2026年5月のことば 信じるということは聞くほかはない

五月のことばは、桐渓順忍さんのお言葉です。

桐渓順忍さんは、一八九五(明治二十八)年富山県に生まれられました。一九二四(大正十三)年龍谷大学研究科を修了され、中央仏教学院講師、龍谷大学教授を歴任し、一九六六(昭和四十一)年定年退任されて後は名誉教授に。また、ご実家の光雲寺住職、浄土真宗本願寺派の勧学寮頭を務められ、一九八五(昭和六十)年十月四日にご往生されました。

数多くの論文や著書を執筆されるなか、今月のことばは「桐渓和上最期の法話』(教育新潮社)の中から選び取られた言葉です。この御本の発行者である小端静順さんの「あとがき」によると、

證誠院釈順忍和上は、昭和六十年十月四日、午後容時四十分、数え年九十一歳で、お浄土へおりになられました。

九月三十日の、午前と午後の二回、奈良県宇陀郡室生村の正定寺で、ご法話をされ、翌一日の早朝、九州方面の伝道へと旅だち、その日の午後、博多の万行寺で、ご法話をされました。

二日も、万行寺で、ご法話をなさる予定になっていたので、その夜は、博多の旅館で就寝されました。翌朝、脳の血管が破れて、皆睡状態になっていたのを、宿の人に発見されました。それから、わずかに四十八時間、福岡市中央区の済生会病院のベッドにあって、一言も発せられずに、ご家族の見守るうち、静かにお海士へ、お戻りになられました。

と記されてあり、正定寺さまの九月三十日午後の御座でお話しされた、まさに「最期のご法話」の中のお言葉です。

このご法話の前段では、仏教は「苦しみを除く法」と説かれてあります。その苦しみとはものの道理がわからないからで、ものの道理がわかるように智慧をみがくことが仏教の基本です。しかし智慧がつくことにより、自己の悪さに気づく。しかも、その悪さは今に始まったものではなく、昔から備わっていたもので、ちょっとやそっとでは直らない。その悪さを抱えた私を救ってくださるよろこびを、親鸞聖人は感じいかな」と表現されました。

親鸞望人の主著「職北意先物、郷」総学のご文の、

態ばしいかな、西煮・用支の聖典、東夏・日域の前釈に、選びがたくしていまあことを得たり、聞きがたくしてすでに聞くことを得たり。

(「註釈版聖典」一三二頁)

を引かれ、

これは、よろこびというのは、めったに遇わないものに遇った、そういう場合に、よろこびというものがでてくる。ところが、これは、わたしにいいますと、外側のもの、外のものが、ありがたいとか、聞きがたいとかいう。これを内の問題にすれば、救われがたい、救われ、助けられがたい、となる。

救われがたいものが、いま、救われるところに、よろこびがでてくる。よろこびが深くなれば、なるほど、むしろ、わたくしに、救われる力がない、わたしの力のなさが、わかればわかるほど、よろこびが深くなる。

(「桐渓和上最期の法話」五一頁)

と悪人の救いのよろこびを語られます。それを受けて、自力で往生できない凡夫のために阿弥陀さまが、倍じさせ、称えさせ、往生させるとご本願を成就して、南無阿弥陀仏のよび声となって私に届いてくださっている。それを聞くことがじることよりも弱い。それを他力回向の倍心と言われます。

また、倍心は「うたがいがはれる」「うたがいがまじわらない」(疑無雑)ということと言われます。それは、「明日のお天気は晴れです」というのを「倍じる」のではない。「今のお天気は晴れです」と言われることを「僧じる」ともいわない。「今のお天気は晴れです」と言われたならば、「はい、そうですね」と、疑いようがないと「聞く」(頷く)以外にありません。

そして、

僧心とは、うたがいはれること。(中略)倍心とは、如来の本願に、うたがいはれるんだということだけは、考えておいていただきたい。

うたがいはれるということは、だれが、はれるんですか。それは、このわたくしが、はれるんじゃないですか。

(「桐渓和上最期の法話」五五頁)

と述べられた後に続いて「職」すなわち「倍じるということは、聞くほかはない」と仰せになりました。

親鸞聖人は、聞くことがそのまま心であり、聞のほかに倍はないと「聞即」とぶっせつじりょうじゅうよう

いわれます。それは、「仏説無量寿経」に説かれる第十八願成就のの

(その名号を聞きて信心戦喜せんことが般せん)

(「註釈版聖典」四十一頁)

の「開」と「信」について、「教行証文類」「信文類」に、

「職」といふは、果生、他職の生起札末を聞きて疑心あることなし、これをと

いふなり。「信心」といふは、すなはち本駅が前の獄心なり。

(『註釈版聖典」二五一頁)

と述べられ、また「ゴ銀欲画」にも、

「脱美名号」といふは、本職の名号をきくとのたまへるなり。きくといふは、

本願をききて疑ふこころなきを「開」といふなり。またきくといふは、微心を

あらはす御のりなり。

(「註釈版聖典」六七八頁)

と述べられているように、聞くということが即ち心「即」と示されます。

桐渓さんが、あえて「即聞」と言われるのは、「上の文字を、下の文字が、限定する。中身を決める」からとして、

だから、この場合には、倍じるということは、どういうことか。倍の中身を決めるのに、深く聽聞させて、いただくだけだよ、と示す。

この場合、聞くということは、どういうことか。うたがいはれるまで、聞かせていただくことだよ。

だから、上の文字の意味を、下の文字が変える。すなわち、倍じるということは、聞くほかにないんだぞ。しかし、問題になるのは、だれが聞くんか。わたくしが聞くんじゃないのですか。

(「桐渓和上最期の法話』五六頁)

と言って、聴開が大事であることを勧められます。

そして後半には、岡弥陀さまの救いは無条件であるがゆえに「絶対他が」であり、

心も如来から賜る「如来週前の倍心」と述べています。

それで、如来週向の心というのを、もういっぺん、考えなおしてみると、わたくしが、ずるんだったら、それは、条件になりはしないか。

僧じたものを、助けてやるといったら、信心は、条件にならないか。それを、親鸞聖人は、そういう問題から、如来週向の心といわれた。

自分が、やっておりながら、如来のおかげで、といわれるところに、親鸞聖人は、ものの味わいかたが、深くなるんだと、教えられている。

(「桐渓和上最期の法話」七二頁)

と、「聞く」という私の行為も阿弥陀さまから仕向けられたことで、故に「如来週向の信心」とお示しになられます。

さて、私事で恐縮ですが、この五月のことばを読んで、祖母のことが思い浮かびました。

祖母は、二〇一五(平成二十七)年四月十七日に、お浄土に還らせていただきました。戦中戦後に四人の子どもを育て、七人の孫の世話をし、十人の曾孫をよろこび、満百一歳を生き抜かれました。

私はたった一人の内孫でかわいがられた「おばあちゃん子」で、幼い頃、祖母に手を引かれ本堂にお参りしたのが、お念仏とのお出遇いでした。私が見る祖母は、いつもお念仏されているイメージでした。本堂での御法座でお聴開しているときには「受け念仏」がこぼれました。朝夕のお内仏でのお勤め、康製でも、外での畑仕等の際も、しょっちゅうお念仏されていました。

晩年は認知症を患い、転倒による骨折もあり、介護施設でお世話になりました。

四月十七日、私が理髪店で散髪してもらっている最中に父から電話がありました。

「おばあちゃん、もうすぐやからおばあちゃんとこに行ってやり!」なんでそんなことがわかるのかと不思議に思い「お父さんはどうするの?」と尋ねると、「ワシは本堂で臨終のお勤めするから」と…・・・・・。なんと気の早い!と思いながらも、祖母のいる施設に向かいました。

そこには近所に住む従妹が一足先に駆け付けていて、祖母の身体をさすっていました。もう目は閉じたまま、息をするのがやっとの祖母の様子を見て、父の「もうすぐや」と言ったことを理解しました。私も、

「おばあちゃん、ありがとうね。本当にお世話になりました。ありがとうね…・・・・・」と言いながら、同じように腰や細くなった足をさすりました。そこに息子も到着しました。

しばらくすると、息の間隔が長くなり、いよいよかと思われ、「おばあちゃん、ありがとうね。いよいよお浄土参りやね。ボクも後から往くからね」と声をかけ身体を抱きしめるようにさすっている最中に、祖母は息を引き取りました。施設の職員さんにケアをしていただき、自に連れて帰りましたら、一緒に付き添ってくれた従妹が、

「なあ。おばあちゃんは、あれだけ元気なときはナンマンダブ、ナンマンダブってお念仏してはったけど、今日は最期の最後までナンマンダブのナの字も言わんままに亡くなったね。あれで大丈夫なん?」

と尋ねてきました。確かに、祖母の部屋に駆け付けてから息を引き取るまで、祖母の口からお念仏は出ませんでした。

「うん。大丈夫よ!阿弥陀さまは私たちのことをよ~く知り尽くしてくださっていて、たとえ十過でもお念仏してねとおっしゃるけど、私たちがお念仏できないと人間の力(自力)では往生できない私に、阿弥陀さまから向けられた(他力向)南無阿弥陀仏のお救いは、ただただそのまま疑いなくお聞かせに写かるばかりでありました。

そのことを桐渓さんの「倍じることは、開くほかはない」のおことばに味わわせていただきました。

(石崎博敍)

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