このギャラリーには3枚の写真が含まれています。
5月22日、23日 宗祖降誕会が行われました。 ごはん、味噌汁(豆腐・わかめ)、 なす・いもの揚げ物、 あんかけ、木の芽和え、 散らし寿司、 香の物、 昆布の佃煮、デザート &n … 続きを読む
このギャラリーには3枚の写真が含まれています。
5月22日、23日 宗祖降誕会が行われました。 ごはん、味噌汁(豆腐・わかめ)、 なす・いもの揚げ物、 あんかけ、木の芽和え、 散らし寿司、 香の物、 昆布の佃煮、デザート &n … 続きを読む
大和の清九郎
今月の言葉は花岡大学師(一九〇九~一九八八)の『妙好人 清九郎』からの言葉です。
『観無量寿経』の「念仏するものは(中略)人中の芬陀利華(ふんだりけ)(白蓮華)なり」という言葉をうけて、中国の善導大師は篤信の念仏者を好人、妙好人といっています。
江戸時代に石見の学僧、仰誓師(ごうせいし)が『妙好人伝』を編集して、篤信の信者が多く顕彰されました。その後、五種類の『妙好人伝』が刊行されました。大和の清九郎は仰誓師が編集した『妙好人伝』に出てきます。大和国(やまとのくに)吉野郡(よしのごおり)鉾立村(ほこたてむら)(現在の奈良県大淀町)の人で、江戸時代が始まって約八十年経った一六七八(延宝六)年に誕生し、一七五〇(寛延三)年に往生しています。
清九郎は父親を早く亡くし、貧しい生活をしていましたが、大変な孝行者でした。清九郎は住み込みで仕事をしていましたが、夕方仕事が終わると、奉公先で食事をする前に、主人の許可を取って実家に帰り、老母の様子を窺い、水を汲み薪を割るなど、日々の生活に困らないようにしてから、奉公先に再び帰って冷めた食事をいただきました。また後年、念仏に帰依してからのことです。母を連れて京都のご本山にお参りしました。母は吉野からご本山まで歩くことはできませんので、清九郎は母を背負ってご本山にお参りしたといいます。
清九郎の孝行ぶりは高取藩の領主の知るところとなり、米五俵の褒美をいただくことになりました。清九郎は親に孝行するのは当たり前のことだといい、褒美を断ってしまいました。領主はますます感心して、銭を十貫文と領地のどこでも柴を採ってもいいという許可を出しました。この頃清九郎はすでに奉公を辞めて田を耕し、柴を売って生活していましたので、大変よろこびました。しかし欲が少ないのか、自分のような者が大きな銭を使うのはもったいないとして、一銭残らずご本山に献上しました。
清九郎は欲も少なく、純粋ではあるが少し変わった人のようです。しかし、人望もあり多くの人びとから慕われて、その名前は他の国にまで届いていました。仰誓師は清九郎が亡くなる一年ほど前に、吉野に会いにいき、「これほどすばらしい人がいるから吉野には(浄土真宗の)信者が多い」と述べています。またその生活は「御聖教の文のこころに叶うことばかり」であると言います。仰誓師は自分ひとりだけの出会いではもったいないとして、その当時住職をしていた伊賀上野の明覚寺に帰って自分の母親と道俗二十四人を連れて、再び吉野を訪れました。この仰誓師の行動からも清九郎の人柄が窺えます。
信心を得る~法を聞く~
『妙好人伝』によりますと、山で樵(きこり)をしているときも里に帰るときも、いつも二、三羽の鶯がついてきて離れないことが二、三年続き、清九郎は不思議に思っていました。
鶯は「法を聞けよ」とさえずるので、蓮如上人が最期の病床で三日間ほど枕元に置いて愛でられたと伝えられています。清九郎はこの話を聞き、その鳥かごを蓮如上人ご創建の本善寺の宝物披露で見せて貰いました。それから、鶯は「法を聞けよ」の催促であると思い、聞き始めたそうです。それはいつのころだったかは『妙好人伝』には書いていませんが、清九郎が女房を亡くした三十三歳頃かと思われます。
清九郎が妙好人として有名になってから、高取藩のお殿さまの母君に呼ばれました。そのときにいつ頃に信心を得たのかと問われました。清九郎は次のように答えてました。
願うべきは浄土なりと思ひそめしは四十三二の頃かとも覚え候へどもその頃は出離の道に付けても兎や角やと疑ひしに、いつしか疑ひも晴れ、今は近づく往生を楽しみ御報謝の念仏を喜ぶこと、これ全く他力の御催しと有難く存じ候。
(『妙好人伝』 一七頁、昭和三十三年、永田文昌堂)
『妙好人伝』の記述から考えますと、清九郎は、三十三歳頃か四十二歳頃に何かきっかけがあり、教えを聞いたのでしょうが、そのまま聞法を重ねていると、いつしか往生についての疑いもなくなり、今は御恩報謝の念仏を喜んでいるとあります。
清九郎が信心を得る話を、私は興味深く読みました。法を聞く縁があって、大きなきっかけ一つで、一気に生死の問題が解決することもあるのでしょうが、縁あるままに聞いていき、自分の依り所は念仏しかないと思いながらも、なおどこか納得できるようなできないような気になったりします。それでも聞いていくうちに「念仏しかないと思いながらも」の「思いながらも」が消えて、いつしか念仏を支えにしていくということもあります。聞いていくなかで、自分自身のもつ問題に収まりがつくことを教えている話として、私はありかたく受けとることができました。
『妙好人清九郎』
花岡大学師は仏典童話の作家として有名です。師は清九郎と同じく吉野の出身で、大淀町の浄土真宗本願寺派浄迎寺住職でした。大淀町の高校で教鞭を執りながら、児童文学の活動をされました。その後、京都女子大学で児童学科の教授となられ、児童文学、仏典童話の創作に打ち込まれました。大淀町には師の童話碑が建てられています。
花岡大学師が、同郷の妙好人清九郎の生涯を小説化したのが『妙好人 清九郎』です。この作品は、ちょうどお釈迦さまが阿弥陀仏と同じ境地になって『無量寿経』を説かれたように、花岡師が清九郎と同じ境地になって創られた作品のように感じられます。
親鸞一人がため
五月の言葉「わしひとりをめあての本願のありがたさ」は『妙好人伝』にはありません。清九郎ならばこのように言うであろうとして花岡師から出た言葉です。視点を変えますと、花岡師がこの言葉のように本願を感じておられたと理解できます。また『歎異抄』の、
弥陀の五劫思惟の願をよくよく案ずれば、ひとへに親鸞一人がためなりけり。
(『註釈版聖典』八五三頁)
からつくられたと理解しても、大きな間違いではないと考えています。
『無量寿経』には、法蔵菩薩が迷いの衆生を救いたいとして、二百一十億の浄土を見、五劫という極めて長い間、思惟して四十八の願いを建てて、兆載永劫にわたってあらゆる修行をして、阿弥陀仏になられたとあります。その四十八願の根本の願が本願です。いかに立派な浄土でも誰ひとり往生できなければ、意味がありません。私たちの往生浄土を誓われた願がまさに根本の願です。本願は四十八願の第十八番目にありますので、第十八願ともいいます。その内容は十方衆生(あらゆる人びと)を信心一つで浄土に往生させて、仏のさとりを得させたいというものです。
本願は十方衆生に願われていますが、聖人は「親鸞」一人がため」といわれます。
どのようなことなのでしょうか。
例えば学校で、一クラス四十人で授業を受けていますと、私は四十人の中の一人です。その授業がイヤなときは四十人の中の一人だからまじめに聞かなくても、先生に気付かれることはないと高をくくっているときがあります。しかし真剣に聞いていると、他の三十九人のことは気にならず、自分に対する授業になってきます。
もし自分かわからなければ、質問をしてわかろうとします。このように見ていきますと、あらゆる人びとを対象としても私一人のこととして本願を受けとめるのは、道を求める人にとっては、特別なことではありません。しかし「よくよく考えてみると私一人のためであった」と言葉に出てくるのは、普通のことではありません。
では、どのようなことでしょうか。
親鸞聖人は、
「凡夫」はすなはちわれらなり
(『一念多念文意』『註釈版聖典』六九二頁)
と述べられます。「われら」は『一念多念文意(現代語版)』つ三八頁)では「私ども」となっています。「私ども」は、私とも私たちとも理解できますが、もし私たちとしてもその中心は私である親鸞聖人です。さらに、凡夫とは、自分中心の心のままに生きてきて、思い通りにならないと、順風な人を妬んでみたり、時にはその人の欠点をあげつらったり、また些細なことで腹を立て、言ってはならないことを言ってとりかえしがつかなくなったりするようなもののことである、という趣旨のことをいわれます。また、みすがらを「愚禿(ぐとく)」といって、
愚禿が心は、内は愚にして外は賢なり
(『愚禿抄』『註釈版聖典』五一六頁)
として、外面は立派な賢者のようにふるまってしまっていることを述べられています。誰かと比較するのではありませんが、親鸞聖人は底下の凡夫としてご自身を見つめられています。そして「このような私にまでも願いがかかっている」ことが「よくよく案ずれば、ひとへに親鸞一人がため」という言葉になっています。このご自身を見る目が普通のことではありません。
ひとりをめあての本願
『妙好人伝』では、仰誓師が清九郎のことを「御聖教の文のこころに叶うことばかり」であると言っています。つまり清九郎の言行や生活が御聖教の心にかなうことばかりという意味です。この点から考えると、清九郎も罪悪深重の凡夫という意識が強くあり、「清九郎ひとりをめあてとした本願」とありかたいとよろこんだことは容易に想像できます。
私たちにも本願のはたらきは、南無阿弥陀仏となっていつもはたらき続けています。もしその本願が友人、知人のために建てられ、私も友人同様に罪悪深重であるから、友人が救われたら私も救われるだろうと受け止めたとしますと、その本願は依り所にはなりにくくもあり、それほどありかたくは感じることはできません。
もっとも、友人と同様に私も罪悪深重だということは、自分自身をまじめに見つめる人には先ずあり得ないことです。私のような愚悪の凡夫にまではたらきかけて、「あなたが信心一つで往生しなければ、私は仏のさとりを開かない」と誓っていただいたと受けとめられたときに、阿弥陀仏が依り所になり、ありかたくも頼もしくも感じられます。
(村上泰順)
私たちは自分のことは自分が一番よく知っているといいますが、意外に知らないこともあり、他からのはたらき、人からの指摘で自分の一面がわかることがあります。
ある人は、文章が必ずしも得意ではなかったのですが、講演依頼の手紙を書いたところ、その講師に手紙の文章を褒められました。あまりにも意外なことだったので驚いたとともに、手紙の書き方だけではなく、文章を書くことが苦にならなくなったといっていました。
この人は自分が思うほどにひどい文章を書いていたのではなかったのでしょうが、たまたま褒められたのを機に本来の力を発揮したのかもしれません。もちろん逆もあって、正しく自分のことを知らずに失敗を重ねていることもありそうです。
その点で自分のことを正しく知ることは大切なことです。
自分のことを正しく知って自分に出会うといっても、今月の言葉で廣瀬杲(ひろせたかし)師が説かれるのは趣が異なります。
私自身に出会った人
廣瀬杲師(一九二四~二〇一一)は京都市に誕生されました。一九五三(昭和二十八)年に大谷大学文学部真宗学科を卒業し、大谷大学教授、学長を歴任されました。師が大谷大学研究科を修了するときに大学に提出された論文は、後に『宿業と大悲-三願転入の考察-』(法蔵館)として出版されます。同書の序文に真宗学の泰斗、金子大榮師が「この書において、自分の徹底しえなかったものが明快にせられ、雑想していたものが純化されたよろこびを感ずる」といわれ「種々の点において、啓発された」と記されています。これらのことから師の学問的な力量は窺い知ることができます。『観経四帖疏講義(かんぎょうしじょうしょこうぎ)(全九巻)』(法蔵館)をはじめ、師の著述は多くあります。中でも『歎異抄(たんにしょう)』に関する著述が多く、四月の言葉も『真宗入門「歎異抄」のこころ』(東本願寺出版部)より採っています。
廣瀬師は「私自身」との出会いについて、次のように述べられます。
眼が眼自身を見ることができないように、人間は人間自身の正体を知ることができません。しかし知る能力を持った人間は、人間自身の正体を知らないままで過ごすことはできません。では何が人間自身の正体を知らせるのかといえば、如来よりたまわった信心の智慧であるとされ、この信心の智慧によって自分自身の正体を知らされることが自分自身との出会いであるとされます。また自分自身と出会って掛け値なしの自分が知らされ、そのことにうなずいて生きることが救いであるといわれます。それは縁に会った事実を受けとめて生きることであるといわれます。
私たちは縁によって出会い、縁によって別れていきます。私かこのようになりたい、あのようになりたくないというのとは関係なく、縁によって生きています。廣瀬師は縁によって、商家に養子に行った後輩Aさんの話をします。Aさんは、特には書いていませんが、まじめな念仏者です。
養家に入って半年後に養父が不治の病で床につき、その数力月後には看病疲れか養母も病床につきました。Aさんは慣れない土地で、家業のこともよくわからないままにすべてを引き受けさせられることになり途方に暮れてしまいました。しかし、ただ考えても好転することはありません。Aさんは二人の看病をしながら、不慣れな仕事に励んでいきました。その苦労は傍目にも痛々しく感じられるほどだったそうです。
そんな毎日が一年あまり続き、養父母は亡くなりました。Aさんを知る人は異口同音に「若いのによくやった」といいました。廣瀬師もある時に「ご苦労だったね」と労をねぎらいました。Aさんは、
「苦労といえば苦労でした。しかし、この苦労をいつになったら、ご苦労といただける私になれるのやら」
と答えました。廣瀬師は身の引き締まる気持ちになったといいます。
新しい生き方
Aさんは思わぬ縁が重なって苦労の日々を過ごしましたが、その苦労を不運、不条理と受けとめるのではなく、たまわりたる信心の智慧に照らされて、いただいたご縁の苦労と受けとめようとしました。信心の智慧によってご縁といただける新しい生き方が、私自身と出会った生き方であり、救いであるとされます。
果たしてこれが救いなのかと納得しにくい話です。多少別の方向から考えてみます。確かに私たちは縁によって人に出会っています。何人かの人と共にはたらき、共に生活しています。その中で「なぜこの人の不服を他の人ではなく、私か聞かなければならないのか」「なぜこの人の世話をしなければならないのか」と思うこともあります。しかし、信心の智慧か、聞法のおかげか、自分の凡夫性がますますわかってくると、凡夫であるから自分の中心の思いが不満につながったのだろうと思われ、不思議に不満がなくなったりします。ご縁の中で不服を聞く出会い、世話をする出会いと受けとめられます。この延長線で考えると、信心の智慧によってご縁といただける新しい生き方が救いであるといえます。
この救いは必ずしも楽しい、うれしいということはありませんが、信心の智慧に照らされて本当のことを本当のこととして受けとる生き方です。
信心の智慧
お釈迦さまは、インドのガヤーにある菩提樹の下でさとりを開いて仏陀になられました。ではお釈迦さまは何をさとられたのかといえば、智慧をさとられたのだという話を聞いたことがあります。お釈迦さまの智慧の眼で人生を見て、人びとに説かれたのが「人生は苦である」です。物事を見て「あらゆるものは縁によって起こる」という縁起の理を示されました。このように考えると、仏になるとはさとりの智慧を得ることだといえます。この智慧は必ず慈悲として展開します。
阿弥陀仏が私たちに回向された信心は、阿弥陀仏の智慧です。それを親鸞聖人は信心の智慧といわれました。これは信心の一部が智慧という意味ではなく、信心イコール智慧という関係の信心です。『正像末和讃』には、
智慧の念仏うることは
法蔵願力のなせるなり
信心の智慧なかりせば
いかでか涅槃をさとらまし(『註釈版聖典』六○六頁)
とあります。私を往生に導く智慧の念仏は、法蔵菩薩の本願力によって与えられたものです。信心も同様です。その信心は、仏の智慧です。智慧であるから涅槃のさとりにいたることを述べています。信心の智慧に照らされるから私自身のすがたがわかり、私の依るべき道がわかります。
「アカンもの」と南無阿弥陀仏
木村無相(むそう)(一九〇四~一九八四)さんは『念仏詩抄』(永田文昌堂)などの念仏詩で有名な方です。二十歳の頃に自分の内面の醜さに驚いて、煩悩を断ち切ってさとりを開きたいと思い立ちました。その後、真言宗と浄土真宗を行き来しながら、数十年にわたる求道生活をして、念仏にたどり着いた人です。
『木村無相師法談』(法蔵館)には、
信心の智慧によって機が見える。それが機の深信。信心の智慧を賜ってこそわが身がまったくアカンものじゃと照らされてわかる、そして、信心の智慧によりて本願を頼むしかない、ただ念仏よりはかないと感じさせていただく。
(『木村無相師法談』八五頁、法蔵館)
とあります。無相さんは信心の智慧によってわが身が「アカンもの(ダメな者)」であることがわかったといわれます。「アカンもの」は、信心の智慧によって念仏しかないことがわかったといわれます。多くの作品には、次の詩「それさえ」のように「アカンもの」と南無阿弥陀仏がでてきます。これは信心の智慧によって見出されたものですから、一つの信心の両面を示してます。
「アカンもの」とは具体的には次のようにあります。
それさえ
-花田先生の「人間の原点」を拝聴して
愚かな愚かな
わたしです
それさえしらぬ
わたしです
無慚・無愧の
わたしです
それさえしらぬ
わたしですナモアミダブツ
ナモアミダブツ(『念仏詩抄』五八頁、永田文昌堂)
愚者ということも知らないほどの愚者であり、人に恥じ、天に恥じることがない無慚、無愧ということも知らないほどの恥知らずであると記されます。無相さんの自分を見る眼は鋭く、「極重悪人」「誇法の身」「愚悪の衆生」「邪見、無信の者」といわれます。このような「アカンもの」が南無阿弥陀仏によって救われることが「それさえ」から窺えます。
無相さんは自分の心が醜くて仏教に救いを求めたのでしたが、三十三年間求めて得たものは、心の醜いままに救われる教えでした。無相さんは「アカンもの」は善くなったりはしない、ご信心をいただいても「アカンもの」のままで何も変わるものはないとして、そのままに救う南無阿弥陀仏を頼りとして喜んでおられました。
無相さんは極重悪人、誇法の身などの自分かわかって凡愚としての新しい人生が始まったというより、念仏に救われたところに新しい人生が始まっているようです。
信心の智慧によって知らされる私自身とは、廣瀬師のような新しい生き方をする私なのか、また木村無相さんのように凡夫性を徹底して自覚しながらも法のはたらきを頼む私なのか。人それぞれのような気がしますが、教えを聞く生活の中で知らされると窺えます。
(村上泰順)
東昇(ひがしのぼる)先生(一九一二~一九八七)は、日本のウイルス研究の第一人者であり、京都大学ウイルス研究所所長をされていました。また日本の電子顕微鏡第一号を完成されるなど、多くの業績をあげられた名高い自然科学の碩学(せきがく)ですが、「ただ念仏」の生活を送られていた篤信の先生でもありました。
鹿児島県に生まれ、篤い浄土真宗信徒であるご両親のもと、とりわけ母上のあたたかくも厳しい求道と聴聞のこころを受けられたのでした。科学の道に進むときも、母上から「東京でなく、親鸞聖人のみ教えが生きている京都で学ぶようにしなさい」とさとされて、京都で学生生活に入られたとお聞きしています。
死に対面して
東先生は、科学と宗教について仏教の視点から論じられる貴重な先生ですが、六十歳代に入られて間もないころに心臓に関わる大病を患われ、生・死のさかいをさまようほどの体験をされました。その時のことを、「老い”の宣告」を受け「死に対面した」と言われています。そのような中で語られたおことばが、今月の法語です。
死んで往ける道は そのまま 生きてゆく道です
日ごろ私たちは、とりあえず元気でいるときは「老い」とか、「死」とかを遠い未来のこととしてあまり問題にしないで日常を楽しんで生活しているというのが、一般的な姿でしょう。風邪などでちょっと熱が出たり咳き込んだりすると、「死ぬんじゃないか」などと思うこともありますが、熱が引き咳が止まると風邪を引いたことなど忘れてしまいます。束先生は、大病を患って初めて、“死”に対面して、“私”の生きてきた生の総和は何であったか、“私”の生の総決算は、いったい何か、ということを“私”に問う。ということとなったといわれます。
癌告知を受けて
活躍中の俳優などが癌の告知を受けて、
がむしゃらに仕事に打ち込んできたが、仕事とは私にとって何だったか。今まで何をしてきたのだろうか、生きるということは何なんだろう、私のいのちとは何か。
というように、初めて自分の存在、自分の命を真剣に深く見つめることとなった、などと内的葛藤を語られる記事が、新聞やテレビで報道されることがしばしばあります。そのような記事によって、あるいは身近な者の大病や離別に出会って初めて、私たちは自身の生きるべき姿を見つめさせられるのです。
これは、釈尊が出家して悟り(正覚)を求められるに至った根本問題が「生・老・病・死」という、生きとし生けるものの根本問題であったということと重なってきます。釈尊は、この迷いの世界の「無常」なる姿をそのとおりに見つめられ、苦悩の世界を超克する道を究められました。自己中心的な我執、我愛に支配された私たちは、釈尊の歩まれた道をそのとおりには歩むことができないのですが、人生の姿をしっかり見つめることは大事なことといえるでしょう。
「人生」への問い
『拝読浄土真宗のみ教え』(本願寺出版社)に挙げられる「親鸞聖人のことば」の第一章で次のように語られます。
人生そのものの問い
日々の暮らしのなかで、人間関係に疲れた時、自分や家族が大きな病気になった時、身近な方が亡くなった時、「人生そのものの問い」が起こる。「いったい何のために生きているのか」「死んだらどうなるのか」。
この問いには、人間の知識は答えを示せず、積み上げてきた経験も役には立たない。
(『拝読浄土真宗のみ教え』六頁、本願寺出版社)
このように、「生・死」の問題、人生の根本問題にぶつかった時の姿が述べられています。同じように、東昇先生は大病を患ってこの人生の根本問題にまともにぶつかることとなられたのでした。そして、次のように言われます。
私は自然科学者でありますが、科学者である前に、ひとりの人間であります。自然科学をとおしていろいろのことが教えられましたけれども、私自身の厳粛な死との絶対的対面となったとき、人間の力で得たものは、みんな消えていく、何ひとつ力になりません。価値ありとされたものは無価値、無力化します。力となるものは絶対他力、与えられた「ただ念仏」だけです。
『拝読浄土真宗のみ教え』の続きに、
目の前に人生の深い闇が口を開け、不安のなかでたじろぐ時、阿弥陀如来の願いが聞こえてくる。
親鸞聖人は仰せになる
弥陀の誓願は無明長夜のおほきなるともしびなり
「必ずあなたを救いとる」という如来の本願は、煩悩の闇に惑う人生の大いなる灯火となる。この灯火をたよりとする時、「何のために生きているのか」「死んだらどうなるのか」、この問いに確かな答えが与えられる。(『拝読浄土真宗のみ教え』七頁、本願寺出版社)
とあります。人間は「死にゆく存在」であります。また仏教では「生者必滅」といわれます。この「私」が必ず滅していく、かならず死んで行く、そういう存在であることをしっかりと見つめる、阿弥陀如来の智慧と慈悲をいただいて見つめさせていただく、そこに本当の生き方の道が開かれるといえるでしょう。
東昇先生は、そのような意味合いを込めて、「死んで往ける道は そのまま 生きてゆく道です」といわれているとうかがうことができるでしょう。
『歎異抄』に導かれ
先生は「『歎異抄』を、これまで幾度となく拝誦させていただいたが、病床にあってとりわけ『歎異抄』第九章が迫力をもって私を捉えました」と言われます。
第九章のおことばから、
久遠劫(くおんごう)よりいままで流転せる苦悩の旧里はすてがたく、いまだ生れざる安養浄土はこひしからず候ふこと、まことによくよく煩悩の興盛に候ふにこそ。なごりをしくおもへども、娑婆の縁尽きて、ちからなくしてをはるときに、かの土へはまゐるべきなり。いそぎまゐりたきこころなきものを、ことにあはれみたまふなり。これにつけてこそ、いよいよ大悲大願はたのもしく、往生は決定と存じ候へ。
(『註釈版聖典』八三七頁)
果てしなく遠い昔からこれまで生れ変り死に変りし続けてきた、苦悩に満ちたこの迷いの世界は捨てがたく、まだ生れたことのない安らかなさとりの世界に心ひかれないのは、まことに煩悩が盛んだからなのです。どれほど名残惜しいと思っても、この世の縁が尽き、どうすることもできないで命を終えるとき、浄土に往生させていただくのです。はやく往生したいという心のないわかしどものようなものを、阿弥陀仏はことのほかあわれに思ってくださるのです。
このようなわけであるからこそ、大いなる慈悲の心でおこされた本願はますますたのもしく、往生は間違いないと思います。(『歎異抄(現代語版)』 一五~一六頁)
そして、このおことばの前に、
仏かねてしろしめして、煩悩具足の凡夫と仰せられたることなれば、他力の悲願はかくのごとし、われらがためなりけりとしられて、いよいよだのもしくおぼゆるなり。
(『註釈版聖典』八三六~八三七頁)
阿弥陀仏ははじめから知っておられて、あらゆる煩悩を身にそなえた凡夫であると仰せになっているのですから、本願はこのようなわたしどものために、大いなる慈悲の心をおこされたのだなあと気づかされ、ますますたのもしく思われるのです。
(『歎異抄(現代語版)』 一五頁)
とあるご文をいただかれて、「聖人のあたたかいお心、ともに泣いてくださっているおこころがそのまま”私”に伝わってまいります」と言われます。ここに、「死ぬ」ということがあっても怖れない、がっかりしない。「私」はここに生かされているという道が見いだされています。生きてよし、死してよし、「生きるも死ぬるも南無阿弥陀仏」の世界です。
「死に向かって行く」身であることをしっかりと見つめ、大慈悲の光明に照らされてこそ、本当に生きてゆく道が開かれる、まさに「死んで往ける道は そのまま生きてゆく道」なのです。
(佐々木恵精)
親鸞聖人のお徳を偲び、西本願寺・大谷本廟納骨参拝と3月末にグランドオープンの姫路城、京都サクラの名所『十石舟』遊覧、春爛漫の京都をのんびりと満喫いたしましょう。
お友達お誘いあわせの上ご参加ください。
旅行日程:平成27年4月13日(月)~4月14日(火)
詳細は下記のとおり。
お申し込みの方は下の画像をクリックするとPDFがダウンロードされます。
印刷して申込書にご記入の上、申込金10,000円と併せて光明寺にお申し込みください。
二月の法語には、高光大船(たかみつだいせん)師(一八七九~一九五一)のおことばをいただいています。高光先生は石川県の生まれで、暁鳥敏(あけがらすはや)師や藤原鉄乗(ふじわらてつじょう)師とともに「加賀の三羽烏」と呼ばれて敬われ慕われて、真宗大谷派の同朋運動を生み出す源となった篤信の念仏者であったといわれます。煩悩に支配されて欲望の中にいる「自己」を厳しく見つめられながら、徹底した求道の生活を生きられた真の求道者です。
今月のことばとしていただいた、
拝むとは 拝まれて居た事に 気付き醒めること
というのも、そのような求道の生活の中で示されました。
阿弥陀如来の本願に出遇い、阿弥陀如来のお慈悲につつまれて、お念仏を申しながら合掌礼拝させていただく、それが信心決定の姿といえましょう。阿弥陀如来のお慈悲に、報恩のこころから拝むことになるわけですが、実は大いなるお慈悲のはたらきは、この「私」が報恩感謝の心を抱く前から、拝む遥か前から、本願のおはたらきが届いていた、阿弥陀如来がみ手を差し伸べてくださっていた、と気付かされて、はっとさせられます。
大船先生のおことばはまさに、この「私の気付き」の遥か前から阿弥陀如来から手を差し伸べられていた、ご本願がはたらいてくださっていた、お導きいただいていた、というはっとさせられる思いを、「拝まれて居た事に気付き……」と言われています。
こちらの「はからい」、こちら側の詮索など遥かに超えて、真実の智慧と慈悲のはたらきがすでにはたらきづめであった、という驚きと慶喜のおこころをいただくのです。
拝まれている
この高光大船師のおことばをいただいて思いおこされるのが、東井義雄(とういよしお)先生(一九ー二~一九九一)の詩です。東井先生は兵庫県出石郡の東光寺に生まれ、師範学校を経て小学校訓導(現在の教諭)になられて子どもの教育に、というより自らも共に学ぶ場として「いのち」をかよわせ合う教育、「生活綴り方」教育に情熱を注がれました。ご住職としても、仏教に生き親鸞聖人のみ教えに真摯に学ばれて、子どもたちの教育と阿弥陀如来のみ教えの伝道に一生をささげられました。
子どもたちの生きいきした詩を多く紹介されるとともに、ご自身も多くの詩文を綴られて、心の触れ合いを、そしてまたみ仏に出遇われた慶びを披歴され、多くの仏法味あふれる詩集を残されました。その最後の詩集となった『東井義雄詩集』(探究社)に、次のような詩が収録されています。
墓そうじ
毎年
半日で済ませた墓そうじであるのに
きょうはこれで 二日目
十時を過ぎると
おてんとうさまも 燃えてこられる
「無理をしないで
もう下りてきてください」
屋敷の草とりをしてくれている腰の曲がった老妻が
見上げていてくれる憶(おも)わぬさきから
憶われていた 私拝まない者も
おがまれている
拝まないときも
おがまれているすみません
南無阿阿陀佛。(『東井義雄詩集』 一六六~一六七頁、探究社)
東井先生は、七十歳代中ごろに癌で胃を摘出するという大病を患われました。その後も衰弱してきているお体を押して、住職としての仕事や畑仕事などをされながら、毎日のように詩文を綴られていました。この詩は、そのようななかで「墓そうじ」をされているときのおこころを綴られたものです。
詩の中で「老妻」と呼んでおられる奥さまについてうたわれます。「老妻」は腰が曲がってしまっているのに草取りに精を出している。その「老妻」から「無理をしないで、もう下りてきてください」と声をかけられて、東井先生は、はっとされた――〔こちらが憶うよりも前に憶われていた〕と。先生は、感謝の心をもって、「憶わぬさきから 憶われていた 私」と、その奥さまの慈愛の声を受けとめておられます。
そして奥さまの慈愛のお声に促されて、阿弥陀如来のご本願にいだかれていることに心を向けられ、み仏が手を差し伸べてくださっていることに報謝してお念仏し礼拝する(阿弥陀如来を拝む)ということになります。
そこで先生は、「〔こちらが拝むことなくても、‐またこちらが拝むより前に〕阿弥陀如来の方から〔そのままでよい、こちらへ来ておくれよ〕と、すでに手を差し伸べてくださっていたのだ」と、阿弥陀如来の方からはたらいてくださっているおはたらきを、感謝と慶びを込めてうたわれます。
拝まない者も
おがまれている
拝まないときも
おがまれている(『拝まない者もおがまれている』光雲社)
とうたわれて、阿弥陀如来の大いなる大慈悲にいだかれていたことの感動を、その慶びを披歴されているのです。さらに反対に自らを見つめると、自分勝手な欲望や怒りに走るばかりの自分の姿が見えてきます。そこを、
すみません
南無阿弥陀佛。
と、働愧(ざんぎ)するばかりであると結ばれています。
東井義雄先生には、胃癌の大手術を受けられる前年に『拝まない者もおがまれている』(光雲社)と題する詩集を発行されていて、仏力のおはたらきの中に生かされていることを深く受け止めておられるお姿がうたわれています。この「墓そうじ」の詩もまた、そのおこころをうたっておられると、学ばせていただくのです。
高光大船先生のおことば「拝むとは 拝まれて居た事に 気付き醒めること」を味わうにつけて、東井先生の「拝まない者も おがまれている 拝まないときもおがまれている」をいただいて、より一層深く受け止め味あわさせていただくところです。
(佐々木恵精)
一月の法語は香樹院徳龍(こうじゅいんとくりゅう)師(一七七二~一八五八)の語録からいただきました。
徳龍師は真宗大谷派の学僧で、越後の無畏信(むいしん)寺に生まれ、幼い時から神童の誉れが高かったといわれます。はじめ江戸に出て和漢の学を習い、やがて京都で真宗を香月院深励(こうがついんじんれい)師に師事し、仏教全般についても各種の教義に精通されていたとのことです。
今月のことばは、『香樹院講師語録』(永田文昌堂)から採られました。
称えるままが つねに御本願の みこころを 聞くことになる
梯實圓先生がまとめられた『わかりやすい名言名句 妙好人のおことば』(法蔵館)に、解説付きで紹介されていますので、それによりながら味わわせていただきましょう。
おみのりを聞くとは
『香樹院講師語録』には、徳龍師の深い思慮に富んだおことばが集められていますが、その一つに禅僧の弘海にまつわるエピソードが記録されてあります。
滋賀県木之本(現・長浜市)のあたりに住んでいた禅僧の弘海は、長年禅の修行に打ち込んでいましたが、悟りの境地には至れず悩んでいたとのこと。そんなとき、たまたま長浜の御坊で香樹院徳龍師の法話を聞き、浄土真宗の教えに帰依してお念仏のひととなったそうです。しかし、どうしても阿弥陀如来のおこころに十分に触れることができずに悩んでいた。そこで徳龍師に尋ねます。
「おみのりをたえまなく聞けとのことですが、ご法話のないときはどうすればいいのでしょうか」
すると徳龍師は、
「法話のないときは、いままで聞いたことを思いおこして味わえ。法話を聞いているときだけが聞法ではないぞ」
そのように、さとされたとのことです。
「幸いにもお聖教を読める目をもっているんだから、つねにお聖教を拝見しなさい、それが聞法じゃ。お聖教が拝見できないときは、口につねに南無阿弥陀仏を称えなさい、これも法を聞くことじゃ。……信をうるご縁は、聞思にかざる」
そのように言われて、弘海はさらに尋ねます。
「わが称える念仏が聞法だというのは、どういうことでしょうか。わが称え、わが声を聞くことでございますか」
香樹院徳龍師は、大喝して言われます。
「なにをいうか。わが称える念仏というものがどこにあるか。称えさせてくださるお方がなくて、この罪悪のわが身がどうして仏のみ名を称えることができようか。称えさせるお方があって、称えさせていただいているお念仏であると聞けば、そもそもこの南無阿弥陀仏を如来さまは、何のために御成就あそばされたのか、何のために称えさせておられるのかと、如来さまのおこころを思えば、これがすなわち称えるままが、つねに御本願のみこころを聞くことになるではないか」
このおことばが弘海の心肝に徹して、はっと心が開けたといいます。それからは、お聖教を拝読し、つねにお念仏を拝聴して、
「今称える念仏には、御あるしあって称えさせたもうなり。・・・・称えさせたもうは、たすけたまわんために、ひと声をも称えさせてくださることよ」
と思わせていただく身となった、といわれていたそうです。
今ここに「私」がひと声お念仏を称えるのも、阿弥陀如来のご本願があって称えさせてくださっているからこそ念仏させていただいているのだ、といただかれて、お念仏に聴聞されている弘海のお姿にまみえる思いがいたします。
親のよびごえ 南無阿弥陀
この徳龍師が「お念仏を称えるということは、〔自分でとなえているのでない 如来さまが称えさせてくださっているのだ」とさとされたというエピソードをうかがって、思い起こされるのは、原口針水(しんすい)師(一八〇八~一八九三)という明治の前半に多くの僧俗を教化され導かれた高僧のことです。 原口針水師は肥後の国(熊本県)山鹿郡の光照寺に生まれ、博多・萬行(まんぎょう)寺の曇龍(どんりゅう)師のもとで真宗の奥義を究められたとのことです。さらに、〈これからはキリスト教が日本にもひろがるだろうから、それに対するためにもまずキリスト教を知らねば〉との思いから、長崎の出島まで行って、オランダ人の宣教師についてひそかにキリスト教を学ばれたとのことです。
一八六九(明治二)年、本願寺で真宗義の奥義を研讃する安居(あんご)で、「副講」として『正像末和讃』の講義を担当されましたが、それとともに『旧約聖書』の「出エジプト記」を講義されています。明治期になって神道を「国教」と定めて仏教をきびしく非難する「廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)」の運動が起こってきたなかで、神道についても深く学んだうえで仏教を護る活動を積極的に進められた気骨ある学僧でもありました。
しかし、針水師の徳をしたって集まるご門徒や信者の方々には、わかりやすい歌によって的確に浄土真宗の「信心」のかなめを示されたのでした。
針水師が七十七歳の喜寿を迎えられたとき、その祝賀の際に色紙に歌を一首書かれて有縁の方々に与えられたとのことですが、お念仏のおはたらきをそのままにうたわれていて、いまもなお多くの方々にしたわれている歌です。
われ称えわれ聞くなれど南無阿弥陀
つれてゆくぞの親のよびごえ
お念仏はこの「私」が称えさせていただいて、この「私」が聞いている、そこにはたらいているのは「南無阿弥陀仏」である。そこにひびいているのは、親さまである阿弥陀如来の「そのまま来ておくれ」と呼びかけてくださっているよび声であるぞ、といわれている、とうかがわれます。
さらに、ことばを加えて、
われ称えわれ聞くなれど南無阿弥陀
つれてゆくぞの親のよびごえ
行け来いの中で 忘るる己かな
とうたわれたとも伝えられています。まさに今月の徳龍師のおことば
称えるままが ご本願の みこころを 聞くことになる
を、ここに味わわさせていただくのです
(佐々木恵精)
智慧と慈悲
二〇一五(平成二十七)年法語カレンダーのテーマは、前年と同じ「智慧と慈悲」としています。
現代社会は、科学技術が急激に進歩し大変便利になっている半面、若い人たちも年配の方がたも、携帯電話やスマートフォンなどの機器を相手とするばかりで、人びとが互いに直接触れ合い語り合うとか、交流し合うという場が少なくなってきているように感じられます。そこには、自己中心的なこころから欲望や怒りをぶつけ合うという、まさに釈尊が示された煩悩に支配される迷いの中で私たちの苦悩の姿だけは相変わらず、いやなお一層際立って現れていると思われます。
人としてまことの生き方ができているのか、と振り返るとき、真実に目覚められた阿弥陀如来の智慧に照らされ慈悲心にいだかれてこそ、私たちのあるべき姿を見つめることができるものといえるでしょう。
その意味で、「智慧と慈悲」をテーマに先人のおことばをいただくことにいたしましょう。
智慧の光明
親鸞聖人の『浄土和讃』には
智慧の光明はかりなし
有量の諸相ことごとく
光暁(こうきょう)かぶらぬものはなし
真実明(しんじつみょう)に帰命せよ(『註釈版聖典』五五七頁)
とうたわれています。『聖典セミナー「三帖和讃I浄土和讃ヒ(黒田覚忍、本願寺出版社)では、
阿弥陀如来の智慧から放たれる光明は、人間の力によってはとても量り知ることができない。いつの時代も、どんな国のどのような衆生もみな、この如来の光照をこうむって、煩悩の闇をはらし明るい世界をたまわらないものはない。
真実の智慧の如来である阿弥陀如来に信順したてまつれ。(黒田覚忍『聖典セミナー三帖和讃I浄土和讃』二二頁、本願寺出版社)
と現代語訳されています。すなわち如来の智慧の光明に照らされ、そのはたらきに導かれてこそ、欲望や怒りなどの煩悩の闇が晴らされて、真実に眼(まなこ)ひらかれるという、如来の智慧のはたらきが示されています。
大悲 ものうきことなく
また、『正信偈』には
極重悪人唯称仏(ごくじゅうあくにんゆいしょうぶつ)
我亦在彼摂取中(がやくざいひせっしゅちゅう)
煩悩障眼雖不見(ぼんのうしょうげんすいふけん)
大悲無倦常照我(だいひむけんじょうしょうが)
極重の悪人はただ仏(ぶつ)を称すべし。われまたかの摂取のなかにあれども、煩悩、眼を障へて見たてまつらずといへども、大悲、倦(ものう)きことなくしてつねにわれを照らしたまふといへり。
(『註釈版聖典』二〇七頁)
とあります。『教行信証』には
《源信(げんしん)和尚は》「きわめて罪の重い悪人はただ念仏すべきである。わたしもまた阿弥陀仏の光明のなかに摂め取られているけれども煩悩がわたしの眼をさえぎって、見たてまつることができない。しかしながら、阿弥陀仏の大いなる慈悲の光明は、そのようなわたしを見捨てることなく常に照らしていてくださる」と述べられた。
(『顕浄土真実教行証文類(現代語版)』 一五一頁)
とありますように、阿弥陀如来の大慈悲のはたらき(光明)に照らされてこそ、自分中心の欲望などの煩悩に支配されているこの「私」のそのままを見捨てることなく、真実の安堵の世界へと導かれるというように、大悲のはたらきが説かれています。
智慧・慈悲が「仏」そのもの
表紙の法語は坂東性純(ばんどうしょうじゅん)先生(一九三二~二〇〇四)のおことばをいただきました。
智慧・慈悲のはたらき そのものが 「仏」なのです
というおことばです。前述のように、悟り(正覚)を成就された「仏」の仏たるところは、そのおはたらき、すなわち智慧の光明がこの「私」を照らし慈悲の大きなはたらきがこの「私」を包み込んでくださっている、ということですから、まさに「智慧と慈悲のおはたらき」が「仏」そのものであるということを、ここに、そのままに示されています。
お仏壇などで、阿弥陀如来の木像や絵像の掛け軸を安置して、合掌礼拝させていただくのは、いわゆる礼拝の対象としての木像あるいは絵像の阿弥陀如来なのですが、坂東先生はこれを、
じっとしていらっしゃる「方便の仏さま」であり、「物体」なのです
といわれます。
私たちは時間・空間の世界に生きているので、目に見える姿かたちによらなければ受けとめられないため、姿かたちに示してくださったのが、木像の阿弥陀如来立像であり、絵像であります。すなわち、私たちが拝見し親しむことができるお姿に示された「方便の仏さま」で、絵像にはその裏に「方便法身の尊形(そんぎょう)」としるされています。この姿かたちにお示しくださった「方便の仏さまによって「本物の仏さま」へと導いてくださっている、その「本物の仏さま」は生きとし生けるものにはたらきかけてやまない、大いなる「智慧・慈悲」の光明でありおはたらきなのだといわれています。
「動仏」と「静仏」
坂東先生は、さらに、大谷大学学長をされていた山口益(すすむ)先生(一八九五~一九七六)が「静仏(せいぶつ)」と「動仏(どうぶつ)」というおことばで、仏さまについてお示しくださったと紹介されています。
〔煩悩に支配されて汚れきっている私たちを〕浄らかにしてくださるというはたらきをなす仏さま「動仏」が「本物の仏さま」であって、木像や絵像の仏さまは、その仏像そのものは動かない「静仏」、すなわち「方便の仏さま」である、といわれます。
一般に「嘘も方便」といわれ、「方便」というと嘘のように、あるいは偽物のように理解されがちです。しかし木像や絵像の仏さまは、姿かたちでしかとらえられない私たちに、三昧の中にある「仏」の姿を示してくださった、それによって「本物の仏さま」へといざなわれることになる、その意味で本当のはたらきをなす「方便の仏さま」ということになります。
このように、「本物の仏さま」は、大智慧・大慈悲の光明が「私」の上にはたらいてくださっている、そのおはたらきが「仏」そのものである、といわれるのです。
「私」のために説かれている
この「智慧・慈悲」のはたらきということについて拝聴していると、ご縁あって親しくさせていただいたスイスの信楽寺代表のジャン・エラクルさん(一九三〇~二〇〇五)のことを思い出します。エラクルさんについては、昨年の『平成二十六(二〇一四)年月々のことば』でも取り上げましたが、ここにも取り上げてそのこころをさらに味わいたいと思います。
エラクルさんは、若くして司祭になり教会でキリスト教伝道にあたっていたのですが、修道院で「黙想」に傾倒され、東洋の神秘的な文化にも惹かれ、次第に仏教を学び、ついに浄土真宗の本願力に救われる教えに転向(回心)されたのでした。
ジュネーブの市街地のビルの一角(日本でいうとマンションといえるでしょう)に真宗寺院「信楽寺」を開設され、朝夕のおつとめに「正信偈」を、日本と同じ作法で勤行されます。ゆっくりと落ち着いた調子で朗誦されるのですが、前述した源信和尚の句「・・・・大悲無倦常照我」になるとヽ声が詰まってしまうと言われるのです。
〈大悲ものうきことなく常にわれを照らしたまふ〉・・・・いつも、この句になると、感無量になってのどが詰まり涙が出てくるのです
と言われます。なぜかというと、
これは、私のためにお説きくださっているおことばなのだといただかれて、感激して慶喜のあまり、声が詰まり涙があふれてくるのです……
と言われるのです。
エラクルさんは、まさに大悲のおはたらきにつつまれているということでしょう。
ここに慈悲のはたらきが、今はたらいているということを知らされます。これこそ「仏」そのものであり、「本物」の阿弥陀如来さまがここにはたらいてくださっている。智慧の光明として、慈悲の光明として、本願のはたらきとして、今ここにエラクルさんの上にはたらいている、そして「私」の上に、すべてのものの上に「本物の仏さま」がはたらいてくださっている、そのようにいただかれるのです。
(佐々木恵精)