仏様にあいたい
これにまさる深い願いが
人間にあるでしょうか
(『親鸞に出会うことば』より)
言葉の解説
命がけの「仏陀の道」
仏教は、インドから中国へ、シルクロードと呼ばれる道を通って伝えられました。それは、峻険な山脈と広大な砂漠を越える、想像を絶するほど過酷な旅路でした。法顕や玄奘三蔵といった求法僧たちは、命の危険を冒してまで「仏様にあいたい」、そして「その教えを正しく伝えたい」という純粋な願いに突き動かされていたのです。
教えに遇うことは、仏に遇うこと
お釈迦さまが亡くなられた後、仏教徒たちはその不在をどう乗り越えるかという課題に直面しました。そして、遺された教え(法)そのものに、ブッダの存在を見出すようになりました。私たちが経典を読み、法話を聞くことは、単に知識を得るだけでなく、時代を超えてはたらき続けるブッダの心に出遇うことなのです。
「聞法」から「念仏」へ
寺川先生は、「仏様にあいたい」という切ない心が、私たちを「聞法(もんぽう・教えを聞く)」の歩みへと向かわせると言います。そして、阿弥陀如来の「必ず救う」という願いを聞かせていただき、その願いがすでに私に届いていると気づかされた時、その喜びが「南無阿弥陀仏」というお念仏となって、自ずと口からあふれ出てくるのです。
人間の根源的な願い
この言葉は、私たちが心の奥底で本当に求めているものは何かを問いかけます。日々の生活の様々な願いの根底には、究極の安らぎ、真実の拠り所を求める「仏様にあいたい」という、いのちそのものの根源的な願いがあるのではないでしょうか。
解説全文を読む(井上 陽 師)
一、今月のことばについて
大谷大学の学長でもあった寺川俊昭(一九二八~二〇二一)先生が、親鸞聖人の語られたことばを選びとり、意訳と随想でわかりやすく解説したのが『親鸞に出会うことば』(東本願寺出版、二〇〇六)です。今月のことば「仏様にあいたい これにまさる深い願いが人間にあるでしょうか」は、この本の〈四日〉「ひたむきな聞法」と題された随想の最後のことばになります。
寺川先生は、真宗学をご専門とし東京大学で学ばれたのち、大谷大学で教鞭をとられました。先生のご専門は親鸞思想で、多くの著作をのこされています。
寺川先生の随想「ひたむきな聞法」は、NHKのシルクロードシリーズをビデオで先生がご覧になったところから始まります。紀元前五世紀、インドのガンガー(ガンジス)河中流域に開花した仏教は、紀元前三世紀のマウルヤ朝第三代アショーカ王のころにはほぼインド全域に、そして紀元前後ころには異文化世界へと流出することになります。
年間を通じて温暖で、多雨なインド世界から中国へ仏教が東漸するには、インドの玄関口にあたるガンダーラ(現パキスタンのペシャーワル盆地)からそのまま北上し、パミール山塊中のクンジュラーブ峠、カラコルム峠を越えなければなりません。天山山脈と崑崙山脈に挟まれたタクラマカン沙漠に出てからは、そこから西域北道、南道を東進し、中国の西方の玄関口である敦煌から河西回廊を経由して中原(黄河中・下流の平原)へとつながる道をたどることになります。
これらの道は一般にシルクロード(絹の道)と呼ばれるものですが、私たちにもっとも影響をおよぼしたものという観点からみると、それは「仏教の伝えられた道」(仏陀の道)であるほかありません。ここを通じて、仏教が中国へもたらされ、また中国からも求法僧たちがインドをめざしました。寺川先生がご覧になった「NHK特集シルクロード」は、厳しいといっては余りあるこのルートの自然環境が映しだされていたのでしょう。そのような厳しい環境を超え、仏教を伝えようとした仏教者たちの姿を想像すると胸を熱くされたと述べています。それは「仏様にあいたい」という願いに収斂することができます。
二、中国への仏教伝播
中国への仏教初伝は、伝説によれば後漢(二五~二二〇)の明帝(在位:五七~七五)が夢に金人(ブッダ)を見て、西方に使節を遣わせたところ、迦葉・摩騰(Kasyapa-matanga、生没年不詳)と竺法蘭(Dharmaratna、生没年不詳)が洛陽にやってきたことによるとされます。そこで最初に伝えられた仏典が『四十二章経』で、最初に建てられた寺が洛陽の白馬寺であったといいます。
史実によれば、後漢の桓帝(在位:一四六~一六八)の建和二年(一四八)洛陽に入った西域出身の安世高(生没年不詳)が二十年にわたり、小乗に属する三十四部四十巻の経典を中国語に翻訳したことに始まります。また、桓帝の終わりころに洛陽に入った支婁迦讖(Lokaksema、一四七頃~没年不詳)は、大乗に属する十四部二十七巻の経典を訳出しています。
この二人は、中国仏教史上における最初期の訳経僧であり、経典が翻訳されることによって仏教が伝わったとするなら、これが中国における仏教の初伝ということになります。ただ、この二人が訳出した経典は必ずしも読解しやすいものではなく、そのためインドの言葉で語られる仏教の思想を、中国語に翻訳するという作業にかなり苦労した痕跡がうかがえます。
翻訳というのは、決してことばの置き換えではありません。その言語には、その言語が持つ固有の意味の他、その意味を成り立たせるための文化的な基盤が存在します。インドと中国では、文化的な基盤も異なるわけですから、最初期の翻訳が上手くいかなくてもそれは当然のことなのです。むしろ、その試行錯誤に仏教への思い、それを伝えようとする熱意を感じるのです。
ところで、先の伝説の中に登場する迦葉摩騰と竺法蘭、そして史実として伝わる安世高と支婁迦讖は、いずれも中国の人物ではなく、インドもしくは西域に関係する人たちです。そのような人たちが中国の洛陽で翻訳するには、それぞれの土地からはるばる中国に来なければなりません。峻険な山を越え、からっからに乾ききった沙漠をわたり、やっとの思いで中国にやって来ました。それを思うと、翻訳に対する情熱に胸を打たれないわけがありません。
三、インドをめざした中国の求法僧
何も、常にインドや西域から人がやってきて仏教を伝えたばかりではありません。やがて中国からもインドをめざす僧侶が登場します。
歴史上、最初にインドをめざそうとしたのは、三世紀中葉、魏(二二〇~二六五)の朱士行(生没年不詳)という人物でした。彼は中国人で最初に出家した人物でした。彼は『道行般若経』を学んでいましたが、訳が不十分で理解できないところがあり、完全な原典を中国に将来するために、インドをめざそうとします。
実際、中国の僧侶がインドに行ったのは、東晋(三一七~四二〇)の法顕(三三七~四二二)が最初になります。彼が六十歳の時、インドをめざします。一行が敦煌からタクラマカン沙漠に出た時、法顕は「沙河には悪鬼、熱風多く、皆死に絶え一人も生命を全うするものはない。上には飛ぶ鳥なく、下には走獣なし。見渡す限り渡ろうとせん所を探すも何もなし。死者の枯骨を道標にするだけ」と語ったほど、その旅の厳しさを述べています。法顕たちがインドにたどり着いたのは、中国を出発して実に六年後のことでした。
七世紀、唐(六一八~九〇七)の玄奘(六〇二~六六四)もまたインドをめざします。観世音菩薩の名と『般若心経』を念じながら、幾度となく訪れる災難を乗り越え、大迂回をしてまでインドをめざそうとした玄奘の情熱に胸を打たれてしまいます。
もちろん、彼らの目的が、サンスクリット原典を得て、中国語により正しく翻訳することにあったことはいうまでもありません。ただ、もうひとつ彼らの目的をあげるとするなら、それは仏跡の巡礼と、それによるブッダの追体験でした。ブッダとの出遇いは、そのまま法との出遇いになるのです。
四、ブッダとの出遇い
私たちが法(dharma、真理、教え)に出遇うことができるのは、ブッダという存在があるからです。逆の見方をすればブッダの存在なくして、私たちは法に出遇えることはありません。その意味でブッダと法は同一の存在なのです。
ブッダとて有限のいのちであることにかわりありません。八十歳で涅槃に入り、この世から姿を消すことになります。これは仏教徒にとって一大事でした。ブッダの不在は、法の不在を意味するからです。このブッダの不在をどうするのか、古来より、仏教徒は腐心してきました。時に仏塔として、時に経典として、あるいは法の内容そのものにブッダの存在を認めてきたのです。ブッダをどう見るのかということを、仏陀観といって、身体をともなったブッダを色身といいました。この色身は、入滅と同時に失われるわけですから、理念としてのブッダ、つまり法としてのブッダの存在を認めてきたのです。私たちが教えに触れる時、それはそのままブッダとの出遇いになるのです。
五、念仏もうさんとおもいたつこころ
話を寺川先生が著された「ひたむきな聞法」に戻しましょう。寺川先生は、人が生きていくにはあまりに厳しいシルクロードの自然を乗り越え、そこを往来した仏教徒たちに思いを馳せながら、「私にもふと動いた〈仏様にあいたい〉という切ない心、それが聞法の志となって私を歩ませるのです」と、その時に浮かびあがった心象を語っています。「仏様にあいたい」という願いが、そのまま聞法の歩みであるというのです。
『教行信証』の総序のおわりに、親鸞聖人は次のように述べておられます。「ここに愚禿釈の親鸞、慶ばしいかな、西蕃・月氏の聖典、東夏(中国)・日域(日本)の師釈に、遇いがたくしていま遇うことを得たり、聞きがたくしてすでに聞くことを得たり。真宗の教行を敬信して、ことに如来の恩徳の深きことを知んぬ。ここをもって聞くところを慶び、獲るところを嘆ずるなりと」(『註釈版聖典』一三二頁)
インド・中央アジアから中国にもたらされた経典、中国・日本の諸師たちが著した論釈をとおして、親鸞聖人は、阿弥陀如来のいつくしみの徳を聞くことをよろこび、感激されています。寺川先生は、それは、「仏様にあいたい」という願いが、み教えを聞くよろこびへと転ずると述べています。
この「仏様にあいたい」(=聞法)という願いが本当に満たされる時こそ、「念仏もうさんとおもいたつこころ」が湧き起こった時だとも述べています。「念仏もうさんとおもいたつこころ」というのは、『歎異抄』第一条に述べられることばになります。「弥陀の誓願不思議にたすけられまいらせて、往生をばとぐるなりと信じて念仏申さんとおもいたつこころのおこるとき、すなわち摂取不捨の利益にあずけしめたまうなり」(『註釈版聖典』八三一頁)
聞法とは、阿弥陀如来の願いを聞かせていただくことであり、その願いがすでに私に届いていると気付かせていただいた時、「南無阿弥陀仏」のお念仏が私の声となって出てくるのです。
日常生活に活かすヒント
- ご縁のありがたさを思う: 今、私たちが当たり前のように仏法に触れられるのは、命がけで教えを伝えてくださった先人たちのおかげです。その歴史に思いを馳せ、ご縁に感謝してみましょう。
- 自分の「あいたい」を探す: 日々の忙しさの中で、自分が本当に求めているものは何かを静かに問い直す時間を持ってみましょう。それは、心の深い安らぎかもしれません。
- 聞く姿勢を大切にする: お寺の法話や仏教書は、現代における「シルクロード」です。積極的に教えを聞く場に身を置くことが、「仏様にあう」ための大切な一歩となります。
- お念仏をとなえてみる: 難しい理屈は一旦横に置き、「南無阿弥陀仏」と声に出してみましょう。それは、仏さまの願いが自分に届いていることへの、素直な応答かもしれません。
よくあるご質問
人間が心の底から求める究極の安らぎや真実の拠り所を象徴する言葉だからです。それは、単なる知識欲や好奇心を超え、いのちそのものが真理と一体になりたいと願う根源的な欲求であると示唆しています。
お寺にお参りしたり、法話を聞いたり、お経や仏教書を読んだりすることが、現代における「仏様にあう」具体的な行いです。教えの言葉を通して、時代を超えてはたらき続ける仏の心に触れることができます。
いいえ、浄土真宗では、この心は自分で起こすものではなく、阿弥陀如来の「必ず救う」という願い(本願)を聞かせていただく中で、仏さまの側から与えられるものだと考えます。聞法によって、すでに自分に届けられている願いに気づかされるのです。
命がけで教えを求め、伝えてくれた先人たちがいたからこそ、今私たちが安穏と仏法に触れることができる、というご縁のありがたさを示しています。また、彼らのひたむきな姿は、私たちが何を本当に大切にして生きるべきかを問いかけてくれます。
この言葉に寄せて
八月のことばは、元大谷大学学長の寺川俊昭先生(一九二八~二〇二一)のお言葉です。この言葉は、過酷なシルクロードを旅して仏教を伝えた求法僧たちの、純粋でひたむきな情熱に思いを馳せたものです。「仏様にあいたい」という一つの願いが、いかにして人を動かし、歴史を動かしてきたのか。そして、その根源的な願いが、現代を生きる私たちの「聞法」や「念仏」の歩みと、どう繋がっているのかを深く問いかけます。
(解説:井上 陽)