下関組法座のご案内
下関組の法座案内は下関組のホームページにて更新される予定です。
詳細については各寺院にお問い合わせください。
光明寺の法座案内につきましては光明寺からのお知らせをご覧ください。
三月の法語は「和訳正信謁」の第七首前半です。
信心ひとたびおこりなば
煩悩(なやみ)を断たで涅槃(すくい)あり
「正信偈」では、
能発一念喜愛心(のうほついちねんきあいしん)
不断煩悩得涅槃(ふだんぼんのうとくねはん)よく一念喜愛(いちねんきあい)の心(しん)を発(ほっ)すれば、煩悩を断ぜずして涅槃を得るなり
(『註釈版聖典』二〇三頁)
という偈文にあたります。現代語版には、
信をおこして、阿弥陀仏の救いを喜ぶ人は、自ら煩悩を断ち切らないまま、浄土でさとりを得ることができる。
(『教行信証(現代語版)』一四四頁)
と訳されています。
信心ひとたびおこりなば
この「正信偈」のご文について、ある先輩の先生は、「よく・・・・発す」(能発)と詠われるところに注目したいと言われます。それは、「能(よく)」の字が置かれているところに、親鸞聖人の深い感慨の心がうかがわれると言われるのです。
中国浄土教を大成された善導大師が『観無量寿経』を解説くださった『観経疏』の中の「散善義(さんぜんぎ)」に、「深く信ずる心」について説かれる中に、
決定して深く自身は現にこれ罪悪生死の凡夫、礦劫よりこのかたつねに没し、つねに流転して、出離の縁あることなしと信ず
(『註釈版聖典』二一八頁)
と示されています。
現代語版では、
わが身は今このように罪深い迷いの凡夫であり、ばかり知れない昔からいつも迷い続けて、これから後も迷いの世界を離れる手がかりがないと、ゆるぎなく深く信ずる。
(『教行信証(現代語版)』 一七二頁)
と述べられ、親鸞聖人はこれをその通りに重く受け止められて『教行信証』の「信文類」(『註釈版聖典』二一八頁)などに引用されています。
―私どもは、礦劫のいにしえより迷いの海に浮き沈みを繰り返していて、そこから離脱できる縁は全くなかったのです。そのような私どもに、阿弥陀さまは飽くことなく大慈悲のお育てのみ手を差し伸べてくださって、今やっと「他力の信」に目覚めることができました、という感動の心が「よく・・・発す」のご文になっているのではないか、ということです。「和訳正信偈」のご文では、「信心ひとたびおこりなば」にその感動の心がうかがわれるでしょう。
煩悩を断たで涅槃あり
「煩悩」とは、さとり(正覚)に対する無智からおこるもので、私どもの自己中心的な営みそのものであり、身勝手な欲望(貪欲)や、それが満足できないでいらだちに走る怒り(瞋恚)などに支配されているのが「煩悩具足」の姿であると説明できるでしょう。人間生活の全体が煩悩の活動そのものであります。
釈尊がおさとり(正覚)を完成(成就)されたことを物語る釈尊伝では、「降魔成道」と呼ばれる一段に、「煩悩具足」の凡夫の姿が語られています。釈尊は出家された後の数年間厳しい苦行をされますが、「苦行は心身を痛めるだけだ」と気づかれて、最後の三昧(深い禅定、精神集中)に入られます。その時に、悪魔が釈尊の三昧を妨害するために、乙女の姿をして欲望を駆り立てる誘惑の手を出したり、武力で妨害したりするなど、三昧の邪魔をする物語が語られます。しかし、釈尊はその誘惑や妨害をひとつずつ退けられたといわれます。これは、釈尊の心の中で悟りの道を妨害する「煩悩」がはたらいていたことを意味するとされます。釈尊がこれらの「煩悩」を一つひとつ退けられて、ついに涅槃(正覚)に至られたというのが、仏伝の「降魔成道」すなわち「悪魔を降する(=悪魔を退ける)ことが、道を成す(=涅槃に至る)ことになる」という物語となっています。
このように、「涅槃」とは、煩悩のはたらきがなくなったこと、すなわち煩悩の活動が火を消したように消滅したところで、「悟り(正覚)」が得られたことを意味します。
したがって、自ら悟り(正覚)を求める「聖道門」や「自力の道」では、「正信偈」に言われる「煩悩を断ぜずして涅槃を得るなり」とか、「和訳正信偈」の「煩悩を断たで涅槃あり」ということは不可能なことになります。
このように、「断煩悩」すなわち凡夫が自ら煩悩を断ち切ることは不可能であり、自分の努力で迷いから離脱する道はないということになります。親鸞聖人は、比叡山において二十年もの間、その苦悩の道を歩まれ、絶望に沈まれて法然聖人を訪ねることになられたのでした。そして、この絶望に沈む凡夫に代わって、煩悩を断絶する「行」が、阿弥陀さまの「五劫思惟の願、兆載永劫のご修行」であったこと、その成果が名号「南無阿弥陀仏」に凝縮されて「これを受け取ってくれよ」と喚びかけられていることを教えられたのでした。
すなわち、私の方は、煩悩具足のまま、煩悩を断つことのできないままでありながら、阿弥陀さまのおはたらきによって、名号のはたらきによって、涅槃のさとりを完成(成就)することのできる身となるということなのです。
『歎異抄』の結び(後序)に、親鸞聖人のおことばを引かれています。
聖人のつねの仰せには、「弥陀の五劫思惟の願をよくよく案ずれば、ひとへに親鸞一人がためなりけり。さればそれはどの業をもちける身にてありけるを、たすけんとおぼしめしたちける本願のかたじけなさよ」と御述懐候ひしことを、いままた案ずるに、善導の「自身はこれ現に罪悪生死の凡夫、礦劫よりこのかたつねにしづみつねに流転して、出離の縁あることなき身としれ」といふ金言に、すこしもたがはせおはしまさず。
(『註釈版聖典』八五三頁)
〔現代語版〕
親鸞聖人がつねづね仰せになっていたことですが、「阿弥陀仏が五劫もの長い間思いをめぐらしてたてられた1 ‥臓をよくよ仁札ごてみるとヽそれはただこの親鸞一人をお救いくださるためであった。思えば、このわたしはそれほどに重い罪を背負う身であっだのに、救おうと思い立ってくださった阿弥陀仏の本願の、何ともったいないことであろうか」と、しみじみとお話しになっておられました。そのことを今またあらためて考えてみますと、善導大師の、「自分は現に、深く重い罪悪をかかえて迷いの世界にさまよい続けている凡夫であり、果てしない過去の世から今に至るまで、いつもこの迷いの世界に沈み、つねに生れ変り死に変りし続けてきたのであって、そこから脱け出る縁などない身であると知れ」という尊いお言葉と、少しも違ってはおりません。
(『歎異抄(現代語版)』四八頁)
このように、煩悩具足のままのこの「私」は、涅槃(正覚)へと出離する縁など全くない身であるのに、阿弥陀さまの大いなる本願のはたらき、「南無阿弥陀仏」として結実した救いのおはたらきによってこそ、この世を離れる時、往生成仏する身となっている、といわれるのです。
「煩悩を断たで 涅槃あり」は、以上のようにいただかれるでしょう。
(佐々木恵精)
このギャラリーには3枚の写真が含まれています。
2016年1月24日、下関にも大寒波が押し寄せ、光明寺も一面真っ白な雪景色となりました。 雨や雪の日には石段が大変滑りやすくなっております。お参りの際は手すりをお持ちいただき、足元に御注意ください。 春まで … 続きを読む
このギャラリーには18枚の写真が含まれています。
2016年1月13日から16日の4日間、光明寺にて今年も御正忌報恩講が執り行われ、たくさんの方がおまいりに来られました。 おときを用意していただいた仏教婦人会、仏教若婦人会の皆さんお疲れさまでした。
二月の法語は「和訳正信偈」の第四首後半です。
生きとしいくるものすべて このみひかりのうちにあり
一月の法語(第四首前半)に続くご文で、「正信掲」では、
……一切群生蒙光照(いっさいぐんじょうむこうしょう)
……一切(いっさい)の群生(ぐんじょう)、光照(こうしょう)を蒙(かぶ)る(『註釈版聖典』二〇三頁)
とある句にあたります。
現代語版では、
……すべての衆生は、その光明に照らされる。
(『教行信証(現代語版)』 一四四頁)
とあって、阿弥陀さまの無量無限のひかりに、私ども迷いの中にある生きとし生けるものすべてが照らされている、そのはたらきの中にいだかれてあると、その慶びを詠われています。
一月の法語をいただく中でも触れたように、親鸞聖人は、ご和讃に、「十二光」と示される阿弥陀さまのはたらきを、感動とよろこびをもって詠われています。そのいくつかを取り上げて、この法語を味わうことにしましょう。
無礙の大道
光雲無礙如虚空(こううんむげにょこくう)
一切の有礙(うげ)さはりなし
光沢かぶらぬものぞなき
難思議(なんじぎ)を帰命せよ(『註釈版聖典』五五七頁)
「十二光」について詠う中で、「無擬光」を讃えるご和讃です。現代語訳してみますと、
阿弥陀さまのひかりは輝く雲のようであり、何ものにもさまたげられない大空のようである。すべての障碍(しょうがい)(=煩悩)にさまたげられることなく、そのひかりのはたらきを受けないものはない。はかり知ることのできない「難思議」〔なる阿弥陀仏〕に帰依しなさい。
十二光の中の「無礙なる光」のはたらきを示されて、そのような阿弥陀さまに帰依しなさいと詠います。
私たちの世界では、たとえば、大きなビルが建てられて日照権が侵害されたとか、大自然の素晴らしい眺望が奪われたということがしばしば言われます。また、携帯電話やスマートフォンなどが自在に活用される時代ですが、場所によっては、電波が届かず、音声が途切れたり、映像が消えたりします。このように、私たちの世界では、障害物があれば機能不全になったり、誤動作したりします。
「無礙」とは、さまたげるものがない、障碍となるものがないということで、阿弥陀さまのまなこは自由自在にものをとらえ、その大慈悲のはたらきを邪魔するものは何一つとしてないということなのです。
『歎異抄』第七条には、
念仏者は無磯の一道なり。そのいはれいかんとならば、信心の行者には、天神・地祇(じぎ)も敬伏(きょうぶく)し、魔界・外道も障磯(しょうげ)することなし。罪悪も業報(ごうほう)を感ずるとあたはず、諸善もおよぶことなきゆゑなりと云々。
(『註釈版聖典』八三六頁)
〔現代語版〕
念仏者は、なにものにもさまたげられないただひとすじの道を歩むものです。
それはなぜかというと、本願を信じて念仏する人には、あらゆる神々が敬ってひれ伏し、悪魔も、よこしまな教えを信ずるものも、その歩みをさまたげることはなく、また、どのような罪悪もその報いをもたらすことはできず、どのよ
うな善も本願の念仏には及ばないからです。
このように聖人は仰せになりました。(『歎異抄(現代語版)』 一三頁)
とあり、阿弥陀さまの「無礙なる光」のはたらきがはっきりと示されています。真の法則であり真理のはたらきである如来の威神力の前には妨げとなるものはないということです。
曇鸞大師を讃嘆されるご和讃に、
無擬光の利益より
威徳広大の信をえて
かならず煩悩のこほりとけ
すなはち菩提のみづとなる罪障功徳の体となる
こほりとみづのごとくにて
こほりおほきにみづおほし
さはりおほきに徳おほし(『註釈版聖典』五八五頁)
と詠われています。すなわち、
「無礙のひかりのはたらきによって他力の大信心が得られ、氷のように硬い煩悩がそのまま転じてさとりの智慧となる」
「罪悪や煩悩の障りが悟りの徳の本体となる、ちょうど氷と永のように、氷が多くて水が多くなるように、罪悪や煩悩の障りが多くて悟りの徳が多くなる」
と詠われて、障碍となる「罪障の氷」が多いほど、悟りの「功徳の水」が多くなるとよろこばれ、阿弥陀さまの「無擬なる光」のうちにあることを、このように讃嘆して詠っておられるのです。
大悲ものうきことなし
「正信偈」の終わりに近いところに、源信和尚の『往生要集』のおことばを詠われている偶文があります。
極重悪人唯称仏(ごくじゅうあくにんゆいしょうぶつ)
我亦在彼摂取中(がやくざいひせっしゅちゅう)
煩悩障眼雖不見(ぼんのうしょうげんすいふけん)
大悲無倦常照我(だいひむけんじょうしょうが)
極重の悪人はただ仏を称ずべし。われまたかの摂取のなかにあれども、煩悩、眼を障へて見たてまつらずといへども、大悲、倦きことなくしてつねにわれを照らしたまふといへり
(『註釈版聖典』二〇七頁)
現代語版では、
「きわめて罪の重い悪人はただ念仏すべきである。わたしもまた阿弥陀仏の光明の中に摂め取られているけれども、煩悩がわたしの眼をさえぎって、見たてまつることができない。しかしながら、阿弥陀仏の大いなる慈悲の光明は、そのようなわたしを見捨てることなく常に照らしていてくださる」と〔源信和尚は〕述べられた。
(『教行信証(現代語版)』 一五一頁)
まさに、阿弥陀さまの光明のはたらきが限りない無際限であり、無礙であり、不断にして常にはたらいてくださっているがために、わが身の身勝手なむさぼりなどの煩悩が障りをなそうとしても、常に私を見守り見捨てることがない、と、お示しくださっています。
欧米の篤信の聞法者に、朝夕に「正信偈」をお勤めしながら、この源信和尚のことばの偈文に来ると、「感動のあまり、声が詰まるのです、……」と述懐されているお方がおられます。—-「この偈文は、この私のためにお示しくださったのだ……」と、感極まって涙が出てくる、と言われるのです。
さらにご和讃にも、同じように詠われています。「源信大師 釈文に付けて十首」とされる中に、
煩悩にまなこさへられて
摂取の光明みざれども
大悲ものうきことなくて
つねにわが身をてらすなり(『註釈版聖典』五九五頁)
と詠われる詩頌です。「和訳正信偈」では、第二十七首に、
罪の人々 み名をよべ
われもひかりの うちにあり
まどいの眼には 見えねども
ほとけはつねに てらします
と詠われています。
このように、「正信偈」やご和讃、「和訳正信偈」に、「無礙なる光」の阿弥陀さま、「無量なる光」の阿弥陀さま、「不断なる光」の阿弥陀さまと讃えられる阿弥陀さまの大いなる光明のはたらきを、「このみひかりのうちにあり」と味わわさせていただきます。
(佐々木恵精)
●人生は価値ある一瞬
【定価】¥1,080(本体¥1000+税)
不安や迷いは当たり前。
背伸びせずに毎日を精いっぱい生きればいい。
目に見えない大切なものとは、一人ひとり縁によって獲得する べきものですが、私にとっては、仏教の教えです。手っ取り早い解決法にはなりませんが、今さえよければ、自分さえよければという狭い思いを打ち砕く大切な はたらきを持った仏教を手がかりに、現代生活のさまざまな課題に、どう対処することができるかを考えてみました。本書が少しでも人生のヒントになればと思 います。(まえがきより)
大谷光真前門さまが語る、こころ豊かな生き方のヒント。


一月の法語は「和訳正信偈」の第四首前半の二句です。
「正信偈」は、親鸞聖人がその結びに「六十行すでに畢(おわ)りぬ。 一百二十句なり」(『註釈版聖典』二〇七頁)といわれているように、二句一行で一詩頌となっていますが、「和訳正信偈」では、インドの讃歌の形式に従って四句で一詩頌となっていて、全三十詩頌、一百二十句と数えられます。一月の法語は、その数え方によって第四首の前半二句ということになり、次の二月の法語にその後半二句が選ばれています。
その法語は、標題の通り、
十二のひかり放ちては あまたの国を照らします
と詠われます。
十二のひかり
「十二のひかり」とは、「正信偈」に阿弥陀さまのはたらきが十二の光で示され、その大いなるはたらきを称讃するとともに、すべての生きとし生けるものがこの光に照らされる……と、阿弥陀さまのおはたらきに出遇っている慶びが詠われます。
「正信偈」では、次のように詠われる一節です。
普放無量無辺光(ふほうむりょうむへんこう)
無碍無対光炎王(むげむたいこうえんのう)
清浄歓喜智慧光(しょうじょうかんぎちえこう)
不断難思無称光(ふだんなんじむしょうこう)
超日月光照塵刹(ちょうにちがっこうしょうじんせつ)
あまねく無量(むりょう)〔光〕・無辺光(むへんこう)、無礙(むげ)〔光〕・無対(むたい)〔光〕・光炎王(こうえんのう)、清浄(しょうじょう)〔光〕・歓喜(かんぎ)〔光〕・智慧光(ちえこう)・不断(ふだん)〔光〕・難思(なんじ)〔光〕・無称光(むしょうこう)、超日月光(ちょうにちがっこう)を放ちて塵刹(じんせつ)を照(て)らす。
(『註釈版聖典』二〇三頁)
現代語版では、
本願を成就された仏は、無量光・無辺光・無 光・無対光・光炎王・清浄光・歓喜光・智慧光・不断光・難思光・無称光・超日月光とたたえられる光明を放って、広くすべての国々を照らし、・・・・・
とあり、「阿弥陀さまは十二の光を放っておられる」と詠って、そのはたらきを讃えられるのです。
さらにそのもとをたどりますと、『無量寿経』阿弥陀さまの別名として「十二光」が説かれ、阿弥陀さまの大いなるおはたらきを「十二光仏」の仏名によって讃えられています。すなわち、釈尊が阿難尊者に向かって「無量寿仏の威神光明」はほかの仏・如来たちのいかなる光明も及びえない、絶大なものであるということを説かれる場面で、
無量寿仏(むりょうじゅぶつ)をば、無量光仏(むりょうこうぶつ)・無辺光物(むへんこうぶつ)・無礙光仏(むげこうぶつ)・無対光仏(むたいこうぶつ)・・・・超日月光仏(ちょうにちがっこうぶつ)と号す。それ衆生ありて、この光に遇ふものは、三垢消滅(さんくしょうめつ)し、身意柔軟(しんいにゅうなん)なり。歓喜踊躍(かんぎゆやく)して善心(ぜんしん)生ず。……
(『註釈版聖典』二九頁)
現代語版では、
無量寿仏を無量光仏・無辺光物・無礙光仏・無対光仏・・・・超日月光仏と名づけるのである。この光明に照らされるものは、煩悩が消え去っても身も心 も和らぎ、喜びに満ちあふれて善い心が生れる。……
(『浄土三部経(現代語版)』五〇頁)
とあります。親鸞聖人は、これをお受けになって、阿弥陀仏の十二の別名「十二光仏」として受け止めるのでなく、阿弥陀さまはどういうはたらきの仏さまであるかということを、十二の光の機能で示されました。それが、「正信偈」の「〈十二の〉光明を放って、広くすべての国々を照らし…」と詠われる句です。
十二のひかりの内容
阿弥陀さまは、その原語からしても「無量寿仏」「無量光仏」と呼ばれているように、もろもろの仏・如来に比べても特別に照り輝く、ひかりのはたらきが絶大である仏さまであるとされ、このように、十二光を放ってあらゆるものを照らしておられると詠われます。それでは、この「十二のひかり」とは、何を意味しているのでしょうか。先哲のご指南をもいただきながら、概略的にその内容をうかがいましょう。
まず「無量光」とは、量ることのできない光で、竪(たて)に(=時間軸で過去・現在・未来にわたる)三世を貫き照らすことに限極がないといわれます。
「無辺光」とは、際限のない光で、横に(=空間的に)十方にわたって照らすことに辺際がないといわれます。
次に「無礙光」とは、何ものにもさえぎられることのない光で、三毒の煩悩(自己中心の心から起こるむさぼり・いかり・愚かさの毒のような煩悩)も障碍(障り、妨げ)となることがないといわれ、この「無礙」なるはたらきがさらに区分されて、以下の九種の光があげられるといわれます。
それら九種とは、対比しうるものが全くない「無対なる光」、最高の輝きをもつ「炎王なる光」、凡夫の欲望・むさぼりを除く「清浄なる光」、凡夫のいかりを除きよろこびを与える「歓喜の光」、凡夫のまどい・愚かさを除き智慧を与える「智慧の光」、常にたえず凡夫の心を照らす「不断の光」、思いはかることのできない、凡夫をそのまま往生せしめる「難思なる光」、説き尽くすことができず言葉も及ばない「無称なる光」、太陽や月など世間の光に超えすぐれた「超日月の光」―これらを含めて全十二の光で、阿弥陀さまの威徳を讃嘆(さんだん)されているわけです。
ご和讃に「十二のひかり」を味わう
「正信偈」も「和訳正信偈」も、日常のお勤め(勤行)で、門信徒の方々や家族とともに唱和し味わいを深めるのに最良の偈文ですが、これに続いて親鸞聖人ご製作のご和讃が唱和されています。それにより親しく法味を味わわれることでしょう。
ご和讃は、七五調の今様形式で詠われる、一首が四句からなる和語の仏法讃嘆の詩歌で、聖人は五百首以上ご製作くださって、私どもが仏法を深く味わい親しむ最良の手立てをいただいています。その中で、浄土往生の教え、信心の慶びなどをまとめられた『浄土和讃』の冒頭に、この「十二光」を詠われた和讃がまとめられています。「讃阿弥陀仏偈和讃」といわれるように、浄土真宗を基礎づけてくださった七高僧の第三祖・曇鸞大師ご製作の『讃阿弥陀仏偈』に基づいて詠われたご和讃で、親鸞聖人は曇鸞大師のご指南によってこの「十二光」を味読されていると、うかがうことができます。
その中のいくつかを拝誦して、この「十二のひかり放ちては あまたの国を照らします」を味わいたいと思います。
一々(いちいち)のはなのなかよりは
三十六百千億(さんじゅうろっぴゃくせんおく)の
光明(こうみょう)てらしてほがらかに
いたらぬところはさらになし
一々のはなのなかよりは
三十六百千億の
仏身(ぶっしん)もひかりもひとしくて
相好(そうごう)金山(こんぜん)のごとくなり
相好ごとに百千の
ひかりを十方(じっぽう)にはなちてぞ
つねに妙法(みょうほう)ときひろめ
衆生を仏道にいたらしむ(『註釈版聖典』五六三頁)
現代語にしてみますと、
「お浄土にある一々のはなのなかから三十六百千億ともいう無限量の光があらゆる世界を照らし、冴えわたるように明らかでとどかないところがない」
「お浄土にある一々のはなのなかから、さまざまな光と同じように三十六百千億という無数の仏がたが現れ、そのお姿は黄金の山のようである」
「はなのなかから現れた仏がたはあらゆる方向にひかりを放ち、常にすぐれた教えを説き広め、あらゆるものを悟りへの道に至らせる」
となるでしょう。「三十六百千億のひかり」とは、お浄土の蓮華は百千億の花びらがあるとされ、それぞれに青・白・玄・黄・朱・紫の六光があって照らしあっていることから、このように詠われます。それは、無量の光を輝かせておられるのが阿弥陀さまであり、お浄土の姿であることが示されているとうかがわれるでしょう。
このように、阿弥陀さまは、「無量寿仏」「無量光仏」といわれるように、「無量の光」をもってはたらいてくださっている、それは、「妙法」すなわち阿弥陀仏の本願の教えを説き広めるためであり、無量のひかり(智慧)、無量のいのち(慈悲)が必要であるのは、目先のことにとらわれ、本願の教えも仏・如来のことも知らずに迷っている衆生、迷いの中の生きとし生けるものが、無量・無数にいるからであります。
仏教にいくらか目を向けながらも迷いの中にある、そのような人びとだけでなく、無宗教の者もその無量の光で照らし導いてくださっている。日本だけではありません、世界中の人びと、あらゆる一切の生きとし生けるものをひとり残らず救い取るはたらきをなされるのですから、無量の教えの姿となってはたらきかけてくださっている、そのために、「無量の光」と示され、「十二のひかり」を放たれるお姿が示されるのです。
(佐々木恵精)