Q.仏壇がないと化けて出ますか

A.お仏壇は死者の家ではありません。

 亡き人が化けて出るといけないから、仏壇を用意するのですか?と、逆に質問してみたいですね。どうも、いったいお仏壇とは何かという考え方そのものに、根本的な誤解があるようです。なんだかお仏壇が気持ち悪いもののような扱いをされているのです。

   

 こういう考え方は、いろいろなところで出てきているようですね、本当はやりたくないのだけれど、死者に怨まれるといけないのでお葬式をやる。ひょっとして祟りがあるかもしれないので、法事を勤める。これらの考え方ほど、仏教からほど遠いものはありません。

   

 占いで診てもらったら、「七代前の先祖で成仏していない人がいて、それが祟っているので供養しなくてはいけない」などと言われて本気にするのもそうです。ちょっと冷静に考えてみてください。子孫に祟ろうとするような先祖というものがあるでしょうか。じつにバカげた霊感商法にひっかかってしまうのも、少し考えたら分かることを考えようとしないからです。というよりも、本当の教えを聞こうとしないからですね。

   

 化けて出るとか、迷っているとか、祟りがあるなどと脅すのは、全部ニセモノと思って間違いありません。仏さまの教えは、化けるとか祟るとか、そういった目に見えない心理的な恐怖から解き放ってくれるものです。お仏壇がないお宅は、誰かが亡くなったことによってはじめて仏壇を求める場合が多いですが、そのためかどうか、お仏壇というのは「死者の家」だと誤解されてしまっています。そうじゃありません。お仏壇はあくまでも、ご本尊を安置し、私の心の拠り処となり、家庭の中心となるものです。お葬式をきっかけとして、そういうものを、わが家にお迎えするのです。だから化けて出るとか出ないとかいった次元の話とはまるで違うのです。

   

 浄土真宗でしたら、阿弥陀さまという計り知れない寿命と光の仏さまによって救われた亡き人は、阿弥陀さまと同様の仏さまとなって、阿弥陀さまを安置するお仏壇を、わが家に迎えるように働いてくださったと考えるといいのでしょう。そして、お仏壇を迎えることによって仏法に親しみ、阿弥陀さまの救いとはどういうことかを聞いていく人生を始めていけばいいのです。繰り返し言いますが、お仏壇とはそういうものなのです。しかし、お念仏の一つしない、手を合わすこともしない現代人のありさまを見ていると、そんなことをしていると、死んだ人が本当に化けて出ますよ、と脅すしかないような気がするのが残念です。

   

-菅 純和著『葬式のはなし』より抜粋-

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2011年4月 仏号はなはだ持ち易し 浄土はなはだ往き易し 法語カレンダー解説

易往易行の道

 この言葉は、『教行信証』行文類(『註釈版聖典』177項)に引かれている『楽邦文類(らくほうもんるい)』のものです。
 仏号とは如来の名号のことですから、仏号を保つということは、お念仏の相続、つまり、私たちがお念仏していくということです。それはとても易しいことであり、またお浄土に往生していくこともとても易しい、ということです。『一念多念文意』には、このことを端的に「易往易行のみち(いおういぎょうのみち)」((『註釈版聖典』686項)と示されています。

 たしかに、口に「南無阿弥陀仏」と称えることは、仏道における行として、これほど簡単なものはないと言えるでしょう。しかし、そんなに簡単な行でありながら、如来のさとりの世界であるお浄土に間違いなく生まれていくことができる、お浄土に往生していくことは簡単だといわれているのですが、少し不思議な感じがします。ふつうに考えれば、お浄土はこの上ないさとりの世界なのですから、とてつもない行を修め、これ以上ないというほどの功徳を積まなければ往生できないのではないでしょうか。

無問自説の経

 ご法事などのときによくお勤めされる『仏説阿弥陀経』というお経がありますが、ここにも不思議な話が示されています。もとより『仏説阿弥陀経』には他のお経にはない特徴があります。ふつうであれば、お釈迦様に対して誰かが質問をして、それに対してお釈迦さまがお答えになるという形で、お経は始まります。しかしこのお経は、誰も問いかけるものがいないのに、長老である舎利弗(しゃりほつ)に対して、いきなりお釈迦さまが話を始められます。それで、このお経のことを親鸞聖人は「無問自説の経(むもんじせつのきょう)」と言われているのですが、舎利弗はこのお経の最後まで一言も声を発しないのです。つまり、じっと黙ったままお釈迦さまが言われることを聞いているのです。

 舎利弗はお釈迦さまの十大弟子の一人です。お釈迦さまより年上であったと言われ、友人である目連尊者とともに、お釈迦さまの後継者とも目されていた人物であり、智慧第一と称されたすぐれたお弟子なのです。ですから、黙って聞いているのは、お釈迦さまの言われることがわからなかったということではありません。それどころか、最後には歓喜し信受してその場を後にするのですから、舎利弗はお釈迦さまのお話の内容をしっかりと受け止め、十分に理解しながら聞いていたのです。

ただ念仏して往生する

 さて、舎利弗に対してお釈迦さまが説かれたのは、次のような内容です。まず、私たちの住む世界より西の方角、十万億の仏の世界を過ぎたところに、阿弥陀如来の世界があり、そこにはさまざまな功徳に満ちたさとりの世界であって、その仏の世界に生まれる者も多くの功徳を得ることができる、と説かれます。注目すべきはその後です。
お釈迦さまは舎利弗に対して、

 舎利弗、少善根福徳(しょうぜんごんふくとく)の因縁をもつてかの国に生ずることを得(う)べからず。
(註釈版聖典』1114項)

と言われるのです。つまり、ちょっとぐらいの善いことを行ったり功徳を積んだからといって、その仏の世界に生まれることはできないのだと言われるのです。智慧第一と言われる舎利弗ですから、おそらくあらゆる行に通じているに違いありません。一体、どのような行をもってその国には生まれることができるのだろうかと、舎利弗は一心に耳を傾けたことでしょう。
 しかし、舎利弗が聞いたのは次のような内容でした。

 舎利弗、もし善男子(ぜんなんし)・善女人(ぜんにょにん)ありて、阿弥陀仏を説くを聞きて、名号を執持(しゅうじ)すること、もしは一日、もしは二日、(中略)この人終わらん時、心顛倒(しんてんどう)せずして、すなはち阿弥陀仏の極楽国土に往生することを得。

(註釈版聖典』124~125項)

 「善男子・善女人」とは、出家していない在家の人びとのことです。その在家の人びとがお釈迦さまが阿弥陀仏の教えを説かれるのを聞いて、ただ念仏するというのです。「名号を執持する」というのは、今月の言葉にある「仏号を持つ」ということと同じで、お念仏するということです。そのように、ただお念仏している在家の人びとは、命を終えると同時に、そのまま阿弥陀如来のお浄土に往生することができると言われたのでした。
 舎利弗にとって、お釈迦さまの説かれた内容は信じがたいものであったでしょう。舎利弗が考えていたような難しい行ではなく、阿弥陀如来のお名前をただ口に称えるという誰でもできる簡単な行で、在家の人びとがこの上ないさとりの世界へ生まれることができるというのですから。

難信の法

 舎利弗は戸惑った様子だったのかもしれません。お釈迦さまは、そんな舎利弗のために、自分だけがこの教えを説いているのではないと教えます。東の方角の仏がたも、そして南・西・北・下・上のすべての方角の仏がたも、「この教えを信じよ」と説かれているのだというのです。さらに、この教えは一切の仏がたが護られている教えであって、この仏たちが説く阿弥陀如来の名やあるいはその教えの名を聞くものは、みなこの上ないさとりから退転することなく、必ず阿弥陀如来の国、すなわち浄土に生まれていくのであると説かれたのです。
 最後に舎利弗に向かって、お釈迦さまは次のようにお述べになります。「舎利弗よ、私がいま、あらゆる方角の仏がたが阿弥陀如来の教えを説かれたことを讃えたのと同じように、仏がたもまた私がこの煩悩に満ちた世界においてさとりを開き、すべてのもののために阿弥陀如来の教えを説いたことをほめ讃えておられるのである。世間の常識的な道理では信じがたい教えであるが、私はさとりを得てこの教えを説いた。これより難しいことは他にないのである」と。このお釈迦さまのお話が終わると、舎利弗をはじめとする多くの出家の者だけではなく、神々や人びとなど、世界のすべてのものが喜びにあふれ、その教えを信受したことが説かれて、この経は終わります。

私を往生させるのは如来のはたらき

舎利弗にとって、この阿弥陀如来の教えは信じがたいものでした。しかし最後には、この教えが説かれたことを喜び、そして自ら信受していきます。それはどうしてなのでしょう。智慧第一と言われた舎利弗は、出家の者が修める行であれば、それがどのような功徳を持つのかということを理解するのは難しいことではないでしょう。しかし、在家の者がただ念仏するという簡単な行でこの上ないさとりの世界へ往生していくという教えには、さぞ衝撃を受けたに違いありません。その舎利仏が信受していったのは、おそらくお釈迦さまのこの言葉によってではなかったかと思います。

 われいま阿弥陀仏の不可思議の功徳を讃歎(さんだん)するがごとく、・・・
(註釈版聖典』125項)

 お釈迦さまがこれまでお説きになっていたのは、すべて阿弥陀如来のはたらきの徳であったというのです。この上ないさとりの世界が建立されていることも、その世界には在家の者がただ念仏して往生していくことができることも、すべては阿弥陀如来の不可思議の功徳として説かれていたのでした。お釈迦さまだけではなく、東・南・西・北・下・上の仏がたもまた、「この不可思議の功徳を称讃し」ておられるのです。私が口に念仏を称えることに功徳があるわけではなく、あるいは、智慧第一と言われる舎利弗であったからこそ、このことを信受できたのではないでしょうか。
 私が浄土というさとりの世界へと生まれることができるのは、如来のはたらきによるものでした。お釈迦さまは舎利弗に対して、ちょっとぐらいの善いことを行ったり功徳を積んだからといって、阿弥陀如来のさとりの世界へ生まれることはできないと説かれましたが、この私はちょっとぐらいの善いことすらできない煩悩具足の凡夫なのです。それどころか、「歎異抄」に示されるように、浄土に往生することすら素直にありがたいと思うことができず、むしろ苦悩に満ちたこの迷いの世界を捨てることができないでいるのが、私の姿なのです。それなのに、「浄土はなはだ往き易し」と示されるのは、浄土に往生していく力が私の方にあるからではありません。私が迷いの世界にあることを知らせ、さとりの世界へと生まれてこいと願われて、私を浄土へと往生させる、そのはたらきのすべては、如来の側にあったのです。如来の不可思議のはたらきによって私が浄土に往生させていただく、だから浄土は「はなはだ往き易」い世界なのでした。

わが名よ、広く聞こえよ

 私を浄土に往生させようという如来の願いは、『仏説無量寿経』に説かれています。
すなわち、ご本願である第十八願を含め、四十八の願いが示されているのですが、続いて、その仏の願いをもう一度重ねて誓われる「重誓偈(じゅうせいげ)」と言われる偈文(仏の教えや仏・菩薩の徳を韻文の形式で述べ讃えたもの)が置かれています。ご本願では「ただ念仏して浄土に生まれてこい」と願われているのに対して、この「重誓偈」では「わが名よ、広く聞こえよ」とだけ言われているのですが、ご本願に誓われている念仏が出てこないのは不思議な感じもします。しかし考えてみれば、私が浄土へ往生する全てのはたらきは如来の側にありました。「わが名よ、広く聞こえよ」という誓いは、そのことが私に届いてしっかりと受け止められるように、と願われているのです。私がお念仏するのは、それがしっかりと受け止められているということなのです。あたかも生まれたばかりの赤ちゃんに対して、お母さんが「私がお母さんですよ」と繰り返し呼びかけるのと同じように、「わが名よ、届け」と如来の方が願われているのです。私が念仏するその前に、如来が私に喚びかけておられるのでした。
 「仏号はなはだ持ち易し」と示されているのは、ただ念仏が簡単な行だというだけではなく、如来の方が先に喚びかけてくださっているからこそ、私の口に仏の名が称えられるのでしょう。仏号はなはだ持ち易し、浄土はなはだ往き易し・・・。私たちがお念仏していくこともお浄土に往生していくことも、それが易しいと言えるのは、私が浄土に往生しようと願うよりも前に、私を浄土に往生させずにはおかない如来さまの願いがあったからなのです。

(安藤光慈)

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なるほど仏事『合掌・礼拝』

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 『なるほど仏事』より 

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お蔭様 -くらしの仏教語辞典-

 「お蔭様で」は、感謝の心を表す日常語です。お蔭とは、神仏の助けや加護のことで、そこから、人から受ける恩恵や力添えをいうようになりました。

 王舎城(おうしゃじょう)に住んでいたシンガーラカは、亡父の遺言によって、毎朝、東西南北と上下の六方に礼拝をしていましたが、意味は十分理解していませんでした。

 お釈迦さまは彼に対して、こう教えました。

 「東方を拝むときは、私を生み育ててくださった父母に感謝し、南方を拝むときは、私を導いてくださった師に感謝し、西方は妻や子に、北方は友人に、上方は沙門に、下方は目下のもののご苦労に感謝せよ。それが六方を礼拝する合掌の意味である」

 この説法は「シンガーラカへの教え(『六方礼拝経』と漢訳)」といい、在家向きの論理道徳を説いたものとして、原始経典中、重要なものとなりました。

 仏教は、すべてのものは相互に関係しあい、多くのものの力、お蔭、恵みを受けて生きていると説きます。だから、当然、これらに感謝しましょう。

『くらしの仏教語豆辞典』より抜粋

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諸行無常 -くらしの仏教語辞典-

 「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり」

『平家物語』の語り出しの有名な一句です。

 インドの祇園精舎には無常堂があり、その四隅の軒にさげられている鐘は、修行僧が命を終わろうとするとき「諸行無常(しょぎょうむじょう)」の四句の偈(げ)を響かせ、僧を極楽浄土へ導いたといいます。

 このように、諸行無常は人生のはかなさ、生命のもろさ、そしてときには死を意味する言葉として、日本人になじみの深い語句となっています。 

 しかし、本来、諸行無常とは、この世のものはたえまなく変化し続けるという事実を、ありのままに述べたもので、仏教の真理のひとつなのです。

 人が死ぬのも無常ですが、生まれるのも無常、成長するのも無常だというのです。不幸な人が幸福に恵まれるのも無常なのです。

 万物は流転しています。だからこそ、努力するのであり、一刻一刻が貴重なのであり、限りある命を大切にするのです。

 けっして、「無情」ではありませんぞ。

『くらしの仏教語豆辞典』より抜粋

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過去・現在・未来 -くらしの仏教語辞典-

 過去・現在・未来は時の流れを表す日常語です。

 仏教では、これを「三世(さんぜ)」といいます。過去は過ぎ去ったもの、現在は生起したもの、未来はいまだ来ないものという意味です。

 三世は過去・現在・未来のほかにも。前世・現世・後世ともいい、略して「過現未(かげんみ)」とか「己今当(いこんとう)」ともいいます。

 しかし、これらの言葉には、どこにも「時」という語が見当たらないのです。

 それは、仏教では、時間というものを実体としてあつかわず、存在するものの変遷としてとらえられるからなのです。その過程の上に、仮に三つの区別を立てているにすぎないと説きます。

 仏教は、その三世の中でも、現在を問題にします。

 それは、過去は現在の原因として、未来派現在の結果としてあるものだから、現在がすべてだ、と考えるからです。

 お寺の門の脇の掲示板に、こんな言葉を見つけました。

 「過去を悔いず、未来を待たず、現在を大切にふみしめよ」

『くらしの仏教語豆辞典』より抜粋

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親鸞聖人―その教えと生涯に学ぶ―

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連続公開講座開催のお知らせ

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3/19 みどり会ご案内

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春季彼岸会法要のご案内

皆様お誘い合わせの上お参り下さい。

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