御開山・親鸞聖人のことばに、
法身はいろもなし、かたちもましまさず。しかれば、こころもおよばれず、ことばもたえたり。
(『唯信鈔文意」「註釈版聖典』七〇九頁)
というものがあります。有名なことばですのでご存じの方も多いでしょう。
仏陀の覚った真理は、ことばや形として表すことができないものであり、仏陀の本性とはその真理そのもの(真如)であることを指して法身といいます。つまり、真理とは壊れたり父けたり消滅してしまうような有形のものではなく、永遠であり、それが仏陀とその覚りであり、法身ということです。
しかし、私たちはことばを介すことで成り立っている世界に生きています。そして、この世界は生滅変化する世界でもあります。もし、真理がことばで表現することが可能であるような何らかの形をもって存在しているのであれば、一人ひとりの感覚によって知覚される真理にも、表現することばにも違いが生じることになるでしょう。そして、真理がそのような人為的な行為に左右されるものであれば、真理がいくつもあることにもなりますし、いつか滅してしまうものということになってしまいます。
法身とは、人間である仏陀・釈尊がこの世界の人々に語ったことばによって伝えられた真理が、生滅変化するものではなく、永遠のものであるということの整合性をどうとるのか、ということが考えられた中から出てきた思想というように考えられます。ですから、法身はそのまま捉えることはできないものであり、そのことを表現したものの一つが、「こころもおよばず(考えることもできない)、ことばもたえたり(表現できることばを持ちえない)」ということでしょう。
では、歴史上の肉体をもって存在した人間である仏陀・釈尊はどう扱えられるのかというと、真理、あるいは真理のはたらきが物質的(色)な肉体(身)をもってこの世にあらわれた仏陀ということで、それを色身と言います。
そもそも、どうして仏身という問題が考えられるようになったのでしょうか。伝統的な仏教では、私たちの世界において仏陀とは釈尊のみであると考えられています。先述したように、私たちの生きている世界は生滅変化する世界です。そのことは、釈尊によって「この世のものは絶えず変化し、永遠に存在するものはない」と説かれた仏教の根幹ともいえる縁起の教えとして示されている通りです。ですが、この縁起の道理によって、この世で釈尊が語った教えもいつかは滅してしまうもの、というように捉えられることがあるわけです。
ですから、真理そのものである法身は永遠であり、仏陀・釈尊は真理を体現し、私たち縁起の世界に生きる人間にわかるように、あえて形にして真理を伝えるために現れた人間であり、それを色身というように考えられたのでしょう。このように肉体を持つ仏陀と真理の関係を二つに考える仏身の思想を二身論、あるいは二身説といい、龍間の著作と伝えられる「大智度編」(※1)などに見られます。この仏身の捉え方が日本の浄土教に大きな影響を与えています。
なお、龍の時代より後の大乗仏教思想からは、真理のはたらきとして報身という仏身の見方が現れ、法身・報身・応身(真理のはたらきが具体化したもの)の三身という捉え方が、『十地経論』(※2)などに見られます。また、報身には修行の結果として得られる仏という理解もあり、また日本の浄土教では、法身に真理のはたらきがあると捉えられることが多いように思います。
さて、今月のことばである「如来ご自身が南無阿弥陀仏となって紫生の前にあらわれてくださった」について考えていこうと思います。
如来ご自身とは、もちろん阿弥陀如来を指していると読めますが、阿弥陀という名前の意味が「無量寿」「無量光」であること、そして「無量」が、量が無いこと、ではなく、量ることができないこと、という意味であることはご存じのことと思います。つまり、阿弥陀如来という仏とその覚りやはたらきは私たちには把握できないことを意味しています。つまり、この世界に生きている私にとって、仏とは私自身の認識の及ぶものではない、言い換えると本来は私たちが日常で用いていることばで表現できうるものではない、ということでもあります。
では、私たちが称えることができるお念仏、「南無阿弥陀仏」が仏陀や真理に対してどのように捉えられるのでしょうか。そこを明確に示されたのが今月のことばと言ってよいでしょう。つまり、本来は私たちの認知できるものではない阿弥陀如来や、その誓願や覚り、はたらきが、私たちが知覚できる「南無阿弥陀仏」という名号となって私たちにはたらきかけている、ということです。
姿かたちはもちろんのこと、私たちに絶えずはたらきかけている阿弥陀如来とその願いを私たち来生は察することすらできません。私たちが何かを認知できるのは、私たちの認知する能力の範囲内でしかないからです。私たちの認知しようとする思いも私たち自身の有限な能力の範囲内で起こしたものにすぎず、また私たちの思いは煩悩に覆われたものであることから、阿弥陀如来の願いを如実に理解することが難しいだけでなく、自分勝手に捉えてしまって、しかもそのことに気付かないのが私たちなのです。
それでも、そのような存在である私たちにも、阿弥陀如来の願いがはたらきかけていることに気付くことができるように、あえて私たちが知覚できるように現した姿が「南無阿弥陀仏」の名前(名号)なのです。
ですから、私たちにとって「南無阿弥陀仏」という名号に触れることは、阿弥陀如来の願いによって救われることが定まっていると知る、というように受け止めることにとどまるのではなく、私たち自身についても真理を如実に知ることが難しい存在であると受け止めることが大切なのではないでしょうか。ことばによって成り立っている世界を生きていることで、知らず知らずのうちに自分勝手に物事を理解したつもりになっていて、気が付くと本来は姿かたちのない阿弥陀如来も、その阿弥陀如来の願いの大きさすらも自分の認知し、表現する能力の範囲で理解できたつもりになってしまっていることに気付くことも、「南無阿弥陀仏」という名号となって私たちの前に姿を示された意味であるというようにも読める今月のことばではないでしょうか。
※1「大智度論』 大正新脩大職經、No.1509
※2「十地経論」 大正新脩大職經、No.1522
(長尾重輝)