大いなるみ手に
今月のことばは、九條武子夫人による短歌です。武子夫人は、本願寺第二十一代・大谷光尊さまのご息女としてお生まれになられた方です。またこの言葉は、武
子夫人の逝去後に、大谷嬉子お裏方さまによって編纂された『九條武子全歌集 無憂樹(あそか)』(本願寺出版社、一九八三年)のなかに挙げられています。しかしも
とは、武子夫人存命中に夫人著として出版された歌集『無憂華』(実業之日本社、一九二七年)のなかに、「幼児のこゝろ」と題して掲載された歌です。
ここには、
幼児が母のふところに抱かれて、乳房を哺くんでゐるときは、すこしの恐怖も感じない。すべてを托しさって、何の不安も感じないほど、遍満してゐる母性愛の尊きめぐみに、脆かずにはをられない。
いだかれてありとも知らずおろかにもわれ反抗す大いなるみ手にしかも多くの人々は、何ゆゑにみづから悩み、みづから悲しむのであらう。
救ひのかゞやかしい光のなかに、われら小さきものもまた、幼児の素純な心をもって、安らかに生きたい。大いなる慈悲のみ手のまヽ、ひたすらに久遠のいのちを育くみたい。-大いなるめぐみのなかに、すべてを托し得るのは、美し吉信の世界である。 (八頁)
とあります。
赤ちゃんがお母さんに抱かれて、お乳をのんでいるときは、不安を感じることはない。それは赤ちゃんがお母さんにすべてをゆだねきっているからで、お母さんの愛情の深さ、尊さがあればこそだからである。
ところが、自らの人生は、苦しい悩みに埋もれ、大きな悲しみのなかに流されている。阿弥陀さまの救いの光のなかにあるのだから、お母さんに抱かれる赤ちゃんのように、純粋に救いの慈悲に身をゆだねて、安らかに生き、願われる生き方をしていきたい。それが信心をいただく美しい世界だ、と武子夫人はいわれています。
しかしまた一方、『無憂華』のなかで、
罪のなげき
道をもとむる人のなかに、ともすれば人生を罪深いものとして、これを否定しようとするものがある。しかしながら否定し得ない現実の前には、何人も心おどろき慄かざるを得ないのである。
救済のひかりは、悩めるものゝためにかぎヤいてゐる。ひかりは睨はれた罪をこそ照らしてくれる。悩みのあるところ、ひかりはつねに、悩めるものと偕に在るのである。光に照らし出されたよろこびを味はふものは、また罪のなげきを味はふものであらう。否定し得ない罪をみつむるものこそ、真実に救ひのよろこびを受け入れることが出来る。 豆八頁)
とも、武子夫人自らの言葉で述べられています。
阿弥陀さまの救いは、苦しい悩みをもち、大きな悲しみにくれるもののためにある。その智慧のひかりのはたらきは、悩めるものによろこびを与えるものだが、また同時に、自らの罪の大きさを知らしめられることになる。しかし、自分の力で消すことができない煩悩という罪を、自分のこととして深く省みるときに、阿弥陀さまのはたらきがまことの救いとして、よろこび受け入れられるのです、と述べられています。
赤ちゃんが母に抱かれているように、私は阿弥陀さまの大いなる慈悲の手に抱かれているのに、それに気づかない。それを無視して、自分中心の思いを常にもち、自分が起こす苦しみなのに愚痴をこぼし、知らぬまに人を傷つけている。まるで阿弥陀さまの救いに反抗するかのようなおろかな生き方をしているのがこの私だ、という言葉が、「いだかれてありとも知らずおろかにもわれ反抗す大いなるみ手に」の歌でありましょう。
たまわる信心
ここまで述べてきました武子夫人のこの二つの心。つまりそれは、阿弥陀さまのひかりに照らされた私は、自らの煩悩にまみれ、自己の力ではとうてい仏に成りようのない人問だとなげく心と、その無力な自己を深く見つめ、自分のこととして味わうときに、逆にその私に願いをかけ、仏にさせようとする阿弥陀さまの他力の救いが、真実のはたらきとしてあることを心の底からよろこぶ心とてすが、この二つの心は、実は阿弥陀さまからたまわる信心の内容を示しているのです。
「自己の力では仏になりようのない生き様の私だ」と強く思う心と、「その私を救いとり必ず仏にさせるという、広大な慈悲の阿弥陀さまのはたらきがある」とよろこぶ心とは、一石であって二つでない、信心の二面をあらわすものであります。
つまり、この迷いの世界を離れる手がかりを持たず、仏になりようのない自己の力を捨てて、阿弥陀さまの他力の救いに我が身を託すというひとつの心、それが他力の信心ということです。
阿弥陀さまの光を仰ぐ
私は、武子夫人のこの短歌に、一九九七(平成九)年に初めて出会いました。それは、武子夫人の兄である本願寺第二十一一代・大谷光瑞さまの五十回忌法要が、私の在往する大分県でっとめられたことが、ご縁でした。シルクロード調査のために大谷探検隊を派遣されたことで知られる光瑞さまは、晩年を別府で過ごされ、別府でご往生されたのです。その法要時、武子夫人の短歌を拝読する機会に恵まれました。
多くの短歌のなかで、特にこの歌に強烈な印象を持ちました。それは「反抗す」という言葉が使われていたからです。「反抗」とは、辞書によれば、
親や目上の人の言う事を聞かず、なんでも逆らってみたり自分の主張を押し通してみようとしたりすること。 (『新明解国語辞典』第五版、一一五五頁)
とあります。「反抗す」という言葉には、阿弥陀さまの救いに「背く」とか「反する」というのではなく、それらよりも一層強い意味があると感じます。武子夫人は、それだけ自らの生き様を真剣に見つめ、苦しみや悲しみのなかに生きなければならない我が身と強く受け止めていかれたと、味わうことができます。しかし、それゆえに、逆に救われる手段のまったくない私を救おうとされる阿弥陀さまの光を、強くよろこびとして仰がれたと思います。
武子夫人の同じ歌集『無憂華』のなかに、夫人作「聖夜」という歌があります。
星の夜ぞらのうっくしさ
たれかは知るや天のなぞ
無数のひとみかゞやけば
歓喜になごむわがこゝろ
ガンジス河のまさごより
あまたおはするほとけ達
夜ひるつねにまもらすと
きくに和めるわがこヽろ
そうです。仏教讃歌としていま、多くの人々に親しまれている歌ですね。夜の星空のなんと美しいことか、この宇宙の不思議さを誰が知るであろうか。輝く無数の星は仏さま方のまなこのようで、このまなこのなかの我が身を思うと、私のこころはよろこびに満ちあふれます。
インドのガンジス河の砂の数より多くおられる仏さまが、夜昼、いつも守りはたらきつづけてくださると聞かせていただくとき、私の心はどれはどなごみ安らぐでしょうか、と。仏心に反抗するような私にとって、阿弥陀さま(この歌では多くの仏さまですが)の念仏の救いのなかにある我が身は、何ものにも代えがたいよろこびと安らぎである、という夫人の声が聞こえてくるようです。
武子夫人のご生涯
武子夫人のこうした歌は、単なる文学的あるいは感傷的な思いで作られたものではありません。お念仏のみ教えを一人でも多くの女性に伝えようと、二十四歳頃より仏教婦人会を設立され、長年にわたり全国を伝道巡回され、各地の仏教婦人会結成の運動を推進されました。また、三十二歳のときには、仏教理念にもとづく京都女子専門学校(現・京都女子大学)の設立にかかわられました。そして、一九一三一(大正十二)年、三十六歳のとき、関東大震災が起こります。
東京築地にお住まいだった夫人は、家屋も焼失し、多くの人々の悲惨な生活をごらんになります。
家族の死は人々に絶望的な悲しみを与えました。夫人は自ら被災されながらも、被害にあった人々の支援活動に身を挺して当たり、社会事業を続けていく決意をされます。その一環として、あそか診療所を開設し、診療奉仕のため各地を巡回されました。しかし、敗血症を発病され、一九二八(昭和三)年二月七日、四十一歳でご往生されました。夫人を慕うことから、ご命日は如月忌と呼ばれています。
まさに、武子夫人のご生涯は、自らの生き様を深くみつめ、お念仏のみ教えをよろこびながら、社会的にも篤い思いをもって実践活動を行ってこられた人生であったと思います。私も夫人の生き方に学んでまいりたいと思います。 (東光爾英)