2020年10月のことば 念仏とは 自己を発見することである

他人事の分析的知識

徳聞書店刊行『歎異抄』のなかで、金子大茶師が使われた言葉です。
親鸞聖人の教えや教学は、何より聖人ご白身の著作によって学ばねばなりません。
さらにはその背景となった、七高僧をはじめ、聖人が引用された膨大な著作をも視野に入れて、親鸞聖人の領解・味わいを味読するのが王道でしょう。ただ、それができなければ念仏はわからないのかといえば、そうではありません。二文不知」と呼ばれたような文字一つ知らない人であっても、すぐれた学匠よりはるかに深い味わいをいただいておられます。妙奸人の言葉が、それを証明しています。そこに、学問と信仰の違い、宗教の不思議と難しさがあります。
金子大楽師は、清沢満之師らから始まった近代真宗教学運動の影響下、同郷の曽我量深師らとともに活躍された、真宗大谷派の学僧です。清沢師が東京大学の哲学科を卒業されたことからもわかるように、この方々の言葉は、伝統的な宗学の枠にはまらず、哲学的な思索と密接な関係を保ちつつ、他に例のない独特の表現で真宗を語られました。
「念仏とは自己を発見することである」(『同』四六頁)。この言葉を読んで、多少なりとも真宗に関わりのある人でも、即座にその意味するところを理解できる人はないでしょう。どのような文脈のなかで、何を言うためにこのような表現をされたのか、しばらくそれをうかがってみましょう。

  多くの人の思いでは、仏というものがあり、自分というものがあって、それを  結びつけるものが念仏ともいい、信心というものでもある こう考えており  ますけれども、それはいわゆる分析的な知識なのでありましょう。
(『歎異抄』四五頁)

この言葉の直前で、金子師はこう語っておられます。向こうに仏の存在があり、それに対して自分がいる。その両者を結びつけているのが、信心であり念仏である。このような考えは「分析的な知識」であると、師は述べられます。「分析」とは、ものをさまざまな要素に分けて、その関係を明らかにすることでしょう。仏さま、仏さまとは何か。私、私は何ものか。信心、念仏、これらはそれをどう結びつけるのか。このように考えることを、「分析的な知識」と師はいかれるのでしょう。
子どもの頃、風邪をひくと、小さなお盆にお粥や梅干し、卵などを載せ、母が枕元まで運んでくれました。
「起きるのがしんどいでしょう。今日はここで食べなさい」
狭い家で、居間へ行くのにそれはどかかる訳でもないのに、なぜかそれが習慣でした。私の密かな楽しみでもありました。 子どもは、何かいつもと変わったことがあると、無性にうれしいものです。お正月三が日、赤い塗りのお椀で食事をいただくのも、楽しい出来事でした。三日目の夜、

「今晩はもう、普通のお椀にしよう」
と父が言ったとき、とても悲しかったことを覚えています。いつもと違って、病気だから、今日はここで食べられる。いま考えると、祖母や家族に風邪をうつさないようにとの配慮があったのかも知れません。何も知らないまま私は、母の運んでくれた「病人食」を食べていました。
ここでもし、分析を始めたらどうなるでしょう。
今日の「病人食」のメニューは何だろうか。栄養のバランスはとれているだろうか。母はどのようにつくってくれたのか。お盆は何を使うだろうか。私の病気はどんな状態なのか。病気を治すのに十分な栄養があるだろうか……、書き出したらいくらでも続けられます。けれども、いくら続けても、そこに私の密かな楽しみはありません。母のこころもわかりません。要は、分析はあくまで「他人事」の連続でしかなかったのです。

 

道理と事実

また、金子師は「念仏とは自己を発見することである」と書かれた後半で、次のようにもいわれます。
本願のいわれということばがありますが、本願というものは、それを聞けば、いかにもごもっともであるとうなずかずにおれないところの深い道理をもった  ものであります。本願はいわれです。体は、この身の事実です。だから、本願とは、われらのそれにうなずいていかなければならないいわれでありますし、体とは、われわれがそれを実践していかなければならない、身にうけていかなければならないところの法であり、のりであるこういっていいのであります。                        (『歎異抄』四九~五〇頁)
少しわかりにくい表現があります。ここに引用はしませんでしたが、この文脈の冒頭、師は、

  如来の本願を説きて経の宗致とす、すなはち仏の名号をもって経の体とする
なり。             (『教行信証』「教巻」、『註釈版聖典』 一三五頁)

という、親鸞聖人の『無量寿経』についての領解を前提に話を進めておられます。『無量寿経』の教え、その最も大切なところ、「宗」は本願です。本願は阿弥陀さまの「願い」「誓い」「約束」です
から、それは実現されなければなりません。その実現されたすがたが「体」、すなわち名号であり、十方の衆生が称えるところの念仏であるというのでしょう。そこで、右の「体は、この身の事実です」とあるのは、念仏申している私のすがたは本願を疑いなく受け入れているすがたであり、朧として動かしがたいものであるから、「事実」と表現されたものかと思います。
「本願のいわれ」とは、本願は「なぜ」「だれのために」「どのように」起こされたのか。またそれが「どのように」成就されているのかということでしょう。
祖母の苦労
よくお話しするのですが、私の母の口癖は「親孝行、したいときには親はなし」でした。本当にいつも、時と所を構わず口にしていました。あまりによく耳にするものですから、馬耳東風、なにも気にとめず、ずっと聞き流していました。
「なぜ同じ言葉を繰り返すのだろう」
「何を言いたいのだろう」
ひょっとすると、「私か元気なうちに、お前もよく親孝行しておくのだよ」という意味だろうか、などと考えたりしていました。私か母の気持ちに気づいたのは、ずっと後になってのことでした。
私の母は、琵琶湖畔の農家の生まれです。八人兄弟の次女でした。母の生みの母、
顔も知らない私の祖母は、若くして病死しています。働き手として若い女性のいない農家は、一日も成り立ちません。間を置かずに祖父は再婚し、新しい母を迎えました。その母から、男女二人、弟と妹が生まれます。昔ならよくある話でした。
母が亡くなって後、これらのことを考え合わせ、ようやく私は母の気持ちがわかったのです。義理の母と異母兄弟。さますまな葛藤があったことと思います。若い私には、それを想像ができませんでした。「親孝行、したいときには親はなし」。これは旅行や外食はもとより、何の娯楽も知らないまま、農家に嫁いで苦労を重ね、若くして亡くなった母。その自分の生母を想う言葉だったのです。

真実の私の誕生

金子師がいかれた「念仏とは自己を発見することである」を、以上の文脈からまとめてみましょう。
私たちがものを知るのに、二つの種類があります。理解することと体験すること、言い換えると味わうということです。理解するという金子師がはじめにいわれた表現によると、「分析的に」知ることは一応の理解力があれば可能でしょう。しかし、その方法はいくら時間をかけてもあくまで対象を向こうに見ることであって、距離を詰めることはできません。
いま、私はなぜ念仏しているのか。本願の起こり、本願は「なぜ」「誰のために」「どのように」起こされ、「どのように」成就されているのか。大ごととして聞くのでなく、私こそが目当てであった、むしろ「私一人のため」の本願であったと、心に響いて領解されたとき、私は念仏せずにおられません。そのように念仏している私は、いままでの私とは違います。愚痴と煩悩のなかでしか生きていなかった私か、愚痴と煩悩が恥ずかしいことであったと気づかされる。そこに新しい私、真実の私か誕生するのです。そこを金子師は、「念仏とは自己を発見することである」といわれたのでしょう。少し丁寧な表現に変えれば、「念仏とは真実の自己を発見することである」ということではなかったでしょうか。
讃岐の庄松さんに、ある人が、 「仏をたのむとはどういうことか」
と尋ねたとき、庄松さんは、
「お前さんは、仏をたのんだことがないとみえる」
と答えられたのが、このことを如実にあらわしています。仏さまは、「分析的に」知る世界ではなかったのです。
(山本撮叡)

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2020年9月のことば 自分のあり方に痛みを感ずるときに 人の痛みに心が開かれる

心に感じる痛み

私は大学のソフトボールの試合をときどき観に行きます。面識のある保護者の方々と、選手の調子や対戦相手の状況などを話しながら観戦します。保護者の方は、わが子たちのプレーに一喜一憂しながら、勝てば歓喜の笑みを浮かべ、負ければ悲しみを抱きつつ、次の目標に向かって切り替えようと励まし合われます。そこには、保護者同士、お互いに同じ思いを共有されている光景が広がっています。ほとんどの選手は小学校からソフトボールを続けています。ですから、わが子加活躍したときのうれしさも、失敗したときの悔しさ・申し訳なさも、幾度となく体験されてきた親御さんばかりですから、お互いに相手の気持ちが理解できるのです。
このように、私たちは自らが体験したことのある同じ状況に他の人が置かれたときは、自分目身を相手に投影させて(シンクロさせて、相手の心持ちを慮ることができます。今月のことば「自分のあり方に痛みを感ずるときに人の痛みに心が開かれる」は、九州大谷短期大学名誉教授であった宮城顎先生の『他人さえもいとおしく』(九州大谷文化センター)にあるお言葉です。宮城先生は、

  自分のあり方に痛みを感ずるときに、人の痛みに心が開かれる(中略) 一人一 人には、他の人にはわからない心の痛み、その重さがあるということが、わかるということです。                       二五頁)

と述べられています。
たとえば、親(子)を亡くし、何一つ親孝行できなった(親らしいことができなかった)と、自分白身に痛みを感じている人は、親(子)を亡くして悲しんでおられる人の心の痛みを感ずることができます。しかし、その経験のない人は、悲しいという気持ちを推し量ることはできても、どれはどの悲しみかを感じることはできません。自らが痛みを感じるとき、その人は悲しみに沈んでおられる、あるいは立ち直ろうとされている人の痛みを、我がこととして感じることができるのです。

 

REMEMBER PEARL HARBOR! の教訓

 

話は変わりますが、私は広島に生まれ育ちました。小学生の頃から、学校で「平和学習」という授業がありました。平和公園や原爆ドーム・平和記念資料館にも、何度も訪れました。
身内の体験談も聞きました。祖母(父方)は、原爆が投下されたときお寺にいて、爆風で倒壊した建物の下敷きになりました。たまとま近くを通りかかった人に助け出されて一命を取り留めましたが、その後も亡くなるまで後遺症に悩まされました。祖父(母方)は海軍に所属しており、潜水艦に乗って赤道直下の方までよく行っていたそうです。八月六日には、たまたま山口県の岩国に帰還していました。もし国外で終戦を迎えていたら、日本仁戻ってこられなかったかもしれません。両親からも疎開していたときのこと、戦中・戦後のことを聞きました。

また、原爆の日には、毎年、平和公園内の原爆供養塔前で、いくつかのお勤めが行われています。広島市内の中心部に位置する本願寺派の広陵東組・広陵西組においても、八月五日の夜には、僧侶やご門徒さんなどの関係者が原爆ドームそばのお寺に集まってお勤めをし、供養塔前まで提灯行列をして、そこで原爆死没者のお逮夜法要を勤修しています。このような環境のなかで私は育ちましだから、平和についての思いもそれなりに持っていると思っていました。
ところが、私自身、”本当の平和とはなにかとを考えさせられたことがありました。いまから二十数年前になりますが、龍谷大学の研究の一環で、先生や大学院生たちと一緒に本願寺派の(ハワイの開教区を訪れる機会をいただきました。そのとき、私たちは(ハワイの開教使の先生にアメリカ軍の基地内を案内していただきました。
いろいろ見て回るなかで、古びた建物の外壁に、穴と言いますか、くぼみのようなものが幾つも空いているのに気づきました。けじめは、。なんとも変わったデザインだな”と、〃老朽化が進んで穴が空いたのかな”などと呑気なことを考えながら見て回っていましたが、どうしても気になったので、開教使の先生に尋ねました。
そうすると先生は、「これは真珠湾攻撃のときの弾丸の跡です。取り壊したり修繕したりしないのは、そのときのことを忘れないようにするためです」と教えてくださいました。その話を聞いて私は、(ワイの人々にとっての「REMEMBER PEARL HARBOR!(真珠湾を忘れるな!)」がどれだけ大きくて、深い憤りと悲しみをいまだに残しているかを感じました。私は、戦争がもたらす悲しみは、立場が違っても同じであると思いました。と同時に、私は”お主えは戦争による本当の痛み・悲しみとは何かを真剣に捉えようとしていたか”。生半可なうわべだけの平和しか見ていなかったのではないかと、「本当の平和とは何か」をつきつけられたように感じました。
戦争は敵も味方も関係ありません。それに関わったすべての人々に深い悲しみをもたらします。戦争はしてはいけない、それは誰もがわかっていることだと思います。戦争という手段では、何の解決も導かれません。握造されたり作為的に書きかえられたりした歴史に触れても何にもなりませんが、歴史の事実を直視することによって、戦い・争いは問題を解決する有効な手段とはならないことに気づかされます。自らに痛みを感じることができる人は(被害を受ける悲しみだけでなく、相手を傷つけてしまう・殺めてしまうと感じる痛みもあります)、相手が受けた(あるいは受ける)心の痛みを知ることができるはずです。そこに初めて戦争は無益なものだとうなずかされてくるのではないでしょうか。

 

自らの痛みと他者の痛み

 

自らに痛みを感じない人は、相手の痛みを感じることができません。ずいぶん前になりますが、ある方が広島の赤十字・原爆病院を訪問し、「病は気からと言いますから、気をしっかりと持ってください」と、原爆症で苦しんでおられる方々に声を掛けられました。その言葉に被爆者の方々は、言葉であらわせない深い悲しみを抱かれたそうです。なぜなら、原爆による後遺症は、ふつうの病気やけがによるものとは違います。言葉をかけたその方も戦争を体験された一人です。身をもって戦争による悲しみ・痛みを感じておられるであろうはずなのに、間違ったお見舞いの言葉を掛けてしまうということは、自らの痛みとして感していない人としか言い様がありません。自ら痛みを感じていないのですから、相手の痛みを感じられないのも当然ですよね。逆に、結果的に自らの研究が原爆製造に力を貸すことになってしまったアインシュタイン博士は、日本の人々に対して「申し訳ない」との思いを抱いておられたそうです。それは、自らの研究が人類の役に立つと思って疑わなかったけれども、幸福をもたらす道具とはならずに悲劇を生む元を作ってしまったという漸愧の思いを、自らの痛みとして感じておられたからだと思います。だからこそ、多くのいのちが失われ、後遺症に苦しんでおられる方々の痛みを、重く受け止められたのだと思います。争いからは、決して安らぎは生まれません。争いは争いを生かだけで絶えることがありません。その連鎖を断ち切らない限り、真の安らぎは訪れません。

偉そうなことを言っていますが、私は非常に性格が短気です。些細なことでも、つい頭に血がよって”カーツ”となってしまいます。気がつけば近くにあった物を投げつけたり、壊したりしてしまうこともあります。そのあと少し冷静になって感じることは、自らがとった言動に対しての後悔です。。なぜその二日を言ってしまったのだろう刀”どうしてあんなことをしたのだろうと。ときにはその逆もあります。なぜ、その一言を掛けてあげられなかったのだ。どうしてあのとき、行動に移せなかったのだと。ただ、私か気付けている自らの反省すべき言動は、ほんの一部だと思っています。なぜなら、後で周りの人から叱責されて、初めて気付くことが何度もあるからです。

 

他者の痛みを自らの痛みに

 

悪性さらにやめかかし
こころは蛇蝸のごとくなり

修善も雑毒なるゆゑに
虚仮の行とぞなづけたる

無漸無愧のこの身にて
まことのこころはなけれども
弥陀の回向の御名なれば
功徳は十方にみちたまふ             (『註釈版聖典』六一七頁)

(悪い本性を抑えることなどできるはずもない。その心はまるで蛇や蝸のようであり、たとえ善い行いをしても、煩悩の毒がまじっている。だから、その行いはいつわりの行と呼ばれている。 罪を恥じる心がないこの身には、まことのこころなどないけれども、阿弥陀仏があらゆるものに回向してくださる名号であるから、その功徳はすべての世界に満ちわたっている。『三帖和讃(現代語版)』 一八三頁)

このご和讃は、親鸞聖人の『正像末和讃』「愚禿悲歎述懐讃」のなかの二首です。私の心は正に蛇や蝸のたとえで示されるように、他人を傷つけてしまう邪悪な心の持ち主でしかありません。しかも後悔できればまだいい方ですが、ほとんどの場合、自らが取った言動を顧みることもしません。そんな私か「争いはよくない」と言ってみても、それは痛みを感じないものでしかありません。痛みを痛みとして感じることができない、それが私の本性なのです。しかしそんな私に、。なかなか痛みを感じられない私であるμと気づかせてくださるのが、「南無阿弥陀仏」のみ名をもって私に掛けられている阿弥陀さまの願いなのです。
相手を傷つけてしまうことは悲しみであると感じられるようになれば、おのずと相手の気持ちを感じることができるようになると思います。いまも世界のあちらこちらで、紛争やテロが起こっています。自分の愚行が他人を傷つけてしまうことに痛みを感じられる人は、紛争やテロによってどれだけの人が悲しむかを知ることができるのではないでしょうか。私は、広島でも(ワイでも、多くの方々が国籍に関係なく一緒に手を合わせておられる様子をみてきて、勝者も敗者もない、ともに「南無阿弥陀仏」のご縁に遇わせていただく、それがお念仏の世界だと思っています。
(貫名 譲)

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2020年8月のことば 念仏もうすところに 立ち上がっていく力があたえられる

報恩知徳の道

今月のことばは、西元宗助先生が『み仏の影さまざまに』(樹心社)のなかで述べられた一文です。
酉几先生は、『歎異抄』第四条について触れられた後で、

けだし、聖人がここで「念仏もうすのみぞ」と仰せになる、その念仏の意味  はじつに無上甚深でありまして、称名念仏こそは実は如来の大行であり、その大行たる如来の本願念仏をわが身にいただくことが大信、即ち他力の信心であり、したがってまた大菩提心であり、大慈悲心をたまわることであるのでありました。だからこそ「念仏もうすのみぞ、すえとおりたる1最後まで⊇貝した、徹底したI大慈悲心にてそうろふべき」と仰せになられたのでありました。(中略)

要するにです、念仏もうすところに、立ち上がっていく力があたえられる。
どこまでも自分のことしか考洸ない、自分たちだけの幸せを求めてやまない、その浅ましいことに気づかされて、噺愧の念と感恩の念がめぐまれる。そして及ばずながら、せめて出来るだけお役にたちたいと願うようになる。お念仏は、このような徳をもっているのでございます。
いや、それに、わたしのいささがな経験でも、ひとを救おう助けようと思うことは、まことに結構なことに違いありませんが、しかし気をつけないと、助けよう救おうと思うこころが、いつのまにか思いあかっか傲慢心になっていて、人を救い助けるどころか、却って人とのあいだを疎遠にしてしまっていたということも経験しております。だから、いちばん大事なことは、私ども自身が世のひとびと、即ち人さまのご恩を感じることにあるようでありまして(中略)まことに念仏もうすということは、仏恩報謝の念仏という言葉もありますように、われら忘恩の煩悩具足の凡夫が、み仏のご恩を感じさせていただき、また人さまのご恩を感じさせていただく世界-境涯でありましょう。そしてそのあらゆるもののご恩を感じさせていただくことこそが、凡夫の大菩提心、凡夫の度衆生心をなりたたしめる根源1本願力廻向であることを思うにつけ、われら凡夫におきましては、ただ念仏で、他力廻向の大信心を讃嘆させていただくばかりなのでございます。けだし本願を信じ念仏もうす信心のほかに凡夫の知恩報徳の道はないからであります。         (一三七~一三九頁)

と、述べられています

源信和尚のお母さま

現実に目を向けてみますと、私たちはいろいろなところ・場面で、「感謝」とか「恩返し」という言葉を用いています。たとえば、何か目標を達成できたときに、「お世話になった方々に対して、これで恩返しができたかなと思います」「感謝しています」などです。それは本心からの素直な表現だと思いますが、私は”本当に感謝しているのかな”とか。恩返しできたって言ってるけど、それって自己満足でしかないんじゃないかな刀などと思うときがあります。私の受け止め方が間違っているのかもしれませんが(性格が素直でないのかもしれませんが二、どことなくすっきりとしない感情を抱いてしまいます。私は、世間一般的な「感謝」とか「ご恩」の使用は、「私はうれしい。だから○○も喜んでくれる」というように、「他者」よりも「自分」が優先されているのではないかと考えます。
平安時代、源信和尚は『往生要集』を著されて人々にも念仏往生を勧められましたが、お若い頃のエピソードとして次のようなお話が残されています。
源信和尚は、若くして比叡山でもその名をとどろかせる立派なお坊さまでしか。あるとき、村上天皇の御前で経典の講義をなされ、村上天皇はたいそう喜ばれ、源信和尚にご褒美を授けられました。源信和尚は、早速、その言褒美をお母さまに贈られました。「これでお母さんに恩返しができる。お母さんもさっと喜んでくれるに違いない。立派になった私を責めてくれるだろう」と、源信和尚にしてみれば、お母さまへの感謝の印として、ご褒美をそのまま届けられたのでした。
ところが、お母さまはご褒美を一切受け取られずにすべて源信和尚に送り返され、「あなたは名誉や地位を得るために仏門に入ったのですか。世の人々の助けとなるために、仏の教えを学ぼうとして比叡山に上ったのではありませんか」といった内容の書かれた手紙を添えられていたそうです。源信和尚はお母さまのお言葉によって自らの姿勢を恥じ、褒美の品々をすべて天皇にお戻しになりました。そして改めて仏道に真摯に向き合い、念仏の道を精進されたそうです。

常行大悲の益

源信和尚のお母さまは、源信和尚に対して「本当の感謝とは何か。ご恩に報いるとは何か」を、身をもってお示しになったのではないでしょうか。先はども述べましたが、どうしても私たちは自分優先の感謝を相手に押しつけて、それで恩に報いたと勝手に納得しています。それでは本当の「感謝」「恩」とは言えません。 そうすると、「私たちには恩返しも感謝もできないのでしょうか」とおっしゃるかもしれませんが、決してそのようなことを申しあげているのではありません。
”私から他者へのムダを、”他者から私へのヽ少として受け止められるところに、本当の感謝の心が語られてくるのではないでしょうか。言いかえますと、「恩」は私か誰かに差しあげるものではなく、私かさまざまな方からいただいたもの(いただいているもの)だということです。いただいた「恩」であることを知ってこそ、初めて「ありかたい」「もったいない」の心が生じるのです。
お念仏も同じです。私たちが「南無阿弥陀仏」と称えることは、「仏恩報謝」あるいは「報恩感謝」のお念仏だとよく言われますが、阿弥陀さまからいただいたお念仏であると知る(受けとめる)ことが、信心を得たということなのです(信知)。親鸞聖人は『教行信証』「信巻」に、阿弥陀さまの仰せを疑いなく聞き信じることができたものに具わる徳として「十種の利益」をあげられています。その八番目に「知恩報徳の益」があります。阿弥陀さまから私に掛けられた「ご恩」であると受け止められたものだけが、徳を報じていくことができるのです。さらに九番目には「常行大悲の益」とあります。「大悲」とは、阿弥陀さまがすべての生きとし生けるものを救済しようと願われた大きな慈悲の心です。「徳を報ずる」とは、阿弥陀さまからいただいた大悲の心を阿弥陀さまにお返ししていくことではありません。そもそもそのような大それたことが私にできるはずもありません。阿弥陀さまからいただいたお心を、私白身の依りどころとしてお念仏を称えていくこと、それが「徳を報ずる」ことなのです。源信和尚のお母さまがわが子に示されたのは、「世の人々に阿弥陀さまのみ教えを伝えていくことが、あなたにできる恩返しですよ」ではなかったでしょうか。
とはいえ、私たちはどうしても。自分”という立場を後回しにしてものを見たり考えたりすることができません。詰まるところ、。自分”を抜きにすることはできません。ただ、そのことに気づけるかどうかが重要なのです。自分の本当の心持ち・すがたをごまかさないで受け止めることが大切です。そこに初めて、阿弥陀さまから私に掛けられた願いの有り難さに気づかされるのです。西元先生の「念仏もうすところに、立ち上がっていく力があたえられる。どこまでも自分のことしか考えない、自分たちだけの幸せを求めてやまない、その浅ましいことに気づかされて漸愧の念と感恩の念がめぐまれる。そして及ばずながら、せめて出来るだけお役にたちたいと願うようになる。お念仏は、このような徳をもっているのでございます」のお言葉は、正に「仏恩報謝」のお念仏の心を表現されたものに他なりません。

自らのすがたを見つめ直すご縁

一つ付け加えますと、自らの無力さを痛感すると、人はなかなか他者(人・物)に向かっていく気力が失われてしまいがちです。

しかし、行動に移すことによって、現実には十分なことはできないと気づかされるのです。何もしないでいては、働愧の心も、感謝の心も起こりえません。それではいくら念仏を称えてみたところで、真の念仏者にはなれません。

ご門主さまが伝灯奉告法要でのご親教に、私たちはこの命を終える瞬間まで、我欲に執われた煩悩具足の愚かな存在であり、仏さまのような執われのない完全に清らかな行いはできません。しかし、それでも仏法を依りどころとして生きていくことで、私たちは他者の喜びを自らの喜びとし、他者の苦しみを自らの苦しみとするなど、少しでも仏さまのお心にかなう生き方を目指し、精一杯努力させていただく人間になるのです。

とおっしゃっています。お念仏のみ教えに出遇えたことを尊いご縁として、私白身も自らのすがたをあらためて見つめ直してみたいと思います。
(貫名 譲)

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2020年7月のことば 人間は死を抱いて 生まれ 死をかかえて成長する

死のカウントダウン

今月のことばは、信國淳先生の「人間は死を抱いて 生まれ 死をかかえで成長する」です。信國先生は、一九〇四(明治三十七)年に大分県宇佐市にお生まれになり、一九八〇(昭和五十五)年にお亡くなりになりました。先生は、東京帝国大学(現・東京大学)仏蘭西文学科をご卒業なさり、大谷大学教授、大谷専修学院長を務められた方です。
この言葉は、『信國淳 選集』第六巻「浄土-個人と衆生-」(柏樹社)に収」一{られている「浄土(コー仏教の身土観-)の一文です。
信國先生は、

私どもの身体は生きる始めをもつとともに、また死ぬる終わりをもつ身体であように私どもは、死ぬべき身としてこそ生を始めるのであって、死なぬ身、不死身として生きるのではない。死をよそにして生きる身体というものはない。人間は死を抱いて生まれ、死をかかえて成長する。死はこの身において成熟する。若い頃のものの見方、考え方と、年取ってからのそれとはすっかり違うというが、違うのが当然で、身の中にある死の成熟の度合いが違うのである。(中略)死はこの身の老いに従って、この身の内に成熟し、病を通してこの身の内から現実に近寄る。老・病・死する身として私どもは生まれ、かつ生きているのである。                           (二四頁)

と述べられています。
このなかで、「死ぬべき身としてこそ生を始める」とあらわされておりますが、私たちは、この世に生を受けたときから死のカウントダウンが始まります。小さないのちが誕生したとき、周りの人たちは祝福をします。誰も「この子のいのちの終わりが、いま始まった」などと思う人はいません。信國先生のお言葉は、私たちはみな生老病死の苦しみから逃れることはできない、その現実を生きているのである、ということをお示しくださっているのではないでしょうか。「死」を遠ざけて「生」しか見ようとしないものは、「生」の意義を考えることはできません。

「死」はわからない

さて、私は大学で「宗教」「仏教」に関連しか授業を担当しています。そのなかで「生と死」「死と生」について、一般社会における捉え方から宗教・仏教的な見方に至るまで、私の思うところを織り交ぜながら学生さんにお話をしています。大半の学生は、どうしても学問的な観点で「生」と「死」を捉えようとする傾向が強く見られます。大学の授業ですから、学問的観点からのアプローチで何の問題もありませんが、「いのち」については、他の学問とは違う捉え方・向き合い方をしてほしいと思ってお話をしています。しかし、学生さんには自らの切実なる思いとしては捉えにくいようです。考えてみれば、それは当たり前といえば当たり前の話なのです。二十歳前後の若者に、コこの世に生まれてきたものは、いつかはその終わりを迎えるのです」と言っても、いま、まさにいのちを謳歌している若者に、「死」について語っても真剣に考えるはずはありません。私は、授業を担当しけじめの頃は、「どうしてわからないかな」「なぜ真剣に考えようとしないのかな」と、なんとも言えないもどかしさを抱えながら授業をしていました。
ところが何年か経ったころです。年度始めにいつものように授業の見直しをしていたとき、話をしている私自身も、「死」はわからないということに気づきました。なぜなら自分自身の身体で「死」を実感したことがないからです。授業で偉そうに言っても、自分自身の体験としての「死」を体験しかことがない私の言葉は、それこそ「どこかの本に書かれてあった」とか、「どなたかがお説教でお話になっていた」言葉の受け売りでしかありませんでした。僧侶という立場上、多くの方々よりはご葬儀に接する機会がたくさんあります。しかし、一つひとつのご葬儀を通して「いのち」を切実な問題として考えたことはほとんどありませんでした。ですから、私の言葉自体がしょせん空虚なものでしかなかったのです。そんなものが人様にもっともらしいことを言っても、説得力はありませんよね。
以前、私か読んだ「死生学」を学ぶ学生向けに書かれたテキストのなかに、私たちは「三人称の死」から「二人称の死」へ、そして「一人称の死」へと、歳とともに「死」との向き合い方が移り変わっていくとありました。若いときに経験する「死」は、テレビや新聞などを通して伝わる、自分にとってはほとんど面識のない方々の死です。そして年齢を重ねていくにしたがって、お世話になった方々や身内・肉親の死と向き合うことになります。最終的には自分白身の死と向き合うことになります。年齢を重ねていく過程のなかで、私たちは嫌でも「死」を意識しないではいられなくなってきます。私はテキストを読んで、そのとおりだなと思いましたが、どことなく空虚なと言いますか、失礼ながら薄っぺらさを感じました。なぜか。ただ、それが何によるものなのかは、そのときははっきりとしませんでした。

老病死としての生

なかなかこの空虚な感覚を払拭できないでいましたが、私自身が歳を重ねていくにつれて「いのち」について考えさせられる機会が増え、少しずつですが理解できるようになりました。それは、私自身が直接関わりを持った方々の死を通してです。いろいろお世話になった方々が亡くなっていかれるのです。大学時代にご指導いただいた恩師をけじめとする諸先生方、父や叔父・叔母、幼い頃からお育ていただいたご門徒の方々・…本当に多くの方々の死(あるいは訃報)に接する機会が増えていきました。私か歳を重ねていくということは、お世話になった方々も歳を重ねられます。つまり老いていかれます。病気を抱えて入院されることもあります。そのようなご様子を目の当たりにすることにより、それまで頭でしか理解できていなかった「生老病死に生きるものの根本の問題があるのだ」ということが、切実な問題として私白身に迫ってくるようになりました。つまり、他者の「老病死」を通して自らの「生」を考え、さらに私もまた歳を重ねていくなかで、自らの「老病死」を考えることができるようになりました。それによって、先はどの死生学のテキストを読んで釈然としなかった思いの原因がなんとなくわかりました。
それは、「生と死」が、二元的・対極的なものとしてしかあらわされていなかったからです。このテキストは、人生の苦悩の根源である「生老病死」の「老」「病」を見ないで、「生」と「死」だけを取り上げて論じられていました。もちろん、幼いときに亡くなる方や、若くして不慮の事故に遭われる方もおられます。ですから、老病なし仁生から死へという場合もあります。私か申しあげたいのは、仏教で説かれるところの「生死」は、二元的・対極的なものとして語られた教えではないということです。「いのち」を生きるその現実を直視することが大切なのです。そのことを、お釈迦さまは、老・病・死に生きるものの限本の司題があるとみられたのです。
信國先生があらわされた「人間は死を抱いて生まれ、死をかかえて成長する。死はこの身において成熟する。(中略)死はこの身の老いに従って、この身の内に成熟し、病を通してこの身の内から現実に近寄る。老・病・死する身として私どもは生まれ、かつ生きているのである」は、正に現実の問題として「いのち」を考える必要性をお示しくださっているのだ、と私は受け止めました。

いのちのはかなさと尊さ

そもそも私たちが、自らの「生(老病)死」を見つめるきっかけは、他者の「生(老病)死」を通してです。たとえば、蓮如上人がご門弟に宛てて書かれたお手紙(『御文章』)のなかで無常観をおっしゃるようになったのは、妻子の死を契機としてです。とりわけ次女の見玉尼さまがお亡くなりになったことは、蓮如上人にとって大きな悲しみであったといわれています。自分よりも若い方々、しかも自らに親しい人であればあるほど、筆舌に尽くしがたい悲しみに覆われます。蓮如上人は、そのようないくつもの悲しみを体験されたことによって、自らの根本的な問題として「いのち」と向き合われたのではないでしょうか。さらに重要なのは、蓮如上人は無常であるとだけあっしゃってはいません。いのちのほかなさを述べるだけでは、「諦め」でしかありません。
蓮如上人は、その後に、

後生の一大事を心にかけて、阿弥陀仏をふかくたのみまゐらせて、念仏申すべきものなり。      (『御文章』五帖目第十六通、『註釈版聖典』 一二〇四頁)

とお示しくださっています。私たちの「いのち」ははかないものですが、だからこそ、永遠のいのちとして浄土に生まれさせようとおはたらきになっている阿弥陀さまのお救いをいただくべきである、とされています。当時の人のみならず、現代においても、蓮如上人のお言葉に触れるものをして、「いのち」の尊さを感じることができるのは、蓮如上人ご白身が阿弥陀さまのおはたらきにあずかることの大切さを感じられた、そのままのお心をお説きになっているからだと思います。  (貫名 譲)

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2020年6月のことば 人が何よりも 執着せんとするものが 自己である

苦しみの原因

毎田周一氏は、石川県金沢市ご出身で、明治から昭和にかけて活躍された仏教思想家であり詩人でもあった方です。今月のことぼけ、毎田氏の逝去後にまとめられた『毎田周一撰集』第六輯の『釈尊の心 一真海』(一周会、一九七八年)のなかで述べられたものです。
「執着」とは、ものや事がらにとらわれて離れないことを意味する仏教の言葉ですが、「私たち人間がもっともとらわれて離れないのが自己である」とはどんな意味なのでしょうか。
仏教は、お釈迦さまが説かれた仏に成る教えですが、もともと苦しみが出発点でした。お釈迦さまは、生まれてきたことからくる苦しみ、老いていくことからくる苦しみ、病になることからくる苦しみ、命つきていくことからくる苦しみ、この四苦を、どう乗り越えたらよいかを見つけるために出家されたのです。生老病死という現象は、動物でも植物でも命あるものすべてにありますが、それを苦しみと受け止めるのは人間だけです。お釈迦さまは、先ずはその苦しみの原因を考えられました。苦の原因は大きく二つあり、

・苦しみは自分の外に原因はなく、自分自身の心が生みだしている
・自分か苦を生みだす原因は、ものの本当のあり方を知らないことによる

とわかりました。それでお釈迦さまは菩提樹の下で、自分と自分をつつむ周りの世界のありのままのあり方を静かに考えられました。そしてお釈迦さまのさとられた内容は、

一、すべてのものは、生滅変化を繰り返し、変わらないものは一つもない
二、すべてのものは、互いに関わり合って存在している

という真理です。そんなことは誰でも知っていると思われる方もあるでしょうが、本当に誰もが理解しているでしょうか。

ものの本当のあり方

一つ目の真理は、仏教では「無常」といわれますが、すべてのものの存在は、必ず移り変わっていくという真理です。無常と聞いてどんな思いがするでしょうか。
「ああ、すべては朽ちていき、自分も年老いていく」と、寂しいし悲しいと考えるでしょうか。でもそれは、滅びいくという無常の一面だけにとらわれています。必ず移り変わり常ではないのですから、命の誕生も無常なのです。
また二つ目の真理は、仏教では「縁起」といわれます。すべてのものの存在は絶えず変化していく無常だが、それはなぜかというと、さますまな条件(縁)によって、お互いが関わりながら異なったすがたで存在するから、という真理です。つまり、関わらずに存在するものはないという真理です。

私という人間は、親の存在が縁となり、子としての命を生きています。また学校では、先生炉縁となり生徒としての自分があります。職場では、会社という組織を縁として社員としての自分を生きています。ですから生きていること自体が、さますまな関わり(縁)のなかで、縁起を生きているということになります。生きている私は、そのまま生かされている私と気づきます。また縁起に良し悪しはありませんし、縁起の言葉を前兆の意味で使用することも二言葉の意味を考えると好ましくない使い方だと、心にとどめておいてください。

私たちはなぜさとれない

先に述べたように、苦しみの原因は、ものの本当のあり方を知らないからで、これを知れば苦を乗り越えて、仏になることができるはずです。しかし、無常も縁起も、いま、その内容を知ったのに、私もあなたも仏にはなっていませんね。それはなぜでしょう。無常も縁起もわかっているようで、本当に理解できるのはさとりを得た仏しかありません。この二つの真理を、仏教では「法(ダルマ)」といいます。
この真理である法を得たときに仏になることができると、経典には説かれています。
無常や縁起という真理を頭で理解するだけでよいならば、この世に争いや苦しみはありません。仏になれないのはなぜか、ここに重要な私たちの心の問題点があるのです。
先日、電車に乗ったときのことです。駅のホームでは、たくさんの人が電車を待っていました。やっと到着した電車のドアが開いたとき、一人の男性が降りる人を押しのけて乗り込んでいきました。降りる人がおわり、やがて私も乗り込み、つり革につかまり立っていると、先はどの男性が目の前に座っています。しばらくして終点の駅に着き、ドアが開くと、今度は学生さんらしか人が、乗客を押しのけて乗り込もうとしました。そのときです。あの男性が大きな声で、「こら、降りるもんか先じゃ」と言ったのです。私も周りの人も、その言葉にあ然として、なかにはクスクス笑う人もいました。でも、このことは私たちにもありうることです。
電車に乗り降りするという状況は同じなのに、自分か乗り込む側の立場なら自分を優先して割り込んでいく、自分が降りる立場ならまた逆に自分を優先して降りていく、という行為です。つまり、私たちは、人のことを思いやる大切さを頭で理解していても、自分か出会う場面場面で、我が身の方からしかものが見えないのです。
しかも思いどおりにならないことで、不平不満の絶えない愚痴の生活を繰り返しているのです。こうした自分の側からしかものが見えないという、自己中心の思いが私たちの心の奥底にあることが問題点であり、それがさとりをさまたげる大きな原因になっているのです。
今月のことば「大が何よりも執着せんとするものが自己である」は、私たちの愚痴の生活が自己中心性の思いによることを示して、毎田氏が述べられたものです。

阿弥陀さまの他力の救い

しかし、仏になれず、愚痴の生活を繰り返している自分と知っただけでおわっては、私たちには安らぎがありません。
実は、親鸞聖人の苦しみもこの点にありました。親鸞聖人は、ご承知のように、比叡山で二十年もの間修行をされた方です。しかし、修行を積めば積むほど見えてくるのは、己の執着、自己中心性でありました。では、こうした煩悩を持ったままの私では仏にはなれないのか、道はないのかという問いと苦しみがありました。そして、道を求め比叡山をおりて、法然聖人がその頃説かれていた、阿弥陀さまの他力念仏の教えに出遇われたのです。
阿弥陀さまは、煩悩ある私をそのまま救いとろうとされる仏さまです。煩悩を断ち切ることがなくとも、私の名前、南無阿弥陀仏を呼んでおくれ、その名前のなかに、あなたたちが仏になるためのはたらきをすべてこめるからと、願いはたらき続けておられます。親鸞聖人は、阿弥陀さまの他力念仏の救いに身を託し、安らぎの道を歩んでいかれました。

願われる私

以前、ある人が「阿弥陀さまに願われて何か得になることがありますか」と言っているのを聞いたことがあります。願われて治病や得財の役に立つか、という意味でしょう。もちろんそんな役には立ちません。しかし、私事で恐縮ですが、願われるということはこういう心持ちなのか、という経験をしたことがあります。
ある日の朝、いつものように、洗面所で顔を洗い、歯をみがいて口をゆすごうとしました。ところが口の中に水を含もうとすると、水がこぼれ落ちてしまうのです。
そこで鏡をのぞきこむと、自分の顔全体が変形し、口も大きくゆがんでいることに初めて気づきました。お医者さんの診断は、過労から起こる顔面神経マヒ。いつ回復するかわからず、気長な治療が必要とのことでした。すぐに入院といわれ、不安になりました。それから毎日、首からの注射や電気治療が続き、食事がうまくできないことや仕事や面会を禁じられたことで、次第にいらだちを感じるようになりました。
そんなある日、妻と子どもが見舞いにきてくれたのです。そのとき、顔が変形したま圭戻らないかもしれないという夫婦の会話を聞いていたのか、子どもが涙をうかべてこう言いました。
「お父さん、顔がまかっかままでもいい!」
「えっ、ど、どうして」
「お父さんがどんな顔でも、私はいつまでもお父さんが好きだよ。きっと帰ってきてね、まってるからね」
私は言葉につまりました。不平不満ばかりで、わが身のことしか考えていなかった自分が恥ずかしくなりました。そして、そうだった、自分は願われてある命なのだと気づかされたとき、早く治してやろうというりきみではなく、いいようのない安らぎを感じました。子どもは、治療をしてくれるわけでもなく、心配してくれたからといって、お金を出すわけでもありません。しかし、私にとっては願われているというそのことが、大きな心の支えになったのです。
阿弥陀さまと子どもを同等には言えませんが、阿弥陀さまから願われることはさらに大きな安らぎであり、それはもので交換できないものです。自己に執着する煩悩を持った私を、そのまま受け入れお浄土に生まれさせるというはたらきある願いです。今月のことばを自分のこととして、昧わってみてはいかがでしょうか。
(東光爾英)

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2020年5月のことば いだかれてありとも 知らずおろかにも われ反抗す大いなるみ手に

大いなるみ手に

今月のことばは、九條武子夫人による短歌です。武子夫人は、本願寺第二十一代・大谷光尊さまのご息女としてお生まれになられた方です。またこの言葉は、武
子夫人の逝去後に、大谷嬉子お裏方さまによって編纂された『九條武子全歌集 無憂樹(あそか)』(本願寺出版社、一九八三年)のなかに挙げられています。しかしも
とは、武子夫人存命中に夫人著として出版された歌集『無憂華』(実業之日本社、一九二七年)のなかに、「幼児のこゝろ」と題して掲載された歌です。
ここには、

幼児が母のふところに抱かれて、乳房を哺くんでゐるときは、すこしの恐怖も感じない。すべてを托しさって、何の不安も感じないほど、遍満してゐる母性愛の尊きめぐみに、脆かずにはをられない。
いだかれてありとも知らずおろかにもわれ反抗す大いなるみ手に

しかも多くの人々は、何ゆゑにみづから悩み、みづから悲しむのであらう。
救ひのかゞやかしい光のなかに、われら小さきものもまた、幼児の素純な心をもって、安らかに生きたい。大いなる慈悲のみ手のまヽ、ひたすらに久遠のいのちを育くみたい。-大いなるめぐみのなかに、すべてを托し得るのは、美し吉信の世界である。                        (八頁)

とあります。
赤ちゃんがお母さんに抱かれて、お乳をのんでいるときは、不安を感じることはない。それは赤ちゃんがお母さんにすべてをゆだねきっているからで、お母さんの愛情の深さ、尊さがあればこそだからである。
ところが、自らの人生は、苦しい悩みに埋もれ、大きな悲しみのなかに流されている。阿弥陀さまの救いの光のなかにあるのだから、お母さんに抱かれる赤ちゃんのように、純粋に救いの慈悲に身をゆだねて、安らかに生き、願われる生き方をしていきたい。それが信心をいただく美しい世界だ、と武子夫人はいわれています。
しかしまた一方、『無憂華』のなかで、

罪のなげき

道をもとむる人のなかに、ともすれば人生を罪深いものとして、これを否定しようとするものがある。しかしながら否定し得ない現実の前には、何人も心おどろき慄かざるを得ないのである。
救済のひかりは、悩めるものゝためにかぎヤいてゐる。ひかりは睨はれた罪をこそ照らしてくれる。悩みのあるところ、ひかりはつねに、悩めるものと偕に在るのである。

光に照らし出されたよろこびを味はふものは、また罪のなげきを味はふものであらう。否定し得ない罪をみつむるものこそ、真実に救ひのよろこびを受け入れることが出来る。                      豆八頁)

とも、武子夫人自らの言葉で述べられています。
阿弥陀さまの救いは、苦しい悩みをもち、大きな悲しみにくれるもののためにある。その智慧のひかりのはたらきは、悩めるものによろこびを与えるものだが、また同時に、自らの罪の大きさを知らしめられることになる。しかし、自分の力で消すことができない煩悩という罪を、自分のこととして深く省みるときに、阿弥陀さまのはたらきがまことの救いとして、よろこび受け入れられるのです、と述べられています。
赤ちゃんが母に抱かれているように、私は阿弥陀さまの大いなる慈悲の手に抱かれているのに、それに気づかない。それを無視して、自分中心の思いを常にもち、自分が起こす苦しみなのに愚痴をこぼし、知らぬまに人を傷つけている。まるで阿弥陀さまの救いに反抗するかのようなおろかな生き方をしているのがこの私だ、という言葉が、「いだかれてありとも知らずおろかにもわれ反抗す大いなるみ手に」の歌でありましょう。

たまわる信心

ここまで述べてきました武子夫人のこの二つの心。つまりそれは、阿弥陀さまのひかりに照らされた私は、自らの煩悩にまみれ、自己の力ではとうてい仏に成りようのない人問だとなげく心と、その無力な自己を深く見つめ、自分のこととして味わうときに、逆にその私に願いをかけ、仏にさせようとする阿弥陀さまの他力の救いが、真実のはたらきとしてあることを心の底からよろこぶ心とてすが、この二つの心は、実は阿弥陀さまからたまわる信心の内容を示しているのです。
「自己の力では仏になりようのない生き様の私だ」と強く思う心と、「その私を救いとり必ず仏にさせるという、広大な慈悲の阿弥陀さまのはたらきがある」とよろこぶ心とは、一石であって二つでない、信心の二面をあらわすものであります。
つまり、この迷いの世界を離れる手がかりを持たず、仏になりようのない自己の力を捨てて、阿弥陀さまの他力の救いに我が身を託すというひとつの心、それが他力の信心ということです。

阿弥陀さまの光を仰ぐ

私は、武子夫人のこの短歌に、一九九七(平成九)年に初めて出会いました。それは、武子夫人の兄である本願寺第二十一一代・大谷光瑞さまの五十回忌法要が、私の在往する大分県でっとめられたことが、ご縁でした。シルクロード調査のために大谷探検隊を派遣されたことで知られる光瑞さまは、晩年を別府で過ごされ、別府でご往生されたのです。その法要時、武子夫人の短歌を拝読する機会に恵まれました。
多くの短歌のなかで、特にこの歌に強烈な印象を持ちました。それは「反抗す」という言葉が使われていたからです。「反抗」とは、辞書によれば、

親や目上の人の言う事を聞かず、なんでも逆らってみたり自分の主張を押し通してみようとしたりすること。  (『新明解国語辞典』第五版、一一五五頁)

とあります。「反抗す」という言葉には、阿弥陀さまの救いに「背く」とか「反する」というのではなく、それらよりも一層強い意味があると感じます。武子夫人は、それだけ自らの生き様を真剣に見つめ、苦しみや悲しみのなかに生きなければならない我が身と強く受け止めていかれたと、味わうことができます。しかし、それゆえに、逆に救われる手段のまったくない私を救おうとされる阿弥陀さまの光を、強くよろこびとして仰がれたと思います。
武子夫人の同じ歌集『無憂華』のなかに、夫人作「聖夜」という歌があります。

星の夜ぞらのうっくしさ

たれかは知るや天のなぞ

無数のひとみかゞやけば

歓喜になごむわがこゝろ

ガンジス河のまさごより

あまたおはするほとけ達

夜ひるつねにまもらすと

きくに和めるわがこヽろ

そうです。仏教讃歌としていま、多くの人々に親しまれている歌ですね。夜の星空のなんと美しいことか、この宇宙の不思議さを誰が知るであろうか。輝く無数の星は仏さま方のまなこのようで、このまなこのなかの我が身を思うと、私のこころはよろこびに満ちあふれます。
インドのガンジス河の砂の数より多くおられる仏さまが、夜昼、いつも守りはたらきつづけてくださると聞かせていただくとき、私の心はどれはどなごみ安らぐでしょうか、と。仏心に反抗するような私にとって、阿弥陀さま(この歌では多くの仏さまですが)の念仏の救いのなかにある我が身は、何ものにも代えがたいよろこびと安らぎである、という夫人の声が聞こえてくるようです。

武子夫人のご生涯

武子夫人のこうした歌は、単なる文学的あるいは感傷的な思いで作られたものではありません。お念仏のみ教えを一人でも多くの女性に伝えようと、二十四歳頃より仏教婦人会を設立され、長年にわたり全国を伝道巡回され、各地の仏教婦人会結成の運動を推進されました。また、三十二歳のときには、仏教理念にもとづく京都女子専門学校(現・京都女子大学)の設立にかかわられました。そして、一九一三一(大正十二)年、三十六歳のとき、関東大震災が起こります。
東京築地にお住まいだった夫人は、家屋も焼失し、多くの人々の悲惨な生活をごらんになります。
家族の死は人々に絶望的な悲しみを与えました。夫人は自ら被災されながらも、被害にあった人々の支援活動に身を挺して当たり、社会事業を続けていく決意をされます。その一環として、あそか診療所を開設し、診療奉仕のため各地を巡回されました。しかし、敗血症を発病され、一九二八(昭和三)年二月七日、四十一歳でご往生されました。夫人を慕うことから、ご命日は如月忌と呼ばれています。
まさに、武子夫人のご生涯は、自らの生き様を深くみつめ、お念仏のみ教えをよろこびながら、社会的にも篤い思いをもって実践活動を行ってこられた人生であったと思います。私も夫人の生き方に学んでまいりたいと思います。                                 (東光爾英)

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2020年4月のことば お念仏というのは つまり自分が 自分に対話する道

南無阿弥陀仏

明治から昭和にかけて活躍された僧侶は多くおられますが、曽我量深師はそのなかでも特に知られた方の一人です。浄土真宗の一宗派である真宗大谷派の僧侶で、学者でもあり仏教思想家でもありました。
今月のことぼは、真宗大谷派発行『真宗』七六九号(一九六八年)に掲載された、座談会録のなかで述べられたものです。
この言葉に続いて、曽我師は、

   自分が自分と対話するのが如来の本願というんでしょう。自分が自分と対話できないならば、本願という意味はないですわ。自己は自己と対話するということが本願の念仏だと、そういうふうに一つこう考えたらどういうもんでしょ    (中略)
南無阿弥陀仏ということは、いつも仏さまと自分と対話……、仏さまというけどもやはり自分でしょうね。                  (一二頁)

とも述べられています。
南無阿弥陀仏のお念仏をいただいていくということは、自分が自分と対話することであり、それは阿弥陀さまの願い(本願)を受けとめていくことであるといわれていると考えられます。その願いとは、仏になりようのない私を必ず仏にさせるはたらきを南無阿弥陀仏に込めるから、この願いを信じ我が名を称えよ、と誓われる願いです。
この南無阿弥陀仏について、親鸞聖人の教えを仰がれた蓮如上人は、『御文章』のなかで、

  「南無」の二字は、衆生の阿弥陀仏を信ずる機なり。つぎに「阿弥陀仏」といふ四つの字のいはれは、弥陀如来の衆生をたすけたまへる法なり。
言一帖目第七通、『註釈版聖典』 一一四七頁)

と、衆生である私の信心と阿弥陀さまが私を救う力・はたらきは別ものではない、一体であることを述べておられます。また、

  さてその他力の信心といふはいかやふなることぞといへば、ただ南無阿弥陀仏
なり。                    言一帖目第二通、『同』 一言一七頁)

とあり、さらに、

  南無阿弥陀仏の体は、われらをたすけたまへるすがたぞとこころうべきなり。

二帖目第十五通、『同』 一一〇六亘

とも述べられ、南無阿弥陀仏の六字全体は、そのままたまわる信心のすがたをあらわしたものであり、またそのまま阿弥陀仏の救いの力・はたらきであると見られておられます。
さて、曽我師がいわれる「お念仏というのはつまり自分か自分に対話する道」という言葉ですが、私なりに味わってみますと、自分が自分に対話するということは、阿弥陀さまからたまわる信心によって救われる私のすがたを知らされることが、ここでいわれる対話ではないかと思います。
また、この阿弥陀さまの願いを聞かせていただくとき、聞かせていただくそのままが、その願いを信じるすがた、すなわちたまわる信心と受けとめられているか、という自分への問いが、自分に対話するということでしょう。
さらに、私を救うという阿弥陀さまの力・はたらきは、私のためにかけられたものだと受けとめられているか、ということも同時に、自分に対話することであると考えられます。
曽我師は、

  自分の判断を、はからいを捨てて救いの教えを聞くときに、本当に自分のこととして受けとめなければ、本願が建てられた意味はない。      (趣意)

とも後述されています。阿弥陀さまに願われ、その救いのはたらきのなかで、照らされたわが身と常に聞かせていただきながら、自らのなかで対話をし日々を暮らしていく生き方こそ、念仏の「道」を歩むということでしょう。

念仏の道を歩む

では、念仏の道を歩むということを、私たちの暮らしにそって考えてみましょう。
念仏の道を歩むとは、南無阿弥陀仏のいわれを聞いて、阿弥陀さまから本願を信じさせられ念仏させられて仏に成るという、願いのなかで生かされるよろこびを味わう暮らしであります。
仏法を聞くことは、役に立つから聞くのではなく、現実の自分自身のことを説いているのだと受け止めなければ、本当のよろこびは生まれません。仏法はお釈迦さまが説かれた教えですが、それは、のがれられない生老病死という苦しみ、悲しみ、悩みを、乗り越えた生き方をするという目的をもっています。
乗り越えるという言葉は、わかるようでわかりにくい表現ですね。実は、この乗り越えるということを、仏教では転じる(転換する)といいます。つまり、転じるとは、いままでの自分の考え方を止め、新たな転換を求めることです。また、阿弥陀さまのはたらきをご縁として、自分自身が換えられていくことを意味する言葉です。

「乗り越える」と「転じる」

私のお寺では、毎年、初盆の方を迎えて法要をお勤めしますが、自分と近しい親族を亡くされた方々がお参りされます。皆さん悲痛な面持ちをされています。
生老病死のなかでも、死は特に悲しみ苦しみの最たるものですが、これらを乗り越えるとは、良いことだけ受け止めて、悪いことは向こうへ遠ざけていく、ということではありません。悲しみも苦しみも受け止めて、それを乗り越えて生きるということが、仏教であり、浄土真宗の教えです。
私たちは、身近な方の死に会うことがあります。亡くなられたことは大きな悲しみですが、そのご縁を大切に受け止めていくことが肝要です。なぜなら、亡くなられた方は、阿弥陀さまの願い、はたらきある本願によって、すでにお浄土で仏さまとなり、この私を導いてくださっているからです。亡くなられた方とは、いまも私との縁でつながっているのです。
私の母は二十六年前に、父は十年前に亡くなりました。まだまだ父母に教えてもらいたいことがたくさんありましたし、もっともっと親孝行をさせてもらいたかった、といまだに思うことがあります。
ですから、父母の死をやはり悲しいと思う苦しみがいまもあります。しかし、悲しいという苦しみはありますが、両親の亡くなったことがご縁となって、いまの私の生き様があり、いまも私を導き続けてくれているのだ、と味わっています。
乗り越えるということは、悲しみや苦しみを消し去ることでもなく、克服することでもありません。悲しみは悲しみのままに、苦しみは苦しみのままに受けとめていく、しかし、その一つひとつのご縁が私を育ててくださるのだ、と受けとめることが「転じる」ということです。さらにまた、その方々の導きは、すべて阿弥陀さまのおはたらきがあってのことだと味わうとき、本願に誓われた他力念仏の道を歩む生き方となってくるのです。
阿弥陀さまのはたらきのなかにあるわが身と実感することは、簡単ではないかもしれません。しかし、仏壇の前やお寺の本堂に座るとき、またどこかで手を合わせ南無阿弥陀仏とお念仏もうすとき、法話を聞かせていただくとき、このご縁が私へのお育てだと受けとめていただきたいと思います。
お念仏の教えを自分のこととして常に耳を傾けていく、そのことが自分か自分に対話する道を生きることに通じるのではないかと思います。
(東光爾英)

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2020年3月のことば 本当のものがわからないと 本当でないものを本当にする

生い立ち

今月のことばは、『信仰についての対話』(大法輪)から取り上げられた法語です。
『信仰についての対話』は、I・Ⅱと二冊が刊行されており、これはそのIのなかにある安田理深師の言葉です。
兵頭格言さんという四国宇和島の方が上洛して、安田師に「信仰の問題」を尋ねられたときの記録といわれていますが、この文はその安田師の答えのなかにあるものです。兵頭さんが最初に京都に来られたのは一九五八(昭和三十三)年で、以後七年間、毎年夏に入洛されており、一九六九(昭和四十四)年に亡くなられました。
安田理深師は本名を安田亀治といい、一九〇〇(明治三十三)年に兵庫県美方郡温泉町(現・新温泉町)に生まれられましたが、不幸にして両親と別れ、鳥取市で成人されました。
幼児期には、ミッション系の幼稚園でキリスト教に触れられ、長じて禅寺で参禅
されました。そして、金子大築師の著『仏教概論』によって仏教に関心を持たれ、金子師が教授として籍を置いていた大谷大学の専科に、一九二四(大正十三)年に入学されました。翌年四月には、曽我量深師が東洋大学から大谷大学へ教授として移られ、その曽我師の唯識思想の影響を受けて、法相唯識と他力信心について深く求められていかれます。
一九二八(昭和三)年には、金子師の『浄土の観念』加東本願寺から異安心と指摘され、教授職を追放されたうえ、僧籍まで剥奪されました。また一九三〇(昭和吾年に、曽我師も教授職を辞任させられました。真宗大谷派の清沢満之・曽我量深・金子大築という近代の求道的思想家の系譜に出会った安田師は、一九三五(昭和十)年から、私塾「相応学舎」を通して学生の指導・育成を行なわれました。以後、逝去されるまで講義は続きました。
安田師は、一九四三(昭和十八)年に東本願寺で得度をされたときに、曽我師から「釈理深」という法名をいただかれました。安田師は、常に教団と教学は不可分
の強い関係があると力説されました。一九六七(昭和四十二)年、六十七歳のときに肺結核のため入院され、その後、退院され自宅で療養されていましたが、一九八二(昭和五十七)年にご逝去されました。院号は「相応院」といわれます。

本当のことがわからない

兵頭さんと安田師の対話をみてみましょう。まず兵頭さんは「我々の悩みとは」と問われています。それに対し、安田師は次のように答えられています。

  法は完全であるが、信心という問題になると割り切れるものではない。すかっ  と割り切れたということはない。本願を疑うということは、どういうことかといえば、自分を放さない。我です。我を頼る。本願を疑う疑いのもとは、仏の智恵というものがないためにはっきりしない。そのために自分を頼る。本当のことがわからないと、本当でないものを本当にする、自分を捨てない。自分を本当にする。その我執というものは根が深い。その根が深いといっても、根が深いということも信仰によって教えられていく。
(『信仰についての対話』

本当のものとは

『教行信証』は、一部六巻から成っています。すなわち教・行・信丿証・真仏土・方便化身土です。正式の題名は、「顕浄土真実教行証文類」(浄土真実の教行証を顕わす文類)といいます。教巻から真仏土巻までは、けじめに「顕浄土真実」と「真実」という語が入っていますから、真実ではない最後の方便化身上巻は必要ないようにみえます。しかし、白色が白色だけでははっきりしないときは、灰色や黒色と比べることによって、白色はさらにはっきりします。「真実」も、「方便」があることによって「真実」が明確になります。
また題名は「教・行・証」と三法になっていますが、本文のなかでは「教・行・信・証」と四法になっています。これは、行から信が別解され、表面にあらわれてきたからであると思われます。そのことを示されるのが信巻冒頭の特別な序文(作序)の記載です。また「方便」の語には「真実」に入らしめる意味があります。
『教行信証』信巻(本)の「ご二問答」、すなわち「法義釈」のなかの信楽釈では、『涅槃経』(迦葉品)を二文連引して、第一文では信心が菩提の因であるとし、第二文では信心について如実の信と不如実の信の違いがあることを述べられています。

  あるいは阿排多羅三貌三菩提を説くに、信心を因とす。これ菩提の因、また無量なりといへども、もし信心を説けば、すなはちすでに摂尽しぬ
(『註釈版聖典』二三七頁)

信にまた二種あり。一つには聞より生ず、二つには思より生ず。この人の信心、聞よりして生じて、思より生ぜず。このゆゑに名づけて信不具足とす。また二種あり。一つには道ありと信ず、二つには得者を信ず。この人の信心、ただ道ありと信じて、すべて得道の大ありと信ぜざらん。これを名づけて信不具足とす                              荷頁)

また、すぐ後に『華厳経』(大法界品)を引かれて、信心を得て疑心なきものはこの上なきさとりを開くと述べられます。

  この法を聞きて信心を歓喜して、疑なきものは、すみやかに無上道を成らん。もろもろの如来と等し                       (同頁)

さらに『教行信証』方便化身上巻の「真門釈」にも、前掲の『涅槃経』の文を連引するとともに、さらに詳しく信不具足に加えて、聞不具足や戒不具足について述べられます。不具足とは具足の反対の意味であり、すなわち不具足は自力のはか
らいである疑心をあらわし、具足とは他力信心のことを説かれているのです。
また「真門釈」の終わりには、有名なコニ願転入」の文があります。

  ここをもって愚禿釈の鸞、論主の解義を仰ぎ、宗師の勧化によりて、久しく万行諸善の仮門を出でてノ水く双樹林下の往生を離る。善本徳本の真門に回入して、ひとへに難思往生の心を発しき。しかるにいまことに方便の真門を出でて、選択の願海に転入せり。すみやかに難思往生の心を離れて、難思議往生を遂ぽんと欲す。              (『註釈版聖典』四一三頁)

ここでは、第十九願の自力諸行往生(双樹林下往生・要門)から第二十願の自力念仏往生(難思往生・真門)へ回入し、さらに第十八願の他力念仏往生(難思議往生・弘願)へ転入することを勧められています。「三願転入」の文が「真門釈」の結びにあるのは、親鸞聖人が真実の第十八願の他力念仏往生の上に立って、方便の第十九願の自力諸行往生と第二十願の自力念仏往生を誠められているからです。

本当のものを知らされる

今月の法語「本当のものが わからないと 本当でないものを 本当にする」を逆にいうと、「本当のものを知らされると、本当でないものが見えてくる」、あるいは「本当のものを知らされると、本当でない自分が知らされる」という意味になります。
如来の智慧の光明に照らされることによって、闇のなかにいる私に気づかされます。人間の分別・知識によっては、真実の世界は見えてきません。如来の光明・名号のはたらきによって、真実信心を獲得することができるのです。
(林 智康)

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2020年2月のことば 生のみが我らにあらず 死もまた我らなり

生い立ち

今月のことぼは、明治時代に発刊された雑誌『精神界』の所収論文で、「絶対他力
の大道」に出ているものです。

我等は死せさる可からず。我等は死するも尚は我等は滅せず。
生のみが我等にあらず。死も亦我等なり。我等は生死を並存するものなり。
我等は生死に左右せらるへきものにあらさるなり。我等は生死以外に霊存するものなり。
然れとも生死は我等の自由に指定し得るものにあらさるなり。生死は全く不らず。生死尚は然り。況んや其他の転変に於いてをや。我等は寧ろ宇宙万化の内に於いて、彼の無限他力の妙用を嘆賞せんのみ。

(『清沢満之全集』第六巻、」一▽貝、岩波書店、原文ママ)

真宗大谷派の清沢満之師は、江戸時代の終わり、一八八三(文久三)年六月二十六
日に、尾張藩士である父・徳永永則と、尾張藩士の横井甚左衛門の長女である母・タキの、長男として生まれました。縁あって、」八七八(明治十二年、十六歳のとき、東本願寺で得度を受け、東本願寺育英教校に入学します。一八八三(明治十六年九月、二十一歳で東京大学文学部哲学科に入学されよしたが、学生の騒動に連座して退学を命ぜられました。しかし、一八八四(明治十七)年一月には再入学され、一八八七(明治二十)年七月に、二十五歳で哲学科を卒業、大学院に残り宗教哲学を専攻されます。一八八八(明治二十二年七月、二十六歳のとき、京都府立尋常中学校の校長に就任し、八月、愛知県碧海郡大浜町(現・碧南市)の西芳寺に入寺して、清沢ヤスさんと結婚されました。
その後、東本願寺を中心に教育面に関わるとともに、執筆、講演等に活躍されています。}八九〇(明治二十三)年七月には、一一十八歳で中学校校長を辞任し、禁欲主義の生活を始められます。この頃、仮名聖教、ことに『歎異抄』に親しまれています。一八九六(明治二十九)年十月、三十四歳のとき、京都府愛宕郡白川村(現・京都市左京区)で教界時言社を設立し『教界時言』を創刊します。教界時言社の社員らは白川党と呼ばれ、東本願寺の改革を唱えました。一八九七(明治三十)年二月には、大谷派革新全国同盟会を結成し請願書を提出しましたが、宗派から除名処分を受け、十一月、同盟会を解散されます。精神的には、この頃から『阿含経』に親しまれています。一八九八(明治三十二年四月『教界時言』を廃刊し、除名処分を解かれました。
一方、この年の八月には、『朧扇記』第言万を起筆されます。「朧」は年末、年の
暮れという意であり、「扇」は扇子のことで、冬の扇子は必要ないという意味です。
同年九月には新法主の招きにより東上し、『ニピクテタス氏教訓書』に出会われます。一九〇〇(明治三十三)年九月からは近角常観師の寮に仮寓し、多田鼎・佐々木月樵・暁鳥敏と共同生活を始められ、浩々洞を設立されました。一九〇一(明治三
十四)年一月から、浩々洞より雑誌『精神界』を発刊されます。
一九〇二(明治三十五)年六月五日、長男・信一さんが亡くなり、十月六日には妻ヤスさんが亡くなられます。一九〇三(明治三十六)年四月九日には三男・広済さんが亡くなりますが、六月六日には、清沢満之師ご自身も四十一歳で往生されました。

清沢満之師の「精神主義」

清沢満之師は、『精神界』創刊から二年間の死の直前まで、約五十鎬にのぼる論
稿を発表して、いわゆる「精神主義」を唱えられました。『精神界』のはじめには、
精神主義について次のように述べています。

  吾人の世に在るや、必ず一つの完全なる立脚地なかるへからす。若し之なくして、世に処し、事を為さむとするは、恰も浮雲の上にたちて技芸を演せむとするものゝ如く、其転覆を免るゝ能はさること言を待ださるなり。然らば、吾人は如何にして処世の完全なる立脚地を獲得すべきや、蓋し絶対無限者によるの外ある能はさるべし。(中略)吾人は只此の如き無限者に接せされは、処世に於ける完全なる立脚地ある能はさることを云ふのみ。而して此の如き立脚地を得たる精神の発達する条路、之を名けて精神主義と云ふ。

(『清沢満之全集』第六巻、三頁 原文ママ)

自らの立脚地なしでは、あたかも浮雲の上に立つようなもので、世に処して人生の転覆を免れることはできません。それでは、処世の立脚地はいかにして得られるのでしょうか。それは絶対無限者による以外にありません。この絶対無限者という
完全なる立脚地を得た精神の発達する条路、これを清沢師は「精神主義」と名づけています。

現代の死生観と救い

現代社会においては、死生観や死生学という言葉が注目されています。死生学は、死が根本にあって生を考えることを基本としています。死を見つめて生きる、死を覚悟して生きる、あるいは、いかに生きるかということを死まで深め掘り下げて考
える学問が、死生学です。このような死生観が生命(いのち)の問題と密接にかかわってきます。仏教では、生と死を一緒にして「生死」といい、それは迷いの世界を生まれ変わり死に変わりするという「輪廻」という語と同じ意味になります。
親鸞聖人は、『高僧和讃』龍樹讃に

  生死の苦海ほとりなし
ひさしくしづめるわれらをば
弥陀弘誓のふねのみぞ
のせてかならずわたしける            (『註釈版聖典』五七九頁)

と詠まれ、阿弥陀如来の本願のふねのみが、迷いの生死の苦海に沈んでいる私たちを乗せて必ず浄土へと導いてくださる、と述べられています。
『無量寿経』下巻には、

  人、世間愛欲のなかにありて。独り生れ独り死し、独り去り独り来る。行に当
りて苦楽の地に至り赴く。身みづからこれを当くるに、代るものあることなし。
(『註釈版聖典』五六頁)

と、人間は世間の欲望のなかで、独生・独死・独去・独来する存在で、自らの行いによって苦楽を生じ、他の人に代わってもらうことができないとあります。

また、源信和尚の『往生要集』上巻にある「厭離機土」には、『涅槃経』を引い
て、

 

一切のもろもろの世間に、生ぜるものはみな死に帰す。
寿命、無量なりといへども、かならず終尽することあり。
それ盛りなるはかならず衰することあり、合会するは別離あり。
壮年は久しく停まらず。盛りなる色は病に侵さる。
命は死のために呑まれ、法として常なるものあることなし
(『註釈版聖典(七祖篇)』八三五頁)

と、生命あるものは限りがあり、会うものには別れがあると述べています。
また『高僧和讃』善導讃にも、

  五濁悪世のわれらこそ
金剛の信心ばかりにて
ながく生死をすてはてて
自然の浄土にいたるなれ             (『註釈版聖典』五九一頁)

金剛堅固の信心の
さだまるときをまちえてぞ
弥陀の心光摂護して
ながく生死をへだてける                      (同頁)

と述べられています。
前の和讃では、『阿弥陀経』にもありますように、劫濁・見濁・煩悩濁・衆生濁・命濁の悪世界に生きる私たちだからこそ、阿弥陀如来から回向される金剛の真実信心によってこそ、永く生死という迷いの世界を離れて、さとりの世界である
浄土に生まれることができる、と述べられます。後の和讃では、何ものにも妨げら
れない金剛堅固の信心が私の身に定まったときに、阿弥陀如来の智慧の光明は、煩
悩具足の私たちを摂め取って、迷いの世界からさとりの世界へ導いてくださる、と
述べられるのです。
(林 智康)

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2020年1月のことば 人も草木も虫も 同じものは一つもない おなじでなくて みな光る

   生い立ち

今月のことばは、榎本栄一さんの著『念仏のうた 光明土』(樹心社)に見られる言葉です。原文は次のようになっています。

   いのちの饗宴
―天上天下唯我独尊-
人も 草木も 虫も
同じものは一つもうまれない
いまうまれたもの
これからうまれるもの
ごらんください
同じやなくて みな光る
白色白光 青色青光                   二七九頁)

「法語カレンダー」の言葉は、一部変えられています。原文の「同じものは一つもうまれない」は「同じものは一つもない」、「同じやなくて みな光る」は「おなじでなくてみな光る」となっています。

「十人十色」という言葉があります。人は、考え・好み・性質などがそれぞれ違うことを意味します。この法語では、さらに人だけでなく、草も木も虫も、すなわち植物や昆虫、さらに動物にまで拡げて、同じものは(うまれ)ないといわれます。
現在も未来も、すべて生きとし生けるものはみな同じでなく、それぞれが光を放つのであるといわれているのです。ここでは『阿弥陀経』の、

  青色青光・黄色黄光・赤色赤光・白色白光
(『日常勤行聖典』 一〇八~一〇九頁)

(青色には青光、黄色には黄光、赤色には赤光、白色には白光あり『註釈版聖典』二三頁)

の四句のなか、上下の二句を選んでいます。極楽浄土の池のなかには、車輪のような大きな蓮華が咲いており、青い華は青い光を、黄色い華は黄色い光を、赤い華は赤い光を、白い華は白い光を放ち、いずれも美しく、その香りは気高く清らかです。
コ切衆生釆万有仏性」(すべて生あるものは、ことごとく仏となる可能性を有している。『涅槃経』)、「草木国土悉皆成仏」(心のあるもののみならず、こころのないものまで、すべてのものが成仏する。『同』)という仏教の言葉があります。人間のみならず、生きとし生けるものに共通するのは、仏性があり仏に成ることができるという意味です。そのうえで、それぞれの個性が発揮されるのです。

榎本栄一さんは、一九〇三(明治三十六)年、徳島県に生まれ、ご両親が大阪市で化粧品店を始められたので、一緒に住んでいました。しかし、一九四五(昭和二十)年三月の大阪大空襲で、家族と一緒に淡路島に逃れました。その後、一九五〇
(昭和二十五)年に、東大阪市で化粧品店を始められました。
榎本さんは、若い頃、詩を書かれていましたが、その後二十数年、詩を書くことを忘れた生活をされていました。しかし六十歳を超えて、本格的に詩を書き出されました。一九七四(昭和四十九)年に、NHKの教育テレビで作品が紹介され、真
宗大谷派難波別院から詩集『群生海』を出版されました。続いて、一九七八(昭和五十三)年に同別院から『煩悩林』を出版し、以後版を重ねられました。また、樹心社からも多数の詩集を出版されました。
そして、一九七九(昭和五十四)年に化粧品店を閉店されました。一九九四(平成六)年には仏教伝道文化賞を受賞され、一九九八(平成十)年に九十四歳で往生されました。
詩集『群生海』や『煩悩林』の難波別院輪番による序には、

   (出版されて以来、)心ある寺の掲示板に、各種の新聞や機関紙に、この詩が紹介され続けてまいりました。そして今では全国から、この詩集の問い合せが来るようになりました。
榎本さんの。詩”というよりも、自分の生活実感を、切々とつぶやいておられる率直な言葉が、人々の心底に強く響くのに違いありません。どの詩にも、さりげなく一息に詩われているのが、深く胸を打ち、汲めども尽せない味わい
を残してくれるものばかりであります。           (( )内引用者)

と絶賛されています。
また、松山市の大山澄太さんは、『群生海』の序で、

この集に納められていた百九十五編の作品は、一九六七(昭和四十二)年一月から最近までの八年間、すべて私のわがままな個人誌「大耕」にのせたものである。無駄な文字が少しもなく、一つ一つ私の心に食いこんできたものばかり。
栄一っつぁんの聞法は、お若い頃から暁高敏先生によって扉が開かれ、(中略)また松原致遠先生の風格にも敬慕し、仏の道をひそかに歓喜してきたような人である。

と述べられています。

悔いのない人生

私は、二〇一一 (平成二十三)年、親鸞聖人七百五十回大遠忌法要を前にして刊
行した拙著『仏恩を報ずる』のなかで、榎本栄一さんの詩を紹介しています。

かすかな余韻

あの人も逝き
この人も亡くなり
遠い山のお寺の鐘のような
かすかな余韻が
私のこころにしみる                  (『常照我』三五頁)

いのちの波

いのちの波は
世々生々の 親から
子へと伝わり
私も この一波となり
うねり光っている
いのちの波のゆくえはしらず              (『同』七〇~七一頁)

「亡き人を案ずる私か亡き人から案じられている」という言葉があります。先立った亡き父母のことを私か想うよりも、何倍も何十倍も、父母の方が私を思ってくれているのです。生命の連鎖(つながり)は、生まれ変わり死に変わりして、親から子へ子から孫へと、綿々と続いています。またさかのぼれば、私の生命は父母から、また父母の生命はそれぞれの祖父母から生まれたのです。二人、四人、八人と数えていくと、七代前で百二十八人、十代前で千二十四人、さらに二十代前で百四万八千百五十七人となり、かぞえられないほどの先祖の生命と私の生命がつながっています。そのなかで一人でも欠けていたならば、いまの私は存在していません。誠に有難い尊い生命です。

したがって、私の人生を無駄に過ごしたり、自分勝手に自他の生命をあやめたりすることは、ばかり知れない多くの先祖を悲しませ、失望させることになります。
また、これから生まれる子や孫、さらにまだ見ぬ子孫への生命の連鎖にも、無責任な生き方、恥すべき行為になってしまいます。先祖が私たちにいちばん望まれていることは、仏法を通して、生命の尊さ、生命の不可思議さ、生命の有難さを学び、
悔いのない人生を歩むことでしょう。

榎本栄一さんの詩

浄土真宗に関わる聖典の普及を目指して、浄土真宗本願寺派総合研究所が編集し本願寺出版社が発行している『季刊せいてん』では、二〇一七(平成二十九)年三月から、毎回、「西の空心に響くことば」と題して、榎本さんの詩を連載しています。

 大きな手

秋のひかりのような
この 大きなてのなかで
私はあそんだり
はたらいたり
お金のかんじょうをしたり
時に頭をうったり     (『群生海』二七頁、『季刊せいてん』第コー○号掲載)

底のひかり

今日まで
生きた甲斐あり

人の世の
底のひかりが
身にしみて
わかるようになった  (『群生海』 一四~一五頁、『季刊せいてん』 コー二号掲載)

未知

あさ起きたら
ここに 私のいちにちが
仄かに開いている
私は未知のいちにちへ
足ふみいれる             (『煩悩林』 一一七頁、『同』 一二三号掲載)

念念光照

私にさとりはございません
弥陀のおひかりに
自分のこのぼんのうが
照らされては
みえるだけ          (『常照我』 一四四~一四五頁、『同』 コニ(号掲載)

つの

私のあたまに
つのがあった
つきあたって

折れて
わかった               (『群生海』 コー四頁、『同』 二一七号掲載)

榎本さんの詩は、「念仏のうた」シリしスとして『難度海』『光明土』『常照我』『無辺光』『尽十方』『無上仏』の六冊が、樹心社によって発行されています。ぜひこの機会にお読みください。
(林 智康)

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