2013年9月 み仏をよぶわが声は み仏のわれをよびます み声なりけりれ 法語カレンダー解説

hougo201309阿弥陀仏の本願とは

 

この歌は、甲斐和里子さんの『草かご』の詩集から引かれた言葉です。

親鸞聖人の『教行信証』教文類には、

 

 

それ真実の教を顕さば、すなはち『大無量寿経』これなり

(『註釈版聖典一三五頁)

 

と述べられています。

 

この『仏説無量寿経』(『大無量寿経』)には何が説かれてあるかと言いますと、あらゆる人を念仏ひとつで救おうという、阿弥陀仏の本願が説かれています。その阿弥陀仏の本願とは何かと言うと、阿弥陀仏という仏は、もと法蔵という菩薩が四十八の願いをおこし、長い修行を経て、理想の浄土を建立して仏となられました。その浄土を極楽と名づけ、その仏を阿弥陀仏と名づけられたのです。

 

その四十八願の十八番目の願を、特に「本願」と呼んでいます。この本願は、あらゆる衆生に対して、「われを信じ、わが名を称える者を、わが国に必ず往生させる」という誓願であります。

 

この阿弥陀仏の誓願が成就したことを、釈尊が説かれだのが成就文(じょうじゅもん)です。第十八願の成就文には、

 

あらゆる衆生(しゅじょう)、その名号を聞きて信心歓喜(しんじんかんぎ)せんこと、乃至一念(ないしいちねん)せん。

(『註釈版聖典』四一頁)

 

とあるように、何を信ずるのかというと、名号のいわれを信じることで必ず救われていくのです。したがって、あらゆる人びとを念仏ひとつで救うと誓われた阿弥陀仏の本願を説かれた経典が、『仏説無量寿経』ということになります。

 

『仏説無量寿経』の終わりには、

 

それかの仏の名号を聞くことを得て、歓喜踊躍して乃至一念せんことあらん。まさに知るべし、この人は大利を得とす。すなはちこれ無上の功徳を具足するなりと。

(『註釈版聖典』八一頁)

 

と、「名号を聞いて歓喜踊躍する者は、無上の功徳を具足する」と説かれてあります。

 

名号のいわれを聞くものは、無上の功徳を得ることができるというのです。この無上の功徳とは、浄土に生まれて仏と同じ覚りを開くということです。親鸞聖人は、この経典によって、凡夫が阿弥陀仏の本願力によって信心をめぐまれ、正定聚不退の位に定まり、浄土に往生して仏の覚りを開くことを、明らかにされました。

 

 

仏願の生起本末を聞く

名号のいわれをどのようにして聞くかというと、親鸞聖人は『教行信証』信文類に、

 

しかるに『経(きょう)』(大経・下)に「聞(もん)」といふは、衆生、仏願の生起本末(しょうきほんまつ)を聞きて疑心あることなし、これを聞といふなり。

(『註釈版聖典』二五一頁)

 

と示されます。仏願の生起本末を聞いて疑う心のないことを「聞」と言われるのです。

 

「仏願の生起」とは、阿弥陀さまの本願を起こされた理由ということです。本願の起こりは誰のためのものかというと、それは煩悩に振り回され真実の心を持たない私のために説かれたものです。「仏願の本末」とは、その起こりと結果ということで、阿弥陀さまは五劫もの長い間修行されて、本願を立てられた苦労(本)の結果、覚りを開いて阿弥陀仏(末)となられました。阿弥陀さまは、あらゆる人びとを救うために名号を誓われました。そして、阿弥陀仏の本願を信じて、念仏を称えることによって救われていく教えを明らかにされたのです。

 

このように、名号のいわれを聞くということは、聞き流したり、自分の思いで聞くことではありません。聞くということは、阿弥陀さまのまことを聞くことです。聞こえたということは、まことが受け取れたということです。まことが受け取れたならば、それは仏のおおせにすべてをまかせたということになります。阿弥陀さまと私との接点が結ばれるためには、仏の喚び声を聞くしか方法はありません。

 

そのことを『歎異抄』後序には、

 

聖人(親鸞)のつねの仰せには、「弥陀の五劫思惟(ごこうしゆい)の願をよくよく案ずれば、ひとへに親鸞一人(しんらんいちにん)がためなりけり。さればそれはどの業をもちける身にてありけるを、たすけんとおぼしめしたちける本願のかたじけなさよ」と御述懐候(ごじゅつかいそうら)ひし

(『註釈版聖典』八五三頁)

 

と言われています。

 

 

南無阿弥陀仏の喚び声

 

聞くとは、阿弥陀さまの私たちを救わずにはおれないという喚び声を聞くことであります。

親鸞聖人は『教行信証』行文類に、善導大師の「六字釈」を引いて、

 

「南無」の言は帰命(きみょう)なり。(中略)ここをもって「帰命」は本願招喚(ほんがんしょうかん)の勅命(ちょくめい)なり。

「発願回向(はつがんえこう)」といふは、如来すでに発願して衆生の行を回施(えせ)したまふの心なり。

「即是其行(そくぜごぎょう)」といふは、すなはち選択本願これなり。

(『註釈版聖典』一七○頁)

 

と延べられておられます。

 

「南無」とは帰依することで、「よりかかる」という意味です。「帰命」とは「本願招喚の勅命」とあるように、招喚とは、念仏を称えて浄土に生まれてほしいと、阿弥陀仏が「我を信ぜよ」と招き喚んでくださっているということです。すなわち、「この弥陀にまかせよ」と喚んでくださる阿弥陀さまからの喚び声です。「発願回向」とは、阿弥陀さまがわれらが往生するための名号を与えてくださる、大悲のこころを言います。「即是其行」とは、阿弥陀さまが与えてくださった功徳、すなわち、名号が行者の上に称名となって現れている姿を言います。

 

このように、阿弥陀さまの上にできあがった万行の徳(名号)が、帰命の信心のところに領受されて、私たちの往生が決まるのです。南無阿弥陀仏とは、「念仏ひとつで必ず救う、我にまかせよ」という阿弥陀仏の喚び声です。すなわち、「よりたのめ、よりかかれよ」と、私を呼んでくださっている喚び声です。私の心に届いた名号が信心ですから、口には称名となって出てきます。このように、私たちの救いは、名号の独りばたらきということになります。

 

『歎異抄』第一条には、

 

弥陀の誓願不思議にたすけられまゐらせて、往生をばとぐるなりと信じて念仏申さんとおもひたつこころのおこるとき、すなはち摂取不捨の利益にあづけしめたまふなり。

(『註釈版聖典』八三一頁)

 

と、親鸞聖人は「阿弥陀仏の誓願は、不思議なはたらきによって必ず浄土に生まれさせてくださると信じて、念仏を称えようと思い立つ心の起こる時、ただちに阿弥陀さまは摂取して見捨てることなく抱き取ってくださいます」とおっしゃっています。

 

さて、私が本願寺派の宗学院で学んでいる時のことです。『教行信証』の講義は故大江淳誠(じゅんじょう)和上でした。和上がいつも言われていたことがあります。

 

「名号は動いている。名号は動的存在で固然たるものではない。じっとしているものではなく、常に活動しているものである。名号は死にものではない。我らの口には念仏が出てくるはずがないのに、念仏の声がいつの間にか口に出てくるようになったということは、名号が私にはたらいて、私の口を動かして称えさせているのである。

 

たとえば、太陽は常に全世界の生きとし生きるものに向かって照らして、地上のものに芽を出させ、花を咲かせ、実を実らせている。このように、念仏を称えているのは念仏者の声であるけれども、名号が行者の信後の上に相続として生き生きと出てくるよろこびの声となり、称名となって現れて出てくるのである」(『教行信証講義録』趣意)

 

このように、大江和上はおっしゃっておられました。

 

 

信心と称名

 

浄土真宗の信心とは、阿弥陀仏のいわれを聞いて疑いなく信じる心を言います。また、「つつしんで往相の回向を案ずるに、大信あり。大信心は、すなはちこれ」(『教行信証』信文類 『註釈版聖典』二一一頁)といって、十二の名前を挙げ、そのなかに「証大涅槃(しょうだいねはん)の真因(しんいん)」という言葉を出し、覚りを開く因(種)が信心であることを述べています。また、「『信心』といふは、すなはち本願力回向の信心なり」(『同』二五一頁)

 

真実信心うるひとはすなはち定聚のかずにいる

不退のくらゐにいりぬれば

かならず滅度にいだらしか

(『註釈版聖典』五六七頁)

 

とあり、親鸞聖人は「真実信心の人は正定聚の数に入って、不退の位に就いて必ず滅度に到る」と述べられます。信心をよろこぶ人は、煩悩を持つたまま「正定聚」という浄土往生の仲間となり、阿弥陀さまの大きな慈悲に抱かれながら、生き生きといのちを輝かせながら生きていく生活が展開してくるのです。

 

浅原才市さんは、

 

かぜをひけばせきが出る
さいちが御ほうぎの風をひいた
念仏のせきが出る

(鈴木大拙編『妙好人 浅原才市集』一四七頁)

 

と言われました。信心をよろこぶ人として生きていかれた人の言葉です。

 

たとえば、ススキの穂がゆれているのは、風がある証拠です。風は私たちの目には見えないけれども、ススキの穂がゆれていることで、風のあることを知ることができます。ススキの穂をゆらしているのは、風の力がススキに宿ったからであります。

 

私たちは、如来の本願力によって名号をめぐまれ、わが心に届いたところが信心です。その名号には、私たちが成仏するための功徳が込められていますので、この功徳がわが心に満入しますと、信心となります。その信心には、必ず念仏(称名)がついております。

 

煩悩にまみれた私の口から出るはずのないこの尊い念仏が、私の口から出てくるということは、ひとえに阿弥陀仏の大いなる力によるもの以外にありません。南無阿弥陀仏、おかげさまと、よろこばさせでいただく念仏であります。

(石田雅文)

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2013年8月 確かな一足一足が 念仏して 与えられる 法語カレンダー解説

hougocalendar201308苦悩の根本解決

 

この言葉は、宮戸道雄(みやとみちお)著の『仏に遇うということ』に出てきますが、その一部を紹介します。

 

   「鶴と亀」とは、これはわれわれ日本人が描いている幸福の象徴ですね。鶴は千年亀は万年とか申しまして、長生不死でしょう。だから、めでたいときに使います。つまり、一時的に欲望が満たされたという話です。人間は一生涯、「鶴と亀」を求めて歩いてきた、ということですね。そして、その「鶴と亀がすべった」というのですから、私の人生の目標は鶴と亀ではなかったのだ、つまり幸福の追求ではなかったのです。ただ一つ、自分自身に出遇うためであった。生死のカゴの中をノタウチ回るしかなかった私に、夜明けして、そこから出る、生死を出離(しゅつり)する、このこと一つのための私の人生だったのだと、私の歩んでいく方向と目的がハッキリして、確かな一足一足が念仏によって与えられてくるということを、「鶴と亀がすべった」と言ったのではないかと思います。

(二四七頁)

 

人は誰でも幸福を求めて生きています。どうすれば人間は幸福になれるだろうか、どうしたら幸福を手に入れることができるかを考えます。ところが、人生は自分の思いどおりにはいきません。思いどおりにいかないところに、人生の苦悩が起こってきます。人間は、自分の思っている主観の感情と客観の事実が一致すると幸せを感じますが、主観の感情と客観の事実とが一致しない時には苦悩が出てきます。苦悩の原因はどこにあるかというと、それは主観の感情にあると受け止めるのが仏教の見方です。

 

たとえば、大学受験の生徒にとって、自分の希望の大学に合格すれば、自分の思い(主観)がかなったのでよろこびになります。しかし、不合格になると、自分の思いとは反対の事実(客観)が起こりますので、そこで苦しみが出てきます。苦しみの原因は自分以外にあると考えて、むつかしい問題を出した大学が悪いとか、学校の先生の教え方が悪かったとか、自分のことを棚に上げて批判をします。それでは苦悩の根本解決にはなりません。苦しみの原因を尋ねていきますと、客観の事実にあるのではなく、自分の側にあるのです。このように、自分の側に苦悩の原因を探っていくのが問題の解決方法と言えます。

 

苦悩の起こる人生を根本的に克服しようとすれば、自分の殻だけに閉じこもるのではなく、念仏の教えに導かれながら、心の持ち方を転換することが大切なのではないでしょうか。

 

 

迷いを転じる

仏教の目的は、迷いを転じて覚りを開くことであります。親鸞聖人は「覚り」という宝を探しに、比叡山に登られました。比叡山では聖道門(しょうどうもん)の教えが基本です。聖道門の教えとは、自らの力で煩悩を断ちきって覚りの真理に到る道を説くものです。

 

親鸞聖人は、常行三昧堂(じょうぎょうざんまいどう)の堂僧(どうそう)として、常行三昧にはげまれました。常行三昧とは、お堂のなかで、九十日間、休みもなく阿弥陀如来の周りを回りながら、心に仏を思い口には念仏を称えて歩き続ける修行です。これを続けますと、修行者は自分のなかで阿弥陀仏に出遇うことができるというのです。親鸞聖人は、自らをみがいて仏と同じ覚りを開こうと努力をされましたが、阿弥陀仏に出遇うどころか、かえって、いままで気づかなかった心の醜さが見えてくるようになりました。

 

親鸞聖人の曾孫である存覚(ぞんかく)上人は、『嘆徳文(たんどくもん)』に、

 

定水(じょうすい)を凝らすといへども識浪(しきろう)しきりに動き、心月(しんがつ)を観ずといへども妄雲(もううん)なほ覆ふ。(中略)すべからく勢利(せいり)を抛(なげう)ちてただちに出離を悕(ねが)ふべし

(『註釈版聖典』一〇七七頁)

 

と、その心境を述べておられます。精神を集中して覚りに近づこうとすればするほど、かえって煩悩にさえぎられて、仏さまから離れていく自分に気づき、自力聖道門の教えがいかにむつかしいものであるかを知らされました。

 

比叡山の修行に行きづまりを感じられた親鸞聖人は、悩みを解決してくれる新たな道を求めて、山を下りる決心をされました。

 

そして、親鸞聖人は、在家仏教の道を歩まれた聖徳太子に救いを求めて、六角堂に参龍(さんろう)されました。その後に、吉水の草庵で、専修念仏の教えを説いておられた法然聖人のもとに通われ、真剣な聞法を続けられました。

 

 

本願念仏との出遇い

 

法然聖人は、四十三歳の時に、善導大師の『観経疏』の

 

一心に弥陀の名号を専念して、行住坐臥(ぎょうじゅうざが)、時節の久近(くごん)を問はず、念々に捨てざ
るをば、これを正定の業と名づく、かの仏願に順ずるがゆゑに。

(『教行信証』信文類、引文 『註釈版聖典』二二一頁)

 

という一文に出遇われました。こうして、すべての人びとが救われる道に目覚められ、心の眼を開くことができました。そして、凡夫の救われる道は、阿弥陀さまの名である念仏を称えるだけで救われると言われました。

 

法然聖人は、念仏を称える人が救われていく理由を、「仏の仏願がそうなっているから」と言い、「念仏する者は必ず往生させる」と第十八願に誓われているからだ、と言われるのです。こうして、善導大師の教えを受けて、迷いを離れて覚りに到る道として、専修念仏の教えを説いていかれました。

 

専修念仏の教えとは、「阿弥陀仏の本願は、もともと凡夫を救うために誓われたものであるから、本願を信じ、念仏を称えるだけで救われる」というものでした。法然聖人の説かれる念仏とは、自分の方から仏を尋ね求めていくものと考えられていたけれども、実はすでに仏の方から願いがかけられ、救いの手がさしのべられていたという、他力の念仏の教えでありました。

 

親鸞聖人は、法然聖人の教えを新鮮な教えと受け止められたのです。『教行信証』後序には、

 

しかるに愚禿釈(ぐとくしゃく)の鸞(らん)、建仁辛酉(けんにんかのとのとり)の暦(れき)、雑行(ぞうぎょう)を棄てて本願に帰す。

(『註釈版聖典』四七二頁)

 

と示されているように、親鸞聖人は、自力の念仏を放棄して、阿弥陀仏の本願念仏の教えに入っていかれました。二十九歳の時でした。本願念仏との出遇いが、人生の大きな転機(回心)となりました。

 

『歎異抄』後序には、

 

煩悩具足(ぼんのうぐそく)の凡夫(ぼんぶ)、火宅無常(かたくむじょう)の世界は、よろづのこと、みなもってそらごとたはごと、まことあることなきに、ただ念仏のみぞまことにておはします

(『註釈版聖典』八五三~八五四百)

 

とあります。これは、私たちはあらゆる煩悩をそなえた凡夫であり、私たちの社会は燃えさかる家のような世界であります。すべてこの世は虚しく偽りで、真実と言えるものは何一つもありません。はかない不安な世の中にあって、阿弥陀さまの願いを受けて称える念仏だけが真実であると、親鸞聖人はおおせになっておられるのです。

 

『高僧和讃』には、

 

智慧光(ちえこう)のちからより
本師源空(ほんしげんくう)あらはれて
浄土真宗をひらきつつ
選択本願(せんじゃくほんがん)のべたまふ

(『註釈版聖典』五九五頁)

 

と、本願念仏を開かれたのは法然聖人であることを述べています。親鸞聖人は、ただ法然聖人の教えを受け継ぐだけであります。親鸞聖人にとっての真実とは、法然聖人の説かれる本願念仏の教えでありました。

 

親鸞聖人は、

 

親鸞におきでは、ただ念仏して、弥陀にたすけられまゐらすべしと、よきひと(法然)の仰せをかぶりて、信ずるほかに別の子細(しさい)なきなり。

(『歎異抄』第二条 『註釈版聖典』八三二頁)

 

と言って、法然聖人の言葉を聞いて信ずるだけで、ほかに救われる方法があるわけではありませんと断言されています。

また、

 

たとひ法然聖人にすかされまゐらせて、念仏して地獄におちたりとも、さらに後悔すべからず候ふ

(『同』)

 

と、「法然聖人の行かれるところならば、たとえそれが地獄であろうとも、私はどこまでもよろこんでついて行く」とおっしゃって、法然聖人に対する絶対の信頼と帰依を示されています。

 

阿弥陀仏の本願が真実であるから、本願念仏の道を明らかにしてくださった法然聖人の言葉が、どうして嘘・偽りでありましょうか。阿弥陀仏の真実なることを確信されることによって、親鸞聖人の進む方向が明らかとなりました。

 

 

念仏によって与えられる人生

 

『歎異抄』第三条には、「善人なほもって往生をとぐ。いはんや悪人をや」(『註釈版聖典』八三三頁)と、有名な悪人正機(あくにんしょうき)が述べられています。

その後に、

 

煩悩具足のわれらは、いづれの行にても生死をはなるることあるべからざるを、あはれみたまひて願をおこしたまふ本意、悪人成仏のためなれば、他力をたのみたてまつる悪人、もつとも往生の正因(しょういん)なり。

(『註釈版聖典』八三四頁)

 

と述べて、「阿弥陀さまは、凡夫を救おうと本願を立ててくださったのだから、自分が善人と思っている人よりも、優先的に悪人こそが浄土に生まれることができるのです」と語られています。

 

自力で往生しようと思う人は、本願のはたらきを信じる心が欠けていますので、阿弥陀さまの本願のこころに反しています。それに対して、自分で自分のことを悪人と自覚した人は、本願のはたらき(他力)にまかすことができますので、善人よりも悪人の方が阿弥陀仏の救いの対象であると、親鸞聖人はおおせになられました。

 

念仏の道は、煩悩に振り回されている凡夫を救うためのものです。また、浄土に生まれて覚りの智慧をいただく道です。

 

煩悩具足の凡夫という自覚は、立派な人間ではないように受け取られがちですが、阿弥陀さまの摂取の光明に包まれ、あらゆる恵みに感謝し、社会のさまざまな問題に積極的に関わっていく生き方と蘇っていくものです。このような生き方が、念仏によって与えられる人生であります。

 

(石田雅文)

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2013年7月 「まかせよ まかせよ」如来の声 「おまかせします」私の声 法語カレンダー解説

hougo201307苦悩を克服する方法

鈴木章子(あやこ)さんの『癌告知のあとで』の一部を紹介します。

鈴木さんは、入院をされて乳ガンとの取り組みが始まると、限られた人生の前には、世間一般の価値観が通用しなくなるということに気づかれて、「お先真っ暗」といった心境になられます。「生死」の問題と向き合うようになった時、次のような手紙を受け取ります。

 

 そんなとき、八十歳を過ぎた実家の父から手紙があり、「あなたは、一体何をドタバタしているのか。生死はお任せ以外にはないのだ。人知の及ばぬことはすべてお任せしなさい。そのためにお寺に生まれさせてもらって、お寺に嫁いだのではないか。生死はあなたが考えることではない。自分でどうにもならぬことをどうにかしようとすることは、あなたの傲慢である。ただ事実を大切にひきうけて任せなさい」と書いてありました。

(『癌告知のあとで』二一頁)

 

こうして、お父さんの言葉に安心され、誰にも代わってもらえない人生であることに気づいたと言われています。

人間が生きるということは、誰もが持っている根源的な生命の欲求であります。生命の欲求は、動物も同じように共通に持っています。しかし、人間には理性があり、願望を持った生き方をしていますが、その願望も、突然、病にかかって再起不能の宣告を受けたりすると、かなわなくなることがあります。このような不安定ななかで私たちは生きています。

仏教は、人生の苦悩を克服するために、煩悩をなくしていくことを教えるものです。

しかし、煩悩をなくすことは不可能です。そこで、心の持ち方を転換し、視点を変えることによって、少しでも苦悩を克服できる方法があるのではないでしょうか。

 

 

現生正定聚の利益

 

親鸞聖人の『正像末和讃』には、

 

如来(にょらい)の作願(さがん)をたづぬれば

苦悩の有情(うじょう)をすてずして

回向(えこう)を首(しゅ)としたまひて

大悲心(だいひしん)をば成就(じょうじゅ)せり

 (『註釈版聖典』六〇六頁)

 

とあります。『仏説無量寿経』には、法蔵菩薩があらゆる衆生を救いたいと誓願をおこされたとあります。そして、長い間の修行をかけて完成してくださったのが、南無阿弥陀仏の名号です。その名号が「南無阿弥陀仏」の喚び声となってはたらいておられることが、説かれてあります。また『仏説阿弥陀経』には、ここから西方に、十万億の諸仏の国々を過ぎたところに世界があって、その世界を極楽と言います。その極楽には阿弥陀という仏がおられて、いまも現に迷い続けている人びとを救う法を説き続けておられるとあります。

 

『教行信証』信文類末には、

金剛(こんごう)の真心(しんしん)を獲得(ぎゃくとく)すれば、横(おう)に五趣八難(ごしゅはちなん)の道(どう)を超え、かならず現生(げんしょう)に十種の益(やく)を獲(う)。

(『註釈版聖典』二五一頁)

 

と表し、金剛の信心を得た人には、仏道の妨げとなる八難を超えて、十種類の念仏の徳が備わると述べられています。その利益には、念仏者は阿弥陀さまの光明に摂取されて、常に護られている利益や、心によろこびがあふれてくる利益、阿弥陀さまの大悲を人のために常に実践できる利益などがあります。

 

『正像末和讃』には、

弥陀智願(みだちがん)の広海(こうかい)に

凡夫善悪(ぼんぶぜんあく)の心水(しんすい)も

帰入(きにゅう)しぬればすなはちに

大悲心(だいひしん)とぞ転ずなる

(『註釈版聖典』六〇七頁)

と言われ、これら十種の利益のなかに、悪が転じられて善となる利益があることが記されています。

「凡夫善悪の心水」には、「凡夫の善の心、悪の心を水にたとへたるなり」(『註釈版聖典』六〇八頁)と左訓がしてあります。また、「転ずなる」にも「あくの心甘んとな
るをてんずるなりといふなり」(『浄土真宗聖典全書(二) 宗祖篇・上』四八八頁・原片
仮名)と左訓がつけてあります。この意味から窺いますと、川の水(凡夫の心)が海に入ると海水(仏の心)と一味になるように、私たち衆生の心中に阿弥陀さまの大悲心が満入(まんにゅう)すると、たちどころに凡夫の煩悩の心が善に転ぜら札て、阿弥陀さまの大悲心と融化(とけて形を変える)していくのであります。

阿弥陀さまの助ける名号が私に届いた姿が、お助けを喜ぶ信心となります。「たのめ助くるぞ」の阿弥陀さまの喚び声を聞くところに、私は「お助けをたのむ」という信心を持つことになります。つまり、阿弥陀仏の喚び声が、喚び声どおりに私の心にありのままに届いて、「おまかせします」と南無阿弥陀仏の念仏となって出てきてくだざるのであります。

これら信心の十種の利益のなかで中心となるのが、「正定聚(しょうじょうじゅ)の益」です。正定聚の益とは浄土に生まれて仏になることが約束され、念仏者の仲間に入れていただくことなのです。

 

『浄土和讃』には、

真実信心(しんじつしんじん)うるひとは

すなはち定聚(じゅうじゅ)のかずにいる

不退(ふたい)のくらゐにいりぬれば

かならず滅度(めつど)にいたらしむ

(『註釈版聖典』五六七頁)

 

とあります。凡夫が自力で覚りを開くことは不可能なことです。しかし、真実信心の人は、阿弥陀仏の功徳を領受した信心獲得の念仏者のことを指しますから、正定聚の人と同じことです。その信心を得た人には、現生において、「仏になるまでといふ」『一念多念文意』『註釈版聖典』六八〇頁・脚註)不退転の位につき、大きな利益を得ることができます。

たとえば、受験生が大学入試に合格すれば、大学生の仲間入りをします。ところが、まだ入学式を済ませていないので大学生とは言えません。しかし、いずれは大学生になることが決まっているのです。大学入試に合格したということは、真実信心を得た人と同じということで、正定聚の仲間に入り不退の位に就くのです。正定聚の人は後戻りしない、すなわち退転しないということです。迷いの世界にもう落ちる心配がなくなるということです。信心を得た人は、現生において正定聚の人となり、不退の位に就きます。そして浄土に往生すると同時に、必ず滅度の覚りを開くことができるのです。

 

『親鸞聖人御消息集』には、

正定聚の人は如来とひとしとも申すなり。浄土の真実信心の人は、この身こそあさましき不浄造悪(ふじょうぞうあく)の身なれども、心はすでに如来とひとしければ、如来とひとしと申すこともあるべしとしらせたまへ。

(『註釈版聖典』七五八頁)

 

とあります。このように、正定聚の人は「如来と等しい」とも言われています。信心をよろこぶ人は、この身はあさましい煩悩具足の凡夫ではあるけれども、阿弥陀さまから無上の功徳である名号を回向(えこう)されますので、信心の徳として念仏者の心は如来と同じ功徳にめぐまれるのです。

正定聚については、「往生すべき身とさだまるなり」『一念多念文意』『註釈版聖典』六七九頁・脚註)、「かならず仏になるべき身となれるとなり」(『同』六八〇頁・脚註)と左訓がしてあります。信心をよろこぶ人は、まさしく往生することが定まった仲間となって、浄土に往生すると必ず成仏する身となるというのです。

正定聚の人とは、阿弥陀さまと同じよろこびをめぐまれた人となり、「念仏のひとは弥勒のごとく仏になるべしとなり」(『同』六八〇~六八一頁・脚註)と弥勒菩薩と同じとも言われます。弥勒菩薩とは、五十六億七千万年の後、この世の衆生を救済する未来仏と言われていますが、その弥勒と同じだと言われるのです。こうして信心をよろこぶ人は、あさましい罪深い心はなくなりませんが、大涅槃に近づく尊い人間となっていくのであります。

また、信心よろこぶ人と言えども、苦悩のなかにありながら、力強く生きる力を与えられるのです。それは、蓮の華が泥のなかで生育しながら、泥のなかから美しい華を咲かせることに似ています。信心をよろこぶ人は念仏の華を咲かせることから、分陀利華(ふんだりけ)(白蓮華)と言い、妙好人・真の仏弟子とも言われるのです。

 

 

釈尊の勧めと阿弥陀さまの喚び声

『教行信証』信文類には、善導大師の二河白道の話が出ています。

ある旅人が西に向かおうとしますと、その白道を炎と水の波浪が交互に交わって通ることができません。旅人は引き返そうとしますが、群賊・悪獣が追ってきて殺そうとします。旅人は、恐ろしくなって西に向かおうとしますが、このままだと水火の二河に落ちてしまいます。今引き返しても死、立ち止まっても死、このまま進んでも死が待ちかまえています。これを「三定死(さんじょうし)」と言います(『註釈版聖典二二四頁』)。

もう死を免れることはできないと思っていますと、東の岸にたちまちに人の勧める声を聞きました。「あなたは決意して、この道を訪ねていきなさい。必ず死ぬことはないであろう。もしも、そこに止まったならば、死ぬであろう」と呼びかけてきました。また、西の岸からも、「あなたは、一心に正しい思いを持って、ただちにこの道を来なさい。私は、あなたを必ず護るであろう。決して水河の難をおそれてはならない」という、喚び声が聞こえてきました。

この話では、東の岸から「きみただ決定(けつじょう)してこの道を尋ねて行け」(『註釈版聖典』二二四頁)という声とは、釈尊がこの道を行けば必ず浄土に通じるということを勧める声であり、西の岸からの「なんぢ一心に正念にしてただちに来れ、われよくなんぢを護らん」(『同』)という声は、阿弥陀さまの喚び声でありました。これを釈迦・弥陀の「発遣(はっけん)・招喚(しょうかん)」と言います。釈迦のこちらからの勧めと、阿弥陀さまの浄土からの「ただちに来たれ」という喚び声がひとつとなって、念仏者に救いの法をさしのべておられるのです。

 

 

如来の声と私の声

阿弥陀さまの「わが声をたよりに来れば、必ず救う」という、「まかせよ、まかせよ」との喚び声に、私は素直に「はい、おまかせします」と答えるだけでいいのです。

信心をよろこぶ人は、阿弥陀さまの「われにまかせよ」という喚び声を聞いて、すべてを阿弥陀仏におまかせすることで、浄土往生をなしとげることができるのです。

覚りを開くことは、凡夫の自力のはからいではどうすることもできません。凡夫を救うはたらきは、阿弥陀仏の受け持ちであります。阿弥陀仏の受け持ちは、凡夫を必ず仏に仕上げていくことですから、凡夫は阿弥陀仏の喚び声におまかせして念仏するだけでいいのです。

(石田雅文)

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ごえん ~結ぶ絆から、広がるご縁へ~

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start

ある日の、お父さんと娘さんの会話から。

 

【お父さん】

「<ご縁>って言葉を知っているかい?」

 

【娘】

「何か聞いたことあるような、ないような・・・おばあちゃんが、よく言ってるような気がする」

 

【お父さん】

「若い人は、最近使わなくなったようだね。でも、縁結びという言葉は、知っているだろう?」

 

【娘】

「うん。彼との縁結びを、お願いに行こうと思っているよ」

 

【父】

「え、もう彼氏ができたのか!?」

 

【娘】

「お父さん、まだ、これから探すところだから、安心して」

 

【お父さん】

「おどかすのは、やめてくれよ。ただ、縁を結ぶというのは、もともと<結縁>といって、人間同士ではなく仏さまとの<ご縁>のことなんだよ」

 

【娘】

「え、そうなの。全然知らなかった」

 

【お父さん】

「そうだよ。辞書で<結縁>を調べてごらん」

 

【娘】

「あ、ほんとうだ。最初に<仏道に入る縁を結ぶ>って書いてある。びっくり!」

 

【お父さん】

「もう一つ質問するよ。じゃ、どうしたら、私たちが、仏さまと縁を結ぶことができると思う?」

 

【娘】

「えっと・・・それは、私がお寺に行って、お賽銭を入れるからとか?」

 

【お父さん】

「お金が縁を結ぶということかい?そうじゃないんだ。そもそも仏さまは、私たちが気付かない時も、ずっと私たちのことを心配してくださっているんだよ。その思いが、もうおまえに届いているから、それを受けとめるのが、仏さまとご縁を結ぶということなんだ」

 

【娘】

「へぇ~。じゃあ、今はまだ、私と一緒で、仏さまの片思いなんだね」

 

【お父さん】

「そうだね」

 

【娘】

「仏さまが、どんなふうに心配してくれているのか、知りたくなってきたわ」

 

 

この冊子では、仏教が大切にしてきた「ご縁」という言葉を、10章に分けて、考えてみようと思います。

 

| はじめに | 「ごえん」①~⑤ | 「ごえん」⑥~⑩ | もっと知りたいご縁のこと |

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「ごえん」①~⑤

goen1 私たちには、さまざまな縁(原因)がはたらいています。そして、そのことを、知り尽くすことができません。今、ここで起きている事柄は、数え切れない無限の原因が積み重なった結果です。私たち人間の浅はかな考え方では、到底、理解し尽くすことができません。

 

一方で、因果関係でものを見ることは、私たち人間に特徴的な思考方法でもあります。しかし、私たちには、ほんとうの因果関係を正しく見極めることができず、自分の都合で因果関係を見てしまいます。これは誤った認識であり、それによって誤った行為が生み出され、悲しみや苦しみの要因ともなります。

 

縁起を見抜くことができず、自己中心的な考えで、結果に対して誤った原因を見てしまう私たちは、仏さまに出あい、その智慧をともしびとしなければ、私自身をきちんと見つめることさえできません。

 

仏さまが示された「縁起」とは、物事の正しい因果のことです。この教えをよりどころとして、思い込みや自己中心的な因果関係を見てしまわないよう、常に注意しなければなりません。

 

あなたと私も、そして仏さまと私も、人間のはからいでは知り尽くせない多くのご縁でつながって、不思議なめぐりあわせがあって、ここに出あっているのです。

 

 

 

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goen2 「袖振り合うも多生の縁」(※1)という言葉があります。「多生」を「多少」と書き間違える人もいますが、「多生」でなければ、この言葉の正しい意味にはなりません。往来で行き交う人の着物の袖先が、軽く接するようなささやかな関係であっても、何度も生まれ変わる中で生じた貴重な縁であることを意味しています。

 

しかし、長い時間の中で育まれたご縁であることを意識することは、なかなか難しいことです。直接的な原因について思いをめぐらすことはできても、遠い過去からの原因を自覚し続けることは本当に困難です。

 

親鸞聖人(※2)は、『教行信証』(親鸞聖人の主著)の「総序」で、

 

ああ、弘誓(ぐぜい)の強縁(ごうえん)、多生にも値(もうあ)ひがたく、真実の浄信、億劫(おくごう)にも獲がたし。

たまたま行信を獲ば、遠く宿縁を慶べ(『註釈版聖典第二版』132頁)

 

と仰っています。阿弥陀さま(※3)からの願いである大いなる本願は、いくたび生を重ねてもあえるものではなく、まことの信心はどれだけ時を経ても得ることは難しい。思いがけず、真実の行と信(※4)を得たなら、遠い過去から、阿弥陀さまの光が、育み続けてくれていたご縁を感謝しよろこぶべきであると、親鸞聖人はお示しくださっています。

 

私たちは、心配し続けてくれている人、願い続けてくれている人がいても、当たり前のようにそのことに気付かなかったり、ついつい忘れてしまったりしています。そうした縁が途切れた時、心配してくれていた人がいなくなった時に、やっと、その大切さに気付くということも少なくありません。

 

阿弥陀さまの光明は、私たちの気付かない遠い過去から、すべての人々を照らし続けています。そのことが、貴重なご縁となって、今、救いに出あっているのです。

 

※1 「袖振り合うも多生の縁」は、「袖すり合う」「袖触れ合う」「他生の縁」といった表現のものもあります。

※2 「親鸞聖人」浄土真宗の宗祖1173-1263

※3 「阿弥陀さま」浄土真宗のご本尊、阿弥陀如来(南無阿弥陀仏)

※4 「行と信」仏教一般では、行はさとりに至るための修行を意味しますが、浄土真宗では、浄土往生の行は信と同じく阿弥陀さまより衆生にふり向けられ、あたえられたものとして、大行といわれます。

 

 

 

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goen3

質問です。名前しかわからない、まったく見も知らぬ遠くの人へてがみを届けなくてはなりません。何人を仲介すれば、目的の人に、その手紙は届くでしょうか?

 

これは、アメリカで1960年代に実際に行われた実験です。1600キロ離れた土地に住むビジネスマンに、自分より関係の深そうな方に手紙を渡すという方法で、人づてに手紙を送ろうとします。すると、平均して、たったの6人を介するだけで目的の人物に届くのです。これはアメリカ国内での実験でしたが、2003年には、世界規模で同様の実験を行いました。すると、やはり同じく6人で届いたそうです。

 

私たちは、広い世界の中で、ばらばらに生きているように思いがちです。遠くにいる人であれば、まったく無関係に生きているように感じてしまいます。しかし、誰もが、たった6人を通してつながり合っていける世界、「スモールワールド」に生きているということを、これらの実験は証明したのです。インターネットが急速に発達している現代では、世界は、さらに小さなものになっていくことでしょう。

 

しかし、私たち人間は、私と外の世界を切り分けて認識する習慣を持つため、つながりを断って、世界を認識してしまいがちです。それによって、自己中心的な視点に縛られ、自己へのとらわれから離れられなくなり、つながっていても、また、つながる可能性があっても、そのことを自覚することができないでいます。個別に独立した存在として切り離された関係をつくり、お互いに、ねたみ、怒り、非難の心で見てしまうのが、私たちのありさまなのであり、疎外される人々を生み出す私たちの社会のありのままの姿です。

 

遠い、近いという感情は、私たちの心が作り出すものです。自他を隔てることのない仏さまの智慧を鏡とするとき、自己のとらわれから離れられない私たちに、分別するあり方を省みて、互いにつながりあっていける可能性が、開けてくることでしょう。

 

 

 

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goen4 吐く息が白くなるような寒い冬の日、暖かなお風呂に入ると、「あ~ありがたいなあ」と思わず声が漏れることがあります。「ありがたい(有り難い)」とは、「有ることが難しいこと」、つまり極めてまれなことに感謝をする言葉です。もちろん、お風呂に入ったときだけではありません。仕事や恋愛など日常生活の中で直面するさまざまな困難の中で思わぬ支えに出あったとき、口に出さなくても私たちはありがたさを心から実感することがあります。

 

さて、お釈迦さまから始まった仏教の教えは、約2500年の時を経て、現代にまで受け継がれてきました。しかし、その歴史は決して平坦なものではありませんでした。中でも仏教が国家に受容された中国・日本などの東アジアでは、いくたびかの深刻な弾圧や迫害によって、その教えが途絶えそうになったことが多くの歴史書に記されています。そうした困難の中で仏法をなんとか伝えようとしてきた人々がいたからこそ、私たちは今、その教えに出あうことができているのです。

 

親鸞聖人は、法然聖人(※1)など自らを導いてきた人々の教えを通して阿弥陀さまの救いに出あえたことをよろこび、ご著作の最後に、次の言葉を引用されています。

 

前に生れるものは後のものを導き、後に生れるものは前のもののあとを尋ね、果てしなくつらなって途切れることのないようにしたいからである。

(『教行信証』化巻、『現代語版』646頁)

ここには、み教えを伝えてくれた先人への感謝と共に、自らも途切れることなく人々に伝えていこうとする親鸞聖人の決意をうかがうことができます。過去から現在へと多くの困難の中でみ教えを伝えてきた方々の「有り難い」ご縁の積み重ねによって、今、私たちが阿弥陀さまの教えに出あうことができているのです。私たちの手によって、未来へとその教えをつなげていきたいものです。

 

※1 「法然聖人」浄土宗の宗祖、親鸞聖人の師、1133-1212

 

 

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goen5毎年お正月になると、初詣の参拝者で多くの神社や仏閣はにぎわいます。

 

中でも、若者たちに人気なのが、「縁結び」のご利益です。「今年こそは素敵な人と出あいたい」と、「良縁成就」のお守りを求めて長蛇の列ができる風景は、この時期の風物詩といえるでしょう。このように、私たちが求める「ご縁」は、「悪い縁」をとりのぞき、「良い縁がほしい」「自分の思い通りの異性が見つかれば良い」という思いが反映された、いささか都合の良いものであることが多いようです。

 

しかし、私と仏さまとの間にある「ご縁」は、こうした私たちが求める「縁結び」とは、全く違うものです。曇鸞大師(6世紀に活躍した中国の僧)は、慈悲について述べる中で、阿弥陀さまの慈悲を「無縁、これ大悲なり」(『往生論註』上巻、『註釈版聖典七祖篇』62頁)と示しておられます。「無縁」とは、仏教では「つながりがない」という意味ではなく、「特定の対象(縁)を選ぶのではない」ということを意味します。つまり、阿弥陀さまから結ばれた私との「ご縁」は、どのようなものに対しても向けられる大悲(私たちを慈しむ心)のはたらきそのものなのです。このことが、『仏説無量寿経』には「十方衆生を救う」と誓われています。「十方衆生」とは、あらゆる世界のいのちあるものという意味です。

 

阿弥陀さまの普遍の救いに出あうとき、自分中心の世界に生きていた私が、仏さまにつながっている世界、仏さまの慈しみに包まれている世界の中にあると、気付かされていくのです。縁のよしあしを気にして思い悩む私たちに対して、阿弥陀さまのほうからすでに、全ての者に対する「ご縁」が結ばれています。この仏縁を通して、私たちが、互いに阿弥陀さまの大悲に等しく包まれているもの同士であったことが知らされていくのです。

 

 

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「ごえん」⑥~⑩

goen6「仏説阿弥陀経」の中に、極楽浄土にいる鳥として「共命(ぐみょう)の鳥」の名が見えます。「共命の鳥」とは、胴体は一つなのに、頭が二つあるので「共命」といいますが、この共命の鳥については、次のようなエピソードがあります。

 

鳥は木の実を餌としていますが、ある共命の鳥は、一方の頭のほうだけが、いつもおいしい木の実を先に食べ、もう一方の頭の方は、いつも残りものの木の実を食べていました。いつも残りものばかりになっている方が、そのことを不満に思っていたために、ある時、毒の木の実を見つけた時、「おいしそうな木の実がある」と言いました。こう言えば、必ずもう一方の方が、横取りして、毒の入った実を食べ、苦しむだろうと思ったのです。予想通り、さっさと横取りして、毒の実を食べ、苦しみ始めました。「やった。ざまあ見ろ」と喜んでいたところが、胴体はつながっているので、もう一方の方にも毒が回って苦しんだという話です。

 

私たちは、この鳥を「愚かだ」といえるでしょうか。私と他人とのつながりを忘れ、「自分が」、「自分が」と我を張っています。私と他者とのつながりを忘れて、自分ばかりを主張するから、互いにぶつかり合うことになります。それを、仏教の言葉で「我他彼此(がたぴし)」というのです。

 

自分のことだけ主張すれば「ガタピシ」と不快な音を立てます。かといって、自己中心的なあり方から離れることが簡単にできるわけではありません。自己主張してガタピシと音を立てるのが私たちのありのままの姿であり、互いに主張し、話し合い、論争し、そうやってつくられていくのが私たちの社会です。

 

しかし、「ご縁」という見方があれば、共命の鳥のように、いのちを共にしているものであると知らされて、ただぶつかり合うだけの愚かさを知り、互いの意見を尊重し、許し合い支え合う「共に」の社会を作っていく思いが生まれてくるのではないでしょうか。

 

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goen7毎年お正月になると、年賀状を送ります。しかし、せっかく送った年賀状が、「宛先不明」で返ってくることがあります。どこかへ引っ越しされたのか、お亡くなりになったのか・・・・・・。原因はわかりませんが、返ってきた年賀状を見て、寂しい気持ちになった経験を持つ方も、多いのではないでしょうか。大切なご縁であっても、ふとしたことで失われてしまうのが、私たちが生きている人間世界の関係です。

 

それは、親子や夫婦といったかけがえのない大切な縁であっても、変わることはありません。なぜなら、「死別」を免れることはできないからです。『仏説無量寿経』には、独りで生まれ、独りで死んでいくとあります。人間は、生まれるときも死ぬときも独りであるというこの言葉には、生死のもたらす別離の悲しみが示されています。

 

親鸞聖人は「人間の八つの苦しみ(※1)の中で、愛別離苦が、もっとも痛切なものである」と仰ったと『口伝鈔(くでんしょう)』に伝えられています。八つの苦しみの中には、自分が老いること、死んでいくことの苦しみも含まれますが、そうした苦しみよりも、慈しみ合っているもの同士が別れていくことほど、悲しく切ないものはないと仰っているのです。この言葉からも、大切な縁が切れてしまうことの痛みの大きさが、あらためて実感されます。

 

そのような私たちに対して、阿弥陀さまの救いは、決して断ち切れることがない縁として届いています。はるか昔から、そして今も、未来も、「摂取不捨(せっしゅふしゃ)」(掬い取って決して捨てない)として、すべてのいのちあるものの元に、阿弥陀さまの光は届いています。この誰もがつながっていける、途切れることのない阿弥陀さまからのご縁をいただいていくことを、「信心」というのです。

 

そして、信心をいただいた私たちは、お浄土に生まれ、仏となって、ご縁のあった人々との間に、永遠のつながりを結ぶことができるのです。

 

※1 「八つの苦しみ」は「八苦」といい、生・老・病・死の四苦に愛別離苦、怨憎会苦(怨み憎むものと合う苦しみ)、求不得苦(求めて得られない苦しみ)、五蘊盛苦(私たちの生存そのものの苦しみ)の四つを加えたものです。

 

 

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goen8私たちは食前に何も意識せずに「いただきます」という言葉を発します。しかし、近ごろは「いただきます」、「ごちそうさま」の一声さえ出なくなっていると嘆く声も聞かれます。

 

浄土真宗本願寺派は2009年11月に新しい「食前のことば」を定めました。

 

【食前のことば】

● 多くのいのちと、みなさまのおかげにより、このごちそうをめぐまれました。

○ 深くご恩を喜び、ありがたくいただきます。

 

【食後のことば】

● 尊いおめぐみをおいしくいただき、ますます御恩報謝(ごおんほうしゃ)につとめます。

○ おかげでごちそうさまでした。

 

この【食前のことば】の「多くのいのち」という表現には、多くの動植物のいのちをいただかなければ生きていけない私たちのあり方への「慚愧」の思いが込められています。

 

【食前のことば】は、食事が空腹を満たすだけではなく、食事というめぐみを通して、私たちの命を支えているものへの「ご縁」を知らせていただく機縁となるでしょう。

 

このように多くのいのちによってめぐまれた私の人生ですから、ご報謝させていただく決意が生まれます。それが【食後のことば】です。

 

もちろん、食事だけではありません。普段、私たちは何気なく生活していますが、その一つひとつを「ご縁」というまなざしから見れば、そこに多くの「おかげ」「ご恩」があり、私のいのちが支えられていることが見えてきます。

 

「ご縁」を見る習慣が身につくと、何も思わずにご飯を食べることができなくなるかもしれませんね。

 

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goen9砂場で、幼い子どもが、時の経つのを忘れて、砂山を作って遊んでいるのを見かけることがあります。

 

大地、砂つぶ、子どもの作業、これら一つひとつが原因(縁)となり、砂山ができあがります。この中の一つの原因が欠けても、砂山はできません。そして、やがて風が吹き、雨が降り、時間が経過して、砂山は崩れていきます。色々な原因(縁)によって、形を変えていくのです。

 

いくつもの縁によって生まれ、また縁によって変化し続け、やがて元の形が無くなっていくありようを「無常」といいます。このように、「縁」と「無常」とは一対の言葉なのです。

 

多くの縁によって、この世に生を受けた幼子も、砂山が崩れて元の砂つぶに戻っていくように、やがては臨終の時を迎えなければなりません。だからこそ、急ぎ、仏とならせていただく仏縁をいただかなければならないのです。

 

お釈迦さまは、「縁起」こそが真理であると説かれました。この世に生まれてきた者は誰も、「縁起」と「無常」の世界を免れることができません。なぜなら、私たちの存在そのものが、「縁」でできた「無常」なものだからです。親鸞聖人は「火宅(かたく)無常の世界」と、「無常」について表現されました、私たちが生きるこの世は、燃えさかる家のように、たちまちに移り変わる世界なのです、やがては、この世での縁が尽き、終わりを迎えなければならないのが私たちのありさまなのです。

 

そんな無常な私たちだからこそ、いつでも、どこでも、はたらいてくださっている阿弥陀さまの慈悲によって、仏とならせていただく。その教えに今、出あい、存在の根底から阿弥陀さまの慈悲の中で生きていくことが、何よりも大切な救いとなるのです。

 

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goen10「僕は誰からも必要とされていない。私なんていなくてもいいんじゃないか・・・・・」

 

学校や職場で、こうした思いを持つ方は、決して少なくないのではないでしょうか。最近では厳しい就職活動の中で自分の存在そのものが否定されたように感じ、自らいのちを絶つ学生がいることも報道されています。「あなたの代わりはいくらでもいる」などのように、取り換え可能な人間と言われることほど、「生きる意味」を失う体験はありません。まさに私たちは、「誰かにとって大切な存在であること」によってはじめて、「自分の大切さ」が実感できるのです。

 

仏教には、「インドラの網」という有名なたとえがあります。インドラとは古代インドの神様であり仏教では帝釈天(たいしゃくてん)という名で知られています。その宮殿を飾っている網の結びめの一つひとつには宝珠が結わえられており、それらがちょうど合わせ鏡のように互いに互いを映し合い、どれか一つの宝珠をとりあげれば、そこにはその他すべての宝珠の姿が映し出されているというのです。

 

自分の顔は、鏡に映して見ることができるように、私自身の姿についても、自分で気付くより、他者の存在を通して知らされるということがしばしばあります、同様に、他者にとってもまた、他ならない私の存在が大きな意味を持っています、このように、あらゆる存在が互いに関わりあいながら形づくられている究極的な縁起の世界こそが、私たちが生きているこの世界なのです。

 

今、生きているこの私こそが、実は「全ての存在にとってなくてはならない、大切な私」であることを、仏教は伝えています。

 

 

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「ごえん」もっと知りたいご縁のこと

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「結ぶ絆から、広がるご縁へ」

 

浄土真宗本願寺派は、「御同朋の社会をめざす運動」の総合テーマに、「結ぶ絆から、広がるご縁へ」という言葉を掲げております。

 

「絆とは、もとは「馬などをつないでおく綱」の意味で、人が結ぶつながりのことです。この人と人との結びつきは、確かに大切でかけがえのないものですが、一方で、人間の思いや好意によるつながりは、どこまでも不確かなものでしかありません。このように人間の分別的な知の世界に「つながり」を限定させるなら、私たちの社会が抱える深い闇、大きな悲歎(ひたん)を人間の根源的なところから克服していく原理としては、不十分でありましょう。

 

一方、「ご縁」とは、人間が作為的につくり出すつながりを意味する言葉ではありません。それは、すべての物事が互いに関わり合って存在していること、あらゆる存在が無限の過去から関連し合いながら現在にいたっていることを示しています。ご縁とは、生きる力を再生させる原理となり、利己的なあり方から離れ難い自己への内省を喚起し、根源的な無力さを実感させながら、それだからこそ他者とつながりあっていくあり方を開いていきます。

 

総合テーマに「結ぶ絆から、広がるご縁へ」を掲げるのは、あらゆるものが縁起し合っているという視点に立って、この運動を進めたいという願いが込められているからです。

 

宗門は、「阿弥陀如来の智慧と慈悲を伝え、もって自他共に心豊かに生きることのできる社会」をめざしています。この宗門の根本的な理念を実現していくために、「御同朋の社会をめざす運動」を展開していきます。

 

 

「ご縁」と「縁起」

仏教の根底を成す思想

「ご縁」は、お釈迦さまが説いた大切な教えである「縁起」に由来する言葉です。

 

お釈迦さまはさとりを開かれ、その後45年間にわたりさまざまな教えを説かれましたが、その教えの根本が「縁起」であるといわれています。お釈迦さまは、人が生まれ、老い、病み、やがて死にいたるという苦しみの原因を探っていき、その原因が人間相互の根本的な欲望や愚かさであることを見いだしました。そのうえでその愚かさが生み出す苦悩を、「智」によって解放していく道を示されたのです。

 

お釈迦さまのさとりは、苦しみの原因を、時間をさかのぼって観察することで得られた境地であり、もともと「縁起」は、時間的な経過の中での原因と結果の関係を意味していました。しかし、後の時代に成ると、あらゆる存在は、他のものとの関係の中で存在しているという、相互の依存関係を意味するようにもなりました。つまり、「縁起」とは、私たちには見極めることが困難なものですが、宇宙のあらゆるものは時間的にも、相互の関係としても、結びつき合って存在しているのであり、バラバラに存在しているようであっても、個別に単独で存在しているものはないという、この世界に真実のあり方を示す思想を表現する言葉になりました。

 

ですから、時間的なつながりと、互いの存在が同時的につながり合っているという二つの私たちの存在を規定するとともに、仏教徒として生きる道を明らかにする奥深い原理が、この短い「縁起」という言葉に集約されているのです。

 

 

日本での浸透

とりわけ、日本に仏教が伝来して以来、この「縁起」の「お互いに関連し合う」という考え方が大切にされてきました。そのことが「縁」に「ご」をつけて「ご縁」という表現になり、江戸時代には、浄土真宗の法話などでも、たびたび用いられてきました。その後、「ご縁」は、日本社会に広く浸透し、日常でしばしば用いられる言葉となり、「多くのご縁によって生かされている」という見方が培われてきたとみられます。

 

親鸞聖人が「遠く宿縁を慶べ」と述べられるところにも、仏法に出あい、阿弥陀さまのみ教えに導かれる身となったことを、遠い過去からのはかり知れない「ご縁」によって与えられ導かれてきたとよろこばれているお姿、すなわち「縁起」の理念にもとに、「ご縁」をこよなくよろこばれているお姿があらわれています。

 

さらに親鸞聖人は、阿弥陀さまの救いを「弘誓(ぐぜい)の強縁(ごうえん)」と讃えられ、「巧妙名号顕因縁(こうみょうみょうごうけんいんねん)」と、阿弥陀さまのはたらきが、私たちの救いの「因であり縁である」と示されました。私たちの救いのすべてが、他力であるとお示しになったのです。

 

 

「業縁」

「業縁」という言葉も使われます。「業」(karman)とは、行いを意味しています。インドでは、お釈迦さまの生まれる前から、輪廻思想の中で、善い行いをすれば楽な世界に生じ、悪い行いをすれば苦しみの果があるとする因果応報の考え方があり、宿命論的な意味合いが強く、インドにおける差別的な身分制度の思想的背景になってきました。しかし、お釈迦さまは、物事は一つの原因によって生じるようなものではなく、また、多くの原因によって常に移り変わり、固定的で変わらぬ私自身はないという「諸行無常」・「諸法無我」の教えを説き、「業」に関する宿命論的な見方を否定されました。

仏教の縁起の体系はそのお釈迦さまお心を根拠とするものであり、親鸞聖人もその心を継承していかれました。

 

しかしその後、お釈迦さまが否定したにもかかわらず、現実の事態を個人の過去世に責任を負わせる考え方とし、「過去からの業によって差別を受けるのはしょうがない」といった諦めの論理として、「業」を利用してきた歴史があります。

 

さらに、親鸞聖人が『歎異抄(たんにしょう)』で「さるべき業縁のもよほさば、いかなるふるまひもすべし」と言われたと伝えられるお言葉は、聖人の深い自己凝視と、真実のありようが人知を超えていることを嘆じられたものであるにもかかわらず、この言葉をも私たちは差別の現実を諦めさせていく論理として使用してきた歴史的事実を有しています。

 

これらの反省に立ったうえで、仏教の根本の教えである「諸行無常」・「諸法無我」そして「縁起」といった考え方を改めて問い直すとともに、自己を深く内省し、一人ひとりが抱える課題に真摯に向き合っていくことを行動へつなげたいと思います。

 

ご縁の中に生かされているという真実の教えを根底として、自他共に心豊かに生きることのできる御同朋の社会をめざしていきましょう。

 

編集・発行:浄土真宗本願寺派総合研究所、重点プロジェクト推進室

印刷:大日本印刷株式会社

 

 

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下関組寺院法座案内6月

houza201306

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2013年6月 仏智に照らされて 初めて 愚鈍の身と知らされる 法語カレンダー解説

hougocalender2013-06み教えを学ぶとは

 

 私白身、寺に生まれ育って僧侶となり、気がつけば三十年以上経ちました。周りから見れば、寺に生まれた者が僧侶になるのは、ある意味、当たり前かも知れませんが、私はさほど積極的な意識で僧侶になったわけではないと言わねばなりません。たいへん不謹慎な話で恐縮ですが、「立派な僧侶になるぞ」と高い志を掲げてきたわけではなく、むしろ「嫌だなあ」という意識の方が強かったということです。

 

 寺の長男に向けられる視線が、私には非常に大きな重圧となり、小さい頃はそれが窮屈で仕方ありませんでした。「お行儀がよくて当たり前」、「いい子で当たり前」、「勉強ができて当たり前」などというレッテルを貼られ、いい子でいることを持続するため、ある程度の演技もしていたと思います。仏法や寺に対してそのようなイメージが持たれているのは、よくある話です。つまり、み教えを学んで賢くなる、利口になる、まじめになる、立派になる、優秀になる。このような見方が強いと思いますが、み教えを学ぶとは、いったいどのようなことなのでしょうか。

 

 

腹が立たなくなった

 

 以前、ある高名な先生が書かれた法話のなかに、こんなお話がありました。そこに登場してくるのは、不思議なご縁で寺へ参るようになった男性のご門徒さんです。それまでまったく寺へのご縁がなかったその方は、ちょっとしたきっかけから、毎月の寺の常例法座にお参りし、ご法話を聞かれるようになったそうです。ご縁をいただいたことをたいへんよろこび、毎月欠かさず常例法座に参加し、熱心に法話に耳を傾けておられたそうです。

 

 ご縁をいただいてから、二、三年経った頃、そのご門徒さんは住職さんにこう言われたそうです。「私は、お寺にご縁をいただいて、本当によかったとよろこんでいます。毎月の常例法座は、いろいろなお話が聞けて楽しいし、とても勉強になります。それに、お寺へお参りするようになってから、私は腹が立たなくなりました」と。それを聞いた住職さんは、こう言います。「ほう、腹が立たなくなりましたか。あなたの周りの人たちはみんな、できた方ばかりなんですなあ」と。

 

 そうしますと、腹が立たなくなったと言った、そのご門徒さんはおもしろくありません。ほめ言葉の一つもあるかと思えば、そうではなく、周りの人たちのおかけで腹が立たなくなったと言われてしまうわけですから、もう1度こう言います。「いやいや、そうではなくて、私は、お寺へお参りして、法話を聞くようになったおかげで腹が立たなくなったと言ってるんです」と。そうしますと住職さんは、「いや、だから、私は、周りにできた方ばかりがいるから、あなたは腹が立たなくなったんでしょうなあと言ってるんです」と。

 

 つまり、腹が立たなくなった理由を、ご門徒さんは「お寺へお参りし、法話を聞くようになったこと」、住職さんは「周囲にできた方々がいてくれること」と、各々異なって見ているから話がかみあわないようです。このようなやりとりが何回かあった後、自分の言うことがわかってもらえないそのご門徒さんは、かなり語気を荒げ、大きな声でこう怒鳴ります。

 

 「いや、だからぁ、あんたもわからん人だなあ。おれは、お寺へお参りして、法話を聞いたおかげで、腹が立たなくなったと言うとるんじゃあ」と。それを聞いた住職さんは、「あんた、いま、怒ったじゃないか。さっき、腹が立たなくなったって言ったんじゃないのか」と言います。それに対して、ご門徒さんも負けていません。「あんたがいらんこと言うからじゃ」と。住職さんもなかなかのものです。「あんたの周りの人たちは、みんないらんこと言わん人ばかりなんじゃな」と。

 

 「法話を聞いて、腹が立たなくなった」ということに対して、変なほめ言葉でごまかすのではなく、大切なことに気づいてほしいとの思いから、この住職さんはこのような応答をしたのだと思います。もちろん、いつでも、どこでも、好きなだけ腹を立ててもかまわないというような、放逸無漸(ほういつむざん)を言うわけではありませんが、いくら腹を立てないようにしても、縁にもよおされれば、どうしても頭から湯気が立ち上ってしまう私かここにいることに気づいてほしい、という住職さんの強い思いがあったのだと思います。そうでなければ、適当におべんちゃらを言って、無難に済ませておいた方が楽なのですから。

 

愚者になりて

 

 

 親鸞聖人は、この私のこんな姿を次のようにおっしゃいます。

 

「凡夫」といふは、無明煩悩(むみょうぼんのう)われらが身にみちみちて、欲もおほく、いかり、はらだち、そねみ、ねたむこころおほくひまなくして、臨終の一念にいたるまで、とどまらず、きえず、たえずと、水火二河(すいかにが)のたとへにあらはれたり。

『二念多念文意』『註釈版聖典』六九三頁)

 

 

 つまり、「凡夫というのは、わたしどもの身には無明煩悩が満ちみちており、欲望も多く、怒りや腹立ちやそねみやねたみの心ばかりが絶え間なく起こり、まさに命が終わろうとするその時まで、止まることもなく、絶えることもないと、水火二河の譬えに示されているとおりである」という意味になります。怒りや腹立ちの心が絶え間なく起こり、命が終わろうとするその時まで消えない、そんな本性の私かここにいると知らされます。

 

 親鸞聖人のお手紙のなかに、法然聖人からいただいたお言葉として、「浄土宗の人は愚者(ぐしゃ)になりて往生す」(『親鸞聖人御消息集』『註釈版聖典』七七一頁)と記されています。愚者であるこの私が、愚者のまま往生させていただくことが示されています。そのお手紙のなかには、「さかさかしきひと」という表現があり、それは「いかにも賢明なようにふるまうひと」という意味になります。み教えを聞いて、学んで、「賢明な」人、つまり、賢者になるというのではなく、むしろ、愚者である私白身に気づかされることの大切さを、しっかりと見据えるべきであるということでしょう。

 

 愚者ではなく、賢者になりたがる私かここにいます。ある寺院の伝道掲示板でこんな法語を見つけました。

 

賢くなることを教える世の中で、自らの愚かさに気づかせてくれる教えが仏法である。

 

 

 なるほどと思いました。「愚」より「賢」を好み、愚かであるよりも賢くあることを願うのが、私たちが持っているいわば普通の価値観だと思います。もっともな話だと思います。しかし、み教えを聞けば聞くほど、愚者である私が見えてきて、ちょっとした知識(自分としてはかなり膨大な知識)を身につけて賢者になったかのように錯覚してしまう、大きな愚かさのなかにどっぷりと浸かっている私かいることを学ばせていただくのだと思います。聞いて、学んで、上達し、向上していくということは私たちのなかにある最高の価値観の一つですから、そう考えることは当然だと思いますが、学ぶ姿勢や方向性によって、捉え方がかなり違ってくるのではないでしょうか。

 

「ありのまま」の厳しさ

 

 

 だいぶ以前のことですが、あるご門徒のお宅に法事に出かけた時にこんなことがありました。その時は、法要もお斉もそのご門徒さんの自宅で行われました。法要が終わり、仏間の隅で私は衣を脱いで、たたんで鞄にしまったりしておりました。お斉の準備をするために、お膳を並べたり、ビールを用意したりしている様子を眺めながら、私は畳の上に座って鞄のなかをごそごそしていました。背後から人の気配がして、「おしょうさん」と呼びかけられて振り向くと、そこに、立派なスーツに身を包んだ男性がにこにこした表情で立っておられました。

 

 その方は、私にこうおっしゃいました。「今日は、ありがとうございました。先ほどのお経は本当にありがたかったです。おしょうさんは素晴らしい声をしていらっしゃいますね。朗々とした大きな声で、とてもありがたいお経でした」と。そのように言われますと私も悪い気はしませんので、「いやぁ、それほどでもありませんよ。恐れ入ります」などと返しながら、内心ほくそ笑んでおりました。

 

 その方は続けて、私にこう尋ねてきました。「お経を唱えている間は、どんなことを考えているのですか。無我の境地ですか、無心の状態ですか」と。私は、これを聞いて、一瞬どう答えればいいのだろうと迷いましたが、あまり白々しい嘘を言うのも嫌でしたので、こんなふうに言いました。「そうですね。お経を勤めている間ぐらい、集中力を高めて、無心の状態、無我の境地になれたらいいのですが、正直言いますと、なかなかそうもまいりません。いろんなことが頭のなかをかけめぐってしまいます。たとえば、今日のお斉はどんなごちそうが出るかなとか、今日は午後も法事があるからお酒は少し控えておかなければ、とか考えてしまいます」と。そうしましたら、その方は、それまでのにこにこした表情が一変して、呆れたような表情になって、首をかしげながら向こうへ行ってしまいました。私の答え方にも問題があったとは思いますが、このような素朴な問いに、瞬時に的確に答えることの難しさを痛感した場面でした。

 

 その男性は、おそらく、お勤めの最中には、雑念も入らずに清らかな心で読経に集中しているということを期待されていたのだと思います。ところが、私が雑念でいっぱいのようなことを言ったものですから、そのギャップに驚いて呆れてしまわれたのでしょう。もちろん、お勤めの最中にさまざまな雑念がいくら混じってもいいということでは決してありませんが、どれだけお経に集中しても、清らかな心にしようとしても、なかなかできない私かいるということを見据えることが肝要であると思います。

 

 阿弥陀さまのはたらきをいただいて日暮らしを続ける私たちは、愚者であり、愚鈍である自身のありのままの姿に気づかされます。それは言い訳でもあきらめでもなく、自身を厳しく問うていく、誠に厳しい眼をいただくということだと思います。「どうせ愚鈍だから」と言い訳するのではなく、愚鈍の身の私だからこそ、阿弥陀さまは決して見捨てずに私にかかりきりになり、その愚鈍を治療する必要もなく、「そのまま」愚鈍の身で往生させていただくんだと味わっております。

(井上慶真)

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