お彼岸 春 彼岸会

  「暑さも寒さも、彼岸まで」ということばを、みなさんは聞いたことがあるかなあ。

どんなにキビシイ寒さであっても、また、いく日も続いたウダルような暑さも、お彼岸のころになると、すごしやすくなるという意味のことばなんだよ。

 ところで、お彼岸には、家族そろってお墓参りにでかけ、掃除・草取りをして、お花やお香をあげたことが、何度かあると思います。 どうしてお彼岸になると、決まってお墓参りをするのでしょうか。 死んだ人に会えるからでしょうか。

   

“彼岸”というのは、阿弥陀さまの世界・お浄上の世界をあらわしたことばです。
私たちのいる迷いの世界である”此岸”に対することばです。此岸にいる私たちは、いつでも自分を中心にして生きています。このことは、お年寄りから赤ちゃんまで、みんな同じです。

   

ちよっと考えてみようか。 私の家族・私の学校・私の机・私の・・というように、いつでも「私」がついてまわり、私が中心でなければがまんできないのが、私たちです。

 

そんな私たちですが、それぞれ”私の都合”のいいようにしか、物ごとを見ることができませんし、考えることもできません。正しく見ることができずに、計算ちがいがおこり、悩み、苦しむのが私たちです。

   

 そんな私たちに、彼岸のお浄土から、この私の口からお念仏となて、「気づいておくれよ。はやく目を覚ましておくれよ」と、阿弥陀さまは、よびかけてはたらいてくだ下さっているのです。

 ちょうど、こわい夢を見てうなされているときに、肩に手をかけ、ゆり勤かし、声をかけて目をさまさせて、恐ろしい思いから解放して下さるように、あなたを温かくがきとって、一人ぼっちではないのですよと、よびかけて下さっているのです。

 そして、「この阿弥陀さまに出遇っておくれよ。この阿弥陀さまのおよび声に、耳をかたむけておくれよ」と、願っていて下さるのが、私たちのことを人切にしてくれて、亡くなって往かれた人たちです。

   

 お墓参りをして、亡くなって往かれた人の前で、お念仏をとなえ、手を合わせている姿を見ていただくことが、何よりも亡くなった人に喜んでいただけることなのです。

 だから、この私が、お念仏のみ教えに会うことが、何よりも人切なことなんです。

カテゴリー: お彼岸やお盆について | お彼岸 春 彼岸会 はコメントを受け付けていません

ご先祖様

いのちの重さ いのちの広がり

 百人の大学生に、「あなたには四人の祖父母がおられますね。その四人のお名前を、いま、ここで全部書けますか」と質問してみました。書けると答えた人はわずかに二人。

核家族化か急速に速んでいることに驚きました。しかし、かくいう私も、その一代前、即ち曾祖父母八名の名前となると、まったく書けないのです。

 自分の両親から始めて、そのそれぞれの両親というふうに逆三角形を描いてみましょう。二十四代から二十五代前(親鸞聖人の時代)までさかのぼりますと、その数は数千万人になります。

 私は、その名前さえ知らない、実に多数のご先祖のいのちの流れの中に生かされているのです。不思議と申すよりほかありません。

 そのご先祖のお一人おひとりは、それぞれに精下作の人生を生きられたことでありましょう。ご苦労も多かったに違いありません。

そして、わが子、孫よ「幸せに生きよ」

 「真実のお法りをいただけよ」

「お念仏申すひとになっておくれよ」

との願いを残して下さったのです。

 無量ともいうべきいのちと、阿弥陀さまの願いをこの身にいただいていることを思う、わがいのちの重さに気づかせていただくのです。人間の値打ちは、学歴や肩書き、財産の有無ではありません。私の、このいのちそのものが尊いのです。それをはっきり教えて下さるのがお念仏の違であります。

 また、逆三角形にどこまでも広がるご先祖の図を見ますと、「世の中に他人はいないのだ」と実感されますね。

 親鸞聖人は、一切の有情はみなもって世々生々の父母・兄弟なり。と述べておられます。

 私達は、お墓に名前の刻まれたかが家のご先祖のことだけを考えるのではなく、いのちの広がりに思いをいたし、すべてのひとを差別なく愛し、尊敬する心をいただかねばなりません。

   

お休みのないご先祖

 弔辞の多くは、「安らかにお眠り下さい」と結ばれます。慣用の表現であり、病気で 苦しまれた方などへの言葉として用いられるのも、自然な感情の現れとも言えましょう。

 しかし、この世のいのちを終えたひとは、”永遠の眠り”につくのではありません。 まったくお休みのない「いのちとなってはたらいておられるのです。

 親鸞聖人は『浄土和讃』

  安楽浄土にいたるひと
  五濁悪世にかへりては
  釈迦牟尼仏のごとくにて
  利益衆生はきはもなし

 とうたわれました。

 ご先祖は、この世のいのちを終えたその時から、還相回向のみ仏となられ、この私をお救い下さる”おはたらき”を続けておられるのです。それは、眠るどころか、まったくお休みのない大活動のいのちなのです。

 私達は、年忌のお仕事(ご法事)などを丁重につとめますと、立派なことをしたと自己満足をいたします。しかし、私が忘れている時も、眠っている時も、ご先祖はお休みなくはたらいて下さっていることを思わねばなりません。

 また、世間では時折”先祖のたたり”などと言いますが、それはあやまった考えです。

私達は、たたりを恐れることの真反対、ご先祖の大きなご恩に生かされ、導かれていることをはっきり知らされ、喜びと安心の中に、感謝と報恩の生活をさせていただくのであります。

  

  ご先祖の喜ばれること

 ご法話や研修会で、「浄土真宗では、先祖供養ということは申しません」と聞かせていただきます。一般には、よく使われる言葉ですね。

 供養について、『広辞苑』には「三宝または死者の霊に諸物を供え回向すること」と説明してあります。

 けれども、ご先祖は、迷える”霊”ではありません。私を仏法に遇わして下さる善知識です。回向については、浄土真宗では阿弥陀さまが私どもをお救い下さるおはたらきを”他力のご回向”といただくばかりなのであります。お経も回向するものではありません。

 蓮如上人は『御一代記聞書』に

 他宗にはつとめをもして回向するなり、御一流には他力信心をよくしれとおぼしめて、聖人の『和讃』にそのこころをあそばされたり。
 

とお示し下さっております。

お念仏も、私の回向するものがらではありません。

 わがちからにてはげむ善にても候はばこそ、念仏を回向して父母をもたすけ候わめ
 ……(後略)

との聖人のお言葉をしっかり聞かせていただきましょう。

 私が、ご先祖のご恩を偲ぶご縁によって、いま、如来さまのお慈悲に遇う、本願名号のおいわれとおはたらきを聴聞させていただく、お念仏する身とならせていただく、このことこそが、ご先祖の最もよろこばれることなのであります。
                              

  (高千穂 正史)

カテゴリー: ご先祖様 | ご先祖様 はコメントを受け付けていません

お仏壇

阿弥陀仏が主(あるじ)

  『冠婚葬祭入門』という本、ご存知でしょうか。一時はよく売れたそうですが、その本の中に、「お仏壇には、仏像が付きもので、もし仏像が無い場合は、仏画で間に合わせて結構です。」とありました。

 その影響でしょうか、ある人が「お仏壇を買ったら、アミダさんをまけてもらいましたわ」と、得々としておられました。

 ご門徒のお仏壇のご本尊は、ほとんどご絵像(仏画)ですから、みんな「間に合わせもの」や、「おまけ」を拝んでいることになります。

 本当は、お仏像にお仏壇が付きものであって、お仏壇にお仏像が付いてくるものでは
ありません。

   

お仏壇は先祖の位牌壇ではない

 どうして、このような間違いがおこってくるのでしょうか。

 それは、お仏壇が、ご先祖の入る処になっているからであります。

 日本人は、家の宗教はあるけれど、一人ひとりに宗教心がない、といわれるのもこのお仏壇のあり方にその原因がありそうです。

 お骨や、写真、位牌などご先祖にまつわるものが、お仏壇の中心になっていないと落着かない人にとっては、お仏壇というのは、ご先祖さまの入るありがたそうな箱であればよいのであって、ご本尊が「おまけ」であっても、埃だらけてあっても、さほど気にならないのかもしれません。

ですから、ご本尊のお荘厳であるお花や、お灯明やお香も、お念珠・聖典まで、ご先祖のための道具になってしまっています。

 ご先祖、ご先祖といっていますが、ひょっとしたら、白分たちが幸福になるために利用しているのかもしれません。

①年忌があたっていないのに、お仏壇を買うと不幸がおきるのではないてしょうか。
②お仏壇の向きが悪いから、病気が治らないのではないでしょうか。
③お仏壇を動かす場合、お経をあげてもらわないといけないのでしょうか。
①お念珠のひもが切れると、何か不吉なことがおこるのではないでしょうか。

 などなど、お仏壇に関係したこのような間いが多いのは、どういうことでしょう。

 お仏壇が、人間の安らぐ場所、亡き人は懐しく偲ぶもの、という世界からはるかに遠くなってしまっていることはもったいないことです。

   

お仏壇はお礼するところ

 浄土真宗のお仏壇は、文字通りご本尊てある阿弥陀仏をご安置する壇てあります。

 お仏像であろうとご絵像であろうと、浄土真宗のご本尊は立像といって、立っておられます。それは、立つたまま私たちを抱きとって救う仏さまだからです。座って居れぬほど救うに急を要するというお相であります。

 しかも、阿弥陀仏の御手は、あなたの救いは全部、この仏が仕上げているから安心しなさい、という印でありますから、私たちはただ「南無阿弥陀仏」とお礼のお念仏をするばかりであります。

 そうです、真宗のお仏壇は、阿弥陀仏にお礼申す場所であります。

 私たちの先輩は、「明日は試験だから、アミダさんによい点がとれるよう頼んでおいで」などと言わなかったのです。どんな時にも「お礼しておいで」と言いつづけて来たのであります。

   

お仏壇は人間の育つところ

 あるご婦入が、劫い時を回想していわれました。

  「お母さんと一緒に畑に行ったことがありました。お母さんは土に鍬を入れていました。私は、小川のほとりで遊んでいた時、蛙が足元にきたので思わず踏んでしまったのです。それを見たお母さんは、ナンマンダブツ・ナンマンダブツといいながら、グニャッとなった蛙を小川の中に入れやり 蓬か何かの草の汁を蛙の口に入れました。しばらくしてノ几気になった蛙を離して、その行方を見てから、私を抱きしめて“良かったね”といわれたのです。

そして、“アミダさまがよろこんでいられるよ”といって、また仕事にかかりました。

その時、劫なごころに思いました。

アミダさまって、お仏壇の中にじっとおられるばかりと思っていたけれど、こんなところにもおられるんだなあ、そして、アミダさまって、蛙が肋かっとことまで大よろこびされる、やさしい仏さまなんだなあ、と思わず、お礼のお念仏をしました。

すると、お母さんもお念仏していましてね、あのひととき今でも忘れられません」と。

 このご姉人のご主人は三男でしたが、結婚してすぐに、お仏壇を迎えられました。

 その二年後に、かわいい赤ちゃんが生まれたのですが、肺炎をわずらって数カ月のいのちを散らせてしまったそうです。

 「長男でもないのに、お仏壇なんか買うから赤ちゃんを死なせたのと違うか」と近所の人にいわれたそうですが、アミダさまが「そうか よしよし」と親子を抱きしめてくださるようで、ああお仏壇があってよかった。アミダさまのおかげて悲しみを乗りこえさせてもらいました、といわれました。

この人には、祟りとか罰とかが全く通じません。

 今は亡きお母さんのおかげです。といわれるこの人にとって、ご先祖は善知識なのです。

 ご本尊である阿弥陀さまを押しのけて、お仏壇の中心に置いて、はばからないご先祖壇からは、この人のように、やさしく、豊かな人生は開かれません。

 お仏壇は、本当の人開か育つ場所であります。

(都呂須 孝文)

カテゴリー: お仏壇について | お仏壇 はコメントを受け付けていません

孟蘭盆会(うらぼんえ)(歓喜会(かんきえ))

 夏のお盆が近づくと、「亡くなった方が、帰ってこられるよ」「ひょっとすれば、トンボやチョウになって帰って来られるから、生き物をとってはダメよ」と、よくいわれたことがありました。

  

 どうしてお盆になると、お父さんたちは同じことを教えてくれていたのでしょうか。みなさんが、毎日食事をするとき、いただくものの名前を思い出してみて下さい。

 

 例えば、お米・お野菜・お魚・お肉・お豆・と、まだまだあります。

 

そして、私たちの先輩たちが、食べ物に尊敬する意味の「お」ということばをつけておられたことに気がつきます。

 

 このことは、ただ食べ物という品物を口にしているのではないとう思いがあったのでしょう。だから、食事のときは、いつでも、どこでいただいても、合掌して”いただきます”と、食前のことばを申してきたのです。

  

 毎日の生活のなかで、なにげなく言っていることばや、掌をあわせるしぐさに「たくさんの”いのち”のつながりのなかで、私の”いのち”は今、与えられているのですよ」と、教えられてきたようです。

 

 どの”いのち”も尊いんだよと教えてくれる反面、また、どの親もわが子だけが可愛いという一面があります。考えてみますと、この私一人を育てるために、知らず知らずのうちに親は、どれだけまわりの人たちを傷つけてきたかわかりません。そうしなければ、この私が、一人前に育つことはなかったんだよと、お盆のお話しで聞かせていただいたことがあります。

  

 お盆は、亡き人のご恩を返すための日であるよりも、返し尽くすことのできないご恩を、ただただ感謝する日としたいものです。そのことが、ふだん忘れがちになってしまっている”いのち”の尊さを学はしていただくことになると思います。

 

  ふだんは忘れてしまって”いのち”の尊さ、すべての”いのち”はひとしく、私の”いのち″も、アリや小さな虫の”いのち”も、その重さ・尊さということでは、等しいということにも、気づかせていただきたいものです。

 

 そんなことを考えるために、お盆はつとめられてきたものでありましょう。

カテゴリー: お彼岸やお盆について | 孟蘭盆会(うらぼんえ)(歓喜会(かんきえ)) はコメントを受け付けていません

法名  《その意味と歴史》

Q. 「法名」は生前にいただくものであると聞きましたが

A .そのとおりです。浄土真宗門徒として、心から阿弥陀さまを敬い、そのみ教えに生きることを表明する儀式を「帰敬式」と言いますが、この帰敬式に際して、ご門主さまより「おかみそり」を受け、いただくのが「法名」です。

「法名」は、仏さまのみ教えに生きることを決意した人に与えられるものであり、仏弟子であることをあらわす名前です。

  浄土真宗の葬儀においては、「法名」が〔故人がそれをいただいておられなかった場合は、所属寺の住職がおつけして〕荘厳壇に置かれますので、法名=死者の名前と理解しがちですが、「法名」は、決して死者につけられる名前ではありません。

  私たちは、浄土真宗門徒としての自覚を深める意味でも、生前にできるだけ早い機会に「帰教式」を受けたいものです。

   

Q. 「法名」の起こりを教えてください。

A. お釈迦さま在世の頃は、出家剃髪して法衣を着すればみな等しく沙門釈子(この出家者は釈迦の子どもという意)と呼ばれていました。

 現在のような形式の「法名」が生まれたのは、仏教が中国に伝えられてからです。中国では実名の他に別名(字、論等)を持つ習慣があり、それが仏教に影響を与えたものと思われます。

  さらに中国では、最初、出家した者の多くは、師の姓をとって自らの姓としていましたが、乗合時代に、道安という憎は、仏弟子はお釈迦さまのお心を体して皆平等に「釋」をもって姓とすべきであると唱えて、自ら釋道安と名のりました。現在、私たちの宗門で法名を「釋OO」としているのは、ここに由来します。

  

Q 「法名」「戒名」は違うのでしょうか。

A 違います。ここをハッキリと理解しないと、仏事はどの宗派でも同じものと思ったり、字数が多いほど値打ちがあると誤解したりするのです。

  浄土真宗では、戒名とは言いません。戒名は、厳格な規律(戒律)を守って仏道修行する人々につけられる名前であり、阿弥陀仏の救いの法に信順して生きる私たちがいただく名前は[法名」です。従って、「法名」には、修行の経歴を表す道号(四字や六字の戒名)や、修行生活の形態を表す位号(信士・信女・居士・大姉等)はありません。

 「 法名」は「釋○○」というただそれだけです。

  

法名と基幹運動 

   宗祖・親鸞聖人は、独り仏道修行に励む清僧ではなく、山に獣を追い、海に魚を追う
    ことを生業とする、即ち戒律には無縁な民衆と共に、お念仏の法によって救われてゆく
    生き方をされました。その生きざまの表明が「釋親鸞」の名のりです。
     宗祖がご往生されて七百五十年、しかしながら、必ずしも私たちの宗門は宗祖の遺弟
    として、忠実な歩みを重ねてきたとは言えません。法名ひとつをとっても、死者の名前
    のイメージ、戒名との混同、そして長いほど位が高いとの誤解を生じさせてきました。
     今、私たちは自らのたどってきた道を振り返り、慚愧の思いを抱きつつ、宗祖のおこ
    ころに帰るべく歩みを道めています。それを基幹運動と呼び、その一環として誰もが等
    しく「釋○○」の法名をいただくよう、具体的な取り組みをしています。

  

忘れないで! 「法名」の基礎知識

※ 「法名」は、「釋OO」の二字。

※ 「法名」は、仏弟子であることをあらわす名前。

※ 「法名」は、死者の名前ではなく、生前にいただくべきもの。

※ 「法名」は、本来「帰敬式」を受式して、ご門主さまからいただくもの。

※ 「法名」に道号や位号を付けないのは、戒を守る修行者ではないから。

※ 「釋」の字は、お釈迦さまの弟子という意味。

カテゴリー: 法名 | 法名  《その意味と歴史》 はコメントを受け付けていません

5/14 みどり会ご案内

カテゴリー: お知らせ, 行事 | 5/14 みどり会ご案内 はコメントを受け付けていません

5/13、14 宗祖降誕会法要

カテゴリー: お知らせ, 行事 | 5/13、14 宗祖降誕会法要 はコメントを受け付けていません

5/10~5/23 下関大丸 親鸞聖人七五〇回忌記念企画 親鸞展

親鸞聖人七五〇回忌記念企画 親鸞展 

表面PDFダウンロード

いま蘇る、親鸞の世界
激動の中世を生き抜いた親鸞は何を見、何を感じ、何を考えたのか―。
浄土真宗の開祖である“聖人”としてではなく、一人の人間として見るという
スタンスを貫き、わかりやすい解説文とともに生涯の足跡をたどることで、
親鸞という人のリアリティーに迫る展覧会です。
会場を歩き終わったとき、厳しい今を生き抜くためのヒントが見えてきます。

開催場所:下関大丸 7階文化ホール (山口県下関市竹崎町4-4-10)

開催期間:2011年5月10日(火)~23日(月) 10:00~19:30

      ※最終日は午後5時30分閉場

料金: 一般  <税込>800円、中高生<税込>500円、小学生以下無料

   

前売券発売中 <税込>600円

裏面PDFダウンロード

下関大丸(1階サービスカウンター、7階ギフトサロン、宇部出張所、長門出張所、萩出張所、山口出張所)

山口新聞(本社 営業管理センター、山口支社、周南支社、美祢支局、萩支局)

■お問い合わせ先

下関大丸総合サービスサロン 電話083-238-0223
山口新聞 営業管理センター  電話083-266-3213

■前売券発売所

主 催 : 山口新聞社

共 催 : 下関大丸

カテゴリー: お知らせ, 行事 | 5/10~5/23 下関大丸 親鸞聖人七五〇回忌記念企画 親鸞展 はコメントを受け付けていません

浄土真宗本願寺派の葬儀について

葬儀の意義

人生最後の大切な別離の、厳粛な儀式であります。遺族、知友があいつどい、故人を追慕しながら人生無常のことわりに気づき、仏法を聴聞し、自己のいのちを深く見つめる機縁としたいものです。

    

臨終から満中陰

クリックすると拡大します

   

  • 臨  終

①亡くなれたら、先ずお取り次ぎのお寺様に、臨終の通知をしましょう。
②近親者等に連絡をします
③臨終(枕経)勤行・通夜勤行・葬儀を自宅もしくは葬議式場等どちらで行なうかの予定を立てます。また、葬儀社に連絡します。

   

  • 臨終勤行

《意義》
人生の終わりに臨んで、阿弥陀様へのお礼の勤行です。

クリックすると拡大します

この勤行を、一般に「枕経」といっていますが、「ご遺体」に対し読経するのではありません。

お寺様が到着されるまでに、お仏壇の荘厳をします。

※お荘厳のしかた

◎お仏壇の扉を開ける。打敷(銀色または白色)お仏飯・蝋燭・花(派手な色の花は避ける)・焼香の準備をする(焼香炭・お香)

◎ご遺体は、阿弥陀様の前に寝かせる

①お通夜・葬儀の日時・場所・式次第の内容についてお寺様と相談する。(その場に、葬儀社の方が同席していただくとよい)

②帰数式(おかみそり)を本願寺にて受けた方はその事をお寺様に伝え、します。院号を希望されるならその事も相談しましょう。

   

納 棺
①湯灌(ご遺体を拭く、ほとんどの場合病院でしてくれる)をします。女性は薄化粧、男性は髭をそり白服、浴衣または日頃愛用していた衣服を着せて御棺に納めます。

②あれば門徒式章を掛け、手を合わせ念珠を掛けます。

   

お通夜

《意義》

葬儀の前夜であり、生前の姿・形を留め置く最後の目です。

近親者や友人など生前に縁のあった方々が仏前に集まり、故人を偲んで心静かに別れを借しか場であります。

①お寺様が到着されたら、控え室に案内し接待をします。
  その間に遺族・親族・弔問客は阿弥陀様の正面に着座します。用意ができたら喪主はお寺様に挨拶に行き、お勤めをお願いします。

②勤行はできるだけ一緒に勤め、法話があれば静かに聴聞しましょう。勤行がすんだら、喪主より順次焼香します。

   
葬  儀

《意義》

葬場において行なう勤行であり、故人を葬送することをご縁とし、故人を偲びつつすべてのものを故うと誓われた阿弥陀様にお礼を申しあげる儀式であります。
 ①お寺様が到着されたら、控え室(更衣室)に案内し炎上はお寺様に挨拶に行きます。 その間に遺族・親族・弔間客は阿弥陀様の正面に着座します。

 葬儀式次第
  一、導師着席
  一、開式の辞
  一、合掌・礼拝
  一、読経
  一、三奉読
  一、弔辞
  一、読経
    焼香 喪主 遺族・会葬者の順
  一、遺族代表挨拶(読経終了後)
  一、合掌・礼拝
  一、導師退席
  一、弔電代読
  一、閉式の辞

   

葬儀の心得【会葬者等に向けて」

①焼香は、勤行中に行なわれます。氏名の読み上げ等はしませんので、静かに順序よくします。焼香後は連々かに白席且灰ります。

②式中ですから私語等は謹みましょう。また式が終わるまで退席しません。

③ご香志は「御仏前」「御香典」「御香料」「お供」と表書きし、「御言前」とは書きません。

   

葬儀の心得【遺族・親族に向けて」

①弔電代読は本来不必要です。必要であれば数通口とどめ、式前、式後に行ないましよう。故人の経歴等は式前に行ないます。

②一人一人が必ず念珠を用意してください。念珠の貸し借りはしません。

③焼香は、浄土真宗の作法では頂かずに1回だけします。

④焼香は、勤行中に行なわれますので、会葬者等への挨拶(答礼)は必要ありません。
  遺族代表挨拶の時に丁寧にいたしましょう。

⑤日柄の吉凶(六曜=友引や仏滅等のこと)を心配する必要はありません。

⑥旅装束、手甲、脚絆、草履、三角頭巾、六文銭等を入れたり、魔よけの刀などを置く必要はありません。

⑦葬儀のお布施は、葬儀終了後(翌日以降)お寺まで出向いてお礼のお参りをし、その時に持参するのが礼儀です。また、お布施はお経の代金でもまた僧侶への報酬でもありません。阿弥陀様への報謝の行(行為)としてするものです。包み物は「お布施、お膳料、お車料、院号懇志、永代経懇志」など内容に適するように表書きをします。


改めたい言葉    

               
    ふさわしい言葉                ふさわしくない言葉
  お浄土    仏さまの国              草葉の陰 天国
  ご仏前    ご尊前                ご霊前
  阿弥陀様(仏さま)のご加護             神仏のご加護       
  ご往生 悟りの世界                 昇天  冥途の旅   
  お浄土 み仏さまの国へ               幽明境を異にされました
  お帰りになられました              
  謹んで哀悼の意を表し、偲んで、お念仏申します     ご冥福をお祈りします
  お浄土で無上の功徳を得て、             安らかにお眠り(お休み)ください
  私どもをお導き下さい              
  お念仏の中にふたたび相合う、世界が開かれています  永遠の別れとなりました


改めたい習慣

  

 清め塩を配ったり、自宅へ帰って身体に振りかける
 故人の茶わんを割る
 火葬場への道を変える
 お食事は(臨終)から精進料理が好ましいようです
 家の中は、物を逆さに置き換えたり、白紙を貼ったりしません


   

還  骨

 

  • 還骨勤行
      

《意義》

遺骨を我が家に持ち帰り、ご仏前の脇に安置します。故人を偲び、諸行無常と愛別離苦のことわりを厳粛に受けとめるよい機会です。家族みんなで、お勤めしましょう。
①お仏壇を安置しているお宅ではお仏壇の横に白木卓を置き、お骨、写真、法名等を置きます。
②お仏壇のないお宅では、「後飾り」(三役飾り)の台を用いて、仮仏壇を作り、ご本尊を安置し、お花、ロウソク、香炉を揃えます。その横に白木卓を置き、お骨、写真、法名等を置きます。

   

中陰と納骨

《意義》

中陰とは、亡くなった日から四十九日間のことでその問七日ごとに勤めることをいいます。この間は、み教えを聞き、お勤めを稽古し、作法を身につけるよい機会です。何事もお寺様にお尋ねしましょう。

  

①浄土真宗ではこのお勤めは追善回向の仏事ではなく、今は亡き故人の遺徳を偲びそれを仏縁として仏法の確かさをより深く聞き聞かせて頂く仏事です。
②初七日は、亡くなられて七日目に勤める仏事です。故人を偲んでで七日目に大切に勤めましょう。
③満中陰とは、四十九回目のことで、特に遺族・親族が集まって丁寧に勤めます。またこの日を機会に納骨するようにしましょう。

④四十九日が三ヵ月にかかることを心配する方もあるようですがこれは迷信です。「始終苫が身に付く」の語呂合わせにすぎません。これに惑わされることのないようにしたいものです。

  

法名と院号について

《意義》

浄土真宗では、「法名」といい、戒名とは言いません。それは阿弥陀様に帰依して、お念仏と其に生き抗いていく決意をするときに頂く名前です。

院号とは、宗門の護持発展に寄与された方に授与されるものです。

①法名は、本来生前に帰敬式(おかみそり)を受けてご門主様から頂くものです。出来るだけ元気なうちに京都西本願寺に参詣して法名を頂きましよう。受式できないまま亡くなら牡た方に限り住職がご門主様の代わりに法名をお付けするのです。

②法名は「鐸○○」となります。これ以外に字数の多少はありません。また、位号(居士・大姉・信士・信女など)や置き字(法名の上に院号以外に書かかれているもの)等は浄土真宗にはありません。

③院号、位号の有無によって往生成仏が左右されることはありません。

カテゴリー: ご葬儀について | 浄土真宗本願寺派の葬儀について はコメントを受け付けていません

安穏(あんのん)京都からのメッセージ

画像をクリックすると拡大します。

 

●安穏(あんのん)京都からのメッセージ

   

「安穏」は、親鸞聖人が世の安穏を願い、仏の教えが広まるようにと願われた「世の中安穏なれ、仏法ひろまれ」とのお言葉より引用しています。

安穏をご希望の方は光明寺にご連絡下さい。お送りします。

   

光明寺

電話:083-222-0156

カテゴリー: お知らせ | 安穏(あんのん)京都からのメッセージ はコメントを受け付けていません