2024年3月のことば南無阿弥陀仏が私の救われるしるしであり証である

梯實園氏は、兵庫県の出身で、一九二七(昭和二)年十月に出生され、二〇一四(平成二十六)年五月に八十六歳で逝去されました。氏は本願寺派の多くの教学機関で尽力され、また膨大な教学に関する自著、共著を執筆されています。さらには伝道に関しても多くの著書を出版されました。

ずいぶんと旧事のことになりますが、梯先生と地方の教学振興の一環として開催されていた勉強会でご一緒したことがあります。梯先生は安心論題、私は七祖教義の講義でした。講義は先生が先、私が後で、それぞれの講義の途中に休憩を入れるという予定でした。講義が始まり私は控え室で待機していたのですが、途中休憩の時間を大幅に過ぎても、先生はなかなか控え室に帰ってこられません。少し心配になっていると、先生は中休みの時間を大幅に超過されて帰ってこられました。そして少し休憩されて再び後半の講義に向かわれたのですが、後半の講義の時間は大幅に少なくなったのでした。時間を忘れて講義をなされていたその姿勢は、先生の真宗の安心を伝えようとする真剣な熱情の表れであったのだろう、という記憶が残っています。ちなみにこの時の私の講義については、「七祖教義の背景となる周縁の話が多かった」といういささか不満足の意を含んだ感想を後日、聞かされたことでした。

さて「南無阿弥陀仏が私の救われるしるしであり、証である」の標語は『季刊せいてん』(本願寺出版社)一二二号に、朝日カルチャーで行われた「『教行証』を読む」(九九八(平成十)年七月)の講義を要約して掲載されたものです。(連載は、『正信偈講座」としてまとめられ、本願寺出版社より二〇二三 (令和五)年六月に刊行)それは「正信偈」の講義として、依釈、戦の中の善導大師について述べられるものであり、

善導大師はただ独り、これまでの誤った説を正して他の教えの真意を明らかにされた

(『顕浄土真実教行証文類(現代語版)』一五〇頁)

という偈で、韋提希夫人にお釈迦さまが救いの教えを説かれるなかで教示されるものです。

すなわち苦悩する韋提希夫人に対して、阿弥陀仏による救いをお釈迦さまが説示されるのですが、その阿弥陀仏は『仏説無量寿経』に説かれる住立空中尊として姿を顕現している仏であるといわれます。『仏説観無量寿経」は、仏の世界を視覚的に表現される経典なので、阿弥陀仏を姿・形で示されているのです。そのなかで示される形を持った阿弥陀仏は、同時に『仏説無量寿経』で教示される法蔵菩薩が四十八の願を建て成就した阿弥陀仏であり、その阿弥陀仏は名として、すなわち名号として成就した仏なのです。

標語で示される「南無阿弥陀仏」とは、『仏説無量寿経』で示される名として成就した名号であり、『仏説無量寿経」の第十七願では、諸仏たちがすべての衆生を救うと大いなる誓いを建て成就された阿弥陀仏の名前を唱えて讃嘆しなければ、法蔵菩薩は阿弥陀仏にならないと誓われているのです。このように誓われた名として成就した陶弥陀仏、すなわち名号は、如来から他力として私たちに回向されるのですから、名号、すなわち南無阿弥陀仏は私の救いの「しるし」であり、また同時に「証」であるといわれるのです。

なお、この言葉自体は蓮如上人の「蓮如上人御一代記問書」に「証拠は南無画系陀仏なり」(『註釈版聖典』一二五八頁)に基づいて示されたものです。

衆生の救いの「しるし」であり、また「証」である南無阿弥陀仏は、名号すなわち南無阿弥陀仏という名前として成就されたのです。「名は体をあらわす」といわれるように、名前は本質を示しているといわれます。その本質を示しているということについて、今少し親鸞聖人の南無阿弥陀仏、すなわち仏の理解に関する教示をうかがってみたいと思います。

親鸞聖人は、「一念多念文意』に、

一実真如というのはこの上なくすぐれた大いなる涅槃のことである。涅槃とはすなわち法性である。法性とはすなわち如来である。宝海というのは、どのような家生も除き捨てることなく、何ものにもさまたげられることなく、何ものも分け隔てることなく、すべてのものを導いてくださることを、大海がどの川の水も分け臓てなく受け入れることにたとえておられるのである。

この一実真如の大宝海からすがたをあらわし、法蔵菩薩と名乗られて、何ものにもさまたげられることなく楽生を救う尊い誓願をおこされた。その誓願を因として阿弥陀仏となられたのであるから、阿弥陀仏のことを報身如来というのである。

(「一念多念文意(現代語版)』三十二頁)

と示されています。

さらにはまた「唯信鈔文意」には、

法性はすなわち法身である。法身は色もなく、形もない。だから、心にも思うことができないし、言葉にも表すことができない。この一如の世界から形をあらわして方便法身というおすがたを示し、法蔵菩薩と名乗られて、思いはかることのできない大いなる誓願をおこされた

(『唯信文意(現代語版)」二十三頁)

と明かされています。親鸞聖人の如来の明示からいえるのは、法蔵菩薩は、色もない形もない法身である涅葉の一如から姿を表して法蔵菩薩となのり、本願を建てられたのであるということです。すなわち法蔵菩薩とは、人間の思慮の及ばない一如、真如そのものから現出した菩薩であると捉えられているのです。

一加とは真理そのもの、今日的な表現をすれば絶対ということであろうと思います。絶対というのは、人間には把握し理解することはできないものです。なぜなら、人間は相対世界にある存在です。相対なるものをいくら積み重ねても、絶対になることはできません。そのように絶対に至ることはできない衆生のために、絶対世界から相対世界の菜生にわかるように、法蔵菩薩として現出されたといわれているの44です。

いわば法蔵菩薩は、一如の絶対を根拠としているということです。このような理解は、前述の『一念多念文意」に、方便というのは、すがたをあらわし、み名を示して、衆生にお知らせくださることをいうのである。すなわちそれが阿弥陀仏なのである。この如来は光明である。光明は智慧である。如来の智慧は光というすがたをとるのである。智慧はまた、すがたにとらわれないから、この如来を不可思議光仏というのである。

(『一念多念文意(現代語版)」三十三頁)

と示されています。阿弥陀仏は、真理の世界から衆生が理解できるように、法蔵菩薩として現出し、阿弥陀如来となったといわれ、さらにその現出した阿弥陀仏は、光であり、智慧であるとされます。そして智慧は、限定のある相対的な智慧ではなく、広大な絶対的な智慧であり、それゆえ限定をするかたちもないので不可思議光ともいうのである、と示されているのです。

如来を智慧の光明として捉えることは、如来の像や形の周像にとらわれないということであり、それはまた人間の我見によってつくられる如来ではなく、人間の思惟を超勝した如来ということであろうと思われます。すなわち、南無阿弥陀仏という如来は、絶対の世界から生を救おうとして現れたものであるから、私を救う「しるし」であり、また「証」ともなるといわれるのです。

一如である真理が真理のままであるなら、真理は絶対ですから、相対の衆生には全く無関係であり認識することさえできないものとなるでしょう。苦悩する衆生を救済するためには、絶対的な一如が相対の紫生に理解できるように、そのありようを現出しなければ、絶対的な一如は真理としてはまちがいなく真理ですが、楽生と無関係の真理ということになるでしょう。南無阿弥陀仏が一如、真理からの現出ということは、紫生を救済するということを表そうとしているのであろうと思います。

では、阿弥陀仏が衆生を救済するということは、具体的にはどのようなことなのでしょうか。

号機の「赤」は「止まれ」を意味するものである、と私たちは認識していますが、本来、「赤」という言葉は、色を示すものであって、「止まれ」を意味するものではないでしょう。しかし信号機の「赤」は「止まれ」を意味するものであることを、私たちは知っています。これが「赤」という色に、「止まれ」という意味が付与されているということです。

「母」という言葉にも同じことがいえます。直接的には、生物学的な意味の、自分を生んだ親ということを意味する言葉です。従って本来の「母」という言葉は、慈愛を意味しているのではないでしょう。しかし幼子が「お母さん」と呼ぶとき、その「お母さん」という言葉は、自分を慈しみ愛でる、慈愛そのものを表しているということができるでしょう。さらにいうなら、「お母さん」と呼ぶときの幼子は、お母さんという言葉に合意された、母の慈愛の中にあるということでしょう。それゆえ幼子にとって「母」という言葉は、慈愛を表す「しるし」であるとともに、「証」そのもの、ということだと思われます。

このような意味において、念仏はしるしであると共に、そのしるしは救いの証でもあるということなのではないでしょうか。

『異抄」第九条に示される、親鸞聖人と唯円の対話において、唯円が、「念仏をするようにはなりましたが、喜びや、浄土に往生したいという心が起こってこないのです。このようなありようはどのように考えたらよいのでしょうか」と尋ねています。問いについて、親鸞聖人も同様な思いであったと言われました。

「よく考えてみますと、浄土に往生したいという喜びの心が起こらないのが、衆生の真の姿であって、そのような衆生の実相を見越して弥陀の本願はたてられているのですから、ますます本願が確かなものであるといえるでしょう」と答えられているのです。南無阿弥陀仏すなわち名号は、衆生の思いに先立って建立されたものである、と示されているのです。

「仏説無量寿経」ではこのような仏のありようを、「先意承問」すなわち、相手の気持ちを先だって汲み取ってよく受け入れるありようだと示しているのです。

南無阿弥陀仏は、生に先立って真実を証明するものであり、同時に真実そのものであるのです。すなわち、衆生に先立つ真理に基づく阿弥陀仏の真実のありようを、念仏は真実を証明する「しるし」であると同時に、「証」、すなわち真実そのものであるといわれたのでしょう。

(川添 泰信)

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