2012年5月 極重の悪人はただ仏を称すべし 法語カレンダー解説

善人と悪人

 

今月の法語である、

極重悪人唯称仏(ごくじゅうあくにんゆいしょうぶつ)
(『日常勤行聖典』三二頁)

(極重の悪人はただ仏(ぶつ)を称すべし 『註釈版聖典』二〇七頁)

 

という「正信偈」のご文は、『往生要集』の、

 

極重の悪人は、他の方便なし。ただ仏を称念(しょうねん)して、極楽に生ずることを得

(『註釈版聖典(七祖篇)』一〇九八頁)

 

がもとです。法語は、「とても仏になれない私をお救いくださる阿弥陀さまを信知し、お念仏を大事にして、お浄土に向かう人生を生きていきましょう」という、親鸞聖人の思し召しです。このお心をたずねてみましょう。

 

ここでは、浄土真宗でいう悪人の意味を正しく理解することが必須です。『歎異抄』に、善人は〈自力作善(じりきさぜん)のひとは、ひとへに他力をたのむこころかけたる〉(『註釈版聖典』八三三頁)人であると示し、悪人は〈他力をたのみたてまつ〉(『同』八三四貢)人で、〈煩悩具足(ぼんのうぐそく)の凡夫〉(『同』八五三頁)の私であると、善人と悪人を定義されます。これが浄土真宗の悪人と善人の使い分けです。ご法義からいう悪人は、世間でいう悪人とはまったく意味がちがっていることを知っていないと、たいへんな誤解が生じます。これは、『歎異抄』第九条の、

 

しかるに仏(ぶつ)かねてしろしめして、煩悩具足の凡夫と仰せられたることなれば、他力の悲願はかくのごとし、われらがためなりけりとしられて、いよいよたのもしくおぼゆるなり。

(『註釈版聖典』八三六~八三七頁)

 

というご文からわかるように、阿弥陀さまの仰せをいただくと、浄土真宗で自らを悪人という理由がうなずけます。曇鸞大師が『往生論註』で、

 

火は木より出でて、火、木を離るることを得ず。木を離れざるをもつてのゆゑにすなはちよく木を焼く。木、火のために焼かれて、木すなはち火となるがごとし。

(『註釈版聖典(七祖篇)』八二頁)

 

といっておられますが、この木と火の関係が阿弥陀仏と私の関係です。大悲の招喚を信じた時、すでにお慈悲が煩悩の心にみちてきて、生きる喜びがわいてきます。

 

これを、親鸞聖人は『高僧和讃』に、

 

五濁悪世(ごじょくあくせ)の衆生(しゅじょう)の
選択本願(せんじゃくほんがん)信ずれば
不可称不可説不可思議の
功徳は行者の身にみてり

(『註釈版聖典』五九九頁)

 

真実を見極めることの難しい世の中で、何が正しくて何が正しくないかを判断することは、難しいことです。五濁悪世の時代に生きている衆生が、阿弥陀さまのご本願を信じて生きるようになれば、その人の人生は変わってきます。その人は、語り尽くすことのできない不可思議な功徳に満たされるようになってくるのです。

 

とお示しです。私を見透かされた阿弥陀さまは、

 

大悲は苦あるひとにおいてす、心ひとへに常没(じょうもつ)の衆生を愍念(みんねん)したまふ。ここをもつて勧めて浄土に帰せしむ。

(『観経疏』「玄義分」『註釈版聖典(七祖篇)』三一二頁)

 

と、いつも救いの手を私にはたらきかけてくださっています。

このことで思いだすのが、ある布教先での出来事です。「最後の財産と思っていた健康もむなしいと知りました。さいわいに浄土真宗の家に生まれた私は、お念仏のご縁がありました。〈いのちの行方〉を知ったおかげで、病気の今でも、しあわせな時間を感じています。いつ死んでもおかげさまです」と言いきっておられた、お同行の言葉とお顔が忘れられません。

『教行信証』「信文類」には「回施(えせ)したまへり」(『註釈版聖典』二三一、二三五、二四一頁)という表現がありますが、この言い回しのなかに浄土真宗の真髄が表されています。如来の真実心が私に回施され、如来のお徳がわがものとなってくるのです。後に一〇一頁で触れますように、不可思議の功徳が私にそなわることを「即是其行(そくぜごぎょう)」といいます。このことを、

 

利他の真心(しんしん)を彰(あらわ)す。ゆゑに疑蓋(ぎがい)雑(まじ)はることなし。

(『教行信証』「信文類」『註釈版聖典』二三一~二三二頁)

 

と示されています。お名号のおいわれをまったく疑わない浄土真宗の信仰のすがたは、『歎異抄』第十六条にあるように、阿弥陀さまをほれぼれと仰ぐ生き方しかありません。このことを稲垣瑞剣先生が、

 

あれごらん 親に抱かれて 寝る赤児
落ちる落ちぬの 心配はなし

(大乗刊行会編『珠玉のことば』一三二頁)

 

と詠っています。母を疑うことを知らぬ赤児は、母に抱かれるままで安穏と生きておれます。母に抱かれてすやすやと眠っている赤児の姿は、阿弥陀さまの摂取不捨のはたらきのなかで生きている念仏者の姿です。

 

大悲のまなざし

 

善導大師の「二河白道の譬」には、

 

なんぢ一心正念にしてただちに来(きた)れ。われよくなんぢを護らん。

(『観経疏』「散善義」『註釈版聖典(七祖篇)』四六七頁)

 

とありますが、これを親鸞聖人は『愚禿鈔(ぐとくしょう)』に、

 

「能」の言(ごん)は、不堪(ふかん)に対するなり、疑心の人なり。「護」の言は、阿弥陀仏果成(あみだぶつかじょう)の正意(しょうい)を顕(あらわ)すなり、また摂取不捨(せっしゅふしゃ)を形(あらわ)すの貌(かおばせ)なり、すなはちこれ現生護念(げんしょうごねん)なり。

(『註釈版聖典』五三九頁)

 

と注釈しておられます。「能」(よく)は、凡夫の煩悩にさまたげられず衆生を救うことができる本願力という意味です。ご本願を疑う人は救いを拒んでいるのだから、その人は救われないと知らしめるために「不堪」といっておられます。次の「護」(護らん)の註釈がありがたいですね。阿弥陀さまの仕事は、煩悩だらけの私をお浄土に導き仏にしてくださることです。念仏者はいつも摂取の光明にいだきとられているのですから、「護」を「阿弥陀仏果成の正意を顕すなり」といわれているのです。

島地黙雷(もくらい)和上が築地別院に駐在していた時のことです。一人の僧から揮毫(きごう)をたのまれました。和上は気楽にその場で、「二河白道の譬」にでてくる「汝一心正念直来我能護(汝)」(なんぢ一心正念にしてただちに来れ。われよく(なんぢを)護らん『観経疏』「散善義」『註釈版聖典(七祖篇)』四六七頁)の文を、さらさらと書いて渡しました。

その僧は喜びながら読むと、「我能護汝」とあるはずの最後の「汝」の一文字が書かれていないことに気づきました。そこで、おそるおそると「和上さま。申しかねますが、ここの汝の一文字がぬけているのですが」と言いました。それを聞いた和上はうれしそうに、「ようよう気がつかれましたのう。そこは文字がぬけているのじゃあないぞ。あなたがそこに入るように空けているのじゃあ。善導大師が申されている汝は文字じゃない。この生身の私のことであり、あなたのことじゃあぞ」と言われたそうです。浄土真宗の神髄が伝わってくるありがたいエピソードです。

このことを、『観無量寿経』の「真身観(しんしんかん)」には、

 

一々(いちいち)の光明(こうみょう)は、あまねく十方世界(じっぽうせかい)を照らし、念仏の衆生を摂取して捨てたまはず。(中略)無縁の慈(じ)をもつてもろもろの衆生を摂したまふ。

(『註釈版聖典』一〇二頁)

 

と説いています。

源信和尚は、『観無量寿経』の「念仏衆生摂取不捨」(念仏の衆生を摂取して捨てたまはず 『註釈版聖典』一〇二頁)の経文を、

 

われまたかの摂取のなかにあれども、煩悩、眼(まなこ)を障(さ)へて、見たてまつることあたはずといへども、大悲(だいひ)倦(う)むことなくして、つねにわが身を照らしたまふ。

(『往生要集』『註釈版聖典(七祖篇)』九五六~九五八頁)

 

といっておられます。これは、「私は、お念仏を喜ぶ身になった。念仏者は阿弥陀さまの光明に摂めとられて捨てられないとあるので、この私もお救いの光明のなかに摂めとられているはずだ。煩悩だらけの生活をしている私は、阿弥陀さまに救われていると感じたり、見たり知ったりすることができない。ちっとも阿弥陀さまに気づかないが、阿弥陀さまはこんな私をきらわないで、いつも私を照らし護っていてくださっている」というお領解(りょうげ)です。いくら仏さまがましますと聞かされても、私はその仏さまを見ることができません。こんな私を知ろしめて、阿弥陀さまは私をお救いくださっているのです。私は煩悩があるから、阿弥陀さまを見ることができません。しかし、み仏の大悲のまなざしのなかで安心して生きられる、お念仏の世界があったのです。

 

摂取不捨のはたらき

 

『浄土和讃』に、

 

十方微塵世界(じっぽうみじんせかい)の
念仏の衆生をみそなはし
摂取してすてざれば
阿弥陀となづけたてまつる

(『註釈版聖典』五七一頁)

 

あらゆる世界で念仏を称えている人びとを、漏れることなくご存知の阿弥陀さまです。その人びとを光明で摂め取ってお護りくださる阿弥陀さまです。このような仏さまだから、阿弥陀さまとお呼びしているのです。

 

とあります。親鸞聖人は「摂取」の文字の左側に、

 

摂(おさ)めとる。ひとたびとりて永く捨てぬなり。摂はものの逃ぐるを追はへとるなり。
摂はをさめとる、取は迎へとる

(『註釈版聖典』五七一~五七二頁)

 

と、逃げてばかりいる私を追いかけてつかまえている阿弥陀さまだと、ご左訓(さくん)を施しておられます。この阿弥陀さまの摂取不捨のはたらきこそ、善導大師以来の浄土の祖師たちが注意されてきているところです。

 

善導大師に「三縁釈」がありますが、これがまたありがたい解釈です。三縁は親縁(しんえん)・近縁(ごんえん)・増上縁(ぞうじょうえん)ですが、ここでは親縁だけを申します。

 

衆生行(しゅじょうぎょう)を起(おこ)して口につねに仏を称すれば、仏すなはちこれを聞きたまふ。身につねに仏を礼敬(らいきょう)すれば、仏すなはちこれを見たまふ。心(しん)につねに仏を念ずれば、仏すなはちこれを知りたまふ。衆生仏(しゅじょうぶつ)を憶念(おくねん)すれば、仏もまた衆生を憶念したまふ。

(『観経疏』「定善義」『註釈版聖典(七祖篇)』四三六頁)

 

というのが、親縁です。阿弥陀さまは、私の称名・礼敬・意念を、いつも聞・見・知されているというのです。さらに私が阿弥陀さまを憶念すれば、阿弥陀さまも私を憶念されているといっておられます。いや、私が阿弥陀さまを憶念するよりも、はるか昔から阿弥陀さまは私を憶念してくださっているのです。「安心決定鈔(あんじんけつじょうしょう)」第九条に、

 

このうれしさを礼拝恭敬(らいはいくぎょう)するゆゑに、仏の正覚(しょうがく)と衆生の行とが一体にしてはなれぬなり。

(『註釈版聖典』一三九六頁)

 

とあるのが、このことです。阿弥陀さまを拝んでいる私と、私を拝んでくださる阿弥陀さまがひとつになっているすがたが、お念仏なのです。ありがたいですね。

 

かつて、比叡山で救いの道を求めて苦しみ悩んでおられた法然聖人は、経論をむさぼり読んでおられました。そしてやっと辿りつき、魂がふるえた救いの言葉は、

 

一心にもつぱら弥陀(みだ)の名号(みょうごう)を念じて、行住坐臥(ぎょうじゅうざが)に時節(じせつ)の久近(くごん)を問はず念々に捨てざるは、これを正定(しょうじょう)の業(ごう)と名づく、かの仏の願に順ずるがゆゑなり。

(『観経疏』「散善義」『註釈版聖典(七祖篇)』四六三頁)

 

という善導大師の「称名正定業」の釈文でした。この釈文は、法然聖人が念仏の教えに近づく機縁となり、のちに法然聖人が親鸞聖人をお念仏の教えに導かれた言葉です。

雑行(ぞうぎょう)をすてて正行(しょうぎょう)に帰して、正行のなかの称名を専修しなければなりません。仏道には多くの行がありますが、私が信受すべき道は正定業の称名念仏の一行だけだと判定されたのは、善導大師です。親鸞聖人は「六字釈」で、

 

「必得往生(ひっとくおうじょう)」といふは、不退の位(くらい)に至ることを獲(う)ることを彰(あらわ)すなり。『経』(大経・下)には「即得(そくとく)」といへり、釈(易行品 一五)には「必定(ひつじょう)」といへり。

(『教行信証』「行文類」『註釈版聖典』一七〇頁)

 

と説かれます。信心を得た人は煩悩があっても「等同弥勒(とうどうみろく)」であるといい、その身は正定聚の位に定まるとおっしゃっています。これが浄土真宗の現生正定聚(げんしょうしょうじょうじゅ)です。

 

信益同時

 

そして、浄土真宗がわかるとても大切な「即」の字を解釈して、「『即』の言は願力を聞くによりて報土(ほうど)の真因決定(しんいんけつじょう)する時剋(じこく)の極促(ごくそく)を光闡(こうせん)するなり」(『教行信証』「行文類」『註釈版聖典』一七〇頁)といわれています。ご本願が聞こえて疑いがはれたその時が、煩悩具足の凡夫でも必ず往生浄土する身に定まった時なのです。これを昔から「信益同時(しんやくどうじ)」といっています。

『教行信証』「行文類」に、阿弥陀さまを「極大慈悲母(ごくだいじひも)」(『同』一八四頁)といわれていますが、この極大慈悲母の心と私との関係がありがたくてしかたありません。母である阿弥陀さまにいだかれて生きるのに、私には何の心配もあろうはずがありません。阿弥陀さまのやるせない心が伝わってきて、「ただ仏を称すべし」のお言葉がありがたく、心にひびいてくるだけです。

(鎌田宗雲)

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西本願寺・大谷本廟参拝と京都の春爛漫さくら見物へ行って参りました。

2012年4月10日、11日と親鸞聖人のお徳を偲び、西本願寺・大谷本廟納骨参拝と京都サクラの名所など、春爛漫の京都を訪ねてまいりました。 [nggallery id=6]

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4月8日、 霊鷲山にて花まつりが開催されました。

霊鷲山山頂では霊鷲山友の会や万歩倶楽部の方などたくさんのギャラリーの中、粛々と執り行われました。 [nggallery id=5]

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キッズサンガ しおりとカレンダーの紹介

キッズサンガ しおりのご紹介

かわいいしおりが出来ました!

しおり ―おもて―

しおり ―うら―

 

 

キッズサンガ カレンダーのご紹介

カードタイプのカレンダーです。

カレンダー ―おもて―

カレンダー ―うら―

 

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4/14 連続公開講座のご案内

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4/8 花まつりが開催されます。

2012年4月8日、下関は霊鷲山(りょうじゅせん)にて花まつりが開催されます。

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2012年4月 本願力にあいぬればむなしくすぐるひとぞなき 法語カレンダー解説

浄土真宗のお救い

 

今月の法語のご和讃は、

 

本願力にあひぬれば
むなしくすぐるひとぞなき
功徳の宝海(ほうかい)みちみちて
煩悩の濁水(じょくすい)へだてなし

(『註釈版聖典』五八〇頁)

 

阿弥陀さまのお救いのはたらきのなかで生きている人で、この世を空しく過ごす人はいません。それは阿弥陀さまの功徳がその人に海のように満ち溢れるようになるからです。汚れた水のような煩悩も、そのはたらきを遮ることはないのです。

 

という、『高僧和讃』「天親讃(てんじんさん)」のなかの一首の前半部で、『浄土論』「不虚作住持功徳(ふこさじゅうじくどく)」の、

 

仏の本願力(ほんがんりき)を観ずるに、遇ひて空しく過ぐるものなし。
よくすみやかに功徳の大宝海(だいほうかい)を満足せしむ。

(『註釈版聖典(七祖篇)』三一頁)

 

という偈文がもとです。この偈文は、お名号を聞信(もんしん)すると、即時に阿弥陀さまの功徳が私の心に満ちて、必ず往生浄土できるという趣旨です。この法語は、「少しでも早く阿弥陀さまの願いとはたらきに気づいてください。<自分のいのちのゆくえ>を知った人の人生は、安らかで豊かな人生ですよ」という、親鸞聖人の思し召しです。
このお心をたずねてみましょう。

 

阿弥陀さまは私を救うとおっしゃいますが、どのように私を救っていてくださっているのでしょうか。そのことについて、『往生礼讃』には「光明名号摂化十方」(光明・名号をもつて十方を摂化(せっけ)したまふ 『註釈版聖典(七祖篇)六五九頁』)と示されています。

 

また、『高僧和讃』では、

 

無碍光如来(むげこうにょらい)の名号(みょうごう)と
かの光明智相(こうみょうちそう)とは
無明長夜(むみょうじょうや)の闇(あん)を破(は)し
衆生の志願をみてたまふ

(『註釈版聖典』五八六頁)

 

阿弥陀さまのお救いのはたらきであるお名号と、その智慧の光明は、無明である私の迷いの闇を破っています。ありがたいことに、阿弥陀さまのお名号は、すべての衆生の願いを満たしてくださっているのです。

 

と、阿弥陀さまは光明で衆生を摂取不捨し、お名号で衆生を招喚(しょうかん)していると、親鸞聖人がお示しになっています。

 

浄土真宗のお救いは光明と名号にあります。阿弥陀さまの衆生救済のはたらきを本願力といいますが、これはお慈悲・仏力・名号ともいいます。風が吹いても、私の体にあたらないと、風の涼しさを感じることができません。阿弥陀さまのはたらきがなければ、私からお念仏がでるはずがありません。私からお念仏がでるのは、阿弥陀さまのはたらきがあるからです。私には「本願の名号をもつて十方(じっぽう)の衆生にあたへたまふ」(『一念多念文意』『註釈版聖典』六七八頁)と、お名号によるお救いがかかっているのです。「本願力にあひぬれば」の「あひ(あい)」は「遇う」で、これはまったく予想していない出会いをあらわしている字です。本願力に遇えば、「本願力を信ずる」(『同』六九一頁)身となり、「むなしくすぐるひとなしといふ」(『同』)人生になってきます。これは「信心あらんひと、むなしく生死(しょうじ)にとどまることなしとなり」(『同』)と、お浄土に向かって生きるようになるという意味です。

 

 

人生の大事

 

人生の大事は念仏に遇うことであると教えているのが浄土教です。それは、

 

一切の群生海(ぐんじょうかい)、無始(むし)よりこのかた乃至(ないし)今日今時(こんにちこんじ)に至るまで、穢悪汚染(えあくわぜん)にして清浄(しょうじょう)の心(しん)なし、虚仮諂偽(こけてんぎ)にして真実の心(しん)なし。

(『教行信証』「信文類」『註釈版聖典』二三一頁)

 

という存在の私だからです。「ここをもつて如来、一切苦悩(いっさいくのう)の衆生海(しゅじょうかい)を非憫(ひびん)して」(『同』)、と、苦悩の衆生を救いたいと願いをたてて、お名号を成就したのが阿弥陀さまです。すべての人を「必ず救う」と誓い願った阿弥陀さまが、その願い通りに衆生を救済しているはたらきがお名号です。『教行信証』「行文類」に、『往生論註』の、

 

願(がん)もつて力(りき)を成(じょう)ず、力もつて願に就く。願徒然(とねん)ならず、力虚設(こせつ)ならず。力・願あひ符(かな)ひて畢竟(ひっきょう)じて差(たが)はざるがゆゑに「成就」といふ。

(『註釈版聖典(七祖篇)』一三一頁)

 

というご文を引用して、お念仏は阿弥陀さまの願いと救済力がぴたっとひとつになって、私を救ってくださっていると示されています。『教行信証』「行文類」一乗海釈の最後で、「まことに奉持(ぶじ)すべし、ことに頂戴すべきなり」(『註釈版聖典』二〇二頁)といわれるように、招喚の勅命を「疑心あることなし」(「信文類」『同』二五一頁)にいただくばかりです。

 

曇鸞大師(どんらんだいし)は、『往生論註』で三依(さんえ)(何所依・何故依・云何依 『浄土真宗聖典(七祖篇)―原典版―』六三頁、参照)から、阿弥陀さまはまちがいない仏と証明をして、阿弥陀さまが真実だから帰依をするといわれています。阿弥陀さまの真実心を不顛倒(ふてんどう)といい、分けへだてがない仏さまだと説明をして敬っておられます。

 

 

煩悩を転じる

 

そこで、「一乗海釈」の二教対(にきょうたい)・二機対(にきたい)をみてみましょう。親鸞聖人は、念仏行は易く諸行は難しいと、四十七通りに念仏と諸行を比較しておられます。要は、阿弥陀さまのお慈悲は、強くて・深くて・広くて・速くて・優れて、これ以上の仏さまはいないといわれています。私を救ってくださる仏さまは阿弥陀さま以外にはいないと結論をされました。

 

ここで注意したいのは、阿弥陀さまのお救いを海に喩えておられるところです。お名号を海に喩えられているのは、海には同一鹹味(どういつかんみ)の潮に変えなす力があるからです。

そこで、お名号は有漏の身を仏に転じる力があると、海の転成(てんじょう)の力を阿弥陀さまの本願力に転用されているのです。それを「如衆水入海一味(にょしゅしいにゅうかいいちみ)」(「正信偈」『日常勤行聖典』一二頁)(衆水(しゅすい)海に入りて一味なるがごとし『註釈版聖典』二〇三頁)とか、

 

弥陀(みだ)智願(ちがん)の広海(こうかい)に
凡夫(ぼんぶ)善悪の心水(しんすい)も
帰入(きにゅう)しぬればすなはちに
大非心(だいひしん)とぞ転ずなる

(『正像末和讃』『註釈版聖典』六〇七頁)

 

阿弥陀さまの広大なお慈悲には、転成の力があります。衆生救済のはたらきである本願力に、善悪を沙汰する凡夫が帰依すれば、ちょうど海に川の水が流れ込み溶け合ってひとつの塩辛い水になるように、凡夫のさまざまな心は、阿弥陀さまの大慈悲へと変わってしまうのです。

 

といっておられます。

 

また、善導大師は、

 

浄土対面してあひ忤(たが)はず 無量楽(むりょうらく)
弥陀の摂(しょう)と不摂(ふしょう)とを論ずることなかれ 願往生(がんおうじょう)
意(こころ)専心にして回(え)すると回せざるとにあり 無量楽

(『般舟讃(はんじゅさん)』『註釈版聖典(七祖篇)』七三三頁)

 

といっておられます。この文意は、<私は阿弥陀さまに救ってもらえるのだろうか、それとも救われないのだろうか>と、心配したり悩む必要はない。それよりも、私がお浄土にむかって生きているかどうか、今の生き方が大切なことだ、というお示しです。親鸞聖人はこのご文を大事にされています。『教行信証』の「信文類」と「化身土文類」にこの文を引用され、その心を『高僧和讃』に、

 

金剛堅固(こんごうけんご)の信心の
さだまるときをまちえてぞ
弥陀の心光摂護(しんこうしょうご)して
ながく生死(しょうじ)をへだてける

(『註釈版聖典』五九一頁)

 

阿弥陀さまのお慈悲を領受すれば、どのような状況になっても、不退転の信心に定まります。そうなれば、阿弥陀さまの慈悲の光明に護り摂め取られた身になりますから、いつまでも生死の迷いから離れることができるのです。

 

と説かれています。

 

さらに善導大師は、「恵みの雨をえても朽ちた林には芽がでてこない。また大きな石の中までは潤うことがない」(『観経疏(かんぎょうしょ)』「玄義分(げんぎぶん)」取意)と誡めておられます。

ここでは、善導大師が、朽ちた木やかたい石に、花が咲いたり水が潤うことはありえませんが、私たちには回心(えしん)があるので心の向きを変えなさい、とすすめておられるのです。そこで、『教行信証』「行文類」は、『観仏三味経』の伊蘭(いらん)と栴檀(せんだん)の喩えを引用し、念仏の功徳の広大さをお示しになりました。それは、悪臭がする伊蘭の林に栴檀が生えてくると、伊蘭の悪臭は消えてはいないが、そのまま栴檀の芳ばしい香りにつつまれてくる、という喩えです。

 

蓮如上人は、これを、

 

一念の信力にて往生定まるときは、罪はさはりともならず、されば無き分なり。
命の娑婆にあらんかぎりは、罪は尽きざるなり。

(『蓮如上人御一代記聞書』第三十五条 『註釈版聖典』一二四四頁)

 

といわれています。煩悩具足の身であるが、お名号の功徳によって<無き分なり>の世界に転じられ、生きるようになるといわれています。海が衆水を同一鹹味(どういつかんみ)の潮に変えなすように、栴檀が伊蘭の悪臭を芳ばしい香りに変えなすように、煩悩だらけの私を仏になる身に転じてくださるのが、本願力の大いなるはたらきなのです。

 

 

お慈悲のどまんなか

 

阿弥陀さまのお救いを聞くか聞かないかに、私の救いの人生がかかっています。このことに少しでも早く気づいて、阿弥陀さまに近づく人生にきりかえるべきです。私を導いてくださるのは、教えであり、善知識です。

 

よき人の仰せにききてみ名を呼べば
喚ばはせたまふみ声きこえぬ

(『仏と人』三五九頁)

 

と池山栄吉先生が詠んでいます。先生は、講演会で「なんぢ一心正念(いっしんしょうねん)にしてただちに来(きた)れ。われよくなんぢを護らん」(『観経疏』「散善義」『註釈版聖典(七祖篇)』四六七頁)という、善導大師の「二河白道(にがびゃくどう)の譬(たとえ)」の言葉をよく引用されていたそうです。

そして、池山先生は、次のように申されていました。

 

念仏の心意気は、「一心正念直来(いっしんしょうねんじきらい)」の言葉のなかによく現れている。これを流浪の旅を続ける一人子の帰りを、ふるさとに待ちわびる母の心に喩えるなら、「直来」をスグキテオクレヨと訓じ、「一心正念」にオネガイダカラと仮名をふってそう見当はずれではあるまい。「オネガイダカラ、スグキテオクレヨ」。この哀情が、相手の心にしみいり感銘した極促が、やがてそのまま内からしみでて帰心ともなり、念仏もうさんとおもいたつ心ともなるのである。

 

煩悩をのけた念仏は便所のない別荘だ。どんな立派な座敷でも便所がなくちゃ住めない。煩悩めあての念仏でこそ、われわれの安住所である。

 

このように言われることが先生の口癖で、このお話からたくさんの人を導かれたと恩師から聞いたことがあります。

 

音信不通の母を思い出した時に、思わず「お母ちゃん」とつぶやいたことがありませんか。親を忘れて暮らす私ですが、親はいつも私を心配しつづけています。阿弥陀さまを忘れて日暮しをしていても、阿弥陀さまは私をいつも心配しています。これを知れば、「ナンマンダブ ナンマンダブ」とお念仏がこぼれてきます。聞けば聞くほど、「どうか救われてくれよ」とたのまれている私だと知らされるのです。知れば知るほどもったいないことです。

 

浅原才市さんが、

 

うれしいか ありがたいか
ありがたいときゃ ありがたい
なっともないときゃ なっともない
才市 なっともないときゃ どぎゃぁすりゃ
どがあもしようがないよ
なむあみだぶつと
どんぐり へんぐり しているよ

(梯實圓著『妙好人のことば』一六五頁)

 

と詠っています。私はこの心情に共感をおぼえます。ありがたい、ありがたくないというのは、私の心の問題でしょう。お念仏には、阿弥陀さまのお慈悲のありったけがこもっています。阿弥陀さまのお心すべてを疑いなく、「ありがとうございます。ナンマンダブツ」と、お念仏している才市さんです。お念仏は法体全顕(ほったいぜんけん)の称名なので、お念仏は阿弥陀さまが私に回向してくださるお慈悲そのものといえます。阿弥陀さまのてもとでは名号といい、名号が私の心にとどけば信心といい、それが私の口からでれば念仏といいます。言い方はちがっても、名号・信心・念仏は同一のものがらです。

 

才市さんは、教えを覚えて、それを理解をしてから、お念仏をしているのではありません。才市さんは阿弥陀さまの御心にとびこみ、安心しきってお念仏しているのですね。まるでお母さんが両手で迎えているその姿に、幼子が飛び込んでいっているようです。なんのくったくもなく、お母さんのふところで生きているような才市さんです。阿弥陀さまとともに生きている喜びだけが伝わってきます。お慈悲のどまんなかで、うれしそうにお念仏している才市さんの姿があります。

 

 

お念仏の功徳

 

親鸞聖人は『教行信証』「行文類」で、「大行(だいぎょう)とはすなはち無碍光如来(むげこうにょらい)のみ名を称するなり」(『註釈版聖典』一四一頁)と、私が称えている念仏がどういうものかを明らかにしておられます。お念仏が私の往生行となるのは、お念仏に阿弥陀さまのすべての徳がそなわっているからです。これを、「化身土文類」には「この嘉名(かみょう)は万善円備(まんぜんえんび)せり」(『註釈版聖典』三九九頁)とか、「正信偈」に「本願名号正定業(ほんがんみょうごうしょうじょうごう)」(本願の名号は正定の業なり『同』二〇三頁)とお示しです。お念仏には仏徳のすべてがこもっているので、お念仏する人はお浄土に往生ができ、阿弥陀さまと同じ徳をもつ仏さまになれるのです。そうだから、才市さんはいつもうれしいのですね。

 

本願を信じ念仏するしか仏になりえない私であることを、知らされるばかりです。

 

(鎌田宗雲)

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