2020年4月のことば お念仏というのは つまり自分が 自分に対話する道

南無阿弥陀仏

明治から昭和にかけて活躍された僧侶は多くおられますが、曽我量深師はそのなかでも特に知られた方の一人です。浄土真宗の一宗派である真宗大谷派の僧侶で、学者でもあり仏教思想家でもありました。
今月のことぼは、真宗大谷派発行『真宗』七六九号(一九六八年)に掲載された、座談会録のなかで述べられたものです。
この言葉に続いて、曽我師は、

   自分が自分と対話するのが如来の本願というんでしょう。自分が自分と対話できないならば、本願という意味はないですわ。自己は自己と対話するということが本願の念仏だと、そういうふうに一つこう考えたらどういうもんでしょ    (中略)
南無阿弥陀仏ということは、いつも仏さまと自分と対話……、仏さまというけどもやはり自分でしょうね。                  (一二頁)

とも述べられています。
南無阿弥陀仏のお念仏をいただいていくということは、自分が自分と対話することであり、それは阿弥陀さまの願い(本願)を受けとめていくことであるといわれていると考えられます。その願いとは、仏になりようのない私を必ず仏にさせるはたらきを南無阿弥陀仏に込めるから、この願いを信じ我が名を称えよ、と誓われる願いです。
この南無阿弥陀仏について、親鸞聖人の教えを仰がれた蓮如上人は、『御文章』のなかで、

  「南無」の二字は、衆生の阿弥陀仏を信ずる機なり。つぎに「阿弥陀仏」といふ四つの字のいはれは、弥陀如来の衆生をたすけたまへる法なり。
言一帖目第七通、『註釈版聖典』 一一四七頁)

と、衆生である私の信心と阿弥陀さまが私を救う力・はたらきは別ものではない、一体であることを述べておられます。また、

  さてその他力の信心といふはいかやふなることぞといへば、ただ南無阿弥陀仏
なり。                    言一帖目第二通、『同』 一言一七頁)

とあり、さらに、

  南無阿弥陀仏の体は、われらをたすけたまへるすがたぞとこころうべきなり。

二帖目第十五通、『同』 一一〇六亘

とも述べられ、南無阿弥陀仏の六字全体は、そのままたまわる信心のすがたをあらわしたものであり、またそのまま阿弥陀仏の救いの力・はたらきであると見られておられます。
さて、曽我師がいわれる「お念仏というのはつまり自分か自分に対話する道」という言葉ですが、私なりに味わってみますと、自分が自分に対話するということは、阿弥陀さまからたまわる信心によって救われる私のすがたを知らされることが、ここでいわれる対話ではないかと思います。
また、この阿弥陀さまの願いを聞かせていただくとき、聞かせていただくそのままが、その願いを信じるすがた、すなわちたまわる信心と受けとめられているか、という自分への問いが、自分に対話するということでしょう。
さらに、私を救うという阿弥陀さまの力・はたらきは、私のためにかけられたものだと受けとめられているか、ということも同時に、自分に対話することであると考えられます。
曽我師は、

  自分の判断を、はからいを捨てて救いの教えを聞くときに、本当に自分のこととして受けとめなければ、本願が建てられた意味はない。      (趣意)

とも後述されています。阿弥陀さまに願われ、その救いのはたらきのなかで、照らされたわが身と常に聞かせていただきながら、自らのなかで対話をし日々を暮らしていく生き方こそ、念仏の「道」を歩むということでしょう。

念仏の道を歩む

では、念仏の道を歩むということを、私たちの暮らしにそって考えてみましょう。
念仏の道を歩むとは、南無阿弥陀仏のいわれを聞いて、阿弥陀さまから本願を信じさせられ念仏させられて仏に成るという、願いのなかで生かされるよろこびを味わう暮らしであります。
仏法を聞くことは、役に立つから聞くのではなく、現実の自分自身のことを説いているのだと受け止めなければ、本当のよろこびは生まれません。仏法はお釈迦さまが説かれた教えですが、それは、のがれられない生老病死という苦しみ、悲しみ、悩みを、乗り越えた生き方をするという目的をもっています。
乗り越えるという言葉は、わかるようでわかりにくい表現ですね。実は、この乗り越えるということを、仏教では転じる(転換する)といいます。つまり、転じるとは、いままでの自分の考え方を止め、新たな転換を求めることです。また、阿弥陀さまのはたらきをご縁として、自分自身が換えられていくことを意味する言葉です。

「乗り越える」と「転じる」

私のお寺では、毎年、初盆の方を迎えて法要をお勤めしますが、自分と近しい親族を亡くされた方々がお参りされます。皆さん悲痛な面持ちをされています。
生老病死のなかでも、死は特に悲しみ苦しみの最たるものですが、これらを乗り越えるとは、良いことだけ受け止めて、悪いことは向こうへ遠ざけていく、ということではありません。悲しみも苦しみも受け止めて、それを乗り越えて生きるということが、仏教であり、浄土真宗の教えです。
私たちは、身近な方の死に会うことがあります。亡くなられたことは大きな悲しみですが、そのご縁を大切に受け止めていくことが肝要です。なぜなら、亡くなられた方は、阿弥陀さまの願い、はたらきある本願によって、すでにお浄土で仏さまとなり、この私を導いてくださっているからです。亡くなられた方とは、いまも私との縁でつながっているのです。
私の母は二十六年前に、父は十年前に亡くなりました。まだまだ父母に教えてもらいたいことがたくさんありましたし、もっともっと親孝行をさせてもらいたかった、といまだに思うことがあります。
ですから、父母の死をやはり悲しいと思う苦しみがいまもあります。しかし、悲しいという苦しみはありますが、両親の亡くなったことがご縁となって、いまの私の生き様があり、いまも私を導き続けてくれているのだ、と味わっています。
乗り越えるということは、悲しみや苦しみを消し去ることでもなく、克服することでもありません。悲しみは悲しみのままに、苦しみは苦しみのままに受けとめていく、しかし、その一つひとつのご縁が私を育ててくださるのだ、と受けとめることが「転じる」ということです。さらにまた、その方々の導きは、すべて阿弥陀さまのおはたらきがあってのことだと味わうとき、本願に誓われた他力念仏の道を歩む生き方となってくるのです。
阿弥陀さまのはたらきのなかにあるわが身と実感することは、簡単ではないかもしれません。しかし、仏壇の前やお寺の本堂に座るとき、またどこかで手を合わせ南無阿弥陀仏とお念仏もうすとき、法話を聞かせていただくとき、このご縁が私へのお育てだと受けとめていただきたいと思います。
お念仏の教えを自分のこととして常に耳を傾けていく、そのことが自分か自分に対話する道を生きることに通じるのではないかと思います。
(東光爾英)

カテゴリー: 法語カレンダー解説 パーマリンク