2021年3月のことば 私の上にあるものは 全部賜うたものである

はじめに

今月のことばは、細川巌師の言葉です。師は、一九一九(大正八)年に福岡県に生まれ、広島文理大学(現広島大学)化学科に進学。卒業後に、広島師範学校(現広島大学)、福岡師範学校(後の福岡学芸大学、現福岡教育大学)、東京水産大学などで教育と研究に携わり、一九九六(平成八)年にご往生されました。専門は「分析化学・地球化学」で、「浅海底土の化学的研究」で東京大学の理学博士号を取得されています。
端的に言えば、河川や海の土壌の研究をされた「科学者(化学者)」です。その一方で、戦後の福岡に帰ってからは、福岡学芸大学内で仏教、特に親鸞聖人の教えの勉強会を主催し、さらに座談会などで来聴者との質疑応答を大切にしつつ、自らの仏教理解を深めていかれたそうです。そのような会を通して、多くの方々に影響を与えられたことでも知られています。
たとえば、私と郷里が同じ田畑正久(元龍谷大学大学院実践真宗学教授・宇佐市佐藤第二病院院長)先生は、九州大学医学部時代に師の主催する勉強会で仏法に触れることになったそうです。私は、田畑先生を通して師の書籍をたくさんいただきました……恥ずかしながら、ボチボチとしか読めていません……。師の生涯については、二〇〇〇(平成十二)年四月十三日放送のNHKラジオ「宗教の時間」でテーマ「自力を尽くした果てに見えてくる愚かな者の救いの道」の中で触れられています。この「愚かな者」とは師ご自身のことを意図しています。

 

仏法との出遇い-不思議なご縁-

さて、師は今風に言えば理系でしたが、仏教に触れたのは進学した広島文理大学で金子大築先生の講義を聴講したのが最初でした。また、在学中に二十名ほどの学生を指導する立場となり彼らと共同生活を始めますが、その場所が郊外の真宗関係の会館であったことが浄土真宗の教えを聴聞する機会となりました。毎日の生活の中で、会館関係者に「希望者は朝の勤行に出てもよい」と言われたそうですが、最初は誰も出なかったそうです。しかし、間借りの体裁を繕う気持ちで出るようになり、朝の勤行が聴聞の最初の縁となるのです。当初は仏教の知識がなかったので法話の内容がわかりづらいところもありましたが、「真実のみが末通る」など、学生にもわかり易い表現を使ったお話を聞いているうちに、興味が湧いてきたといいます。
やがて初めての「報恩講」を迎え、一週間の法座に皆勤しかことが大きな仏縁になったそうです。そこでの同行さん(念仏者)と寝食を共にする中で、「人として生きること」についてさまざまな気付きと影響を受けられました。
しかし、最初の一年間にあった聴聞ごとの感動も、二、三年と経つと薄れてきたそうです。ある時、ご講師にその思いをぶつけると、そのご講師は『歎異抄』の、

念仏申し候へども、踊躍歓喜のこころおろそかに候ふこと、・……(以下略)
(『註釈版聖典』八三六頁)

云々という「唯円房の問い」こそが「あなたの問いそのものです」と指摘され、その問いは「すぐに解決しようとせずに、一生それを背負って、続けて聞いていきなさい」と諭されたそうです。その言葉が縁となり、広島在住の時代には、島根や山口へ時間を作ってば何度も聴聞に出向き、繰り返し同じご講師の法話を聴聞されたそうです。

求道の姿勢とは

戦前・戦中・戦後の激動期を生き抜かれた多くの方が体験しかように、師も世間的な価値観の激変に悩まれたのでしょう。そこに、普遍的で変わることのない「真実というものがあるのか」という問いが生まれてきたのです。そのような中で、学生時代に縁のあった『歎異抄』の親鸞聖人の言葉を聞いていくことになるのです。
しかし、専門が化学という理系であったためか、他人が言っていることでも、自分がわからないことや実証できないことを受け入れることは難しかったそうです。化学(理系)の確信とは、「自分」を横に置いて、実験で実証できるとおりで間違いないと確認していく営みです。一方、仏法の教えは、その理解し確信する自分、すなわち「私」を問題にします。たとえば、家庭や学校・社会の中で、教えられたとおりに実行できればよいのですが、理屈はわかっていても、それが実行できない「私」がいるのです。師は、否応なく、そんな「私」の姿を見つめることになり、苦悩し続けられました。
このように客観的に「もの」を観察していた科学者が、観察している「自分」を見つめることの大切さに目覚めるという出来事は、ままあることのようです。私の読んだ『科学者の説く仏教とその哲学』(学会出版センター・一九九二年)の著者である泉美治先生(武田化学薬品株式会社勤務を経て大阪大学教授や蛋白質研究所長などを歴任)も、その一人だと思います。そんな方々の言葉を読むと、漠然と日暮らししている自分自身の至らなさやいい加減さ、そして傲慢さを痛感させられます。

「七仏通戒偶」とその逸話

「仏法という教えは何か」、それを一言で説明することは難しいですが、『法句経』などに伝えられる偶文があります。それは「七仏通戒偶」と呼ばれる、

諸悪莫作(しょあくまくさ) 衆善奉行(しゅぜんぶぎょう)
自浄其意(じじょうごい) 是諸仏教(ぜしょぶっきょう)

というものです。端的に言えば、「すべての悪を作らないようにしましょう。できるだけ多くの善を行いましょう。そうすると、自分自身のこころは浄くなります。これが諸々の仏さまの教えです」ということです。
この掲文には種々の逸話がありますが、その一つは次のようなものです。中国唐代の詩人である白居易(白楽天)は禅を愛好していました。ある時、鳥衆道林という禅僧に「仏教とは何か」と質問したところ、禅師が先の偶文で答えたのです。そこで、白居易は「そんなことは三歳の子どもでも知っている」と言ったのに対して、その禅僧が「確かに三歳の子どもでも知っていよう。しかし、自分は五十年あまり仏法の教えに依って生きようと心がけているが、今まで一日たりともできたことがない」と応えたのです。この問答は史実とは認められていませんが、「仏教(仏法)とは何か」を象徴的に示す逸話として大切にされています。この逸話によって、より善く生きようとする「私」自身を見つめることの重要性と、まさに今を生きている「私」自身を見失いがちであることに、改めて気付かされます。

先人達のご苦労に感謝する

私たち凡夫は、自分の周りの「人」も「物」も自己中心的な眼で観察し、比較して理解しています。それも、一人ひとり一つひとつを唯一無二のものと見ることができず、漠然とした表面的な因果関係でもって、自分にとって「役にたつか否か、必要であるか否か」という功利的なご都合主義で見ています。そのような利己的な視点では、本当に大切なものを見落としてしまい、感謝の慶びを失っていきます。
さて、「私」たちは「知識がある」とか「知識がない」とか言います。この「知識」という言葉は仏教に由来する語で、本来「先生」を意味します。たとえば、「私には多くの知識がある」という場合、それは困った時に教導してくれる「先生」が多いという意味です。私たちは生まれてから種々のことを学び知識を得ますが、そこには必ず「先生」がいました。ノーベル賞に値するような業績を残しか方々も、その分野の先人たちが研究し続けた成果の上に積み上げた業績が評価された受賞なのです。その成果をもたらした先人やその成果が「知識」なのです。翻って、その成果を知っていることが「知識」と転用されるようになったのです。「自分には知識がある」という場合、それは自らが学び修得したものですが、それを伝えてくださった方々のご苦労に感謝することが大切です。しかし多くの場合、感謝すらなく、傲慢にも「自分には知識がある」と威張ってしまうのです。

「知徳報恩」の世界

一般には、「ありかとうと感謝の気持ちを大切に生きていきましょう」といわれます。考えてみると、そんなことは三歳の子どもでも知っていますが、皆さんはできていますか。恐ろしいことに、大人になればなるほどできていないのではないでしょうか。「人間は一人では生きていけない」と言いながら、誰の世話にもなりたくないと思っていませんか。また、毎日の生活を支える知力も体力も自分一人で得たものだと傲慢にも思っていませんか。そこには真の意味での感謝も慶びもありません。
親鸞聖人が詠まれた『正像末和讃』の一つに「恩徳讃」があります。

如来大悲の恩徳は
身を粉にしても報ずべし

師主知識の恩徳も
ほねをくだきても謝すべし            (『註釈版聖典』六一〇頁)

「如来大悲」とは、「南無阿弥陀仏」の親心のことであり、この煩悩具足の「私」のいのちを見放すことなく照らし続ける阿弥陀さまの智慧と慈悲です。「師主」とは、先生の中の先生で、その「智慧と慈悲(南無阿弥陀仏の功徳)」を私たちに説き示してくださったお釈迦さまのことです。「知識」とは、その「南無阿弥陀仏」の親心を解きほぐして伝えてくだった方犬特に浄上教伝統における七人の先生(七高僧)と、その方々が残してくださった成果(書物)を意味します。親鸞聖人の「恩徳讃」は、それらのはたらきに対する、自らの「知徳報恩」の言葉なのです。
私は、今月のことば「私の上にあるものは全部賜うたものである」をその「知徳報恩」に通じる言葉として味わっています。
(内藤 昭文)

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2021年2月のことば 念仏者の人生はまさに慚愧と歓喜の交錯

はじめに

今月のことばは、梯宵圓師の言葉です。師は、一九二七(昭和二)年に兵庫県飾磨郡、現在の姫路市に生まれられました。今でいう大学進学のために、大阪の摂津富田にある、浄土真宗本願寺派の私塾ともいうべき行信教校に入学され、縁あってそのまま行信教校に身を置いて、浄土真宗の教えの研錐に励まれました。さらに、諸先生方の勧めもあって大阪教区阿倍野組の廣毫寺に人寺されました。その後も行信教校で後進の育成に従事され、校長まで務められました。宗門においては、浄土真宗教学研究所(現浄土真宗本願寺派総合研究所)所長、宗学院講師などの任にも就かれ、二〇一四(平成二十六)年にご往生されました。早いもので、この原稿を書いている二〇二〇(令和三年五月七日が七回忌でした。
私は、浄土真宗教学研究所の前身であった教学本部で師が副講師を務めていらっしゃった一九八六(昭和六十コ年の夏にお会いして以来、ご往生されるまでさまざまなご縁をいただきました。具体的には、教学研究所が発足した時には上司となっていただきました。また、梯先生―ここからは「先生」と表現します–に誘われて、行信教校での講義を担当することにもなりました。
それ以前から親交のあった行信教校の利井明弘校長は、「梯先生はサイボーグみたいな人だ」とよく評していましたが、それは記憶力のことかもしれません。さまざまな分野に興味を持ち、何でもよくご存じでした。「博学」あるいは「ウォーキングディクショナリ(生き字引)」とでもいうべき方でしたが、お念仏申すことを何よりも慶ばれる先生でした。

不思議なご縁の中に

先生は、前述したように縁あって入寺し住職となられました。先生は、念仏者・僧侶としての人生を送るようになりましたが、それは本当に不思議な縁だったと、話されていました。終戦前後に入学しか若かりし梯先生(旧姓は「北」でした)が当時歩もうとした人生は、念仏者・僧侶としての人生ではなかったであろうと思います。山本佛骨和上や桐渓順忍和上をけじめ、利井興弘先生など、行信教校で出遇った先生方、すなわちお念仏申す善知識の方々とのご縁の中でお育てを受けられたのでした。
梯先生の一番弟子である天岸浄圓先生が、恩師の葬儀の際に伝えられた逸話があります。梯先生はご往生の前年末より体調を崩され入院されていました。いよいよ臨終の近いことを覚悟された奥さまが、先生に「五十六年間、ほんまにありがとう。ほんまに楽しかったね」と声をかけられたそうです。その時先生は、笑顔を見せつつ「今も」と一言だけ応えられたそうです。どんなに苦しい状況であっても、まさに今を生きることの有り難さと、感謝申す人生のかかじけなさを伝えてくださっています。
先生は、行信教校において、お念仏申させていただく人生の「豊かさ」や「しあわせ」を聴聞し、そのことを多くの善知識のお育ての中で自らの人生を通して味わ
つて来られたのでしょう。それはまったく「不思議なご縁」としか言いようのないものだったと想像します。
その行信教校の一日は朝の勤行から始まりますが、その中で親鸞聖人の『教行信証』「総序」のご文を全員で唱和します。それは、「一月のことば」でも紹介した、

ああ、弘誓の強縁、多生にも値ひがたく、真実の浄信、億劫にも獲がたし。たまたま行信を獲ば、遠く宿縁を慶べ。もしまたこのたび疑網に覆蔽せられば、かへつてまた壊劫を経歴せん。誠なるかな、摂取不捨の真言、超世希有の正
法、聞思して遅慮することなかれ。        (『註釈版聖典』 一三二頁)

です。この「総序」唱和の伝統は、きっと梯先生か入学された頃も同様だったと思います。新入生も半年も経つと、このご文がスラスラと出るように身に染みこんでしまいます。 唱和する度に「摂取不捨の真言」、すなわち阿弥陀さまのみ名のおいわれを「聞思して」、法味を深めていかれたのでしょう。まさにこれこそが、天親(世親)菩薩のいう「法界等流の聞薫習」の姿-「真実まことの世界(お浄土)から、今日のわが身の上にはたらく如来の心(智慧と慈悲)を身に染みこむまで繰り返し聞く」というあり方-だと思います。

智慧と慈悲は「鳥の両翼の如し」

仏教徒とは、仏・如来の教えを帰依処とする者です。その仏・如来は智慧と慈悲のことですが、両者は不一不二なるものです。つまり、慈悲を伴っていない智慧は仏の智慧ではなく、智慧に裏付けられていない慈悲は如来の慈悲ではないのです。
恩師の長尾雅人(京都大学名誉教授)先生に、仏の智慧と慈悲は「鳥の両翼の如し」あるいは「車の両輪の如し」と教えてもらいました。
よく知られたことですが二仏陀(仏)」とはサンクスワット語のブッダ(回良江)の音訳で、「覚者(めざめた者)」と意訳されます。それは「智慧」を意図しています。一方、「如来」とはタターガタの意訳です。この言葉の解釈について、天親菩薩は①[{tatha+gata}と②[tatha+agata}という二通りを示します。前者①は
「如(真如・真実)に去る(行く)」で、後者②は「如から来る」の意味となります。前者は、「迷いの世界から真実の世界へ去ること(行くこと)」で、「真実を覚ること」によるめざめた智慧を意味します。後者は「真実の世界から迷いの世界に還って来ること」で、迷い苦悩する人々に寄り添う慈悲を意味します。すなわち、「如来」とは智慧に裏付けられた「慈悲」のはたらきを意味します。

 親鸞聖人は『教行信証』の中の「正信褐」で、

極重悪人唯称仏(ごくじゅうあくにんゆいしょうぶつ) 我亦在彼摂取中(がやくざいひせっしゅちゅう)

煩悩耶眼雖不見(ぽんのうしょうげんすいふけん) 大悲無倦常照我(だいひむけんじょうしょうが)  (『日常勤行聖典』言舌])

(極重の悪人はただ仏を称すべし。われまたかの摂取のなかにあれども、煩悩、眼を障へて見たてまつらずといへども、大悲、倦きことなくしてつねにわれを照らしたまふといへり。『註釈版聖典』二〇七頁)

といわれています。「摂め取って捨てない」という如来の智慧と慈悲のはたらきの中に「私」はいるのですが、煩悩に遮られて身勝手な私の眼ではそのことがわからないのです。しかし、如来の大悲はいつでもどこでも私を見通し、倦むことなく照らし続けてくださっているのです。その証拠が、今、私の口からこぼれている「南無阿弥陀仏」なのです。その念仏は「智慧」に裏付けられた「慈悲」そのものなのです。

「歓喜と慟愧」の尊さ

さて、私たちは成長するにつれて、「若い頃にもっとしっかり勉強しておけばよかった」などと思うことがあります。また、「○○をやってて良かった」と喜ぶことも、よくよく考えてみると親や先生などに「○○をしておきなさい」と勧められたからであったりします。むしろ若い当時は、「どうしてこんなことをしなければいけないのか」と不平不満を抱さながら、嫌々ながらやったことだったりします。なぜならば、若い頃の「私」は自分一人で大きくなったと思い、身勝手に自分の好きなことばかりをしてしまうのです。しかし、それは若い頃だけではないように思います。
三十歳、五十歳や七十歳になっても、いつでもどこでも私たちは、「そんなことをして何の役にたち、何の得になるのか」などと目先の損得勘定で、その時を生きています。あるいは「なぜ今、こんなことをする必要があるのか」などと、身勝手で利己的なご都合主義の中で生きています。すなわち、歳を重ね何歳になっても自己中心的な欲望に振り回されて、「今」を生きています。
世間には「失って初めて気付く親の恩」という言葉があります。親の恩だけではなく「ご恩」というものは、自己中心的な「私」にとって、悲しい哉、失うことでしか気付けないものばかりなのかもしれません。「親の恩」とは数多ある「ご恩」の象徴なのです。
仏の教えは、仏・如来のありようを「親」によく讐えて示されます。過去の「私」を振り返りつつ、未来の「私」を見据えつつ、今現在を生きることが大切です。そのことはわかっていても、自己中心的な「私」は身勝手な欲望のままに目の前のことしか見えていません。そんな「私」を見捨てることなく、いつでもどこでもはたらき続けているのが「親心」です。それをもって仏・如来の心を讐えるのです。しかも、常に「私」を見捨てることなく寄り添い続ける「親心」がわからないまま、「今」を生きています。その「親心」に何かの縁で触れて気付いた時、「かたじけない」という歓喜と「もうしわけない」という「慟愧」があるのです。これが「ご恩」の内実だと思います。

「末通るもの」のかたじけなさ

誰にでも親がいますし、その親にも親(祖父母)がいます。さらに、祖父母にも親がいるというように、「いのち」には必ずその「いのち」を育む「親」がいますが、それらに「末通るもの」が「親心(親の願い)」の讐喩で、如来の「智慧と慈悲」を意図しています。一方、この娑婆での親自身は、この苦悩多き世界の愚かな人間でしかありません。私も親ですが、悲しい哉、煩悩成就の身勝手な親でしかありません。
たとえどこまでも子に寄り添う優しい親でありたいと思っても、この娑婆のことにしか寄り添えません。しかし仏・如来は、過去を含めた今現在の身勝手な「私」を丸ごと「わが子」と認めて寄り添ってくださり、その「私」のいのちの往く先まで寄り添ってくださるのです。それが「智慧」に裏付けられた「慈悲」なのです。
私の称える「南無阿弥陀仏」とは、今を生きる身勝手な「私」を丸ごと認めてくださる「親心」なのです。お浄土から「必ず救う」と喚び覚ましつづける「親」の名告り(名号)なのです。聞法生活の中で、この身勝手な「私」にかけられた如来の智慧と慈悲、すなわち阿弥陀さまの「親心」を聞信して、ご恩の一つでも気付かせていただきましょう。

今月のことば「念仏者の人生はまさに漸愧と歓喜の交錯」とは、聞信の中でまさに「歓喜」と「懺悔」の交わる人生であり、それこそが先に紹介した「総序」のご文の内容なのでしょう。共にお念仏申しながら、聴聞のご縁を大切にいたしましょう。

(内藤 昭文)

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2021年1月のことば 私を生かしておる 力というものに 帰っていく歩み それが仏道

はじめに

今月のことぼは、宮城顎((みやぎしずか)師(法名・憚智雄)のものです。宮城師は一九三二昭和六)年京都市に生まれ、二〇〇八(平成二十)年に七十八歳でご往生されました。私は師のことをよく存じあげていませんが、大谷大学文学部卒業後には大谷専修学院講師・教学研究所所長・九州大谷短期大学教授や学長を歴任しながら、真宗大谷派本福寺の住職をされておられました。最晩年の二〇〇五(平成十七)年の五月に、東本願寺で開かれた「親鸞聖人七百五十回御遠忌法要」の真宗本廟お待ち受け大会で「汝、起ちて更に衣服を整うべし」と題しか記念講演をされています。その直後から闘病生活に入られたそうです。
その師の講義や講演、あるいは法話は、『宮城顎選集』(法蔵館)として出版されています。そこに見られる師の姿勢は「聞思」ということです。それは、親鸞聖人の『教行信証』「総序」に、

誠なるかな、摂取不捨の真言、超世希有の正法、聞思して遅慮することなかれ。                           (『註釈版聖典』 言一二頁)

とある「聞思」です。つまり、仏法に自分のいのちの営みを聞き直し、思惟することでしょう。それも「摂取不捨の真言、超世希有の正法」、すなわちお釈迦さまが『仏説無量寿経』で顕された阿弥陀さまの御名のおいわれを「聴聞」することによってです。換言すれば、『仏説無量寿経』の仏語に聞思することこそが大切です。

今を生きている「いのち」を知らされる

さて、私たちは不思議な因縁によって生まれ、因縁の中で歳を重ね、どこか病みながら、臨終の一念を迎えるのです。この「生・老・病・死」こそが「私」の「生きている」ありようなのです。確かに、お釈迦さまや親鸞聖人などの在世当時とは、その「いのち」を取り巻く環境や社会情勢などは随分変わっていますが、「生・老・病・死」という「いのち」そのもののあり様は何も変わってはいません。
また、この「生・老・病・死」の「いのち」の姿は、いわゆる私たち「人間」であれ、犬や猫であれ、さらには梅や桜であれ、同じです。さらに、そんな「いのち」を「生きている」とはどういうことなのでしょうか。寝て起きて、食事をして、身体などを動かすことなのでしょうか。

曇鸞大師は『往生論註』で、『荘子』「逍遥遊篇一」から引用して、

  「姉姑は春秋を識らず」といふがごとし。この虫あに朱陽の節を知らんや。知るものこれをいふのみ。           (『註釈版聖典(七祖篇)』九八頁)

と述べています。「能姑」とは、蝉-一説には夏蝉の「ツクツクボウシ」あるいは「ヒグラシ」-のことで、「朱陽の節」とは夏のことです。一般的に、蝉は上の中で幼虫として数年から十数年を過ごし、成虫になって地上に出て、「蝉」としては数週間で死んでいきます。したがって、蝉は春と秋を知らず短い夏を一生とするから、この蝉という「いのち」は、自らが「生きている」夏について春と秋と同じく何も知らないというのです。換言すれば、春と秋を知るものだけが「夏」とはどのようなものであるか知ることができるというのです。
この曇鸞大師の讐えを踏まえると、私たちは不思議な因縁によって生まれる前と、歳を重ねどこか傷みつつ臨終を迎えた後を知って、今を「生きている」ということがどのようなものであるかを知ることができるのです。しかも、私たちはその「生・老・病・死」の「いのち」をありのまま受け入れられず、「老・病・死」を忌み嫌って、歳を重ねどこか痛むことを「つまらんようになった」と愚瑕をこぼしてしまいます。それでは、いくら「いのちを大切にしましょう」と言葉にしても、私自らが一番「いのち」を粗末にしていることになります。
また、生きている今を認めることができないばかりか、その生きている今の「いのち」のあり様を身勝手な考えI「歳を取りたくない、死にたくない」―で見ているかぎり、そこには今を「生きている」ことの慶びも感謝も生まれ難いように思います。

親鸞聖人の慶び

親鸞聖人は、先に紹介した『教行信証』「総序」の言葉の直前に、

  ああ、弘誓の強縁、多生にも値ひがたく、真実の浄信、億劫にも獲かかし。た  またま行信を獲ば、遠く宿縁を慶べ。もしまたこのたび疑網に覆蔽せられば、かへつてまた礦劫を経歴せん。          (『註釈版聖典』一三二頁)

と述べられています。端的に言えば、私たちの自己中心的で身勝手な考えで「いのち」を見ているかぎり、これからもまだ迷いの中で、今を「生きていること」を慶べず、苦悩し続けるしかないのです。そのような私だけれども、今念仏申させていただく中に、如来さまの智慧と慈悲を恵まれていたことを慶ばれているのです。
それは、煩悩成就のわが身では知ることはできなかったが、如来の智慧によって「無始よりこのかた迷いの世界を流転し」てきたわが身であったことを知らされて、そこに今の「いのち」の姿を知らされたのです。同時に、そんな身勝手なわが身を「必ず救う」という「南無阿弥陀仏二摂取不捨の真言」の慈悲によって、臨終の一念には「浄土に往生させていただく」身であることを慶ばれているのです。すなわち、慈悲と一体の智慧により今の「いのち」の前のあり様を知らされ、智慧と不一不二の慈悲によってその「いのち」の後の姿のあり様を知らされているのです。換言すれば、まさに今の「いのち」のあり様を知らされ、その「いのち」の往き先を信知させていただき、今を「生きている」ことがどのようなことであるかを知らされるのです。

「生死いづべき道」を聞く

今も昔も自坊の門信徒の方々は、報恩講が近づくと、お寺の行事にあやかって「法行寺寒が来る」と言います。つまり、「寒波」が来るのです。私か小学校に上がった頃でしたが、ミカン箱と竹でソリを作り遊んだ記憶があるほど大雪になったことがあります。参り合わせをしている隣寺の専修寺の住職さんが夜座の出勤のためにやって来られ、玄関で下駄に付いた雪を落としながら、私の父親の名前を叫ばれました。そして「大雪子、今日は誰も参って来れんぞ」と言うと、父親が「それなら、お経さんだけで勤めさせてもらい、終わろう」と応えました。その声を聞きながら、私は「正座の時聞か短くなるな」と嬉しくなった記憶があります。案の定、家族だけの参拝者でお勤めが終わろうとした、まさにその時です、カタカタと本堂正面の戸が開きました。見ると「キクさん」と呼ばれるお同行さんです。
普段どおり家を出たのでしょうが、思わぬ大雪で行事を知らせる喚鐘には問に合わなかったのでしょう。内陣から降りてきた父親が、向拝の横で雪を払っているキクさんに、「よう参つたな。今夜は雪で誰も参りがなかろうから、お経さんだけで終わろうと専修寺さんと話しちょったんじや。お茶でも飲んで、専修寺さんに送ってもらいない」と言いました。「そうかえ、そうかえ」と相づちを入れながら聞いていたキクさんの口から、「生死の話炉聞きたかったな」という声がこぼれました。その言葉を聞いた父親が「一席、話そう」と言ったのです。子ども心にキクさんを恨んだものですが、「生死の話」という言葉だけは忘れられなくなりました。まさに、今を生きている「いのち」のあり様と、その往き先を聞かせていただくために、キクさんは大雪の中をやって来られたのでした。

今の私の姿

さて、生まれたばかりの私は自分で乳を飲むことなど何もできず、両親や祖父母、あるいは有縁の方々の願いとそのはたらき(力)で育まれたのですが、そのことを忘れています。そればかりか自分の力で生まれてきて、大きくなり、今を生きていると思っています。確かに、今は自ら仕事をして生活しています。そのような力、つまり体力・学力・知力・経済力・権力などは「生活力」ではあっても、「生きる力」ではないように思います。むしろ、このような力が自らを傲慢にし、ご恩のわからない「いのち」にしていると言えます。
『歎異抄』に伝えられる親鸞聖人の言葉に、

なごりをしくおもへども、娑婆の縁尽きて、ちからなくしてをはるときに、か
の土(浄土) へはまゐるべきなり。
(第九条、『註釈版聖典』八三七頁、括弧内引用者)

とあります。それは、わが縁ある方々と同じように、生老病死の「いのち」の往き先(お浄土)があることを知らされ、生きている「今」を「なごりをしく」思える「いのち」のご縁として、愚裔のこぼれる中にも慶びを味わえる生活にさせていただくことだろうと思います。そのためには、如来の智慧と慈悲が今を生きている「私」の上に「南無阿弥陀仏」となってはたらいていることを、聴聞簡思)すること以外にはないのです。なぜならば、生まれた以降に受けたご恩を当然のことと思ったり、忘れて生活しているのが今の「私」だからです。「南無阿弥陀仏」のお念仏は、今苦悩する「いのち」そのもののあり様を知らしめるために、いつもでどこでも「私」に寄り添い続ける如来の智慧と慈悲なのです。
そんな今の私を見捨てることなく願っている力、すなわち如来の本願力の源(お浄土)にかえらせていただく「いのち」の道を仰ぎつつ、念仏申す日暮らしを一緒に歩みましょう。それを表現しているのが今月のことば「私を生かしておる力というものに帰っていく歩みそれが仏道」である、と味わっています。
(内藤 昭文

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2021年表紙のことば 念仏となって 私の口から 現れてくださる み仏のはたらき

はじめに

表紙のことぼは、松野尾潮音師の言葉です。師は、一九ニー(大正十)年生まれで、愛知県岡崎市にある浄土真本願寺派明願寺の住職として門信徒を教化しつつ、一九九九(平成十二年にご往生されました。その間に、本願寺派の企画調査室室長や伝道院研修部長を歴任したり、地元の岡崎市の教育委員などを務めたりされています。
私は、恩師の武内紹晃先生のご縁で、同派の「布教講会」で一緒に仕事をさせていただきました。戦前・戦中・戦後という激動の時代を生き抜かれた師の人生は、ご苦労の多いものだったと思います。
私は、師の書かれた『仏教と浄土真宗』(本願寺出版社)を読んだことがあります。この表紙のことぼけ、伝道院研修部長の任にあった一九六五(昭和四十)年の文章の中にありますが、そこには世間的な価値観が急激に変化する時代と社会にどう対応しようかという思いが感じられます。

社会の変化

私か大学生になった一九七四(昭和四十九)年は、一九六〇年と一九七〇年の安保闘争という学生運動が終息しつつある時代でした。当時の社会では、若者を無気力・無関心・無責任の「三無主義」の世代と評価し、その後には無感動・無作法を加えて「五無主義」の世代とも評していました。戦争を体験しか世代の大人には、当時の若者たちが社会に対する積極的な情熱を持っていないように映ったのでしょう。
だから、この世代の若者を「しらけ世代」と総称しました。その後一九八〇年代には、自分かちの世代と社会に対する価値観が共有できない若者を「新人類」とレッテルを貼って呼びました。そのような若者の風潮は現代にも少なからず残っていて、影響を与えているように思います。
しかし、いつの時代でも、どこの世界・地域であっても、親の世代が感じる子どもたちの価値観は、「新人類」と呼ぶべきものではないでしょうか。それは世代が変わっただけで、それぞれが自己中心性(我執)の上にしか価値観をもっていないからでしょう。

念仏申す身となって

さて、私は表紙のことばを見た時、甲斐和里子さんのお念仏を喜ぶ二首の和歌、

  御仏をよぶわがこゑは御仏のわれをよびます御声なりけり
(『草かご』 二四四頁)

みほとけの御名を称ふるわが声はわがこゑながら尊とかりけり
(『同』 一八五頁)

が浮かびました。そして、「かたじけない≒もったいない」という思いが続きました。
彼女の和歌は、前者が二〇一三(平成二十五)年の九月、後者が二〇一四(平成二十六)年の一月の「法語カレンダー」に採用されています。私は、後者の縁で『心に響くことば』(本願寺出版社)にこれらの歌の味わいを書かせていただいていたので、思い合わせたのでしょう。
「念仏」とは、「私」の口をついて出てくる「南無阿弥陀仏」という声です。それを「称名」といいますが、それはみ仏が「私」を喚び続けるはたらきなのです。これを「名号」といいます。

「称名」と「名号」

浄土真宗では「南無阿弥陀仏」を、「称名」ともいい、「名号」ともいいます。この両者は一見してわかるように、「名」の字の位置が後と前という大きな違いがありまた。それらの経典が中国に伝来し、紀元前後から多くの方々の苦労によって、長い年月をかけて漢字に翻訳され続けました。徒歩以外に主な交通手段のない時代、シルクロードを通してインドの僧が中国に伝えたのです。その後、中国の僧がインドに求法の旅をされたのです。そのようにして翻訳に携わった僧をコニ蔵法師」と呼びます。その中には国禁を犯してまで仏典を求めた方がいます。それが、「玄奘」という三蔵法師です。孫悟空の『西遊記』で知られる玄奘三蔵は実在の人物なのです。
そのようにして漢訳された経典が日本にもたらされたのです。
私たち日本人は、本堂やお内仏で勤行する時には、漢訳された経典をそのまま拝読しているのです。一方、その内容を学ぶ時に、その漢文を和語として読み下したりします。漢文を和語としてどう読み理解するかで、種々な解釈と味わいが生まれたりするのです。
漢文では動詞の目的語はその動詞の後に置かれますので、「称名」とは「名を称する「こと」」と読み下すことができます。一方、「名号」が「名を号する[こと]」であす。
さて、インドで成立した経典はもともと主にサンスクリット語で書かれていましるならば「号名」となるべきですが、そうなってはいません。また、この「号」は略
字で本来は「號(ごう)」です。つまり、「號」は「虎」に関わるもので、虎が大声で自分の存在を十方に告げるために吠える様を意図しています。その意味で、「名号」とは名告
り主が大声で自己存在を告げている様です。端的に言えば、「名号」とは名告りです。
すなわち、阿弥陀如来が十方衆生に、この「私」に、自らの存在を「名」をもって名告り続けているのです。
また、「名号」については、伝統的に「すべての功徳を名に施す(全徳施名)」といわれます。すなわち、阿弥陀仏においては、その智慧と不一不二の大悲の「名告り」をもって衆生を「摂め取ること(摂取不捨)」こそが、仏のすべての功徳、如来の「いのち」をかけた願いであるというのです。それを踏まえた上で、敢えて漢語の「名号」を和語として書き下すならば、私は「名をもって号す[こと]」となると味わっています。しかし、阿弥陀仏の「名号」とは単に名を告げることだけではないのです。「名号」こそが私にとっては仏・如来そのものなのです。換言すれば、「私」の口にこぼれる「南無阿弥陀仏」の念仏こそ、「私」の「いのち」に寄り添う如来の願いそのものなのです。
さて、私たちは自分の親を「おかあさん」「おとうさん」と呼びます。しかし、どうして私たちはそう呼ぶようになったのでしょう。それは親の側が、赤ん坊は何もわかっていない、あるいはわからないのを承知の上で、生まれたばかりの「いのち」に向かって、「おかあさんよ」「おとうさんよ」と何度も喚びかけずにはおれず、名告り続けていたからでしょう。その名告り、喚びかけが「名号」なのです。その名号は、「ここにいるよ、心配するな」という親心であり、「お母さんとよんでくれ」という思いであり、「どんなことがあろうとも見捨てず、必ず育てる」という願いなのです。その願いが「私」に至り届いているからこそ、「私」の声となって「カアカア」「トオトオ」というように、「名を称える」ようになるのです。
時代が激変したとしても、また価値観に断絶を感じて親が子を「○○世代」などと評したとしても、この親心、親の願いは変わらないのではないでしょうか。

ある出来事を通して

たとえば、ドラマや映画を見ていると、迷子になったわが子を捜索するシーンがあります。捜索をしても見つからず、捜索隊員が拡声器を使って「OOちゃん」と子どもの名を叫んだりしでいます。たぶん、私たちも同じような行動を取ると思います。その場合、子どもの名を呼ぶ「私」は、子どもに返事を期待しているのではないかと思います。なぜなら、ふだん子どもの名を呼んだ時に返事をしないと、「聞こえたならば、返事をしなさい」と叱りますから。要するに、迷子のわが子の名を呼んで、その返事を聞き、「私」白身が安心したいのであろうと思います。
しかし、子どもの名を呼ばずに、「おかあさんよ」と叫びながら捜索する親の姿が㈲面に出てくる時があります。この場合でも子どもの返事を期待しているのでしょうが、もう一つ違う意味があるように思えます。それは、一人で不安なわが子に対して寄り添う親心が感じられるのです。つまり、「おかあさんよ」という名告りには、「私はあなたのことを忘れてないからね、一人ではないからね」という親心を感じるのです。それが「名号」なのではないでしょうか。
なお、私は迷子の子どもを探す時、「おかあさん」と呼ぶのが親心だと言いたいのではありません。また、どちらの探し方が正しいとか、そういうことを言いたいのではありません。自分の身に置き換えて味わってもらいたいだけです。

自己を知らされる

さて、お釈迦さまは私たちの生きている世界を「娑婆(サパー一忍土)」といわれました。この言葉は、古今東西、どんな制度の上でも人間が構築した社会(器世間)は苦悩を生み出すものであることを意味します。なぜならば、それを作りあげているのが、自己中心的な煩悩をもつ人間(有情世間)だからです。その点を、唯円房が著したといわれる『歎異抄』では、

煩悩具足(ぼんのうぐそく)の凡夫(ぼんぶ)、火宅無常(かたくむじょう)の世界は、よろづのこと、みなもってそらごとたは

ごと、まことあることなきに、ただ念仏のみぞまことにておはします
(『註釈版聖典』八五三~八五四頁)

というのです。親鸞聖人は、自らを「煩悩具足の凡夫」といわれ、そんな自己中心的な「私」が作り上げた世の中は真実ではなく、虚仮不実なのである、と仏・如来に知らされ、告白されているのです。
先の「しらけ世代」や「新人類」という表現も、当時の若者たちが他者との関係を嫌い、社会を無視する生き方をしているように見えたからでしょう。しかし、それは、戦前の全体主義や安保闘争への反感や反動だともいえます。身勝手な私たち凡夫は、ややもすると反動によって両極端に揺れてしまいます。そこには、今を生きる自己を見つめる視点が欠落していないでしょうか。悲しいかな、人間は自らを見つめることが苦手なのです。そして、無自覚に、「間違っている」のは自分以外の人であり、組織や社会であると決めつけています。

善導大師(ぜんどうだいし)は『観経疏(かんぎょうしょ)』「玄義分(げんぎぶん)」で、

これ経教はこれを喩ふるに鏡のごとし。 (『註釈版聖典(七祖篇)二二八七頁)

といわれています。「経」に顕された仏の教え(仏法)は、「私」を映し出す「鏡」のよ
うなものだといわれているのです。「南無阿弥陀仏」という仏の名告りこそが、「私」
のあり様を照らし続ける仏陀の「智慧」のはたらきであり、いつでもどこでも「私」
を見放さず寄り添い続ける如来の「慈悲」のはたらきに他ならないからです。如来
の「智慧と慈悲」のはたらきのすべてが、「南無阿弥陀仏」という名号となって届い
ています。
今を生きる自らの姿を知らないまま生きるということは、まさに「裸の王様」で
しかありません。自らのあり様を知らずして、いかに生きるかを考えても虚しくな

るだけではないでしょうか。お念仏申す日暮らしの中に如来の願いを聞き開きつつ、苦悩多い人生であっても如来のご恩を知り、感謝と慶びをもって生き抜かせていただきましょう。
以上のように、私は表紙のことば「念仏となって私の口から現われて下さるみ仏のはたらき」を味わいました。
(内藤 昭文)

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2020年法語カレンダー あとがき

親鸞聖人ご誕生八百年・立教開宗七百五十年のご法要を迎えた一九七三(昭和四十八)年に、真宗教団連合の伝道活動の一つとして「法語カレンダー」は誕生しました。門信徒の方々が浄土真宗のご法義を喜び、お念仏を申す日々を送っていただく縁となるようにという願いのもとに、ご住職方をけじめ各寺院のみなさまに頒布普及にご尽力をいただいたおかけで、現在では国内で発行されるカレンダーの代表的な位置を占めるようになりました。その結果、門信徒の方々の生活の糧となる「こころのカレンダー」として、ご愛用いただいております。
それとともに、法語カレンダーの法語のこころを詳しく知りたい、法語について深く味わう手引き書が欲しいという、ご要望をたくさんお寄せいただきました。本願寺出版社ではそのご要望にお応えして、一九八〇(昭和五十五)年版から、このカレンダーの法語法話集『月々のことば』を刊行し、年々ご好評をいただいております。今回で第四十一集をかぞえることになりました。

二〇二〇(令和二)年の「法語カレンダー」では、真宗教団連合結成五十周年を迎え、「わたしの歩み」というテーマを設け、これまで掲載した法語の中から、お念仏を称え人生を生きぬかれた先師の言葉を選定いたしました。本書では、これらのご文についての法話や解説を四人の方に分担執筆していただきました。繰り返し読んでいただき、み教えを味わっていただく法味愛楽の書としてお届けいたします。
本書をご縁として、カレンダーの法語を味わい、ご家族や周りの方々にお念仏のよろこびを伝える機縁としていただければ幸いです。また、各種研修会などのテキストとしても幅広くご活用ください。

二〇一九年八月
本願寺出版社

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2020年12月のことば 智慧・慈悲のはたらきそのものが「仏」なのです

はたらく仏さま

坂東性純師の言葉です。坂東性純師は、一九三二(昭和七)年、東京でお生まれになられ、東京大学の印度哲学科を卒業されました。その後、大谷大学、上野学園大学などで教鞭を執られます。当然専門は仏教学でしたが、ご自身、真宗大谷派の坂東報恩寺の住職でもいらっしゃいました。報恩寺は、親鸞聖人の主著『顕浄土真実教行証文類』の草稿本、言うところの坂東本を伝えてきた寺院としても有名です。師は、このご自坊でも熱心に法話を続けられ、広く一般の人々に聖人の教えを説かれました。二〇〇四(平成十六)年、七十二歳でご往生になられています。
この言葉をよく噛みしめてみると、不思議な味わいがあることに気づきます。「『仏』は智慧と慈悲となって、はたらいていらっしゃいます」とは表現されていません。「智慧・慈悲のはたらきそのものが『仏』なのです」といわれています。「『仏』は智慧と慈悲となって、はたらいていらっしゃいます」と表現した場合、どこか「仏」は遠いところにおられ、そこから「智慧」と「慈悲」となってはたらいておられるような、場合によっては疎外感を感じさせるような表現になりかねません。「智慧・慈悲のはたらきそのものが『仏』なのです」といわれると、仏は「はたらき」、言い換えると、この私の上で「はたらき続けて止まない」すがたとして味わうことができます。坂京師は『はたらく仏さま』(真宗大谷派東京教務所)という本のなかで、次のようにいかれています。

じっとしている仏さんは物体(真宗学で使う、ものの本質という意味ではなく、ここでは文字通り、「ぶったい」として物そのものという意味)なのです。対象化された仏さんです。この勣いてやまない仏様の実態は何かというと智慧と慈悲なのです。智慧と慈悲は一刻も休みなくはたらいております。智慧と慈悲の渾然一体としたはたらきが仏様であり、そのはたらきを「仏」というわけです。

このように書かれた続きに、表記の言葉が続くのです。端的に言えば、仏さまは「はたらき」であるというのです。

智慧の出でくるなり

親鸞聖人の言葉を通して、「智慧」と「慈悲」について昧わってみましょう。いまコニ帖和讃」に資料を絞って、これらの言葉がどのように使われているか調べてみます。「智慧」という言葉は十四例、「慈悲」は四例ほど見いだすことができます。
いま「智慧」については、最もなじみの深い「讃阿弥陀仏掲和讃」から見てみましょう。親鸞聖人は、重要な語句には左側にルビのような形で説明や漢字の読み方を付しておられ、これを左訓といっています。この豊かな左訓を味わうため、ここでは本願寺派から出版されている『浄土真宗聖典全書口』から引いてみます。

智慧の光明ぽかりなし
有量の諸相ことごとく
光僥かぶらぬものはなし
真賓明に蹄命せよ
(『浄土和讃』、『浄土真宗聖典全書口』宗祖篇土、三三七頁)

真宗高田派に伝えられてきた「国宝本」と呼ばれる和讃では、この部分にまことに豊かな左訓が施されています。このなか「智慧」という言葉については、次のように記されています。現代語表記に改めてみましょう。

  智は、あれはあれ、これはこれと分別して、思いはからうによりて思惟に名づ  く。慧はこの思いの定まりて、ともかくもはたらかぬによりて、不動に名づく。
不動三昧なり。                         (同頁、参照)

たいへん難しい言葉です。親鸞聖人は聖教を読まれるとき、言葉一つひとつ、漢字も一文字一文字を、きわめて注意深く正確に読んでいかれます。いまここで「智」という文字は、さますまなものを分別し、思いはからうという意味をあらわすといわれるのです。そのうえで、「慧」はこの分別が定まってあれこれ揺れ動かない、不動の意味をあらわすと書かれているのです。その両方の意味が込められているのが、「智慧」であるといわれています。
子どもが病気になったとき、親は心配で、何とか少しでもはやく直してやりたいと思います。小さな子どもはよく怪我をします。子どもがこけて怪我をしたとき、その怪我がどのような状態なのか、そのままでいいのか、家庭の薬を使うのか、一刻もはやく病院に行くべきなのか。怪我の場合は外科ですが、熱が出たりぐったりしているときは何科を受診させたらよいのか。親は、それらを見分けなければなりません。そのうえで、ここを受診すると決めた以上、迷ってはいけません。揺れ動いてはならないのです。
智慧のはたらきを、親鸞聖人は、法蔵菩薩の発願と修行、そして本願成就のすがたで味わっておられたのではないでしょうか。法蔵菩薩は、世自在王仏のもとで二百一十億の諸仏の国土をご覧になり、清浄の行をすべて摂め取られます。そのうえで四十八の願いをおこされ、一人もすくいからもれることのない、念仏往生の誓いが成就されているのです。「智は、あれはあれ、これはこれと分別して、思いはからう」のは、この「二百一十億の諸仏の国土」をご覧になり、思惟されたはたらきに当たります。そのうえで、念仏往生の誓いが成就されたからには、そのすくいの法は微塵も揺れ動くことはありません。このようなはたらきを「智慧」と味わっておられたのでしょう。
さらに和讃を見ますと、「智慧の念仏」とか「信心の智慧」という表現に出会います。いずれも『正像末和讃』にある言葉です。「智慧の念仏」とは、「智慧そのもののはたらきである念仏」という意味であり、「信心の智慧」とは、「信心という智慧。信心即智慧」ということなのでしょう。
ここで気をつけなければならないのは、智慧のはたらきをどこか遠いところに見てはならないということです。いま、ここで私か称える念仏、それがそのまま「智慧」のはたらくすがたなのであり、私か本願のこころを疑いなく聞き入れ、信順することが「智慧」を得ていることに他ならないのです。
同じ『浄土和讃』「讃阿弥陀仏掲和讃」の四首目を引いてみましょう。

光雲元尋如虚空
一切の有尋にさはりなし
光滓かぶらぬものぞなき
難思議に蹄命せよ       (『浄土真宗聖典全書口』宗祖扁上、三三八頁)

この和讃を味わう際にも、よく左訓に注意する必要があります。これについては「顕智本」と呼ばれる和讃に重要な左訓があります。「光澤」の洋の横に、「ウルオウ」と書がれてあります。「潤う」の意味です。ここは、よく誤解されるところで、「光沢を蒙る」といえば、なにか光に当たっているように考えてしまいがちです。
よく考えると「滓(沢)」は「さわ」ですから、それは「浅く水がたまり、草の生えている湿地」(『日本国語大辞典』)です。そして、この和讃の三句目「光滓かぶらぬものぞなき」全体を、「国宝本」では「光に当たるゆへに、智慧の出でくるなり」
(『浄土真宗聖典全書口』宗祖篇上、三三八頁、原片仮名、傍点・引用者)と左訓されています。「出でくる」というのは文字どおり、「徐々に出てくる」ということです。 こう考えると、親鸞聖人加味わっておられた「智慧」のはたらきとは、浄土と本願のいわれを聞き、仰せのとおりに念仏し信順しているこの私の上に、「智慧の潤いが生まれつつある」ということであったのでしょう。

釈迦・弥陀の慈悲

「慈悲」についても、二例ほど味わってみましょう。

釈迦・弥陀は慈悲の父母
種々に善巧方便し
われらが無上の信心を
発起せしめたまひけり        『高僧和讃』、『註釈版聖典』五九一頁)

(お釈迦さまと阿弥陀さまは、あたかも父母のような慈悲のお方です。さまざま巧みに我々を導いて、無上の信心を起こすように、はたらいておられるのです。)

釈迦・弥陀の慈悲よりぞ
願作仏心はえしめたる
信心の智慧にいりてこそ
仏恩報ずる身とはなれ           (『正像末和讃』、『同』六〇六頁)

(お釈迦さまと阿弥陀仏の慈悲によって、菩提心である、仏のさとりをひらこうというこころをいただくのです。信心の智慧をいただくことこそ、仏さまのご恩に報いているすがたなのです。)

これらを読んでみると、慈悲の味わいがよくわかります。お釈迦さまや阿弥陀さまの慈悲は、文字どおり、この私に「無上の信心」や「信心の智慧」を起こさせるはたらきであったのです。
こう考えて、もう一度、坂東性純師の言葉にかえってみましょう。

  智慧・慈悲のはたらきそのものが「仏」なのです (『はたらく仏さま』五九頁)

いま、この私の上で、「信心の智慧」となってはたらいていらっしやる阿弥陀さま。そして、必ず「信心の智慧」を得させようとはたらいておられる阿弥陀さま。そのはたらきの他、別に仏さまがおられるのではなかったのです。私たち一人ひとりは、みな、阿弥陀さまとともにあったのです。そう気づいて歩む人生が、親鸞聖人のいわれた仏道であったのでしょう。
(山本撮叡)

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2020年11月のことば 拝まない者も おがまれている 拝まないときも おがまれている

体験と言葉

車井義雄師の最晩年の詩集にある言葉です。このフレーズは一度だけでなく、何度か異なる詩のなかでも使っておられるようです。
東井義雄師は、兵庫県豊岡市にある浄土真宗本願寺派の東光寺でお生まれになりました。一九コー(明治四十五)年、四月九日のことです。宣]宗ゆかりのものは、宗教者として師を見ていきますが、師の略歴を見ますと、なんと言っても師の表の顔は教育者でした。インターネット上にあるホームページ『東井義雄記念館』には、その足跡が詳しく書かれています。小学校一年生での、母との死別。貧窮による旧制中学への進学断念。時代の勁きや流れのなかでの苦悩。決して順風満帆の生活を送られたわけではありませんでしたが、師範学校卒業後、一九七一一(昭和四十七)年の定年退職まで、四十年の長さにわたって教育に携わって来られました。
東井義雄師の言葉には、阿弥陀さまのご恩が語られていると同時に、師の深い体験も語られているのです。何の本であったか忘れましたが、若い頃、東井師の教員時代の次のような逸話を読んだ記憶があります。

弁当の時間になると、必ず何人かの生徒が、フッと教室から出て行きます。そ  の理由が、よく私にはわかります。彼らは貧しくて、弁当を持って来ることができないのです。黙って校庭で、水だけを飲んで時を過ごし、午後の授業が始まる頃、彼らぼそっと戻って来る……

こんな内容であったと思います。感性の豊かな師は、教員としてそのすがたを見ながら、何もしてやれないもどかしさに、どれほど苦悩されたことでしょう。師自身も旧制中学の試験に合格しながら、経済的な事情から父に反対され、進学を断念された経験があります。また、このような言葉もあったと思います。
貧乏なお寺の本堂には、ネズミがうろうろしている。ネズミたちは、お供えしてあるお仏飯にかじりつく。仏さまは何もなさらない。お仏飯をかじる不ズミに何もできない仏さま。こんな仏さまに何の力があるのだろうか……。ここにはむしろ、仏さま、仏法に対する懐疑の念が表明されています。小学校一年生で母と死別されたときの経験を、後に師は次のように語られています。
父の不在の時など、母が仏前に座しておつとめをするかたわらで、母をまねて「きみょうむりょうじゅにょらい……」と唱和しながら見上げる時の、母のなんともいえぬうれしそうな微笑は、今もあざやかに私の眼前にある。私は、それがうれしくて、母の顔をみいみい体をくっつけておつとめをした記憶がある。(中略)後年、ずいぶん仏にそむくような思想を追い求めた私であるが、結局、そむき切ることができず、仏の前にひきすえられて仏前にぬかずいた時、私は、仏の微笑の中に、母の微笑を見て頭があがらなかった。
(『わが心の自叙伝』、『車井義雄著作集』第七巻二三四頁)

「後年、ずいぶん仏にそむくような思想を追い求めた私であるが」と告白されています。それでも「そむき切ることができなかった」のは、その母の微笑の記憶ゆえであったのです。仏さまや教えに対する懐疑、それが仏さまとの決定的な決別に至らなかったのは、幼少時の記憶にある母の微笑のおかげであった。この告白は、宗教の本質がどこにあるかを雄弁に語っていると思います。車井師晩年の境地とその言葉は、このような経験を経てのものであったのです。

人生観の変化と円熟

この言葉が使われている詩を、鑑賞してみましょう。

  なんだかうれしく

「無理をせんといてください」

「無理をしないで休んでいてください」
腰が曲がって
ひどく小さくなってしまった老妻に
何べんも気づかってもらいながら
土手の草を刈る

何だか
うれしく
何だか
しあわせで……
「拝まない者も
おがまれている
拝まないときも
おがまれている」

「ここが
み手の
まんなか」

土手の草を刈らせてもらう

何だか
うれしく
何だか
しあわせで……。             (『東井義雄詩集』 一九九~二00頁)

この詩では、一組の老夫婦の日常が描かれています。土手の草を刈る私に、腰の曲がった老妻が声を掛けてくれるのです。
「無理をせんといてください」
「無理をしないで休んでいてください」
年老いた私を気遣う妻。
人は一生のなかで、そのときそのとき、人生観を変えながら生きています。皆、それぞれは忘れていても、二、三歳の幼児期には、私は世界をどのように見ていたのか。もっとさかのぼれば、胎児のときはどんな世界を見ていたのか。少年期、青年期、結婚や家族、子どもとの出会い、やがて孫に囲まれて……。皆が同じ道を歩むとは限りませんが、経験を積むと、歳相応に人生観も世界観も変わってきます。
少年期はもとより、教員となってからも、車井師は、たいへんなご苦労を続けられました。それらの経験を経て退職を迎え、全国に講演行脚に出られるようになり、師の人生観もまた円熟味を加えていったのでしょう。

「拝む」と「おがまれている」

右の詩にもどってみます。車井師は、老妻の声、その気遣いに喜びを感じておられることに、気をつけねばなりません。
私たちは、決して阿弥陀さまの恩や慈悲のはたらきを、直接知ることはできません。浄土や仏さまのすがたは「こころも言葉も及ばぬ」世界なのです。
「拝まない者もおがまれている拝まないときもおがまれている」というフレーズを見てみましょう。一句目と三部目の「拝む」は漢字です。二部目と四効目の「おがむ」はひらがなになっています。「拝む」という言葉は、第一義的には、礼拝する、手を合わせてお辞儀するという、私の動作をあらわす言葉です。「▽心に願う」「懇願する」「嘆願する」などの意味もありますが、これは真宗の味わいとしてはふさわしくないでしょう。とすると、右の「拝む」は、具体的には本堂やお仏壇、お墓参りなどのときにする、私たちの身体の動作と考えてよいでしょう。そう考えると、

一日のうちで私か拝んでいる時間は、ごくわずかしかありません。
日本語は便利な言葉で、漢字、ひらがな、カタカナを使い分けられます。右の詩で、漢字の「拝む」は私の動作です。それをひらがなの「おかか」にすると、よほど表情が柔らかになります。続いて「ここがみ手のまんなか」とありますから、もちろんこの「み手」は仏さまの「み手」をあらわしています。「おがむ」というはたらきは、あくまで仏さまのはたらきなのです。さらに気をつけなければならないのは、「み手のまんなか」ですから、仏さまは手を合わせて私を拝んでいらっしやるのではなく、「み手」のなかにこの私を包み込んでいらっしゃる、というのです。「み手」というのは、もちろん比喩、象徴的な表現で、阿弥陀さまの大いなるはたらきをあらわしています。

阿弥陀さまの大いなるはたらき

繰り返しになりますが、車井師は仏さまの「み手」を直接感じ取っておられるのではありません。「無理をせんといてください 無理をしないで休んでいてください」という、妻の声の上に、仏さまのはたらきを味わっておられるのです。そしてここでは、妻の声を契機として「うれしさ」「しあわせ」が語られていますが、匹十年の教員生活で出会われたであろう幾多の人々。教え子、同僚、また幼い頃「正信掲」を勣めたとき。それらすべてが、私に大いなるはたらきを知らせてくれるすがたであったという境地が、ここで語られているのでしょう。
「拝まない者も」とありますから、これを「拝んでいないときの私」と読むこともできます。一般化して「拝むことを知らない者」と読むこともできます。両方の意味を兼ねているのでしょう。そうすると詩の最初二句は、「拝んでいないときの私も、いまだ拝むことすら知らない人も、大いなる仏さまのはたらきのまんなか」という意味になります。これは阿弥陀さまの大いなるはたらき、その広大無辺の側を詠嘆したものとも言えましょう。
「拝まないときも」は、文字どおり時間をあらわしています。先ほど私は、拝むことを私の身体の動作と言いましたが、心で仏さまを思うことも含めてよいのではないかという疑問も湧いてきます。しかし、私の心の「思い」は、喜怒哀楽、私の感情の動きの一つですから、やはりここは善導大師のいわれる、読誦・観察・礼拝・称名・讃嘆供養の五正行のなかの一つである「礼拝」と見ておきたいと思います。そうすると私たちは一日のうち、「拝んで」いないときがほとんどしょう。
東井先生がどこかで、体中毛の一杯生えた毛虫、モゴモゴとどこかユーモラスな動きをする毛虫が、あぜ道をあっちへ行き、こっちへ行きしているすがたを見て、そこに私たちのすがたを投影していらっしゃった詩を、読んだことがあります。そのように、うろうろしているばかりの私。そんな私を休むことなく「おがんで(つつみこんで)」おられる阿弥陀さま。これは大悲無倦の徳をあらわしたとも読めます。 これは、さまざまな経験の上に到達された、東井先生最晩年の味わいの言葉なのでした。
(山本撮叡)

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2020年10月のことば 念仏とは 自己を発見することである

他人事の分析的知識

徳聞書店刊行『歎異抄』のなかで、金子大茶師が使われた言葉です。
親鸞聖人の教えや教学は、何より聖人ご白身の著作によって学ばねばなりません。
さらにはその背景となった、七高僧をはじめ、聖人が引用された膨大な著作をも視野に入れて、親鸞聖人の領解・味わいを味読するのが王道でしょう。ただ、それができなければ念仏はわからないのかといえば、そうではありません。二文不知」と呼ばれたような文字一つ知らない人であっても、すぐれた学匠よりはるかに深い味わいをいただいておられます。妙奸人の言葉が、それを証明しています。そこに、学問と信仰の違い、宗教の不思議と難しさがあります。
金子大楽師は、清沢満之師らから始まった近代真宗教学運動の影響下、同郷の曽我量深師らとともに活躍された、真宗大谷派の学僧です。清沢師が東京大学の哲学科を卒業されたことからもわかるように、この方々の言葉は、伝統的な宗学の枠にはまらず、哲学的な思索と密接な関係を保ちつつ、他に例のない独特の表現で真宗を語られました。
「念仏とは自己を発見することである」(『同』四六頁)。この言葉を読んで、多少なりとも真宗に関わりのある人でも、即座にその意味するところを理解できる人はないでしょう。どのような文脈のなかで、何を言うためにこのような表現をされたのか、しばらくそれをうかがってみましょう。

  多くの人の思いでは、仏というものがあり、自分というものがあって、それを  結びつけるものが念仏ともいい、信心というものでもある こう考えており  ますけれども、それはいわゆる分析的な知識なのでありましょう。
(『歎異抄』四五頁)

この言葉の直前で、金子師はこう語っておられます。向こうに仏の存在があり、それに対して自分がいる。その両者を結びつけているのが、信心であり念仏である。このような考えは「分析的な知識」であると、師は述べられます。「分析」とは、ものをさまざまな要素に分けて、その関係を明らかにすることでしょう。仏さま、仏さまとは何か。私、私は何ものか。信心、念仏、これらはそれをどう結びつけるのか。このように考えることを、「分析的な知識」と師はいかれるのでしょう。
子どもの頃、風邪をひくと、小さなお盆にお粥や梅干し、卵などを載せ、母が枕元まで運んでくれました。
「起きるのがしんどいでしょう。今日はここで食べなさい」
狭い家で、居間へ行くのにそれはどかかる訳でもないのに、なぜかそれが習慣でした。私の密かな楽しみでもありました。 子どもは、何かいつもと変わったことがあると、無性にうれしいものです。お正月三が日、赤い塗りのお椀で食事をいただくのも、楽しい出来事でした。三日目の夜、

「今晩はもう、普通のお椀にしよう」
と父が言ったとき、とても悲しかったことを覚えています。いつもと違って、病気だから、今日はここで食べられる。いま考えると、祖母や家族に風邪をうつさないようにとの配慮があったのかも知れません。何も知らないまま私は、母の運んでくれた「病人食」を食べていました。
ここでもし、分析を始めたらどうなるでしょう。
今日の「病人食」のメニューは何だろうか。栄養のバランスはとれているだろうか。母はどのようにつくってくれたのか。お盆は何を使うだろうか。私の病気はどんな状態なのか。病気を治すのに十分な栄養があるだろうか……、書き出したらいくらでも続けられます。けれども、いくら続けても、そこに私の密かな楽しみはありません。母のこころもわかりません。要は、分析はあくまで「他人事」の連続でしかなかったのです。

 

道理と事実

また、金子師は「念仏とは自己を発見することである」と書かれた後半で、次のようにもいわれます。
本願のいわれということばがありますが、本願というものは、それを聞けば、いかにもごもっともであるとうなずかずにおれないところの深い道理をもった  ものであります。本願はいわれです。体は、この身の事実です。だから、本願とは、われらのそれにうなずいていかなければならないいわれでありますし、体とは、われわれがそれを実践していかなければならない、身にうけていかなければならないところの法であり、のりであるこういっていいのであります。                        (『歎異抄』四九~五〇頁)
少しわかりにくい表現があります。ここに引用はしませんでしたが、この文脈の冒頭、師は、

  如来の本願を説きて経の宗致とす、すなはち仏の名号をもって経の体とする
なり。             (『教行信証』「教巻」、『註釈版聖典』 一三五頁)

という、親鸞聖人の『無量寿経』についての領解を前提に話を進めておられます。『無量寿経』の教え、その最も大切なところ、「宗」は本願です。本願は阿弥陀さまの「願い」「誓い」「約束」です
から、それは実現されなければなりません。その実現されたすがたが「体」、すなわち名号であり、十方の衆生が称えるところの念仏であるというのでしょう。そこで、右の「体は、この身の事実です」とあるのは、念仏申している私のすがたは本願を疑いなく受け入れているすがたであり、朧として動かしがたいものであるから、「事実」と表現されたものかと思います。
「本願のいわれ」とは、本願は「なぜ」「だれのために」「どのように」起こされたのか。またそれが「どのように」成就されているのかということでしょう。
祖母の苦労
よくお話しするのですが、私の母の口癖は「親孝行、したいときには親はなし」でした。本当にいつも、時と所を構わず口にしていました。あまりによく耳にするものですから、馬耳東風、なにも気にとめず、ずっと聞き流していました。
「なぜ同じ言葉を繰り返すのだろう」
「何を言いたいのだろう」
ひょっとすると、「私か元気なうちに、お前もよく親孝行しておくのだよ」という意味だろうか、などと考えたりしていました。私か母の気持ちに気づいたのは、ずっと後になってのことでした。
私の母は、琵琶湖畔の農家の生まれです。八人兄弟の次女でした。母の生みの母、
顔も知らない私の祖母は、若くして病死しています。働き手として若い女性のいない農家は、一日も成り立ちません。間を置かずに祖父は再婚し、新しい母を迎えました。その母から、男女二人、弟と妹が生まれます。昔ならよくある話でした。
母が亡くなって後、これらのことを考え合わせ、ようやく私は母の気持ちがわかったのです。義理の母と異母兄弟。さますまな葛藤があったことと思います。若い私には、それを想像ができませんでした。「親孝行、したいときには親はなし」。これは旅行や外食はもとより、何の娯楽も知らないまま、農家に嫁いで苦労を重ね、若くして亡くなった母。その自分の生母を想う言葉だったのです。

真実の私の誕生

金子師がいかれた「念仏とは自己を発見することである」を、以上の文脈からまとめてみましょう。
私たちがものを知るのに、二つの種類があります。理解することと体験すること、言い換えると味わうということです。理解するという金子師がはじめにいわれた表現によると、「分析的に」知ることは一応の理解力があれば可能でしょう。しかし、その方法はいくら時間をかけてもあくまで対象を向こうに見ることであって、距離を詰めることはできません。
いま、私はなぜ念仏しているのか。本願の起こり、本願は「なぜ」「誰のために」「どのように」起こされ、「どのように」成就されているのか。大ごととして聞くのでなく、私こそが目当てであった、むしろ「私一人のため」の本願であったと、心に響いて領解されたとき、私は念仏せずにおられません。そのように念仏している私は、いままでの私とは違います。愚痴と煩悩のなかでしか生きていなかった私か、愚痴と煩悩が恥ずかしいことであったと気づかされる。そこに新しい私、真実の私か誕生するのです。そこを金子師は、「念仏とは自己を発見することである」といわれたのでしょう。少し丁寧な表現に変えれば、「念仏とは真実の自己を発見することである」ということではなかったでしょうか。
讃岐の庄松さんに、ある人が、 「仏をたのむとはどういうことか」
と尋ねたとき、庄松さんは、
「お前さんは、仏をたのんだことがないとみえる」
と答えられたのが、このことを如実にあらわしています。仏さまは、「分析的に」知る世界ではなかったのです。
(山本撮叡)

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2020年9月のことば 自分のあり方に痛みを感ずるときに 人の痛みに心が開かれる

心に感じる痛み

私は大学のソフトボールの試合をときどき観に行きます。面識のある保護者の方々と、選手の調子や対戦相手の状況などを話しながら観戦します。保護者の方は、わが子たちのプレーに一喜一憂しながら、勝てば歓喜の笑みを浮かべ、負ければ悲しみを抱きつつ、次の目標に向かって切り替えようと励まし合われます。そこには、保護者同士、お互いに同じ思いを共有されている光景が広がっています。ほとんどの選手は小学校からソフトボールを続けています。ですから、わが子加活躍したときのうれしさも、失敗したときの悔しさ・申し訳なさも、幾度となく体験されてきた親御さんばかりですから、お互いに相手の気持ちが理解できるのです。
このように、私たちは自らが体験したことのある同じ状況に他の人が置かれたときは、自分目身を相手に投影させて(シンクロさせて、相手の心持ちを慮ることができます。今月のことば「自分のあり方に痛みを感ずるときに人の痛みに心が開かれる」は、九州大谷短期大学名誉教授であった宮城顎先生の『他人さえもいとおしく』(九州大谷文化センター)にあるお言葉です。宮城先生は、

  自分のあり方に痛みを感ずるときに、人の痛みに心が開かれる(中略) 一人一 人には、他の人にはわからない心の痛み、その重さがあるということが、わかるということです。                       二五頁)

と述べられています。
たとえば、親(子)を亡くし、何一つ親孝行できなった(親らしいことができなかった)と、自分白身に痛みを感じている人は、親(子)を亡くして悲しんでおられる人の心の痛みを感ずることができます。しかし、その経験のない人は、悲しいという気持ちを推し量ることはできても、どれはどの悲しみかを感じることはできません。自らが痛みを感じるとき、その人は悲しみに沈んでおられる、あるいは立ち直ろうとされている人の痛みを、我がこととして感じることができるのです。

 

REMEMBER PEARL HARBOR! の教訓

 

話は変わりますが、私は広島に生まれ育ちました。小学生の頃から、学校で「平和学習」という授業がありました。平和公園や原爆ドーム・平和記念資料館にも、何度も訪れました。
身内の体験談も聞きました。祖母(父方)は、原爆が投下されたときお寺にいて、爆風で倒壊した建物の下敷きになりました。たまとま近くを通りかかった人に助け出されて一命を取り留めましたが、その後も亡くなるまで後遺症に悩まされました。祖父(母方)は海軍に所属しており、潜水艦に乗って赤道直下の方までよく行っていたそうです。八月六日には、たまたま山口県の岩国に帰還していました。もし国外で終戦を迎えていたら、日本仁戻ってこられなかったかもしれません。両親からも疎開していたときのこと、戦中・戦後のことを聞きました。

また、原爆の日には、毎年、平和公園内の原爆供養塔前で、いくつかのお勤めが行われています。広島市内の中心部に位置する本願寺派の広陵東組・広陵西組においても、八月五日の夜には、僧侶やご門徒さんなどの関係者が原爆ドームそばのお寺に集まってお勤めをし、供養塔前まで提灯行列をして、そこで原爆死没者のお逮夜法要を勤修しています。このような環境のなかで私は育ちましだから、平和についての思いもそれなりに持っていると思っていました。
ところが、私自身、”本当の平和とはなにかとを考えさせられたことがありました。いまから二十数年前になりますが、龍谷大学の研究の一環で、先生や大学院生たちと一緒に本願寺派の(ハワイの開教区を訪れる機会をいただきました。そのとき、私たちは(ハワイの開教使の先生にアメリカ軍の基地内を案内していただきました。
いろいろ見て回るなかで、古びた建物の外壁に、穴と言いますか、くぼみのようなものが幾つも空いているのに気づきました。けじめは、。なんとも変わったデザインだな”と、〃老朽化が進んで穴が空いたのかな”などと呑気なことを考えながら見て回っていましたが、どうしても気になったので、開教使の先生に尋ねました。
そうすると先生は、「これは真珠湾攻撃のときの弾丸の跡です。取り壊したり修繕したりしないのは、そのときのことを忘れないようにするためです」と教えてくださいました。その話を聞いて私は、(ワイの人々にとっての「REMEMBER PEARL HARBOR!(真珠湾を忘れるな!)」がどれだけ大きくて、深い憤りと悲しみをいまだに残しているかを感じました。私は、戦争がもたらす悲しみは、立場が違っても同じであると思いました。と同時に、私は”お主えは戦争による本当の痛み・悲しみとは何かを真剣に捉えようとしていたか”。生半可なうわべだけの平和しか見ていなかったのではないかと、「本当の平和とは何か」をつきつけられたように感じました。
戦争は敵も味方も関係ありません。それに関わったすべての人々に深い悲しみをもたらします。戦争はしてはいけない、それは誰もがわかっていることだと思います。戦争という手段では、何の解決も導かれません。握造されたり作為的に書きかえられたりした歴史に触れても何にもなりませんが、歴史の事実を直視することによって、戦い・争いは問題を解決する有効な手段とはならないことに気づかされます。自らに痛みを感じることができる人は(被害を受ける悲しみだけでなく、相手を傷つけてしまう・殺めてしまうと感じる痛みもあります)、相手が受けた(あるいは受ける)心の痛みを知ることができるはずです。そこに初めて戦争は無益なものだとうなずかされてくるのではないでしょうか。

 

自らの痛みと他者の痛み

 

自らに痛みを感じない人は、相手の痛みを感じることができません。ずいぶん前になりますが、ある方が広島の赤十字・原爆病院を訪問し、「病は気からと言いますから、気をしっかりと持ってください」と、原爆症で苦しんでおられる方々に声を掛けられました。その言葉に被爆者の方々は、言葉であらわせない深い悲しみを抱かれたそうです。なぜなら、原爆による後遺症は、ふつうの病気やけがによるものとは違います。言葉をかけたその方も戦争を体験された一人です。身をもって戦争による悲しみ・痛みを感じておられるであろうはずなのに、間違ったお見舞いの言葉を掛けてしまうということは、自らの痛みとして感していない人としか言い様がありません。自ら痛みを感じていないのですから、相手の痛みを感じられないのも当然ですよね。逆に、結果的に自らの研究が原爆製造に力を貸すことになってしまったアインシュタイン博士は、日本の人々に対して「申し訳ない」との思いを抱いておられたそうです。それは、自らの研究が人類の役に立つと思って疑わなかったけれども、幸福をもたらす道具とはならずに悲劇を生む元を作ってしまったという漸愧の思いを、自らの痛みとして感じておられたからだと思います。だからこそ、多くのいのちが失われ、後遺症に苦しんでおられる方々の痛みを、重く受け止められたのだと思います。争いからは、決して安らぎは生まれません。争いは争いを生かだけで絶えることがありません。その連鎖を断ち切らない限り、真の安らぎは訪れません。

偉そうなことを言っていますが、私は非常に性格が短気です。些細なことでも、つい頭に血がよって”カーツ”となってしまいます。気がつけば近くにあった物を投げつけたり、壊したりしてしまうこともあります。そのあと少し冷静になって感じることは、自らがとった言動に対しての後悔です。。なぜその二日を言ってしまったのだろう刀”どうしてあんなことをしたのだろうと。ときにはその逆もあります。なぜ、その一言を掛けてあげられなかったのだ。どうしてあのとき、行動に移せなかったのだと。ただ、私か気付けている自らの反省すべき言動は、ほんの一部だと思っています。なぜなら、後で周りの人から叱責されて、初めて気付くことが何度もあるからです。

 

他者の痛みを自らの痛みに

 

悪性さらにやめかかし
こころは蛇蝸のごとくなり

修善も雑毒なるゆゑに
虚仮の行とぞなづけたる

無漸無愧のこの身にて
まことのこころはなけれども
弥陀の回向の御名なれば
功徳は十方にみちたまふ             (『註釈版聖典』六一七頁)

(悪い本性を抑えることなどできるはずもない。その心はまるで蛇や蝸のようであり、たとえ善い行いをしても、煩悩の毒がまじっている。だから、その行いはいつわりの行と呼ばれている。 罪を恥じる心がないこの身には、まことのこころなどないけれども、阿弥陀仏があらゆるものに回向してくださる名号であるから、その功徳はすべての世界に満ちわたっている。『三帖和讃(現代語版)』 一八三頁)

このご和讃は、親鸞聖人の『正像末和讃』「愚禿悲歎述懐讃」のなかの二首です。私の心は正に蛇や蝸のたとえで示されるように、他人を傷つけてしまう邪悪な心の持ち主でしかありません。しかも後悔できればまだいい方ですが、ほとんどの場合、自らが取った言動を顧みることもしません。そんな私か「争いはよくない」と言ってみても、それは痛みを感じないものでしかありません。痛みを痛みとして感じることができない、それが私の本性なのです。しかしそんな私に、。なかなか痛みを感じられない私であるμと気づかせてくださるのが、「南無阿弥陀仏」のみ名をもって私に掛けられている阿弥陀さまの願いなのです。
相手を傷つけてしまうことは悲しみであると感じられるようになれば、おのずと相手の気持ちを感じることができるようになると思います。いまも世界のあちらこちらで、紛争やテロが起こっています。自分の愚行が他人を傷つけてしまうことに痛みを感じられる人は、紛争やテロによってどれだけの人が悲しむかを知ることができるのではないでしょうか。私は、広島でも(ワイでも、多くの方々が国籍に関係なく一緒に手を合わせておられる様子をみてきて、勝者も敗者もない、ともに「南無阿弥陀仏」のご縁に遇わせていただく、それがお念仏の世界だと思っています。
(貫名 譲)

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2020年8月のことば 念仏もうすところに 立ち上がっていく力があたえられる

報恩知徳の道

今月のことばは、西元宗助先生が『み仏の影さまざまに』(樹心社)のなかで述べられた一文です。
酉几先生は、『歎異抄』第四条について触れられた後で、

けだし、聖人がここで「念仏もうすのみぞ」と仰せになる、その念仏の意味  はじつに無上甚深でありまして、称名念仏こそは実は如来の大行であり、その大行たる如来の本願念仏をわが身にいただくことが大信、即ち他力の信心であり、したがってまた大菩提心であり、大慈悲心をたまわることであるのでありました。だからこそ「念仏もうすのみぞ、すえとおりたる1最後まで⊇貝した、徹底したI大慈悲心にてそうろふべき」と仰せになられたのでありました。(中略)

要するにです、念仏もうすところに、立ち上がっていく力があたえられる。
どこまでも自分のことしか考洸ない、自分たちだけの幸せを求めてやまない、その浅ましいことに気づかされて、噺愧の念と感恩の念がめぐまれる。そして及ばずながら、せめて出来るだけお役にたちたいと願うようになる。お念仏は、このような徳をもっているのでございます。
いや、それに、わたしのいささがな経験でも、ひとを救おう助けようと思うことは、まことに結構なことに違いありませんが、しかし気をつけないと、助けよう救おうと思うこころが、いつのまにか思いあかっか傲慢心になっていて、人を救い助けるどころか、却って人とのあいだを疎遠にしてしまっていたということも経験しております。だから、いちばん大事なことは、私ども自身が世のひとびと、即ち人さまのご恩を感じることにあるようでありまして(中略)まことに念仏もうすということは、仏恩報謝の念仏という言葉もありますように、われら忘恩の煩悩具足の凡夫が、み仏のご恩を感じさせていただき、また人さまのご恩を感じさせていただく世界-境涯でありましょう。そしてそのあらゆるもののご恩を感じさせていただくことこそが、凡夫の大菩提心、凡夫の度衆生心をなりたたしめる根源1本願力廻向であることを思うにつけ、われら凡夫におきましては、ただ念仏で、他力廻向の大信心を讃嘆させていただくばかりなのでございます。けだし本願を信じ念仏もうす信心のほかに凡夫の知恩報徳の道はないからであります。         (一三七~一三九頁)

と、述べられています

源信和尚のお母さま

現実に目を向けてみますと、私たちはいろいろなところ・場面で、「感謝」とか「恩返し」という言葉を用いています。たとえば、何か目標を達成できたときに、「お世話になった方々に対して、これで恩返しができたかなと思います」「感謝しています」などです。それは本心からの素直な表現だと思いますが、私は”本当に感謝しているのかな”とか。恩返しできたって言ってるけど、それって自己満足でしかないんじゃないかな刀などと思うときがあります。私の受け止め方が間違っているのかもしれませんが(性格が素直でないのかもしれませんが二、どことなくすっきりとしない感情を抱いてしまいます。私は、世間一般的な「感謝」とか「ご恩」の使用は、「私はうれしい。だから○○も喜んでくれる」というように、「他者」よりも「自分」が優先されているのではないかと考えます。
平安時代、源信和尚は『往生要集』を著されて人々にも念仏往生を勧められましたが、お若い頃のエピソードとして次のようなお話が残されています。
源信和尚は、若くして比叡山でもその名をとどろかせる立派なお坊さまでしか。あるとき、村上天皇の御前で経典の講義をなされ、村上天皇はたいそう喜ばれ、源信和尚にご褒美を授けられました。源信和尚は、早速、その言褒美をお母さまに贈られました。「これでお母さんに恩返しができる。お母さんもさっと喜んでくれるに違いない。立派になった私を責めてくれるだろう」と、源信和尚にしてみれば、お母さまへの感謝の印として、ご褒美をそのまま届けられたのでした。
ところが、お母さまはご褒美を一切受け取られずにすべて源信和尚に送り返され、「あなたは名誉や地位を得るために仏門に入ったのですか。世の人々の助けとなるために、仏の教えを学ぼうとして比叡山に上ったのではありませんか」といった内容の書かれた手紙を添えられていたそうです。源信和尚はお母さまのお言葉によって自らの姿勢を恥じ、褒美の品々をすべて天皇にお戻しになりました。そして改めて仏道に真摯に向き合い、念仏の道を精進されたそうです。

常行大悲の益

源信和尚のお母さまは、源信和尚に対して「本当の感謝とは何か。ご恩に報いるとは何か」を、身をもってお示しになったのではないでしょうか。先はども述べましたが、どうしても私たちは自分優先の感謝を相手に押しつけて、それで恩に報いたと勝手に納得しています。それでは本当の「感謝」「恩」とは言えません。 そうすると、「私たちには恩返しも感謝もできないのでしょうか」とおっしゃるかもしれませんが、決してそのようなことを申しあげているのではありません。
”私から他者へのムダを、”他者から私へのヽ少として受け止められるところに、本当の感謝の心が語られてくるのではないでしょうか。言いかえますと、「恩」は私か誰かに差しあげるものではなく、私かさまざまな方からいただいたもの(いただいているもの)だということです。いただいた「恩」であることを知ってこそ、初めて「ありかたい」「もったいない」の心が生じるのです。
お念仏も同じです。私たちが「南無阿弥陀仏」と称えることは、「仏恩報謝」あるいは「報恩感謝」のお念仏だとよく言われますが、阿弥陀さまからいただいたお念仏であると知る(受けとめる)ことが、信心を得たということなのです(信知)。親鸞聖人は『教行信証』「信巻」に、阿弥陀さまの仰せを疑いなく聞き信じることができたものに具わる徳として「十種の利益」をあげられています。その八番目に「知恩報徳の益」があります。阿弥陀さまから私に掛けられた「ご恩」であると受け止められたものだけが、徳を報じていくことができるのです。さらに九番目には「常行大悲の益」とあります。「大悲」とは、阿弥陀さまがすべての生きとし生けるものを救済しようと願われた大きな慈悲の心です。「徳を報ずる」とは、阿弥陀さまからいただいた大悲の心を阿弥陀さまにお返ししていくことではありません。そもそもそのような大それたことが私にできるはずもありません。阿弥陀さまからいただいたお心を、私白身の依りどころとしてお念仏を称えていくこと、それが「徳を報ずる」ことなのです。源信和尚のお母さまがわが子に示されたのは、「世の人々に阿弥陀さまのみ教えを伝えていくことが、あなたにできる恩返しですよ」ではなかったでしょうか。
とはいえ、私たちはどうしても。自分”という立場を後回しにしてものを見たり考えたりすることができません。詰まるところ、。自分”を抜きにすることはできません。ただ、そのことに気づけるかどうかが重要なのです。自分の本当の心持ち・すがたをごまかさないで受け止めることが大切です。そこに初めて、阿弥陀さまから私に掛けられた願いの有り難さに気づかされるのです。西元先生の「念仏もうすところに、立ち上がっていく力があたえられる。どこまでも自分のことしか考えない、自分たちだけの幸せを求めてやまない、その浅ましいことに気づかされて漸愧の念と感恩の念がめぐまれる。そして及ばずながら、せめて出来るだけお役にたちたいと願うようになる。お念仏は、このような徳をもっているのでございます」のお言葉は、正に「仏恩報謝」のお念仏の心を表現されたものに他なりません。

自らのすがたを見つめ直すご縁

一つ付け加えますと、自らの無力さを痛感すると、人はなかなか他者(人・物)に向かっていく気力が失われてしまいがちです。

しかし、行動に移すことによって、現実には十分なことはできないと気づかされるのです。何もしないでいては、働愧の心も、感謝の心も起こりえません。それではいくら念仏を称えてみたところで、真の念仏者にはなれません。

ご門主さまが伝灯奉告法要でのご親教に、私たちはこの命を終える瞬間まで、我欲に執われた煩悩具足の愚かな存在であり、仏さまのような執われのない完全に清らかな行いはできません。しかし、それでも仏法を依りどころとして生きていくことで、私たちは他者の喜びを自らの喜びとし、他者の苦しみを自らの苦しみとするなど、少しでも仏さまのお心にかなう生き方を目指し、精一杯努力させていただく人間になるのです。

とおっしゃっています。お念仏のみ教えに出遇えたことを尊いご縁として、私白身も自らのすがたをあらためて見つめ直してみたいと思います。
(貫名 譲)

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