2024年4月のことば まことに浄土真宗とは 聞法がいのちであった

四月のことばは、近田昭夫師のお言葉です。

近田師は、一九三一(昭和六)年に東京浅草に生まれ、法政大学経済学部経済学科を卒業し、一九五五(昭和三十)年より真宗大谷派顕真寺住職を務められました。その間、真宗大谷派総会所教導・同朋会館教導を歴任され、二〇一八(平成三十)年+月二十六日に往生されました。

この四月のことばは、師の「仏さまはどこにおられますか?」(東本願寺出版部)の中に、

如来したまう本願は、相手の身になって、その身の事実を引き受けて立ち上がる力となろうという、未曾有の救済プランだと言ったら言い過ぎでしょうか。

大悲の仏心にめざまされたら、「面ア洗って出直しだ」と、身の事実から歩み立てます。弱い者に弱いまま立てる心がおこります。まことに浄土真宗とは聞法がいのちであったと知らされるではありませんか。

とあるお言葉からです。

その前のところでは、「人の死でなぜ経が読まれるか」と、宗教が身近ではない方を想定しつつ、宗教の根源に戻るような問いを立てられて、

本来、お経というのは教えの言葉ですから、お亡くなりになった方に対して語られたものでないのです。

と仏教の基本を示されます。さらに「そういうもの(教えの基本)が、人の死においてなぜ大切に読まれてきたのか」を問われ、

それは、人間の言葉が間に合わなくなったからです。言葉を失うという体験にあっては、仏さまのお言葉のお出ましをいただくしかないのです。仏さまのお言葉はまことの言葉であろうという倍頼の念に裏付けられて、そういうことがおのずと行われてきたのです。

と、仏さまのまことの言葉であるお経の言葉でしか間にあわない場面、まことの言葉があらねばならない場面を、端的に示されます。そしてさらに、「では仏さまのお言葉がなぜまことの言葉と言えるのか」と、厳しく問われます。その答えを仏さまは、大いなる心で悲しみたまうからなのです。

と示されます。まことの言葉とは、相手の身になって共感する、大いなる悲しみの心だとおっしゃるのです。そのまことの言葉こそが、法蔵菩薩の本願であると明かされ、今月の言葉を含む文章へと続いてゆくのです。

師は、「素人感覚が大切」とも言われておられたようで、具体的な生活の場面から考え始められ、素人という前提条件の一切ない、誤魔化しのきかない方の問いを重ねてゆかれます。

「なぜお経を読むのか」は、まさに思わず「お葬式って本当にしなきゃならないのかなあ」とつぶやいてしまう具体的な場面を想像させます。また確かに、お葬式とは、人間の言葉が間に合わなくなる状況でした。大切な人の死に際して、私達は悲しみの中で、その悲しみを表現する言葉を失わざるをえません。また自分の死について、死とは何かを明確に説明する言葉を持ちません。師は、その人間の言葉が尽きた世界こそ、この仏さまのお言葉が必要な世界だとおっしゃるのです。

人間は言葉で自分の世界を作り出しています。だとすれば、言葉を失った世界とは、意味を失った私の世界のことです。無意味な世界を生きねばならないことを、人は絶望というのではないでしょうか。「仏さまはどこにおられますか?」に対して、師は、「一切が無意味になった私の絶望の場におられるのが、仏さまである」と言われているのでしょう。

絶望の場に間に合うのは、仏さまのまことのお言葉しかない。まことのお言葉とは、ウソのない言葉です。ウソとは、言っていることとやっていることが異なっていることです。まこととは、言葉と行動が一致していることです。意味を失った絶望の世界が必要としているのは、言葉と行動が一致した仏さまのお言葉なのです。

そしてそのお言葉は、相手の悲しみに共感する仏さまの悲しみの心から出たお言葉でなければならない。また、いつでもほんとうのことを言えばいいわけではありません。ほんとうのことを指摘したウソの無い言葉が、人を深く傷つけることがあります。良かれと思い言った言葉が、相手を傷つけてしまうのです。そこには、相手の身に立った言葉が必要なのです。しかし、残念ながら私は、相手の悲しみを本当にはわかることができません。痛ましいことです。

相手の身になって相手のすべてを知り、相手の安らぎの為に生きる方こそ、仏さまです。親鸞聖人の先生である法然聖人は、「選択本願念仏集』本願章に、

弥陀如来、法蔵比長の昔、平等の熱悲に催されて、あまねく一卵を摂せんがために、(中略)ただ称名念仏一行をもつてその本願となしたまへり。

(『註釈版聖典(七祖備)」一二〇九頁)

阿弥陀如来さまには、法蔵と名のられていた求道者の時代がありました。その時に、平等の慈悲によって、すべてのあらゆる者に本当にしあわせな生き方をさせようと、すべてのあらゆる者にただ南無阿弥陀仏と称える生き方をさせること、それを最も大切な願いとされました。

(著者意訳)

と明かされました。

このお言葉の中の「平等」とは単なる公平ではありません。絶望して苦しむ者と阿弥陀如来さまは、同じ場に立つ者、同じ価値を持つ者だという意味を含んでいます。例えばそれは、相手より優位に立とうとするマウンティングが無い世界です。

つまり「平等」とは、強者がエラくて弱者がダメなのではない、上下関係にならない仏さまのさとりの境地です。ひとつひとつ「いのち」は、かわりのきかない、かけがえのない存在だとする、仏さまのさとりの世界を「平等」といいます。

「慈悲」とは、相手の悲しみ苦しみを自分の悲しみ痛みとして共感する者が、見返りを一切求めず純粋な思いで身をつくして行動し続ける、その心のことです。つまり阿弥陀如来さまは、言葉を失った絶望の世界に生きねばならぬ者のかけがえなさを知り、その苦しみをはっきりとわかりつくした仏さまであったのです。その仏さまの最も大切な願い(本願)が、人々に南無阿弥陀仏と称えさせて仕合わせにすることだったのです。

そのことを近田師は、「ここ(言葉を失った場所)が、法蔵菩薩が南無阿弥陀仏という本願を立てざるを得なかった場所」とも「如来したまう本願」ともおっしゃいます。如来とは、私の所に届き来ている仏さまのことです。仏さまは私の身になって、私の上におこる悲しみや苦しみなどの生活事実を自分のこととして引き受けて、南無阿弥陀仏と称える生き方となって届いている。それが本願、つまり最も大切な願いであるというのが、師の「如来したまう本願」です。そしてまたそれが、無意味な絶望の世界から立ち上がらせる力である。そして、南無阿弥陀仏と称え生きることは、阿弥陀如来さまの私に対する未曾有の救済プランだともおっしゃる。

その救済プランは、仏さまのさとりの境地が、私の悲しみ苦しみへの共感となって動き出した心です。その仏さまの心が、私の苦しみを共にして解決しようと南無阿弥陀仏と私の上に実現していることを知った時、はじめて、私は絶望から立ち上がり、絶望の現実を背負い歩むことができるのです。

「浄土真宗」とは、南無阿弥陀仏と称えて生き、浄土に生まれてゆく真実の教えのことです。「浄土」とは、仏さまのさとりの境地です。浄土に往き生まれる南無阿弥陀仏と称える生き方をするのが、浄土真宗という教えです。仏さまは、私に浄土に往き生まれるような生き方をさせて、私をしあわせにしようとされる。その浄土真宗を、師は仏さまの救済プランだとおっしゃるのです。

そこで、近田師の「月々のことば」です。

まことに浄土真宗とは聞法がいのちであった

「聞法」とは、法を聞くこと。法とは仏さまの教え。仏さまの教えとは本願のことです。「聞法」とは、「私が南無阿弥陀仏と称えて生きること」について、「仏さまの最も大切な願いが、私に実現していることである」と聞くことです。念仏を称えていることは、仏さまの本願の心が私の上に実現していること。そのように聞き容れながら生きることが、浄土真宗そのものです。そうした聞法の大切さを、師は「いのち」とおっしゃるのでしょう。

また、私が絶望から歩み始めることは、仏さまの最も大切な願いと共に生きることです。念仏申していても、私が仏さまの願いを聞き容れないまま生きることは、仏さまのことを知らぬままに生きることです。仏さまの願いは、仏さまの「いのち」です。私が念仏を称え生きることは、仏さまの「いのち」です。絶望の世界では、仏さまの「いのち」を見失います。私がしあわせになることは、仏さまの「いのち」です。その意味で、開法は仏さまの「いのち」です。

近田師は、「まことに」とおっしゃいます。このお言葉には、師が御自身の生活事実の中ではっきりと確認された、浄土真宗という教えの実在性への確かな実感があるのでしょう。

(濱畑 僚一)

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