「仏教」と「善」から連想される有名なことばに
スバッダよ。私は二十九歳で、何かしら善を求めて出家した。(※1)
があります。
また、つぎの「北化運識園」(※2)もよく知られたことばではないでしょうか。
sabbappaassa akaranam (サツバパーパッサ アカラナン)「一切の罪を犯さぬこと」
kusalassa upasampada(クサラッサウパサンパダー)「善を具足すること」
sacittapariyodapanam (サチッタパリヨーダパナン)「自らの心を清めること」
etam buddhana sasanam (エータンブッダーナサーサナン)「これが諸仏の教えである」
他にも「善知識」「善友」ということばを目にした方もおられると思います。
最初に挙げたことばは、二十九歳で出家した釈尊(お釈迦さま)がその当時を振り返って語ったことばとして『大パリニッバーナ経』に出てきます。
次に挙げた「七仏通誠」は、よく禅宗の和尚さんが書の題材にされていますので、お茶室の床の間などに掛けられているのを見たという方もいるのではないでしょうか。
「善知識」は「仏道に導いてくれるもの」のことであり、「善友」は直接的には交際することで利益のある人を意味しますが、仏教においては「一緒に覚りをめざし、互いに刺激し励まし合う人」といったように捉えられます。
さて、ここに挙げたこれらのことばに見られる「善」は、解脱(苦悩からの解放・覚り)を得るために大切なもの、必要なものと考えられているということがわかります。
つまり、釈尊は人生の根本苦 (=四苦(生老病死))を解決したくて出家したのですから、その釈尊が求めた「善」とは苦の解決、あるいは苦の解決に結びつくものと考えられるものであるはずです。その「善」は、自分の心を浄めること、すなわち煩悩を断って覚りを得るためには、罪を犯さず「善」を身に具えなければならない、というすべての仏陀によって説かれた教えに見られる「善」と同じものと考えることができるのです。
このように捉える「善」を、宮城顗師は著書『地獄と極楽』(東本願寺出版)に、「無漏善」として挙げて「仰における善」「出世間の善」というのがその意味として説明されます。なお「漏」とは、煩悩を指していますので、無痛とは煩悩のないことを意味します。そして、この「善」に対して「福徳」「善美なるもの、うるわしいもの」「幸福」といった異なる三つの面も同じ「善」ということばにあって、合わせて四つの面があることを述べられています。
なお「福徳」「善美なるもの、うるわしいもの」「幸福」というそれぞれの面の「善」に対する「悪」についてはそれぞれ異なっていて、単なる善悪とするには複雑だが、考えられるものであるはずです。その「善」は、自分の心を浄めること、すなわち煩悩を断って覚りを得るためには、罪を犯さず「善」を身に具えなければならない、というすべての仏陀によって説かれた教えに見られる「善」と同じものと考えることができるのです。
このように捉える「善」を、宮城顗師は著書『地獄と極楽』(東本願寺出版)に、「無漏善」として挙げて「仰における善」「出世間の善」というのがその意味として説明されます。なお「漏」とは、煩悩を指していますので、無痛とは煩悩のないことを意味します。そして、この「善」に対して「福徳」「善美なるもの、うるわしいもの」「幸福」といった異なる三つの面も同じ「善」ということばにあって、合わせて四つの面があることを述べられています。
なお「福徳」「善美なるもの、うるわしいもの」「幸福」というそれぞれの面の「善」に対する「悪」についてはそれぞれ異なっていて、単なる善悪とするには複雑だが、要約すると「人間として嫌悪すべきもの」というようにまとめられています。さらには、この三つの善と悪の対立は世間的なものですから、善であっても悩に覆われている善(有福善)ということになります。なお「善」の対義語としてここでは「悪」を用いていますが、仏教では「不善」を「善」の対義語として用いる文章がよく見られます。この場合は「人間として嫌悪すべきもの」を「善ではないこと」として捉えるとしっくりくるのではないでしょうか。
では、煩悩に覆われていない「無漏善」と、煩悩に覆われている「有海善」の違いはどこにあるのでしょうか。それは「私」に対する執着、言い換えると「私は絶対に正しい」という強いこだわりの有無ということになるでしょう。「私は絶対に正しい」という強いこだわりを持つことが、どうして「煩悩」に結び付くかといえば、そのこだわりによって「私の身の上に起こることは、私にとって快適なものであるべきだ」という思いをもってしまい、しかも多く場合、その思いは裏切られ、不満を覚えることになります。この不満が煩悩であり、不満を覚えたときに私たちは苦を実感します。
このように考えると、多くの人がまず思い浮かべる煩悩は「欲望」ではないでしようか。欲望は、自分のものではないものを自分のものにしたい、というように言い換えることができると思います。私にはあれこれがない、といって欲しがることというようにも言い換えられるでしょう。これを少しこじらせて、「あの人がもっていて、私が持っていないものを、私も欲しい」という思いをもつこともあるでしょう。しかし、欲しいものすべてを手に入れられることなどありませんから、不満を覚え、苦を実感することでしょう。
欲望以外の煩悩についても、「私は絶対に正しい」という強いこだわりが大きく影響しています。「食欲(欲望)」「「志(怒り)」「愚痴(愚かさ)」の三毒はよく聞かれますので、その他の煩悩である「慢」「疑」「見」について少し見ていきます。なお、三毒に慢、疑、見を加えて「六随眠」といいますが、これは、世親(天親菩薩)の著作『倶舎論(阿毘達磨倶舎論)』「随眠品」に見られる煩悩の枠組みです。
まず「慢」ですが、これは驕り高ぶることです。相手よりも自分が上であるという思い込みから、相手に対して思いあがるということです。現在、「我慢」ということばは、どちらかというと理不尽に耐えることというような意味で用いられることが多いと思いますが、本来の仏教用語としては、何かと比較しながら自分を実際よりも勝れていると過信する、という意味です。
次に「疑」ですが、これは正しいことに対して疑いの思いを抱いてしまうことです。疑と「私は絶対に正しい」という強いこだわりとの関係については、伝統的には四話の教えを言じられないことを意味していると理解されています。四話とは、苦悩が生じているのには原因があり、苦悩が減されるのにも原因がある、という縁起の教えを具体的に表して、苦悩を滅する方法である八正道をすすめるものでもあります。ですので、ただ正しいことに対する疑いの思いを抱くことだけでなく、仏教が理想として掲げる覚りへ至る道を進むことに対して躊躇することにつながることから、正しい行為を妨げてしまう原因とも考えられます。
最後に「見」ですが、これは悪見や邪見とも表現されますが、過ってものごとを見るということです。つまり、ものごとをありのままに見ること、「正見」を獲得できていない私たちのものごとの見方そのものと考えられます。
以上のことから、「私は絶対に正しい」という強いこだわりを持ってしまうから自分で苦を生み出している、と仏教では考えられていることがわかりますが、同時に「私は絶対に正しい」という思いが「思い通りにならないのは他者のせいである」と考えてしまっていることにも気が付けるのではないでしょうか。つまり、私たちは自分が苦しいのは相手のせいである、と考えてしまいがちであるということです。
このような私たちのあり様を、宮城師は「善と善の戦い」というように表現されたのではないでしょうか。つまり、善悪の争いではなく、双方が自分を善だと言って譲らず、互いが考えている「善」と相容れない相手の「善」を「悪」と捉えてしまうところに争いがおこっているのが、私たちの日常ということでしょう。そして、善と善の争いは、衝突しあう異なる主義同士が、互いに自分の主張が正しいと言って争うことです。またお互いに自分は正しくて相手が間違っていると固執することで生じる人間同士の争いだけでなく、私に不快な思いをさせるものすべてを悪と捉えてしまい、自らの苦を増大させているということもいえるのではないでしょうか。
私たちが普段考えている「善」がどのようなものか、振り返って考えるきっかけになる、そんな今月のことばではないでしょうか。
ところで、今月のことばはもう一つの問いを投げかけているような気がします。
それは、私たちが阿弥陀如来に導かれて覚りをめざすために大切だと考えている「善」が「無痛善」なのか「有漏善」なのか、ということです。私が善であると考える限りは「有福善」ということですから、私たちの迷いの深さを思い知らされるとともに、そのように煩悩に覆われている「私が考える善」をはるかに「超越した善」をもって私に対してはたらいている阿弥陀如来の本願の有り難さを、改めて気づかされる今月のことばでもあるように思います。
※1 中村元訳『ブッダ最後の旅ー大パリニッバーナ経ー」(1980、岩波文庫)p.150
※2「ダンマパダ(法句経)」183°中村元訳「すべての悪しきことをなさず、善いことを行い、自己の心を浄めること、これが諸の仏の教えである。」
(長尾重輝)