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光明寺について
ご参拝・法要ガイド
Q お骨はどのように安置したらよいのでしょうか。
A 葬儀社さんが紙製の「壇」を設置してくださることが多いのですが、そうでない場合でも特別なものはいりません。
お仏壇の横にお骨を置く壇を作ればいいのです。
◇あくまでお仏壇が中心ですので、そちらがおるぞかにならないように。
◇お骨や法名の前にお菓子とかお水とかのお供えはしません。(お水はどこにも供えません。)
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Q この度の別れをどのように受けとめて過ごしていったらよいでしょうか。
A 本当につらいことでございましたね。
遺産なき母が唯一のこととして
残しゆく死を子らよ受け取れ
と気持ちを歌に託していかれたお方がありました。どのように受けとめていくか、残された者に投げかけられている大きなことがらと思います。
別れは身を引き裂くように悲しいことでございますが、故人はいのちをかけて、このわたしに仏縁をくださったのだといただいていくところに、尊い世界と深い感謝の思いが開かれてくるのではないでしょうか。
◇今まで朝夕の読経の習慣のなかったお方は、ぜひ始められるようお勧めします。何をおつとめしたらよいか、ご住職の意見を参考にされてお参りを始めてみてください。
先立った者も残った者も、共に抱いていてくださる如来さまでありますと御恩報謝のお勤めであります。
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主な法要について
報恩講
御開山親鸞聖人のご命日のご法事です。一月十六日がご命日ですが、一般寺院では繰り上げて勤めることが多いです。お念仏を伝えてくださった聖人のご恩に報いる法要だから報恩講といいます。
永代経法要
ご門徒の総法事です。このお寺が永代にわたってお経が勤まり、おみのりが伝えてゆかれることを願い、全門徒あげて勤められる法要です。
宗祖降誕会
親鸞聖人のご誕生をお祝いする法要です。その他、次のような法要・法座があります。
元旦会 彼岸会 歓喜会 除夜会
カテゴリー: ご法座について
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Q.法座とはどんなことがあるのですか。
A.みんなで勤行(おつとめ)をし、仏教讃歌を歌います。
そしてご講師のお話を聞きます。お話は特別に堅苦しいものではありません。誰でもが気がねなく、一緒に聞ける和やかな雰囲気です。
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Q. 法座には何を持ってゆけばいいのですか。
A. 念珠・経本、そしてご法礼懇志を持って参ります。
懇志の額に決まりはありません。
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Q.ご法座へはどんな服装で参ればいいのですか?
A. 普段の服装で結構です。
普段の服装で結構ですが、門徒式章を持っておられる方はぜひ着用しましょう。
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ご門主のお言葉 被災者の皆様へ
被災者の皆様へ
このたびの東日本大震災によって被災された皆様に対しまして、心よりお見舞い申し上げます。また、この災害によっていのちを失われた方々とご遺族に哀悼の意を表します。
大震災という思いがけない事態に直面し、深い悲しみの中にあります。
宗門では、すべての被災された方々の悲しみに寄り添い思いを分かち合いたいとの願いを持って、4月9日より親鸞聖人750回大遠忌法要をお勤めいたします。阿弥陀如来のお慈悲のなかに、ともに支え合う宗門である
ことを心にとめていただき、心身ともにお大切にお過ごしになられますよう念じます。
2011(平成23)年4月
門主 大谷光真
親鸞聖人750回大遠忌法要が4月9日から始まりました。来年1月16日まで65日間にわたり115座がつとめられ、全国各地から多くの方が参拝される予定です。法要開始を直前に控え、東日本大震災で多くのいのちが失われました。本願寺では大遠忌スローガン「世のなか 安穏なれ」のおこころを体し、被災された方の悲しみに一層寄り添い、その思いを分かち合って、大遠忌法要をおつとめします。8日には大震災で亡くなられた方の追悼法要が阿弥陀堂で営まれました。大遠忌という、50年に一度の尊いご縁をいただくにあたり、ご門主に法要の意義などについて力聞きしました。
なお、ご門主は今回の大震災に際し、「被災者の皆様へ」として、お言葉を発表されました。
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お彼岸 秋 彼岸会
「暑さ寒さも 彼岸まで」という先人のことばに、汗して働く生身の人間を感じるのは、私一人ではないと思います。
そうした人たちが、いつごろからか、こぞって墓参りをする習慣を身につけてきました。なぜなのかを、よく考えてみたいことです。
ところで、”彼岸″とは、”此岸”に対することばです。彼岸とは、浄土の世界であり、涅槃・さとりの世界のことであります。
此岸とは、この私たちの生きて娑婆世界で、煩悩のうずまく迷いの世界であることは、申すまでもないことでありましょう。
この、”彼岸″インドの原語では、何の逆巻く濁流そのものを意味するそうです。そうすると、この”彼岸″と”此岸″でもって仏法は何を伝えようとしたのでしょうか。
前述しましたように、実は”此岸″という”岸”は、岸とは名ばかりで怒涛さかまいている”流れ”そのものですから、此世には何一つとして、あてたよりになるものはないのだよと教えているのでしょう。しかも、さかまく濁流のなかにあって、その中洲(嶋)にたとえられるのが、”彼岸″ であります。`
このことは、此岸にとどまって、ただ死に向かって、単に滅びへの道だけで終るのではなく、死んでしまいにならない彼岸の浄土だけが、あてたよりになるんだよという、阿弥陀如来の切実な願いが、込められているのでありましょう。
それこそ、地位・名誉・財産……を、あてたよりにして、ついには、それらに溺れてしまい滅びに向うこの身に、彼岸からのはたらきかけてある「南無阿弥陀仏」の、お喚び声にゆり起こされて目覚め、その「南無阿弥陀仏」そのものが、迷いの凡夫(この私)の智慧となって、この此岸でのゆるぎない支えとなって下さっているのであります。
こうしたみ教えに出遇ってくれることを、誰よりも願っていてくれるのは、ご先祖だったのであります。 だから、こうした亡き人たちの心に出通い、また、出通うべく墓参りをしたのが、浄土真宗のご門徒さん方だったのでありましょう。
彼岸は遠く、向こうの岸と眺めているだけでなく、彼岸から私へのはたらきかけ、「南無阿弥陀仏」となって、喚びかけ目覚めさせ支えてくださってあるはたらきに気づかせていただいてこそ、なき人々の死が、無駄ではなかったと味わうこともできます。
墓前に頭をたれ、掌を合わす、亡き人の声を心して聞きたいと思うことであります。
カテゴリー: お彼岸やお盆について
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お墓
私たち人間がこの地球上に誕生してから、随分長い歴史を経てきました。
最近は考古学者によって、人類太古の遺跡が発掘される過程で、それは非常に原始的ではありますが、すでに葬儀や遺体安置の形跡がみられると報告されています。
インドで興った仏教も人びとの埋葬については、いろいろな方法をとってきました。
北インドのクシナガラで入滅されたお釈迦さまは、その弟子たちによって、遺骸は「荼毘」にふせられ、遺骨はインド各地に分骨し、仏塔を建てたと伝えられています。また、後世全インドを統一して、マウリヤ王朝を樹立したアショカ王は、深く仏教に帰依し、その在忙中に八万四千といわれるほど数多くの仏塔を建てたといわれています。そうして今もそのいくつかは往時の面影をとどめています。
その後、仏教はインドから西域・中国・朝鮮を経て日本へと伝播していく過程での墓塔もさまざまに変化してきました。
ところで、私たち浄土真宗の教団では、この墳墓のことをどのように考えてきたのでしょうか。
親鸞聖人が九十年のご生涯を終えられて、お浄土に還帰されたとき、遺弟たちは聖人をどのように葬したのでしょうか。このことについて『御伝抄』には、次のように記述されています。
洛陽東山の西の麓、鳥辺野の南の辺、延仁寺に葬したてまつる。遺骨を拾いて、おなじき山の麓、鳥辺野の北の辺、大谷にこれををさめをはんぬ。
文永九年冬のころ、東山西の麗、鳥辺野の北、大谷の墳墓をあらためて、おなじき麓よりなけ西、古永の北の辺に遺骨を堀り渡して仏閣を立て、影像を安ず。
このことは私たちの教団にとっては、大変重要な意味をもっています。それはこの仏閣が現在の本願寺の基となるからです。
お墓は一般的には死者の霊安所とか、また祖先崇拝の場としてとらえられている場合が多いようですが、しかし、仏教は本来、空・無我を説く教えですから、一般的にいわれている霊の存在を否定いたします。したがってお墓は霊安所的な考え方をしないのが仏教徒の正しいあり方です。それでは何のために墓碑を建てるのかということになりますが、浄土真宗では墓碑を建てるとき、その題字に「南無阿弥陀仏」とか、また「倶会一処」という文字を刻かのが通例です。これはこの文字、つまり七名号によって示されますように、お墓はご法義相続の場であることを表わしているからです。これは「ときをもいはず、ところをもきらはず念仏申す」場として在るのです。
ところが近年、巷ではこのお墓に関するいろいろな俗信、たとえば、墓碑建立について、その建て方・日時・方角などの良否・また墓相字といったことがよくいわれているようですが、これは真実の教えにたつとき、全く戯論といわざるを得ません。
お墓の正面に刻まれている「南無阿弥陀仏」については前述のとおりですが、それでは「倶合一処」という文字を刻むのは、それはどのような意味があるのでしょうか。
これは私たち浄土真宗の所依の経典である『浄土三部経』のひとつである『仏説阿弥陀経』に説かれている経文の一句であります。
「舎利弗、衆生聞かんもの、まさに発願してかの国に生ぜんと願ふべし。ゆゑはいかん。かくのごときの諸上善人とともに一処に会することを得ればなり。」
この経文のこころは、私たちが本願力によって信心に恵まれ、浄土往生を願うと、すばらしい善き人びととともに一処に会うことができるという意味です。また、このことについて、先師は「わたくしの尊敬する人、親しい人、愛しい人びとなど、これらの
人びとと出会い、そして再び別れることのない世界」とわかりやすく説いて下さっています。このような意味から浄土真宗では「倶合一処」の経文を墓碑の題字として用いて仏縁を深めてきました。
妙好人・浅偉才市さんは、次のような詩を詠んでいます。
わたしの名号 なむあみだぶつ
せかいの名号 なむあみだぶつ
浄土の名号 なむあみだぶつ
わたしも浄土も なむあみだぶつ
みんなひとつ なむあみだぶつ
「南無阿弥陀仏」や「倶会一処」を題字にしたお墓は、これはただ単に先祖代々の納骨所ということではなくして、それは「みんなひとつ、なむあみだぶつ」と大きく開かれた世界を意味しています。
浄土真宗のみ教えを聴聞するものは、ご本願によって、いのちあるすべてのものが、ともに教われる世界、そうして、親鸞聖人が「御同朋」といわれた「みんなひとつ」の「倶会一処」の世界に生かされる人間です。
私たちは墓前にぬかずき、静かにお念仏させていただくとき、改めて「念仏は無碍の一道なり」ということを自覚せしめられることでありましょう。
(西脇 正文)
カテゴリー: お墓について
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