2020年表紙のことば 悲しみの深さのなかに 真のよろこびがある

先生との思い出

毎年、真宗十派が加盟する真宗教団連合によって「法語カレンダー」が出版されています。
去る二〇一九年五月一日、元号がそれまでの「平成」から「令和」に代わりまし
た。この「令和」は、『万葉集』に載っている文から選ばれたものです。したがっ
て、二〇二〇年版「法語カレンダー」は令和二年版になります。もう少し早くから
次の元号が決められていたならば、スムしスに移行できて混乱を生じさせることも
なかったと悔やまれます。
表紙のことばは、京都女子大学名誉教授であった瓜生津隆真先生の著『仏教から真宗ヘー仏教用語散歩-』(本願寺出版社)から引用されたものです。
瓜生津先生は一九三二(昭和七)年九月に生まれられ、二〇一五(平成二十七)年二月に往生されました。八十二歳でした。文学博士で、滋賀県犬上郡にある浄土宗本願寺派法城寺の住職をされていました。ご著書には、『龍樹(ナーガールジ
ュナ) 空の論理と菩薩の道』『信心と念仏』『親鸞聖人に学ぶI無我と他力』『聖典セミナー 阿弥陀経』など、多数があります。
この「法語カレンダー」との関わりでは、先生は、二〇〇七(平成十九)年、二〇〇八(平成二十)年と続けて、カレンダーの解説書である『月々のことば』の表紙のことばを担当されていました。二〇〇七年は、

仏心というは大慈悲これなり                (『観無量寿経』)

そして二〇〇八年は、

  世のなか安穏なれ 仏法ひろまれ            (『親鸞聖人御消息』)

という法語について、文章を書かれています。
たまたま二〇〇八年の「法語カレンダー」に私も関わり、四月は、

  真なるものははなはだ少なく 偽なるものははなはだ多い
(『教行信証』化身土巻)

という法語の解説を、そして五月には、

  仏の国土は清く安らかな涅槃の世界である
(『教行信証』証巻引文、『無量寿経』上巻)

六月には、

仏の智慧をほめたたえ その功徳を人々に伝えよう

(『浄土和讃』「讃阿弥陀仏偶和讃」)

という法語の解説を担当いたしました。

瓜生津先生とのご縁のなかで思い出すのは、二〇〇二(平成十四)年度の浄土真
宗本願寺派布教講会です。これは布教使の研修会で、九月二日から六日まで西本願寺聞法会館で開かれました。先生は教講を務められ、四日問、「大乗菩薩道と真宗」の題名で講じられ、私も副講の任を与えられ、三日問、「真宗和語聖教―一念多念文意・唯信紗文意・尊号真像銘文を中心として」の題名で講述しました。

真の仏弟子

それでは、法語[悲しみの深さのなかに立]のよろこびがある」のご文を味わってみましょう。
私たちの人生には「悲喜こもごも」と言われるように、悲しみと喜びが交互にや
ってきます。まさしく山あり谷ありです。しかし、念仏生活によって深い悲しみの
なかに真の喜びが生じてきます。
親鸞聖人は、浄土真宗の教えに出遇った人は信心をいただいた喜びから「真の仏
弟子」であるといわれますが、瓜生津先生は、まずその主著『教行信証』信巻
(末)にある、この「真の仏弟子」について言及されています。

  「真の仏弟子」(散善義四五七)といふは、真の言は偽に対し仮に対するなり。
弟子とは釈迦・諸仏の弟子なり、金剛心の行人なり。この信行によりてかな
らず大涅槃を超証すべきがゆゑに、真の仏弟子といふ。
(『註釈版聖典』二五六圭一五七頁)

ここでは、「真実」の語は「邪偽」と「権仮方便」に対する語で、「弟子」とは「釈迦・諸仏の弟子」である。また、金剛心(信心)を獲得した行人(念仏者)で
ある。すなわち信心と念仏によって、浄土に往生してかならず大涅槃のさとりを得
るから、これを真実の仏弟子という、と述べられています。そして、ひたすら阿弥
陀如来の真実心を仰ぎ、如来のこころに生きる人は、どのような苦悩や悲しみに出
会っても、それにうちひしがれることなく、またどのようなさまたげにもくじける
ことがない、と述べられています。
「真仏弟子釈」の終わりには、

  仮といふは、すなはちこれ聖道の諸機、浄土の定散の機なり。
(『註釈版聖典』二六五頁)

偽といふは、すなはち六十二見・九十五種の邪道これなり。     (同頁)

とも述べられています。仮とは聖道門の人々であり、浄土門の定善・散善の人で
あり、どちらも自力の教えです。また、偽は釈尊当時の異教徒の総称で、仏教以外
の教えのことをいいます。
智慧と慈悲
また「真仏弟子釈」の後には、『無量寿経』の第三十三願(触光柔軟の願)と第
三十四願(聞名得忍の願)が連引されています(『註釈版聖典』二五七頁)。これに
ついて瓜生津先生は、阿弥陀如来の光明に照らされれば、心身ともに柔軟になる。
また、「聞名」とは名号を聞くということであり、如来の喚びかけを通して如来の
真実の智慧が凡夫である私にはたらくことである。また「得忍」とは、無生法忍、
すなわちすべての存在の本質が空であるという真実を知る智慧を得ることであり、
私の上に阿弥陀さまの真実が智慧となってはたらくことである、と述べられていま
す。

さらに瓜生津先生は、

  智慧の念仏うることは
法蔵願力のなせるなり
信心の智慧なかりせば
いかでか涅槃をさとらまし            (『註釈版聖典』六〇六頁)

という『正像末和讃』を引いて、

  念仏は智慧であり、したがって信心も智慧であることがたたえられている。この智慧は自己(罪悪性)にめざめ、如来(真実功徳)を知るという働きをもつ。
自己にめざめることは、自己の罪悪深重を知ることであり、それは「愚にかえる」ことなのである。如来を知るとは、如来の真実を知ることであって、この自已にめざめ如来を知るということが、同時に成り立つところに、この智慧の
特質がある。     (『仏教から真宗ヘー仏教用語散歩-』二四二圭一四三頁)

と述べられています。
続いて、瓜生津先生は、信心の行人(念仏者)として「正信偶」の四句を出され
ています。

  一切善悪几夫人
聞信如来弘誓願
仏言広大勝解者
是人名分陀利華                 (『日常勤行聖典』 一五頁)

二切善悪の几夫人、如来の弘誓願を聞信すれば、仏、広大勝解のひととのたまへり。この人を分陀利華と名づく。『註釈版聖典』二〇四頁)
第三効目の「広大勝解者」は、「真仏弟子釈」に引用される『無量寿経』異訳の経典である『如来会』にあり、また第四劫目の「分陀利華」とは、真実信心に生きる人のたとえである白蓮華の意で、『観無量寿経』の終わりに述べられています。
さらに、瓜生津先生は、道緯禅師の著『安楽集』に引用される『大悲経』の「大悲を行ずる大」の言葉に注目されます。

  『大悲経』にのたまはく、〈いかんが名づけて大悲とする。もしもつぱら念仏相
続して断えざれば、その命終に随ひてさだめて安楽に生ぜん。もしよく展転
してあひ勧めて念仏を行ぜしむるは、これらをことごとく大悲を行ずる大と名
づく〉と。                     (『註釈版聖典』二六〇頁)

このように『大悲経』には、どのようなことを大悲と名づけるのであろうかという問いに対して、もし念仏を続けて止めなければ、いのちを終えると必ず浄土に往生する。もしも、次々と念仏を人々に伝えていくならば、このような人をすべて大
悲を行じる人と名づけるのである、と説かれています。

   栃平ふじさんの歌

次に、瓜生津先生は、鈴木大拙師の名著『妙奸人』に掲載されている、石川県
奥能登在住の栃平ふじさん(一八九六~一九六五)の歌を一句紹介されています。

  親さまの智慧と慈悲とをいただいて
ねるもおきるも、なむあみだ  (『仏教から真宗ヘー仏教用語散歩-』二四四頁)

この栃平ふじさんの歌を、

  念仏に生きる人生を見事に示しているといえよう。如来の智慧と慈悲をめぐまれて、人生を生きぬくところに、念仏者の人生があって、それこそ真の人生であることを簡潔にのべている                     (同頁)

と、先生は讃えられています。
私は、二〇一八(平成三十)年三月三日に、本願寺金沢別院で開催された中央仏教学院の「石川地区つどい 本部派遣学習会」に出講した後、午後四時に金沢駅前からバスに乗り、四時間ほどかけて一路、能登半島北端の珠洲市宝立町の栃平ふじ
さんゆかりの地を訪れました。出発する前に、あらかじめ『妙奸人 千代尼』を刊行された、珠洲市飯田町にある真宗大谷派西照寺の西山郷史住職に連絡していましたので、終着駅に着いたときには彼が迎えに来てくれていました。翌朝には、宿
の近くにある、西山さんから聞いていた、鈴木大拙師が若い頃に下宿されていた家も拝見することができました。
栃平ふじさんは、真宗大谷派往還寺のご門徒でした。西山さんの車で一緒に栃平さんの家を訪れ、玄関前で写真を撮らせていただきました。いまは親族の方が時々来られる程度で、ご不在でしか。帰途、かほく市にある哲学者の西田幾多郎先生の
出生地や墓地の近くを通り、金沢駅まで送ってもらいました。
妙奸人・栃平ふじさんの他の歌を紹介しましょう。

  おやさまの智慧と慈悲とを戴いて、ゆくも帰るも六字かな。南無阿弥陀仏。
(『妙奸人』二五二頁)
おやさまの ふところ住まいと 知らなんだ ああありがたや しやわせじゃ
なむあみだぶつ                       (『同』二五五頁)

法蔵とは どこに修行の 場所あるか みんな私の むねのうち なむあみだ
ぶつ あみだぶつ                     (『同』二五六頁)

今日も日ぐれで 大晦日 あすは夜明けで 御正月 なむあみだぶつ (同頁)

実は、お世話になった西山師とは、珠洲市で初めてお会いしたのです。ところが、
いまから二十四年前の一九九五(平成七)年、新人物往来社から発行された『蓮如
のすべて』(早島鏡正編)のなかで、ともに原稿を寄せていたことが判明したので
す。題名については、彼が「現代に生きる蓮如-蓮如と北陸」で、私は「蓮如上人
と『御文章』」でした。まさに蓮如上大がとりもつご縁でした。

   人間性のめざめ

最後に瓜生津先生が注目されたのは、「真仏弟子釈」が、次の親鸞聖人の悲嘆の
言葉によって結ばれていることでした。

  まことに知んぬ、悲しきかな愚禿鸞、愛欲の広海に沈没し、名利の太山に迷惑して、定衆の数に入ることを喜ばず、宿六証の証に近づくことを快しまざるこ
とを、恥づべし傷むべしと。            (『註釈版聖典』二六六頁)

この悲嘆は、如来の真実に出遇った喜びと離れないものです。悲しみは喜びであり、悲しみの深さのなかに真の喜びがある。「まことに知んぬ」には、如来の真実に出遇った感動と、如来の真実によって照らし出され知ったものへの驚きが、述べられています。
如来の真実による深い人間性のめざめIそれは如来の真実を知り、自己の罪悪・虚仮を知ることですIが、このことが宗教的生の根源であり本質であることを、親鸞聖人の悲嘆の言葉はよく示されています。如来の智慧によって自らの心が明らか
になり、如来の慈悲によって新たないのちを生きるところに、「真仏弟子」すなわち「信心の行人」(念仏者)の道があると述べられているのです。
(林 智康)

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転悪成善の益

本願力(ほんがんりき)にあひぬれば
むなしくすぐるひとぞなき
功徳(くどく)の宝海(ほうかい)みちみちて
煩悩(ぼんのう)の濁水(にょくすい)へだてなし              (『註釈版聖典』五八〇頁)

浄土真宗の葬儀では、導師の方が「正信掲」のお勤めが終わった後に、和讃を二
首あげられます。その一首目がこの和讃です。これは『高僧和讃』のなかの「天親
讃」、天親菩薩を讃えられた和讃の一首です。「本願力にあひぬれば」の「あひぬれば」
は、漢字で書けば「遇」という字になります。親鸞聖人はこれを、

  「遇(ぐ)」はまうあふといふ。まうあふと申すは、本願力を信ずるなり。

(『一念多念文意』、『註釈版聖典』六九一頁)

と解釈されるように、本願力を信ずる身になれば、ということです。続いて、その
結果を「むなしくすぐるひとぞなき」と述べられるように、人生を虚しく過ごす人
がいなくなると示されます。そして、阿弥陀さまの功徳の海水に私たちの煩悩の濁
った水が溶け込めば、海水と濁った水の区別がなくなり、一つ昧になると讐えられ
ます。
この信心の利益については、「正信偶」にも、

能発一念喜愛心(のうほついちねんきあいしん) 不断煩悩得涅槃(ふだんぼんのうとくねはん)
几聖逆膀斉回入(ぼんじょうぎゃくほうさいえにゅう) 如衆水入海一味(にょしゅしいにゅうかいいちみ)  (『日常勤行聖典』一二頁)
(よく一念喜愛(いちねんきあい)の心(しん)を発(ほっ)すれば、煩悩を断ぜずして涅槃を得るなり。
几聖(ぽんしょう)・逆膀斉(ぎゃくほうひと)しく回入(えにゅう)すれば、衆水海(しゅすいうみ)
に天(い)りて一味(いちみ)なるがごとし。『註釈版聖典』二〇三頁)

と示され、川の水が海に流れ込めば、真水が真水のまま海水に溶け込んで一つ味と
なっていく。煩悩の水がなくなることなく、煩悩の水のまま功徳の海水に変えられ
ていく、そういう言い方がされています

また、『教行信証』信文類に、

  金剛の真心を獲得すれば、横に五趣八難の道を超え、かならず現生に十種の益を獲。なにものか十とする。一つには冥衆護持の益、二つには至徳具足の益三つには転悪成善の益、四つには諸仏護念の益、五つには諸仏称讃の益、六つには心光常護の益、七つには心多歓喜の益、八つには知恩報徳の益、九つには常行大悲の益、十には正定聚に入る益なり。

(『註釈版聖典』二五一頁)

と述べて、信心の利益を具体的に十種あげておられますが、そのなかの三番目に「転
悪成善の益」という利益があります。「転悪成善」、悪を転じて善に成したまう、悪が
転じられるというのは、悪が消滅することなく悪のまま善に変えられていくという
ことで、これが一つ味になるということです。では具体的には一体、それはどうい
う利益でしょうか。

 つまづいたおかげで

書家・詩人である相田みつをさんの作品の一つに、「つまづいたおかげで」とい
う詩があります。失敗や苦難のつまづきに遭えば、他人を憎み、ただ悲嘆の日々に
明け暮れしがちですが、この詩には、むしろそのような障りが見事に逆転されてい
ます。

つまづいたおかげで

っまづいたり ころんだり したおかげで
物事を深く考えるようになりました

あやまちや失敗をくり返しかおかげで
少しずつだが
人のやることを 暖かい眼で
見られるようになりました

何回も追い詰められたおかげで
人間としての 自分の弱さと だらしなさを
いやというほど知りました

だまされたり 裏切られたり したおかげで
馬鹿正直で 親切な人間の暖かさも知りました
そして……
身近な人の死に逢うたびに
大のいのちのほかなさと
いま ここに
生きていることの尊さを
骨身にしみて味わいました

大のいのちの尊さを
骨身にしみて 味わったおかげで
大のいのちを ほんとうに大切にする
ほんものの人間に裸で逢うことができました

一人の ほんものの人間に
めぐり逢えたおかげで
それが 縁となり
次々に 沢山のよい人たちに
めぐり逢うことができました

だから わたしの まわりにいる人たちは
みんな よい人ばかりなんです
(『にんげんだもの』七四丿七五頁、文化出版局)

私たちは、罪業とか、それによって生じる苦悩の障りに右往左往しながら、この
人生を歩んでいます。しかしよく考えてみますと、罪業や障りという実体が本当に
あるのかといえば、そうではありません。同じ境遇をある人は幸福と感じ、ある人
は不幸と感じることもあります。それは、幸・不幸が客観的に固定したものとして
存在するのではなく、それを感じる私たちの心に原因があることを物語っています。
したがって一つの理想像を描いて、その理想どおりになっていくことが必ずしも幸
福に結びつくとは限りません。また逆に、苦悩の状態に変化はなくても、それを悲
観する心がいつまでも一定して止まないということもないはずです。罪業も障りも、
これが罪業であるとか障りであるというような実体があるのではなく、そう思う心
に問題があります。

  罪業もとよりかたちなし
妄想顛倒のなせるなり
心性もとよりきよけれど
この世はまことのひとぞなき    (『正像末和讃』、『註釈版聖典』六一九頁)

罪業があると思っているのは、私の虚妄の分別からおこる錯覚であって、その本
性は仏と同じように清らかな心であるにもかかわらず、煩悩からおこるはからいの
ために惑わされているのです。あると思っていた罪業や障りが実は虚妄の錯覚であ
ったと、その間違いに気づかされていくとき、罪業が罪業でなくなり障りが障りで
なくなって、相田みつをさんの詩のように、すべてが「おかけで」と受け止められ
ていきます。それが悪がおのずと善に転じられていく利益です。

難有りを下から読めば有り難い

福岡に、武内洞達という有名な布教使の先生がおられました。以前、その先生を
中心とした布教使の方々の「法水会」という研修会に、ご縁をいただいたことがあ
ります。そのとき、先生に初めてお目に掛かり、いろいろとお話しましたが、たい
へん有り難い方でありました。先生のお寺では、「光輪」という寺報を定期的に発行
されていました。ご門徒にとどまらず、県内、また県外の多くの方に愛読されてい
た寺報です。そこには、先生の法味豊かな言葉が数多く掲載されています。例えば、

  病気を治す工夫(医術)も大切であるが、又、病気の治らぬ時の工夫(生死出
すべき道)も大切である

とか、

  病気の治ることだけがご利益ではない。病気も無駄にしない精神力を得ること
こそ真の現世利益である

病気をしてみて、知らされる世界がある。生命の尊さと、周囲の親切さと善意。
病気も健康も包みています如来の慈悲も知られる

などです。
その武内先生のお話にいつも耳を傾けていかれたのが、薬局を経営しておられた
篠崎九蔵という方です。あるとき、武内先生が九蔵氏に、「あなたの長生きの秘訣
は何ですか」と問われたことがあったといいます。そうすると、「それは薬を飲ま
ないことです」と応えられたという、ユーモアたっぷりのエピソードを聞かせても
らいました。その九蔵氏がお念仏の教えを聴聞してこられたなかで詠まれた、すば
らしい詩があります。

  難有りを、下から読めば有り難い

苦難を何度も味わうことと有り難いと思えることは、決して別々のものではない。
お念仏の教えに生かされる人にとって、苦難が苦難に終始しないで、有り難いと受
け止められる心が芽生えていくことを、この詩が教えてくれています。

人生を過ごしていく上で、私たちは何度も思いどおりにならないことに出会い、
苦しい目に遭わなければならないことから避けられません。そうしたとき、愚痴・
不平を言いながら寂しく人生を終えていくのではなく、何事も「お陰さま≒有り難
い」と受け止めていく心ができあがったならば、これほど頼もしく充実したものは
ありません。十二月のことばの「むなしく生死にとどまることなし」(『註釈版聖典』
六九一頁)とは、そのような人生を指し不した言葉であるといえましょう。
(白川 晴顕)

あとがき

親鸞聖人ご誕生八百年・立教開宗七百五十年のご法要を迎えた一九七三(昭和
四十八)年に、真宗教団連合の伝道活動の一つとして「法語カレンダー」は誕生
しました。門信徒の方々が浄土真宗のご法義を喜び、お念仏を申す日々を送って
いただく縁となるようにという願いのもとに、ご住職方をけじめ各寺院のみなさ
まに頒布普及にご尽力をいただいたおかけで、現在では国内で発行されるカレン
ダーの代表的な位置を占めるようになりました。その結果、門信徒の方々の生活
の糧となる「こころのカレンダー」として、ご愛用いただいております。
それとともに、法語カレンダーの法語のこころを詳しく知りたい、法語につい
て深く味わう手引き書が欲しいという、ご要望をたくさんお寄せいただきました。
本願寺出版社ではそのご要望にお応えして、一九八〇(昭和五十五)年版から、
このカレンダーの法語法話集『月々のことば』を刊行し、年々ご好評をいただい
ております。今回で第四十集をかぞえることになりました。

二〇一九(平成三十二年の「法語カレンダー」では、親鸞聖人がご執筆なさ
れたお聖教のご文が選ばれました。本書では、このご文についての法話や解説を
四人の方に分担執筆していただきました。繰り返し読んでいただき、み教えを味
わっていただく法味愛楽の書としてお届けいたします。
本書をご縁として、カレンダーの法語を味わい、ご家族や周りの方々にお念仏
のよろこびを伝える機縁としていただければ幸いです。また、各種研修会などの
テキストとしても幅広くご活用ください。

二〇一八(平成三十)年八月
本願寺出版社

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2019年11月のことば 真の知識にあうことは かたがなかになおかたし

善き師との出遇い

十一月のことぼは、『高僧和讃』源空讃(『註釈版聖典』五九七頁)で、恩師・法
然聖人を讃えられた和讃です。

『顕浄土真実教行証文類(教行信証)』の「化身上文類」に、

  しかるに愚禿釈(ぐとくしゃく)の鸞(らん)、建仁辛酉(けんにんかのとのとり)の暦(とり)、雑行(ぞうぎょう)を棄(す)てて本願(ほんがん)に帰(き)す。
(『註釈版聖典』四七二頁)

と述懐されますように、親鸞聖人は二十九歳のとき、吉水の禅房に法然聖人を訪ね、二十年間の比叡山での自力の雑行と訣別して、本願の教えに帰入されました。そのときの喜びは、どれはどのものであったでしょうか。今までの価値観が一変し、目につけていた鱗が、一枚一枚剥がれていく懐いであったに違いありません。

親鸞聖人において、もし本願を説かれた釈尊の教えに遇うことがなかったならば、そして、その教えを承け継がれた七高僧の方々、なかでも、本願の真実を直接教えてくださった、善き師・法然聖人との漫遁がなかったならば、本願の教えを聞くことも信ずる身にもなっていなかったであろう。そうした念が『教行信証』総序に、

  ああ、弘誓(ぐぜい)の強縁(ごうえん)、多生(たしょう)にも値(もうあ)ひがたく、真実(しんじつ)の浄信(じょうしん)、億劫(おくこう)にも獲(え)がたし。たまたま行信(ぎょうしん)を獲(え)ば、遠(とお)く宿縁(しゅくぇん)を慶(よろこ)べ。           (『同』 一三二頁)

という言葉として吐露されています。

「値う」とは「値遇(ちぐう)」ともいわれ、「遇う」と同じ意味であって、予期しない、思いがけない偶然の漫遁(めぐりあい)を意味する言葉です。いくたび人生を重ねたとしても、本願に遇う縁をめぐまれることはむずかしく、たとえ気の遠くなるような時間を経たとしても、真実の信心を獲得することは困難な私であった。たまたま法然聖人との漫遁を通して、本願に遇い信心を獲得されたとき、それが遠く過去からのさまざまな因縁によるものであった、という喜びの表現です。それは、みすがらの努力を積み重ねることによって得られたものではなく、さまざまな因縁の上に、たまたま得られた信心であることの表明でもあります。
親鸞聖人は、法然聖人との出遇いの不思議を重く受け止められていました。それ
は『高僧和讃』源空讃に、

礦劫多生(こうごうたしょう)のあひだにも
出離(しゅつり)の強縁(ごうえん)しらざりき
本師源空(ほんしげんくう)いまさずは
このたびむなしくすぎなまし           (『註釈版聖典』五九六戸

と詠まれて、法然聖人との出遇いがなければむなしい人生を過ごしていたであろうと、法然聖人との値遇を讃えられた内容からしても、うなずけるところです。そし
て、親鸞聖人は法然聖人に対して、人間・法然聖人ではなく、阿弥陀さまの化身と
して、あるいは還相の菩薩として、この世に現れてくださった方という受け止めを
しておられます。
直接、教えを蒙った面授の師ほど、その人を慕う心は何よりも強いものがありま
す。親鸞聖人加法然聖人を慕われていかれたのも、そのような心持ちからではない
でしょうか。『高僧和讃』のなか、法然聖人を除くほかの六祖の和讃が、その教義上
の功績を讃えた内容が多いのに対して、「源空讃」二十首は教義について述べられた
ものはなく、値遇の喜びやその業績を讃えた和讃ばかりであるということも、法然
聖人の善知識としての人柄を偲ばれてのことであるといえましょう。

恩師の心配り

考えてみますと、私も今の私かあるのは恩師の先生方のお陰であると思います。
恩師の先生方に出遇うことがなかったら、多分、今の私は存在していなかったとい
うことを、歳を重ねるにつれて、つくづく感じるようになりました。
私の恩師の先生ですが、大学時代は浅野教信先生です。私か龍谷大学に入学しか
ときは、丁度、学園紛争の真っ只中でした。当時、学舎は京都市南部の深草にあり
ましたが、入学して間もなく大学封鎖ということになり、一年間、まったく講義が
ありませんでした。二回生になって初めて講義を受けることができたのですが、そ
のほとんどが教養科目の講義でしたから、真宗の講義はわずかしかありませんでし
た。三回生になると、学舎が深草から文学部中心の大宮に移り、そこで真宗の専門
科目の講義を数多く受けていくということになります。しかし今度は、大宮学舎が
全面封鎖ということになりました。そのために、また一年間、講義を受けることが
できなくなったのです。恥ずかしいことですが、私は大学三回生のとき、「浄土三
部経」がどういうお経を指すのか、ということさえわかりませんでした。それくら
い、無知な学生時代を送っていたのです。
そして四回生になったとき、初めて真宗の専門の講義を受けました。そのなかに
ゼミ、いわゆる真宗学演習という講義があり、そのゼミ担当が浅野教信という先生
でした。学生の間では、先生は非常に厳しいという評判でしたので、あまり人気が
なく、ゼミを受講する学生も毎年少人数で、私か受講した年も五、六人くらいしか
いませんでした。そこで、先生の気が向けば「今日のゼミは、教室でするよりも喫
茶店でしようか」といわれ、大学の近くの喫茶店でコーヒーを飲みながら講義を聴
いたり、あるいは先生の研究室で講義を聴いたりするなど、家庭的な雰囲気のなか
で先生と親しく接するようになりました。
また学生時代は、なかなか買いたい本があっても買うことができません。そうす
ると、先生が「自分の付けで買ってやるから」と言われましたので、仏書店に行っ
てほしい本を買い、「これを浅野先生に付けておいてください」と言って、買い求め
た本がたくさんあります。夏休みにお盆参りをして手当が大りますと、その半分く
らいを先生にお返しするわけです。しかし、学生を終える頃になりますと、どのくらい付けが残っていたのかわからなくなりました。そうすると、先生は「もう、い
いから」とおっしゃって、だいぶん肩代わりをしてくださったのではないかと思い
ます。先生自身が、学生時代にそういう面で苦労をされたと聞いておりますので、
学生の少しでも手助けになればという気持ちから、心配りをしてくださっていたの
です。先生の付けで本を買わせてもらったのは、私だけではなく何人もおりました。
今から思えば、先生にとって大きな負担となっていたのではなかろうかと申し訳な
く思っております。

聴聞の姿勢

大学卒業後、さらに大学院に入学し、大学院でも浅野先生の講義は受講し続けま
したが、ゼミを持たれていなかったので、今度は村上速水先生の指導を受けること
になりました。博士後期課程に進学したとき、先生が龍谷大学の宗教部長に就任さ
れましたので、私に「宗教部の手伝いをしてくれ」と言われ、「りゅうこく」という新聞の編集や大学の宗教行事など、三年間、先生のもとではたらくことになりまし
た。お手伝いを通して、先生と親しくお付き合いさせていただく機会に恵まれまし
た。その後、先生が文学部長に就任され、職務に多忙の日々を過ごしておられたと
き、一九七八(昭和五十三)年の一月でしたが、突如、脳血栓で入院されました。そ
して病気によって重い後遺症を患われたのです。ご病気当初は言葉が出てこない、
右半身の自由が利かない、という状態でした。大学の先生にとって、喋る、書くと
いう機能は、なくてはならないものです。その大切な機能を病気によって一気に失
われました。しかしながら、リ(ビリによって右半身の自由はある程度回復され、
書くという機能は取り戻されましたが、喋る方はそれから二十数年、八十二歳でご
往生されるまで、元には戻られませんでした。
先生が退院され、週二回の通院のときには、毎回タクシーを利用しなければなら
ないということを聞きました。そのとき、私は学生でしたが、すでに受講する講義
数も少なく、また先生の近くに住まいがあり、自家用車も持っておりましたので、病院の送り迎えをさせていただくことを申し出ました。約一年半の送り迎えを通し
て、先生と今まで以上に身近に接しさせていただき、知らず知らずのうちに受けた
薫陶と温情は計り知れません。
大切な機能に障害が生じられたため、闘病のご苦労は、筆舌し難いものがありま
したが、そういう状況にあっても、本願寺の総会所で開かれている常例布教に、聴
聞のため通われることを欠かされませんでした。常例布教のご講師には、先生が大
学や仏教学院で教えたことのある人もおられます。その教え子さんの話に耳を傾け
られる。学者としてもすばらしい先生であるけれども、同時に敬虔な念仏者として
頭の下がる思いがいたしました。学問の上でも、私かお話ししている浄土真宗の教
えは、まさに村上先生との出遇いによる果実であるといっても過言ではありません。
また念仏者としての先生のすがたに感服させられたことも何度かありました。ある
とき、先生がいまだ辿々しい口調で、私に次のようなことを話されたことがありま
す。
総会所通いをしていると、聴聞の人の顔ぶれは大体決まっている。そんななかで、法座が終るといつも口癖のように、「ああI、今日もいい話を聞かしてもらった。有り難かった、有り難かった。南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏」と、つぶやきながら帰っていく年配の女性がいる。自分が聴聞していて、それほど有り難いと思えない話のときでも、「今日も有り難い話を聞かせてもらった。南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏」という独り言が出る。その女性のつぶやきをいつも聞いていながら、実は今日、初めて気づかせてもらった。聴聞というのは、話す側に問題があるというよりも、聞く側に問題があるのではないか。

親鸞聖人の教学研究において第一人者として評され、本願寺派の勧学和上でもあ
った先生が、しかも六十歳を超えられて、今まで気づかなかったものをひとりの年
配の女性から教えてもらったといわれたとき、私はすばらしい師匠に出遇わせてい
ただいたという感動を、憶えずにはおられませんでした。
そういう一一人の先生に出遇ったお陰で今の私かあるということを、歳を重ねると
ともに強く感じるようになりました。

善き師に遇うことのむずかしさ

仏教の世界でいう善き師とは、この和讃に「真の知識」と表現される人であり、
それは心の底に真実を見据えている人であり、したがって、うそやごまかしが利か
ない、また厳しくもあり優しくもある人です。しかも、そのような善き師に遇うと
いうことは、単なる「その人」に会うのではなく、「法」に裏付けられた「その人」に
遇うということです。これが世間で師と仰がれる人と、仏教の世界で師と仰がれる
人との大きな違いではないでしょうか。
「面授」という言葉がありますように、「法」は「人」によって伝えられていきます。
しかし、いかにすばらしい善き師であっても、その教えに耳を傾けようとしない間
は、善き師と仰ぐことはできません。
私か勤めておりました中央仏教学院では、心に染み入る話が聞ける特別講義や記
念講演も多数ありますが、なかには講義の最初からもはや耳を傾けようとしない学
院生もおります。そういう状況を見ておりますと、源信和尚のお言葉に、

  宝の山に入りて手を空しくして帰ることなかれ。
(『往生要集』、『註釈版聖典(七祖鎬)』八四二頁)

とあるように、まさに宝の山に入っているにもかかわらず、その価値に気づかない
で終ってしまうのではなかろうか、という危惧さえ抱きます。また耳を傾けたとし
ても、善き師の教えの真意がそのまま受け止められるかといえば、そうではありま
せん。法然聖人や親鸞聖人の門下において生じた種々の異義は、真意を教え伝える
ことがいかに困難であるかを物語っています。
師を通して真実の教えに遇ってこそ、心境が通じ合い、心から善き師と仰げるようになっていきます。一生に一人でも善き師「真の知識」に出遇えた人は、真実の
教えに目覚めた人でもあります。
(白川 晴顕)

カテゴリー: 法語カレンダー解説 | 2019年11月のことば 真の知識にあうことは かたがなかになおかたし はコメントを受け付けていません

2019年10月のことば  「信心」というは すなわち本願回向の信心なり

信心一異の論争

十月のことばは、『教行信証』信文類(『註釈版聖典』二五一頁)からの一文です。
親鸞聖人の教えの特色として真っ先にあげられるのは、他力回向の教えです。聖
人において、回向とは『一念多念文意』に、

「回向(えこう)」は本願(ほんがん)の名号(みょうごう)をもって十方(じっぽう)の衆生(しゅじょう)にあたへたまふ御(み)のりなり。
(『一念多念文意』、『註釈版聖典』六七八頁)

と述べられるように、阿弥陀仏が本願力をもって、その功徳のすべてをあらゆる衆
生にふり向け与えられることを意味します。親鸞聖人の教えのなか、最も大切な信
心についても、「本願力回向の信心」と表現されるように、信心は私たちがおこすも
のでなく、阿弥陀さまの本願の力・はたらきによって与えられるものであるといわれています。
これについて、『歎異抄』後序(ごじょ)に記される信心一異(しんじんいちい)の論争に、親鸞聖人の信心理解
を見ることができます。信心一異と申しますのは、親鸞聖人の信心と師匠である法
然聖人の信心は同一か、それとも異なっているのか、という論争です。

  故聖人(こしょうにん)(親鸞)の御物語(おんものがたり)に、法然聖人(ほうねんしょうにん)の御時(おんどき)、御弟子(おんでし)そのかずおはしけるなか
に、おなじく御信心(ごしんじん)のひともすくなくおはしけるにこそ、親鸞、御同朋(おんどうぼう)の御中(おんなか)にして御相論(ごそうろん)のこと候(そうら)ひけり。そのゆゑは、「善信(ぜんしん)(親鸞)が信心(しんじん)も、聖人(法然)  の御信心も一つなり」と仰せの候ひければ、勢観房(せいかんぼう)・念仏房(ねんぶつぼう)なんど申す御同朋達、もつてのほかにあらそひたまひて、「いかでか聖人の御信心に善信房の信心、一つにはあるべきぞ」と候ひければ、「聖人の御智慧(おんちえ)・才覚ひろくおはしますに一つならんと申さばこそひがごとならめ。往生の信心においては、まったく異なることなし、ただ一つなり」と御返答ありけれども、なほ「いかでかその義あらん」といふ疑難(ぎなん)ありければ、詮(せん)ずるところ、聖人の御まへにて自他の是非を定むべきにて、この子細を申しあげければ、法然聖人の仰せには、「源空(げんくう)か信心も、如来よりたまはりたる信心なり。善信房の信心も、如来よりたまはらせたまひたる信心なり。さればただ一つなり。別の信心にておはしまさんひとは、源空がまゐらんずる浄土へは、よもまゐらせたまひ候はじ」と仰せ候ひしかば当時の一向専修(いっこうせんじゅ)のひとびとのなかにも、親鸞の御信心に一つならぬ御ことも候
ふらんとおぼえ候ふ。           (『註釈版聖典』八五一-八五二頁)

法然聖人がご在世のとき、数多い弟子の回で親鸞聖人と同一の信心の人は少なか
ったと見え、親鸞聖人があるとき、「自分の信心も師匠である法然聖人の信心も、同
一であって変わることはない」と言われたところ、勢観房や念仏房などの同門の人
だちから、「どうして師匠の法然聖人と四十歳年下の弟子である善信(親鸞聖人)の
信心が同一であろうか」という、異論が出たのです。
この文では、親鸞聖人のことを「善信」といわれています。「緯空(しゃくくう)」から「善信」に名を改められたのが親鸞聖人三十四歳のときで、三十五歳のとき流罪になられましたのでこの論争があったのはおそらく親鸞聖人三十四歳のときであろうといわ
れています。

法然聖人のお弟子

またこの文には、法然聖人の門弟として勢観房と念仏房の二人の名前があげられ
ています。勢観房という方は法名を源智といい、幼いときから法然聖人の弟子とな
り、聖人の衣鉢(いはつ)、すなわち師匠と弟(えんどんかい)子の法の伝授を受け継ぐほど、最も信頼を得ていた方です。法然聖人から天台の円頓戒(円満で頓ちにさとりに至る戒という意味で、
天台の大乗戒を指す)を受戒して、戒律を厳守しか生涯を送り、親鸞聖人より十一歳
年下です。法然聖人の絶筆となった「一枚起請文」を要請し、聖人の臨終のときに
は、枕元に仕えていた弟子の一人です。
もう一人の念仏房という方は、念阿弥陀仏(ねんあみだぶつ)という呼び方をされ、もとは天台の学僧でした。法然聖人五十四歳のとき、のちに天台の座主となる顕真の懇請によって、大原二一千院の隣にある勝林院というお寺で、大原問答あるいは大原談義ともいわれる、各宗の学匠の集会が催されました。東大寺の重源、三論宗の明遍、法相宗
の貞慶、天台宗の智海や証真など、当時の鈴々たる学匠が二十数人集まるなかで、
念仏房は、比叡山を代表する問者に選ばれるほどの抜き出た秀才であったといわれ
る方で、親鸞聖人より十六歳年長です。
大原問答で、法然聖人は、なぜ念仏が勝れているのか、念仏一つで往生できるの
か、ということを懇々と語っていかれたといわれます。そして、さまざまな宗派の
教えがあるけれども、その教えはいずれも優れているとして、ほかの教えを決して
低めず、自分のような愚かな者には道緯禅師や善導大師が説かれた念仏の教えし
かないということを、累々主張していかれたのです。その主張に感銘を受けた一人
が念仏房であり、のちに法然聖人の門下となられたのです。
もう一人の念仏房という方は、念阿弥陀仏(ねんあみだぶつ)という呼び方をされ、もとは天台の学僧でした。法然聖人五十四歳のとき、のちに天台の座主となる顕真の懇請によって、大原二一千院の隣にある勝林院というお寺で、大原問答あるいは大原談義ともいわれる、各宗の学匠の集会が催されました。東大寺の重源、三論宗の明遍、法相宗の貞慶、天台宗の智海や証真など、当時の鈴々たる学匠が二十数人集まるなかで、念仏房は、比叡山を代表する問者に選ばれるほどの抜き出た秀才であったといわれる方で、親鸞聖人より十六歳年長です。
大原問答で、法然聖人は、なぜ念仏が勝れているのか、念仏一つで往生できるの
か、ということを懇々と語っていかれたといわれます。そして、さまざまな宗派の
教えがあるけれども、その教えはいずれも優れているとして、ほかの教えを決して
低めず、自分のような愚かな者には道緯禅師や善導大師が説かれた念仏の教えし
かないということを、累々主張していかれたのです。その主張に感銘を受けた一人
が念仏房であり、のちに法然聖人の門下となられたのです。
作り上げるものではなく、阿弥陀如来から賜った他力回向の信心であるということ
が、法然聖人の言葉に示されているのです。従来は、法然聖人は他力ということは
強調されたけれども、親鸞聖人のように他力回向までは主張されなかったといわれ
てきました。しかし、「如来よりたまはらせたまひだる信心」という表現には、他力
回向という意味が明らかに見受けられるのです。

   如来より与えられた信心

では、阿弥陀如来より賜った、与えられた信心とは、具体的にどういうことでし
ょうか。
私事ではありますが、二〇一六(平成二十八)年三月に中央仏教学院を退任し、自
坊(広島県三原市)を拠点とした新たな生活が始まりました。ただ退任するまでの約
十年間は、京都と自坊との間を新幹線で年間約五十往復してきましたので、久しぶ
りに帰省したという感覚はありませんでしたが、長年住み慣れた京都を離れる寂しさは感じました。
そうしたなか、初めてマツダスタジアムにプロ野球の観戦に行きました。「カ≒フ
女子」という名前が全国的に広まっていますが、女性だけではなく老若男女を問わ
ず、上昇チームである広島カープの人気は高く、地元球場での観戦チケットを入手
するのは非常にむずかしいのが現状です。したがって、半ば観戦を諦めていた矢先、
たまたま親戚から貴重なチケットを二枚いただきましたので、坊守と一緒に観戦に
行きました。宣]つ赤に染まった球場の様子をテレビで見ていましたので、入場前に
二人そろって赤いユニホームを購入し、それを着用してファン一丸となって一喜一
憂しながら応援しました。
野球の応援には、声援あり、拍手あり、ウェーブありの、さまざまな行動があり
ますが、その元は広島カープというチームの活躍があるからにほかなりません。広
島カープの活躍によって、多くのファンが熱心に応援するのです。応援するすがた
を見れば自ら力を振り絞っているのですが、カープというチーム、そしてその活躍がなければ、球場に足を運ぶことも、一丸となって応援することもあり得ません。
そうしたことを考えれば、ファンの応援はカープというチームから与えられたもの
であるといってもよいでしょう。
本願力回向といわれる信心も、阿弥陀さまのあらゆるものを必ず救うという本願
の力・はたらきがあったからこそ、そのはたらきにすべてをまかせるという信心が
おこるのです。そういう意味で、信心は阿弥陀さまの本願のはたらきによって与え
られるものであるといえましょう。
(白川 晴顕)

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2019年9月のことば  わがこころよければ 往生すべしとおもうべからず

往生の要因

九月のことぼは、親鸞聖人が笠間(現・茨城県笠間市)の門弟の疑問に答えられた、ご消息に出てくる一文です。このご消息では、最初に「自力」「他力」の説明がなされ、つづいて次のように記されています。

  しかれば、わが身のわるければ、いかでか如来迎へたまはんとおもふべからず。  凡夫はもとより煩悩具足したるゆゑに、わるきものとおもふべし。またわがこころよければ、往生すべしとおもふべからず。自力の御はからひにては真実の報土へ生るべがらざるなり。      (『註釈版聖典』七四七頁、傍線引用者)

この文を現代語訳すると、次のようになります。

ですから、この身が悪いから、阿弥陀仏が迎え取ってくださるはずがないと思ってはなりません。凡夫はもとより煩悩を身にそなえているのですから、自分は悪いものである知るべきです。また、自らの心が善いから、往生することができるはずだと思ってはなりません。自力のはからいでは、真実の浄土に生れることはできないのです。
(『親鸞聖人御消息 恵信尼消息(現代語版)』二一頁、傍線引用者)

この「凡夫はもとより煩悩具足したるゆゑに、わるきものとおもふべし。またわがこころよければ、往生すべしとおもふべからず」という一連の文は、往生の要因について説きつつ、また人間の本質について言及した深い言葉となっています。
ここで批判されている考え方は、『歎異抄』などでも同様に批判されている「賢善精進」の思想といえます。「賢善精進」とは、善を積みあげ賢くなり精進していくことで、自身の浄土への往生がより引き寄せられていくとする考え方です。生前の行為下善行)と来世での果報との間に一定の相関があると考えます。そのため、それこそが往生の道だと思う人たちは、この世ではできるだけ善い行いをし、多く学問して賢くなり、日々精進してその継続や蓄積による功徳をたのみにしました。これらは確かに重要なことではありますが、法然聖人・親鸞聖人の浄土教の捉え方とは異なった道でした。

仏教における行の歴史

しかし、そもそも仏教の伝統をふりかえると、古くは「七仏通誠偶」に、

諸悪莫作(しょあくまくさ) 衆善奉行(しゅぜんぶぎょう)

自浄其意(じじょうごい) 是諸仏教(ぜしょぶっきょう)

(もろもろの悪を作すこと莫く もろもろの善を奉行し 自ら其の意を浄くす 是がもろもろの仏の教えなり)

とあるように、仏教では善業を行うこと(=衆善奉行)こそが、諸仏が同様に主張されていた道であるとされていました。この考え方は、その後も仏教の伝統において形を変えつつ、繰り返し説かれます。例えば、戒定慧の三学、六波羅蜜の修行、天台宗であれば一念三千の止観行、真言宗であれば三密の行などが、それにあたります。このように、善行や善業を行うことでさとりへのステージを一つひとつ登ると考える伝統が仏教にはありました。
また、この状況は、来世に天へ生まれるというインド社会の一般信者の考え方においても同様でした。この生天思想は、現世と来世の二つの境界をまたぐことを説いていますが、そこにおいて、その二つをつなぐ力となるものとして、生前の善業があると考えられました。この生天思想とある種の影響関係にあるなかで、浄土教の往生の考え方も出てきています。

浄土教における新たな行の展開

仏教のなかで、浄土教(浄土門)では、他の一般仏教(聖道門)のようにこの世界のなかでさとりの段階をあげていくという行ではなく、別種の極楽国土に往生する行というものが新しいテーマとなりました。それは「往生行」といわれますが、その「往生行」においても、阿弥陀仏や極楽浄土と私たちをつなげる行として、古来よりさまざまな善や観法が求められました。経典に説かれる内容に従い、六波羅蜜の修行や布施や寄進を行うことにより、よりよい形で極楽へ往生することも目指されました。
こうして、長い間、浄土教においても善行・善業の蓄積を重視する伝統があったのですが、法然聖人や親鸞聖人の日本浄土教では、従来の道とは異なる往生の業が示されました。
親鸞聖人の考え方は、長い間、それまで伝統としてあった善業の思想(善因楽果の思想)と「往生の行」とを合わせてみていくような考え方と、大きく距離をとることになりました。それは、これまでの自力による善の積みあげを超えた、新しい浄土の行でした。すなわち、先にも触れました『無量寿経』の阿弥陀仏の本願(第十八願)には、

  たとひわれ仏を得たらんに、十方の衆生、至心信楽してわが国に生ぜんと欲ひて、乃至十念せん。もし生ぜずは、正覚を取らし。ただ五逆と誹誇正法とをば除く。                       (『註釈版聖典』 一八頁)

とありますが、親鸞聖人が重視されましたのは、その本願に則ったところの念仏と信心であり、他力の信行です。まさに阿弥陀如来によって選択された本願に説かれているままの行を、ただそのままに行う信行であり、自力の蓄積とは根本的に異なった行いということになります。

愚者になりて往生する道

ここで再度、今回のご消息の一文「わがこころよければ、往生すべしとおもふべからず」をふり返り分析しますと、この一節の内実としましては、

わが心よくて
→ そしてその善い心を前提として善行を積み重ね
→ その功徳によって往生する

という順序が見受けられます。親鸞聖人は、そのようなメンタリティー(精神性)全体に対して批判をされていますが、とりわけ、その最初の「わが心善くて」という出発点に問題性を見ておられるようです。
先に引用しました「七仏通誠偶」では、了目ら其の意(心)を浄める(自浄其意)」とありましたが、親鸞聖人は、そもそも自分の心が善くあることはできない、という前提を持っています。果たして、私たちの心は善くある(また、あり続ける)ことができるのでしょうか。親鸞聖人は、そのことについて、生涯自問し続けられました。
親鸞聖人が比叡山の修行での挫折を通し、またその後の人生を通してかみしめられた事実は、「わが心が善くない」という思いであったと考えられます。その思いを普遍化した結果、自己を基点として善行を積みあげていきたいとする考え方を、遠ざけられたのだと考えられます。
『歎異抄』第十三条にも、類似の文言として。

  わがこころのよくてころさぬにはあらず。     (『註釈版聖典』八四三頁)

というI節がみられます。また、その著作の処々において、ご自身の心は「虚仮不
実」(『正像末和讃』)であり、「蛇蝸のごとくなり」(『正像末和讃』)であるともおっしやられており、人間の心というものの不確実性を見定めておられます。
そういう意味では、T心の善き自分というもの」を前提として出発する「行」というものに対して、聖道門の伝統(=自力の行)との決別があったと考えられます。
三月のことば(四三頁)でも触れられていた、法然聖人の最晩年の「一枚起請文」には、

  念仏を信ぜん人は、たとひ一代の法をよくよく学すとも、一文不知の愚鈍の身になして、尼入道の無智のともがらにおなじくして、智者のふるまひをせずして、ただ一向に念仏すべし。           (『註釈版聖典』 一四二九頁)

と、念仏を信じる者は「智者のふるまひをせず」とおっしやっておられます。また、親鸞聖人のご消息にも、法然聖人は、

浄土宗の人は愚者になりて往生す    (『親鸞聖人御消息』、『同』七七一頁)

とおっしゃっておられたという記述が見られます。この「愚者になりて往生する道」を
法然聖人から親鸞聖人はいただかれ、人々にも説いていかれたのです。
(佐々木 大悟)

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2019年8月のことば 涅槃の真因はただ信心をもってす

三心と一心

七月のことば(九四頁)でも触れた、『無量寿経』の第十八願には、

  たとひわれ仏(ぶつ)を得(え)たらんに、十方(じっぽう)の衆生(しゅじょう)、至心信楽(ししんしんぎょう)してわが国に生(しょう)ぜんと欲ひて、乃至十念(ないしじゅうねん)せん。もし生(しょう)ぜずは、正覚(しょうかく)を取(と)らし。ただ五逆(ごぎゃく)と誹諧正法(ひほうしょうほう)とをば除く。                       (『註釈版聖典』 一八頁)

とあります。ここにありますように、もともとは漢文での第十八願で説かれる「至心信楽、欲生我国」とは、「至心信楽して、わが国に生ぜんと欲ひて」と書き下されるように、一心から信じて、わたしの国に生まれたいと願う」というような、心の動きのことを表していました。
親鸞聖人は、この第十八願は「至心・信楽・欲生」という三つの心について説かれているとみられました。(それは、もともと法然聖人がみられた理解を引き継ぐものでした。)
四月のことば(五六頁)でも少し触れられていましたが、親鸞聖人は『教行証文類』信文類において、この第十八願の三心を天親菩薩の論書である『浄土論』のなかの、

  世尊我一心 帰一命尽十方 無尋光如来 願安楽国。
(『浄土真宗聖典全書』」』三経七祖篇、四三三頁)

(世尊(せそん)、われ一心に尽十方無磯光如来(じんじっぽうむげこうにょらい)に帰命(きみょう)したてまつりて、安楽国(あんらくごく)に生(しょう)ぜんと願(がん)ず。
『註釈版聖典(七祖篇)』二九頁)

の「一心」と、同一のものかどうかを問題にされます。ちなみにこの「一心」は、もとはおそらく「一心に」(心から信じて)というように副詞的に使用されていると思われますが、親鸞聖人の『教行証文類』信文類では、「一心」とは「一つの心(で)」というように名詞でとらえられています。また、この議論は古来「三一問答」といわれています。その「三一問答」の答えの部分に今回の言葉は出てきます。

問ふ。如来の本願(第十八願)、すでに至心・信楽・欲生の誓を発したまへり。  なにをもつてのゆゑに論士(天親)「一心」といふや。

答ふ。愚鈍の衆生、解了易からしめんがために、弥陀如来、三心を発したまふといへども、涅槃の真因はただ信心をもつてす。このゆゑに論主、三を合して一とせるか。                   (『註釈版聖典』二二九頁)

(問うていう。阿弥陀仏の本願には、すでに「至心・信楽・欲生」の三心が誓われて  いる。それなのに、なぜ天親菩薩は「一心」といわれたのであろうか。
答えていう。それは愚かな衆生に容易にわがらせるためである。阿弥陀仏は「至  心・信楽・欲生」の三心を誓われているけれども、さとりにいたる真実の因は、ただ信心一つである。だから、天親菩薩は本願の三心を合せて一心といわれのたであろう。『顕浄土真実教行証文類(現代語版)』 一九三頁)

再度、「三一問答」の議論を確認してみましょう。『無量寿経』の第十八願では、「至心・信楽・欲生」の三心が説かれています。天親菩薩の『浄土論』のなかでは二心」が説かれています。すると疑問が生じます。阿弥陀さまが誓われた本願と、天親菩薩の自ら信心を明らかにされた帰敬の言葉とに、隨証があるとは考えにくいことですが、この二つの関係をどのように考えればいいのでしょうか? 親鸞聖人は、このような問いを設けられました。そして(自分自身による)答えとして、『浄土論』で「一心」が説かれたのは、信心を十分によく理解できない衆生に対して容易にわがらせるためである、と説かれました。その一心は、「三一問答」の展開に従うと、(『無量寿経』の)三心がおさまったところの「信楽」と同一です。その「信楽」こそが「一心」です。こうして、『無量寿経』で誓われた阿弥陀さまの本願である「三心」と、天親菩薩の帰敬の言葉である「一心」との間には、矛盾がないことを示されました。
この流れをうけて、「涅槃の真因はただ信心をもつてす」という一文が出てくるのです。したがって、ここでは「信心」とは複雑なものではない「一心」のことであり、その「信心」は経典においても論書においても共通して説かれており、かつ涅槃の真実の因であるということが、主張されているのです。

「涅槃」の意味

「涅槃」とは梵語ニルヴァーナの音写とされ、意訳としては「滅度」とされています。これは、釈尊以来、迷いの世界である輪廻を解脱するものとして、仏教で一貫して目標とされている静かなさとりの境地(涅槃寂静)のことをいいます。
その涅槃に至る道には、初期仏教以来、瞑想、六波羅蜜、天台の止観、真言の三密、禅など、さまざまな方法(行)が提唱されてきました。浄上教も釈尊一代の仏教の流れにあり、浄土に往生した後に得るという相違はありますが、目標はやはり同じく涅槃です。
この伝統に則って、「涅槃の真因はただ信心をもつてす」という言葉が生まれているのですが、この表現は、おそらく法然聖人の『選択集』を承けたものと考えられます。

  生死の家には疑をもって所止となし、涅槃の城には信をもって能人となす。
(『註釈版聖典(七祖鎬)』 コー四八頁)
(迷いの世界に輪廻し続けるのは、本願を疑いはからうからであり、さとりの世界に入るには、ただ本願を信じるよりほかはない。)

と法然聖人は述べられました。親鸞聖人はおそらくこの文を継承して、その涅槃の本当の原因が「信心」であるとしています。すなわち「信心(ー心・信楽)」が涅槃の真因であるとされました。(ただし、細かく見ると、二つの文章には、「信」と「信心」という相違、また「能入」と「真因」という相違があります。)

  「信心」の重視

ここで取り上げられている「信心」という語は、浄土教の伝統を大きくさかのぼると、先にも挙げた『無量寿経』の第十八願成就文に由来します。

  あらゆる衆生、その名号を聞きて、信心歓喜せんこと、乃至一念せん。至心に回向したまへり。かの国に生れんと願ずれば、すなはち往生を得、不退転に住せん。ただ五逆と誹膀正法とをば除く。 (『註釈版聖典』四一頁、傍線引用者)

(無量寿仏の名を聞いて個白喜び、わずか一回でも仏を念じて、心からその功徳をもっ  て無量寿仏の国に生れたいと願う人々は、みな往生することができ、不退転の位に至るのである。ただし、五逆の罪を犯したり、仏の教えを膀るものだけは除かれる『浄土二部経(現代語版)』七一頁、傍線引用者)

この成就文に出てくる「信心」という言葉を親鸞聖人は重視され、『教行証文類』信文類をはじめさまざまな箇所で言及する中心の語として使用されました。また浄土真宗の中心の概念(信心正因)ともなっていきます。

「教行証」の体系と「教行信証」の体系

仏教は伝統的に行を中心として体系づけられており、法然聖人も専修念仏を主張されました。法然聖人は、「念仏」という行を表に出して諸行との優劣を語ることによって、一般仏教と浄土宗との違いを明らかにされました。こうして、「行」を基点としてギリギリのところで諸宗派と対峙しておられたのです。親鸞聖人は、法然聖人の没後、師の姿勢をより鮮明にされ、それら諸行と念仏の違いを「信心」という一心」の問題を交じえつつ説きました。
それまで体系的には、「教において行じて証る」という「教行証」という仏道の過程で議論されていたところに、親鸞聖人は「信」という概念を別に設けて、「教において行じて(信じて)証る」という「教行信証」という新しい体系を示されたのです。
おそらく、そのように説くことが最も実感に洽うものだったと思われます。そのなかで、伝統的に語られてきた「行」ではないものを涅槃の因として前面に押し出したところに、親鸞聖人の教義の特色があります。そして、それは仏教・浄土教の歴史において大きな展開点となっています。
親鸞聖人は、『教行信証』(『教行証文類』)において、この「信」を中心にした新しい体系を理論的に構築していきます。「信」の意義を拡大し、それを中心に教義付けました。そして、その「信心」の反対となる「疑」(はからい)を最も忌避すべきこととしました。こうして法然聖人とは違う角度から、独自に法然聖人の教えを補いつつ説かれているということができます。

信にもとづいた新たな仏道

また、この「涅槃の真因はただ信心をもってす」という一文を丁寧に語る場合、実際の時間の経過として、浄土教の伝統に則って分析するならば、

信心の獲得

往生する

浄土の理想的な修行環境
入正定聚・必至滅度の誓い(第十一願)のはたらき

涅槃(滅度)に至る

という過程が考えられます。それらを省略して、因果関係の論理に焦点をあて、大きくほかの要素を省略しますと、「涅槃の真因はただ信心をもつてす」(『註釈版聖典』二二九頁)ということになります。
八月のことぼけ、「涅槃の真因はただ信心をもつてす」という語り方によって法然聖人の念仏往生の教えを説かれたものです。それは、「ただ信心」という複雑でない言い方によって多くの人を誘引し、伝統にしばられず、人間の内面に焦点をあてて新しい仏道というものを示された言葉といえます。
(佐々木 大悟)

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2019年7月のことば 浄土真宗のならいには 念仏往生ともうすなり

『一念多念文意』の概略

七月のことばは、『一念多念文意』の後半(『註釈版聖典』六九四頁)に出てきます。
『一念多念文意』は『一念多念証文』とも呼ばれ、法然聖人門下で兄弟子であった隆寛律師(1148~1227)の著書である『一念多念分別事』に引証された経文の要文や関連する諸文をあげ、親鸞聖人が註釈を施されたものです。それぞれ、二念往生」に対する証文を十三文、例えば、

諸有衆生 聞其名号 信心歓喜 乃至一念 至心回向
願生彼国 即得往生 住不退転(『註釈版聖典』六七七-六七八頁)

「多念往生」に対する証文を八文、例えば、

一日乃至七日、名号をとなふべし             (「同」六八六頁)

をあげて、そして最後に、この「浄土真宗のならひには、念仏往生と申すなり」という文章でまとめています。実際にその結論部分をみますと、

  おもふやうには申しあらはさねども、これにて一念多念のあらそひあるまじきことは、おしはからせたまふべし。浄土真宗のならひには、念仏往生と申すなり、まったく一念往生・多念往生と申すことなし。これにてしらせたまふべし・
南無阿弥陀仏           (『註釈版聖典』六九四頁、傍線引用者)

とあります。
この親鸞聖人のご文について、梯賓圓師は次のように現代語訳されています。

思っていることを充分に言い表すことはできなかったけれども、上来引証してきた証文と、その文意によって、一念を立てて多念を否定したり、多念を立てて一念を否定したりするような論争などしてはならないということは、わかっていただきたい。ヽ` 真宗の法義は念仏往生であると聞いている。決して一念往生の法義でも、多念往生の法義でもない。そのことをこれらの文証を通してよく心得ていただきたい。
南無阿弥陀仏。     (梯賓圓著『一念多念文意講讃』四一一頁、傍線引用者)

親鸞聖人が用いられる「浄土真宗」という語には多義ありますが、この文脈での「浄土真宗」とは、広く言えば、善導大師から法然聖人まで伝えられてきた浄土教の教えの流れ、より限定すれば法然聖人の浄土宗のこころという意味にとれるのではないかと思います。また、「ならい」という言葉も、ここでは「伝え聞くこと」くらいの意味が考えられます。
「一念」と「多念」

親鸞聖人当時には、「一念往生」「多念往生」の論争がありました。一念多念とは、丁寧にいうと一念義、あるいは多念義のことをいいます。一念義とは、浄土往生は一声の念仏で決定するという考え方をいいます。一方、多念義とは一生涯、できるだけたくさんの念仏を称え、その功徳によって浄土往生が決定するという考え方をいいます。このような一念多念といった「念の多少」を問題とする見方に対する反証的な文章として、親鸞聖人の「浄土真宗のならいには、念仏往生と申すなり」という一文が語られているといってよいでしょう。「一念往生≒多念往生」といった言い方のほかにも、「十念往生」といった言い方もありますが、ここで「一念往生」や「十念往生」ではなく「念仏往生」という言い方をされているのは、念仏の回数へのこだわりを無効化させたいという意図があったと考えられます。

「一念多念」という問題の発端

そもそも、浄土教においては、念仏を声に出して称える回数、称名念仏として「一念多念」が問題となる前段階として、多くの経典の読誦や阿弥陀仏への礼拝や観察といったさまざまな行のなかから、往生のための行(修行)として、称名念仏行が選ばれたという経緯があります。善導大師が「称名正定業」(「観経疏」「散善義」、「註釈版聖典(七祖篇)」四六三頁)といわれたように、そのようなさまざまな行からひとたび称名念仏が選ばれた後は、その念仏をいったい何回称えるべきかということが問題となりました。
この一念往生・多念往生の論争は、おおもとにまでさかのぽると、四月のことば金三頁)でも触れられた、『無量寿経』の第十八願に、

  たとひわれ仏を得たらんに、十方の衆生、至心信楽してわが国に生ぜんと欲ひて、乃至十念せん。もし生ぜずは、正覚を取らじ。ただ五逆と誹膀正法とをば除く。                (「註釈版聖典」 一八頁、傍線引用者)

とあり、「十念」(乃至十念)と説かれるところに発端があります。また一方で、第十八願成就文には「一念」(乃至一念)と説かれています。

あらゆる衆生、その名号を聞きて信心歓喜せんこと、乃至一念せん。至心に回向したまへり。かの国に生れんと願ずれば、すなはち往生を得、不退転に住せん。ただ五逆と誹膀正法とをば除く。       (「註釈版聖典」四一頁)
(無量寿仏の名を聞いて信じ喜び、わずか一回でも仏を念じて、心からその功徳をもって無量寿仏の国に生れたいと願う人々は、みな往生することができ、不退転の位に至るのである。ただし、五逆の罪を犯したり、仏の教えを膀るものだけは除かれる『浄土三部経(現代語版)』七一頁)

ちなみに、ここで「一念多念」の問題となっているうちの「一念往生」の「一念」という用語は、この第十八願成就文にある「一念」という語に由来します。
これら願文(十念)と成就文(一念)の間に細かい鮭髄があるところから、いったい行者は十念を行えばよいのか、一念を行えばよいのか、あるいはもっと多く念仏すべきなのか(例えば、百万遍)、総じて何回念仏すべきなのかということが問題となっていったと考えられます。
おおもとである『無量寿経』において、願文と成就文がともに「一念」で統一されていたり、あるいはともに「十念」であったりしていれば、あるいは、このような問題が後世に波及するようなことはなかったかもしれません。

念仏から信心への展開

そのおおもとの問題である第十八願文とも関連しますが、二念多念」の論争に対しては、別にこの第十八願に対してどのような願名をつけるのか、という願名の変遷を眺めることからも、みていくことができます。
『無量寿経』には本願文が四十八文あります。註釈がなされる初期段階ではそうではなかったのですが、註釈の歴史のある段階以降、徐々にそれぞれの願に名前がつけられるようになります。それは、新羅の法位(七世紀頃)の『無量寿経義疏』という註釈書が嘆矢とされています。本願名については、法位以降もさまざまな名前がっけられ、異なったまとめ方がなされるようになりました。(その願名は、それぞれの誓願の意味の中心をとった要約ととることができます。)例えば、唐の懐感(七世紀頃)は第十八願を「十念往生之願」、日本では奈良時代の智光(七〇九-七八〇頃)は「諸縁信楽十念往生願」と名づけました。また、同じく良源(九一二-九八五)は「聞名信楽十念定生願」と名づけていたことが知られています。これら諸師はいずれも、「十」という回数に注目していたことがうかがわれます。
法然聖人は、諸師の第十八願の願名に対して、「念仏往生の願」というシンプルな願名を採用されています。「念仏往生の願」という願名には、「十念」という回数ではなく、ただ「念仏」によって「往生」することを示したかったという意識がうかがえます。すなわち、念仏が本願に誓われた行いであるというところに力点があります。また、法然聖人が別に示された「選択本願」という言い方もありますが、これも阿弥陀仏によって選択された願(そしてそこに説かれる念仏)というところに焦点があたった願名であるといえます。
これらを総合しますと、親鸞聖人は「浄土真宗のならひには、念仏往生と申すなり」と、師である法然聖人の真意を承けた「念仏往生」の語をやはり選んで使用されていたと考えられます。法然聖人滅後も、二念多念」の問題は継続していたようです。
ちなみに、親鸞聖人は、第十八願に「往相信心之願」「本願三心之願」という願名をつけられました(『顕浄土真実教行証文類(教行証文類)」信文類、『註釈版聖典』二一一頁)。これは、「十念」という念仏の問題を心の問題に移行させ、「信心」の問題と受け止められたからです。このことは、これらの念仏の多少の論争と決別し、距離を置くという意味もあったことが考えられます。          (佐々木 大悟)

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2019年6月のことば 無擬の光明、信心の人をつねにてらしたまふとなり。

日常の孤独

現在、私は妻と二人の娘とともに京都に住み、私と妻の両親は、それぞれ車で一、
二時間ほどの距離のところに住んでいます。いわゆる核家族です。両親はたまに手助けに来てくれますが、基本は妻と私、特に妻が子育てをしています。妻は、児童館の子育て教室にもたまに出かけたりしますが、小さな子どもがいるとなかなか思うように出かけられません。子育てをしていると、世間から取り残されているようだ、と感じることもあるようです。今は町中に住んでいて、まわりには人が多くい
ます。それでも一歩、家のなかに入ってみると、世の流れと断ち切られたような、子育てに追われる家族の孤立、孤独があります。

源信和尚のお言葉

六月のことばは、親鸞聖人の『尊号真像銘文(そんごうしんぞうめいぶん)』のなか、源信和尚の銘文よりいただいています。

  無擬の光明、信心の人をつねにてらしたまふとなり。
(『註釈版聖典』六六二頁)

『尊号真像銘文』の「尊号」とは、礼拝対象としての阿弥陀さまの名号(南無阿弥陀仏や帰命尽十方無眼光如来など)のことで、「真像」とは、親鸞聖人が大切にされた祖師方の肖像画のことです。「銘文」とは、掛け軸をイメージしていただくと(イメージしづらいかもしれませんが)、中央に絵や文字があり、その上下に文章が付されているものがあります。その付されている文章が「銘文」で、経典や祖師方の書物の文章となります。この「尊号」や「真像」の上下に付されている「銘文」について、親鸞聖人が解説を施されている書物が『尊号真像銘文』となります。そのなか、今月の法語は、源信和尚の「往生要集」の文章についての解説のなかの一文となります。
源信和尚は、平安時代中期の比叡山の僧です。その主著である『往生要集』では、人は、この迷いの世界(穢土(えど))を厭(いと)い離れ、お浄土の世界を欣(ねが)い求めるべきであり、念仏によってお浄土に往生していくことが記されています。この書は、浄土教の流
れに大きな影響を与え、後の親鸞聖人も源信和尚を敬われ、浄土真宗では七高僧のお一人となっています。
源信和尚は、この『往生要集』のなかで、私たちが依りどころとする「浄土三部経」の一つである『観無量寿経』の、

  一一光明、偏照二十方世界念仏衆生摂取不捨。
(『浄土真宗聖典全書目』三経七祖篇、八七頁)
一々(いちいち)の光明(こうみょう)は、あまねく十方世界(じっぽうせかい)を照(て)らし、念仏(ねんぶつ)の衆生(しゅじょう)を摂取(せっしゅ)して捨(す)てたまはず。
『註釈版聖典』 一〇二頁)

のご文を受けて、

  またかの一々の光明、あまねく十方世界の念仏の衆生を照らして、摂取して
捨てたまはず。              (「註釈版聖典(七祖篇)』九五六頁)

と示され、このご文に続いて、

  我亦在彼摂取之中 煩悩障眼雖不能見、大悲無倦常照我身
(『浄土真宗聖典全書』‥』三経七祖篇、一一〇八頁)
(われまたかの摂取のなかにあれども、煩悩、眼を障へて、見たてまつることあたはずといへども、大悲倦むことなくして、つねにわが身をてらしたまふ。
「註釈版聖典(七祖篇)』九五六-九五七頁)

と示されます。
阿弥陀さまの光は、あらゆる世界の人々を照らし、摂め取って捨てられないけれども、私は煩悩に覆われて、仏さまを見たてまつることができない。にもかかわらず、阿弥陀さまの大いなる慈悲のはたらきは、このような私を見捨てることなく常に照らし続けてくださっている、という意です。

大悲無倦常照我

親鸞聖人は、源信和尚のこのご文をとても大切にされました。先はどの「我亦在
彼・:」というご文を読まれた方は、どこかで聞いたことがあるという思いを持たれ
た方も多いのではないでしょうか。私たちがお勤めする「正信偶」の、

  我亦在彼摂取中
煩悩郭眼雖不見
大悲無倦常照我             (『日常勤行聖典』三二頁)

(われまたかの摂取のなかにあれども、煩悩、眼を障へて見たてまつらずといへども、大悲、倦きことなくしてつねにわれを照らしたまふといへり。『註釈版聖典』二〇七頁)

の一節は、この『往生要集』のご文に基づいていますし、源信和尚のことを詠われた『高僧和讃』では、

  煩悩にまなこさへられて
摂取の光明みざれども
大悲ものうきことなくて
つねにわが身をてらすなり            (「註釈版聖典」五九五頁)

と詠まれています。
そして『尊号真像銘文』では、源信和尚のご文を銘文として解説が施され、「常照我身」の「照」の解説として、

無磯の光明、信心の人をつねにてらしたまふとなり。つねにてらすといふは、つねにまもりたまふとなり。            (『註釈版聖典』六六二頁)

とお示しくださっておられるのです。阿弥陀さまのなにものもさまたげとならない光は、常に照らし護ってくださっているのです。私は煩悩に覆われて、仏さまを見たてまつることができない、にもかかわらずです。

厭い離れるべき世界

源信和尚の『往生要集』では、この迷いの世界を厭い離れ、浄土を欣い求めるべきことが説かれます。この迷いの世界(地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天)の説示として、特に地獄のありさまが綾々説かれていることが有名ですが、今のこの人間界のありさまについても読み応えがあります。
人間界のありさまとして、種々の経典から、不浄・苦・無常のすがたがあると示されます。不浄とは「清らかではない」ということですが、もっと具体的には汚いということで、例えば「髄より膚に至るまで、八万戸の虫あり」(『註釈版聖典(七祖篇)』八三〇頁)と、私たちの体にはさまざまな虫がいると書かれています。最近はあまり聞かれなくなりましたが、一昔前まではシラミに人々は悩まされました。死してのちは、姐などの虫に食されるのが私たちでした。また、どんなに美味しいものを食べても、便・尿として出さざるをえないのが私です。
苦のすがたとは、仏教では人生のすがたを苦として捉えますが、やはり少し具体的に書かれています。例えば。

  この五陰の身は、一々の威儀、行住坐臥、みな苦にあらずといふことなし。
(『註釈版聖典(七祖篇)』八三四頁)

と、「歩いて苦しく、立って苦しく、座って苦しく、寝て苦しい」と書かれています。
体のどこかに痛みを抱えておられるかたも多いのではないでしょうか。私の場合は
膝ですが、ひどいときは歩いても、立っていても、座っていても、さらには寝ていて
も痛みがあり、そのような痛みと付き合っていかざるをえない日々を送っています。
そして、無常のすがたとは。

  一切のもろもろの世間に、生ぜるものはみな死に帰す。   (「同」八三五頁)

と、かならずみな死が訪れるのであり、どんなに長い寿命があったとしても終わりがあることが示されます。
源信和尚は、このような不浄・苦・無常のありさまである人間の世界を厭い離れるべきであると示されます。
『往生要集』では、人の世のすがたが不浄・苦・無常として徘々示されています。そのありさまをうかがうと、確かに私の人生は不浄であり苦であり無常であると感じる一方で、いまひとつ現実味が薄れているようにも思われます。これはおそらくは、現代を生きる私たちの生活は、源信和尚の頃、親鸞聖人の頃、または数十年前よりも、相当に快適になっているからではないでしょうか。
不浄ということに関していえば、多くの人々はシラミの庫みから解放され、また私の幼少期の頃と比較しても、(エの数が減り、道端で猫やイタチが死んで姐が湧いている光景を目にすることがなくなりました。不浄である本質は変わりませんが、それを感じる機会が減り、見た目にキレイになっているのが現代社会でしょう。
『往生要集』では、人間の世界のすがたにつづいて、天の世界のすがたが示されています。天の世界は、六道(地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天)でいえば、人間よりも上の世界で、快楽極まりない世界であり、天人の寿命もはるかに長いとされます。
はるかに長いのですが、命が終わる時がきます。天人が衰えてくると、これまで仲良くしていたまわりの天人は離れていき、

  われいま依なく怯なし。たれかわれを救ふものあらん。
(『註釈版聖典(七祖篇)』八三八頁)

と頼るものがない孤独に苛まれていくさまが示されています。

   孤独な世を生きる

不浄なるものが日常の生活から見えづらくなり、かつてなく快楽極まりなくなっているのが現代の人間の世界かもしれません。それはまるで天の世界であるかのようです。しかし、たとえ天の世界であっても衰え、命終は避けがたく、快楽極まりなきゆえに、一層と孤独が際だってきます。
冒頭、今、いわゆる核家族として暮らしていることを書きましたが、核家族はもはや当たり前の世の中で、むしろ三世帯同居が珍しくなっています。それどころか、今、日本でもっとも多いのは、単独世帯(一人暮らし、独居)となっています。高齢の一人暮らしの方では、一日、誰とも話さない方や、孤独死の不安を感じておられる方が多いという話も聞きます。
また、掛け軸をイメージしづらいかもしれませんとも書きましたが、お仏壇のある仏間があり、床の間かあり掛け軸があり、親がいて子がいて孫がいる景色が、当たり前ではなくなって久しくなりました。
便利になり、不浄が見えづらくなり、快楽を見い出しやすい世の中であるがゆえに、個々の孤独は増し、また、家族のあり方も孤独を感じやすいものとなっています。そのような世の中で、私をいつも照らしまもってくださっている阿弥陀さまのありがたさ、かたじけなさを昧わってまいりたいものです。
(長岡 岳澄)

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2019年5月のことば 十方の如来は衆生を 一子のごとく憐念す

おつとめのうた

三歳になった娘が本願寺関係の幼稚園に入園したての頃です。一日の仕事が終わり家に帰って、娘に「今日は幼稚園で何をしたの?」と尋ねても、「わからない」となかなか教えてくれません。そこで「今日はどんなお歌を歌ったの?」と改めて尋ねると、少しためらいながらも、うれしそうに笑顔で、

きーみょーむーりょーじゅーにょーらーい
なーもーふーかーしーぎーこー
なもあみだぶー なもあみだぶー
なもあみだぶつー

と、かわいらしい声で歌ってくれるようになりました。「正信偈」の最初の二句「帰命無量寿如来(きみょうむりょうじゅにょらい) 南無不可思議光(なもふかしぎこう)」(「日常勤行聖典」六頁)と「南無阿弥陀仏」に旋律
が付けられている歌です。そして、この歌を歌うときには、両手を合わせて合掌をしています。
娘本人がどのように感じているかはわかりませんが、親としてこのすがたを見ると感慨深いものがあります。なにもわからずこの世に生まれ産声をあげた我が子が、手を合わせ、仏さまの歌を歌ってくれるまでになってくれたすがたを見ると、十分とは言えないかもしれませんが、お念仏を伝えることができたのではないかと、ホッと安堵し嬉しく感じました。

それとともに我が身を振り返り、今ではすっかり中年のおじさんになっていますが、私にもこのような時期があり、何もわからない私にお念仏を伝えてくれた両親をはじめ、まわりの方々のお育てがあったのであろうと思い返されます。

『浄土和讃』勢至讃の文

五月のことばは、親鸞聖人の『浄土和讃』のなか、「勢至讃」のご文からいただいています。

超日月光(ちょうにちがっこう)この身には
念仏三昧(ねんぶつざんまい)をしへしむ
十方(じっぽう)の如来(にょらい)は衆生(しゅじょう)を
一子のごとく憐念す               (『註釈版聖典』五七七頁)

親鸞聖人の時代、仏教の教えは漢語・漢文をもって示されることが基本でした。親鸞聖人も、主著である『教行信証』など、漢語で多くの書物を著されています。しかしながら、当時の多くの人々にとって、漢語で書かれた書物を読み理解するということはむずかしいことでした。これは、現代でもそうかもしれません。
そこで、親鸞聖人は、多くの人々が心得やすいように、わかりやすいようにと、「唯信秒文意」や『一念多念文意』などの和語・仮名交じりの書物も著されています。
さらに、聖人は、七五調の和歌の形式で仏さまや高僧方の徳をわかりやすく讃えた歌を数多く作られました。これがご和讃です。

このご和讃のなかで、阿弥陀仏とそのお浄土について讃えられているのが、『浄土和讃』百十八首となります。『浄土和讃』では、親鸞聖人が大切にされた高僧である曇鸞大師(どんらんだいし)の『讃阿弥陀仏渇』、私たちが依りどころとする「浄土三部経」の「無量寿経(大経)』、『観無量寿経(かんむりょうじゅきょうかんぎょう)(観経)』、『阿弥陀経(あみだきょうしょうきょう)(小経)』などによって、阿弥陀仏およびその浄土について讃嘆されています。

この『浄土和讃』の結びにあるのが「勢至讃」八首で、冒頭には、

  『首楊厳経(しゅりょうごんぎょう)』によりて大勢至菩薩和讃(だいせいしぼさつわさん)したてまつる (『註釈版聖典』五七六頁)

とあります。どうして、「浄土三部経」や『讃阿弥陀仏偶』などに比べるとあまり馴染みがない『首楊厳経』という経典によって、阿弥陀仏ではなく勢至菩薩を、『浄土和讃』の結びで褒め讃えておられるのでしょうか。
『首楊厳経』は、詳しくは『大仏頂如来密因修証了義諸菩薩万行首拐厳経(だいぶっちょうにょらいみっいんしゅしょうりょうぎしょぽさっまんぎょうしゅりょうごんきょう)』という経典名で、唐の般刺蜜帝訳と伝えられます。この経では、二十五人の聖者がそれぞれ釈尊の前で、どのように円通の理、真如をさとられたのかを説き述べられます。その二十四人目が勢至菩薩で、念仏によってさとられたことが説かれます。
この「勢至讃」が示される理由として、ひとつには、勢至菩薩が釈尊の前で、

教主世尊(きょうしゅせそん)にまうさしむ
往昔恒河沙劫(おうじゃくごうがしゃこう)に
仏世(ぶつよ)にいでたまへりき
無量光(むこうりょう)とまうしけり               (「註釈版聖典」五七六頁)

と、数えきれないくらいのはるか昔に阿弥陀仏がお出になられたと述べられていることから、阿弥陀如来が永遠の昔からの仏さまであることを示すためであるとされます。これは、同じ『浄土和讃』の「大経讃」で、

弥陀成仏(みだじょうぶつ)のこのかたは
いまに十劫(じっこう)とときたれど
塵点久遠劫(じんでんくおんごう)よりも
ひさしき仏(ぶつ)とみえたまふ                 (『同』五六六頁)

と示される意を承けたものです。

法然聖人の本地

そして、「勢至讃」が作られたもう一つの理由として、勢至菩薩こそが親鸞聖人の師である法然(源空)聖人のもともとのおすがたであると、受け止められていたことが挙げられます。
親鸞聖人は、二十九歳のときに、京都にある六角堂で救世観音菩薩のお告げを受け、比叡山を下りられました。そして、法然聖人のもとで阿弥陀仏の喚び声である名号(南無阿弥陀仏)のはたらきによって自身が仏と成っていく道を、ひとすじに聞いていかれました。
その後、朝廷や旧仏教による法然教団への弾圧によって、三十五歳のときに離ればなれとなってしまわれますが、親鸞聖人は生涯にわたって法然聖人を慕い敬われていました。親鸞聖人のお弟子である唯円房が著したとされる『歎異抄』には、晩年の親鸞聖人のもとへお弟子方が尋ねて来られた際に、

親鸞におきては、ただ念仏して、弥陀にたすけられまゐらすべしと、よきひと(法然)の仰せをかぶりて、信ずるほかに別の子細なきなり。(『註釈版聖典』八三二頁)

と語られたと示されます。ただただ師・法然聖人の教えを受けとり続けられたことが窺えます。
『浄土和讃』勢至讃の末には「源空聖人御本地なり」(『註釈版聖典』五七七頁)と示され、親鸞聖人は、この師・法然聖人を勢至菩薩がこの世に生まれ出でられた方であると受け止められておられたのです。法然聖人の教えをただただ聞いていかれた親鸞聖人。だからこそ、法然聖人のもともとのおすがたである勢至菩薩を、『浄土和讃』の結びで褒め讃えられておられるのでしょう。

手を合わせるすがたに

勢至菩薩に念仏を教えられたのが阿弥陀さまでした。今月のことばにある「浄土和讃」の後半部にも、

超日月光この身には
念仏三昧をしへしむ

と、阿弥陀如来(超日月光)が勢至菩薩(この身)にお念仏(念仏三昧)を教えられたと、『首楊厳経』にもとづいて示されています。阿弥陀さまから勢至菩薩へ、勢至菩薩が源空聖人として生まれ出でられ、親鸞聖人へと念仏の教えは伝えられたのです。
親鸞聖人は、法然聖人からお念仏の教えをひとすじに聞いていかれ、その教えを生涯大切に受け止めていかれました。そして、法然聖人から受け取られたお念仏は、よくよく案じてみるならば、阿弥陀さまのおはたらきによっているのだと受け止め
られました。それは、すべての衆生を照らす日光・月光を超えるような智慧の光であるとともに、衆生一人ひとりを「一子のごとく憐念」し、ひとり子を哀れ慈しむような仏さまの大いなる慈悲のはたらきとして受け止められるのです。
最初に、わが子が幼稚園に入園し、仏さまに手を合わせ、お念仏するすがたを見て、親として安堵し、それとともにわが身を振り返ってみると、という話を書きました。まだまだ形ばかりかもしれませんが、子にお念仏が伝わったことは、父親である私だけではなく、妻である母親や、父母の親である祖父母、また、幼稚園の先生方など、まわりの多くの方々との繋がりがあってのことでしょう。その繋がりはたいへんにありかたいものです。
ただ私自身を省みてみますと、法然聖人が親鸞聖人に、阿弥陀さまが勢至菩薩に念仏を教えられたように、私か子に念仏を伝えたのだとは到底考えられません。
確かに、わが子と同じクラスのお友達が手を合わせるすがたにもホツとしますが、わが子ほどにはホツとしないというのが、親としての直截な思いです。また、ホツとしながらも、日頃の無邪気な言動に振り回され、内心穏やかではない私かいます。
親としての時を過ごすほどに、親さま(阿弥陀さま)とほど遠い自分に気づかされます。
そのような私、そしてわが子を、一子のごとく哀れ慈しんでくださっている阿弥を合わせるすがたを見守ってまいりたいものです。
(長岡 岳澄)

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2019年4月のことば 真実の信心はかならず名号を具す。

学生さんからの質問

親鸞聖人を宗祖と仰ぐ浄土真宗本願寺派と関係する大学として、京都には龍谷大学などがあります。また、同じく本願寺派の僧侶を養成するための学校として、中央仏教学院があります。龍谷大学、中央仏教学院で講義をしていますと、数年に一度、「どうすれば信心を獲られるのでしょうか?」という質問を受けることがありま
す。私の経験からいいますと、真面目な学生さんほど、このような質問をする傾向があるようです。それだけ真剣に道を求めてのことなのでしょう。よくわかります。

阿弥陀さまの願い

四月のことばは、親鸞聖人の主著である『顕浄土真実教行証文類(教行信証)』のなかからいただいています。

真実の信心はかならず名号を具す。        (『註釈版聖典』二四五頁)

 

親鸞聖人は、ただひとすじに阿弥陀さまのはたらきによって、この私か仏と成らせていただく道を聞いていかれ、その道を明らかに示してくださいました。阿弥陀さまのはたらきは、このようにして人々を救うぞ、という願いにもとづいています。
その願いこそが本願です。
本願は、私たちが依りどころとする「無量寿経」に「第十八願」として、

  設我得仏、十方衆生、至心信楽、欲生我国乃至二十念
若不生者、不取正覚。唯除五逆誹膀正法
(『浄土真宗聖典全書』三経七祖扁、二五頁)

と示されます。このご文を書き下すと、

とひわれ仏(ぶつ)を得(え)たらんに、十方(じっぽう)の衆生(しゅじょう)、至心信楽(ししんしんぎょう)してわが国(くに)に生(しょう)ぜんと欲(おも)ひて、乃(ない)至十念(しじゅうねん)せん。もし生(しょう)ぜずは、正覚(しょうがく)を取(と)らじ。ただ五逆(ごぎゃく)と誹謗正法(ひほうしょうぼう)とをば除く。                       (『註釈版聖典』 一八頁)

となり、現代語訳すると、

わたしが仏になるとき、すべての人々が心から信じて、わたしの国に生れたいと願い、わずか十回でも念仏して、もし生れることができないようなら、わたしは決してさとりを開きません。ただし、五逆の罪を犯したり、仏の教えを謗るものだけは除かれます。        (「浄土三部経(現代語版)』二九頁)

となります。これは簡単にいうならば、「われを信じ、わが名を称える者は、かならず救う」という意になります。
本願は、「われにまかせよ、かならず救う」という阿弥陀さまの根本の願いであり、その願いが願いのとおりに完成され、南無阿弥陀仏の喚び声として私のところへ至り届けられているのです。

本願の三つの心

親鸞聖人の主著であり、浄土真宗の根本聖典である『教行信証』は、「教文類(きょうもんるい)」「行文類(ぎょうもんるい)」「信文類(しんもんるい)」「証文類(しょうもんるい)」「真仏土文類(しんぶっどもんるい)」「化身土文類(けしんどもんるい)」という六巻から成っています。

今月の法語は、この『教行信証』の「信文類」からいただいていますが、「信文類」の前半では、先はどの本願に誓われている「至心・信楽・欲生」の三つの心について、多くの紙数を費やし、ご指南が示されています。

阿弥陀さまのお浄土に生まれ仏と成らせていただく、この正しき因は阿弥陀さまからふり向けられる信心一つであると、親鸞聖人は聞いていかれました。七高僧のお一人である天親菩薩が、

世尊我一心 帰命尽十方 無尋光如来 (「浄土真宗聖典全書」」」三経七祖篇、四三三頁)
(世尊、われ一心に尽(じん)十方無擬光如来(ぽうむげこうにょうらい)に帰命(きみょう)したてまつりて『註釈版聖典(七祖篇)』二九頁)

と「一心」と示され、親鸞聖人も、

涅槃(ねはん)の真因(しんいん)はただ信心(しんじん)をもつてす
(『教行信証』信文類、「註釈版聖典」二二九頁)

と、一心、信心こそが、往生成仏の正しき因であると示されています。
そうであるにも関わらず、先はどのご本願には「至心・信楽・欲生」という三つの心が誓われています。なぜ三心の願いが発されているのか、親鸞聖人はこのことについて真剣に問い求められるのです。そして、

仏意(ぶつい)測(はか)りがたし。しかりといへども、ひそかにその心(しん)を推(すい)するに(「同」、『註釈版聖典』二三一頁)

と、阿弥陀さまのお心は、はかり知ることができないとしながらも、如来回向の一心(信楽)のところに、阿弥陀さまの真実の智慧(至心)も慈悲(欲生)も具わっていることを顕すために、三つの心として誓われているのだと受け止められるのです。
そして、

  まことに知んぬ、至心・信楽・欲生、その言異なりといへども、その意これ一つなり。なにをもつてのゆゑに、三心すでに疑蓋雑はることなし、ゆゑに真実ので心なり。これを金剛の真心と名づく。金剛の真心、これを真実の信心と名づく。                    (「同」、『註釈版聖典』二四五頁)

と結ばれます。三心とて心の関係性は大切なところですので、このほかにもさまざまな角度から、三つの心は一つの心におさまり、一つの心に三つの心が具わっていることが示されます。
しかし、いま重く受け止めたいのは、本願の三心をいかに受け止めるかを問い詰められた、親鸞聖人の姿勢です。

ありのままのはたらき

信心こそが往生成仏の正しき因であるという道を聞いていくとき、ややもすると、ご本願に三つの心が誓われているということを軽視してしまいがちです。信心こそが正因であり、信心ひとつで往生成仏させていただくという教えは、そこに深いおいわれがあり、それこそが大切でありますが、一面では、わかりやすく、わかりやすいがゆえに、考えることを止めてしまいそうになります。結果、ご本願に三つの心が誓われているけれども、それはそれで置いておいてともなりかねません。
しかし、そこで忘れてはならないことがあります。それは、『無量寿経』は釈尊が説かれたまさに仏説であり、ご本願は阿弥陀さまの誓いであるということです。釈尊、阿弥陀如来は仏さまです。仏さまは、真理をさとられた方であり、そのお言葉はさとりの世界からのお言葉です。それは、われわれの思議を超えた世界からのお言葉です。私は、そのお言葉をいただき、ありのままの仏さまのおはたらきを受け取っていくのです。親鸞聖人がご本願の三心を問い求められたことから、仏語を大切にする、ありのままの仏さまのおはたらきを受け取っていく姿勢を見つめなおしたいものです。
親鸞聖人は、先ほど引かせていただいた「これを真実の信心と名づく」に続いて、今月の法語である「真実の信心はかならず名号を具す」と示されます。これは、真実の信心には、必ず名号を称えるというはたらきがそなわっている。
(「顕浄土真実教行証文類(現代語版)』ニニー頁)

という意です。このお言葉も、やはり先ほどの本願の三心のように、ありのままの阿弥陀さまのおはたらきとして受け取らせていただきたいところです。
本願には、「至心・信楽・欲生」の三心に続いて、「乃至十念」(わずか十回でも念仏して)と念仏を称えることが誓われています。「乃至」と回数を限らないとお示しくださっていますが、信心と称名が誓われている本願です。その願いが願いの通りに完成され、私にはたらいてくださっているのです。

まあそうであろう

親鸞聖人晩年のお言葉に、

弥陀仏の御ちかひの、もとより行者のはからひにあらずして、南無阿弥陀仏とたのませたまひて、むかへんとはからはせたまひたるによりて、行者のよからんともあしがらんともおもはぬを、自然とは申すとぞとききて候ふ。
(『正像末和讃』、「註釈版聖典」六ニー頁)

とあります。むずかしいお言葉ではありますが、行者のはからい、私自身の良い、悪いといったはからいを雑えるのではなく、ただただありのままの如来さまのおはたらきにおまかせしていくことが示されています。ありのままの私か救われていくのではなく、ありのままのはたらきによって、この私か救われていくのです。
中央仏教学院には通信制教育があります。通信教育ですので、平素はテキストや書簡による学びとなりますが、講義をする機会もあります。通信教育の受講生にはさまざまな方がおられますが、龍谷大学や中央仏教学院の通学生と比べると、ご年配の方、また、これまで聴聞を重ねてこられた方が多くおられます。そのような方に、冒頭に書いたように、「どうすれば信心を獲られるのでしょうかという質問を受けることがあります」という話をすると、これまた私の経験からすると、なにもおっしゃらず、にこっと微笑まれる方が多いように思われます。少なくとも「私は信心を獲ていますよ」とは言われません。
親鸞聖人は、五十九歳のとき、風邪をひかれて床に伏しながら、高熱の夢うつつのなかで、昔、衆生利益のために「浄土三部経」の千部読誦を志したことを思い出されました。そして自力のはからいが、いまだ経験としてご自身の内面に影響を与えていることを反省されて、「まはさてあらん(まあそうであろう)」(『恵信尼消息』、『註釈版聖典』八二(頁)とおっしゃっています。
「こうすれば信心が獲られますよ」とは、軽々しく答えられることではありません。ただ、「真実の信心はかならず名号を具す」と、ありのままのおはたらきをともどもに聞き、自らの過去を振り返りつつ、「まはさてあらん」と肯いてまいりたいものです。                                 (長岡 岳澄)

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