2022年9月のことば 手を合わせ 仏さまを拝むとき わたしのツノを 知らされる

中学生はがき通信

私の父は、一九七三(昭和四十八)年一月から二〇〇三(平成十五)年四月まで、毎月一回、近隣の中学生を対象に「中学生はがき通信」というたよりを送っていました。はがきの裏面には、中学生に向けたメッセージを一目見てわかるようになるべく短い文にして、そして机の上に置いておけるように、その月のカレンダーも載せたレイアウトになっていました。カレンダーを載せるということは、月初めにつかないと意味がありません。そのために、必ず毎月投函するということを自分にも課していたのです。
父は、「はがき通信」に先駆けて小学生を対象にした日曜学校を始め、一九六五(昭和四十)年頃から中学生を対象にした、一泊二日のお寺でのサマースクールも夏休みに開催していました。若い頃から、思春期真っただ中の中学生に仏法とのご縁を繋げるということを第一に考えて、取り組んでいたのだと思います。それらの活動に込められた父の思いは、「たった一度のかけがえのない人生を、大切に生きていってほしい」ということでした。この思いを何とか伝えたいという取り組みの一つが、「はがき通信」だといえます。
さて、九月のことぼけ、この「中学生はがき通信」からの言葉です。

  ツ ノ

今から七十年前、浅原才市という人がいました。
画家に二本のツノが生えている自分の肖像画を描いてもらいました。

ツノは 心の姿
むさぼり・腹立ち・おろかさ

他人のツノは よく見えるが
自分のツノには 気がつかない
手を合わせ
仏さまを 拝むとき
私のツノを 知らされる
(『人生のほほえみI中学生はがき通信-』三三頁、本願寺出版社)

ツノが生えた肖像画

この言葉のなかで、ツノを貪り・怒り・愚かさの三毒の煩悩に例えています。このツノの例えは、妙奸人といわれた浅原才市さんのエピソードからきています。
浅原才市さんは、一八五〇(嘉丞三年に島根県の温泉津町に生まれ、浄土真宗の教えをとてもよろこばれて生き抜いた方です。そして、そのお聴聞したよろこびを「口あい」(盆踊りの口説きのような調子の詩)にして、たくさんのノートに書き残されました。才市さんが生まれ日暮らしをしていた温泉津町は父が住職をしていたお寺の隣町に当たり、とても近い距離ですので、才市さんの詩を含めて、才市さんにはとても親しみがありました。
このツノの絵が描かれたのは、一九一九(大正八)年、才市さん七十一歳のときで、ツノの絵を描いた理由について、才市さんと親交のあった寺本慧達師との間で次のようなやり取りがあったそうです。

  「あまりみなさんが、私をよくお寺に参るというでな、わしが寺に参るのは鬼が寺に参るのだと言うことを見てもらいます。温泉津の画工さん(日本画家若林春暁氏)に頼んで、鬼が仏さんを拝んどる絵を描いてもらいました」
「はあ、そりゃ面白いね」
「鬼にしても、わしに似せて描かにやつまりません。それで、画工さんに言うて、わしに似た画を描いてもらって額に角をはやしてもらいましたよ」
「そしてそれをどおするの、爺さん」
「来月は御正忌さんで、安楽寺(才市さんがいつもお参りしていた近隣の寺院)の本堂にかけてもらって、皆にわしが仏さんを拝むのは、この通りまったく鬼だ、と言うことを見てもらいますよ」
(寺本慧達著『浅原才市翁を語る』九六頁、今原山長円寺発行)

才市さんは、自分のこころのなかにある煩悩を鬼に例え、この鬼のすがたが自分の本当のすがたであると、お同行の方々に伝えようとしています。そして、その鬼のすがたは、お寺にお参りしてお聴聞するなかで気づかされるのだ、と味わっておられます。

三毒の煩悩

話は変わりますが、私の父は、二〇〇三(平成十五)年五月、満六十六歳を一期としてお浄土へ往生しました。亡くなる1ヵ月前に急性肝炎と診断され入院、最終的には劇症肝炎という診断で亡くなりました。その父が入院中の出来事です。
肝臓を患った人の症状に全身の倦怠感があります。父も入院中は、しきりに「しわいのう、しわいのう」(石見の方言で、だるい、苦しい、辛いという意)といっていました。とりわけ体調の思わしくない日は「体中がしわい」ともいっていました。そのようななか、父が次のようにぽっりといいました。
「このような病になって、今全身に毒が回ってしまったかのように体中がしわい。だけど、病気で体中に回った毒ならば、お医者さんの出してくれるお薬できれいになるかもしれん。しかしな、体中にまわった三毒の煩悩という毒は、どのような薬があっても、きれいになることがないことよ」
今となっては、父がどのような気持ちでそのようなことを話したのかはわかりません。病院のベッドの上で、体中がしわいという状態で横になっているとき、今までの人生のさまざまなことを思い出していたに違いありません。そして、いかに今まで貪り・怒り・愚かさの煩悩という毒を作り続けてきたのかということを、深く振り返っていたのでしょう。全身に毒が回ったかのような現在の体と、今まで毒を作り続けてきた自分のこれまでのあり様を重ね合わせてみたとき、あのようなことをつぶやいたのかもしれません。
煩悩とは、この身を煩わし悩ませるもので、仏教では苦しみの原因と考えます。
この煩悩には主なもので「貪欲」「玖恚」「愚痴」の三つがあり、それを三毒の煩悩といいます。
「貪欲」は貪りのことをさします。人間には必ず欲がありますが、欲が満たされただけでは満足できず、「まだほしい、まだほしい」と欲が際限なく続く状態をいいます。その結果、使えるものでもすぐに捨ててしまったり、ものを粗末に扱ったりしてしまいます。
「阻恚」は怒りのことで、自分の意に反していることに出合ったらおこる感情です。
意に沿ったことばかりだと楽ですが、そうでないとき怒りがわいてきて苦しくなり、その結果、他の人の心身を傷つけてしまうこともあります。
「愚痴」とは愚かさのことで、自己中心的なものの見方をさします。その見方とは、私自身に基準を作り、その基準で世の中をみるという見方です。私の基準で、良いか悪いか、好きか嫌いか、など物事を分けて考え、その結果、上下関係や差別が生み出されてしまいます。
このような三毒の煩悩を、浅原才市さんはツノの生えた鬼のすがたに例えていたのです。そして、そのようなことを、私たちは知らず知らずのうちに行ってしまっているのです。まさに、「他人のツノはよく見えるが、自分のツノには気がつかない」私のすがたです。
浅原才市さんは、そのような自分の鬼のすがたに、お聴聞を通して気がついていかれました。阿弥陀さまは、煩悩によって苦しんでいる私のすがたを見抜き、決して見捨ててはおけないと私を救ってくださるのです。その「私か救われる」という阿弥陀さまのお慈悲を聞いたとき、救われる煩悩だらけの私のすがたが見えてくるのです。そして、私のすがたがわかったからこそ、よりよい生き方がみえてくるのでしょう。

中学生への思い

このはがき通信の言葉は、一九八一(昭和五十六)年六月のものです。父が四十四歳、私か十一歳。二人の姉がそれぞれ十七歳と十四歳のときのものです。私の祖父は一九四二(昭和十七)年に戦死していますので、父は大学卒業後すぐ自坊へ帰り、
住職になっています。そして四十四歳の頃といえば、一般的にも気力、体力ともに充実しているときですから、熱心に教化活動に取り組んでいた頃でしょう。そして、家庭では思春期を迎えた子どもたちの子育て。さまざまな思いのなかで過ごしていた時代だったと思います。そんななか、走り続ける自分をふと振り返ってみたとき、お聴聞を通して自分のすがたを見つめていたのではないでしょうか。
父の「中学生はがき通信」を始めたときの思いは、「かけがえのない人生を、いのちを輝かせながら精一杯生きていってほしい」ということでした。多感で悩み多い思春期の子どもたちに、たまには立ち止まって自分自身を振り返ることの大切さを伝えたかったのだと思います。それは、まさに子どもたちに対するエールだったのです。
(波北 顕)

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