と、逃げてばかりいる私を追いかけてつかまえている阿弥陀さまだと、ご左訓(さくん)を施しておられます。この阿弥陀さまの摂取不捨のはたらきこそ、善導大師以来の浄土の祖師たちが注意されてきているところです。

 

善導大師に「三縁釈」がありますが、これがまたありがたい解釈です。三縁は親縁(しんえん)・近縁(ごんえん)・増上縁(ぞうじょうえん)ですが、ここでは親縁だけを申します。

 

衆生行(しゅじょうぎょう)を起(おこ)して口につねに仏を称すれば、仏すなはちこれを聞きたまふ。身につねに仏を礼敬(らいきょう)すれば、仏すなはちこれを見たまふ。心(しん)につねに仏を念ずれば、仏すなはちこれを知りたまふ。衆生仏(しゅじょうぶつ)を憶念(おくねん)すれば、仏もまた衆生を憶念したまふ。

(『観経疏』「定善義」『註釈版聖典(七祖篇)』四三六頁)

 

というのが、親縁です。阿弥陀さまは、私の称名・礼敬・意念を、いつも聞・見・知されているというのです。さらに私が阿弥陀さまを憶念すれば、阿弥陀さまも私を憶念されているといっておられます。いや、私が阿弥陀さまを憶念するよりも、はるか昔から阿弥陀さまは私を憶念してくださっているのです。「安心決定鈔(あんじんけつじょうしょう)」第九条に、

 

このうれしさを礼拝恭敬(らいはいくぎょう)するゆゑに、仏の正覚(しょうがく)と衆生の行とが一体にしてはなれぬなり。

(『註釈版聖典』一三九六頁)

 

とあるのが、このことです。阿弥陀さまを拝んでいる私と、私を拝んでくださる阿弥陀さまがひとつになっているすがたが、お念仏なのです。ありがたいですね。

 

かつて、比叡山で救いの道を求めて苦しみ悩んでおられた法然聖人は、経論をむさぼり読んでおられました。そしてやっと辿りつき、魂がふるえた救いの言葉は、

 

一心にもつぱら弥陀(みだ)の名号(みょうごう)を念じて、行住坐臥(ぎょうじゅうざが)に時節(じせつ)の久近(くごん)を問はず念々に捨てざるは、これを正定(しょうじょう)の業(ごう)と名づく、かの仏の願に順ずるがゆゑなり。

(『観経疏』「散善義」『註釈版聖典(七祖篇)』四六三頁)

 

という善導大師の「称名正定業」の釈文でした。この釈文は、法然聖人が念仏の教えに近づく機縁となり、のちに法然聖人が親鸞聖人をお念仏の教えに導かれた言葉です。

雑行(ぞうぎょう)をすてて正行(しょうぎょう)に帰して、正行のなかの称名を専修しなければなりません。仏道には多くの行がありますが、私が信受すべき道は正定業の称名念仏の一行だけだと判定されたのは、善導大師です。親鸞聖人は「六字釈」で、

 

「必得往生(ひっとくおうじょう)」といふは、不退の位(くらい)に至ることを獲(う)ることを彰(あらわ)すなり。『経』(大経・下)には「即得(そくとく)」といへり、釈(易行品 一五)には「必定(ひつじょう)」といへり。

(『教行信証』「行文類」『註釈版聖典』一七〇頁)

 

と説かれます。信心を得た人は煩悩があっても「等同弥勒(とうどうみろく)」であるといい、その身は正定聚の位に定まるとおっしゃっています。これが浄土真宗の現生正定聚(げんしょうしょうじょうじゅ)です。

 

信益同時

 

そして、浄土真宗がわかるとても大切な「即」の字を解釈して、「『即』の言は願力を聞くによりて報土(ほうど)の真因決定(しんいんけつじょう)する時剋(じこく)の極促(ごくそく)を光闡(こうせん)するなり」(『教行信証』「行文類」『註釈版聖典』一七〇頁)といわれています。ご本願が聞こえて疑いがはれたその時が、煩悩具足の凡夫でも必ず往生浄土する身に定まった時なのです。これを昔から「信益同時(しんやくどうじ)」といっています。

『教行信証』「行文類」に、阿弥陀さまを「極大慈悲母(ごくだいじひも)」(『同』一八四頁)といわれていますが、この極大慈悲母の心と私との関係がありがたくてしかたありません。母である阿弥陀さまにいだかれて生きるのに、私には何の心配もあろうはずがありません。阿弥陀さまのやるせない心が伝わってきて、「ただ仏を称すべし」のお言葉がありがたく、心にひびいてくるだけです。

(鎌田宗雲)

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西本願寺・大谷本廟参拝と京都の春爛漫さくら見物へ行って参りました。

2012年4月10日、11日と親鸞聖人のお徳を偲び、西本願寺・大谷本廟納骨参拝と京都サクラの名所など、春爛漫の京都を訪ねてまいりました。 [nggallery id=6]

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4月8日、 霊鷲山にて花まつりが開催されました。

霊鷲山山頂では霊鷲山友の会や万歩倶楽部の方などたくさんのギャラリーの中、粛々と執り行われました。 [nggallery id=5]

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