親鸞聖人のお徳を偲び、西本願寺・大谷本廟納骨参拝と3月末にグランドオープンの姫路城、京都サクラの名所『十石舟』遊覧、春爛漫の京都をのんびりと満喫いたしましょう。
お友達お誘いあわせの上ご参加ください。
旅行日程:平成27年4月13日(月)~4月14日(火)
詳細は下記のとおり。
お申し込みの方は下の画像をクリックするとPDFがダウンロードされます。
印刷して申込書にご記入の上、申込金10,000円と併せて光明寺にお申し込みください。
親鸞聖人のお徳を偲び、西本願寺・大谷本廟納骨参拝と3月末にグランドオープンの姫路城、京都サクラの名所『十石舟』遊覧、春爛漫の京都をのんびりと満喫いたしましょう。
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二月の法語には、高光大船(たかみつだいせん)師(一八七九~一九五一)のおことばをいただいています。高光先生は石川県の生まれで、暁鳥敏(あけがらすはや)師や藤原鉄乗(ふじわらてつじょう)師とともに「加賀の三羽烏」と呼ばれて敬われ慕われて、真宗大谷派の同朋運動を生み出す源となった篤信の念仏者であったといわれます。煩悩に支配されて欲望の中にいる「自己」を厳しく見つめられながら、徹底した求道の生活を生きられた真の求道者です。
今月のことばとしていただいた、
拝むとは 拝まれて居た事に 気付き醒めること
というのも、そのような求道の生活の中で示されました。
阿弥陀如来の本願に出遇い、阿弥陀如来のお慈悲につつまれて、お念仏を申しながら合掌礼拝させていただく、それが信心決定の姿といえましょう。阿弥陀如来のお慈悲に、報恩のこころから拝むことになるわけですが、実は大いなるお慈悲のはたらきは、この「私」が報恩感謝の心を抱く前から、拝む遥か前から、本願のおはたらきが届いていた、阿弥陀如来がみ手を差し伸べてくださっていた、と気付かされて、はっとさせられます。
大船先生のおことばはまさに、この「私の気付き」の遥か前から阿弥陀如来から手を差し伸べられていた、ご本願がはたらいてくださっていた、お導きいただいていた、というはっとさせられる思いを、「拝まれて居た事に気付き……」と言われています。
こちらの「はからい」、こちら側の詮索など遥かに超えて、真実の智慧と慈悲のはたらきがすでにはたらきづめであった、という驚きと慶喜のおこころをいただくのです。
拝まれている
この高光大船師のおことばをいただいて思いおこされるのが、東井義雄(とういよしお)先生(一九ー二~一九九一)の詩です。東井先生は兵庫県出石郡の東光寺に生まれ、師範学校を経て小学校訓導(現在の教諭)になられて子どもの教育に、というより自らも共に学ぶ場として「いのち」をかよわせ合う教育、「生活綴り方」教育に情熱を注がれました。ご住職としても、仏教に生き親鸞聖人のみ教えに真摯に学ばれて、子どもたちの教育と阿弥陀如来のみ教えの伝道に一生をささげられました。
子どもたちの生きいきした詩を多く紹介されるとともに、ご自身も多くの詩文を綴られて、心の触れ合いを、そしてまたみ仏に出遇われた慶びを披歴され、多くの仏法味あふれる詩集を残されました。その最後の詩集となった『東井義雄詩集』(探究社)に、次のような詩が収録されています。
墓そうじ
毎年
半日で済ませた墓そうじであるのに
きょうはこれで 二日目
十時を過ぎると
おてんとうさまも 燃えてこられる
「無理をしないで
もう下りてきてください」
屋敷の草とりをしてくれている腰の曲がった老妻が
見上げていてくれる憶(おも)わぬさきから
憶われていた 私拝まない者も
おがまれている
拝まないときも
おがまれているすみません
南無阿阿陀佛。(『東井義雄詩集』 一六六~一六七頁、探究社)
東井先生は、七十歳代中ごろに癌で胃を摘出するという大病を患われました。その後も衰弱してきているお体を押して、住職としての仕事や畑仕事などをされながら、毎日のように詩文を綴られていました。この詩は、そのようななかで「墓そうじ」をされているときのおこころを綴られたものです。
詩の中で「老妻」と呼んでおられる奥さまについてうたわれます。「老妻」は腰が曲がってしまっているのに草取りに精を出している。その「老妻」から「無理をしないで、もう下りてきてください」と声をかけられて、東井先生は、はっとされた――〔こちらが憶うよりも前に憶われていた〕と。先生は、感謝の心をもって、「憶わぬさきから 憶われていた 私」と、その奥さまの慈愛の声を受けとめておられます。
そして奥さまの慈愛のお声に促されて、阿弥陀如来のご本願にいだかれていることに心を向けられ、み仏が手を差し伸べてくださっていることに報謝してお念仏し礼拝する(阿弥陀如来を拝む)ということになります。
そこで先生は、「〔こちらが拝むことなくても、‐またこちらが拝むより前に〕阿弥陀如来の方から〔そのままでよい、こちらへ来ておくれよ〕と、すでに手を差し伸べてくださっていたのだ」と、阿弥陀如来の方からはたらいてくださっているおはたらきを、感謝と慶びを込めてうたわれます。
拝まない者も
おがまれている
拝まないときも
おがまれている(『拝まない者もおがまれている』光雲社)
とうたわれて、阿弥陀如来の大いなる大慈悲にいだかれていたことの感動を、その慶びを披歴されているのです。さらに反対に自らを見つめると、自分勝手な欲望や怒りに走るばかりの自分の姿が見えてきます。そこを、
すみません
南無阿弥陀佛。
と、働愧(ざんぎ)するばかりであると結ばれています。
東井義雄先生には、胃癌の大手術を受けられる前年に『拝まない者もおがまれている』(光雲社)と題する詩集を発行されていて、仏力のおはたらきの中に生かされていることを深く受け止めておられるお姿がうたわれています。この「墓そうじ」の詩もまた、そのおこころをうたっておられると、学ばせていただくのです。
高光大船先生のおことば「拝むとは 拝まれて居た事に 気付き醒めること」を味わうにつけて、東井先生の「拝まない者も おがまれている 拝まないときもおがまれている」をいただいて、より一層深く受け止め味あわさせていただくところです。
(佐々木恵精)
一月の法語は香樹院徳龍(こうじゅいんとくりゅう)師(一七七二~一八五八)の語録からいただきました。
徳龍師は真宗大谷派の学僧で、越後の無畏信(むいしん)寺に生まれ、幼い時から神童の誉れが高かったといわれます。はじめ江戸に出て和漢の学を習い、やがて京都で真宗を香月院深励(こうがついんじんれい)師に師事し、仏教全般についても各種の教義に精通されていたとのことです。
今月のことばは、『香樹院講師語録』(永田文昌堂)から採られました。
称えるままが つねに御本願の みこころを 聞くことになる
梯實圓先生がまとめられた『わかりやすい名言名句 妙好人のおことば』(法蔵館)に、解説付きで紹介されていますので、それによりながら味わわせていただきましょう。
おみのりを聞くとは
『香樹院講師語録』には、徳龍師の深い思慮に富んだおことばが集められていますが、その一つに禅僧の弘海にまつわるエピソードが記録されてあります。
滋賀県木之本(現・長浜市)のあたりに住んでいた禅僧の弘海は、長年禅の修行に打ち込んでいましたが、悟りの境地には至れず悩んでいたとのこと。そんなとき、たまたま長浜の御坊で香樹院徳龍師の法話を聞き、浄土真宗の教えに帰依してお念仏のひととなったそうです。しかし、どうしても阿弥陀如来のおこころに十分に触れることができずに悩んでいた。そこで徳龍師に尋ねます。
「おみのりをたえまなく聞けとのことですが、ご法話のないときはどうすればいいのでしょうか」
すると徳龍師は、
「法話のないときは、いままで聞いたことを思いおこして味わえ。法話を聞いているときだけが聞法ではないぞ」
そのように、さとされたとのことです。
「幸いにもお聖教を読める目をもっているんだから、つねにお聖教を拝見しなさい、それが聞法じゃ。お聖教が拝見できないときは、口につねに南無阿弥陀仏を称えなさい、これも法を聞くことじゃ。……信をうるご縁は、聞思にかざる」
そのように言われて、弘海はさらに尋ねます。
「わが称える念仏が聞法だというのは、どういうことでしょうか。わが称え、わが声を聞くことでございますか」
香樹院徳龍師は、大喝して言われます。
「なにをいうか。わが称える念仏というものがどこにあるか。称えさせてくださるお方がなくて、この罪悪のわが身がどうして仏のみ名を称えることができようか。称えさせるお方があって、称えさせていただいているお念仏であると聞けば、そもそもこの南無阿弥陀仏を如来さまは、何のために御成就あそばされたのか、何のために称えさせておられるのかと、如来さまのおこころを思えば、これがすなわち称えるままが、つねに御本願のみこころを聞くことになるではないか」
このおことばが弘海の心肝に徹して、はっと心が開けたといいます。それからは、お聖教を拝読し、つねにお念仏を拝聴して、
「今称える念仏には、御あるしあって称えさせたもうなり。・・・・称えさせたもうは、たすけたまわんために、ひと声をも称えさせてくださることよ」
と思わせていただく身となった、といわれていたそうです。
今ここに「私」がひと声お念仏を称えるのも、阿弥陀如来のご本願があって称えさせてくださっているからこそ念仏させていただいているのだ、といただかれて、お念仏に聴聞されている弘海のお姿にまみえる思いがいたします。
親のよびごえ 南無阿弥陀
この徳龍師が「お念仏を称えるということは、〔自分でとなえているのでない 如来さまが称えさせてくださっているのだ」とさとされたというエピソードをうかがって、思い起こされるのは、原口針水(しんすい)師(一八〇八~一八九三)という明治の前半に多くの僧俗を教化され導かれた高僧のことです。 原口針水師は肥後の国(熊本県)山鹿郡の光照寺に生まれ、博多・萬行(まんぎょう)寺の曇龍(どんりゅう)師のもとで真宗の奥義を究められたとのことです。さらに、〈これからはキリスト教が日本にもひろがるだろうから、それに対するためにもまずキリスト教を知らねば〉との思いから、長崎の出島まで行って、オランダ人の宣教師についてひそかにキリスト教を学ばれたとのことです。
一八六九(明治二)年、本願寺で真宗義の奥義を研讃する安居(あんご)で、「副講」として『正像末和讃』の講義を担当されましたが、それとともに『旧約聖書』の「出エジプト記」を講義されています。明治期になって神道を「国教」と定めて仏教をきびしく非難する「廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)」の運動が起こってきたなかで、神道についても深く学んだうえで仏教を護る活動を積極的に進められた気骨ある学僧でもありました。
しかし、針水師の徳をしたって集まるご門徒や信者の方々には、わかりやすい歌によって的確に浄土真宗の「信心」のかなめを示されたのでした。
針水師が七十七歳の喜寿を迎えられたとき、その祝賀の際に色紙に歌を一首書かれて有縁の方々に与えられたとのことですが、お念仏のおはたらきをそのままにうたわれていて、いまもなお多くの方々にしたわれている歌です。
われ称えわれ聞くなれど南無阿弥陀
つれてゆくぞの親のよびごえ
お念仏はこの「私」が称えさせていただいて、この「私」が聞いている、そこにはたらいているのは「南無阿弥陀仏」である。そこにひびいているのは、親さまである阿弥陀如来の「そのまま来ておくれ」と呼びかけてくださっているよび声であるぞ、といわれている、とうかがわれます。
さらに、ことばを加えて、
われ称えわれ聞くなれど南無阿弥陀
つれてゆくぞの親のよびごえ
行け来いの中で 忘るる己かな
とうたわれたとも伝えられています。まさに今月の徳龍師のおことば
称えるままが ご本願の みこころを 聞くことになる
を、ここに味わわさせていただくのです
(佐々木恵精)
智慧と慈悲
二〇一五(平成二十七)年法語カレンダーのテーマは、前年と同じ「智慧と慈悲」としています。
現代社会は、科学技術が急激に進歩し大変便利になっている半面、若い人たちも年配の方がたも、携帯電話やスマートフォンなどの機器を相手とするばかりで、人びとが互いに直接触れ合い語り合うとか、交流し合うという場が少なくなってきているように感じられます。そこには、自己中心的なこころから欲望や怒りをぶつけ合うという、まさに釈尊が示された煩悩に支配される迷いの中で私たちの苦悩の姿だけは相変わらず、いやなお一層際立って現れていると思われます。
人としてまことの生き方ができているのか、と振り返るとき、真実に目覚められた阿弥陀如来の智慧に照らされ慈悲心にいだかれてこそ、私たちのあるべき姿を見つめることができるものといえるでしょう。
その意味で、「智慧と慈悲」をテーマに先人のおことばをいただくことにいたしましょう。
智慧の光明
親鸞聖人の『浄土和讃』には
智慧の光明はかりなし
有量の諸相ことごとく
光暁(こうきょう)かぶらぬものはなし
真実明(しんじつみょう)に帰命せよ(『註釈版聖典』五五七頁)
とうたわれています。『聖典セミナー「三帖和讃I浄土和讃ヒ(黒田覚忍、本願寺出版社)では、
阿弥陀如来の智慧から放たれる光明は、人間の力によってはとても量り知ることができない。いつの時代も、どんな国のどのような衆生もみな、この如来の光照をこうむって、煩悩の闇をはらし明るい世界をたまわらないものはない。
真実の智慧の如来である阿弥陀如来に信順したてまつれ。(黒田覚忍『聖典セミナー三帖和讃I浄土和讃』二二頁、本願寺出版社)
と現代語訳されています。すなわち如来の智慧の光明に照らされ、そのはたらきに導かれてこそ、欲望や怒りなどの煩悩の闇が晴らされて、真実に眼(まなこ)ひらかれるという、如来の智慧のはたらきが示されています。
大悲 ものうきことなく
また、『正信偈』には
極重悪人唯称仏(ごくじゅうあくにんゆいしょうぶつ)
我亦在彼摂取中(がやくざいひせっしゅちゅう)
煩悩障眼雖不見(ぼんのうしょうげんすいふけん)
大悲無倦常照我(だいひむけんじょうしょうが)
極重の悪人はただ仏(ぶつ)を称すべし。われまたかの摂取のなかにあれども、煩悩、眼を障へて見たてまつらずといへども、大悲、倦(ものう)きことなくしてつねにわれを照らしたまふといへり。
(『註釈版聖典』二〇七頁)
とあります。『教行信証』には
《源信(げんしん)和尚は》「きわめて罪の重い悪人はただ念仏すべきである。わたしもまた阿弥陀仏の光明のなかに摂め取られているけれども煩悩がわたしの眼をさえぎって、見たてまつることができない。しかしながら、阿弥陀仏の大いなる慈悲の光明は、そのようなわたしを見捨てることなく常に照らしていてくださる」と述べられた。
(『顕浄土真実教行証文類(現代語版)』 一五一頁)
とありますように、阿弥陀如来の大慈悲のはたらき(光明)に照らされてこそ、自分中心の欲望などの煩悩に支配されているこの「私」のそのままを見捨てることなく、真実の安堵の世界へと導かれるというように、大悲のはたらきが説かれています。
智慧・慈悲が「仏」そのもの
表紙の法語は坂東性純(ばんどうしょうじゅん)先生(一九三二~二〇〇四)のおことばをいただきました。
智慧・慈悲のはたらき そのものが 「仏」なのです
というおことばです。前述のように、悟り(正覚)を成就された「仏」の仏たるところは、そのおはたらき、すなわち智慧の光明がこの「私」を照らし慈悲の大きなはたらきがこの「私」を包み込んでくださっている、ということですから、まさに「智慧と慈悲のおはたらき」が「仏」そのものであるということを、ここに、そのままに示されています。
お仏壇などで、阿弥陀如来の木像や絵像の掛け軸を安置して、合掌礼拝させていただくのは、いわゆる礼拝の対象としての木像あるいは絵像の阿弥陀如来なのですが、坂東先生はこれを、
じっとしていらっしゃる「方便の仏さま」であり、「物体」なのです
といわれます。
私たちは時間・空間の世界に生きているので、目に見える姿かたちによらなければ受けとめられないため、姿かたちに示してくださったのが、木像の阿弥陀如来立像であり、絵像であります。すなわち、私たちが拝見し親しむことができるお姿に示された「方便の仏さま」で、絵像にはその裏に「方便法身の尊形(そんぎょう)」としるされています。この姿かたちにお示しくださった「方便の仏さまによって「本物の仏さま」へと導いてくださっている、その「本物の仏さま」は生きとし生けるものにはたらきかけてやまない、大いなる「智慧・慈悲」の光明でありおはたらきなのだといわれています。
「動仏」と「静仏」
坂東先生は、さらに、大谷大学学長をされていた山口益(すすむ)先生(一八九五~一九七六)が「静仏(せいぶつ)」と「動仏(どうぶつ)」というおことばで、仏さまについてお示しくださったと紹介されています。
〔煩悩に支配されて汚れきっている私たちを〕浄らかにしてくださるというはたらきをなす仏さま「動仏」が「本物の仏さま」であって、木像や絵像の仏さまは、その仏像そのものは動かない「静仏」、すなわち「方便の仏さま」である、といわれます。
一般に「嘘も方便」といわれ、「方便」というと嘘のように、あるいは偽物のように理解されがちです。しかし木像や絵像の仏さまは、姿かたちでしかとらえられない私たちに、三昧の中にある「仏」の姿を示してくださった、それによって「本物の仏さま」へといざなわれることになる、その意味で本当のはたらきをなす「方便の仏さま」ということになります。
このように、「本物の仏さま」は、大智慧・大慈悲の光明が「私」の上にはたらいてくださっている、そのおはたらきが「仏」そのものである、といわれるのです。
「私」のために説かれている
この「智慧・慈悲」のはたらきということについて拝聴していると、ご縁あって親しくさせていただいたスイスの信楽寺代表のジャン・エラクルさん(一九三〇~二〇〇五)のことを思い出します。エラクルさんについては、昨年の『平成二十六(二〇一四)年月々のことば』でも取り上げましたが、ここにも取り上げてそのこころをさらに味わいたいと思います。
エラクルさんは、若くして司祭になり教会でキリスト教伝道にあたっていたのですが、修道院で「黙想」に傾倒され、東洋の神秘的な文化にも惹かれ、次第に仏教を学び、ついに浄土真宗の本願力に救われる教えに転向(回心)されたのでした。
ジュネーブの市街地のビルの一角(日本でいうとマンションといえるでしょう)に真宗寺院「信楽寺」を開設され、朝夕のおつとめに「正信偈」を、日本と同じ作法で勤行されます。ゆっくりと落ち着いた調子で朗誦されるのですが、前述した源信和尚の句「・・・・大悲無倦常照我」になるとヽ声が詰まってしまうと言われるのです。
〈大悲ものうきことなく常にわれを照らしたまふ〉・・・・いつも、この句になると、感無量になってのどが詰まり涙が出てくるのです
と言われます。なぜかというと、
これは、私のためにお説きくださっているおことばなのだといただかれて、感激して慶喜のあまり、声が詰まり涙があふれてくるのです……
と言われるのです。
エラクルさんは、まさに大悲のおはたらきにつつまれているということでしょう。
ここに慈悲のはたらきが、今はたらいているということを知らされます。これこそ「仏」そのものであり、「本物」の阿弥陀如来さまがここにはたらいてくださっている。智慧の光明として、慈悲の光明として、本願のはたらきとして、今ここにエラクルさんの上にはたらいている、そして「私」の上に、すべてのものの上に「本物の仏さま」がはたらいてくださっている、そのようにいただかれるのです。
(佐々木恵精)
私の依りどころ
今月の言葉は、坂東性純(しょうじゅん)先生の法話集『心のとるかたち』の中からです。先生は東京上野の坂東報恩寺の住職であるとともに、大谷大学教授、イースタンブディスト協会顧問など仏教界の多数の要職を歴任された仏教学者であり、真摯な念仏者であられました。
私ごとになりますが、先生は私がかつて本願寺ハワイ教団の開教使でハワイのマウイ島に駐在していた頃、一九七三年、ハワイ大学の宗教学部主催で行われた『鎌倉仏教セレブレーション』の講師の一人として来布されたことがありました。約二ヵ月間滞在され、その間、講義その他で親しくお話を聞くご縁に恵まれ、まだ赴任して間もない、不安でいっぱいであった私を、「役割や地位が人間を形成してくれます。おみ法第一のご活躍を念じています」とやさしく励ましてくださった、その穏やかなお人柄が懐かしく偲ばれます。
さて、「依りどころ」と申しますと、私どもは常に何かを依りどころ(あて、たより)として生きているようです。それは人それぞれに、財産であったり、教育や学問・知識であったり、健康や家族であったり。夢とか希望とか、最近では絆という言葉もよく聞きます。しかし、これらのものは刻々と移り変わっていくものであり、時には何もかもなくなってしまうことさえあります。いや、これらのものは人生を送る上で確かに大切なものであるには違いないが、永遠であるとはいえません。私の命も、例外なく終わっていく時がやってきます。今日ともしらず、明日ともわからないこの人生の終わりに至って、私か大切に握りしめてきたこれらのものは、何一つ私に寄り添うものはないのです。では、「水遠の依りどころ」とはどのようなものを言うのでしょうか。
蓮如上人は、
もしただいまも無常の風きたりてさそひなば、いかなる病苦にあひてかむなしくなりなんや。まことに死せんときは、かねてたのみおきつる妻子も財宝も、わが身にはひとつもあひそふことあるべからず。されば、死出の山路のすゑ、三塗(さんず)の大河をばただひとりこそゆきなんずれ。これによりで、ただふかくねがふべきは後生なり、またたのむべきは弥陀如来なり、信心決定してまゐるべきは安養の浄土なりとおもふべきなり。
(『註釈版聖典』一一〇〇頁』)
と、お示しくださっています。
本当にたよりとなるものは、有限の人間を超えた存在である仏さま(阿弥陀さま)より外にはありません。親鸞聖人はそのことを、ご和讃に、
畢竟依(ひっきょうえ)(最終的なよりどころ)を帰命せよ
(『同』五五七頁、傍線部筆者)
と教えてくださいます。
『維摩経(ゆいまきょう)』というお経の「問疾品(もんしつぼん)」の中に「衆生病む故にわれ病む」という言葉があります。ここでいう”われ”とは、阿弥陀さま仏さまのことを指しますが、”仏さまご白身が病気をする”というのです。いざという時にはまったくたよりにならないものを当てにし、ウカウカと日々を送っている私の病(煩悩)をご覧になって、阿弥陀さまはご白身が病気をするほどにご心配くださいました。そして、兆載永劫(ちょうさいようごう)の長い長いご修行のすえについに完成したのがお浄土の世界です。 そこは、有限な人間が永遠に救われていく世界でありました。
阿弥陀さまのお浄土を思う
かつて、NHKの夜のラジオ番組に「にっぽんのメロディー」(一九七七年~一九九一年)というのがありました。中西龍アナウンサーが担当で、味のある独特のナレーションで、私はその大ファンでした。毎回、番組の最後に「赤とんぼ」のBGMが流れる中、リスナーが投稿した俳句が一句紹介されます。ある年の暮れ、次のような俳句が紹介されました。
藁屑も混じる切干届きけり
斉藤久子
(以下は、その中西アナウンサーの朗読です)
俳句の世界では、〈切干〉は大根だけに限られています。冬の初めに千切りにして、一週間ほどで出来上がる切干が、遠いふるさとの実家からでも届いたのでありましょう。一年中どこでも売っている極ごく庶民的な保存食ですが、この句の作者がこれを口にするするのはこの時季だけであり、しかも店で売っているものでは駄目なのです。同じ大根であってもどこか味が違うのです。
古里から送ってくるものには、それこそ<ふるさとの味>がこもっているのです。しかも実家の田んぼで収穫した稲の藁まで混じって届くのです。兎追いしかの山、小鮒釣りしかの川、遠くにありて思うふるさとと、そこに出来た産物は、たとえひとがなんと言おうと、世界中のどこよりどこのものよりもいいのです。望郷の思いを胸に、荷物の紐を解く手のもどかしさ嬉しさ……。古里のあの太陽に、あの筵(むしろ)の上で干された切干……。
さて、作者はこの切干をその夜、汁物に入れたでしょうか、それとも煮物か酢のものにか……。いずれにしろ普段より食がすすんで、さぞおいしかったこことでありましょう…..。
藁屑も混じる切干届きけり 斉藤久子
今晩はこれにて 皆さんお休みなさい……。
艱難辛苦(かんなんしんく)の人生にあって、ふるさとはわが心の支えです。中西アナウンサーの名調子を聞きながら、私は阿弥陀さまのお浄土を思うのです。お浄土は、私の今日を支える土台であり、「いのちのふるさと」です。お浄土があればこそ人生の荒波を超えていくことができます。いわば私の成立根拠ともいえるでしょう。
阿弥陀さまは私がこの世のいのち終えて帰るところ、広大無辺のお浄土をご用意くださいました。そのお浄土から阿弥陀さまかこのシャバに来てくださっている、 その姿が名号「南無阿弥陀仏」です。私の命の中に入り満ちて、この口からお称名となってこぼれ出てくださいます。それは、「あなたを必ずこの弥陀の浄土に迎えとるから安心しなさい」と喚んでくださる喚び声です。 南無阿弥陀仏の生活とは、この阿弥陀さまの喚び声を、わが称える念仏の中心に聞いていくところにあります。ですから、お念仏の人は常に阿弥陀さまかご一緒です。
如来さまに抱かれた生活
私か長年ご教化にあずかった深川倫雄(ふかがわりんゆう))和上から、かつて次のような話を聞かせていただいたことがあります。
寺の法要や行事に生涯欠かさず手伝いやお参りに来ていた門徒のお婆ちゃんが入院したので、坊守さんがお見舞に行った時のこと。そのお婆ちゃん、入院してしばらくは周囲に気を使ってこらえていたけど、いっときして思わず「ナマンダブ、ナマンダブ」とお念仏が出たんだそうです。ちょうどその時、体温計を持って病室に入ってきた若い看護師さんが、たしなめるように、 「バアチャン、そんなこと病院で言っちゃいけません。元気だして」と言ったそうな。看護師さんにしてみれば励ましたつもりだったのですが、お婆ちゃんは、
「まあ、どうしょうかしらん。考えてみりゃ長年、寺へ参らしてもろうたのは、こういう時こそ阿弥陀さまがご一緒くださるお念仏こそ、値打ちがあると思うておりました。そういう説教を聞いてもきましたし、本当にそうだと思うておりました」
看護師さんの言葉がはがゆうて、はがゆうて、お婆ちゃんは「どうしようか、荷物まとめてかえろうかしらん」と、腹立たしく思うておったところに、K先生というお医者さん(院長先生)が回診においでで、
「なあバアチャン、いざとなったらお念仏よりほかないけえのお」
と、おっしゃってくれました。
「まあー、ご院家さんの説教よりありがたかったよ!」と。
このお婆ちゃんの生活は、日々ナンマンダブツを称える生活なのです。いえ、ナンマンダブツの中に日暮らしをさせていただいている、と言った方がよいでしょう。親鸞聖人のよろこびは、生きているたった今、如来さまのお浄土に間違いなく往生させていただく身に定まった、というよろこびでありました。死んでから先だけの話ではないのです。只今が、お浄土参りの道中です。
如来さまはお浄土におられる。けれども、いつも私についていてくださいます。お念仏が口から出てくだざるのがその証拠です。お浄土は、つねにこの私に名号(なもあみだぶつ)を通じてはたらきかけ、喚びかけている世界であり、そこに摂取不捨のよろこびに生きる念仏者とお浄土との現実的なかかわりがあるのです。
かたつむり どこで死んでも我が家かな
お念仏申すものは”カタツムリ”のようなものです。かたつむりがいつでも家つきであるように、念仏者は、もうすでに如来さまに抱かれた生活です。私の今おる所が、たすかる場所。どこでどのように倒れようと、倒れた場所がお浄土です。五分先のいのちの約束のない不安な人生を<わがいのち み親にまかせて 大安心>のうちに日暮らしさせていただきます。しかも、見たこともないお浄土にわれわれは、いのち尽きて初めて参らせていただくのでありますが、阿弥陀さまは「帰っておいで」とおっしゃってくださいます。
なつかしい親の待つふるさとに帰るように、お浄土に参らせていただきます。阿弥陀さまは、私たちに究極の安心を与えてくださったのです。そこに〈南無阿弥陀仏の生活は、永遠の依りどごころを与えてくささる〉ということができるのであります。
(稲田静真)
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10月30日(木) 今年の若婦人会の研修会を行ないました。 3回目になる「フラワーアレンジメント」を池田先生に教えてくださいました。 「スワンの製作」 みんな苦心して作りました。
阿弥陀さまのお慈悲
およそ四十数年前になりますが、私が龍谷大学の学生の頃、毎週日曜日には東西本願寺の日曜講演(お西の本願寺会館〈現在は聞法会館〉や、お東の高倉会館)によくお聴聞に出かけたものでした。その折、高倉会館でお若い頃の広瀬杲(ひろせたかし)先生のお話のご縁にたびたび遇ったことを懐かしく思い出します。今月の言葉は、その広瀬先生の『宿業(しゅくごう)と大悲(だいひ)』の中の一説です。
さて、「衆生にかけられた大悲」とは、阿弥陀如来が生きとし生けるもの全てに願いをかけてくださっている、そのお慈悲のこころです。阿弥陀さまは、煩悩にまみれた私共衆生を救うために四十八の願をお建てになりました。親鸞聖人は、その四十八願を一つにつづめると第十八願におさまるのであって、その第十八番目の願が、如来さまのご本意(本音)が説かれた願として「本願」といわれました。
その阿弥陀さまの本音、第十八願には、「この弥陀が、仏になったならば、十方の生きとし生ける者よ、ほんとうに疑いなく私の国に生まれると思ってくれよ。そしてわずか十声でも私の名を称えていく者を、もし浄土に生まれさせることができなかったら、私は正覚をとりません。ただ五逆罪と正法を膀るものはダメだぞよ」と、誓われてあります。
一言でいえば「摂取不捨」(凡夫のあなたがたすかることがなかったならば、この弥陀自身がたすからない)と味わわれます。
しかし、「ただ五逆と正法を誹謗するをば除く」とあります。「決して見捨てない、みんな救うぞ」といいながら、親殺しや仏法を謗る者はダメだとあります。これは、どのようにいただいていけばよいのでしょうか。
この「唯除五逆誹膀正法」のご文は本願の抑止門として、親鸞聖人はここに阿弥陀さまの広大無辺のお慈悲を深くいただいていかれたのです。それは、実は「五逆と誹謗正法の者が最も気にかかるぞ」との如来の深い思し召しにほかなりません。
すでに罪を犯した者は「案ずるでないぞ、必ず救うぞ」と、そして、まだ罪を犯してない者は「謹んでたしなめよ、恐ろしいしわざであるぞよ」とご注意くだざるのであり、結局、五逆謗法の者こそ本願のお救いのお目当てといただくわけです。
利井鮮明和上のうたに、
子の罪を親こそ憎め 憎めども
捨てぬは親の情けなりけり
というのがありますが、本願のこころを詠まれたものでありましょう。阿弥陀さまのお慈悲は、一切衆生を救うのであるけれど、一番どん底のものをまず標準として救うというのが、浄土真宗です。浄土真宗のご法義の特色に「悪人正機(あくにんしょうき)」が挙げられますが、悪人を好むわけではなく、悪いことをする程救われるということでもありません。一番弱い者を標準にするということです。阿弥陀仏のお慈悲は、一番あわれな者を標準とします。そういう者でも心をひるがえさせ、聞く気にさせて、みな救うぞ、というのが第十八願の「唯除五逆誹謗正法」のこころです。
映画「北のカナリアたち」より
一昨年の冬、「北のカナリアたち」という映画を見ました。北海道は最果ての島の小学校、信人を含め全校生徒は六人でした。島に赴任してきたのは吉永小百合演ずる川島はる先生です。はる先生は合唱を通して子どもたちに希望を与えていきます。
両親のない信人は、はる先生を母親のように慕うのです。しかし、ある事件をきっかけに先生は島を追われ、子どもたちは歌を捨てました。
さて、二十年後の東京で、信人は殺人事件の容疑者となってしまいます。はる先生にも警察から問い合わせがきました。再び島を訪れ、子どもたら一人ひとりを訪ねていくはる先生。そこで彼らは、心の底にずっとわだかまっていた誰にもいえなかった悩みや苦しみを、初めて吐露するのです。はる先生が島を追われた真相も次第に明らかになっていきました。
信人はふるさとの島でついに捕らえられ、罪を認めました。 法の裁きを受けなければなりません。しかし、ここで、粋なはからいがもたらされます。島の教室に、手錠を外された信人が現れました。そこに待っていたのは、五人の仲間たちとはる先生。殺人犯を、何のわだかまりもなくあたたかく受け入れます。警察も見て見ぬフリをして容認するのです。そこには、信人の罪を咎める言葉も責める心もありませんでした。みんなのやさしさに触れ、信人は号泣し、顔はクシャクシャです。そこで、はる先生の指揮のもと、かつての小学生六人は昔歌った「かなりや」の歌を合唱するのです。
信人を乗せた船が、岸を離れるラストシーン。刑事に再び手錠をはめられ、遠ざかっていく信人に向かって、仲間が口々に大声で叫びます。
「信ちゃーん」
「帰ってこいよー」
「俺たちがいるからなー」
「信ちゃーん、ごめんなー」
「次もみんなで、一緒に歌うよー」
「待っているからなー」
「お前は1人じゃないからなー」
「元気でいるんだぞー」
そして、はる先生が、
「信ちゃーん、みんな、あなたが、好きだからー」と。
阿弥陀さまのお慈悲を彷彿とさせるような温かい言葉の数々。これらの言葉に信人はどんなに救われたことでしょうか。実に感動的なシーンでした。いささか映画の説明が長くなりましたが、この「かなりや」の歌詞をご存じでしょうか。
一、唄を忘れた金糸雀は 後の山に棄てましょか いえ いえ それはなりませぬ
二、唄を忘れた金糸雀は 背戸の小藪に埋めましょか いえ いえ それもなりませぬ
三、唄を忘れた全糸雀は 柳の鞭で ぶちましょか いえ いえ それはかわいそう
四、唄を忘れた金糸雀は 象牙の舟に銀の擢 月夜の海に浮べれば 忘れた唄を思い出す
ずいぶんひどい言葉(詞)です。しかし、考えてみますと、世間の人は「唄を忘れたカナリア」のような人間には冷淡であることがあたりまえのような気がします。落ちぶれた者には誰もが寄り付かなくなるが、ひとたび成功するとどこからともなく親類縁者が近づいてくるようなものです。
わが名を称えよ、必ず救う
しかしながら、弱き者、落ちていく者、どうしようもない者を決して見捨てることなく、涙してご一緒してくださるお方が、たった一人だけおられる。それが阿弥陀さまです。唄を忘れたカナリアも、阿弥陀さまの慈光に照らされて、ご本願の船に乗せられ救われていくのである。と、作詞者の意図はさて置き、歌詞の味わいは世に発表された瞬間から受け取る側の自由であるとも聞きますので、あえてこのように味わってみました。
み仏は、限りなき手段をもって私どもをお救いくださいます。過ちを犯してしまった信人に、阿弥陀さまが、はる先生や仲間の言葉となって、届いているような思いがしました。
さて、信人の罪の原因は、ほんのふとしたはずみでした。もし、私か信人のような状況下にあれば、同じ罪を犯すのではなかろうか、と思わずにいられません。極悪非道といわれるような人間であっても、背景にあるそれまでの生い立ちや環境などが多分に影響していることでしょう。
私は幸いにも今まで殺人を犯すような縁に触れなかっただけであった。縁に触れればこの私も、何をしでかすかわからんのです。“信人は悪人”と向こうにまわし、“私は善人”と、遠くから見てはいなかったか。実際に手にかけずとも、私は今まで、いくたび人には見せられないような心を起こしてきたことでありましょうか。聖徳太子がいわれました。
われかならず聖(ひじり)なるにあらず、かれかならず愚かなるにあらず。ともにこれ凡夫(ただひと)ならくのみ
(『註釈版聖典』 一四三六頁)
共に、煩悩に覆われた凡失でありました。 “唄を忘れたカナリア”とは他人ごとではなかった。親鸞聖人は、このような私(凡夫)の姿を悪人、極重の悪人と申されました。阿弥陀さまは、その私を倦むことなく、つつんでいてくださる。「わが名を称えよ、必ず救う」とひたすら喚んでいてくださいます。聖人は、その無倦(むけん)のお慈悲をよろこんでいかれたのです。
親鸞聖人は「正信偈」に、源信和尚の『往生要集』の言葉を引かれて、
極重悪人唯称仏 我亦往彼摂取中
煩悩障眼雖不見 大悲無倦常照我
極重の悪人はただ仏を称すべし。われまたかの摂取のなかにあれども、煩悩、眼を障へて見たてまつらずといへども、大悲、倦(ものう)きことなくしてつねにわれを照らしたまふといへり)
(『註釈版聖典』二〇七頁)
と、仰せられました。また、『高僧和讃』源信讃には、
煩悩にまなこさへられて
摂取の光明みざれども
大悲ものうきことかくて
つねにわが身をてらすなり
(『註釈版聖典』五九五頁)
極悪深重(ごくあくじんじゅう)の衆生は
他の方便さらになし
ひとへに弥陀を称してぞ
浄土にうまるとのべたまふ
(『同』)
と、感激をこめて詠まれています。
私は、今日もまた、如来さまの慈光のなかに生かされています。無倦の大悲に護られてある身の仕合せをよろこぶばかりです。
(稲田静真)
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10月11日(土) 仏婦・仏壮の合同一日研修旅行を行ないました。 九州国立博物館で開催の「故旧博物院・神品至宝」展に参りました。 その後、飯塚市の「旧伊藤伝衛門旧宅」を見に行きました。 旧伊藤伝衛門旧宅です
一人がためなりけり
この言葉は、梅原真隆(うめはらしんりゅう)和上の歌集『雑華雲』に収められた一首です。梅原和上は、明治、大正、昭和の中期を生き抜かれた偉大な真宗学者でありました。また、歌人でもあり、『雑華雲』『薺(なずな)の花』などに格調高い法悦の歌を数多く遺されています。
梅原和上といえば、霊山勝海(よしやましょうかい)和上が以前紹介してくださった話で、私の脳裏に焼きついているエピソードが思い出されます。兵庫県の芦屋市に「芦屋仏教会館」という聞法の道場がありますが、これを建てたのは丸紅商社の創始者である初代、伊藤長兵衛さんであります。伊藤長兵衛さんが芦屋に住むようにかって、ふと気がついたことには、「この芦屋にはお寺がない、お聴聞する場所がない」ということでありました。「仏にお礼することも知らん、聞法することも知らん、何というけったいな所じゃ、こんなところで人が育つのかいな、そうだ、ここにお寺を建ててみんなに聴聞してもらおう」そう考えた伊藤長兵衛さんは早速計画を立て、尊敬する梅原先生に相談に出向きました。ところが、その計画をじっと聞いておられた梅原先生は開口一番「伊藤さん、あなたはよいことをしようと思っておられるかもしれませんが、私は賛成できませんよ」の一言。「なぜですか」と普通ならば聞くところでしょうが、伊藤長兵衛さんは聞きません、梅原先生もまた、何でいけないのか、その理由をおっしゃいません。二人はそのまま別れるのです。
この時、伊藤長兵衛さんは七十歳くらいで、梅原和上は当時、龍谷大学の教授で四十歳そこそこです。親子ほども歳が違い、金を持っているのは伊藤長兵衛さんで、反対するのは梅原先生。伊藤長兵衛さんは、梅原先生ほどのお方が反対なさるのだから何か深いわけがあるに違いないと、そのことをのみ朝な夕な、寝ても覚めても働いている時もこのことが頭を離れませんでした。ところが、ある日ハッと気がつきました。取るものもとりあえず、当時、京都の東山に住んでおられた梅原先生の所へかけつけました。
「先生、この間の計画は全部ご破算にしました。しかし、今日は新しい計画を持ってきましたので相談にのってください」
そして、次のように言われたのです。
「新しい計画といいますのは、やはり、この芦屋に浄土真宗のお寺を建てたいのです。が、今度建てるお寺は、芦屋の人たちに聞法してもらうためではなく、この私がお聴聞するお寺が芦屋にありませんから、芦屋に聞法の道場を建てて、日曜ごとに聴聞させてもらおうと思います」
と言いましたら、梅原和上が身を乗り出して、
「伊藤さん、その言葉を今日まで待っていました」と。
そうして出来上がったのが芦屋仏教会館である、そして、法座のたびに席の最前列で熱心にお聴聞なさる伊藤長兵衛さんの姿があったということです。
弥陀の五劫思惟(ごこうしゆい)の願(がん)をよくよく案ずれば、ひとへに親鸞一人(いちにん)がためなりけり。
(『註釈版聖典』八五三頁)
と、親鸞聖人が味わわれたように、「今日のご縁は我一人のためと思うべし」という姿勢、これを崩しては浄土真宗の聴聞は成立しませんよ、との梅原和上のご教化が偲ばれます。
お説教のあとで「ああ今日の話はうちの嫁に聞かせたかった」とか「お念仏のおみのりを次の世代に伝えるにはどうしたらよいか」と言われる人がいますが、仏教は、自分をさておいて他人に聞かせるハナシではありません。問題なのはこの私。
この私(罪悪生死の凡夫)をどうやって救おうかとのご苦労が、阿弥陀さまの五劫思惟でありました。
ただ念仏せよ
実はこの歌にはもう一つ「念仏せよ」が冒頭にありまして、
念仏せよただ念仏せよ念仏せよ
大悲回向の南無阿弥陀仏
が、本来の歌の全容です。「念仏せよ」が三度も繰り返されてあります。しかも、ただ念仏せよとは、ただこのことひとつ、お念仏よりほかに私の救われていく道はないよ、という意味合いです。
普通一般的に宗教と言えば、こちらから神さまや仏さまにお願いして助けてもらうことだと思われています。ナモアミダブツを祈りの言葉のように誤解している方が多いのです。ところが、浄土真宗のお救いは、阿弥陀さまからの一方的なお救いです。私の思いや計らいには一切用事がなく、すべてが阿弥陀さまの他力(一人ばたらき)で救われていきます。何故か。そうでなければ救われようのない私の姿がそこにあるからです。
人の悪口、己の自慢は大得意。うわべの顔と、腹の中とは大違い。人を傷つけ、いいじゃ悪いじゃ、好きじゃ嫌いじゃ、損じゃ得じゃと、心は常に自己中心。どこにそんな人がいるのかとキョロキョロ探す必要はありません。それはまさしくこの私の姿。
私たちは、よく「正直にいいなさい」と子どもを責めますが、大人の世界がどれほど正直でしょう。少しわが身のことを振り返ってみるだけでも、自己弁護のウソを積み重ねている自分を発見します。心の中を映すレントゲンでも発明されたら、たまったものではありません。
また、動植物の命をいただかねば生きていけないという事実。害虫という名のもとに蚊をたたき、ゴキブリを退治し、豚や牛や魚を食材として食べる。生きていくという、そのこと自体が罪つくりの日暮らしにほかなりません。親鸞聖人は一生涯「恥づべし傷むべし」(『註釈版聖典』二六六頁)と、深くご白身を見つめられました。
また、『一念多念文意』には、
「凡夫」といふは、無明煩悩われらが身にみちみちて、欲もおほく、いかり、はらだち、そねみ、ねたむこころおほくひまなくして、臨終の一念にいたるまで、とどまらず、きえず、たえずと、水火二河(すいかにが)のたとへにあらはれたり
(『註釈版聖典』六九三頁)
と、悲嘆なさいました。
このような私の姿を、阿弥陀さまは、煩悩成就、煩悩具足と見込まれました。そして、諸仏にすでに見離されたこのような者をどうしたら救うことができるかと立ちあがってくださったのです。あるお同行の言葉に、
如来さまは タマ杓子
同行衆は イモ団子
救おうと思や 落ちる
救おうと思や 落ちる
ドギャーすかしらん
と、ありますように五劫という長い長い間思惟し、阿弥陀さまは「ナンマンダブツ」と言葉となり声となってこの口に称えられ、耳に聞こえる姿となって私のところに届いてくださいました。
「もうお前を救う仏は届いているよ。もうお前の親がここにおるよ」と私の口から名告(なの)り出てくださっている、それが私の「ナモアミダブツ」 です。そして、このお念仏こそが凡夫(この私)の救われていくたったひとつの道であるとしめされました。
生まれたばかりの仔猫を親猫が運ぶとき、仔猫の首のところを親猫が口にくわえて運びます。猿の赤ちゃんは母猿にしがみついたりぶら下がったりしています。しかし、仔猫はすっかり全身を親猫に預け、まかせきって、しがみつく力もぶらさがる力もいりません。〈仔猫が私で、母猫が阿弥陀さま〉私が救われていくに必要なすべてを弥陀の名号「ナモアミダブツ」に込めて、私に届いてくださっています。私がお念仏申す時、私に念仏させようとする阿弥陀さまのお手まわしが、すでにあったのです。この如来さまのおはたらきを、本願力回向(ほんがんりきえこう)とも大悲回向(だいひえこう)とも申します。
世にこれほどのお慈悲があるでしょうか。
嬉しいときも悲しいときも
阿弥陀さまの大悲心が私の胸に宿ったら、「ようこそ阿弥陀さま」と、お礼を申さずにはおれません。 その報恩の思いがまた、ご報謝の念仏となって出てくださいます。
南無阿弥陀仏に 味ふたつ
親の喚ぶ声
子の慕う声
念仏申すということは、「安心せよ、引き受けたぞ」とおっしゃる阿弥陀さまのお喚び声であるとともに、「ようこそ阿弥陀さま」と、私の頭が下がり切った相でもあります。
うれしいときもナンマンダブツ。悲しい時もナンマンダブツ。腹が立った時も何でもない時もナンマンダブツと、□からお念仏が出てくださる。いつでもどこでも浄土真宗の門徒はお念仏を申す日暮らしです。弥陀の救いは、煩悩成就の私を離れてはありません。今、ここに、すなわち私のいるところが、如来のはたらき場所です。ですから、何も仏前に座っている時だけとは限りません。道を歩いてナンマンダブツ。掃除をしながらナンマンダブツ。風呂の中でもナンマンダブツ。無理に合掌せずともよいのです。ねてもさめても、寝言にまでナンマンダブツと顕われてくださる阿弥陀さまです。
その仏さまのお誓いは、聞いて来いではありません。称えて来いでもありません。
「聞こえる仏となって救うぞ」、「称えられる仏となって救うぞ」と、全てが仏の手元で仕上げられて凡夫のところに出かけていって、抱いてかかえてはたらく「ナモアミダブツ」とナってくださいました。
ところで、また私には、喉頭ガンで声を失われた故・高千穂徹乗(たかちほてつじょう)和上の一文が、ズシリと心に響いてまいります。
「愚痴になるかも知れないが、声の出ないことは本当に寂しいものであります。時にはなんとかして一回声がでないものだろうかとさえ思う。(中略)どうか立派な声をもっておられる人々よ、その立派な声を、あまり他人の悪□をいうときに使わずに、お念仏を称える時にこそ使ってください。声なき私の切なる願いであります」と。
念仏せよ ただ念仏せよ 念仏せよ
大悲回向の 南無阿弥陀仏
弥陀大悲に生かされ、ご報謝に生き抜かれた梅原和上の、ご生涯の結論ともいうべき歌であろうかと深く味わわせていただきます。
(稲田静真)
今月のことばは、金子大榮(だいえい)師のことばです。
一八八一(明治十四)年に新潟に生まれられた金子大榮師は、真宗大谷派の最高の学階である講師で、大谷大学の名誉教授です。金子師の初めての対話集である『金子大榮対話集』に、金子先生と東京大学名誉教授の武藤義一先生との対談が「悲しみの心・喜びの心」と題して収録されています。
その中で「お念仏は讃嘆(さんだん)であり、懺悔(さんげ)であるということがあります」と語られ、その内容を、
久遠劫来迷うてきた、いま初めての迷いではないというようなことはみな懺悔の言葉である。そして弥陀の本願というものがあって、それに遇うことができたという喜びが讃嘆になっている。そういうふうな立体的なものである。
(『金子大榮対話集』二六六頁)
と述べられています。
お念仏が讃嘆であり懺悔であるという意を示すお言葉が、親鸞聖人のお聖教のなかにあります。
親鸞聖人のお言葉をうかがってまいりましょう。
親鸞聖人のお言葉
『尊号真像銘文』に、
「称仏六字(しょうぶつろくじ)」といふは、南無阿弥陀仏の六字をとなふるとなり。「即嘆仏(そくたんぶつ)」といふは、すなはち南無阿弥陀仏をとなふるは、仏をほめたてまつるになるとなり。
また「即懺悔(そくさんげ)」といふは、南無阿弥陀仏をとなふるは、すなはち無始(むし)よりこのかたの罪業を懺悔するになると申すなり。
(『註釈版聖典』六五五頁)
とあります。
阿弥陀如来の本願の救いを聞き受けた、信心の念仏者が一声称える称名念仏は、阿弥陀如来の全ての徳を実の如くに讃嘆することになるといい、久しく遠い昔からの自らの造ってきた迷いの因である罪を懺悔していることになるというのです。
ここに述べられている「ほめたてまつるになるとなり」「懺悔するになる」という表現に大きな意味があります。
讃嘆のこころ
「讃嘆」は「ほめるたたえる」ということです。 『仏説無量寿経』(『大経』)に説かれた「諸仏称名の願」と呼ばれる第十七願の成就文に、
十方恒沙(じっぽうごうじゃ)の諸仏如来(しょぶつにょらい)は、みなともに無量寿仏(むりょうじゅぶつ)の威神功徳(いじんくどく)の不可思議なるを讃歎したまふ。
(『註釈版聖典』四一頁)
とあって、諸仏が阿弥陀如来のはかり知ることができないすぐれた功徳をほめたたえると説かれています。
「ほめる」というのは、簡単なことのようですが、実はとても難しいことです。なぜなら、本当にほめることができるのは、阿弥陀如来の威神功徳不可思議なることを、その通りに知らなければなりません。
相手を知らずにほめるならば、ほめ足りないか、もしくはほめ過ぎてただの「お世辞」「おべんちゃら」となってしまいます。
阿弥陀如来の功徳を如実に知って、その通り讃嘆できるのは、悟りを開いた仏陀でなければ成し得ないのです。ですからこの第十七願では悟りを開いた諸仏が、阿弥陀如来を讃嘆すると誓われてあるのです。
さて、天親菩薩は『浄土論』において阿弥陀如来の浄土に往生するための行として説いた「五念門(ごねんもん)」の一つとして「讃嘆」を挙げています。
五念門とは「礼拝」「讃嘆」「作願(さがん)」「観察(かんざつ)」「回向(えこう)」の五つで、身に阿弥陀如来を礼拝し、口に阿弥陀如来の名を称えてその功徳を讃嘆し、心に阿弥陀如来の浄土への往生を願い、阿弥陀如来の浄土と仏・菩薩を思い浮かべ、自ら得た功徳を他の衆生に回し向けるということです。前の四つは自らを利益する自利を、最後の一つは他を利する利他を成就し、五念門をもって自利利他成就して悟りを開くと説かれていました。
これを承けた曇鸞大師は、五念門を修して速やかに悟りを得ることができるのは、阿弥陀如来の本願力、つまり他力によるからであると明らかにしました。
親鸞聖人は天親菩薩、曇鸞大師の教えを通して、これらの五種の修行は、浄土に往生し悟りを得ようとする念仏者が修めるのではなく、阿弥陀如来が自ら修したことと説かれました。
親鸞聖人の『入出二門偈頌(にゅうしゅつにもんげじゅ)』というお聖教には「願力成就を五念と名づく」(『註釈版聖典』五四八頁)と示して、阿弥陀如来の本願力が成就したことを、この五念門というと明らかにされています。
信心と五念門
もともと五念門を説かれた天親菩薩は、その著『浄土論』の冒頭に、
世尊(せそん)、われ一心に尽十方無碍光如来に帰命したてまつりて、安楽国に生ぜんと願ず。
(『註釈版聖典(七祖編)』二九頁)
と示して、疑い心なく、二心なく「一心」に阿弥陀如来の浄土に往生することを願うと説き、それは五念門を修することで阿弥陀如来の浄土に往生することができると説いたのです。
これを承けた親鸞聖人は、信心を「証大涅槃の真因」(『同』二一一頁)と示し、自利利他成就した大涅槃を証する真の因であると説かれました。それは、阿弥陀如来が本願の救いを疑い心なく二心なく一心に信受せしめた信心に、阿弥陀如来が行じた五念門の功徳が具わっており、五念門によって得る自利利他の功徳が具わっているからでした。
このように「一心」といわれる信心に「五念」の徳が具わっているのですから、その信心を獲得した念仏者の相に、五念門の一つひとつが発(おこ)ってくる可能性があるのです。
このことは親鸞聖人が「真実の信心はかならず名号を具す」(『註釈版聖典』二四五頁)と示して、真実の信心には必ず名号を称えるという称名を伴うと明らかにされていることからもうかがえます。
もちろん信心を獲得した時に往生成仏に正しく定まった「正定聚」の身と成ったといっても、悟りの一分も開いていない凡夫であり続けることは事実です。その有り様はさまざまですから、画一的な相が発るというわけではありません。
しかし本来ならば、阿弥陀如来を私を救う仏とも思わず、千を合わせて礼拝することもしなかった私。まして口にお念仏を称えて、そのはたらきをほめたたえることかとするはずもなかった私が、今、阿弥陀如来を礼拝し、称名念仏しているのです。これは阿弥陀如来によって、五念門の徳が具わったご信心を賜ったからと言わずにおれません。
まさに阿弥陀如来が本願を信ぜしめ、念仏を称えせしめたのです。その信心の念仏者の称名念仏は、釈尊が『大経』を説いて阿弥陀如来の功徳を如実に讃嘆したのと等しいと言ってもいいのです。
凡夫の私が称えたことが等しいのではありません。信ぜしめられ、称えせしめられた念仏ですから、阿弥陀如来を如実に讃嘆したことになっていると、信心の利益として説かれているのです。
『尊号真像銘文』の「ほめたてまつるになるとなり」という表現はまさにそのことを示していたのです。
懺悔のこころ
『尊号真像銘文』に「懺悔するになる」と説かれたのはどのような深い意があるのでしょうか。
お説教をお聴聞させていただくと、「煩悩成就の凡夫」であるとか「罪悪深重」などと耳にすることが多くあります。
まことに知んぬ、悲しきかな愚禿鸞(ぐとくらん)、愛欲の広海に沈没し、名利の大山に迷惑して、定聚の数に入ることを喜ばず、真証の証に近づくことを快(たの)しまざることを、恥づべし傷むべしと。
(『註釈版聖典』二六六頁)
という親鸞聖人のご述懐のお言葉はまさに厳しいお言葉とお聞きします。悲しいことに、深い欲に沈み、名誉欲や利益を貪る心に惑い迷わされ、往生・成仏が定まった聚(なかす)に入り、さとりに近づくことを楽しいとも思わない。恥ずかしく、嘆かわしいことと述懐されています。
ここで「悲しきかな」「恥ずべし、傷むべし」と述懐されていますが、これは単に卑下して述べられた言葉ではありません。この一文は、本願を信ぜしめられるところには、「真の仏弟子」となり、釈尊からは泥に染まらない白い蓮「分陀利華」と名付けられ、それを承けた善導大師は、念仏を相続する人をきわめてまれな尊い人「妙好人」であると説かれていると、自らが救われたよろこびを詳しく述べた後に続いて、記されているのです。
つまりここで悲しいと述懐されているのは、阿弥陀如来の救いに出遇うことができた上での述懐ということです。自らが「煩悩成就の凡夫」という迷いの存在であることは、自らが省みて見えるものではありません。
自己反省は、自分で自分を省みることです。いくら深く自己反省をしても、省みている自己白身は誰にも省みられていないのです。
親鸞聖人が「悲しい」と述懐されたお言葉は、阿弥陀如来の救いの光に照らされて、自己白身の影が初めてありありと知らされたから、言い得たお言葉なのです。
夕陽を背にして家路につくとき、目の前には黒々とした大きな影が現れます。自分より大きく、真っ黒な影がありありと見えています。しかしその影が見えているということは、夕陽に同時に照らされているのです。
いまここで「悲しきかな」と言い得ているということは、阿弥陀如来の本願に出遇い、その救いの光に照らされているから言い得た、よろこびの言葉でもあったのです。
懺悔する心、それは私の中からはでてきません。阿弥陀如来の救いに照らされ、本願を信ぜしめられ、自らの本性が知らしめられ、懺悔することになるのです。
阿弥陀如来を讃嘆することも、自らの至らなさ愚かさを懺悔することも、ともに阿弥陀如来の救いの利益によるものだったのです。
(葛野洋明)