6月19日白蓮仏教婦人会の総会・ご法座を行ないました。

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6月19日に 白蓮仏教婦人会の総会・ご法座を行ないました。

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6月16日 光明寺にて下関組仏教婦人会総会が行われます。

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皆様お誘いあわせの上、ご参加ください。

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2015年6月 ものが 縛るのではありません ものをとらえる心に 縛られるのです 法語カレンダー解説

hougo201506心の問題

 

今月は仲野良俊師(一九一六~一九八八)の『三誓偶(さんせいげ)講話』一九八三年発刊、東本願寺出版部)にある言葉です。師は京都府のお生まれです。大谷大学卒業後、一九四二(昭和十七)年からビルマ(ミヤンマーで日本語学校の教員をされ、一九五六(昭和三十二年より真宗大谷派教化研究所所員をされ、それ以降は教学研究に携わられ、北海道教学研究所所長、教学研究所所長を歴任されました。また、真宗大谷派専念寺住職でもありました。

 

『三誓謁講話』は、一九六二年に雑誌に発表されました。この時代は池田勇人首相の「所得倍増計画」の下に、物価も所得もどんどんと上がり、三種の神器として憧れであった白黒テレビ、洗濯機、冷蔵庫が普及しだした頃です。人びとはより良い生活のために一生懸命はたらき、少しずつ実現していきました。

 

生活がよくなるのはいいことですが、白黒テレビを買えば、カラーテレビ、その次は大きなテレビ、さらには二台目のテレビと欲望は広がります。物を得てしばらくは幸福感がありますが、後は当たり前になり、欲望は大きくなってきます。この欲望となってくる心に注目しないと、物に流されるだけの生活になってきます。

 

このことを仲野師は、便利な物を手に入れれば、もっと便利な物がほしくなるといい、結局は次々と出てくる欲しい物、必要な物に縛られた生活になっていくとされました。しかしその実は、欲しい物に縛られるのではなく、欲しい物をとらえる私の心に縛られていると言われます。それが今月の言葉です。

 

 

物にも事にも縛られて

 

五十年前に較べて、あまりに物が多すぎて、物は要らないという人もいます。しかし状況はそれほど変わったわけではありません。

 

「大きな家があれば幸福になる」「あの服を買うことができれば、新しい自分になる」「ケータイを変えれば世界が広がる」などを思って、購入している人は多くいます。時には「あの服が買えないから、楽しくなれない」など、物がないから自分の好まない状態になるという人もいます。また物だけにではなく、「旅行に行けば新しい自分になれる」と思って旅行を繰り返す人、「あの人がいなければ幸福に過ごせる」と思って、その人との関係を断とうとしている人など、旅行する、関係を断つという事にも私たちは縛られています。

 

今月の言葉は、たまたま物にとらわれて必死になっていた人びとの話をされていたので、このような言葉になったのですが、事についても同様の見解をお持ちだったと『三誓渇講話』から推測されます。

 

 

悩みは尽きない

 

聞いた話です。ある人がいくつもの悩みを克服してこられ、「娘の結婚が終われば悩みはなくなる」といっていました。娘さんが結婚された後しばらくすると、親の体調の悪いことが気になり、十分な治療をしているのか、このまま寝込むことはないのだろうかと悩まれました。親が快復すると、仲のよかった知人の態度がよそよそしくなったことが悩みになりました。この人の予想に反して、悩みは尽きません。おそらくは孫ができたときは元気に育つかと悩まれたと想像できます。

 

この人は、何故こんなに悩みを抱えて生きていかなければならないのかと考えておられるでしょうが、聞いた限りでは、この人の心が悩みを作っているように見えます。仲野師の言い方では、心が悩みを作り、その心に縛られているように見えます。この心が解放されることは幸せなことです。

 

 

煩悩とさとり

 

私たちを悩み煩わせる心を、仏教では煩悩といいます。煩悩は百八あるといいますが、その中心的な煩悩を三毒といいます。それは貪欲(とんよく)と瞋恚(しんに)と愚痴(ぐち)です。貪欲は決して満足しないむさぼりの心です。瞋恚は思い通り行かなければすぐに出てくる怒りの心です。愚痴は三毒の根本的な煩悩で、自分中心の心です。自分さえよければ他はどうなっても構わないというよりは、自分のことを第一に考える心、自分のことにしか思いが及ばない心です。

 

三毒を中心とした煩悩が、物事についての悩み苦しみを引き起こすといわれます。この煩悩を自由にコントロールしたり無くしたりできれば、物事に支配されているという心もなくなり、欲望もおのずから変わっていって、安らかな生活ができることになるはずです。お釈迦さまは、煩悩を滅することによってさとりの境地に至ると示されました。

 

親鸞聖人は、私たちの煩悩の多さを、

 

無明煩悩(むみょうぼんのう)しげくして
塵数(じゅんじゅ)のごとく遍満(へんまん)す

(『正像末和讃』『註釈版聖典』六〇一頁)

 

と説いて、塵の数ほど満ちているといわれます。これほど多くの煩悩にとらわれた生活をおくっている私たちがいくら修行を重ねても煩悩を滅することは極めて難しいことです。私たちの周りで、修行を成就したという話は聞きますが、さとりを開いたという話は聞いたことがありません。

 

『正信掲』に「煩悩を断ぜずして涅槃(ねはん)を得る」とありますように、この世界で煩悩を断ちきらなくても、浄土で煩悩を断じて涅槃の仏果を得る道を親鸞聖人はお示しになり、ご自身も実践されました。それは本願の教えのままに信心と念仏によって浄土に往生することです。この信心について聖人は『教行信証』で次のように説かれます。

 

一つには、わが身は今このように罪深い迷いの凡夫であり、はかり知れない昔からいつも迷い続けて、これから後も迷いの世界を離れる手がかりがないと、ゆるぎなく深く信じる。二つには、阿弥陀仏の四十八願は衆生を摂め取ってお救いくださると、疑いなくためらうことなく、阿弥陀仏の願力におまかせして、間違いなく往生すると、ゆるぎなく深く信じる。

(『顕浄土真実教行証文類(現代語版)』 一七二頁)

 

一つは、私は罪深い迷いの凡夫であり、はかりしれない昔から迷いの世界から出る縁がないことを信じるとあります。これを機の深信といいます。二つは、阿弥陀仏の四十八願は衆生を摂め取ってお救いくださるから、本願力によって必ず浄土に往生することを信じるとあります。これを法の深信といいます。この二つを二種深信といいます。これは信心が二種類あるということではなく、一つの信心の両面を示しています。さとりに至る因を全くもだない私か、仏にお任せするという信心を示しています。この信心は自身の迷いのすがたがわかるほどに本願力の大きなはたらきがわかり、本願力のはたらきがわかるほどに、自分自身の罪悪性がわかるという面をもっています。

 

 

愚かさがわかる

 

親鸞聖人はご自身のことを「愚禿親鸞(愚かなざんぎり頭の親鸞)」「貪瞋邪偽(とんじんじゃぎ)おほし(貪欲、瞋恚、いつわりが多い)」「小慈小悲もなき身(慈悲心がまったくない)」といわれるのは、本願力に照らされて見えてきたご自身のすがたです。またご自身の愚かさがわかるほどに本願の尊さがわかり、本願のはたらきを確信されたと思われます。

 

ただ、だからといって、自分の「愚かさ」「貪瞋邪偽が多いこと」などがわかったことが往生の因になるのではありません。往生の因は、本願文にあるように信心です。また誰もが聖人と同じことを感じるのではありません。人それぞれの生活環境によって異なります。欲望の多さに目がいく人もいれば、妬みそねむ心に目がいく人、自分の高慢さに目がいく人もいます。

 

親鸞聖人が阿弥陀仏のはたらきによってご自身のすがたをご覧になったように、私たちも、自分のすがたが知らされます。それは自分の煩悩を知らされたり、煩悩の生活によっておこした罪悪性について知らされることになりますから、あまりいい話ではありません。しかし、正しく自分を見ることは大切なことだと考えています。

 

病気を克服した人は私の周りに沢山います。病気にもよりますが、治癒したからといって元々の健康な生活ができるとは限りません。胃、食道を切除した人は、普通の生活をしていても、自分が切除したことを忘れて他の人と同じ調子で飲食していると、後で大変苦しい思いをします。糖尿病で食事の量を規制している人も同様です。病気を治癒した人が自分の立場を忘れても、すぐに反応がありますが、自分の迷いに気付かないと迷いがさらに迷いを生みますから、問題は病気を克服した人より深刻です。

 

 

煩悩を知らされて

 

阿弥陀仏を信じ念仏していく中で、煩悩を知らされるとどのようになるのでしょうか。

 

もし貪欲がわかると、「欲望の強い自分のすがたが恥ずかしい」「これで満足しなければならない」と思うかも知れません。瞋恚を知らされると、怒る自分を反省して、怒る回数が減るかも知れません。また貪欲、瞋恚から抜け出せない私であると感じるかも知れません。

 

先にあげた「娘の結婚で悩みは解消する」といっていた人でいえば、自分の心が悩みを作っていることがわかると、生きている限り悩みはついてくるものだと理解されるはずです。それは楽しいことではありませんが、一つの救いです。親の体調が気になったとしても、病院へ行ってもらおうと努力するかも知れませんが、親がもっと元気であればこんなに心配することもないのにと愚痴ることはありません。

 

京都女子学園の創設者である甲斐和里子さんの歌に、

 

足ることを知れるひとつは天地の何にもかへぬわがたからなり

(『草かご』百華苑)

 

があります。念仏の生活の中で欲望を見つめられ、「これで十分」と思う気持ちを得たことが宝であるといわれます。煩悩を知らされて、「これで十分」という満ち足りた心を得ることは豊かな人生につながっていきます。

 

私たちは甲斐さんのような心境になれるか、貪欲とわかりながら、貪欲の生活を続けるかはわかりません。しかし、貪欲と知ることと知らないこととでは大きな違いがあります。

 

(村上泰順)

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光明寺前に観光説明版が設置されました。

2015年5月24日の大河ドラマ『花燃ゆ』の終わりに光明寺がご紹介されましたが、皆様ご覧いただいたでしょうか。

見逃した方は今週の土曜日の再放送がございますので是非ご覧ください。

 

さて、2015年3月末に光明寺前の歩道に観光説明版が設置されました。

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奇兵隊の母体となった、光明寺党及び久坂玄瑞の観光説明版です。

 

画像をクリックすると拡大します

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光明寺(この説明版の対面のお寺)

 

京都本願寺の8代目蓮如上人(れんにょしょうにん)の弟子であった釈正善(しゃくしょうぜん)が、大永年間(1521~1528)に豊浦郡西市(現在の下関市豊田町西市)に堂を建てたことに始まるとされています。その後、内日、幡生を経て、享保17年(1732)に当地へ移転しました。

 

幕末、長州藩が関門海峡で攘夷を実行した際(「攘夷戦争」)には、中山忠光・久坂玄瑞が率いる「光明寺党」の本拠となりました。文久3年(1863)5月10日、草が玄瑞ら「光明寺党」は亀山八幡宮下から萩藩軍艦「庚申丸(こうしんまる)」に乗り込み、米船「ペンブローク」に向けて砲撃を開始。まさに、彼らの砲撃が攘夷決行の第一砲となったのです。

 

なお、儒学者・医者など様々な身分の人々で組織された「光明寺党」は、後に高杉晋作が結成する「奇兵隊」の母体となりました。

 

※攘夷とは・・・外的を追い払い、国内に入れないようにすること

設置者:下関市観光施設課

近くにお立ち寄りになりましたら足を少し止めてご覧ください。

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5月22日、23日 宗祖降誕会が行われました

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5月22日、23日 宗祖降誕会が行われました。     ごはん、味噌汁(豆腐・わかめ)、 なす・いもの揚げ物、 あんかけ、木の芽和え、 散らし寿司、 香の物、 昆布の佃煮、デザート   &n … 続きを読む

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2015年5月 わしひとりを めあての 本願の ありがたさ 法語カレンダー解説

hougo201505大和の清九郎

 

今月の言葉は花岡大学師(一九〇九~一九八八)の『妙好人 清九郎』からの言葉です。

 

『観無量寿経』の「念仏するものは(中略)人中の芬陀利華(ふんだりけ)(白蓮華)なり」という言葉をうけて、中国の善導大師は篤信の念仏者を好人、妙好人といっています。

 

江戸時代に石見の学僧、仰誓師(ごうせいし)が『妙好人伝』を編集して、篤信の信者が多く顕彰されました。その後、五種類の『妙好人伝』が刊行されました。大和の清九郎は仰誓師が編集した『妙好人伝』に出てきます。大和国(やまとのくに)吉野郡(よしのごおり)鉾立村(ほこたてむら)(現在の奈良県大淀町)の人で、江戸時代が始まって約八十年経った一六七八(延宝六)年に誕生し、一七五〇(寛延三)年に往生しています。

 

清九郎は父親を早く亡くし、貧しい生活をしていましたが、大変な孝行者でした。清九郎は住み込みで仕事をしていましたが、夕方仕事が終わると、奉公先で食事をする前に、主人の許可を取って実家に帰り、老母の様子を窺い、水を汲み薪を割るなど、日々の生活に困らないようにしてから、奉公先に再び帰って冷めた食事をいただきました。また後年、念仏に帰依してからのことです。母を連れて京都のご本山にお参りしました。母は吉野からご本山まで歩くことはできませんので、清九郎は母を背負ってご本山にお参りしたといいます。

 

清九郎の孝行ぶりは高取藩の領主の知るところとなり、米五俵の褒美をいただくことになりました。清九郎は親に孝行するのは当たり前のことだといい、褒美を断ってしまいました。領主はますます感心して、銭を十貫文と領地のどこでも柴を採ってもいいという許可を出しました。この頃清九郎はすでに奉公を辞めて田を耕し、柴を売って生活していましたので、大変よろこびました。しかし欲が少ないのか、自分のような者が大きな銭を使うのはもったいないとして、一銭残らずご本山に献上しました。

 

清九郎は欲も少なく、純粋ではあるが少し変わった人のようです。しかし、人望もあり多くの人びとから慕われて、その名前は他の国にまで届いていました。仰誓師は清九郎が亡くなる一年ほど前に、吉野に会いにいき、「これほどすばらしい人がいるから吉野には(浄土真宗の)信者が多い」と述べています。またその生活は「御聖教の文のこころに叶うことばかり」であると言います。仰誓師は自分ひとりだけの出会いではもったいないとして、その当時住職をしていた伊賀上野の明覚寺に帰って自分の母親と道俗二十四人を連れて、再び吉野を訪れました。この仰誓師の行動からも清九郎の人柄が窺えます。

 

 

信心を得る~法を聞く~

 

『妙好人伝』によりますと、山で樵(きこり)をしているときも里に帰るときも、いつも二、三羽の鶯がついてきて離れないことが二、三年続き、清九郎は不思議に思っていました。

 

鶯は「法を聞けよ」とさえずるので、蓮如上人が最期の病床で三日間ほど枕元に置いて愛でられたと伝えられています。清九郎はこの話を聞き、その鳥かごを蓮如上人ご創建の本善寺の宝物披露で見せて貰いました。それから、鶯は「法を聞けよ」の催促であると思い、聞き始めたそうです。それはいつのころだったかは『妙好人伝』には書いていませんが、清九郎が女房を亡くした三十三歳頃かと思われます。

 

清九郎が妙好人として有名になってから、高取藩のお殿さまの母君に呼ばれました。そのときにいつ頃に信心を得たのかと問われました。清九郎は次のように答えてました。

 

願うべきは浄土なりと思ひそめしは四十三二の頃かとも覚え候へどもその頃は出離の道に付けても兎や角やと疑ひしに、いつしか疑ひも晴れ、今は近づく往生を楽しみ御報謝の念仏を喜ぶこと、これ全く他力の御催しと有難く存じ候。

(『妙好人伝』 一七頁、昭和三十三年、永田文昌堂)

 

『妙好人伝』の記述から考えますと、清九郎は、三十三歳頃か四十二歳頃に何かきっかけがあり、教えを聞いたのでしょうが、そのまま聞法を重ねていると、いつしか往生についての疑いもなくなり、今は御恩報謝の念仏を喜んでいるとあります。

 

清九郎が信心を得る話を、私は興味深く読みました。法を聞く縁があって、大きなきっかけ一つで、一気に生死の問題が解決することもあるのでしょうが、縁あるままに聞いていき、自分の依り所は念仏しかないと思いながらも、なおどこか納得できるようなできないような気になったりします。それでも聞いていくうちに「念仏しかないと思いながらも」の「思いながらも」が消えて、いつしか念仏を支えにしていくということもあります。聞いていくなかで、自分自身のもつ問題に収まりがつくことを教えている話として、私はありかたく受けとることができました。

 

 

『妙好人清九郎』

 

花岡大学師は仏典童話の作家として有名です。師は清九郎と同じく吉野の出身で、大淀町の浄土真宗本願寺派浄迎寺住職でした。大淀町の高校で教鞭を執りながら、児童文学の活動をされました。その後、京都女子大学で児童学科の教授となられ、児童文学、仏典童話の創作に打ち込まれました。大淀町には師の童話碑が建てられています。

 

花岡大学師が、同郷の妙好人清九郎の生涯を小説化したのが『妙好人 清九郎』です。この作品は、ちょうどお釈迦さまが阿弥陀仏と同じ境地になって『無量寿経』を説かれたように、花岡師が清九郎と同じ境地になって創られた作品のように感じられます。

 

 

親鸞一人がため

 

五月の言葉「わしひとりをめあての本願のありがたさ」は『妙好人伝』にはありません。清九郎ならばこのように言うであろうとして花岡師から出た言葉です。視点を変えますと、花岡師がこの言葉のように本願を感じておられたと理解できます。また『歎異抄』の、

 

弥陀の五劫思惟の願をよくよく案ずれば、ひとへに親鸞一人がためなりけり。

(『註釈版聖典』八五三頁)

 

からつくられたと理解しても、大きな間違いではないと考えています。

 

『無量寿経』には、法蔵菩薩が迷いの衆生を救いたいとして、二百一十億の浄土を見、五劫という極めて長い間、思惟して四十八の願いを建てて、兆載永劫にわたってあらゆる修行をして、阿弥陀仏になられたとあります。その四十八願の根本の願が本願です。いかに立派な浄土でも誰ひとり往生できなければ、意味がありません。私たちの往生浄土を誓われた願がまさに根本の願です。本願は四十八願の第十八番目にありますので、第十八願ともいいます。その内容は十方衆生(あらゆる人びと)を信心一つで浄土に往生させて、仏のさとりを得させたいというものです。

 

本願は十方衆生に願われていますが、聖人は「親鸞」一人がため」といわれます。

 

どのようなことなのでしょうか。

 

例えば学校で、一クラス四十人で授業を受けていますと、私は四十人の中の一人です。その授業がイヤなときは四十人の中の一人だからまじめに聞かなくても、先生に気付かれることはないと高をくくっているときがあります。しかし真剣に聞いていると、他の三十九人のことは気にならず、自分に対する授業になってきます。

 

もし自分かわからなければ、質問をしてわかろうとします。このように見ていきますと、あらゆる人びとを対象としても私一人のこととして本願を受けとめるのは、道を求める人にとっては、特別なことではありません。しかし「よくよく考えてみると私一人のためであった」と言葉に出てくるのは、普通のことではありません。

 

では、どのようなことでしょうか。

 

親鸞聖人は、

 

「凡夫」はすなはちわれらなり

(『一念多念文意』『註釈版聖典』六九二頁)

 

と述べられます。「われら」は『一念多念文意(現代語版)』つ三八頁)では「私ども」となっています。「私ども」は、私とも私たちとも理解できますが、もし私たちとしてもその中心は私である親鸞聖人です。さらに、凡夫とは、自分中心の心のままに生きてきて、思い通りにならないと、順風な人を妬んでみたり、時にはその人の欠点をあげつらったり、また些細なことで腹を立て、言ってはならないことを言ってとりかえしがつかなくなったりするようなもののことである、という趣旨のことをいわれます。また、みすがらを「愚禿(ぐとく)」といって、

 

愚禿が心は、内は愚にして外は賢なり

(『愚禿抄』『註釈版聖典』五一六頁)

 

として、外面は立派な賢者のようにふるまってしまっていることを述べられています。誰かと比較するのではありませんが、親鸞聖人は底下の凡夫としてご自身を見つめられています。そして「このような私にまでも願いがかかっている」ことが「よくよく案ずれば、ひとへに親鸞一人がため」という言葉になっています。このご自身を見る目が普通のことではありません。

 

 

ひとりをめあての本願

 

『妙好人伝』では、仰誓師が清九郎のことを「御聖教の文のこころに叶うことばかり」であると言っています。つまり清九郎の言行や生活が御聖教の心にかなうことばかりという意味です。この点から考えると、清九郎も罪悪深重の凡夫という意識が強くあり、「清九郎ひとりをめあてとした本願」とありかたいとよろこんだことは容易に想像できます。

 

私たちにも本願のはたらきは、南無阿弥陀仏となっていつもはたらき続けています。もしその本願が友人、知人のために建てられ、私も友人同様に罪悪深重であるから、友人が救われたら私も救われるだろうと受け止めたとしますと、その本願は依り所にはなりにくくもあり、それほどありかたくは感じることはできません。

 

もっとも、友人と同様に私も罪悪深重だということは、自分自身をまじめに見つめる人には先ずあり得ないことです。私のような愚悪の凡夫にまではたらきかけて、「あなたが信心一つで往生しなければ、私は仏のさとりを開かない」と誓っていただいたと受けとめられたときに、阿弥陀仏が依り所になり、ありかたくも頼もしくも感じられます。

 

(村上泰順)

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西本願寺・大谷本廟参拝と姫路城・京都の春爛漫十石舟遊覧へ行って参りました。

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2015年4月13日から14日までの二日間、西本願寺・大谷本廟参拝と姫路城・京都の春爛漫十石舟遊覧へ行って参りました。          

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2015年4月 出会わねばならない ただひとりの人がいる それは私自身 法語カレンダー解説

hougo201504自分を知ること

 

私たちは自分のことは自分が一番よく知っているといいますが、意外に知らないこともあり、他からのはたらき、人からの指摘で自分の一面がわかることがあります。

 

ある人は、文章が必ずしも得意ではなかったのですが、講演依頼の手紙を書いたところ、その講師に手紙の文章を褒められました。あまりにも意外なことだったので驚いたとともに、手紙の書き方だけではなく、文章を書くことが苦にならなくなったといっていました。

 

この人は自分が思うほどにひどい文章を書いていたのではなかったのでしょうが、たまたま褒められたのを機に本来の力を発揮したのかもしれません。もちろん逆もあって、正しく自分のことを知らずに失敗を重ねていることもありそうです。

 

その点で自分のことを正しく知ることは大切なことです。

 

自分のことを正しく知って自分に出会うといっても、今月の言葉で廣瀬杲(ひろせたかし)師が説かれるのは趣が異なります。

 

 

私自身に出会った人

 

廣瀬杲師(一九二四~二〇一一)は京都市に誕生されました。一九五三(昭和二十八)年に大谷大学文学部真宗学科を卒業し、大谷大学教授、学長を歴任されました。師が大谷大学研究科を修了するときに大学に提出された論文は、後に『宿業と大悲-三願転入の考察-』(法蔵館)として出版されます。同書の序文に真宗学の泰斗、金子大榮師が「この書において、自分の徹底しえなかったものが明快にせられ、雑想していたものが純化されたよろこびを感ずる」といわれ「種々の点において、啓発された」と記されています。これらのことから師の学問的な力量は窺い知ることができます。『観経四帖疏講義(かんぎょうしじょうしょこうぎ)(全九巻)』(法蔵館)をはじめ、師の著述は多くあります。中でも『歎異抄(たんにしょう)』に関する著述が多く、四月の言葉も『真宗入門「歎異抄」のこころ』(東本願寺出版部)より採っています。

 

廣瀬師は「私自身」との出会いについて、次のように述べられます。

 

眼が眼自身を見ることができないように、人間は人間自身の正体を知ることができません。しかし知る能力を持った人間は、人間自身の正体を知らないままで過ごすことはできません。では何が人間自身の正体を知らせるのかといえば、如来よりたまわった信心の智慧であるとされ、この信心の智慧によって自分自身の正体を知らされることが自分自身との出会いであるとされます。また自分自身と出会って掛け値なしの自分が知らされ、そのことにうなずいて生きることが救いであるといわれます。それは縁に会った事実を受けとめて生きることであるといわれます。

 

私たちは縁によって出会い、縁によって別れていきます。私かこのようになりたい、あのようになりたくないというのとは関係なく、縁によって生きています。廣瀬師は縁によって、商家に養子に行った後輩Aさんの話をします。Aさんは、特には書いていませんが、まじめな念仏者です。

 

養家に入って半年後に養父が不治の病で床につき、その数力月後には看病疲れか養母も病床につきました。Aさんは慣れない土地で、家業のこともよくわからないままにすべてを引き受けさせられることになり途方に暮れてしまいました。しかし、ただ考えても好転することはありません。Aさんは二人の看病をしながら、不慣れな仕事に励んでいきました。その苦労は傍目にも痛々しく感じられるほどだったそうです。

 

そんな毎日が一年あまり続き、養父母は亡くなりました。Aさんを知る人は異口同音に「若いのによくやった」といいました。廣瀬師もある時に「ご苦労だったね」と労をねぎらいました。Aさんは、

 

「苦労といえば苦労でした。しかし、この苦労をいつになったら、ご苦労といただける私になれるのやら」

 

と答えました。廣瀬師は身の引き締まる気持ちになったといいます。

 

 

新しい生き方

 

Aさんは思わぬ縁が重なって苦労の日々を過ごしましたが、その苦労を不運、不条理と受けとめるのではなく、たまわりたる信心の智慧に照らされて、いただいたご縁の苦労と受けとめようとしました。信心の智慧によってご縁といただける新しい生き方が、私自身と出会った生き方であり、救いであるとされます。

 

果たしてこれが救いなのかと納得しにくい話です。多少別の方向から考えてみます。確かに私たちは縁によって人に出会っています。何人かの人と共にはたらき、共に生活しています。その中で「なぜこの人の不服を他の人ではなく、私か聞かなければならないのか」「なぜこの人の世話をしなければならないのか」と思うこともあります。しかし、信心の智慧か、聞法のおかげか、自分の凡夫性がますますわかってくると、凡夫であるから自分の中心の思いが不満につながったのだろうと思われ、不思議に不満がなくなったりします。ご縁の中で不服を聞く出会い、世話をする出会いと受けとめられます。この延長線で考えると、信心の智慧によってご縁といただける新しい生き方が救いであるといえます。

 

この救いは必ずしも楽しい、うれしいということはありませんが、信心の智慧に照らされて本当のことを本当のこととして受けとる生き方です。

 

 

信心の智慧

 

お釈迦さまは、インドのガヤーにある菩提樹の下でさとりを開いて仏陀になられました。ではお釈迦さまは何をさとられたのかといえば、智慧をさとられたのだという話を聞いたことがあります。お釈迦さまの智慧の眼で人生を見て、人びとに説かれたのが「人生は苦である」です。物事を見て「あらゆるものは縁によって起こる」という縁起の理を示されました。このように考えると、仏になるとはさとりの智慧を得ることだといえます。この智慧は必ず慈悲として展開します。

 

阿弥陀仏が私たちに回向された信心は、阿弥陀仏の智慧です。それを親鸞聖人は信心の智慧といわれました。これは信心の一部が智慧という意味ではなく、信心イコール智慧という関係の信心です。『正像末和讃』には、

 

智慧の念仏うることは
法蔵願力のなせるなり
信心の智慧なかりせば
いかでか涅槃をさとらまし

(『註釈版聖典』六○六頁)

 

とあります。私を往生に導く智慧の念仏は、法蔵菩薩の本願力によって与えられたものです。信心も同様です。その信心は、仏の智慧です。智慧であるから涅槃のさとりにいたることを述べています。信心の智慧に照らされるから私自身のすがたがわかり、私の依るべき道がわかります。

 

 

「アカンもの」と南無阿弥陀仏

 

木村無相(むそう)(一九〇四~一九八四)さんは『念仏詩抄』(永田文昌堂)などの念仏詩で有名な方です。二十歳の頃に自分の内面の醜さに驚いて、煩悩を断ち切ってさとりを開きたいと思い立ちました。その後、真言宗と浄土真宗を行き来しながら、数十年にわたる求道生活をして、念仏にたどり着いた人です。

 

『木村無相師法談』(法蔵館)には、

 

信心の智慧によって機が見える。それが機の深信。信心の智慧を賜ってこそわが身がまったくアカンものじゃと照らされてわかる、そして、信心の智慧によりて本願を頼むしかない、ただ念仏よりはかないと感じさせていただく。

(『木村無相師法談』八五頁、法蔵館)

 

とあります。無相さんは信心の智慧によってわが身が「アカンもの(ダメな者)」であることがわかったといわれます。「アカンもの」は、信心の智慧によって念仏しかないことがわかったといわれます。多くの作品には、次の詩「それさえ」のように「アカンもの」と南無阿弥陀仏がでてきます。これは信心の智慧によって見出されたものですから、一つの信心の両面を示してます。

 

「アカンもの」とは具体的には次のようにあります。

 

それさえ

-花田先生の「人間の原点」を拝聴して

愚かな愚かな
わたしです
それさえしらぬ
わたしです
無慚・無愧の
わたしです
それさえしらぬ
わたしです

ナモアミダブツ
ナモアミダブツ

(『念仏詩抄』五八頁、永田文昌堂)

 

愚者ということも知らないほどの愚者であり、人に恥じ、天に恥じることがない無慚、無愧ということも知らないほどの恥知らずであると記されます。無相さんの自分を見る眼は鋭く、「極重悪人」「誇法の身」「愚悪の衆生」「邪見、無信の者」といわれます。このような「アカンもの」が南無阿弥陀仏によって救われることが「それさえ」から窺えます。

 

無相さんは自分の心が醜くて仏教に救いを求めたのでしたが、三十三年間求めて得たものは、心の醜いままに救われる教えでした。無相さんは「アカンもの」は善くなったりはしない、ご信心をいただいても「アカンもの」のままで何も変わるものはないとして、そのままに救う南無阿弥陀仏を頼りとして喜んでおられました。

 

無相さんは極重悪人、誇法の身などの自分かわかって凡愚としての新しい人生が始まったというより、念仏に救われたところに新しい人生が始まっているようです。

 

信心の智慧によって知らされる私自身とは、廣瀬師のような新しい生き方をする私なのか、また木村無相さんのように凡夫性を徹底して自覚しながらも法のはたらきを頼む私なのか。人それぞれのような気がしますが、教えを聞く生活の中で知らされると窺えます。

 

(村上泰順)

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2015年3月 死んで往ける道はそのまま生きてゆく道です 法語カレンダー解説

201503自然科学に進み

 

東昇(ひがしのぼる)先生(一九一二~一九八七)は、日本のウイルス研究の第一人者であり、京都大学ウイルス研究所所長をされていました。また日本の電子顕微鏡第一号を完成されるなど、多くの業績をあげられた名高い自然科学の碩学(せきがく)ですが、「ただ念仏」の生活を送られていた篤信の先生でもありました。

 

鹿児島県に生まれ、篤い浄土真宗信徒であるご両親のもと、とりわけ母上のあたたかくも厳しい求道と聴聞のこころを受けられたのでした。科学の道に進むときも、母上から「東京でなく、親鸞聖人のみ教えが生きている京都で学ぶようにしなさい」とさとされて、京都で学生生活に入られたとお聞きしています。

 

 

死に対面して

 

東先生は、科学と宗教について仏教の視点から論じられる貴重な先生ですが、六十歳代に入られて間もないころに心臓に関わる大病を患われ、生・死のさかいをさまようほどの体験をされました。その時のことを、「老い”の宣告」を受け「死に対面した」と言われています。そのような中で語られたおことばが、今月の法語です。

 

死んで往ける道は そのまま 生きてゆく道です

 

日ごろ私たちは、とりあえず元気でいるときは「老い」とか、「死」とかを遠い未来のこととしてあまり問題にしないで日常を楽しんで生活しているというのが、一般的な姿でしょう。風邪などでちょっと熱が出たり咳き込んだりすると、「死ぬんじゃないか」などと思うこともありますが、熱が引き咳が止まると風邪を引いたことなど忘れてしまいます。束先生は、大病を患って初めて、“死”に対面して、“私”の生きてきた生の総和は何であったか、“私”の生の総決算は、いったい何か、ということを“私”に問う。ということとなったといわれます。

 

 

癌告知を受けて

 

活躍中の俳優などが癌の告知を受けて、

 

がむしゃらに仕事に打ち込んできたが、仕事とは私にとって何だったか。今まで何をしてきたのだろうか、生きるということは何なんだろう、私のいのちとは何か。

 

というように、初めて自分の存在、自分の命を真剣に深く見つめることとなった、などと内的葛藤を語られる記事が、新聞やテレビで報道されることがしばしばあります。そのような記事によって、あるいは身近な者の大病や離別に出会って初めて、私たちは自身の生きるべき姿を見つめさせられるのです。

 

これは、釈尊が出家して悟り(正覚)を求められるに至った根本問題が「生・老・病・死」という、生きとし生けるものの根本問題であったということと重なってきます。釈尊は、この迷いの世界の「無常」なる姿をそのとおりに見つめられ、苦悩の世界を超克する道を究められました。自己中心的な我執、我愛に支配された私たちは、釈尊の歩まれた道をそのとおりには歩むことができないのですが、人生の姿をしっかり見つめることは大事なことといえるでしょう。

 

 

「人生」への問い

 

『拝読浄土真宗のみ教え』(本願寺出版社)に挙げられる「親鸞聖人のことば」の第一章で次のように語られます。

 

人生そのものの問い

 

日々の暮らしのなかで、人間関係に疲れた時、自分や家族が大きな病気になった時、身近な方が亡くなった時、「人生そのものの問い」が起こる。「いったい何のために生きているのか」「死んだらどうなるのか」。

 

この問いには、人間の知識は答えを示せず、積み上げてきた経験も役には立たない。
(『拝読浄土真宗のみ教え』六頁、本願寺出版社)

 

このように、「生・死」の問題、人生の根本問題にぶつかった時の姿が述べられています。同じように、東昇先生は大病を患ってこの人生の根本問題にまともにぶつかることとなられたのでした。そして、次のように言われます。

 

私は自然科学者でありますが、科学者である前に、ひとりの人間であります。自然科学をとおしていろいろのことが教えられましたけれども、私自身の厳粛な死との絶対的対面となったとき、人間の力で得たものは、みんな消えていく、何ひとつ力になりません。価値ありとされたものは無価値、無力化します。力となるものは絶対他力、与えられた「ただ念仏」だけです。

 

『拝読浄土真宗のみ教え』の続きに、

 

目の前に人生の深い闇が口を開け、不安のなかでたじろぐ時、阿弥陀如来の願いが聞こえてくる。

 

親鸞聖人は仰せになる

 

弥陀の誓願は無明長夜のおほきなるともしびなり
「必ずあなたを救いとる」という如来の本願は、煩悩の闇に惑う人生の大いなる灯火となる。この灯火をたよりとする時、「何のために生きているのか」「死んだらどうなるのか」、この問いに確かな答えが与えられる。

(『拝読浄土真宗のみ教え』七頁、本願寺出版社)

 

とあります。人間は「死にゆく存在」であります。また仏教では「生者必滅」といわれます。この「私」が必ず滅していく、かならず死んで行く、そういう存在であることをしっかりと見つめる、阿弥陀如来の智慧と慈悲をいただいて見つめさせていただく、そこに本当の生き方の道が開かれるといえるでしょう。

 

東昇先生は、そのような意味合いを込めて、「死んで往ける道は そのまま 生きてゆく道です」といわれているとうかがうことができるでしょう。

 

 

『歎異抄』に導かれ

 

先生は「『歎異抄』を、これまで幾度となく拝誦させていただいたが、病床にあってとりわけ『歎異抄』第九章が迫力をもって私を捉えました」と言われます。

 

第九章のおことばから、

 

久遠劫(くおんごう)よりいままで流転せる苦悩の旧里はすてがたく、いまだ生れざる安養浄土はこひしからず候ふこと、まことによくよく煩悩の興盛に候ふにこそ。なごりをしくおもへども、娑婆の縁尽きて、ちからなくしてをはるときに、かの土へはまゐるべきなり。いそぎまゐりたきこころなきものを、ことにあはれみたまふなり。これにつけてこそ、いよいよ大悲大願はたのもしく、往生は決定と存じ候へ。

(『註釈版聖典』八三七頁)

 

果てしなく遠い昔からこれまで生れ変り死に変りし続けてきた、苦悩に満ちたこの迷いの世界は捨てがたく、まだ生れたことのない安らかなさとりの世界に心ひかれないのは、まことに煩悩が盛んだからなのです。どれほど名残惜しいと思っても、この世の縁が尽き、どうすることもできないで命を終えるとき、浄土に往生させていただくのです。はやく往生したいという心のないわかしどものようなものを、阿弥陀仏はことのほかあわれに思ってくださるのです。
このようなわけであるからこそ、大いなる慈悲の心でおこされた本願はますますたのもしく、往生は間違いないと思います。

(『歎異抄(現代語版)』 一五~一六頁)

 

そして、このおことばの前に、

 

仏かねてしろしめして、煩悩具足の凡夫と仰せられたることなれば、他力の悲願はかくのごとし、われらがためなりけりとしられて、いよいよだのもしくおぼゆるなり。

(『註釈版聖典』八三六~八三七頁)

 

阿弥陀仏ははじめから知っておられて、あらゆる煩悩を身にそなえた凡夫であると仰せになっているのですから、本願はこのようなわたしどものために、大いなる慈悲の心をおこされたのだなあと気づかされ、ますますたのもしく思われるのです。

(『歎異抄(現代語版)』 一五頁)

 

とあるご文をいただかれて、「聖人のあたたかいお心、ともに泣いてくださっているおこころがそのまま”私”に伝わってまいります」と言われます。ここに、「死ぬ」ということがあっても怖れない、がっかりしない。「私」はここに生かされているという道が見いだされています。生きてよし、死してよし、「生きるも死ぬるも南無阿弥陀仏」の世界です。

 

「死に向かって行く」身であることをしっかりと見つめ、大慈悲の光明に照らされてこそ、本当に生きてゆく道が開かれる、まさに「死んで往ける道は そのまま生きてゆく道」なのです。

(佐々木恵精)

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春季彼岸会法要のご案内

春のお彼岸の二日間、仏法に遇ってみては如何ですか

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