2026年3月のことば 一人の人生であっても決して独りではなかった

三月のことばは、藤澤量 正先生のお言葉です。

藤澤先生は大正十二(一九二三)年、滋賀県に生まれ、龍谷大学文学部(仏教学専攻)を卒業、本願寺派布教使、滋賀県浄光寺住職として活動され、平成二十四(二〇一二)

年にご往生されました。

浄土真宗本願寺派伝道院研修部長、同講師、中央仏教学院講師など、宗派の要職を歴任し、ご自身は国内・海外の各地に赴き布数につとめ、後進には数敷聖の数えを人々に伝える「伝道」の要をご指導くださいました。

身近な表現で味わい深くみ教えを伝える数多くの著述には、日々の生活のなかに感じ取られるお念仏のあたたかさが溢れています。藤澤先生の、一つ一つの言葉を大切にしながら、相手の思いを尊重してみ教えをお伝えしていく姿勢は、親鸞聖人のご教化を身近にさせていただける印象深いものと言えるでしょう。

今月のことばは、本願寺出版社から平成十九(二〇〇七)年に刊行された「ことば仏教語のこころ1」の一節です。

この言葉に先立って、藤澤先生は人間の姿について、このように述べています。

思えば、人間は極めて自尊心が強く、自分の弱みを見せまいと、いつも構えて生きようとします。しかも、「おのが生活が罪のなかにある」ということを考えようともしないほどに慢です。生きるままが、いつも罪をつくっているということを知ろうともしないもの、それが愚かな私たちのすがたかも知れません。

(「ことば1仏教語のこころ1」二〇〇七年、本願寺出版社)

日常の生活では、自分の弱みを見せずに構えて生きることが、ときに必要になることがあります。罪をつくりながら生きているということを毎日毎日気にしていたら、心の平衡を保つことはできないでしょう。

現代の生活では、どこにいても必要な情報をすぐに手に入れることができますが、外部から入ってくる情報があまりに多すぎて、それをそのまますべて入力していたら制御できないほど心が乱されてしまいます。

若い世代の方に多い、ヘッドホンやイヤホンをした外出時の姿は、外から入ってくる音を拒み、外部との接触を遮断して、心のアンテナの感度を鈍らせているのではないかと指摘する人もいます。そうして自然に自分の心を守っているのだと。

自尊心とは自分を尊いと思う心のことですから、自分の価値を認め、大切に思うのは素晴らしいことであり、生きていくために重要な感情です。昨今、自己肯定感が低いということが問題になるように、他人からの評価や短絡的な判断によって自分を不当に扱ってしまうのは、とても悲しいことです。

ただ、自尊心が行き過ぎると、他者に対して優位性を強調したり、過剰な自倍や自己中心的な態度につながってしまいます。それを慢と言うのでしょう。

一人の人生であっても

先の言葉に続いて、藤澤先生は「正倍念仏偈」のの言葉を取り上げ、大切な受けとめ方を述べられます。

極重の悪人はただ地を称すべし。われまたかの摂取のなかにあれども、賞・

眼をへて見たてまつらずといへとも、犬悪、儲きことなくしてつねにわれを

照らしたまふといへり。

(「註釈版聖典」二〇七頁)

「きわめて罪の重い悪人はただ地すべきである。わたしもまた同系化の光明の中に携め取られているけれども、菌がわたしの腰をさえぎって、見たてまつることができない。しかしながら、前弥陀のだいなる慈恵の光明は、そのようなわたしを見捨てることなく歯に照らしていてくださる」と述べられた。

(「頭浄土真実教行証文類(現代語版)」一五一頁)

「極重の悪人」とは、自分そのものが言い当てられてあり、そのような私にこそ仏さまのはたらきは南無阿弥陀仏となって届き、照らし続けてくださっていることが示されています。

ここには、自らの姿をごまかすことなく見つめ、悲しむとともに、本題の真実に

出退うことのできたよろこびが語られているのです。

今月のことばに「一人の人生であっても」とあるように、私たちは人生の歩みのなかで孤独を感じずにはおれないことがあります。現実の苦悩を、他の人に成り代わってもらうことはできません。

また、どれだけ相手のことを思っても、相手に成り代わって悲しみ苦しみを引き

受けることはできません。

人は一人で生きているのではない、そのように先人方はいただいてこられました。

自分一人の力で生きることなどできない、支え合って生きているのであって、他の方のために何かをするのは、まわり回って自分のためになることである、という大切なことを受け継いでこられました。

過去のテレビドラマで人気のあった、学校の先生が生徒に熱いメッセージを送る有名なセリフに、「人という字は、互いに支え合って人となる」というものがあります。

人は一人では生きていけない、他者と協力し励まし合いながらともに成長するのだ、だから仲間を大切に。それが感動的な名言として、語り継がれました。

時代が流れ、この「人という字」の名言はドラマや漫画で取り上げられ、さまざまに解釈されてきました。

たとえばこういう解釈があります。

人という字は支え合っているのではなく、支える者がいて、その上に立つ者がいます。大きなプロジェクトでは数多くのスタッフがかかわって、一つの仕事を成し遂げます。宇宙飛行士はまさに上に立つ者であり、その人が宇宙へと旅立つのを多くの職員が支えます。職員たちは上に立つ者が飛び立つための発射台となり、宇宙へ送り出すために全力で支える人となります。

これは、文字の形をただ対等に支え合うものとせずに、互いに支え合う関係性を前向きに受けとめた解釈となっています。

あるいはこういう解釈もあります。

人という字は支え合うなどと言いながら、片方が寄りかかっていて、支えている者はただ我慢を強いられている。誰かが犠牲になることを容認しているものだ、というのです。

悲しい見方ではありますが、社会を客観的に見れば的を射ているのかもしれません。

さまざまな解釈ができますが、辞書的な説明では、人という字は「一人の人が立っている姿を横からみた形」ということになります。複数の人が支え合っている形と説明している辞書は見つけられません。

これは人の形をかたどっている象形文字ということになります。象形文字は何千年も前から使われてきたもので、ものの形をかたどって描かれた文字のことです。

はるか昔の人が、人という字を描こうとするときに、支え合ったり争い合ったりする複数の人で「人」というものを書き表すのではなく、「一人の人」の姿を用いて表現したということになります。

親鸞聖人が「真実の教」といわれた「仏説無量寿経」には、光のように説かれています。

世職愛欲のなかにありて、独り生れ独り死し、御り去り狙り来る。特に当りて

音楽の地に至り意く。身みづからこれを当くるに、代るものあることなし。

(「浄土三部経」「註釈版聖典」五六頁)

心は世殿の備にとらわれて生しているが、裁局独りで生れて独りで死に、独りで来て無りで去るのである。すなわち、それぞれの行いによって苦しい世界や楽しい世界に生れていく。すべては自分自身がそれにあたるのであって、だれも代ってくれるものはない。

(「仏説無量寿経」巻下、「浄土三部経(現代語版)」九九真)

私たちは一人で生まれてきて、一人で死んでいかねばなりません。生まれと死は思い通りにできず、誰とも共有することはできません。思い通りにならないからこそ、不安にもなり、思い悩みます。
そして、誰も代わることはできません。まさに、一人の人生なのです。

人という字が一人の人の姿で表されているように、私たちの人生は誰も成り代わることができません。どれだけ愛する者であっても、何とかして代わってやりたいと思っても、どうすることもできないのです。

ですが、代わることはできなくとも、ともに悲しむことはできます。

私たちは悲しみのなかにあるとき、寄り添ってともに泣いてくれる人がいると、

そこにぬくもりを感じます。

相手の悲しみを自らの悲しみとして、ともに悲しむところに、他者を思う心は熱しみとなり、愛おしむ思いになるのです。相手を思い、放っておけないはたらきにこそ、本当の慈愛があるからこそ、熟悪という言葉には悲しみの文字があるのです。

親鸞聖人が「正信念仏偈」に明らかにされたのは、自らの姿を悲しむとともに、私を摂め取って捨てない思いがあることを、大悲のはたらきのなかに感じ取られた喜びだったのです。

独りではない歩み

人という字は、一人の人生であることを表している形でした。ですが、私たちは相手を思い、悲しみ、慈しむことができます。そして、他者から思われ、悲しまれ、願われているのです。

相手を思って支えているときは、支えていることを知ることができますが、相手から思われて支えられているときは、そのことに気づかないことがあります。

私たちはときに支え、ときに支えられながら生きていることを、一人で生きてい

るのではない、支え合って生きているのだといただいてきたのです。

藤藩先生は、親駕望人の「明文」の次の言葉にふれて、仏さまとともに歩むあたたかさをお示しになっています。

かならず摂取して捨てたまはされば、すなはち正定の位に定まるなり。このゆえに信心やぶれず、かたぶかず、みだれぬこと金剛のごとくなるがゆるに、

こんに人

金前の信心とは申すなり。

(「註釈版聖典」七〇三頁)

阿弥陀仏は必ず摂め取って捨てないからこそ、私の心は破れることなく、衰えることなく、乱れることがない、それを金剛の倍心というのです。

仏さまの大悲に照らされて、仏さまとともに歩む人生を恵まれている私です。悲しみは酒えてなくなるわけではありませんが、一人の人生であっても、決して狐独で寂しい歩みではないことを、仏さまの大いなる慈悲のなかに感じ取らせていただけるのです。

(佐々木隆兄)

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