苦しみの原因
毎田周一氏は、石川県金沢市ご出身で、明治から昭和にかけて活躍された仏教思想家であり詩人でもあった方です。今月のことぼけ、毎田氏の逝去後にまとめられた『毎田周一撰集』第六輯の『釈尊の心 一真海』(一周会、一九七八年)のなかで述べられたものです。
「執着」とは、ものや事がらにとらわれて離れないことを意味する仏教の言葉ですが、「私たち人間がもっともとらわれて離れないのが自己である」とはどんな意味なのでしょうか。
仏教は、お釈迦さまが説かれた仏に成る教えですが、もともと苦しみが出発点でした。お釈迦さまは、生まれてきたことからくる苦しみ、老いていくことからくる苦しみ、病になることからくる苦しみ、命つきていくことからくる苦しみ、この四苦を、どう乗り越えたらよいかを見つけるために出家されたのです。生老病死という現象は、動物でも植物でも命あるものすべてにありますが、それを苦しみと受け止めるのは人間だけです。お釈迦さまは、先ずはその苦しみの原因を考えられました。苦の原因は大きく二つあり、
・苦しみは自分の外に原因はなく、自分自身の心が生みだしている
・自分か苦を生みだす原因は、ものの本当のあり方を知らないことによる
とわかりました。それでお釈迦さまは菩提樹の下で、自分と自分をつつむ周りの世界のありのままのあり方を静かに考えられました。そしてお釈迦さまのさとられた内容は、
一、すべてのものは、生滅変化を繰り返し、変わらないものは一つもない
二、すべてのものは、互いに関わり合って存在している
という真理です。そんなことは誰でも知っていると思われる方もあるでしょうが、本当に誰もが理解しているでしょうか。
ものの本当のあり方
一つ目の真理は、仏教では「無常」といわれますが、すべてのものの存在は、必ず移り変わっていくという真理です。無常と聞いてどんな思いがするでしょうか。
「ああ、すべては朽ちていき、自分も年老いていく」と、寂しいし悲しいと考えるでしょうか。でもそれは、滅びいくという無常の一面だけにとらわれています。必ず移り変わり常ではないのですから、命の誕生も無常なのです。
また二つ目の真理は、仏教では「縁起」といわれます。すべてのものの存在は絶えず変化していく無常だが、それはなぜかというと、さますまな条件(縁)によって、お互いが関わりながら異なったすがたで存在するから、という真理です。つまり、関わらずに存在するものはないという真理です。
私という人間は、親の存在が縁となり、子としての命を生きています。また学校では、先生炉縁となり生徒としての自分があります。職場では、会社という組織を縁として社員としての自分を生きています。ですから生きていること自体が、さますまな関わり(縁)のなかで、縁起を生きているということになります。生きている私は、そのまま生かされている私と気づきます。また縁起に良し悪しはありませんし、縁起の言葉を前兆の意味で使用することも二言葉の意味を考えると好ましくない使い方だと、心にとどめておいてください。
私たちはなぜさとれない
先に述べたように、苦しみの原因は、ものの本当のあり方を知らないからで、これを知れば苦を乗り越えて、仏になることができるはずです。しかし、無常も縁起も、いま、その内容を知ったのに、私もあなたも仏にはなっていませんね。それはなぜでしょう。無常も縁起もわかっているようで、本当に理解できるのはさとりを得た仏しかありません。この二つの真理を、仏教では「法(ダルマ)」といいます。
この真理である法を得たときに仏になることができると、経典には説かれています。
無常や縁起という真理を頭で理解するだけでよいならば、この世に争いや苦しみはありません。仏になれないのはなぜか、ここに重要な私たちの心の問題点があるのです。
先日、電車に乗ったときのことです。駅のホームでは、たくさんの人が電車を待っていました。やっと到着した電車のドアが開いたとき、一人の男性が降りる人を押しのけて乗り込んでいきました。降りる人がおわり、やがて私も乗り込み、つり革につかまり立っていると、先はどの男性が目の前に座っています。しばらくして終点の駅に着き、ドアが開くと、今度は学生さんらしか人が、乗客を押しのけて乗り込もうとしました。そのときです。あの男性が大きな声で、「こら、降りるもんか先じゃ」と言ったのです。私も周りの人も、その言葉にあ然として、なかにはクスクス笑う人もいました。でも、このことは私たちにもありうることです。
電車に乗り降りするという状況は同じなのに、自分か乗り込む側の立場なら自分を優先して割り込んでいく、自分が降りる立場ならまた逆に自分を優先して降りていく、という行為です。つまり、私たちは、人のことを思いやる大切さを頭で理解していても、自分か出会う場面場面で、我が身の方からしかものが見えないのです。
しかも思いどおりにならないことで、不平不満の絶えない愚痴の生活を繰り返しているのです。こうした自分の側からしかものが見えないという、自己中心の思いが私たちの心の奥底にあることが問題点であり、それがさとりをさまたげる大きな原因になっているのです。
今月のことば「大が何よりも執着せんとするものが自己である」は、私たちの愚痴の生活が自己中心性の思いによることを示して、毎田氏が述べられたものです。
阿弥陀さまの他力の救い
しかし、仏になれず、愚痴の生活を繰り返している自分と知っただけでおわっては、私たちには安らぎがありません。
実は、親鸞聖人の苦しみもこの点にありました。親鸞聖人は、ご承知のように、比叡山で二十年もの間修行をされた方です。しかし、修行を積めば積むほど見えてくるのは、己の執着、自己中心性でありました。では、こうした煩悩を持ったままの私では仏にはなれないのか、道はないのかという問いと苦しみがありました。そして、道を求め比叡山をおりて、法然聖人がその頃説かれていた、阿弥陀さまの他力念仏の教えに出遇われたのです。
阿弥陀さまは、煩悩ある私をそのまま救いとろうとされる仏さまです。煩悩を断ち切ることがなくとも、私の名前、南無阿弥陀仏を呼んでおくれ、その名前のなかに、あなたたちが仏になるためのはたらきをすべてこめるからと、願いはたらき続けておられます。親鸞聖人は、阿弥陀さまの他力念仏の救いに身を託し、安らぎの道を歩んでいかれました。
願われる私
以前、ある人が「阿弥陀さまに願われて何か得になることがありますか」と言っているのを聞いたことがあります。願われて治病や得財の役に立つか、という意味でしょう。もちろんそんな役には立ちません。しかし、私事で恐縮ですが、願われるということはこういう心持ちなのか、という経験をしたことがあります。
ある日の朝、いつものように、洗面所で顔を洗い、歯をみがいて口をゆすごうとしました。ところが口の中に水を含もうとすると、水がこぼれ落ちてしまうのです。
そこで鏡をのぞきこむと、自分の顔全体が変形し、口も大きくゆがんでいることに初めて気づきました。お医者さんの診断は、過労から起こる顔面神経マヒ。いつ回復するかわからず、気長な治療が必要とのことでした。すぐに入院といわれ、不安になりました。それから毎日、首からの注射や電気治療が続き、食事がうまくできないことや仕事や面会を禁じられたことで、次第にいらだちを感じるようになりました。
そんなある日、妻と子どもが見舞いにきてくれたのです。そのとき、顔が変形したま圭戻らないかもしれないという夫婦の会話を聞いていたのか、子どもが涙をうかべてこう言いました。
「お父さん、顔がまかっかままでもいい!」
「えっ、ど、どうして」
「お父さんがどんな顔でも、私はいつまでもお父さんが好きだよ。きっと帰ってきてね、まってるからね」
私は言葉につまりました。不平不満ばかりで、わが身のことしか考えていなかった自分が恥ずかしくなりました。そして、そうだった、自分は願われてある命なのだと気づかされたとき、早く治してやろうというりきみではなく、いいようのない安らぎを感じました。子どもは、治療をしてくれるわけでもなく、心配してくれたからといって、お金を出すわけでもありません。しかし、私にとっては願われているというそのことが、大きな心の支えになったのです。
阿弥陀さまと子どもを同等には言えませんが、阿弥陀さまから願われることはさらに大きな安らぎであり、それはもので交換できないものです。自己に執着する煩悩を持った私を、そのまま受け入れお浄土に生まれさせるというはたらきある願いです。今月のことばを自分のこととして、昧わってみてはいかがでしょうか。
(東光爾英)