2024年はじめのことば 光明と名号がからみ合い妙なる音楽を奏でている

「熱夫日記」(桂書房)で極めて著名な青木新門氏は、歴史的に真宗の信仰のあつい富山県の出身であり、一九三七(昭和十二)年四月に出生され、二〇二二 (令和四)年八月に八十五歳で逝去されました。氏は作家であり、また同時に詩人でもありました。その生は波乱にみちたものであったようです。数種の職を経られた後、冠婚葬祭会社に入社し、納棺専従社員(納棺夫、今日では納棺師と呼称)となられ、葬儀の現場の体験を一九九三 (平成五)年に「納棺夫日記」として出版し、ベストセラーとなりました。

二〇〇八(平成二十)年九月に公開され、多くの人が鑑賞されたであろう映画「おくりびと」は、当初「納棺夫日記』を原案とすることを承諾されていました。しかし、二〇一四(平成二十六)年に出版された「それからの納棺夫日記』(法館)によると、著者のもっとも明示したかった真宗的宗教観が反映されていなかったようです。

「著作権を放棄してでも原作者であることを辞退したのは、納棺の現場で死者たちに導かれるようにして出遭った、仏教の真実が消されていることへの反抗でもあった」

との青木氏の思いにより、最終的に『納棺夫日記』とは異なる内容・作品として、「おくりびと」というタイトルとなり、映画化されたのでした。

標語の「光明と名号がからみ合い、妙なる音楽を奏でている」の言葉は、二〇一八(平成三十)年に東本願寺出版から発行された『青木新門の親鸞探訪』にあるものです。それは親鸞聖人の生を写真と文で構成されていて、「聖人の足跡には、回向がはたらいていて、常に慈光が漂っていました。その光に導かれて辿ればいいだけの親鸞探訪であった」

とあり、「第一章京都編」「第二章越後編」「第三章関東編」「第四章帰京編」という内容になっています。標語の文章は「第四章帰京編」の真宗本廟 (東本願寺)の探訪として記されたものです。具体的には、東本願寺の御影堂を参拝されたときの氏の心象風景が示されたものであるということができます。

「親鸞探訪』の「はじめに」には、

私が念仏の教えに出遇ったのは、仏教に関心があったからでも、真宗教学を学んだからでも、誰かに勧められたからでもなかった。葬式の現場で納棺夫として働いていて、真夏に一人暮らしの老人が亡くなって、そのご遺体を処理している時に、蛆が光って見えた不思議な体験をし、その光に導かれるように親麗聖人の二種の回向のみ教えに出遇ったのであった。要するに、光明の縁に出遇って育てられて名号のいわれを知り言を賜った在家念仏者である。

と自身の体験と現況について明かされています。氏はこのように、遺体を処置する仕事を通じて光を見たと語られました。

人は直接的・間接的の違いはあるとしても、人の死について何らかの縁を少なからず持つでしょう。ただ現代社会は、人の死がきれいに覆い隠された社会であるともいわれています。それは嫌なものは見たくないという現代人の思考が、そのまま社会のありようとして示されているということではないでしょうか。そのような現代社会において、氏が体験された事実。誰もが忌避している人間の死、端的に言えば遺体の処理を通じて、ウジが光って見えたということ。この光について、氏は納夫の仕事の体験を通じて二つの光を見ておられます。

一つは、遺体の周りに湧き広がったウジが、掃除をしようとする手から必死で逃げようとしている場面です。「ウジも生命なのです。そう思うとウジたちが光って見えた」と明かされています。二つは、遺体の処置が終わって外に出ると藪の竹に一匹のトンボが止まっていたのを見たこと。そのトンボは「青白く透き通ったトンボの体内いっぱいに卵がびっしり詰まっている」「数週間で死んでしまう小さなトンボが、何億年も前から一列に卵を連ねて、いのちを続けている」と言われるトンボの体内の光る卵です。このような体験と感慨は、遺体が腐乱し悪臭が漂う中でのことです。そのような中で、ウジとトンボの光に遭遇しておられるのです。

氏はウジにもトンボの卵にも限りない「いのち」の荘厳さを見ておられるのです。

そしてさらに氏にとってそれらは、事実として光り輝くものであったのです。

「死に近づいて、死を真正面から見つめていると、あらゆるものが光って見えてくるようになるのだろうか。それはどんな光だと言われても、説明のしようがないもののように思えた」

と言われるような、永遠の生命の輝きとしての光の原体験です。氏はそのような光に導かれて、仏に出遇われたのです。

表紙の言葉は、納棺夫としての原体験を元として、御影堂の灯明の光、さらにはかすかに差し込む外光の様子がクロスオーバーして見られた心象風景ということでしょう。いわば十方微塵といわれる生命あふれるこの世界は、光明として象徴される阿弥陀仏の輝きに満ちあふれているということ、それは一切の苦悩の製生を救わんとする仏の智慧の象徴であろうと思われます。

親鸞聖人は「仏の光明は智慧のあらわれであり、この光明はすべての世界を照らして、何ものにもさまたげられず、あらゆる人々の闇を除いてくださるのであって、太陽・月や珠の光がほら穴の闇を破るようなことと同じではないということである」

と、天親菩薩の「浄土論」から、詳細な意味を明かそうとされる曇鸞大師の言葉を引用されています。その意味は「光とは智慧の姿であり、すべての世界を隈なく照らし、紫生の真実を真実として知ることができない無知性を取り除くものであり、そのような仏の光はただ単に洞窟の暗闇を照らすような光ではない」と示されているのです。それは、阿弥陀仏のはたらきは無限・無量の絶対的なものとして受け止めておられるということです。

また名号とは、法蔵書が一切の悩めるものを救わんとして四十八の誓願を建立し、その願いが成就して阿弥陀仏、すなわち名号として成就したものです。諸仏はその成就した阿弥陀仏の名である名号を護嘆している、四十八願のなかの十一願には誓われていると教示されているのです。このような光明と名号がからみ合い一体となって、妙なる音楽を奏でていると言われるのです。

さらに、音楽は「仏説無量寿経』には、法蔵菩薩が「重誓偈」を説かれた後に地面が震動し、天から妙なる華を法蔵菩薩の上に降らして「自然の音楽、笠中に読めていはく、(中略)無上 正覚を成るべし (『註釈版聖典』二六頁)」と言われたと教示されています。音楽はいわば、阿弥陀仏の浄土の様相を象徴的に開示したものということです。すなわち「光明と名号がからみ合い、妙なる音楽を奏でている」というのは、阿弥陀仏の世界を光と阿弥陀仏の名号と妙なる音楽として、象徴的に表示されたものであるということができるでしょう。

寺院の本堂にある須弥量は、仏教の世界観である須弥を可視化したものであり、それゆえ寺院の本堂は、阿弥陀仏の浄土を人間世界に具体的世界観として可視化したものとされています。そして「心識派に経」には、阿弥陀仏は「今現在説法」されていると示されています。

このような仏の世界は寺院だけではなく、各家庭の仏壇においても同じでしょう。

讃岐の妙好人庄松さんが、ある年の夏、自宅にそなえてあるお仏壇のなかはさぞかし暑かろうと言って、絵像を風通しのよい廊下に懸けられたという話は、現代の常識人には考えられないことかもしれません。しかし主松さんにとって、仏は今ここ存し生きている存在であり、自身の生活の身近に常に存在するものでした。

光明と名号は、「正信側」に「光明と名号が縁となる」と示され、また「親鸞聖人御消息』には、

本願の名号は浄土往生の因であり、それは父にたとえられます。大いなる慈悲の光明は浄土往生の縁であり、それは母にたとえられます

(「親鸞聖人御消息恵信尼消息(現代語版)』一一八頁)

と教示されています。このように、名号は紫生に与えられた言心の因となり、光明はこの人を照らしてまもる縁となる、という救済のありようをいいます。青木氏が御影堂で見られた世界は、氏の心象風景であると同時に、今ここに現前する苦悩の紫生を救済しようとするはたらき、すなわち阿弥陀仏の他力回向の現出であったということができるのではないでしょうか。

かつて、高僧とされる方の次のような講演録を読んだことがあります。近代の建築様式で新しくできた立派なホールでの講演は、そこで称える人々の念仏の声が聞こえます。多くの年月を経た寺院で念仏を称えますと、今そこで人々が称える念仏と、先人の念仏の声が響き合ってこだまして聞こえてくる、というものです。

この話も象徴的な表現であろうと思います。長い年月の間、先人たちが称えた念仏の声は、本堂の柱や梁のあらゆるところに染みこんでいると言われているのです。

そしてその念仏が、今私が称えている念仏に呼応し、反響して聞こえてくると言われるのです。いわば念仏による響生の世界の現出です。このようなことは単に宗教的象徴ではなく、念仏世界の真実の顕現であるということができるのではないかと思います。

青木氏が見た「光明と名号がからみあい、妙なる音楽を奏でている」という世界も、念仏世界の真実の顕現であったと思われます。

(川添 泰信)

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