このギャラリーには1枚の写真が含まれています。
2月5日、婦人会の「新年会」を行ないました。
このギャラリーには3枚の写真が含まれています。
2016年1月24日、下関にも大寒波が押し寄せ、光明寺も一面真っ白な雪景色となりました。 雨や雪の日には石段が大変滑りやすくなっております。お参りの際は手すりをお持ちいただき、足元に御注意ください。 春まで … 続きを読む
このギャラリーには18枚の写真が含まれています。
2016年1月13日から16日の4日間、光明寺にて今年も御正忌報恩講が執り行われ、たくさんの方がおまいりに来られました。 おときを用意していただいた仏教婦人会、仏教若婦人会の皆さんお疲れさまでした。
二月の法語は「和訳正信偈」の第四首後半です。
生きとしいくるものすべて このみひかりのうちにあり
一月の法語(第四首前半)に続くご文で、「正信掲」では、
……一切群生蒙光照(いっさいぐんじょうむこうしょう)
……一切(いっさい)の群生(ぐんじょう)、光照(こうしょう)を蒙(かぶ)る(『註釈版聖典』二〇三頁)
とある句にあたります。
現代語版では、
……すべての衆生は、その光明に照らされる。
(『教行信証(現代語版)』 一四四頁)
とあって、阿弥陀さまの無量無限のひかりに、私ども迷いの中にある生きとし生けるものすべてが照らされている、そのはたらきの中にいだかれてあると、その慶びを詠われています。
一月の法語をいただく中でも触れたように、親鸞聖人は、ご和讃に、「十二光」と示される阿弥陀さまのはたらきを、感動とよろこびをもって詠われています。そのいくつかを取り上げて、この法語を味わうことにしましょう。
無礙の大道
光雲無礙如虚空(こううんむげにょこくう)
一切の有礙(うげ)さはりなし
光沢かぶらぬものぞなき
難思議(なんじぎ)を帰命せよ(『註釈版聖典』五五七頁)
「十二光」について詠う中で、「無擬光」を讃えるご和讃です。現代語訳してみますと、
阿弥陀さまのひかりは輝く雲のようであり、何ものにもさまたげられない大空のようである。すべての障碍(しょうがい)(=煩悩)にさまたげられることなく、そのひかりのはたらきを受けないものはない。はかり知ることのできない「難思議」〔なる阿弥陀仏〕に帰依しなさい。
十二光の中の「無礙なる光」のはたらきを示されて、そのような阿弥陀さまに帰依しなさいと詠います。
私たちの世界では、たとえば、大きなビルが建てられて日照権が侵害されたとか、大自然の素晴らしい眺望が奪われたということがしばしば言われます。また、携帯電話やスマートフォンなどが自在に活用される時代ですが、場所によっては、電波が届かず、音声が途切れたり、映像が消えたりします。このように、私たちの世界では、障害物があれば機能不全になったり、誤動作したりします。
「無礙」とは、さまたげるものがない、障碍となるものがないということで、阿弥陀さまのまなこは自由自在にものをとらえ、その大慈悲のはたらきを邪魔するものは何一つとしてないということなのです。
『歎異抄』第七条には、
念仏者は無磯の一道なり。そのいはれいかんとならば、信心の行者には、天神・地祇(じぎ)も敬伏(きょうぶく)し、魔界・外道も障磯(しょうげ)することなし。罪悪も業報(ごうほう)を感ずるとあたはず、諸善もおよぶことなきゆゑなりと云々。
(『註釈版聖典』八三六頁)
〔現代語版〕
念仏者は、なにものにもさまたげられないただひとすじの道を歩むものです。
それはなぜかというと、本願を信じて念仏する人には、あらゆる神々が敬ってひれ伏し、悪魔も、よこしまな教えを信ずるものも、その歩みをさまたげることはなく、また、どのような罪悪もその報いをもたらすことはできず、どのよ
うな善も本願の念仏には及ばないからです。
このように聖人は仰せになりました。(『歎異抄(現代語版)』 一三頁)
とあり、阿弥陀さまの「無礙なる光」のはたらきがはっきりと示されています。真の法則であり真理のはたらきである如来の威神力の前には妨げとなるものはないということです。
曇鸞大師を讃嘆されるご和讃に、
無擬光の利益より
威徳広大の信をえて
かならず煩悩のこほりとけ
すなはち菩提のみづとなる罪障功徳の体となる
こほりとみづのごとくにて
こほりおほきにみづおほし
さはりおほきに徳おほし(『註釈版聖典』五八五頁)
と詠われています。すなわち、
「無礙のひかりのはたらきによって他力の大信心が得られ、氷のように硬い煩悩がそのまま転じてさとりの智慧となる」
「罪悪や煩悩の障りが悟りの徳の本体となる、ちょうど氷と永のように、氷が多くて水が多くなるように、罪悪や煩悩の障りが多くて悟りの徳が多くなる」
と詠われて、障碍となる「罪障の氷」が多いほど、悟りの「功徳の水」が多くなるとよろこばれ、阿弥陀さまの「無擬なる光」のうちにあることを、このように讃嘆して詠っておられるのです。
大悲ものうきことなし
「正信偈」の終わりに近いところに、源信和尚の『往生要集』のおことばを詠われている偶文があります。
極重悪人唯称仏(ごくじゅうあくにんゆいしょうぶつ)
我亦在彼摂取中(がやくざいひせっしゅちゅう)
煩悩障眼雖不見(ぼんのうしょうげんすいふけん)
大悲無倦常照我(だいひむけんじょうしょうが)
極重の悪人はただ仏を称ずべし。われまたかの摂取のなかにあれども、煩悩、眼を障へて見たてまつらずといへども、大悲、倦きことなくしてつねにわれを照らしたまふといへり
(『註釈版聖典』二〇七頁)
現代語版では、
「きわめて罪の重い悪人はただ念仏すべきである。わたしもまた阿弥陀仏の光明の中に摂め取られているけれども、煩悩がわたしの眼をさえぎって、見たてまつることができない。しかしながら、阿弥陀仏の大いなる慈悲の光明は、そのようなわたしを見捨てることなく常に照らしていてくださる」と〔源信和尚は〕述べられた。
(『教行信証(現代語版)』 一五一頁)
まさに、阿弥陀さまの光明のはたらきが限りない無際限であり、無礙であり、不断にして常にはたらいてくださっているがために、わが身の身勝手なむさぼりなどの煩悩が障りをなそうとしても、常に私を見守り見捨てることがない、と、お示しくださっています。
欧米の篤信の聞法者に、朝夕に「正信偈」をお勤めしながら、この源信和尚のことばの偈文に来ると、「感動のあまり、声が詰まるのです、……」と述懐されているお方がおられます。—-「この偈文は、この私のためにお示しくださったのだ……」と、感極まって涙が出てくる、と言われるのです。
さらにご和讃にも、同じように詠われています。「源信大師 釈文に付けて十首」とされる中に、
煩悩にまなこさへられて
摂取の光明みざれども
大悲ものうきことなくて
つねにわが身をてらすなり(『註釈版聖典』五九五頁)
と詠われる詩頌です。「和訳正信偈」では、第二十七首に、
罪の人々 み名をよべ
われもひかりの うちにあり
まどいの眼には 見えねども
ほとけはつねに てらします
と詠われています。
このように、「正信偈」やご和讃、「和訳正信偈」に、「無礙なる光」の阿弥陀さま、「無量なる光」の阿弥陀さま、「不断なる光」の阿弥陀さまと讃えられる阿弥陀さまの大いなる光明のはたらきを、「このみひかりのうちにあり」と味わわさせていただきます。
(佐々木恵精)
●人生は価値ある一瞬
【定価】¥1,080(本体¥1000+税)
不安や迷いは当たり前。
背伸びせずに毎日を精いっぱい生きればいい。
目に見えない大切なものとは、一人ひとり縁によって獲得する べきものですが、私にとっては、仏教の教えです。手っ取り早い解決法にはなりませんが、今さえよければ、自分さえよければという狭い思いを打ち砕く大切な はたらきを持った仏教を手がかりに、現代生活のさまざまな課題に、どう対処することができるかを考えてみました。本書が少しでも人生のヒントになればと思 います。(まえがきより)
大谷光真前門さまが語る、こころ豊かな生き方のヒント。
一月の法語は「和訳正信偈」の第四首前半の二句です。
「正信偈」は、親鸞聖人がその結びに「六十行すでに畢(おわ)りぬ。 一百二十句なり」(『註釈版聖典』二〇七頁)といわれているように、二句一行で一詩頌となっていますが、「和訳正信偈」では、インドの讃歌の形式に従って四句で一詩頌となっていて、全三十詩頌、一百二十句と数えられます。一月の法語は、その数え方によって第四首の前半二句ということになり、次の二月の法語にその後半二句が選ばれています。
その法語は、標題の通り、
十二のひかり放ちては あまたの国を照らします
と詠われます。
十二のひかり
「十二のひかり」とは、「正信偈」に阿弥陀さまのはたらきが十二の光で示され、その大いなるはたらきを称讃するとともに、すべての生きとし生けるものがこの光に照らされる……と、阿弥陀さまのおはたらきに出遇っている慶びが詠われます。
「正信偈」では、次のように詠われる一節です。
普放無量無辺光(ふほうむりょうむへんこう)
無碍無対光炎王(むげむたいこうえんのう)
清浄歓喜智慧光(しょうじょうかんぎちえこう)
不断難思無称光(ふだんなんじむしょうこう)
超日月光照塵刹(ちょうにちがっこうしょうじんせつ)
あまねく無量(むりょう)〔光〕・無辺光(むへんこう)、無礙(むげ)〔光〕・無対(むたい)〔光〕・光炎王(こうえんのう)、清浄(しょうじょう)〔光〕・歓喜(かんぎ)〔光〕・智慧光(ちえこう)・不断(ふだん)〔光〕・難思(なんじ)〔光〕・無称光(むしょうこう)、超日月光(ちょうにちがっこう)を放ちて塵刹(じんせつ)を照(て)らす。
(『註釈版聖典』二〇三頁)
現代語版では、
本願を成就された仏は、無量光・無辺光・無 光・無対光・光炎王・清浄光・歓喜光・智慧光・不断光・難思光・無称光・超日月光とたたえられる光明を放って、広くすべての国々を照らし、・・・・・
とあり、「阿弥陀さまは十二の光を放っておられる」と詠って、そのはたらきを讃えられるのです。
さらにそのもとをたどりますと、『無量寿経』阿弥陀さまの別名として「十二光」が説かれ、阿弥陀さまの大いなるおはたらきを「十二光仏」の仏名によって讃えられています。すなわち、釈尊が阿難尊者に向かって「無量寿仏の威神光明」はほかの仏・如来たちのいかなる光明も及びえない、絶大なものであるということを説かれる場面で、
無量寿仏(むりょうじゅぶつ)をば、無量光仏(むりょうこうぶつ)・無辺光物(むへんこうぶつ)・無礙光仏(むげこうぶつ)・無対光仏(むたいこうぶつ)・・・・超日月光仏(ちょうにちがっこうぶつ)と号す。それ衆生ありて、この光に遇ふものは、三垢消滅(さんくしょうめつ)し、身意柔軟(しんいにゅうなん)なり。歓喜踊躍(かんぎゆやく)して善心(ぜんしん)生ず。……
(『註釈版聖典』二九頁)
現代語版では、
無量寿仏を無量光仏・無辺光物・無礙光仏・無対光仏・・・・超日月光仏と名づけるのである。この光明に照らされるものは、煩悩が消え去っても身も心 も和らぎ、喜びに満ちあふれて善い心が生れる。……
(『浄土三部経(現代語版)』五〇頁)
とあります。親鸞聖人は、これをお受けになって、阿弥陀仏の十二の別名「十二光仏」として受け止めるのでなく、阿弥陀さまはどういうはたらきの仏さまであるかということを、十二の光の機能で示されました。それが、「正信偈」の「〈十二の〉光明を放って、広くすべての国々を照らし…」と詠われる句です。
十二のひかりの内容
阿弥陀さまは、その原語からしても「無量寿仏」「無量光仏」と呼ばれているように、もろもろの仏・如来に比べても特別に照り輝く、ひかりのはたらきが絶大である仏さまであるとされ、このように、十二光を放ってあらゆるものを照らしておられると詠われます。それでは、この「十二のひかり」とは、何を意味しているのでしょうか。先哲のご指南をもいただきながら、概略的にその内容をうかがいましょう。
まず「無量光」とは、量ることのできない光で、竪(たて)に(=時間軸で過去・現在・未来にわたる)三世を貫き照らすことに限極がないといわれます。
「無辺光」とは、際限のない光で、横に(=空間的に)十方にわたって照らすことに辺際がないといわれます。
次に「無礙光」とは、何ものにもさえぎられることのない光で、三毒の煩悩(自己中心の心から起こるむさぼり・いかり・愚かさの毒のような煩悩)も障碍(障り、妨げ)となることがないといわれ、この「無礙」なるはたらきがさらに区分されて、以下の九種の光があげられるといわれます。
それら九種とは、対比しうるものが全くない「無対なる光」、最高の輝きをもつ「炎王なる光」、凡夫の欲望・むさぼりを除く「清浄なる光」、凡夫のいかりを除きよろこびを与える「歓喜の光」、凡夫のまどい・愚かさを除き智慧を与える「智慧の光」、常にたえず凡夫の心を照らす「不断の光」、思いはかることのできない、凡夫をそのまま往生せしめる「難思なる光」、説き尽くすことができず言葉も及ばない「無称なる光」、太陽や月など世間の光に超えすぐれた「超日月の光」―これらを含めて全十二の光で、阿弥陀さまの威徳を讃嘆(さんだん)されているわけです。
ご和讃に「十二のひかり」を味わう
「正信偈」も「和訳正信偈」も、日常のお勤め(勤行)で、門信徒の方々や家族とともに唱和し味わいを深めるのに最良の偈文ですが、これに続いて親鸞聖人ご製作のご和讃が唱和されています。それにより親しく法味を味わわれることでしょう。
ご和讃は、七五調の今様形式で詠われる、一首が四句からなる和語の仏法讃嘆の詩歌で、聖人は五百首以上ご製作くださって、私どもが仏法を深く味わい親しむ最良の手立てをいただいています。その中で、浄土往生の教え、信心の慶びなどをまとめられた『浄土和讃』の冒頭に、この「十二光」を詠われた和讃がまとめられています。「讃阿弥陀仏偈和讃」といわれるように、浄土真宗を基礎づけてくださった七高僧の第三祖・曇鸞大師ご製作の『讃阿弥陀仏偈』に基づいて詠われたご和讃で、親鸞聖人は曇鸞大師のご指南によってこの「十二光」を味読されていると、うかがうことができます。
その中のいくつかを拝誦して、この「十二のひかり放ちては あまたの国を照らします」を味わいたいと思います。
一々(いちいち)のはなのなかよりは
三十六百千億(さんじゅうろっぴゃくせんおく)の
光明(こうみょう)てらしてほがらかに
いたらぬところはさらになし
一々のはなのなかよりは
三十六百千億の
仏身(ぶっしん)もひかりもひとしくて
相好(そうごう)金山(こんぜん)のごとくなり
相好ごとに百千の
ひかりを十方(じっぽう)にはなちてぞ
つねに妙法(みょうほう)ときひろめ
衆生を仏道にいたらしむ(『註釈版聖典』五六三頁)
現代語にしてみますと、
「お浄土にある一々のはなのなかから三十六百千億ともいう無限量の光があらゆる世界を照らし、冴えわたるように明らかでとどかないところがない」
「お浄土にある一々のはなのなかから、さまざまな光と同じように三十六百千億という無数の仏がたが現れ、そのお姿は黄金の山のようである」
「はなのなかから現れた仏がたはあらゆる方向にひかりを放ち、常にすぐれた教えを説き広め、あらゆるものを悟りへの道に至らせる」
となるでしょう。「三十六百千億のひかり」とは、お浄土の蓮華は百千億の花びらがあるとされ、それぞれに青・白・玄・黄・朱・紫の六光があって照らしあっていることから、このように詠われます。それは、無量の光を輝かせておられるのが阿弥陀さまであり、お浄土の姿であることが示されているとうかがわれるでしょう。
このように、阿弥陀さまは、「無量寿仏」「無量光仏」といわれるように、「無量の光」をもってはたらいてくださっている、それは、「妙法」すなわち阿弥陀仏の本願の教えを説き広めるためであり、無量のひかり(智慧)、無量のいのち(慈悲)が必要であるのは、目先のことにとらわれ、本願の教えも仏・如来のことも知らずに迷っている衆生、迷いの中の生きとし生けるものが、無量・無数にいるからであります。
仏教にいくらか目を向けながらも迷いの中にある、そのような人びとだけでなく、無宗教の者もその無量の光で照らし導いてくださっている。日本だけではありません、世界中の人びと、あらゆる一切の生きとし生けるものをひとり残らず救い取るはたらきをなされるのですから、無量の教えの姿となってはたらきかけてくださっている、そのために、「無量の光」と示され、「十二のひかり」を放たれるお姿が示されるのです。
(佐々木恵精)
二〇一六(平成二十八)年法語カレンダーは、宗祖親鸞聖人のおことばを味読させていただくことになりました。そこで、現代の私たちにもわかりやすいおことばとして、「和訳正信偈」から珠玉のおことばを味わっていくことにいたします。門信徒の方にとっては、日ごろから親しんでおられる「正信念仏偈(正信偈)」のおことばであり、このカレンダーによってなおいっそうご法義の味わいを深めていただけるよう願われます。
「和訳正信偈」
「正信偈」は、親鸞聖人が開かれた浄土真宗のみ教えに帰依している者にとって、最も親しみ深い偈文(げもん)ですが、聖人のライフワークともいうべき大著『顕浄土真実教行証文類』(以下、『教行信証』と略称)の第二巻「行文類」の末尾に置かれた七言の六十行百二十句から成る讃歌です。聖人はその前書きに、
しかれば、大聖(釈尊)の真言に帰し、大祖の解釈に閲して、仏恩の深遠なるを信知して、「正信念仏偈」を作りていはく
(『註釈版聖典』二〇二頁)
と述べられて、「正信偈」の偈文がつづられています。すなわち、〈釈尊のまことの教えに従い、浄土の道を開かれた祖師がたのご著述を拝読して、仏さまのご恩の深いことを信じ喜んで、この「正信念仏偈」を製作する〉と表明されているところに、聖人が自らのうちにいただかれ、如来への御恩報謝の念からほとばしり出た、「信心のよろこびヽお念仏のよろこびの歌」であることがうかがわれます。
この「和訳正信偈」は、親鸞聖人のみ教えに帰依する真宗十派が共同して伝道活動を進める真宗教団連合が、一九七三(昭和四十八)年の親鸞聖人御誕生八百年・立教開宗七百五十年に際して定めた共通勤行です。一九四八(昭和二十三)年、蓮如上人四百五十回忌の記念事業として本願寺派が制作した「正信偈」の和訳(「意訳勤行」)に、念仏、和讃、回向をつけたものです。
本願寺派の「意訳勤行」には、前半が「しんじんのうた(一)、後半が「しんじんのうた(二)」としておさめられ、日頃から唱和され親しまれています。
「和訳正信偈」の制定にあたっては、
正信偈・和讃は親鸞教徒にとっては、いわば揺籃(ようらん)のうたである。人生の生涯をかけてうれしい時も、悲しい時も親しまれてきた心の故郷でもある。
おもえば、昭和四十八年は聖人ご誕生八百年をお迎えすることであるが、聖人の芳躅を慕いて法雨に浴する流れは、真宗十派を数えて歴史の歩みが続けられてきたのである。なればこそ、この時に当って同じ流れに浴(ゆあ)みしている人々が、揺籃のうた正信謁・和讃を唱和し、一層深く広く心の琴線に触れ合うことは、八百年のご誕生を迎うるに当たって最も意義深いことであろう。
と、その意義がうたわれています。それ以来、真宗十派では門信徒の方々の家庭で、またお寺の本堂で、現代の私たちにもわかりやすい現代語版の「和訳正信偈」を愛唱し、「正信偈」が、より親しく味わわれることとなりました。
表紙の法語
カレンダーの表紙には、その冒頭の句があげられます。
ひかりといのちきわみなき 阿弥陀ほとけを仰がなん
「正信偈」では、同じく第一行の、
帰命無量寿如来(きみょうむりょうじゅにょらい)
南無不可思議光(なもふかしぎこう)
無量寿如来に帰命し、不可思議光に南無したてまつる(『註釈版聖典』二〇三頁)
とある偈文が対応します。『教行信証(現代語版)』では
限りない命の如来に帰命し、思いはかることのできない光の如来に帰依したてまつる。 (一四三頁)
と訳されています。
「正信偈」の中の「帰敬序(ききょうじょ)」とよばれ、阿弥陀如来の大いなるおはたらきに帰依される親鸞聖人が、ご自身の信仰を仏前に表明されたおことばといえるでしょう。
阿弥陀如来、あるいは阿弥陀仏といわれる仏さまは、インドの言葉で「無量」「限りない」を意味する「アミタ」(amita)に、「光明」(ひかり)を意味する「アーブハー」(abha)と「寿命」(いのち)を意味する「アーユス」(ayus)が続いて、「限りないひかりの如来」(amitabha-tathagata)、「限りないいのちの如来」(amtayus-tathagata)を意味します。そこから、その略称の形で、「阿弥陀如来」「阿弥陀仏」というお名前で呼ばれます。『無量寿経』に説かれるように、「あらゆる生きとし生けるものが悟り(正覚)の世界に救われる道を完成(成就)させます」、すなわち「あらゆる生きとし生けるものを必ず救う、さもなければ仏にならない」という大誓願を発されて、その道を完成(成就)され、「限りないひかりと限りないいのちの仏」となり、いま現に私どもに手を差し伸べて、はたらいてくださっている、その仏さまが、「阿弥陀如来」「阿弥陀仏」であり、「無量寿如来」(無量寿仏)、「無量光如来」(無量光仏)であります。「正信偈」の第二句では「不可思議光〔如来〕に南無したてまつる」(思いはかることのできない光の如来に帰依したてまつる)とありますが、これはまさに「無量光如来」を意味しています。
そこで、この冒頭の句は、
ひかりといのちが極まりない仏さまである阿弥陀さまを仰ぎます
と詠って、「阿弥陀さまに帰依いたします」という帰敬の心を、阿弥陀さまの前に宣言するものとなっています。それは聖人ご自身の信心の表明でもありますが、こうして、「和訳正信偈」を唱和する私たちとしては、私たち自身の「信心の表明」ともなるものでもあります。すなわち、阿弥陀如来の御前に、「信心」を表明し「帰依のこころ」をもって讃嘆のことば「正信偈」を、そしてまた「和訳正信偈」を唱和するということになります。
ひかりといのち
ところで、この「ひかりといのちが極まりない」、すなわち「無量光」「無量寿」とは、何を意味しているのでしょうか。
真実の世界(正覚の世界)に到達された仏・如来には、大いなる智慧と大いなる慈悲がそなわっているのですが、それは、あらゆる生きとし生けるもの(一切衆生)を見つめられて悟りの世界「極楽浄土」に生まれる道を究められている阿弥陀さまには、すべてを見通される真実の智慧とそこからはたらき出る大慈悲がそなわっているということを意味します。その智慧がすべてを見通し照らし出すことから、「極まりないひかり」と象徴され、そこにはたらく大慈悲がすべてを包み込むはたらきであることから、「極まりないいのち」と象徴されて、「極まりないひかり(無量光)の仏さま」「極まりないいのち(無量寿)の仏さま」といわれるのです。
それに対して、私ども、この迷いにある者は、目先のものしか見えない、いや、目先のものさえも自分勝手な見方でしか見えない—自分の思い、自己中心的な欲望に支配された見方しかできない—–、と釈尊が厳しく示されたとおり、まさに「無明」の中に苦悩する存在で、「煩悩具足の凡夫」(『歎異抄』後序、『註釈版聖典』八五三頁)であるといわれます。しかも、「煩悩具足の凡夫」であるということすらもわからずにいるのが私どもで、釈尊のお言葉や経典の教えによって、はじめて気づかされ、慚愧(ざんぎ)の念を持つ以外にない、まさに暗黒の中にある存在なのです。それは、あたかも暗闇の中で周囲の状況が見えない、目の前さえも見えない、そんな時に灯りがともされると、一瞬にして周囲がありありと見えて安堵する。ちょうどそのように、煩悩具足の凡夫」は、仏・如来のはたらき、阿弥陀さまの智慧に照らされてこそ、凡夫たることが知らされて、仏道を歩む身となることができます。
仏・如来の智慧は、まさに「極まりないひかり」なのです。また、あたかも母親が幼子をしっかりと見まもっているように、阿弥陀さまが本願のはたらきでしっかり見まもり、「そのまま来いよ」と喚びかけてくださるのが、大慈悲のはたらきであり、その大いなるはたらきが「極まりないいのち」といわれるのです。
この地球上での私どもを振り返りますと、太陽の光や、エネルギーの恩恵は絶大なものであることを痛感します。その光があるからこそ、すべてを見ることができ、その絶大なエネルギーによってこそ、動植物も私どもも生きることができ、生活ができます。真実の悟り(正覚)を求めることについては、地球上のこととは次元を異にしていますが、地球上にその姿を求めると、まさに太陽のはたらきに喩えられるでしょう。たとえば、「大日如来」とは、「太陽のような大いなるはたらきのとたたえる仏名となっています。
『無量寿経』に詠われる「讃仏謁」は、誓願を発して一切衆生を救う道を成そうとする法蔵菩薩が、師仏・世自在王仏に讃嘆のことばを述べつつ、大誓願を宣言する詩頌ですが、その冒頭には、
光顔巍巍(こうげんぎぎ) 威神無極(いじんむごく)
如是焔明(にょぜえんみょう) 無与等者(むよとうしゃ)
日月摩尼(にちがつまに) 珠光焔耀(しゅこうえんにょう)
皆悉隠蔽(かいしつおんぺい) 猶若聚墨(ゆにゃくじゅもく)
光顔巍巍(こうげんぎぎ)として威神(いじん)極(きわ)まりなし。かくのごとき焔明(えんみょう)、ともに等(ひと)しきものなし。日(にち)・月(がつ)・摩尼珠光(まにしゅこう)の焔耀(えんよう)も、みなことごとく隠蔽(おんぺい)せられて、なお聚墨(じゅもく)のごとし。
(『註釈版聖典』 一一頁)
と詠われています。現代語訳には、〔世自在王仏に対面して〕「世尊のお顔は気高く輝き、その神々しいお姿は何よりも尊い。その光明には何ものも及ぶことなく、太陽や月の光も宝玉の輝きも、その前にすべて失われ、まるで墨のかたまりのようである」(『浄土三部経(現代語版)』一七頁)とされます。まさに仏・如来の光明、輝きは太陽や月の光も全く及ばないほどに照り輝いていると詠われ、仏・如来のはたらきの絶大なることが示されています。
この「和訳正信偈」の第一句は、そのような「極まりないひかりといのち」の仏さまである阿弥陀さまに、尊崇の心をもって帰依いたします、と詠って、帰依のこころを示すものであるといただくことができるでしょう。
(佐々木恵精)
平成26年6月6日に専如上人が本願寺第25代門主となられました。
平成28年10月より本願寺では半年間にわたり、第25代専如門主 伝灯奉告法要が勤修されます。
伝灯奉告法要は、宗祖親鸞聖人があきらかにされた「浄土真宗のみ教え」(法灯)を継承されたことを阿弥陀如来と親鸞聖人の御前に奉告するとともに、この法要を機縁として、お念仏のみ教えが広く伝わることを願い、宗門の皆さまに呼びかけて、一人でも多くの方々に参拝していただくことを願いお勤めさせていただく、宗門にとって大切な法要であります。
是非皆さまお誘いあわせの上、ご参加ください。
ご参加希望の方は光明寺(222-0156)までご連絡ください。
このギャラリーには2枚の写真が含まれています。
第24代即如門主(先代)伝灯奉告法要記念で西本願寺にお参りに行った写真が出てまいりました。 昭和55年5月13日の写真です。ご家族の方が写っていらっしゃいますか? 写真をクリックすると大きな写真で表示します … 続きを読む