金子大榮氏は新潟県の出身であり、一八八一(明治十四)年五月に出
生され、一九七六(昭和五十一)年十月に九十五歳で逝去されました。氏は、清瀬之氏や賞我量深氏などと協働して研究・活動された、真宗大谷派における真宗学の泰斗のお一人です。
氏は、一九〇一(明治三十四)年に京都より東京に移転し開校した真宗大学(現大谷大学)に入学して、初代の学長であった清沢満之氏の影響を受け、一九〇四(明治三十七)年に卒業されました。以降、生地に帰り自坊の寺務に従事しつつ、同郷の曽我量深氏と親交を深められました。一九一五(大正四)年には、上京して清沢満之氏が創刊した雑誌『精神界」の編集責任者となり、一九一六(大正五)年には東洋大学教授となられました。翌年には大谷大学教授に就任し京都に移られるのですが、教学理解の相異によって一九二八(昭和三)年、同大学を辞任し、その後、広島文理科大学(現 広島大学)で専任講師を務められました。一九四二(昭和十七)年には、再び大谷大学教授に復職されました。
私はかつて、親鸞聖人が開示された浄土真宗の肝要な教えである「聞即信」の「聞」について、一文を書こうとしたことがあります。それは浄土真宗における「聞」とはどのようなありようなのか、ということを明らかにしたいということだったのですが、そのときに参考にした資料の中で述べられていた、金子氏の次の言葉に強く教えられたことがあります。それは、
仏法は聴かねば聞こえぬものであるに違ひない。されば聴く者のすべてが、必ずしも聞き得るものではないようである。それは聴く事は聴く者の力であり、聞ゆることは仏法そのものの用きであるからである。それ故に聴は聞の機縁ではあるが、しかも聴から聞へと連続するものではない。ここに求めずば与えられず、されど与えらる、ものは求めたるものにあらず
というものです。「聞」は「聴聞」ともいいますが、「聴」は自ら聴くという事態を示し、「聞」は仏の方から聞こえてくる様を示す言葉です。浄土真宗の「聞」というのは、仏のはたらきによって聞こえてくるありようをいうのであり、それは私が聴こうとして聴いたものとは異なっている、という教示です。この金子氏の浄土真宗の「聞」の理解によって、改めて親鸞聖人が示された「聞即」の信仰的意味を教えられたように思ったことがありました。
さて、氏には多くの著書がありますが、本標語は「浄土真宗とは何か『教行証」のこころ1』(二〇二一(令和三)年十二月東本願寺出版)に掲載されたものです。
ちなみに本書は、一九八〇(昭和五十五)年初版発行の『真宗入門 ー『教行信証』のこころー』を東本願寺出版の責任の下、書名も若干の変更を加えて文庫化して出版されたものです。本書の内容は、最終章を加えて九章で構成されており、内容は「教行信証(顕浄土真実教行証文類)』の構成を始めとして、『教行信証』全体を開示している「総序」から始まり、「教巻」「行巻」「信巻」の主たる部分について明かされています。
「念仏をはなれて仏もなく自分もない」の標語のことばは、この本の第六章 七高僧のお言葉のなかで示されています。それは「行巻」の龍菩薩の『十 住婆沙論」の「疑心をもって、執持して名号を称すべし」(「註釈版聖典(七祖能)」六頁)
の文を、念仏の意味を明らかにする導入の引用文としながら、念仏について、七高僧の明かす念仏、直接的には親鸞聖人の開示する念仏とはどのような意味なのかについて述べられたものです。
ところで念仏という場合、仏を心で念ずることを意味する場合もあり、また法蔵菩薩が成就した阿弥陀仏の名前としての名号を指す意味のこともあり、さらには阿弥陀仏の名号が回向されて、衆生の信となり、称名となって顕現する意味を示す念仏もあります。したがって念仏といわれる言葉は、それぞれ表現される場面において、多様な意味を表すものです。標語でいわれる念仏は、このように多様な場面で示される念仏の本質的な意味についてのものです。
『浄土真宗とは何か『教行信証』のこころ』では、標語の前後にその文の意味内容が説明されていますので、その理解について見ておきたいと思います。
すなわち、念仏といえば、念じられるのは阿弥陀仏であり、念ずるのは衆生、つまり私です。ですから、阿弥陀仏と私というものがあって、そこに念仏ということがあるということは、間違いのないことです
と述べられるように、一般的概念的な仰の対象としての阿弥陀仏、そしてその仏を念ずる私、そしてそこに念仏があるといわれています。
このような説明は誰しもが考える、仏と私と念仏の関係であろうと思われます。
さらに続いて、
阿弥陀仏があり、またここに自分がいるということがわかるのは、念仏によるのです。ですから、念仏の他に、阿弥陀仏がましまし、また自分があるということを知る道はないのです。
と言われています。それは阿弥陀仏という救済する仏があり、また救われる私がいるということは、念仏することによって、初めて仏も私も救うものと救われるものとしてあるということがわかると言われているのです。それゆえ、
念仏する心になってみると、そこに仏があり自分があるということになるのです。仏があるから念仏するのではない、念仏するから仏があるのだといってもいいでしょう。
と示されています。そしてまたさらには、
私がいて、そこに念仏というものが出てくるのに違いないのですが、しかしそれはどうしてわかるかといえば、念仏しなければわからない。これをいいかえますと、仏は私たちの前に、念仏として現れてくださるのである。その南無阿弥陀仏によって、私は自分がここにいるということを知らせていただくのだということになるのです。
と述べられています。本質的な念仏の意味の開示ですが、その意味は「念仏する心」でと言われるように、私を救わんとする阿弥陀仏に南無と帰依し、念仏するとき、初めて阿弥陀仏は活動する姿、すなわち念仏として顕現するということです。そしてまた私は、阿弥陀仏によって救われる、罪悪深重の凡夫としての私としてあると言われているのです。
それは、念仏の本質を活動する仏のはたらきとして明かされるものであり、それゆえ「念仏をはなれて仏もなく自分もない」と言われているのではないかと思われます。このことは、念仏とは衆生の念仏する実践において、念仏としての真実の意味が顕現されるのである、ということを明かそうとされたのではないかと思われます。
このような氏の明かす念仏についての意味は、真宗の法話でたびたび耳にする、
原口針水氏の「われ称えわれ聞くなれど南無阿弥陀つれてゆくぞの親のよびごえ」と詠われた言葉にも通底するのではないでしょうか。それは、念仏は私が称え私が聞くものではありますが、私の称える念仏の意味は、仏がまさしく私を摂取して救おうとする呼び声であるという味わいです。
親鸞聖人は、阿弥陀仏について、「浄土和讃」弥陀経讃に
十方微塵世界の
念仏の衆生をみそなはし
摂取してすてざれば
阿弥陀となづけたてまつる
(『註釈版聖典」五七一頁) 34
と詠われています。それは念仏する紫生をみて、摂取して決して捨てないからこそ阿弥陀仏であるということですが、「摂取不捨」の言葉に左訓を附して「ひとたびとりて永く捨てぬなり。摂はものの逃ぐるを追はへとるなり」と説示されるように、阿弥陀仏は、煩悩に狂わされてさとりの世界を避し逃げ回っている来生を、仏の方から追いかけて救おうとしている活動態と見ておられるのです。
念仏は、このように仏の方から救おうとする、仏の顕現ということではないかと思われます。そしてさらには、妙好人として著名な浅キボさんは、自問自答して、
わしや(私は)まん太(まだ)ごくらくをしらんがごくらくわ(は)どこかな
こんなばかをどりや(あなた) まん太(まだ)ごくらくをしらんか
太いぶ(大分)ばか太(だ)のごくらくわ(は)なむあみ太(だ)ぶがごくらく太や
ふんそをかいそりやそりや(そうそう) ありが太(た)いのありが太(た)い
と詠嘆されるように、南無阿弥陀仏が極楽であると言われているのです。そしてさ
らには
「わ太しや(わたしは)ごくらくみ太こ太(見たことは)ないがこゑ(声)で太のしむ(楽しむ)なむあみ太(だ)ぶつ」
と、法味愛楽されるように、称名念仏による喜びを示しておられるのです。
それはまさに念仏が、私を摂取する仏のはたらきであるという受け止めによって顕現する心の世界であるでしょう。
同じ味わいは、山口県下関の六連島のお軽さんが、
鮎は瀬に住む小鳥は森にわたしゃ六字のなかに住む
と詠った言葉にも、同様の味わいを見ることができるように思います。
念仏は一般用語として存在します。それは私の救いとは無縁の存在としての言葉です。そのような私の救いと無縁の念仏は、歴史的に伝えられてきた仏の名前であり、それは知識としての仏名の言葉ではないでしょうか。
しかし、ひとたび、私の救いが問題となったときに発する念仏は、私を済度するはたらきとしての念仏です。このようなありようを「念仏をはなれて仏もなく自分もない」と教示されているのではないでしょうか。
(川添 泰信)