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下関組寺院法座案内 2013年1月
カテゴリー: 下関組寺院法座案内
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2013年 表紙 念仏とは自己を発見することである 法語カレンダー解説
智慧と慈悲
二〇一三(平成二十五)年の法語カレンダーは、「智慧(ちえ)と慈悲」をテーマとしています。
ブッダ・釈尊は真実に目覚められて、最初の説法で「四聖諦(ししょうたい)」(あるいは「四諦八正道(したいはっしょうどう)」)を説かれたと言われます。その「四聖諦」の第一が「この世は苦である」という真実であり、第二が「その苦の原因は(自己中心の)愛欲、すなわち煩悩である」という真実である、と説かれました。
『歎異抄』にも、私どもの姿を「煩悩具足の凡夫」と示される親鸞聖人のお言葉が述べられていますが、そのようなご教示によって、私たちは自らをたよりとして自己中心的な振る舞いしかできず、覚りを目指す実践がまったくかなわないものであると、つくづく知らされます。実際には、私たちは、何かに失敗した時とか、大きな災害に出遭った時などには、自分の愚かさや人間の無力さをいくらか感じますが、自分中心の思いを持ち、自分中心の眼(まなこ)でものを見ること以外にない存在で、なかなか自己をまともに見つめることができないものであります。
釈尊のみ教えに出遇(あ)って、やっと少し自分の姿に気づかされ、さらに、真実の覚りそのものである如来の、あらゆるものを平等にご覧になる真実の智慧と、すべてにへだてなくはたらく大慈悲に照らされてこそ、愚かなる「私」の姿が見えてまいります。
それが、煩悩具足の凡夫であると知らされるということになります。
この法語カレンダーには、如来の智慧と慈悲に照らされて、自己を見つめ、自己の愚かさを知らされるとともに、大悲にいだかれたよろこびをかみしめる。そのようなお言葉を、先達のご著述などから選んでいます。ともに味わいつつ、日々を過ごしたく思います。
自己の発見
表紙に、金子大榮(かねこだいえい)師のお言葉をいただきました。
念仏とは 自己を 発見することである
(金子大榮著『歎異抄』四六頁)
「念仏」とは、浄土教では私どもの口元で「南無阿弥陀仏」と称えさせていただく「称名念仏」のことですが、本来、真実の覚りそのものである如来を心に念ずることが「念仏」であり、仏を念ずることによって覚りへの道を歩む、すなわち仏道を歩むことになる、ということになります。しかし、親鸞聖人は、「この私」が迷いのなかの凡夫であることを厳しく見つめられ、真実の覚りである阿弥陀さまの本願によってこそ、救われる道が開かれているということを説かれました。
阿弥陀さまが「あらゆるものを救わずにはおかぬ」と願われ、「南無阿弥陀仏」の名号(みょうごう)を完成され、如来の大智と大悲を円かにそなえた救いのはたらきそのものである名号となって、「この私」に喚びかけてくださっている。その本願を信じ、名号をいただき、称名念仏するところに、救われていく道が開かれることになります。
親鸞聖人は、称名念仏の道を歩むについて、その根底に、如来の智慧と慈悲のおはたらきにいだかれて、そのはたらきにたよりきる心、「信心」があることが大事である、と示されました。師である法然聖人は、「ただ念仏して、弥陀にたすけられまゐらすべし」(『歎異抄』第二条 『註釈版聖典』八三二頁)とおっしゃられたと言われているように、唯円房(ゆいえんぼう)がまとめられた『歎異抄』にも、しばしば「念仏する」ことが説き示してあります。
『歎異抄』には「念仏」が三十九回使われていて、「念仏によって往生する」と説かれているのです。すなわち、念仏するところに、如来の本願を信じ、如来の智慧と慈悲のはたらきをいただく。そしてそのことは、「この私」の煩悩具足の姿を知らされつつ、如来の大いなるはたらきにいだかれる世界が開かれることであると、うかがわれるのであります。
金子大榮師が、念仏とは「自己を発見すること」であると語られるところには、念仏するなかに、阿弥陀如来の本願のはたらきをいただき、「この私」をあるがままに見つめさせていただく世界が広がっていることが示されているものと、うかがうことができるでしょう。
お念仏とともに生きる、お念仏のなかに生活するということは、お念仏するなかで、お念仏を通して、仏・如来に対面し、自己をあるがままに見つめる、そしてお念仏のなかに如来の大慈悲をよろこばせていただく、ということになるでしょう。
念仏のなかの生活
これは、阪神大震災の一年余り前のことですが、浄土真宗本願寺派の総長を長く務められた豊原大潤(だいじゅん)師が語ってくださった話です。
ある祝賀の会合で話されたのです。お祝いの言葉を述べられた後に―、
「私は、耳が遠くなり、自宅にいても家族の話がろくに聞こえず、まったく孤独な毎日です。そのようななかでも、ひとりでにお念仏を称えている、お念仏申すばかりの生活です。
ありかたいことに、自分か称えるお念仏だけは聞こえるのです、耳元でお念仏が響いてくださる。これが尊い、ありかたいことです。私か称えさせていただいているお念仏をいただきながら、お念仏のなかに生活させていただいています」
と加えられて、挨拶を結ばれました。
南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏 なまんだ―ぶ…… とお称えする
このお念仏するなかに、「愚かなるこの私」がお念仏のなかに生かされている、お念仏とともに歩む身となっているということを、深いよろこびのなかで感じとり、ご自身を見つめておられる、そういうお姿を、豊原大潤師の挨拶のなかに拝見させていただいたのです。
金子師のお言葉のとおり、このような「自己発見」の場がお念仏なのだ、といただくことができます。
(佐々木恵精)
カテゴリー: 法語カレンダー解説
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御正忌報恩講法要及び仏教壮年会 1月例会のご案内
一月のご案内
御正忌報恩講法要
一月十三日 午前十時 午後一時半
十四日 午前十時 午後一時半
十五日 午前十時 午後一時半 午後六時
十六日 午前十時 午後一時半
講師 宇部市大字東万倉 明山寺住職
山名 学慈 師
おとき 十六日 正午
(十三日より十五日間、昼食を用意しています)
仏教壮年会 一月例会
一月十五日(火)午後六時より
講師 宇部市大字東万倉 明山寺住職
山名 学慈 師
暖かい支度をしてお参りください
2012年12月 いよいよ 大悲大願はたのもしく 往生は 決定と存知候え 法語カレンダー解説
親鸞聖人の説諭
今月の法語は、『歎異抄』のなかに記された親鸞聖人のお言葉より頂戴しています。
『歎異抄』は、親鸞聖人のお弟子である唯円房(ゆいえんぼう)が書かれたものとするのが一般的な説ですので、「いよいよ大悲大願(だいひだいがん)はたのもしく、往生は決定(けつじょう)と存じ候へ」(第九条『註釈版聖典』八三七頁)と説諭された相手ば唯円房であろうと思われます。『歎異抄(現代語版)』では、
大いなる慈悲の心でおこされた本願はますますたのもしく、往生は間違いないと思います。
(一六頁)
と意訳されています。
いったい、唯円房は聖人にどのようなことを言われたのでしょうか。同じ意訳を読んでみましょう。
念仏しておりましても、おどりあがるような喜びの心がそれほど湧いてきませんし、また少しでもはやく浄土に往生したいという心もおこってこないのは、どのように考えたらよいのでしょうか
(『同』一四頁)
この問いに対し、親鸞聖人はお答えなさいます。
おどりあがるほど大喜びするはずのことが喜べないから、ますます往生は間違いないと思うのです。喜ぶはずの心が抑えられて喜べないのは、煩悩のしわざなのです。そうしたわたしどもであることを、阿弥陀仏ははじめから知っておられて、あらゆる煩悩を身にそなえた凡夫であると仰せになっているのですから、本願はこのようなわたしどものために、大いなる慈悲の心をおこされたのだなあと気づかされ、ますますたのもしく思われるのです。
(『同』一五頁)
このように、浄土に往生することが決まっているのに喜べないのは煩悩のせいであると、聖人はおっしゃいます。
慶喜と歓喜
そもそも、親鸞聖人ほど喜びについてお考えだった方はあまりおられないように思います。時に、喜びを「慶喜」と「歓喜」とに分けておられます。
まず、『唯信鈔文意』に、
信心をうるを慶喜(きょうき)といふなり。(中略)慶はよろこぶといふ、信心をえてのちによろこぶなり。喜はこころのうちによろこぶこころたえずしてつねなるをいふ。うべきことをえてのちに、身にもこころにもよろこぶこころなり。
(『註釈版聖典』七二一頁)
と「慶喜」をご説明になり、そして、『一念多念文意』には、
「歓喜」(かんぎ)といふは、「歓」(かん)は身をよろこばしむるなり、「喜」(き)はこころによろこばしむるなり。うべきことをえてんずとかねてさきよりよろこぶこころなり。
(『同』六七八頁)
と「歓喜」をご説明されます。
整理してみますと、「慶喜」は必ず往生できる身に定まったことを喜ぶのであり、「歓喜」は必ず往生できることを待っている喜びであります。
卑近な例で申し訳ないのですが、たとえば、私か学校や会社に入るために受験をしたとします。それで念願の合格をしますと、私の心には、入学や入社できることに対する喜びが湧くことでしょう。先の「慶喜」は、入られることが決まった喜びであります。そして、「歓喜」は、入って学生や社員になることを待っている喜びであります。
さて、このような喜びの説明は卑近な例ですからイメージが湧きますが、浄土の仏になるということは凡夫の身ではイメージが湧きません。なぜかといえば、学生も社員も私たちの世界で目の当たりにすることができるからです。なりたいと思っている人がそばにいるのです。なれると決まったら喜びもひとしおでありましょう。また、はやくなりたいと待っている喜びもありましょう。しかし、仏になることは…、どうもイメージが湧きません。それは自身が煩悩のある身ですから、煩悩のない身をイメージすることができないのです。
清浄の身と煩悩の身
煩悩のない身とはどのような身なのでしょうか。もちろん、煩悩がないのですから智慧の身ということができます。
しかし、智慧の身といわれても智慧のない身にはわかるはずもありません。そこで、親鸞聖人が他にどのように示してくださったのかを考えてみたいと思います。
このたびの親鸞聖人七百五十回大遠忌法要のために、「宗祖讃仰作法」という作法が制定されました。この作法は、親鸞聖人の和讃を十八首用いて作られています。その最後、回向文に相当する箇所の和讃に、次の一首が選ばれています。
南無阿弥陀仏をとけるには
衆善海水(しゅぜんかいすい)のごとくなり
かの清浄(しょうじょう)の善身(ぜんみ)にえたり
ひとしく衆生(しゅじょう)に回向(えこう)せん(『註釈版聖典』五九九頁)
南無阿弥陀仏のみ教えが説かれるところには、すべての善が海水のように満ちています。念仏の清浄の善を身に得たならば、同じようにその功徳を他の衆生にも施しましょう。
『高僧和讃』の結びの和讃ですが、ここに仏になるとは清浄の善を身に得ることであると示されています。考えてみますと、阿弥陀さまには多くの別名があります。そのなかで清浄と付くお名前の多いことは、七高僧のお一人、曇鸞大師の『讃阿弥陀仏偈』にも「清浄光(しょうじょうこう)・清浄大摂受(しょうじょうだいしょうじゅ)・清浄楽(しょうじょうがく)・清浄薫(しょうじょうくん)・清浄人(しょうじょうにん)」(『浄土和讃』『註釈版聖典』五五六頁、参照)と多く挙げられることから、知ることができます。
煩悩のない身とは、阿弥陀さま同様の清浄な身なのであります。ただし、私たち凡夫の世界で清浄というと、健康に害のない清潔なことの意味で用いられることが多いのですが、そのような意味ではありません。具体的には自己中心的な欲望がまったくないことであります。
昨年、日本は未曾有の災害に襲われました。東日本大震災であります。多くの方がたがお亡くなりになられ、また、避難を余儀なくさせられました。復興にどれほどの時間と経費が必要になるのかと世界中の人びとが心配をし、日本各地はもちろんのこと、外国からも多くの義損金が寄せられました。本当にありかたく尊いことであります。
しかし、その寄付をなさった方すべてが、自身の立場を忘れてまったくの無私の心から寄付をされていた、と言い切れるでしょうか。「誰それがいくら寄付をしたが、足りないのではないか」とか、「寄付の仕方が悪いのではないのか」とか、善意からの行為にもかかわらず、批判や意見が寄せられることがありました。
それらの批判的な報道に接する時、私も内心複雑な思いをいだきました。なぜならば、わずかばかりしか寄付をしていない私が、どのように使われるのだろうか、本当に被災者に届くのであろうか、と余計な心配をしていました。
いや何よりも、自分の生活に影響の及ばない範囲での浅ましい心での寄付でありました。誠にお恥ずかしいことです。煩悩具足の私のすることであります。
この自己中心的な欲望に支配される私のような心を、仏教では貪欲といい、瞋恚・愚痴とともに、三毒の煩悩の一つに数えます。この貪欲があるかぎり、人間には苦しみがついてまわるのです。そこで、阿弥陀さまはこの浅ましい心を取り除き幸せな心にさせてやろうと、凡夫を浄土で仏にしてくださるのです。その仏の身を清浄な身と申すのです。
大悲大願の心
汚穢不浄(おえふじょう)な身を清浄な身にさせようというのが、阿弥陀さまの本願のお心であります。これこそが大きなお慈悲の心であります。この心より「南無阿弥陀仏」の名号が私にはたらいてくださるのであります。
親鸞聖人は『弥陀如来名号徳』に、このはたらきを次のようにお示しくださいます。
つぎに清浄光(しょうじょうこう)と申すは、法蔵菩薩(ほうぞうぼさつ)、貪欲(とんよく)のこころなくして得たまへるひかりなり。貪欲といふに二つあり。一つには婬貪(いんとん)、二つには財貪(ざいとん)なり。この二つの貪欲のこころなくして得たまへるひかりなり。よろづの有情(うじょう)の汚機不浄を除かんための御ひかりなり。婬欲・財欲の罪を除きはらはんがためなり。このゆゑに清浄光と申すなり。
(『註釈版聖典』七二八~七二九頁)
自己中心的な欲望を除くことのできない私であります。また、その欲望を本心から否定もできない私であります。そのような愚かな、浅ましい私をかねてご存知であるからこそ本願をお建てになったのが、阿弥陀さまです。法語に、「いよいよ大悲大願はたのもしく、往生は決定と存じ候へ」と親鸞聖人のお言葉が掲げられていますが、ますますありかたく、このお言葉を頂戴させていただくようなことであります。
まことに頼もしく、ありかたい聖人の仰せでありました。
(北塔光昇)
あとがき
親鸞聖人ご誕生八百年・立教開宗七百五十年のご法要を迎えた一九七三(昭和四十八)年に、真宗教団連合の伝道活動の一つとして「法語カレンダー」は誕生しました。門信徒の方がたが浄土真宗のご法義をよろこび、お念仏を申す日々を送っていただく縁となるようにという願いのもとに、ご住職方をはじめ各寺院のみなさまに頒布普及のご尽力をいただいたお陰で、現在では国内で発行されるカレンダーの代表的な位置を占めるようになりました。その結果、門信徒の方がたの生活の糧となる「こころのカレンダー」として、ご愛用いただいております。
それとともに、法語カレンダーの法語のこころを詳しく知りたい、法語について深く味わう手引き書が欲しいという、ご要望をたくさんお寄せいただきました。本願寺出版社ではそのご要望にお応えして、一九八〇(昭和五十五)年版から、このカレンダーの法語法話集『月々のことば』を刊行し、年々ご好評をいただいております。今回で第三十三集をかぞえることになりました。
真宗教団連合各派において、二〇一一(平成二十三)~二〇一二(平成二十四)年と親鸞聖人七百五十回大遠忌を迎えますことから、聖人のいただかれた聖典のお言葉を中心に法語が取りあげられることになり、特に二〇一二(平成二十四)年には、親鸞聖人が書かれた「正信偈」や和語のご聖教を中心に、ご門徒にとっても身近な法語が選定されました。この法語をテーマにして、四人の方に法話を分担執筆していただき、本書を編集いたしました。繰り返し読んでいただき、み教えを味わっていただく法味愛楽の書としてお届けいたします。
本書を縁として、カレンダーの法語を味わい、ご家族や周りの方がたにお念仏のよろこびを伝える機縁としていただき、また、研修会などのテキストとしても幅広くご活用ください。
二〇一一 (平成二十三)年八月
本願寺出版社
カテゴリー: 法語カレンダー解説
2012年12月 いよいよ 大悲大願はたのもしく 往生は 決定と存知候え 法語カレンダー解説 はコメントを受け付けていません
初参式のススメ
この子が生まれて思うことがあります。
親として、ただ幸せになってほしいだけではダメだと。
幸せなときだけが人生じゃない。
つらいとき、苦しいときだってある。
思い通りにはならないことが多い人生を
しっかりと歩んでいける人になってほしいと。
仏教のおしえの中にはそれがあります。
だから、ここから始めます。
赤ちゃんが生まれて、初めてお寺にお参りする大切な儀式を初参式といいます。
初参式は、親子・家族そろっての最初の仏縁。
いのちの誕生を仏さまに報告します。
新しいいのちの歩みを、初参式から始めましょう。
|願いの中に育まれて
新しいいのち。それはご両親だけでなく、ご縁ある皆さんの願いを受けて生まれてきました。人としていのち恵まれることは、とてつもなく難しいことで、この上なく有ること難し・・・つまり有り難いことなのです。これから歩むことになる人生、どんなことに出会うのでしょうか。たとえどんなことがあっても「いのち恵まれてよかったね」と言い合える親子でありたいですね。
|ののさまが見とってよっ!
「ののさま(※子どもに仏さまのことをこう説明します)が見とってよっ!」幼い頃、そう諭されたことがあります。今になってみれば、そんな言葉が「自分は決して一人で生きているんじゃない」という思いや「おかげさま」と言える心を育ててくれたんだと思います。やさしく厳しく、そしてあたたかい。そんな見守り育てる目や心がいつもあると伝えることも大切です。
|いのちの計は仏法にあり
「一年の計は元旦にあり」という言葉があります。何事も最初にきちんとしてた展望をもつことが大切、という意味です。いのちの誕生は、この世に生を受けたうのちの船出。船旅のように人生の初めにも確かな展望やよりどころが大切といえます。仏教はその展望となるおしえ、真実のよりどころとなってくれるもの。まさに「いのちの計は仏法にあり」といえるかもしれません。
|親と子どもは同い年
「子育て」と聞くと「親が子どもを育てていく」ことばかり思い浮かべてしまいがち。しかし親子の歩みは今始まったばかりなのです。「あなたがこの子の親になったのはこの子を授かった日です。この子が1歳ならあなたも1歳、この子が3歳ならあなたも3歳。」とは、あるご住職のお言葉。毎年迎える我が子の誕生日は、親としてのあなたのもう一つの誕生日。親子で一緒に成長です。
|仏さまの願いを聞く
親はいつでも我が子の幸せを一番に願うものです。しかしその願いは煩悩を抱えた人間の願いである以上、時には子どもの負担になることや、人を傷つけてしまうこともあるかもしれません。お寺で聞くのは仏さまの願いの話。それは私たちに等しくかけられた、生きる意味を教えてくれる願いです。時には親子で立ち止まり、仏さまの話に耳を傾けてみてはいかがでしょうか。
初参式の流れ

①念珠・式章授与

②おつとめと法話

③お焼香

④記念撮影など
下関組実践運動研修協議会及び11月仏教壮年会のご案内
十一月のご案内
「下関組実践運動研修協議会」
組巡回―移動教務所
十一月十三日火曜日
午後一時半より
日程 ①開会式
②協議会 報告事項
組、寺院が抱える問題点
教区、本山への要望
その他
③閉会式
会所 細江町 光明寺
出向 山口教区教務所長 随行員
参加対象 寺族 門信徒 その他
仏教壮年会十一月例会
十一月十七日(土)午後一時半より
講 師 宇部市大字須恵東 蓮光寺
伊東 順浩 師
二○一二年十一月一日
下関市細江町一–七–十
光 明 寺
カテゴリー: お知らせ
下関組実践運動研修協議会及び11月仏教壮年会のご案内 はコメントを受け付けていません
2012年11月 弥陀の誓願は 無明長夜の おおきなる ともしびなり 法語カレンダー解説
今月の法語は、親鸞聖人が法然聖人のもとで学ばれた際、兄弟子として他力念仏を勧めてくださった、聖覚法印(せいかくほういん)の残された言葉によるものです。親鸞聖人は、聖覚法印の書かれたものを非常に大切にされ、法印の『唯信鈔』に註釈をされました。『唯信鈔文意』がそれですが、今のお言葉は『唯信鈔文意』ではなく、『尊号真像銘文』にあるものです。この言葉を用いて和讃も作られています。
無明長夜(むみょうじょうや)の灯炬(とうこ)なり
智眼(ちげん)くらしとかなしむな
生死大海(しょうじたいかい)の船筏(せんばつ)なり
罪障(ざいしょう)おもしとなげかざれ(『註釈版聖典』六〇六頁)
本願は無明の良い夜を照らし出寸灯ですから、私たちは、智慧がないと悲しむことはいりません。本願は迷いの大海を乗り切る救いの船ですから、罪が重いと嘆かなくてもよいのです。
親鸞聖人は『正像末和讃』にこのように詠われますが、聖人ご真筆のこの和讃の「灯炬」の文字の左側には、
常のともしびを灯といふ。大きなるともしびを炬といふ
(『註釈版聖典』六〇七頁)
と説明があります。「ともしび」とは、灯された火ということです。誰かが点火しなければ、けっしてありえない明かりのことです。
闇を歩く
数年前のことです。珍しい経験をしました。
たまたま、九州・福岡市の市内を歩いていたのですが、日本に真言宗を初めて伝えられた弘法大師ゆかりのご寺院の前を通りかかったのです。東長寺といいます。
一九九二(平成四)年に完成した、釈迦如来の日本一大きな檜造りの坐像が、安置されていました。そこで、そのお釈迦さまのお像にお礼をし、すぐに帰ろうとしたとゝころ、坐像前で参拝者のお世話をなさっていた女性が、「大仏さまの下には地獄・極楽巡りがありますから、ぜひご覧になってください」と、私に勧めるのです。せっかく勧められるのですから無視もできず、拝観してからと思い入り口を尋ねますと、「大仏さまに向かって左側に階段がありますから、降りて行ってください。やがて、地獄が見えてきます。その地獄を抜けると暗闇になりますが、そのまま進んで行くと出口になります」と教えてくださいました。
細い階段でしたのでゆっくり降りてまいりますと、七高僧のお一人である源信和尚の『往生要集』に基づいて作られたと思われる地獄絵図が、左側の壁面にちょうど水族館の水槽のような状態で展示されていました。地獄の亡者が獄卒(ごくそつ)からさまざまな責め苦を受けているのです。非常にリアルにできています。見ていて、けっして気持ちのよいものではありません。
それらの地獄絵図が終わると、突然通路が真っ暗闇になったのです。平らな通路から入ったのであればあまり心配もしなかったのですが、階段を降りてきたのです。また突然、階段があるかもしれません。それがどこから始まるのか…。下へ行くのか、上に行くのか…。漆黒の闇とはこのようにまったく何も見えないものかと、改めて思ったことです。とにかく前へ進むしかありません。それまでは薄暗くとも明かりがありましたので、ゆっくりではありましたが前を確かめる必要がありませんでした。しかし、まったく光がないと、足を出すにも一センチずつ一センチずつ…。壁に手を添えて危険がないかを確かめつつ、進まなければならないのです。だんだんと時間の感覚がなくなってきました。
そのように進んで、やがてどれくらい時間が経ったのでしょうか。右足の爪先が階段にぶつかりました。徐々に足を持ち上げ、階段のあることを確かめました。この階段も何段あるかわからない階段です。一段ごとに爪先で探りながら上っていきます。
段数など数える余裕もありませんでしたが、曲がりくねった階段が終わりに近づいたころでしょうか、少しずつ明るくなってまいりました。上りきったフロアーの壁面に小さな阿弥陀如来・観音菩薩・勢至菩薩の三尊像のレリーフが奉懸(ほうけん)され、その近くが出口になっていました。ほっとして外に出ましたが、出口はちょうどお釈迦さまに向かって右側下で、案内してくださった女性のそばでした。心配して腕時計を見ると、十五分も経っていないようでした。
真っ暗闇でまったく先がわからない状態では、わずかの距離を進むのに時間がかかるのはもちろんですが、不安ばかりであると時間がどれほど経ったのかもわからなくなるものだということを、初めて経験したようなことです。
闇を導く灯
私たちの人生も似たようなことではないでしょうか。行き先がわかっているような気で生きてはいますが、一寸先は闇なのです。それを真剣に考えることなく生きています。しかし、仏の教えを聞かせていただくと、まさに一寸先が闇であることに気づかされます。これでは先行き不安でたまりません。誰か信用のおける方に導いていただくか、明かりを点けていただくか、またはその両方をしていただければ、安心して
先に進むことができます。幸いにも、東長寺の地獄・極楽巡りの通路では「出口があります」という女性の言葉がありました。
人生においてはどうでしょうか。実は、仏の教えは一寸先が闇であると知らせるのが目的ではないのです。仏の教えは、一寸先が闇であるのは白身の煩悩のためであることを知らせてくださり、安楽清浄な真実の世界に導いてくださるためのものなのです。それこそが、他力念仏の教えであり、「南無阿弥陀仏」の弥陀の喚び声であり、先を照らし導いてくださる大きな灯となってくださるものなのであります。だからこそ、私たち他力信心をいただくものは、煩悩具足であろうとも、しっかりと人の世を歩んでいけるのです。
親鸞聖人は、
弥陀(みだ)の誓願(せいがん)は無明長夜(むみょうじょうや)のおほきなるともしびなり。
(『註釈版聖典』六七〇頁)
のお言葉に続けて、次に聖覚法印の銘文を説明なさいます。
「生死大海之大船筏也豊煩業障重(しょうじだいしだいせんばつやきぼんごつしょうじゅう)」といふは、弥陀(みだ)の願力(がんりき)は生死大海(しょうじだいかい)のおほきなる船・筏(いかだ)なり。極悪深重(ごくあくじんじゅう)の身なりとなげくべがらずとのたまへるなり。
(『註釈版聖典』六七〇頁)
こうして、本願他力を船に喩えられます。また、龍樹菩薩を讃嘆なさった和讃にも、
生死(しょうじ)の苦海(くかい)ほとりなし
ひさしくしづめるわれらをば
弥陀弘誓(みだぐぜい)のふねのみぞ
のせてかならずわたしける(『高僧和讃』『註釈版聖典』五七九頁)
迷いの世界には限りがなく海のようなものです。その海に長く沈んでいる私たちを、阿弥陀さまの本願の船だけが、救いあげて必ず対岸であるお浄土まで渡してくだざるのです。
と、同じ喩えをもって阿弥陀さまのお救いを示してくださいます。
本願の船
現代は、親鸞聖人の頃に比べてずいぶんと便利になりました。私は北海道に住んでいますが、家を出てから五、六時間もあれば、京都のご本山へお参りすることができます。ただし、私の場合は近くに飛行場があり、航空機を利用するから可能なのです。ところが、飛行機は一度搭乗しますと、降りたいと思っても途中で降りることができません。そして、航空法がありますから勝手なこともできません。乗ったが最期、着陸するまで機長任せです。便利ではありますが、まったく貴方任せの状態です。一応、目的地に到着するだろうとは思っていよすが、確実ではありません。ところが、「弥陀弘誓の船」は、一度乗ると「必ず渡す」と示されているのです。ここが大切なところです。一度乗ると降りたいという心も起こらず、安心の内に浄土へと往生させていただけるのです。誠にありかたいことです。
この本願力の船に乗せていただいた私たちの歩みを、本願寺第二十四代即如(そくにょ)ご門主が、「浄土真宗の教章(私の歩む道)」で次のようにお示しくださいました。
阿弥陀如来の本願力によって信心をめぐまれ、念仏を申す人生を歩み、この世の縁が尽きるとき浄土に生まれて仏となり、迷いの世に還って人々を教化(きょうけ)する。
本願の船に乗せていただくというのは、あくまでも喩えであります。阿弥陀さまの本願他力によって真実信心をめぐまれることを乗船に喩えたのです。真実信心は、教えを聞かせていただくことによって、賜るのであります。この賜った信心が往生浄土の正因であり、私はお陰さまと念仏申して力強く人生を歩ませていただくばかりなのであります。
加えて、ご門主さまは浄土で仏になることがどのようなことであるのかということを、お示しになられました。それが、「迷いの世に還って人びとを教化する」というお言葉です。迷いの世とは、この世のことです。浄土へ往生された方は、仏となるや煩悩具足の私たちのためにこの世に還って、他力念仏を伝えてくださるのであります。仏になるということは、すべての人びとを救う方になるということであります。
親鸞聖人は、法然聖人を、浄土から粟粒が散っているような小さな日本列島に他力念仏を伝えにきてくださった方であると思し召され、次の和讃をお作りになられました。
粟散片州(ぞくさんへんしゅう)に誕生(たんじょう)して
念仏宗(ねんぶつしゅう)をひろめしむ
衆生化度(しゅじょうけど)のためにとて
この土にたびたびきたらしむ(『高僧和讃』『註釈版聖典』五九八頁)
法然聖人は粟粒のようなアジアの端の目本にお生まれになり、念仏の教えを広められました。衆生を教化し救うために、何度となくこの地にこられました。
深く味わいたいと思います。
(北塔光昇)
カテゴリー: 法語カレンダー解説
2012年11月 弥陀の誓願は 無明長夜の おおきなる ともしびなり 法語カレンダー解説 はコメントを受け付けていません