死のカウントダウン
今月のことばは、信國淳先生の「人間は死を抱いて 生まれ 死をかかえで成長する」です。信國先生は、一九〇四(明治三十七)年に大分県宇佐市にお生まれになり、一九八〇(昭和五十五)年にお亡くなりになりました。先生は、東京帝国大学(現・東京大学)仏蘭西文学科をご卒業なさり、大谷大学教授、大谷専修学院長を務められた方です。
この言葉は、『信國淳 選集』第六巻「浄土-個人と衆生-」(柏樹社)に収」一{られている「浄土(コー仏教の身土観-)の一文です。
信國先生は、
私どもの身体は生きる始めをもつとともに、また死ぬる終わりをもつ身体であように私どもは、死ぬべき身としてこそ生を始めるのであって、死なぬ身、不死身として生きるのではない。死をよそにして生きる身体というものはない。人間は死を抱いて生まれ、死をかかえて成長する。死はこの身において成熟する。若い頃のものの見方、考え方と、年取ってからのそれとはすっかり違うというが、違うのが当然で、身の中にある死の成熟の度合いが違うのである。(中略)死はこの身の老いに従って、この身の内に成熟し、病を通してこの身の内から現実に近寄る。老・病・死する身として私どもは生まれ、かつ生きているのである。 (二四頁)
と述べられています。
このなかで、「死ぬべき身としてこそ生を始める」とあらわされておりますが、私たちは、この世に生を受けたときから死のカウントダウンが始まります。小さないのちが誕生したとき、周りの人たちは祝福をします。誰も「この子のいのちの終わりが、いま始まった」などと思う人はいません。信國先生のお言葉は、私たちはみな生老病死の苦しみから逃れることはできない、その現実を生きているのである、ということをお示しくださっているのではないでしょうか。「死」を遠ざけて「生」しか見ようとしないものは、「生」の意義を考えることはできません。
「死」はわからない
さて、私は大学で「宗教」「仏教」に関連しか授業を担当しています。そのなかで「生と死」「死と生」について、一般社会における捉え方から宗教・仏教的な見方に至るまで、私の思うところを織り交ぜながら学生さんにお話をしています。大半の学生は、どうしても学問的な観点で「生」と「死」を捉えようとする傾向が強く見られます。大学の授業ですから、学問的観点からのアプローチで何の問題もありませんが、「いのち」については、他の学問とは違う捉え方・向き合い方をしてほしいと思ってお話をしています。しかし、学生さんには自らの切実なる思いとしては捉えにくいようです。考えてみれば、それは当たり前といえば当たり前の話なのです。二十歳前後の若者に、コこの世に生まれてきたものは、いつかはその終わりを迎えるのです」と言っても、いま、まさにいのちを謳歌している若者に、「死」について語っても真剣に考えるはずはありません。私は、授業を担当しけじめの頃は、「どうしてわからないかな」「なぜ真剣に考えようとしないのかな」と、なんとも言えないもどかしさを抱えながら授業をしていました。
ところが何年か経ったころです。年度始めにいつものように授業の見直しをしていたとき、話をしている私自身も、「死」はわからないということに気づきました。なぜなら自分自身の身体で「死」を実感したことがないからです。授業で偉そうに言っても、自分自身の体験としての「死」を体験しかことがない私の言葉は、それこそ「どこかの本に書かれてあった」とか、「どなたかがお説教でお話になっていた」言葉の受け売りでしかありませんでした。僧侶という立場上、多くの方々よりはご葬儀に接する機会がたくさんあります。しかし、一つひとつのご葬儀を通して「いのち」を切実な問題として考えたことはほとんどありませんでした。ですから、私の言葉自体がしょせん空虚なものでしかなかったのです。そんなものが人様にもっともらしいことを言っても、説得力はありませんよね。
以前、私か読んだ「死生学」を学ぶ学生向けに書かれたテキストのなかに、私たちは「三人称の死」から「二人称の死」へ、そして「一人称の死」へと、歳とともに「死」との向き合い方が移り変わっていくとありました。若いときに経験する「死」は、テレビや新聞などを通して伝わる、自分にとってはほとんど面識のない方々の死です。そして年齢を重ねていくにしたがって、お世話になった方々や身内・肉親の死と向き合うことになります。最終的には自分白身の死と向き合うことになります。年齢を重ねていく過程のなかで、私たちは嫌でも「死」を意識しないではいられなくなってきます。私はテキストを読んで、そのとおりだなと思いましたが、どことなく空虚なと言いますか、失礼ながら薄っぺらさを感じました。なぜか。ただ、それが何によるものなのかは、そのときははっきりとしませんでした。
老病死としての生
なかなかこの空虚な感覚を払拭できないでいましたが、私自身が歳を重ねていくにつれて「いのち」について考えさせられる機会が増え、少しずつですが理解できるようになりました。それは、私自身が直接関わりを持った方々の死を通してです。いろいろお世話になった方々が亡くなっていかれるのです。大学時代にご指導いただいた恩師をけじめとする諸先生方、父や叔父・叔母、幼い頃からお育ていただいたご門徒の方々・…本当に多くの方々の死(あるいは訃報)に接する機会が増えていきました。私か歳を重ねていくということは、お世話になった方々も歳を重ねられます。つまり老いていかれます。病気を抱えて入院されることもあります。そのようなご様子を目の当たりにすることにより、それまで頭でしか理解できていなかった「生老病死に生きるものの根本の問題があるのだ」ということが、切実な問題として私白身に迫ってくるようになりました。つまり、他者の「老病死」を通して自らの「生」を考え、さらに私もまた歳を重ねていくなかで、自らの「老病死」を考えることができるようになりました。それによって、先はどの死生学のテキストを読んで釈然としなかった思いの原因がなんとなくわかりました。
それは、「生と死」が、二元的・対極的なものとしてしかあらわされていなかったからです。このテキストは、人生の苦悩の根源である「生老病死」の「老」「病」を見ないで、「生」と「死」だけを取り上げて論じられていました。もちろん、幼いときに亡くなる方や、若くして不慮の事故に遭われる方もおられます。ですから、老病なし仁生から死へという場合もあります。私か申しあげたいのは、仏教で説かれるところの「生死」は、二元的・対極的なものとして語られた教えではないということです。「いのち」を生きるその現実を直視することが大切なのです。そのことを、お釈迦さまは、老・病・死に生きるものの限本の司題があるとみられたのです。
信國先生があらわされた「人間は死を抱いて生まれ、死をかかえて成長する。死はこの身において成熟する。(中略)死はこの身の老いに従って、この身の内に成熟し、病を通してこの身の内から現実に近寄る。老・病・死する身として私どもは生まれ、かつ生きているのである」は、正に現実の問題として「いのち」を考える必要性をお示しくださっているのだ、と私は受け止めました。
いのちのはかなさと尊さ
そもそも私たちが、自らの「生(老病)死」を見つめるきっかけは、他者の「生(老病)死」を通してです。たとえば、蓮如上人がご門弟に宛てて書かれたお手紙(『御文章』)のなかで無常観をおっしゃるようになったのは、妻子の死を契機としてです。とりわけ次女の見玉尼さまがお亡くなりになったことは、蓮如上人にとって大きな悲しみであったといわれています。自分よりも若い方々、しかも自らに親しい人であればあるほど、筆舌に尽くしがたい悲しみに覆われます。蓮如上人は、そのようないくつもの悲しみを体験されたことによって、自らの根本的な問題として「いのち」と向き合われたのではないでしょうか。さらに重要なのは、蓮如上人は無常であるとだけあっしゃってはいません。いのちのほかなさを述べるだけでは、「諦め」でしかありません。
蓮如上人は、その後に、
後生の一大事を心にかけて、阿弥陀仏をふかくたのみまゐらせて、念仏申すべきものなり。 (『御文章』五帖目第十六通、『註釈版聖典』 一二〇四頁)
とお示しくださっています。私たちの「いのち」ははかないものですが、だからこそ、永遠のいのちとして浄土に生まれさせようとおはたらきになっている阿弥陀さまのお救いをいただくべきである、とされています。当時の人のみならず、現代においても、蓮如上人のお言葉に触れるものをして、「いのち」の尊さを感じることができるのは、蓮如上人ご白身が阿弥陀さまのおはたらきにあずかることの大切さを感じられた、そのままのお心をお説きになっているからだと思います。 (貫名 譲)