十月のことばは、対田興師(一九001一九八二年)の言葉です。この言葉は、
「服思の人⑤安田理深集(上)」(東本願寺出版部・教学研究所編二〇一四年)の中に掲載されたものであります。その書の最後には、安田師の以下の略歴が紹介されています。
安田師は兵庫県生まれ。本名は、安田治というお名前だったそうです。一九二四(大正十三)年に大谷大学に入学し、一九三〇(昭和五)年大谷大学選科修了。この同年、大学を辞した曽我量深師、金子犬菜を中心とした興法学園が設立され、安田師はその園長として就任されました。そして雑誌『興法』の編集・発行を担われました。その後、一九三五(昭和十)年に私塾「学仏道場相応学舎」を開かれます。
一九四三(昭和十八)年に東本願寺で得度。曽我量深師より法名を命名され「理深」と名乗られたそうです。一九四四年から一九四六年まで大谷大学に奉職。一九六〇(昭和三十五)年に、当時世界的に影響を与えていたドイツのプロテスタント神学者パウル・ティリッヒ(一八六六ー一九六五)と対談。ティリッヒは、さまざまな宗派の高僧と対談したそうですが、自身の仏教への関心に、「明確に答えられたのは安田理深だけであった」と言っておられたようです。そして、一九八二 (昭和五十七)年に往生を遂げられました。真宗大谷派贈講師であられます。
安田氏の感化カ
さて、私が師の功績を伺うべく師と有縁の方々の話を調べていた時、講義が難解・難しい・わからないが、何故か多くの人が感化されたといったような不思議な魅力が述べられていました。その一つを紹介します。これは安田師の講義を身近で長くきいてこられた本多弘之氏の著書で「師安田理深論』(大法輪閣二〇一九年)から、書籍案内にも抜粋して紹介されているものです。
浄土という問題に絞って親鸞教学を構造的に解明したのは非常に珍しいことです。安田先生はこの話を、お百姓さんも聞いておられる会座で三日間なさったのです。先生の営みは、存在の故郷を明らかにするべく、自分のあらゆる疑難をぶつけながら思索していく。その営みは何処に行っても行われる。聞いている方は皆ほとんど分からない。分からないけれども、安田先生の思索に触れると、今まで聞いていたものがどうも嘘臭い。だから、いよいよ聞かずにはおれないということになって、先生と一緒に存在の故郷を解明する会座が相続されていくのです。
この中の「いままで聞いていたものがどうも嘘臭い」というこのすがたは、安田師を通して、正しく人間(私)が教えにであった証だったのでしょう。言い換えますと、私が日常でみているもの、聞いているものの危うさを、阿弥陀さまの智慧と慈悲に知らされた営みとでもいうのでしょうか。
僧ということ
そこで今回のことばですが、先に申しました通り、「安田理深集(上)」で発せられている言葉です。その前後の内容は、教団と教学について安田師が言及される中、仏・法・僧の三宝、特に僧(僧伽)について述べられた箇所に出てきます。そこで安田師は現代の問題は「僧伽」(共にみ教えを聞かせていただく仲間、教団、御同朋・御同行)にあることを指摘しておられます(※筆者は安田師ご在世当時の問題ではなく、現在さらに深刻化した問題と感じている)。その啓発の言葉として「人間が人間だけでやっていく、現代の問題はそこにある」という今回のことばが出てきます。
このことばの前後の文章を読んだ最初の私の印象は、正しく先に紹介しました「難しい」というものでした。しかしその内容に感化され、記憶から呼び起こされた自身の出会いと経験が浮かんできました。そのことは、私にとって自分がそれまで見ていた「仲間」の概念をひっくり返された経験だったのです。その経験がなければ、今回のこの安田師の文章を理解することはおろか(※今も安田師の言葉を全て理解したとは言い難い)受け入れることすらできなかったかもしれないと感じています。同時に安田師の社会を見通す目線の鋭さの一端を感じました。ここでその経験を紹介します。読者の皆様にとって、この度の安田師のことばを味わうヒントになればと思います。
私が仏教を学びだして間もない学生時代の話です。ある日の講義で、仏教徒の宝として示される「三宝」(仏・法・僧)の説明がありました。それは、当時の私にとって大変驚く内容でした。仏教徒における宝(三宝)とは、一つ目が「仏」仏さまです。そして二つ目が「法」仏さまのみ教え、またはみ教えがまとめられた経典等のことを言います。と、ここまでは「仏教徒として宝とするのは当然」という思いですんなり受け入れられました。そして最後の三つ目は「僧」といいますが、これはお坊さんではなく「僧伽(サンガ)」といって、仏さまを敬い、み教えを共に聞き・喜ぶ仲間のことを言います。仏さまを敬い、教えにであう前提での仲間のことです。
仏さまとその教えにご縁が無いところには僧はありません。といった説明がなされ、そこに大きな疑問を抱いたのです。
「私は、幼いころから祖父母や両親に、仏教は全てのものを救うみ教えと聞いてきた。そういう教えが「仲間」に何故条件を出すのだろうか。私にとっての「仲間」は、仏教の教えを聞いたことがない人もたくさんいる。中には「うちはキリスト教です」という人もいる。自分にとってはそういう方々も宝と思うのに、何故枠組みを作っているのだろうか」というものです。その後、折々にその疑問を尋ねたこともありました。しかしどこか釈然とせずに、とうとう卒業するまでこの疑問がなくなることはありませんでした。
その後、九州の実家のお寺に帰りしばらくたったある日のことです。「僧伽とは?」というテーマの研修会を受講するご縁がありました。ご講師は、武蔵野大学並びに筑紫女学院大学で教類をとっておられたご講師でした。最初に小山師が問題提起をされました。
親鸞聖人は、関東での生活で聖人を慕うたくさんの方々とのであいがありました。しかし聖人は、その方々に対して「親鸞は弟子一人ももたずそうろう」との立場をもっていらっしゃいます。これは、聖人にとってこの方々は、お弟子ではなくお仲間とみていらっしゃったのですが、我々が見る仲間と同じでしょうか、違うのでしょうか。
その後グループワークになり、参加者の先輩方のお話を伺いました。
「どのお寺さんにもご法座では頭の下がる方がいらっしゃいますね」
唯一記憶に残っているのがこの意見だけで、当時の私にはわけがわからないものでした。親鸞聖人の「弟子一人ももたず」という立場も、大変謙虚な方というイメージでした。講義の最後に質疑応答の時間となり、思い切って小山師に先の疑問をお尋ねしました。師は丁寧に私の疑問を何度も確かめながら答えてくださいましたが、それでも私は納得できませんでした。その私の納得いかない顔を見て、小山師は自身のエピソードをご紹介してくださいました。
先に述べました通り、師は大学で仏教の講義をなさっていましたが、必ずその日の講義の感想文を生徒に書いてもらっていたそうです。ある年の講義でのことです。
一人の生徒が毎回その感想文に、講義内容への文句を書いてきたそうです。
「先生の講義は全く意味がわからないです。私は仏さまなんていないと思っています。お浄土?先生は夢でもみられたのですか?」といったものでした。師は「当時、正直私はその生徒が嫌いでした」とおっしゃっていました。師のお気持ちは理解できます。一度や二度「わからない」と言われたぐらいでは嫌いにならないでしょうが、毎週・毎回講義の度に反論されると「この人は私の話を聞く気がないのだな」と思うでしょう。
そうした中で一年間の講義が終わりました。終了後に、その生徒の最後の感想文を読んで、小山師は驚かれたそうです。
「先生、一年間お世話になりました。私はプライベートで、辛いこと悲しいことがたくさんあり、人生を投げやりに思っていました。しかし先生のお話を聞くたびに、疑問を持ちながらも、生きる力をいただいた気持ちになりました。仏教って素晴らしいと思います。毎回失礼なことばかりいいまして大変申し訳ありませんでした。
またどこかで先生のご講義をお聞かせいただけることを楽しみにしています」
といった内容のものだったそうです。小山師は、その話をご紹介いただいた後に私の疑問に対してこうおっしゃったのです。
「私は、指導者として教えながら、その生徒から本当に聞くという姿勢を教えていただきました。感想文を読む度、わかりやすいです。楽しく聞かせていただきました等、講義に対し肯定的な意見を言う生徒が聞いてくれている人と私は思っていました。しかし、最後の感想文を読ませていただいたとき、その反論ばかりの生徒こそ私の話を一番聞いていてくれたのだということを知らされました。私は教壇に立って教えながら、本当に聞くという姿勢をその生徒に教えていただいたんです。私とその生徒は、世間で言えば今でもこれから先も元先生と生徒という関係でしかありません。しかし、仏さまの眼からみれば、互いに教えあう仲間とみていらっしゃるんでしょうね。僧とは仏さまの眼を通した仲間であります」
教えを通した風景
み教えを聞かせていただくと、煩悩をもつ身とは、自己中心にしかものを見れないと知らされます。私の目線での仲間は、結局自分にとっての都合の枠から抜け出ることはないのです。もし仏さまの目線がなければ、小山師も、嫌いな生徒が思ったよりいい生徒だったという変化しかなかったはずです。「世間での生徒が実は師であった」という風景があったでしょうか。
もう一度申しますが、あの人は良い人、悪い人と悩具足の私の基準は、しょせん都合の枠にしかありません。そしてその都合が真実でない故に、良い人が悪い人へ、悪い人が良い人へと、ころころ変化します。それは一対一の関係であっても大きな集団となっても、「人間だけ」の関係である限り同じです。故に、共に歩む日常は良かった、間違いだったを繰り返し、前進・後退の連続で道を見失い生きづらさを感じずにはおれない社会(人生)があります。
「人間が人間だけでやっていく、現代の問題はそこにある」この安田師の言葉を通して、仏さまを仰ぐ日常の大切さを多くの方とご一緒に考えられるご縁となればと思います。
(藤川顕彰)