2018年10月 煩は身をわづらはす、悩はこころをなやますといふ。

切り離せない身と心

今月のことぼは、『唯信鈔文意』の中から選ばれたものです。

煩(ぼん)は身(み)をわづらはす、悩(のう)はこころをなやますといふ。(『註釈版聖典』七〇八頁)

親鸞聖人は、よく文字を使い分け分析して、それぞれの意味を示されることがあります。分釈(ぶんしゃく)といいます。今は、煩悩を「煩」と「悩」に離して解釈されていますが、このような例は、ほかにもいくつかあります。歓喜・自然・名号などに行われています。聖人は、このような釈の仕方がお好きたったと思われます。
たとえば、『一念多念文意』には、次のような文が見られます。

「歓喜(かんぎ)」といふは、「歓(かん)」は身をよろこばしむるなり、「喜(き)」はこころによろこばしむるなり。                  (『註釈版聖典』六七八頁)

この文意は、身と心は切り離して考えることはできないということでしょう。ここでは身と心ですが、これをフ心と形」と置き換えて味わうこともできます。
あるお寺の掲示板に、こんな言葉を見たことがあります。

こころは、形にあわわれ
形は、こころをつたえる

私たちは、心が大切だ、いや形式から入っていかねばだめだと、心と形を分けて考える傾向があります。しかし、この言葉をじっと眺めていますと、心と形はけっして別物だといってしまうことはできないように思えてきます。

三毒の煩悩

ところで、親鸞聖人の著述をみていきますと、煩悩という文字、そしてそれを冠しか、煩悩成就・煩悩具足・煩悩熾盛といった四字熟語が、眼に入ってきます。そしてこれらの語は、凡夫・衆生を説明する文脈の中で出てきますので、私か今どのような生き方をしているかということと関わって、深く昧わっていくべき言葉であります。その文を、二、三挙げておきましょう。

煩悩成就(ぽんのうじょうじゅ)の凡夫(ぼんぶ)、生死罪濁(しょうじざいじょく)の群萌(ぐんもう)

(『教行信証』「証文類」、『註釈版聖典』三〇七頁)

煩悩具足(ぼんのうぐそく)の凡夫(ぼんぶ)、火宅無常(かたくむじょう)の世界(せかい)

(『歎異抄』後序、『註釈版聖典』八五ご丁八五四頁)

煩悩熾盛(ぽんのうしじょう)の衆生(しゅじょう)をたすけんがための

(『歎異抄』第一条、『註釈版聖典』八三一~八三二頁)

などです。
私たちは、この三つの文から、この私か煩悩によってできあがり、煩悩を抱え、そしてその煩悩の勢いが強いこと、そんな煩悩と私の関係があらわされているとうかがうことができましょう。
さて、煩悩という言葉ですが、日常生活でも、ちょっとした会話の中で出てくることがあります。あの人は子煩悩だと。もちろん悪い意味ではありません。子どもへの愛情が、そういう言葉に置き換えられているからです。また、大晦日に撞かれる百八つの除夜の鐘は、それだけの煩悩を一撞きごとに一ずつなくしていくんだ、という説明を聞くことがあります。といたしますと、煩悩という言葉もまったく日常生活から姿を消しているわけではありません。ともかく、煩悩ということについて少し考えてみることにしましょう。
たくさんある煩悩の中で代表的なものが三つあります。三毒の煩悩」という言
い方をします。それは、貪欲・瞋恚・愚痴をいいます。
貪欲とは、貪(むさぼ)り、執着することであります。自分のものにしたいという心です。
あるいは、自分の都合のいいものをほしがる我欲ということです。しかし、自分のものにしましても、いつかは手放したり、別れたりしていかねばなりません。だから、そこで苦しみが生じてくるのです。愛別離苦(あいべつりく)とはそのことをいいます。したがって、その苦しみから逃れるには、愛欲の心を捨てる以外にない、仏教にはこのように煩悩を断つという立場もありますが、はたしてそれができるでしょうか。
また、怒りについても同じです。瞋恚といわれる私たちの心、これは貪欲と対極にあるものと考えられます。そして、怒りはしばしば火に讐えられます。貪欲を自分の枠の中へ引き入れようとする心だとすれば、瞋恚は憎しみの心を起こすわけですから、枠の外へ追い出すことに讐えられるからです。小さな火でも放っておきますと、次第に激しく燃えあかっていきます。そして、すべてを焼き尽くしていきます。
この貪欲と瞋恚が心情的なものといたしますと、愚痴の「痴」は、知的な煩悩だといわれます。真実に暗いということ、それは無知ということだからです。諸行無常という仏教の道理に暗いということ、だから迷い苦しんでいるということです。

二河白道の讐えと凡夫

今、貪欲・瞋恚の話をいたしましたが、頭に浮かぶのは、やはり善導大師の二河白道(にがびゃくどう)」の讐えです。その書き出しは、

人(ひと)ありて西(にし)に向(むか)かけて百千(ひゃくせん)の里(り)を行(ゆ)かんと欲(ほっ)するがごとし。忽然(こつねん)として中路(ちゅうろ)に二の河(かわ)あるを見る。一にはこれ火(ひ)の河(かわ)、南(みなみ)にあり。二にはこれ水(みず)の河(かわ)、北(きた)にあり。二河おのおの閥(ひろ)さ百歩(ひゃくぶ)、おのおの深くして底なし。
(『註釈版聖典(七祖篇)』四六六頁)

と説かれています。一人の旅人加西に向かって行くと、途中に火の河と水の河の二つの河が広がっています。その火の河が瞋恚に、水の河が貪欲に讐えられているのです。そして河は底がないほど深いというのです。これは、私たちの煩悩、貪りの心、怒りの心が限りなく深く、いつまでも体にまとわりついているということです。
人間を三種類に分けて、それぞれ怒り、すなわち煩悩の違いがどのように説明できるかという話があります。最初の人の場合は岩に刻んだ文字のような人、二番目の人は砂に書いた文字のような人、三番目の人は水に書いた文字のような人と、分けています。さて、私の抱く怒りの心は何番目になるでしょうか。おそらく一番目と答えられるでしょう。それは、岩に書いた煩悩という文字は何十年、何百年経っても消えることがないからです。砂に書いた文字は雨や風にあいますとすぐに消え、本には書くことさえできません。このことからも、煩悩はなかなか断っことができ

ないことが知られてまいります。
親鸞聖人は、『一念多念文意』の中で、次のように説き示されています。

「凡夫」といふは、無明煩悩われらが身にみちみちて、欲もおほく、いがり、はらだち、そねみ、ねたかこころおほくひまなくして、臨終の一念にいたるまで、とどまらず、きえず、たえずと、水火二河のたとへにあらはれたり。
(『註釈版聖典』六九三頁)

これは凡夫の説明ですが、「人間とは」と語る時には必ずといってよいほど取り上げられる文です。ただ、凡夫という語をその原意号哭してみますと、「個々別々に生を営む」ということになります。別々ということは距離を置くということでしょう。どんなに私のことを思ってくれている人とても、距離がゼロになって、自らが他であり、他が自らであるという関係にはなりません。どこまでも距離がなくならないから、さますまな問題が起こっているということでしょう。ともかく、凡夫という言葉を、このような意味からも味わうことができます。

愛憎違順の背景

先の『一念多念文意』には「無明煩悩われらが身にみちみちて」と、無明煩悩とありました。その無明ということですが、これは愚痴ともいい、無知のことをさします。ただ智慧がないということではなくて、真実を知らないということです。苦しみの起こる一番根本に位置づけられています。親鸞聖人は『正像末和讃』に、

無明煩悩(むみょうぼんのう)しげくして
塵数(じんじゅ)のごとく遍満(へんまん)す
愛憎違順(あいぞういじゅん)することは
高峯岳山(こうぶがくさん)にことならず              (『註釈版聖典』六〇一頁)

と詠われています。この中で、愛憎違順という言葉に心動かされていく、そんな気持ちがいたします。私たちは、愛するということと憎むということとは大きくかけ離れ、相容れないものだと思っています。ところがどうでしょう? 愛し合っているところに憎しみが起こっている現実を見ることがあります。王舎城の悲劇もそうだと思います。みんな事件が起きた後の家庭に眼を向けていますが、事件が起きるまではおそらく阿闍世も愛情に包まれ、和やかな家庭生活が営まれていたと思います。そういう愛があるところに、家庭を崩壊に追い込む憎しみというものがあるということです。
このように考えてみますと、愛と憎はけっして切り離すべきものではないことに思い到ります。憎しみを引きずり、憎しみが絡み合った愛、その全体が愛というべきものといえましょう。
先の「愛憎違順」という言葉は、ある時は愛しある時は憎む、その振り幅の大きいことは、高い峰や山に讐えられるというのです。この語によっても、けっして愛と憎が別物と考えることはできません。

一味の世界

煩悩は、勢いよく流れ出る蛇口の水に讐えられます。ものと私を結びつけるということから、結使という言葉によってあらわされています。また、蓋という文字によっても示されます。お湯をコップに注ごうとしても、蓋をされていては入れることができません。
『高僧和讃』には、

煩悩(ぼんのう)にまなこさへられて
摂取(せっしゅ)の光明(こうみょう)みざれども
大悲(だいひ)ものうきことなくて
つねにわが身をてらすなり            (『註釈版聖典』五九五頁)

と詠われていますが、「煩悩にまなこさえられて」とは、このことをいうのです。しかし、「摂取の光明見ざれども」と続きますが、「大悲ものうきことなくて常にわが身を照らすなり」と、歓喜の思いに支えられているのです。
煩悩の流れの中に生き、おのおのの孤独の思いを抱きつつ、迷いの世界に沈んでいるのです。そういう私たちを哀れみ悲しんでくださったのが、阿弥陀さまの大悲大願でありました。なんとしても仏に育てあげてやりたい、浄土に生まれて救われることがないようなら私も仏になりません、と誓っておられるのです。そういう世界に帰ってこそ、

煩悩(ぼんのう)の衆流(しゅりゅう)帰(き)しぬれば
智慧(ちえ)のうしほに一昧(いちみ)なり        (『高僧和讃』、『註釈版聖典』五八五頁)

と、智慧のうしお(潮)に溶かされて、自他一如の世界が開けていくのです。
自分も他人もみな凡夫です。そういう姿が知らされていく時、互いに、許し合い、いたわり合い、そして、みんな尊いものを持っているのだという思いが広がっていくように思うことです。
(大田利生)

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2018年9月 まことの信心のひとをば、諸仏とひとしと申すなり。

褒められて嬉しい言葉

大学の講義やお寺での法話など、人前で話す機会がありますが、「話しぶりが岡先生に似てるねえ」「黒板の使い方が似てますねえ」などと言われると、嬉しい気持ちになります。岡亮二先生は、私か学生の頃から一番大きな影響を受けた先生です。来年(二〇一九年)の二月には十三回忌を迎えます。先生の真似をしているわけではありませんが、自然と口調やものの考え方が似ているのでしょうか。
私たち仏教徒にとって言われて嬉しい言葉は何でしょうか?「仏さまのような方ですねえ」「仏さまのように穏やかな表情ですねえ」という言葉は、仏教徒にとっては最高に嬉しい言葉です。最高の褒め言葉であるともいえるでしょう。
七月に布施波羅蜜についてお話をしました。一般的には、お寺や僧侶がお布施をいただきます。その立場が逆転して、寺や僧侶が布施をすることがあります。
「エッ!?」と思われる方もいらっしやるかもしれません。
布施は、一般的には財産・金品だと考えられています。僧侶がいただくお布施の多くがそれです。では、僧侶が施す布施とは何でしょうか。法施です。法とは、仏法です。阿弥陀さまのお心を説法し、人びとの不安や畏れを取り除き、喜びを分かち合うことが、僧侶の行う布施と考えられます。
「すべての人を必ず救う」「すべての人を平等に救う」「どんな人も」「どんな自分も」「いつの自分も」常に見守り、傍に寄り添ってくれるのが、阿弥陀さまです。自分が頑張っているから救ってもらえるわけではありません。逆に、こんなに悪い自分は、さすがの阿弥陀さまも救ってくれないだろうと心配する必要もないのです。
阿弥陀さまの広いお心に触れることができるその時に、私の「浄土往生間違いなし」「成仏間違いなし」と安堵することができます。この安堵の気持ちを、一人でも多くの方と分かち合いたいと思い、阿弥陀さまのお心を語ること。これが僧侶が行うことのできる法施という布施です。

仏がたと等しい

今月のことぼけ、お手紙(御消息)にあるご文です。

まことの信心(しんじん)のひとをば、諸仏(しょぶつ)とひとしと申(もう)すなり。(『註釈版聖典』七七八頁)

七月・八月と、煩悩について話をしました。私たちは、この世に生ある限り、煩悩から逃れることはできません。煩悩具足の凡夫です。煩悩熾盛の凡夫です。私たちが煩悩から逃れることができるのは、阿弥陀さまのはたらきによって、お浄土に往生して、直ちに仏さまに成らせていただくその時です。
阿弥陀さまのお心を、その如くに受けとめることができたからといって、その人の煩悩がなくなるわけでも、減っていくわけでもありません。けれども、娑婆の縁が尽きた時に、お浄土に往生することが間違いないとわかり、仏さまに成らせていただくことも間違いないとわかる方を、「まことの信心の人」とあらわされています。この「まことの信心の人」が、「諸仏とびとし」と讃嘆されるのです。最高の言葉で褒め讃えられるのです。
けれども、私たちが注意しなければならないことがあります。「まことの信心の人が諸仏である」とはあっしゃっていません。「まことの信心」といえども、煩悩を具足している凡夫であることには変わりはありません。煩悩具足の凡夫は、けっして真実清浄な仏さまと同じではありません。煩悩のかけらもまじらない、真実で清らかな存在が仏さまです。
煩悩具足・煩悩熾盛の凡夫は、仏さまとは真逆の存在と言わねばなりません。けれどもその凡夫を「まことの信心の人」と讃え、「まことの信心の人」は「諸仏とひとし」(仏がたと等しい)と讃えられるのです。
一見、矛盾するようなことです。どのように考えればよいでしょうか。

往生・成仏は間違いない

本願寺第三代宗主の覚如(かくにょ)上人の『執持()(しゅうじしょう)』というお書物には、「死の縁無量」(『註釈版聖典』八六五頁)という言葉があります。
ご門徒が亡くなられる最期の場面に立ち会うことができればいいのですが、亡くなられてからお電話をいただき、急いで駆け付けると、こちらから尋ねることなく、ご門徒(ご遺族)の方から、最期のご様子を細かく教えていただきます。
長年患っておられた病気で亡くなられた方。その病気とは異なる死因を診察された方。さまざまです。病気以外にも、事故で亡くなる、事件に巻き込まれて亡くなる、天災…、私たちの死因にはさますまな理由が考えられます。まさに、「死の縁無量一だといえます。
また、本願寺第八代宗主の蓮如上人の「白骨の御文章」などには、「老少不定」(『註釈版聖典』 二○四頁)と示されています。
平均寿命を聞くと、まだまだ生きられると思ってしまいますが、けっしてそんなことはありませんね。年の若い者はまだまだ長生きをし、年老いた方が先に亡くなるとはけっして定まっていないということです。
いつ亡くなるのかわかりません。またどんな原因で亡くなるのかもわかりません。けれども、いつか必ず亡くなります。では、私たちは亡くなるとどうなるのでしよ
今月のことばにある「まことの信心の人」は、阿弥陀仏の大いなるお心に出遇うことができた方です。亡くなると、必ず阿弥陀さまのお浄土に往生して、必ず仏と成らせていただけることが間違いないと知ることができている方です。
この方を、臨終を待たずに、仏に等しいという最大級の讃辞をもって讃えるのです。今月のお手紙とは別のお手紙には、「我善親友」(『註釈版聖典』七五九頁)という言葉もあります。親鸞聖人が最も大切になさった『仏説無量寿経』という経典にあるお言葉です。お釈迦さまが、「我が善き親友」(私のまことの善き友)とおっしゃるのです。
この世に生きる限り煩悩真っ盛りに違いはありませんが、この世の縁が尽きる時、浄土に往生し、すぐさま仏に成らせていただけるとわかるのですから、仏と等しいと讃えられるということは、矛盾はしないことだとわかります。
けれども、本当にお釈迦さまから「あなたは私のまことの善き友ですよ」と言われたならば、恥ずかしくなって、「滅相もない」と丁重に断りたくなるかもしれませんね。それはどの讃辞なのですね。

念仏をともに称える仲間

テレビのコマーシャルで、いろいろな商品・食品が宣伝されています。商品の素晴らしさや、食品のおいしさなどが、高らかに宣伝されます。心から、その商品の素晴らしさを実感し、その素晴らしさを一人でも多くの方に知ってもらいたいという思いから、宣伝をするのです。素晴らしさを知らずに勧めているとすればどうでしょうか?
たとえば大嫌いな食べ物があるとします。見るだけでもいやな、苦手な食べ物です。プロの役者であれば、苦手で嫌いな食べ物であることを見抜かれずに、上手に芝居を演じることができるかもしれません。けれども、素人にはそのような芸当はできません。どことなく、苦手である雰囲気が出てしまうのではないでしょうか。
逆に、大好きなものであれば、思い浮かべるだけで、顔がはころんでくるかもしれませんね。大好きな人や物事について話している時には、満面に笑みを浮かべながら話しているのではないでしょうか。
「まことの信心」の方は、肩肘張らずに、阿弥陀さまの素晴らしさを語ることができるのでしょう。
はじめに、法施という布施について話しました。僧侶が阿弥陀さまについて語ることが法施であると紹介しました。けれども、法施はなにも僧侶のみができることではありません。
日々、お仏壇の前に座って合掌礼拝をする生活を、身内やご近所のどなたかが見ておられると思います。もちろん、どなたかに見せるために合掌をするのではありません。けれども、合掌をする姿を見る人が、いつか何かのきっかけで、「手を合わせてどうなるの?」「なんのために手を合わせているの?」「お仏壇って何?」「ご本尊って?」「阿弥陀さまって?」という会話になれば、自然と阿弥陀さまや親鸞聖人・浄土真宗とのつながりを紡ぐことができそうです。これも立派な法施ということができると思います。立派な法施でなくても、法施の真似事でも良いと思います。
阿弥陀さまの素晴らしさ・有り難さ・尊さなどを知っているのは、僧侶だけではありません。ご門徒も、僧侶と同様に、阿弥陀さまとともに日々を暮らしています。葬場勤行として、善導大師の『観経四帖疏(かんぎょうしぎょうしょ)』のはじめにある「帰三宝偈(きさんぽうげ)」を読誦します。その最初に「道俗の時衆等(どうぞくのじしゅとう)(『註釈版聖典(七祖鎬)』二九七百)とあります。また日常勤行として読誦する「正信偶」の最後には、「道俗時衆(どうぞくじしゅ)ともに同心(どうしん)に」(『註釈版聖典』二〇七頁)とあります。道俗とは、出家の者と在家の者です。出家の者も、在家の者も、皆区別せずに、阿弥陀さまのお心とともにあります。
ご門徒の方々が、連れ合いや七千さまやお孫さまを連れて、お寺に参る。
家族だけではなく、気の合う仲間とともにお寺に参る。
念仏をともに称える仲間を増やすことが、阿弥陀さまのもっとも喜んでくださることだと思います。また、親鸞聖人も心から喜んでくださることではないでしょうか。
そのような仲間を一人でも二人でもつくることが、仏さまのはたらきに関わるということです。
大きなお心の阿弥陀さまに、ともに「南無阿弥陀仏」とお念仏を称えさせていただだきましょう。(玉木興慈)

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2018年8月 凡夫はすなわちわれらなり

 

「腹」をなんと読むのでしょうか

小さい頃は丸刈り。小学校に入るとスポーツ刈り。中学の頃は再び丸刈り。高校一年生の夏に得度習礼に行かせていただきましたが、その時は普段よりも短めの丸刈りでした。
最近は、ほぼ1ヵ月半ごとに、五十年近く通い慣れた理髪店に行き、頭髪を整えていただきます。椅子に座り、鏡越しに映る上手なはさみさばきに見とれていると、あっと言う間に一時間ほどが過ぎてしまいます。
いつの頃からでしょうか、鏡の横に色紙がかけられています。その色紙に、「腹」という字?図?が書かれています。首を右に傾ければ、「腹」という字になりますね。これは、腹という字を縦にしないで横にしたものですから、「腹を立てず」と読むそうです。
そのほか、心という字をまん丸に書いて、「心を丸く」と読みます。
気という字を縦に長く書いて、「気を長く」と読みます。
口という字を小さく小さく書いて、「口を慎む」と読みます。
最後に、命という字を縦に長く沓いて、「命、長らえる」と読みます。
全体を通して読めば、「腹を立てず、心を九く、気を長くして、口を慎めば、命長らえる」となります。
些細なことで怒ったり、腹を立てたりせずに暮らすことができれば、穏やかな生活ができそうです。
自分の思い通りにならない時に、イライラしてしまうことがあります。心が刺々しくなってしまうと、周囲の人と衝突してしまうこともありますが、心をまあるくすることができれば、気を長くすることになり、周囲との摩擦も少なくなりそうです。
また、口を慎むということも大切なことですね。川頃は不謹慎なことを話したりしないはずの人が、お酒に酔った勢いで大口をたたいたり、人風呂敷を広げてしまうことがあるかもしれません。また、噂話も大好きです。どなたかの良い噂話であれぱよいのですが、噂は悪い噂の方が圧倒的に多そうです。悪い噂をまさか本人を前にして話すことはありませんから、陰口になってしまいます。その陰口がいつかどこかで本人にバレてしまうと、たいへんなことになります。目を慎むことができれば、敵もいなくなるかもしれませんね。
最後の「命、長らえる」というのはわかりませんが、腹を立てずに、気を長く、心を丸くすることができれば、血圧が上がることは少なくなりそうです。結果的に長生きをすることにつながるのかもしれません。
頭髪をきれいにしていただいて、さっぱりと、すっきりとした気持ちになり、鏡の横にかかっている色紙の言葉を見て、こんなふうに過ごしたいなあと想いながら、理髪店を後にします。歩いて数分で家に着き、「男前になったねえ」「さっぱりしたねえ」と言ってくれればよいのですが、なかなか家族からは褒め言葉をいただけません。「行く前とあまり変わらないねえ」などと言われることもあります。そうすると、理髪店を出る時のすがすがしい気持ちから一転、怒りの炎がカッと燃えさかります。これが瞋恚(しんに)という煩悩です。川頃は鳴りを潜めてくれていますが、思いがけない一言で燃えさかるのが私の煩悩です。

凡夫の「常」と阿弥陀さまの「常」

今月のことばは、『一念多念文意』にあるご文です。

「凡夫」はすなはちわれらなり。          (『註釈版聖典』六九一一頁)

「われら」というのですから、私だけが凡夫なのではありません。また、あなたが凡夫で私は凡夫ではないということでもありません。私もあなたも凡夫だというのです。
この言葉の少し後には、凡夫を定義するような次の言葉があります。

「凡夫」といふは、無明煩悩われらが身にみちみちて、欲もおほく、いかり、はらだち、そねみ、ねたむこころおほくひまなくして、臨終の一念にいたるまで、とどまらず、きえず、たえず        (「註釈版聖典」六九三頁)

(「凡夫」というのは、わたしどもの身には無明煩悩が満ちみちており、欲望も多く、怒りや腹立ちやそねみねたみの心ばかりが絶え問なく起り、まさに命が終わろうとするそのときまで、止まることもなく、消えることもなく、絶えることもない 『一念多念文意(現代語版)』三七頁)

私たちの身には、煩悩が満ちみちており、貪欲・瞋恚・愚痴という三毒の煩悩がひっきりなしに湧き起こってしまい、それはこの娑婆の縁の尽きるその最期の瞬間まで消えることがないというのです。
貪欲・瞋恚・愚痴について簡単に話しておきましょう。先月の「雑毒の善」の毒という字を用いて、貪欲・瞋恚・愚痴の三つは「三毒の煩悩」と呼ばれます。
貪欲とは、自分の思い通りにしたいという想いです。またその想いがどこまでも収まらないということです。「ほしい」「こうしたい」「ああしたい」という想いが、どこまでも続くというのです。ネクタイや(ンカチなど、欲しいものを手に入れるために、小遣いを貯めたり貯金をして、思い通りに手に入ることがあります。しばらくは満足をしますが、すぐに飽きがきてしまうこともあります。欲しいものが手に入る間は良いですが、けれども、必ずいつも、いつまでも手に入るとは限りません。手に入れられない時に、この貪欲が原因で、苫しみや悩みを生じます。
瞋恚とは、怒りや腹立ちの想いです。自分の思い迦りにならない時に、腹立たしい想いが出てきます。想い通りにならない原因を探り、白分の努力不足・力不足を痛感し、自分自身に腹を立てる間は良いかもしれません。けれども、その原因を探し、誰かに責任転嫁をするような時があります。「自分は頑張っていたのに、あの人が邪魔をしたからうまくいかなかったんだ」「邪魔はされなかったけれども、応援をしてくれなかったから、良い結果にならなかった」などと考え、責任転嫁する時に、瞋恚の想いが生じているのです。
愚痴とは、愚かさです。生活の中で、愚痴をこぽすことがあります。何事もすべてが自分の思い通りになるはずがありません。このことがわからずに、何でも自分の思い通りになるはずだという誤った考えを愚かさというのです。自身の愚かさを棚に上げて、他者を妬むような気持ちが生じる時があります。
親鸞聖人は、この貪欲や瞋恚を「常」とあらわされます。たとえば『教行信証』には、

貪愛(とんない)の心つね(常)によく善心(ぜんしん)を汚(けが)し、憎憎の心つね(常)によく法財(ほうざい)を焼く。
(『註釈版聖典』二三五頁)

とあります。また「正信偈」には、

貪愛瞋憎之雲霧(とんないしんぞうしうんむ) 常覆真実信心天(じょうふしんじつしんじんてん)  (『尊号真像銘文』、「註釈版聖典」六七〇頁)
(貪愛・瞋憎の雲霧、つねに莫実信心の天に覆へり。『註釈版聖典』二〇四頁)

とあります。ここに「常」という字があります。親鸞聖人は、一念多念文意』の冒頭で、「常」という字と「恒」という字との違いについて説明をしておられます。「惧」と「常」とは、ともに「いつも」「つねに」ということです。「あの人は、いつも本を読んでいます。」「あの人は、つねに人の悪口を言ってますね。」という時の「つね(恒)」と、「私たちはつねに呼吸をしています。」「心臓はつねに動いてくれています。」という時の「つね(常)」。どこが違うでしょうか。
答えは、途切れる時があるか、ないかという点です。恒は途切れる時があります。常は途切れる時がありません。「教行信証」や「正信隔」には、私たちの煩悩は途切れる時がないと示されるのです。
厳しい見方ですね。

私には煩悩がないと自信を持って語ることができる方は、なかなかいないと思います。煩悩があることは認めます。けれども、煩悩が常にあると認めることはなかなか難しいですね。すがすがしい清らかな気持ちでいる時もあります。けれども、腹の底には毒々しい煩悩があるというのです。
親鸞聖人は、このような厳しい指摘をされる一方で、阿弥陀さまも「常」だと示されます。「正信偶」に、次のように詠っておられます。

摂取心光常照護(せっしゅしんこうじょうしょうご)         (「尊号真像銘文」、「註釈版聖典」六七〇頁)

(摂取(せっしゅ)の心光(しんこう)、つねに照護(しょうご)したまふ。『註釈版聖典』二〇四頁)

大悲無倦常照我(だいひむけんじょうしょうが)

(大悲(だいひ)、倦(ものう)きことなくしてつねにわれを照らしたまふといへり。『同』二〇七頁)

私たちの煩悩が常であると同時に、阿弥陀さまの大いなる慈悲の心も常なのです。

阿弥陀さまの尊さ

私たちは、他人の長所を褒めるよりも、他人の短所を論うことが多いのではないでしょうか。他人に良いことがあると妬ましく思い、他人に不幸があるとひそかにほくそ笑んでしまうこともあります。けれども、そのような私の姿こそ、私の大きな短所ではないでしょうか。
他人の悪いところはよく目につきますが、自分の悪いところはなかなか気付かないものです。他人の悪い噂は、たとえそれが嘘であっても面白いものです。逆に、自分の噂は、それが本当であっても不愉快な気持ちになります。私たちは、自分勝手な考えをしているといわなければなりません。このような自分勝手な心、自分本位な想い、自分中心な考えを総じて、煩悩と呼ぶことができるでしょう。
一日二十四時間の内、私だちから阿弥陀さまを思う時間は、それほど多くはありません。朝夕の読経の際や、ふとした時に、阿弥陀さまを思う時もあります。何かのおりに、南無阿弥陀仏とお念仏を称える時もあります。けれども、仕事に没頭している時、楽しく語らっている時、激しく言い争いをしている時には、なかなか阿弥陀さまを思うことはありません。
けれども、阿弥陀さまは、片時も離れずに、いつも、常に、私とともにいてくださるのです。凡夫であるわれらとともにいてくださる阿弥陀さまなのです。「どうせ煩悩があるから…」と、煩悩を言い訳にしてはいけません。
煩悩を抱え、煩悩から離れることができず、しつこい煩悩にまとわりつかれている自身は、恥ずかしい自分です。けれども、この恥ずかしい私に片時も離れず、煩悩の私を放っておけずに常に見守り、傍に寄り添ってくれる阿弥陀さまのお心を、大切に聞かせていただきたいものです。
大きなお心の阿弥陀さまに、「南無阿弥陀仏」とお念仏を称えさせていただきましょう。

(玉木興慈)

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2018年7月 雑毒の善をもってかの浄土に回向する、これかならず不可なり。

布施の心

全国的には八月がお盆ですが、七月がお盆という地域もあると聞いています。日頃はなかなかお寺との付き合いが多くはなくとも、お盆には多くの方がお寺や僧侶と接点を持ちます。
お盆には多くの地域でお盆参りがあり、法事などの法要を除くと、一年のうちでお盆には必ずお参りをしていただかなくてはと考えておられるご門徒もいらっしやるでしょう。お参りをした際には、お勤めの後、お布施をいただきますが、お布施にはどのような意味があるかご存じでしょうか。
布施は『もともと仏教で説かれた六波羅蜜(ろくはらみつ)の行の一つです。波羅蜜(はらみつ)とは、迷いの岸(此岸)からさとりの岸(彼岸)に至るために修する行のことです。その一つが布施波羅蜜です。誰かに何かを施すということをいいます。一般的には、施すものは財産・金品だと考えられています。
では誰かに何かを施せば布施になるのかというとそれほど簡単ではありません。
大学からの出張やさまざまなご縁をいただき、いろいろなところに寄せていただくことがあります、食いしん坊の私は、その上地L地の美味しいものをいただくことが、楽しみの一つになっています。けれども、私だけ一人で楽しむのも少し気が引けるので、家族にもお土産を買って帰ります。はじめの頃は、お土産を探している時も、喜んでくれる顔を思い浮かべながら、楽しく探していました。家に帰り、買ってきたお土産を渡すと、満面、喜びの表情でした。しかし、同数が重なり、以前喜んでくれたものと同じものを買って帰ったりすると、少しずつ様子が変わってきました。「ただいま」の後、「はい、お上産」と渡すと、「はい」と当たり前のような返事が返ってくるようになりました。それで良いのでしょうが、なぜか、私の心の内に、もやもやあとした気持ちが残ってしまったのです。
その原因は明らかです。
せっかくお土産を買って帰ったのに、嬉しそうな表情もなければ、「ありがとう」の言葉もなかったことに対して、もやもやあとした気持ちが残ってしまったのです。
はじめの頃は、お上産を選びながら、喜んでくれる表情を思い浮かべながら買い物をすること、そのこと自体が楽しかったのですが、だんだんと途中からは、義務感のような想いに変わってしまったのです。それが、「買ってあげたのに」の「あげた」「のに」という言葉でしょう。「忙しい私が、わざわざ時間を割いて買ってきてあげたのに…」という想いがあるから、せめて、喜びの笑顔や感謝の言葉ぐらいは、返して欲しいという想いです。見返りを求める想いです。
布施が波羅蜜として、真実の行であるためには、このような見返りを求める想いが消えなければなりません。「私があげた」「あなたにあげた」「何をどれだけあげた」という、三つの事柄がすべて消えてなくなれば、布施波羅蜜といえるでしょう。清らかな心といえるでしょう。
逆に「私が」「あなたに」「何を」ということにいつまでもしつこく執着しているとすれば、それはまったく清らかではありません。
布施といっても、なかなか簡単ではなさそうです。

善を浄土に回向する

今月のことばは、「浄土文類聚紗(じょうどもんるいじゅしょう)」にあるご文です。

雑毒(ぞうごく)の善(ぜん)をもってかの浄土(じょうど)に回向(えこう)する、これかならず不可(ふか)なり。
(「註釈版聖典」四九二頁)

まず回向の語から考えてみましょう。「回」とはめぐらすこと、「向」とはさしむけることと説明されます。『浄土真宗辞典」(本願寺出版社刊)の「回向」の項には、

自己の善行の功徳を自身の菩提、または他にめぐらしさしむけること。

と説明されています。(五一頁)

自分自身がさとりを開くために、善行を積んでいくという考えが一つです。もう一つは、他者をさとらせるために、自分自身が善行を積んでいくという考えです。ともに、自分自身が善行を行って積んだ功徳を「回し向ける」という考え方です。
まず前者から考えてみましょう。浄土真宗に限らず、仏教は仏さまになることを教えています。仏教が成仏教であるといわれる点です。その仏教の中、浄土真宗は、阿弥陀仏という仏さまの浄土に往生して、浄上でさとりを開き仏さまとなるという仏教です。自身の菩提に回し向けるとは、阿弥陀さまの浄上に往生するために、善行を修し、功徳を積むということです。しっかりと善行をし、功徳を積み、それを阿弥陀さまに回向して、阿弥陀さまに認めてもらえれば、浄土に往生させてもらえるという考えでしょう。自分の頑張り・努力・精進の証を阿弥陀さまにアピールして、それを認めてもらえれば、浄土に往生して救われるという考え方です。わかりやすいといえばわかりやすい考え方です。
それは、私たちの口頃の生活がこのような考え方をしているからでしょう。小さな子どもは一生懸命頑張って、親や大人に褒めてもらえると人喜びします。親や大人に褒めてもらうために、一生懸(叩頑張っているようにも見えます。人人も似たようなところがありそうです。長年努力をしてきたことを評価されると、嬉しくなります。「長年の苦労が報われた」と感慨深げに思い返すこともあるでしょう。
阿弥陀さまに認めてもらい浄土に往生させてもらうために、善行を行い功徳を積むという考えが前者です。
後者は、私か浄土に往生するためではなく、他者を浄土に往生して成仏させるために善行を行うことです。その一つが追善供養・追善同向と呼ばれることがらです。先に亡くなられた方(故人)が、浄土に往生できずに迷っていると考えたりします。いまだ成仏できていないと案じることがあるかもしれません。このように、成仏できずに迷っている故人のために、故人に代わって善行を修行し、功徳を積み、それを回向して、故人を供養し成仏してもらおうとする考え方です。
前者・後者とも、親鸞聖人のお考えとは異なりますね。

雑毒の善

次に、雑毒とは、毒が雑(まじわ)るということです。毒とは、三毒の煩悩を指します。
お土産を買うという行為自体は、けっして悪いことではありません。むしろ美しい行為ということもできます。けれども、その行為をしている者の心を開いてみると、心の内には、「自分が」「私か」「俺が」という自己主張・自己中心な思いが、とぐろを巻いています。このことを「雑毒の善」とあらわされているのです、「正像末和讃」に次の一首があります。

悪性(あくしょう)さらにやめがたし
こころは蛇蝎(じゃかつ)のごとくなり
修善(しゅぜん)も雑毒(ぞうどく)なるゆゑに
虚仮(こけ)の行(ぎょう)とぞなづけたる             (「註釈版聖典」六一七頁)

(悪い本性を抑えることなどできるはずもない。その心はまるで蛇や蝎のようであり、たとえ善い行いをしても、煩悩の毒がまじっている。だからその行いはいつわりの行と呼ばれている。「三帖和讃(現代語版) 一八三頁)

悪い行為をしているのであれば、ことは簡単かもしれません。明らかに善行ではないからです。逆に、本人が善いい行為をしていると思っている時の方が、厄介ではないでしょうか。良いことをしているつもりでも、その心持ちが善=清浄でなければ、「雑毒の善」「虚仮の行」といわなければならないのです。厳しいですね。

お浄土に往生するには

阿弥陀さまのお浄土に往生する時に.私たちが何らかの善行を修し、積んだ功徳を回向することによって、はじめて往生が可能になるとすればどうでしょうか?
私たちには可能でしょうか?
答えは「N0!」ですね。
私たちがしていることは、浄土に回向して評価されるような普行・功徳ではありません。「雑毒の善」といわれるものでしかありません。この「雑毒の善」を回向するからといって、お浄土に往生させていただけるわけではありません。今月のことばの意味するところです。
では、お浄土に往生することを、どのように考えればよいのでしょうか?
答えは、阿弥陀さまの大きな広いお心です。
阿弥陀さまは、一部の人を救い、そのほかの人を救わないとはおっしゃいません。
特定の人を先に救い、そのほかの人は後同しという救い方でもありません。救いに、前後・後先などの順番を付けたりもなさりません。何十年も修行を続ける人も、まだ修行を始めて日の浅い人も、すべて等しく救いたいと順い、誓ってくださっています。
人間らしい考え方、人間っぽい見方をすれば、修行期問の長い者と短い者が同じように救われるというのは不思議な気がします。長年修行に励んでいる者が先に救われるだろうというのが、人間らしい考え方です。
けれども、阿弥陀さまの眼差しは、すべての軒が行っているすべての事柄は皆、浄土往生にとっては「雑毒の善」でしかないということです。だからこそ、すべての人を放っておくことができずに、常に寄り添い、必ず救うと願ってくださるのです。
最後にもう一言。「どんな人も救われる」という言い方をすることがあります。この言い方をする時に、「どんな人も」と話している当の本人(自分分自身)が、その中に含まれているでしょうか。自分の周囲にいる人を思い浮かべて、「こんな人も救われる」「あんな人も救われる」と考える、その巾に自分が入っていないとすれば、どんなに救いを語ってもなんにもなりません。「どんな人も」というだけではなく、「どんな自分も」「いつの私も」、阿弥陀さまは必ず救うと誓ってくださっているのです。
大きなお心の阿弥陀さまに、「南無阿弥陀仏」とお念仏を称えさせていただきま
しょう。
(玉木興慈)

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2018年6月 自力の御はからいにては 真実の報土へ 生るべからざるなり

浄土真宗を理解するために 今月は、親鸞聖人が関東の門弟に宛てて書かれたお手紙(御消息)の中にある言 葉です。 このお手紙には、「笠間(かさま)の念仏者(ねんぶつしゃ)の疑(うたが)ひとはれたる(疑い聞かれたる)事(こと)」(『註釈版聖典』七四六頁)という題がつけられています。おそらくこのお手紙の最初に書かれている「自力・他力」ということは、親鸞聖人から念仏の教えを聞いてきた関東の門弟たちにとって、もっとも重要な疑問の一つだったからでしょう。ですから、親鸞聖人もこのお手紙の中で、門弟たちの疑問に答えるかたちで、「自力・他力」ということについて、詳しくていねいに解説されているのです。 さて、親鸞聖人はこのお手紙の最初に、

それ浄土真宗のこころは、往生(おうじょう)の根機(こんき)に他力あり、自力あり。このことすでに天竺(印度)の論家(ろんげ)、浄土の祖師の仰せられたることなり。(『親鸞聖人御消息』、『註釈版聖典』七四六頁)

と書いておられます。これによって、「自力・他力」ということは、すでに龍樹菩薩(りゅうじゅぼさつ)や天親菩薩などインドの祖師方の時代にも、さらには時がくだり、曇鸞大師、道棹禅師、善導大師といった中国の浄土教の祖師方の時代も、つねに問題にされてきたことである、ということがわかります。実は、浄土真宗の教えを理解できるかどうかは、「自力・他力」ということを正しく理解できるかどうかにかかっている、といってもいいほどの大切な問題なのです。そこで、今回は親鸞聖人のお手紙の言葉に耳を傾けながら、今月のことばについて味わってみたいと思います。 自力の否定 まず、親鸞聖人はこのお手紙の中で、「自力」ということについて、

自力と申すことは、行者のおのおのの縁にしたがひて、余の仏号(ぶつごう)を称念(しょうねん)し、余の善根を修行して、わが身をたのみ、わがはからひのこころをもって身口意(しんくい)んkみだれごころをつくろひ、めでたうしなして浄土へ往生せんとおもふを自力と申すなり。(『註釈版聖典』七四六頁)

と書いておられます。 すなわち「自力」とは、行者ひとりひとりが出会った教えにしたがって、いろいろな仏さまの名を称えたり、さますまな善行を積み重ね、それらの修行に励んだという自分自身を頼りとし、また自分の善悪の判断にもとづいて、つねに身のふるまいを正し二百葉遣いに気をつけ、ヽ心が乱れたらそれを取り繕い、立派にするように心がける。そうして、このような生き方をしている自分であれぼさっと往生できるだろうと期待すること、これを「自力」というのです、といわれています。 このように、「悪をつつしみ善をなしていく」という行為と、それによって自分の身を立派に調えていくということは、仏教の原則からいっても、社会通念上から考えても、実にまっとうな生き方であるといえるでしょう。 ところが親鸞聖人は、この後に

自力の御はからひにては真実の報土へ生るべがらざるなり。 (『同』七四七頁)

と、自力による往生を否定されているのです。いったい、それはどういうわけなのでしょうか。 阿弥陀さまの本意 その疑問について考える前に、親鸞聖人が「自力」に続いて、「他力」ということについて解説されていますので、もう少し聖人のお手紙を読み進めていきましょう。 親鸞聖人は「他力」ということについて、

また他力と申すことは、弥陀如来の御(おん)ちかひのなかに、選択摂取(せんしゃくせっしゅ)したまへる第十八の念仏往生の本願を信楽するを他力と申すなり。如来の御ちかひなれば、「他力には義なきを義とす」と、聖人(汪然)の仰せごとにてありき。義といふことは、はからふことばなり。行者のはからひは自力なれば、義といふなり。他力は、本願を信楽(しんぎょう)して往生必定(おうじょうひつじょう)なるゆえに、さらに義なしとなり。(『註釈版聖典』七四六頁)

と書いておられます。すなわち親鸞聖人は、阿弥陀さまの(四十八の)お誓いの中で、「あらゆる行を選び捨て、ただ念仏一行を選び取って往生決定の行とする」と誓われた第十八願(念仏往生の願)を、疑いなく聞き入れて喜ぶことを「他力」という、といわれています。 さあ、どうでしょうか。一般的には、念仏}行を修するよりも、さますまな行を積むことの方がすぐれており、そのようなすぐれた行を行ずる者をこそ、仏さまは救ってくださるのだ、と考えるのが普通でありましょう。実際、阿弥陀さまのお誓いの中、第十九願には諸行往生が誓われており、これこそが阿弥陀さまの本意であると考えた人もおられたのです。 それに対して、親鸞聖人が浄土真宗の七高僧と仰がれた方々は、念仏往生を誓われた第十八願こそ阿弥陀さまの本意の願である、とご覧になりました。もともと阿弥陀さまの四十八願は、すべて「因位(菩薩の位)の誓願」という意味で「本願」ではありますが、第十八願こそが四十八願の要であり、根本の願であるとご覧になりました。特に、法然聖人は「四十八願の中の根本の願」という意味で、第十八願のことを「本願」とよばれ、この願は、あらゆる行を選び捨て、ただ念仏一行を選び取って往生決定の行とされているというので、第十八願を「選択本願」と名づけられました。そして、親鸞聖人も法然聖人のお心を受けついでおられるのです。 それではなぜ、浄土真宗の祖師方は、第十八願こそが阿弥陀さまの本意の願であると考えられたのでしょうか。また、そもそも阿弥陀さまは、なぜ第十八願において、諸行を捨てて念仏一行をもって往生の行とされたのでしょうか。 その理由について、法然聖人は『選択本願念仏集』という書物の中で、第十八願にこそ、阿弥陀さまの「すべての人びとを救いたい」という「平等の慈悲」があらわれているからである、ということを明らかにされました。それは、第十八願に誓われた念仏行は、救いの条件として提示されたものではなく、すべての人びとを平等に救いたいという慈悲の心があらわれたものであると、法然聖人は見抜かれたということなのです。 阿弥陀さまは、平等の慈悲の心をもって、「どうしたらすべての人びとをもらさず救いとることができるか」ということを深く深く考えぬかれ、戒律や禅定、造像、起塔などは、限られた人しか救われない難しい行であるから選び捨てられ、もっとも行じゃすくたもちゃすい称名念仏一行こそが、すべての人びとを救いとることのできる方法であるとして、これを「選び取る」という本願をおこされたのである、といわれるのです。こうして法然聖人は、この第十八願は「すべての人びとを救おう」と誓われた阿弥陀さまの大悲のお心があらわれた誓願であるから、阿弥陀さまの救いについて、私たちがあれこれとはからうことではない、とあっしゃったのです。 他力とは阿弥陀さまの救済力 ここまで読み進めてくると、親鸞聖人のおっしゃる「自力・他力」ということが、おぼろげながらも見えくるのではないでしょうか。 親鸞聖人のおっしゃる「自力・他力」とは、一般に考えられているように、「自の力・他の力」という意味ではなかったのです。『教行信証』「行文類」に、

他力といふは如来の本願力なり。(『註釈版聖典』 一九〇頁)

といわれているように、「すべての人びとを救おうと願い立たれ、今その願いのとおりに、すべての人びとを救いつつある阿弥陀さまの救済力」のことを、「他力」といわれているのです。それに対して、自分のはからいをもって往生を願うことを「自力」といわれていました。 こうして、「自力・他力」ということを詳しく述べられた上で、

しかれば、わが身のわるければ、いかでか如来迎へたまはんとおもふべからず。凡夫(ぼんぶ)はもとより煩悩具足(ぼんのうぐそく)したるゆゑに、わるきものとおもふべし。またわがこころよければ、往生すべしとおもふべからず。自力の御はからひにては真実の報土へ生るべがらざるなり。「行者のおのおのの自力の信にては、塀慢・辺地の往生、胎生疑城の浄土までぞ往生せらるることにてあるべき」とぞ、うけたまはりたりし。 (『親鸞聖人御消息』、『註釈版聖典』七四七頁)

と結んでおられます。まことにもったいないことですが、阿弥陀さまのお浄土は、私が願って往く世界ではなく、阿弥陀さまに願われ招かれて往く世界だったのです。

親鸞聖人が『高僧和讃』「善導讃」に、

願力成就の報土には
 自力の心行いたらねば
 大小聖人みなながら
 如来の弘誓に乗ずなり 『註釈版聖典』五九一百)

といわれていることを、よくよく味わいたいものです。

(藤潭信照)

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2018年5月 かの如来の 本願力を観ずるに 凡愚遇うて 空しく過ぐるものなし。

「空しく過ぐるものなし」

「人生が空しい」という人があるけれど、「人生を空しいもの」としか思えない人の人生が空しいだけである。阿弥陀さまの人悲の心にふれて、人生を尊いものであると知らされた人にとって、けっして「空しい人生」というものはないと、親鸞聖人は私たちに教えてくださいます。
さて、今月のことばとよく似た言葉を、どこかで耳にしたり、目にしたことはないでしょうか。浄土真宗本願寺派の葬儀に会葬された際に、お勤めをよくよく聞いていると、終わりに近づいた頃に、こんなご和讃を耳にされることと思います。

本願力(ほんがんりき)にあひぬれば
むなしくすぐるひとぞなき
功徳(くどく)の宝海(ほうかい)みちみちて
煩悩(ぼんのう)の濁水(じょくすい)へだてなし             (「註釈版聖典」五八〇頁)

この和讃は親鸞聖人がお造りになった「高僧和讃」「天親讃」の一首で、浄土真宗の教えを味わう上で、とても大切な和讃の一つです。
今月のことばは、親鸞聖人がお造りになった『入出一一門偶頌』という渇頌(うた)のこ即で、もともと、

かの如来の本願力を観(かん)ずるに、凡愚(ぼんぐ)、遇(もうお)うて空(むな)しく過(す)ぐるものなし。
一心専念(いっしんせんねん)すれば、すみやかに真実功徳(しんじつくどく)の大宝海(だいほうかい)を満足せしむ、
(「註釈版聖典」五四六貞)

と続いていくご文の前半のお言葉です。先にあげた「天親讃」の一首も、この「入出二門偈頌」のご文も、どちらも、浄上真宗の七高僧のお一人、インドの天親菩薩の『浄土論』の中の、

仏の本願力を観ずるに、遇ひて空しく過ぐるものなし。よくすみやかに功徳の大宝海を満足せしむ。 ((註釈版聖典 七祖篇)』三一頁)

というご文が依りどころとなっています。

必ず浄土に生まれる

これら三つのご文はとてもよく似ていますが、少し言葉が変わっていたり、また言葉がつけ加えられたりしています。この少しの言葉の違いが、実は浄土真宗の教えを理解する上で大きな意味を持っているのです。
もともと「浄土論」のご文は、「阿弥陀さまの本願力(救済力)を心に思いうかべてみると、浄土に往生して阿弥陀さまに出遇いながら、仏道を完成することがないままに空しく時を過ごすというものはけっしてありません。阿弥陀さまはその本願力によって、すみやかに宝のような功徳を満足せしめて、私たちをさとりに至らしめてくださるのです」ということをあらわしています。このような阿弥陀さまの救いのはたらきを「不虚作住持功徳」といいます。
これが親鸞聖人の「入出二門喝頌」になると、「浄土論」のご文にはなかった「凡愚」とか「一心専念すれば」、さらには「功徳」に「真実」という言葉が加えられているのです。おそらく親鸞聖人は、「浄土論」のご文に感銘を受けながらも、さらに次のようなことを明らかにしようとされたのだと思われます。
まず一つには、阿弥陀仏の救済を受けるのは「煩悩具足の凡夫」である私たちだということ。二つには、宝の海ようなすばらしい功徳を満足させていただくのは、浄土に往生してからではなく、「T心にもっぱら阿弥陀仏の名を称えるとき」、すなわち今この土においてのことであるということ。三つには、その時に得る利益は私たち凡夫の自力の善根によって得る「不実の功徳」ではなく、阿弥陀仏の智慧と慈悲が満足された「真実の功徳」であるということです、もちろんこれは、現生においてさとりを開くということではありません。称える名号そのものに、阿弥陀仏の智慧と慈悲の徳がこめられていて、私たち衆生がその名号をはからいをまじえずに受け入れ、口に称えるところに、仏となるべき因がまどかに満たされる(仏因円満の身となる)ということを明らかにされているのです。この位を正定聚(必ず仏になることが決定しているなかま)といい、また「弥勒と同じ(次の生には仏となるといわれている弥勒菩薩と同じ徳を得ているということこといわれるのです。
さらに「天親讃」になると、『浄土論』の「仏の本願力を観ずるに、遇いて空しく過ぐるものなし」というところが、「本願力にあいぬれば むなしくすぐるひとぞなき」となっていて、『浄土論』の「よくすみやかに功徳の大宝海を満足せしむ」というところは、「功徳の宝海みちみちて 煩悩の濁水へだてなし」となっています。
これによって、親鸞聖人が明らかにしようとされていることは、一つには、「本願力を観ずる」ということは「阿弥陀さまに遇う」ことであり、今すでに阿弥陀さまに出遇っているから、けっして人生を空しく過ごすことはない、とおっしゃっているのです。「本願力を観ずる」ということが、「阿弥陀さまに遇う」ことであるというのは、少し説明が必要かと思います。
そのお心を、親鸞聖人の『一念多念文意』という書物によってうかがってみると、

「観」は願力をこころにうかべみると申(もう)す、またしるといふこころなり。「遇(ぐ)」はまうあふといふ。まうあふと申すは、本願力を信ずるなり。「無(む)」はなしといふ。「空(くう)」はむなしくといふ。「過(か)」はすぐるといふ。「者(しゃ)」はひとといふ。むなしくすぐるひとなしといふは、信心あらんひと、むなしく生死にとどまることなしとなり。                 (「註釈版聖血『』六九一頁)

と解説されています。「まうあふ(もうあう)」とは、「参逢(まいあうこの変化した語で、「値」とか「遇」とも書き、「参上してお目にかかる」とか「尊い方にお会いする」、または「会わせていただく」ということです。
親鸞聖人は、このご書物で天親菩薩のお言葉を次のようにお領解されたのです。

「すべての人びとを救いたい」という願いをおこして修行に励まれ、その願いを実現してすべての人々を救いつつある阿弥陀さまが、大悲の心をもって私たちを「南無阿弥陀仏(必ずたすけるぞ、われにまかせよ)」と喚んでいてくださいます。その声をはからいなく聞いて、「必ずたすかると、あなたにおまかせします」と、阿弥陀さまにこの身をおまかせしているものは、もうすでに阿弥陀さまにお出遇いしているということになります。今すでに阿弥陀さまとご一緒に生きていくのですから、浄土に生まれることは決定しているのです。このような人は、けっして空しく生死(迷い)の世界にとどまることはないのです。

煩悩を抱えたままの救い

二つには、「功徳の宝海みちみちて 煩悩の濁水へだてなし」とあり、また三つにその功徳は「真実功徳」であるといわれているように、阿弥陀さまの本願力をはからいなく受け入れていくものは、煩悩を抱えたままで、その煩悩が宝のような功徳に転じられていく、ということを明らかにされたのです。
そのことを『尊号真像銘文』には、

「能令速満足功徳大宝海(のうりょうそくまんぞくくどくだいほうかい)」といふは、「能(のう)」はよしといふ、「令(りょう)」はせしむといふ、「速(そく)」はすみやかにとしといふ。よく本願力を信楽(しんぎょう)する人はすみやかに疾く功徳の大宝海を信ずる人のその身に満足せしむるなり。如来の功徳のきはなくひろくおほきにへだてなきことを、大海の水のへだてなくみちみてるがごとしとたとへたてまつるなり。            (「註釈版聖血『』六万二頁)

といわれ、また「一念多念文意」には、

「能」はよくといふ。「令」はせしむといふ。よしといふ。「速」はすみやかにといふ、ときことといふなり。「満(まん)」はみつといふ。「足(そく)」はたりぬといふ。「功徳(くどく)」と申すは名号(みょうごう)なり。「大宝海(だいほうかい)」はよろづの善根功徳満(ぜんごんくどくみ)ちきはまるを海にたとへたまふ。この功徳をよく信ずるひとのこころのうちに、すみやかに疾く満ちたりぬとしらしめんとなり。しかれば、金剛心(こんごうしん)のひとは、しらず、もとめざるに、功徳の大宝その身にみちみつがゆゑに、大宝海とたとへたるなり。                     (「註釈版聖典」六九一~六九二頁』)

といわれたのです。このことを私たちになじみの深い「正信偶」には、

能発一念喜愛心(のうはついちねんきあいしん) 不断煩悩得涅槃(ふだんぼんのうとくねはん)
几聖逆膀斉回入(ぼんしょうぎゃくひうさいえにゅう) 如衆水人海一味(にょしゅすいにゅうかいいちみ)

(よく一念喜愛(いちねんきあい)の心(しん)を発(ほっ)すれば、煩悩(ぼんのう)を断(だん)ぜずして涅槃を得るなり。
几聖(ぼんしょう)・逆膀斉(ぎゃくほうひと)しく回入(えにゅう)すれば、衆水海(しょすいうみ)に入(い)りて一味(いちみ)なるがごとし。「註釈版聖典」二〇三頁)

といわれています。
浄土真宗の教えは、善人も悪人も、賢き人も愚かな人も、富める人も貧しき人も、お年寄りも若い人も、男の人も女の人も、まったくわけへだてすることなく、ただ阿弥陀さまの本願を素直に聞き入れる時、すみやかに阿弥陀さまの救いのみ手の中に摂めとられます。そして、たとえ汚れた川の水であっても、海はその川の水をわけへだてなく受け入れて同じ一つの塩味に変えなしていくように、さとりの障りとなる自己への執われ(煩悩)も、そのまま転じてさとり(自他の分別を超えた世界)の功徳に変えなして、私たちにさとりの功徳を与えてくださる、ということです。
このような阿弥陀さまの大悲のお心に聞きふれた人にとって、どんなに辛いこと、悲しいことがあったとしても、けっして「空しい人生」ではないのですよ、と親鸞聖人は教えてくださったのです。                                 (藤津信照)

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2018年4月 回心というは自力の心をひるがえし、すつるをいふなり。

人生のターニングポイント

今月のことぼは、親鸞聖人の著作『唯信鈔文意』の一節です。 「回心」という言葉は、一般的には「かいしん」と読み、これまでの誤った心を改めることをいい、「改心」と同じ意味で用いることもあります。キリスト教などでは、過去の罪の心や生活を悔い改めて、神の正しい信仰寸心を向けることを「回心」というようです。仏教ではこれを「えしん」と読み、もともとの心をあらためて正しい仏道に向かうことをいいますが、浄土真宗では、今月のことばのように、自力の心をすてて他力に帰することを「回心」というのです。 いずれにしても「回心」という言葉は、これまで自分の持っていた価値観が崩れ、まったく新しい価値観が誕生することによって、人格の内面が変化することであるといえます。その意味で「回心」とは、「自分白身が生まれ変わった」というべき信体験をすることで、『歎異抄』第十六条には、

一向専修(いっこうせんじゅ)のひとにおいては、回心といふこと、ただひとたびあるべし。 (『註釈版聖典』八四八頁)

といわれているように、人生におけるただ}度の「夕ーニングポイント」というべき重大な出来事なのです。 私は鹿児島県のお寺の三男として生まれたのですが、中学・高校の頃には、浄土真宗の教えやお寺のことについてそれほど関心を持っていませんでした。まして「お坊さんになろう」などとはまったく考えていませんでした。大学に進学する頃には、すでに長兄がお寺を継ぐ決心をしていたということもあって、自分かやりたいことをやろうと地元の大学の理学部に進学しました。 ところが、学生時代に思いがけない挫折を経験したことや、また将来に不安を抱えながらの学生生活の中で、さますまな仏縁をいただく機会に恵まれていくうちに、次第に浄土真宗の教えに関心を持つようになっていきました。今にして思えば、これは阿弥陀さまのおはからいだったのでしょうか。 大学卒業年次の夏、ある先生に出遇ったことが、私の人生を大きく変えることになったのです。これが私の人生のターニングポイントでした。大学卒業を機に、生まれ故郷の鹿児島を離れ、先生のおられる大阪府高槻市の行信教校というお坊さんの専門学校に入学し、本格的に浄土真宗の教えを学ぶことにしました。そして、行信教校卒業後、ご縁があって滋賀県のお寺に人寺させていただき、それから三十年の時を経て今日に至っています。 さて、「回心」ということについて、人それぞれ道筋は異なると思いますが、宗教体験あるいは信仰体験ということでいえば、無宗教から信仰に入るという場合や、ある宗教から別の宗教へと移っていく場合、また人によっては、逆に信仰から無宗教へと移行するという場合があるかもしれません。いずれにしても、心のありようが完全に転回していくことを「回心」というのです。

親鸞聖人の回心

それでは、『唯信紗文意』の著者である親鸞聖人にとって、「回心」とはいったいどのようなことだったのでしょうか。親鸞聖人は著述やお手紙の中で、自身のことについてはほとんど語っておられないのですが、ただ「回心」ということについては、はっきりと述べておられているのです。 一つには『教行信証』「化身上文類」の後序に、

しかるに愚禿釈(ぐとくしゃく)の鸞(らん)、建仁辛酉(けんにんかのとのとり)の暦(れき)、雑行(ぞうぎょう)を棄(す)てて本願(ほんがん)に帰(き)す。 (『註釈版聖典』四七二頁)

とあるように、「愚禿釈の鸞」と自らの名を名のり、「建仁辛酉の暦」とその時も示して、「雑行を棄てて本願に帰す」と自らの回心について記されています。この時、九つの時から二十年もの間、学問修行されてきた比叡山に別れを告げ、吉水の法然聖人のもとに行く決意をされた、というのです。このことは、伴侶である恵信尼さまが末娘の覚信尼宛てに書かれた『恵信尼消息』の中で、

山を出(い)でて、六角堂に百日龍らせたまひて、後世(ごせ)をいのらせたまひけるに、九十五日のあか月、聖徳太子の文を結びて、示現(じげん)にあづからせたまひて候ひければ、やがてそのあか月出でさせたまひて、後世のだすからんずる縁にあひまゐらせんと、たづねまゐらせて、法然上人にあひまゐらせて (『註釈版聖典』八}一頁)

等と書かれているものとも符合します。ちなみに、ここに「山」とあるのは「比叡山」のことを指しています。親鸞聖人は回心されて後、比叡山での学問修行を「雑行」といわれ、汪然聖人によって出遇った念仏往生の教えのことを「本願」といわれたのです。 三願真仮の思想 ここで『教行信証』「化身上文類」後序の文に、「雑行を棄てて本願に帰す」といわれていることに注目しておきたいと思います。「雑行」に対する言葉は「正行」ですから、親鸞聖人の「回心」が「依るべき行を転換した」ということであるならば本来ここでは「雑行を棄てて正行に帰す」、あるいは「諸行を棄てて念仏に帰す」というべきでしょう。しかしこの文は、親鸞聖人の回心が、「依るべき行を諸行から念仏に転換された」というだけではなく、「本願他力の心に帰する」ということであったということをあらわしている、ということになるでしょう。今月のことばの、

「回心」というは自力の心をひるがえし、すつるをいふなり。 (『註釈版聖典』七〇七頁)

というのも、そのことをあらわしていました。 このような回心体験は、その後、阿弥陀さまの本願の上に真実と方便とがあるという「三願真仮の思想」を確立されることによって、より明確な形であらわされることなります。それが、いわゆる「三願転入」と呼ばれるお言葉でした。 「化身上文類」には、要門釈(諸行往生を誓われた第十九願の法門を「要門」という)に続いて、真門釈(自力念仏往生を誓われた第二十願の法門のことを「真門」という)がありますが、その真門釈の結びに、

ここをもって愚禿釈の鸞、論主(ろんじゅ)の解義(げぎ)を仰ぎ、宗師(しゅうし)の勧化(かんげ)によりて、久しく万行諸善(まんぎょうしょぜん)の仮門(けもん)を出でて、永く双樹林下(そうじゅりんげ)の往生を離る。善本徳本(ぜんぽんとくほん)の真門に回入(えにゅう)して、ひとへに難思往生(なんじおうじょう)の心を発(おこ)しき。(第十九願から第二十願への転換)しかるにいまことに方便の真門を出でて、選択の願海に転人せり。すみやかに難思往生の心を離れて、難思議往生を遂ぽんと欲す。(第二十願から第十八願への)果遂の誓(第二十願)、まことに由あるかな。(『註釈版聖典』四一三頁)

という言葉で語られています。ここで親鸞聖人は、聖道門から要門へ、要門から真門へ、そしていま弘願(第十八願)に帰すことができたのは、ひとえに阿弥陀さまのお育てによるものであったと、お救いのはたらきに深く感謝されています。 「ふたつならぶことをきらふ」 さて、親鸞聖人は兄弟子であった聖覚法印の書かれた『唯信鈔』をとても大切にされ、関東の門弟たちにもたびたび書写して伝授されていますが、その『唯信鈔』に出ている文について釈されたのが、『唯信鈔文意』という書物です。 親鸞聖人は『唯信鈔文意』のはじめのところに、「唯信鈔」という題について解釈されて、

「唯信鈔」といふは、「唯」はただこのことひとつといふ、ふたつならぶことをきらふことばなり。また「唯」はひとりといふこころなり。「信」はうたがひなきこころなり、すなはちこれ真実の信心なり、虚仮はなれたるこころなり。虚はむなしといふ、仮はかりなるといふことなり。虚は実ならぬをいふ、仮は真ならぬをいふなり。本願他力をたのみて自力をはなれたる、これを「唯信」といふ。 (『註釈版聖典』六九九頁)

等といわれています。ここに「唯」ということばを解釈されて、「ただこのことひとつという、ふたつならぶことをきらうことばなり」といわれ、また「本願他力をたのみて自力をはなれたる、これを『唯信』という」とか、「『唯信』はこれこの他力の信心のほかに余のことならはずとなり」(同頁)といわれています。 「自力他力」ということについては、六月のことばで詳しく解説しますが、親鸞聖人にとって、「他力」とは「自力」をはなれることであり、本願他力のほかに、ほかのことを並べないことであったことがわかります。つまり「自力・他力」とは、一般に理解されているように「自の力・他の力」という意味でもなく、「自力と他力とがあいまって、仏さまの救いを受ける」というものでもなかったのです。 『領解文(りょうげもん)』には、

もろもろの雑行雑修自力(ぞうぎょうざっしゅじりき)のこころをふりすてて、一心に阿弥陀如来、われらが今度の一大事の後生、御たすけ候へとたのみまうして候ふ。 (『註釈版聖典』 コーニ七百)

とあります。阿弥陀さまのお救いにあずかるとは、これまで迷い続けてきたもとである自己への執われ、すなわち「凡夫自力のはからい」を捨てて、阿弥陀さまの智慧と慈悲のはたらき、すなわち「本願他力」にまかせることによって、必ず浄土へ生まれて真実のさとりを開くことに決定した身(これを「正定聚」といいます)にしていただき、今、ここから、さとりへの道を歩いていく、ということだったのです。 (藤潭信照)

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2018年3月 本願をききて 疑うこころなきを 聞というなり

本願を聞く

三月の法語は、親鸞聖人が、法然門下の先輩である隆寛律師の『一念多念分別事』を註釈された、二念多念文意』からの一文です。二念多念文意』は、専修念仏(せんしゅうねんぶつ)は称名念仏の数、一念・多念という念仏の数に偏執しない念仏往生義であることを明らかにされた書物です。今月の法語は、その念仏往生の誓願である第十八願が成就した、第十八願成就文を解釈された一文です。まず、その文と現代語訳をうかがいましょう。

本願をききて疑ふこころなきを「聞(もん)」といふなり。 (『註釈版聖典』六七八頁)
(如来の本願を聞いて、疑う心がないのを「聞」というのである。『一念多念文意(現代語版)』五頁)

と、この文は阿弥陀さまの根本の誓願の救いを疑いなく、二心なく聞く、「聞」の大切さを示された一文です。
浄土真宗では聞法・聴聞を大切にしますが、一般に仏教においては、発心・修行ということを犬切にします。自らさとりを求めようという真心を発し、自らが造作しさとりに向かう修行をしていくことを意味します。浄土教の伝統においても、真実清浄に建立された阿弥陀さまの浄土に往生を願うわけですから、浄土に往生しようとする者の信(心)や行け、本来は真実清浄な心で行じられなければなりません。
しかしながら、私たちが自ら十分に真を至して発したという信(心)や行け、真実清浄であるとはいえません。親鸞聖人は、悪の本性はいかんともしがたく、心は蛇や歎(さそり)といった毒虫と少しも変わりがないとも吐露されています。善い行いをしても、心のどこかで褒めてもらいたいとか、良く見てもらいたいといったはからいの心、すなわち煩悩の毒が混じっています。それは、世間でいう善行やさとりへ向かう善根功徳の行であろうともです。少しでも汚れた心持ちで修行の徳を振り向けて、土へ往生を願ったとしても、これは必ず不可でしかないのです。
また、自らが正しく清らかに行じたと思っていても、それが迷いの因果に基づいた行いであるならば、これもまた不可なのです。私たちの身・口・意の三業は、雑毒の善、虚仮の行で、真実の業とは名づけられず、このような業によって浄土往生を求めてもかなえられないのです。
ところが逆に、阿弥陀さまがそのような衆生を哀れんで、法蔵菩薩としてご修行された際の身・口・意の三業は、すべて真実清浄になされ、一念一刹那も真実清浄でなかったことはない、といわれます。そして、真実なる願いを完成され、真実心で修められた功徳のすべてを名号として、衆生に施されていたのです。阿弥陀さまの本願成就のところに、衆生の信ずる心も、行ずる行も、さとりに至るはたらきも、完成し用意されていたのです。
その救いの誓願の根本中心は第十八願です。この願の内容には、第十一・十二・十三・十七・十八願の阿弥陀さまの五つの願いの心が込められています。すなわち、真実の教(『仏説無量寿経』言行(南無阿弥陀仏土信(無疑の信心土証(滅度言宣(仏・真土の六法が納まっており、『教行信証』にはそれらの救いの法が体系的に述べられています。衆生往生の因果のすべてが阿弥陀さまから与えられて救われる、本願力回向の仏道にほかならないことが明らかにされています。

「ただ念仏」と「ただ信心」

私たち凡夫の現実は、臨終の瞬間まで貪欲・緋恚・愚痴の三毒の煩悩にまみれた状態です。もし無明煩悩の病原を治さなければ、迷いの世界にとどまることになります。したがって、自力のさかしい智恵しか持ちえない私たちには、無明の毒を滅するはたらきをもつ薬が必要となります。
その救いの法薬は、阿弥陀さまが、苦悩の衆生をいのちをかけて救わずにはおられぬと、兆載永劫(ちょうさいようごう)という長い時間、絶えず真実清浄なる心でご修行され、説きつくすこともできない智慧や慈悲の徳を成就された結果、仕上がりました。それは、功徳をおさめた如来の名号、本願が衆生のものにまでなってくださった、本願成就の名号です。「南無阿弥陀仏」として衆生に施し与えられ、諸仏がたの讃嘆称名される音声(おんじょう)を通じて、十方世界に届けられていたのです。その救いの真実を、親鸞聖人が「よきひと」と仰がれた法然聖人は、

ただ念仏して、弥陀にたすけられまゐらすべし
(『歎異抄』第二条、『註釈版聖典』八二二頁)

と勧められ、親鸞聖人が歩まれた仏道の大きな転機となりました。

では、第十八願に誓われた真に救うのお心は、どのようにして衆生のものとなるのでしょう。それは、衆生においては、与えられた薬の飲み方といえます。『仏説無量寿経』巻下の第十八願成就文には、服薬の方法が語られています。お釈迦さまによるこの説明書には、

諸有衆生(しょうしゅじょう) 聞其名号(もんごみょうごう) 信心歓喜(しんじんかんぎ) 乃至一念(ないしいちねん)
『一念多念文意』、『註釈版聖典』六七七~六七八頁)
(諸有の衆生、その名号を聞きて信心歓喜せんこと乃至一念せん『註釈版聖典』二三六頁)

と語られ、この文を親鸞聖人は、「本願信心(ほんがんしんじん)の願(第十八願)成就の文」(『同』二三五頁)として重視されます。諸仏に讃えられ届けられた名号は、「聞く」というかたちで服薬せよといわれます。聖人は、それをより詳細に、

仏願(ぶつがん)の生起本末(しょうきほんまつ)を聞きて疑心(ぎしん)あることなし
(『教行信証』「信文類」、『註釈版聖典』二五一頁)

と述べられて、何をどのように聞くのかという聞き方をお示しです。阿弥陀さまが本願を起こされた理由(生起)と、その本願の因果(本末)を疑心なく聞くということです。
服薬した衆生においては、「信楽」の受持という真実信心一つが、如来の救いが私たち衆生のところではたらく要となります。その信相は、真白意味で仏に導かれることがなく、無始から未来においても迷い続ける現実の自身のいつわらざる姿を深く信知せしめられた「機の深信」と、本願真実の救いにまかせ、間違いなく浄土往生させていただけると深く信知せしめられた「法の深信」という、二種一具の信相です。また、本願にまかせて自力心を捨てた即座に、「ひとたびとりて永く捨て」(『浄土和讃』左訓)ずという摂取不捨の利益が恵まれるのです。
「本願力回向の信心」(『教行信証』「信文類士、「如来よりたまはらせたまひだる信心なり」(『歎異抄』後序)とは、このような味わいの中のお言葉となります。よきひとの「ただ念仏せよ」のお言葉を「ただ信心」といただかれ、念仏申されたのが親鸞聖人でした。

聞即信

親鸞聖人は、本願を聞くということを「聞名」として解釈されて、

「聞(もん)」といふは如来のちかひの御(み)なを信ずと申すなり。
(『尊号真傀銘文』、『註釈版聖典』六四五頁)

と、「聞」を解釈されるのに名号を信ずるという「信」をもって示されます。これは、第十八願成就文の「聞其名号」のご解釈と同じです。「名号」を「聞く」ということが「信心」であるということは、浄土真宗の信心の特質です。
古来「聞名」に三種の意義があるといわれます。一つには、名号を聞信するという凡夫に相応の「信」であるということ。二つには、「聞名」は「称名」に対する言葉で、聞名による真実信心は、私たちの称名の「行」に先立ち信前行後といわれます。逆に、第十七願によって讃嘆された「称名」を聞くという次第からすると、行が信に先立つこととなります。称名が称えものでありながら聞きものであるといわれる由縁です。三つには、「聞名」が凡夫自力の信心ではなく、名号のはたらきによって信心が発起するという如実の信心をあらわしています。
このように、本願に誓われた名号を念仏して助けてもらうのではなく、助かってくれと拝まれている阿弥陀さまの御名を「聞名」し信心を獲るのが、本願の救いの要であります。
(武田 晋)

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2018年2月 信心のさだまるとき 往生またさだまるなり

今ここでの救い

二月の法語は、親鸞聖人が関東から京都へ帰られて遷化(せんげ)されるまでに、関東各地の門弟に与えられたお手紙(御消息)で、『親鸞聖人御消息』からの一文です。そのお手紙のほとんどが、門弟の質問に対する返事や聖人の身辺のことです。
建長(けんちょう)(一二五一)年に書かれたこの于紙は、門弟の疑問に答えられた法語で、臨終の正念を祈り、有念・無念を沙汰することは、ともに浄土真宗の法義にかなわないことを教示されています。『末灯炒(まっしょうしょう)も同じお手紙が収録され、「有念無念(うねんむねん)の事」という表題が付加されていますので、法語として門弟に共有され、大切にされたものと考えられます。まず、その文をうかがいましょう。

信心(しんじん)定(さだ)まるとき往生(おうじょう)まだ定まるなり。      (「註釈版聖典」七三五頁)

と、信心が定まるその時に往生もまた定まると示されます。真実信心とは、阿弥陀さまが悩み苦しむ私たちを、慈愛に満ちた母のごとく受けとめて、「必ず救う、我にまかせよ」と願われたお心が如来の喚び声となり、その声をそのままに聞くことで、私たちの信心となります。すなわち、本願招喚の勅命たる名号のいわれを聞いて、疑いなく二心ない信心は、自力のはからいの心がすたれ、願力にまかせる心という信相です。「信心をいただく」といわれるのは、本願の上にすでに用意されてあった信心だからです。南無阿弥陀仏の名号は、衆生の心にあらわれて信心となり、川にあらわれて称名となるのです。
また、無上涅槃の真因が決定(けつじょう)した人は、法薬の効力が発揮され、ただ今から命終までも、また命終往生後も効力が失われません。苦悩に悩む私の人生が、阿弥陀さまの慈悲に出遇う時に、煩悩をかかえたまま抱き取られ、阿弥陀さまに抱かれた人生を歩み、さとりの世界に導かれていくこととなります。
親鸞聖人は、その利益を、この世において往生が決定し、大涅槃のさとりを開く念仏者には、「倶会一処(くえいっしょ)ともに一処で会う)」(『仏説阿弥陀経』)と再びお浄土で会える世界があります。それは念仏を喜んだ方々に待たれている世界でもあります。そして、お浄土で仏となられた方は、大いなる慈悲の心から迷いの世界で苦しみ悩む人びとを救いたいと、お浄土から今度は迷いの世界に還来(げんらい)され、を通して巧みに教化されているのです。
また、もし亡くなられた人が念仏にご縁がなく、迷いの境界に生まれ変わったのではないかと気にかかるようならぱ、まず私自身が念仏を喜び、亡き人も含め多くの方々が念仏のみ教えに遇えるように、仏法を後の世に伝えていくことも必要でしょう。
ところで、親鸞聖人は、平生(へいえい)に真実信心を獲た時に、往生成仏に必要な事柄が衆生のところですべて満足する、と理解されます。阿弥陀さまの金剛の信心を獲た人は、平生に阿弥陀さまの光明に摂め取られ護られていますので、問違いなく往生成仏することに定まっており、捨てられることがありません。臨終時に初めて信を獲る人もいるかもしれませんが、病苦などに苛(さいな)まれて、なかなか正しくみ教えを正受できるものではありません。「仏法は若い時にたしなめ」ともいわれますが、日頃の聴聞が大切な所以です。
しかも聖人は、臨終に仏の来迎を侍ち望む人については、

来迎(らいこう)は行往生(しょぎょうおうじょう)あり、自力(じりき)行者なるがゆゑに。臨終といふことは、諸行往生のひとにいふべし、いまだ真実の信心をえざるがゆゑなり。                        (『註釈版聖典』七三五頁)

と、他力の信心を獲ていない諸行による往生を願う人のこととしておられます。そのような人は、臨終の時に往生ができるかどうかを気にかけて嘆くことになるとされるのです。平生の獲信による往生決定を重視されたのでした。

臨終来迎たのむことなし

親鸞聖人のご臨終の様子は、その生涯の行蹟が記された「御伝紗(ごでんしょう)」に、

口に世事をまじへず、ただ仏恩のふかきことをのぶ。声に余言をあらはさず、もつぱら称名たゆることなし。         (『註釈版聖典』 一〇五九頁)

と、お釈迦さまの臨終のように頭北面西右脇(ずほくめんさいうきょう)に臥し、お念仏の息がたえたとされます。法然聖人のような臨終の瑞相もなく、臨終の来迎を期することを否定された親鸞聖人らしく、粛々とその様子が叙述されています。親鸞聖人晩年のお手紙には、「目もみえず候ふ。なにごともみなわすれて候ふ」(『親鸞聖人御消息』第十一通)とも述べられるように、九十歳というご高齢で老衰のようなご臨終であったかとも想像されます。
その聖人のご臨終に立ち会われた末娘の覚信尼さまは、葬儀後に母である越後の恵信尼(かくしんに)は、葬儀後にに父の死をお手紙で報じられ、何の瑞相もない臨終の様子を述べられたようです。お手紙に応えられた恵信尼さまの返信が残されていますが(「恵信尼消息」第一通)、そこには、殿(親鸞聖人)のご臨終がどのようであられても、浄土往生されたことは確かであると強調されています。
親鸞聖人以前の浄土教では、浄土へ往生する契機として、臨終時に仏・菩薩の来迎が待ち望まれました。来迎とは。仏・菩薩が修行者の臨終にこの世に来現して、死後に仏の世界に引導することをいいます。中でも阿弥陀仏の臨終来迎の思想は、「浄土三部経」のすべてにわたって説かれており、日本浄土教の発展に大きな役割を果たしてきました。六道輪廻への転生思想を背景として、迷いを超えた仏の世界への契機を望んでのことでした。
特に、臨終時の善悪の相は往生の可否につながると、臨終の行儀(儀式)や正念(迷いない帰敬の心や念仏)ということが重視されてきました。それは、比叡山で源信僧都を中心として結成された二十五三昧会という念仏結社の影響が大きいでしょう。
その念仏結社の発願文には、これまでいたずらに生死を繰り返してきたことを省み、ここに至ってさとりへの善根を植えなければならないと思い至ったとされ、幸い『仏説観無量寿経(ぶつせつかんむりょうじゅきょう)』には、五逆・十悪の悪人でも、臨終に善知識に導かれて念仏を十遍称えただけでも、八十億劫の生死の罪を消し、死後には極楽に生まれることができると説かれ、来迎は私たちの来世の証であるとされました。そこで、互いに契りを結んで善友となり、臨終には助け合って念仏させることを約束したのでした。
法然聖人においても、この臨終来迎思想は受容されています。それは、第十八願の念仏往生の利益として、第十九願に誓われた臨終来迎があると捉えられたからです。しかし、法然聖人の場合には、往生に必要な業事が満足するのは臨終に限ったことではなく、平生において決定往生の信の上に念仏申す時で、そのような人には必ず臨終来迎の利益があり、正念に住すとされたのでした。
さらに、親鸞聖人は、法然聖人を承けつつも、臨終に仏の来迎を期待するのは第十九願の自力往生を願う人のことであり、真実信心を獲た人は平生に往生成仏の因が決定し、阿弥陀さまの摂取不捨の利益にあずかっているので、臨終来迎を待つことも、たのむことも必要がないとされたのでした。恵信尼さまが覚信尼さまに、聖人の往生は間違いないと述べられた背景には、このようなご領解があったと考えられます。
(武田 晋)

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2018年1月 帰命ともうすは 如来の勅命に したがうこころなり

十字名号を解釈された文IMG_20171231_0011
一月の法語は、『尊号真像銘文(そんごうしんぞうめいもん)』からの一文で、天親菩薩の『浄土論』正式には『無量寿経優婆提舎願生傷(むりょうじゅぎょううばだいしゃがんしょうげ)』といい、『往生論』ともいう)冒頭の帰敬偈(ききょうげ)「世尊我一心(せそんがいっしん) 帰命尽十方(きみょうじんじっぽう) 無擬光如来(むげこうにょらい)」の「帰命」を解釈された一文です。まず、その文と現代語訳をうかがいましょう。

帰命と申すは如来の勅命にしたがふこころなり。  (『註釈版聖典』六五一頁)
(「帰命」とは「南無」であり、また「帰命」というのは阿弥陀仏の本願の仰せにしたがうという意味である。『尊号真像銘文(現代語版)』 一九頁)

『尊号真像銘文』の「尊号」とは、阿弥陀さまの尊い御名のことで、帰依礼拝の対象である本尊としての名号のことです。親鸞聖人は『唯信紗文意』に、

「尊号」と申すは南無阿弥陀仏(なもあみだぶつ)なり。「尊(そん)」はたふとくすぐれたりとなり。「号(ごう)」は仏に成りたまうてのちの御なを申す   (『註釈版聖典』六九九~七〇〇頁)

と述べられています。「真像」とは、真影ともいい、み教えを相承された印度・中国・日本の祖師方の絵像(肖像画)のことです。また「銘文」とは、それら尊号や真像の上下の添紙や色紙型に記された、経典’・論書・釈書などの大切な讃文をいいます。この文は、天親菩薩の絵像に対する銘文というよりは、「帰命尽十方無擬光如来」という十字名号(尊号)に対する銘文を解釈された文と考えられています。

「帰命」とは「南無」

天親菩薩は『浄土論』を造られるにあたり、自ら教主であるお釈迦さまの仰せに対して、阿弥陀さまのお救いを疑いなく信じ、まことの信心を頂戴したということを、「世尊我一心」と表明されています。

そして、その救いの仏である阿弥陀さまを「帰命尽十方無傷光如来」と礼拝・讃嘆されています。「尽十方」とは、仏の光明がいつでも、どこでも普く満ちわたっている状態を、「無磯」とは、衆生の煩悩や悪い行いにさまたげられない光の仏の徳のはたらきを讃えています。また、「光如来」とは、仏の智慧が光明の形をとったもので、凡夫のはからいを超えた絶対の徳をあらわして「不可思議光仏」ともいいます。
親鸞聖人はお手紙に

帰命は南無なり。無磯光仏は光明なり、智慧なり。この智慧はすなはち阿弥陀仏なり。阿弥陀仏の御かたちをしらせたまはねば、その御かたちをたしかにたしかにしらせまゐらせんとて、世親菩薩(天親)御ちからを尽してあらはしたまへるなり。     (『親鸞聖人御消息』第十三通、『註釈版聖典』七六三頁)

と、示しておられます。
もともと「南無阿弥陀仏」の「南無」とは、梵語すなわちインドの言葉ではナマス(ぶ日色、帰依・敬礼の意味ですが、善導大師は「南無」を「帰命」と解釈され、また浄土に参りたいという義(発願回向)があると示されました。また、「阿弥陀仏」という仏名に、衆生往生の行の徳が如来の手元にて成就され具わっている(即是其行)とされました。大師は、機根の劣っている十悪・五逆の悪人の称名念仏も、往生の行道に必要な願と行が具足したもので、命終後に直ちに往生を得ると主張されました。阿弥陀さまの大いなる本願のはたらきに乗じることこそが、最高唯一の凡夫往生の道として、仏の正意を明らかにされたのです。
まことの因果
私の子どもが小さい頃に、こんな質問をして困ったことがあります。
「お父さん、月にはウサギさんがいるんだよね?」
という純粋な質問に、夢を壊さないように、
「そうだねー、餅つきしているのかなっ」
と答えました。しかし、子どもも成長し科学的な知識が身についてきますと、その答えは嘘だったと気付いてきます。どうやら私たちは、その存在を科学的・実証的に証明しないと気がすまない教育を受けてしまったようです。
ところが、大人となった私たちは、目の前に見えるものや現実生活の中でのありのままの真実に気付かず、自己中心の心で物事を捉えています。そのため、思い通りにならないことで、悩み苦しむことが多々あります。一生懸命に幸福を求めて努力をしていたのに結果として不幸になり、悪い方向ばかりに向かう時があります。そうした経験をしますと、あれだけ科学的・実証的に物事を見ていた私たちに、突如道理の通らないことが頭をもたげてきます。現在でも崇りを恐れる信仰が盛んであったり、縁起の道理に合わない迷信が絶えないのも、その一例でしょう。
努力すれば幸福になる。誰しもそれを求めているのですが、私たちの求めている幸福は、無明煩悩にもとづく幸福であり、不幸という場合も無明煩悩にもとづく不幸なのです。お釈迦さまはそれを見ぬかれて、コ切は苦である」とあっしゃられました。そのお釈迦さまは、「無常」なる世に固定的な実体はないといわれ、「無我」なるさとりの境地を体得されて、縁起の道理を説かれたのでした。
親鸞聖人は『教行信証』「行文類」に曇鸞大師のお言葉を引用されて、その私たち凡夫の実体を次のように述懐されます。

いわゆる凡夫が修めるような善を因として、人間や神々の世界に生れる果報を得ることは、因も果もみな真如にかなっておらず、いつわりであるから、不実功徳というのである。  (『顕浄土真実教行証文類(現代語版)』五二~五三頁)

と、煩悩に汚れた心で修した行為はさとりに適っていないもので、因も果もいつわりである。私たちの人間生活は、無明煩悩にもとづいた迷いの努力の積み重ねで、迷いの因果でしかないといわれます。
したがって、聖人は、顛倒・虚偽でない真実真如に順じた、如来の名号の救いの業因により、浄土往生の正しき因を頂戴してさとりの果に至るという、阿弥陀さまによる真実の因果の道理に、私たちを導かれたのです。
発遣・招喚の声と信順
親鸞聖人は、善導大師の解釈を承けられて、南無阿弥陀仏の「南無」は帰命という言葉であるが、「帰命」とは、お釈迦さまが「お浄土へ参れ」という勧め遣わす教法の声(発遣)と、阿弥陀さまの「帰命せよ」と招き喚ぶ本願の仰せ(招喚の勅命)である、と理解されます。また、二尊の教命により弥陀の本願大悲心の召しに適うという、勅命に信順した言葉として解釈されます。
『尊号真像銘文』のこの文は、「帰命と申すは如来の勅命にしたがうこころなり」と、如来より「帰命せよ」との招喚に信順し真実信心を頂戴した、衆生の立場からご解釈されています。
一方で、『教行信証』「行文類」では六字の名号をご自釈されて、「南無」とは、私の信順に先んじた如来の招喚する「帰せよ」の勅命で、如来がすでに因位の時に誓願を起こされ発願されて、衆生の行を回施された(「発願回向」)如来の大悲心とされます。また、それは如来が第十八願に誓われた行(「即是其行」)であると、六字の全体を阿弥陀さまの救いのお立場から解釈されています。
このように親鸞聖人は、釈迦・弥陀の勧めと喚び声に対して信順され、「帰命」と名号を称えて、浄土往生を願われたのでした。私たちは、天親菩薩が力をつくして示された仏さまの救いの御名を聞いて、阿弥陀さまの真実功徳が、まさにこの凡夫の世界に満ち満ち、いかなる時においてもその大悲の中に願われ生かされていることを知らねばなりません。その阿弥陀さまに信順するところに、間違いなく浄土に生まれさせていただける安心ができるのであります。                                 (武田 晋)

カテゴリー: 法語カレンダー解説 | 2018年1月 帰命ともうすは 如来の勅命に したがうこころなり はコメントを受け付けていません