2021年表紙のことば 念仏となって 私の口から 現れてくださる み仏のはたらき

はじめに

表紙のことぼは、松野尾潮音師の言葉です。師は、一九ニー(大正十)年生まれで、愛知県岡崎市にある浄土真本願寺派明願寺の住職として門信徒を教化しつつ、一九九九(平成十二年にご往生されました。その間に、本願寺派の企画調査室室長や伝道院研修部長を歴任したり、地元の岡崎市の教育委員などを務めたりされています。
私は、恩師の武内紹晃先生のご縁で、同派の「布教講会」で一緒に仕事をさせていただきました。戦前・戦中・戦後という激動の時代を生き抜かれた師の人生は、ご苦労の多いものだったと思います。
私は、師の書かれた『仏教と浄土真宗』(本願寺出版社)を読んだことがあります。この表紙のことぼけ、伝道院研修部長の任にあった一九六五(昭和四十)年の文章の中にありますが、そこには世間的な価値観が急激に変化する時代と社会にどう対応しようかという思いが感じられます。

社会の変化

私か大学生になった一九七四(昭和四十九)年は、一九六〇年と一九七〇年の安保闘争という学生運動が終息しつつある時代でした。当時の社会では、若者を無気力・無関心・無責任の「三無主義」の世代と評価し、その後には無感動・無作法を加えて「五無主義」の世代とも評していました。戦争を体験しか世代の大人には、当時の若者たちが社会に対する積極的な情熱を持っていないように映ったのでしょう。
だから、この世代の若者を「しらけ世代」と総称しました。その後一九八〇年代には、自分かちの世代と社会に対する価値観が共有できない若者を「新人類」とレッテルを貼って呼びました。そのような若者の風潮は現代にも少なからず残っていて、影響を与えているように思います。
しかし、いつの時代でも、どこの世界・地域であっても、親の世代が感じる子どもたちの価値観は、「新人類」と呼ぶべきものではないでしょうか。それは世代が変わっただけで、それぞれが自己中心性(我執)の上にしか価値観をもっていないからでしょう。

念仏申す身となって

さて、私は表紙のことばを見た時、甲斐和里子さんのお念仏を喜ぶ二首の和歌、

  御仏をよぶわがこゑは御仏のわれをよびます御声なりけり
(『草かご』 二四四頁)

みほとけの御名を称ふるわが声はわがこゑながら尊とかりけり
(『同』 一八五頁)

が浮かびました。そして、「かたじけない≒もったいない」という思いが続きました。
彼女の和歌は、前者が二〇一三(平成二十五)年の九月、後者が二〇一四(平成二十六)年の一月の「法語カレンダー」に採用されています。私は、後者の縁で『心に響くことば』(本願寺出版社)にこれらの歌の味わいを書かせていただいていたので、思い合わせたのでしょう。
「念仏」とは、「私」の口をついて出てくる「南無阿弥陀仏」という声です。それを「称名」といいますが、それはみ仏が「私」を喚び続けるはたらきなのです。これを「名号」といいます。

「称名」と「名号」

浄土真宗では「南無阿弥陀仏」を、「称名」ともいい、「名号」ともいいます。この両者は一見してわかるように、「名」の字の位置が後と前という大きな違いがありまた。それらの経典が中国に伝来し、紀元前後から多くの方々の苦労によって、長い年月をかけて漢字に翻訳され続けました。徒歩以外に主な交通手段のない時代、シルクロードを通してインドの僧が中国に伝えたのです。その後、中国の僧がインドに求法の旅をされたのです。そのようにして翻訳に携わった僧をコニ蔵法師」と呼びます。その中には国禁を犯してまで仏典を求めた方がいます。それが、「玄奘」という三蔵法師です。孫悟空の『西遊記』で知られる玄奘三蔵は実在の人物なのです。
そのようにして漢訳された経典が日本にもたらされたのです。
私たち日本人は、本堂やお内仏で勤行する時には、漢訳された経典をそのまま拝読しているのです。一方、その内容を学ぶ時に、その漢文を和語として読み下したりします。漢文を和語としてどう読み理解するかで、種々な解釈と味わいが生まれたりするのです。
漢文では動詞の目的語はその動詞の後に置かれますので、「称名」とは「名を称する「こと」」と読み下すことができます。一方、「名号」が「名を号する[こと]」であす。
さて、インドで成立した経典はもともと主にサンスクリット語で書かれていましるならば「号名」となるべきですが、そうなってはいません。また、この「号」は略
字で本来は「號(ごう)」です。つまり、「號」は「虎」に関わるもので、虎が大声で自分の存在を十方に告げるために吠える様を意図しています。その意味で、「名号」とは名告
り主が大声で自己存在を告げている様です。端的に言えば、「名号」とは名告りです。
すなわち、阿弥陀如来が十方衆生に、この「私」に、自らの存在を「名」をもって名告り続けているのです。
また、「名号」については、伝統的に「すべての功徳を名に施す(全徳施名)」といわれます。すなわち、阿弥陀仏においては、その智慧と不一不二の大悲の「名告り」をもって衆生を「摂め取ること(摂取不捨)」こそが、仏のすべての功徳、如来の「いのち」をかけた願いであるというのです。それを踏まえた上で、敢えて漢語の「名号」を和語として書き下すならば、私は「名をもって号す[こと]」となると味わっています。しかし、阿弥陀仏の「名号」とは単に名を告げることだけではないのです。「名号」こそが私にとっては仏・如来そのものなのです。換言すれば、「私」の口にこぼれる「南無阿弥陀仏」の念仏こそ、「私」の「いのち」に寄り添う如来の願いそのものなのです。
さて、私たちは自分の親を「おかあさん」「おとうさん」と呼びます。しかし、どうして私たちはそう呼ぶようになったのでしょう。それは親の側が、赤ん坊は何もわかっていない、あるいはわからないのを承知の上で、生まれたばかりの「いのち」に向かって、「おかあさんよ」「おとうさんよ」と何度も喚びかけずにはおれず、名告り続けていたからでしょう。その名告り、喚びかけが「名号」なのです。その名号は、「ここにいるよ、心配するな」という親心であり、「お母さんとよんでくれ」という思いであり、「どんなことがあろうとも見捨てず、必ず育てる」という願いなのです。その願いが「私」に至り届いているからこそ、「私」の声となって「カアカア」「トオトオ」というように、「名を称える」ようになるのです。
時代が激変したとしても、また価値観に断絶を感じて親が子を「○○世代」などと評したとしても、この親心、親の願いは変わらないのではないでしょうか。

ある出来事を通して

たとえば、ドラマや映画を見ていると、迷子になったわが子を捜索するシーンがあります。捜索をしても見つからず、捜索隊員が拡声器を使って「OOちゃん」と子どもの名を叫んだりしでいます。たぶん、私たちも同じような行動を取ると思います。その場合、子どもの名を呼ぶ「私」は、子どもに返事を期待しているのではないかと思います。なぜなら、ふだん子どもの名を呼んだ時に返事をしないと、「聞こえたならば、返事をしなさい」と叱りますから。要するに、迷子のわが子の名を呼んで、その返事を聞き、「私」白身が安心したいのであろうと思います。
しかし、子どもの名を呼ばずに、「おかあさんよ」と叫びながら捜索する親の姿が㈲面に出てくる時があります。この場合でも子どもの返事を期待しているのでしょうが、もう一つ違う意味があるように思えます。それは、一人で不安なわが子に対して寄り添う親心が感じられるのです。つまり、「おかあさんよ」という名告りには、「私はあなたのことを忘れてないからね、一人ではないからね」という親心を感じるのです。それが「名号」なのではないでしょうか。
なお、私は迷子の子どもを探す時、「おかあさん」と呼ぶのが親心だと言いたいのではありません。また、どちらの探し方が正しいとか、そういうことを言いたいのではありません。自分の身に置き換えて味わってもらいたいだけです。

自己を知らされる

さて、お釈迦さまは私たちの生きている世界を「娑婆(サパー一忍土)」といわれました。この言葉は、古今東西、どんな制度の上でも人間が構築した社会(器世間)は苦悩を生み出すものであることを意味します。なぜならば、それを作りあげているのが、自己中心的な煩悩をもつ人間(有情世間)だからです。その点を、唯円房が著したといわれる『歎異抄』では、

煩悩具足(ぼんのうぐそく)の凡夫(ぼんぶ)、火宅無常(かたくむじょう)の世界は、よろづのこと、みなもってそらごとたは

ごと、まことあることなきに、ただ念仏のみぞまことにておはします
(『註釈版聖典』八五三~八五四頁)

というのです。親鸞聖人は、自らを「煩悩具足の凡夫」といわれ、そんな自己中心的な「私」が作り上げた世の中は真実ではなく、虚仮不実なのである、と仏・如来に知らされ、告白されているのです。
先の「しらけ世代」や「新人類」という表現も、当時の若者たちが他者との関係を嫌い、社会を無視する生き方をしているように見えたからでしょう。しかし、それは、戦前の全体主義や安保闘争への反感や反動だともいえます。身勝手な私たち凡夫は、ややもすると反動によって両極端に揺れてしまいます。そこには、今を生きる自己を見つめる視点が欠落していないでしょうか。悲しいかな、人間は自らを見つめることが苦手なのです。そして、無自覚に、「間違っている」のは自分以外の人であり、組織や社会であると決めつけています。

善導大師(ぜんどうだいし)は『観経疏(かんぎょうしょ)』「玄義分(げんぎぶん)」で、

これ経教はこれを喩ふるに鏡のごとし。 (『註釈版聖典(七祖篇)二二八七頁)

といわれています。「経」に顕された仏の教え(仏法)は、「私」を映し出す「鏡」のよ
うなものだといわれているのです。「南無阿弥陀仏」という仏の名告りこそが、「私」
のあり様を照らし続ける仏陀の「智慧」のはたらきであり、いつでもどこでも「私」
を見放さず寄り添い続ける如来の「慈悲」のはたらきに他ならないからです。如来
の「智慧と慈悲」のはたらきのすべてが、「南無阿弥陀仏」という名号となって届い
ています。
今を生きる自らの姿を知らないまま生きるということは、まさに「裸の王様」で
しかありません。自らのあり様を知らずして、いかに生きるかを考えても虚しくな

るだけではないでしょうか。お念仏申す日暮らしの中に如来の願いを聞き開きつつ、苦悩多い人生であっても如来のご恩を知り、感謝と慶びをもって生き抜かせていただきましょう。
以上のように、私は表紙のことば「念仏となって私の口から現われて下さるみ仏のはたらき」を味わいました。
(内藤 昭文)

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2020年法語カレンダー あとがき

親鸞聖人ご誕生八百年・立教開宗七百五十年のご法要を迎えた一九七三(昭和四十八)年に、真宗教団連合の伝道活動の一つとして「法語カレンダー」は誕生しました。門信徒の方々が浄土真宗のご法義を喜び、お念仏を申す日々を送っていただく縁となるようにという願いのもとに、ご住職方をけじめ各寺院のみなさまに頒布普及にご尽力をいただいたおかけで、現在では国内で発行されるカレンダーの代表的な位置を占めるようになりました。その結果、門信徒の方々の生活の糧となる「こころのカレンダー」として、ご愛用いただいております。
それとともに、法語カレンダーの法語のこころを詳しく知りたい、法語について深く味わう手引き書が欲しいという、ご要望をたくさんお寄せいただきました。本願寺出版社ではそのご要望にお応えして、一九八〇(昭和五十五)年版から、このカレンダーの法語法話集『月々のことば』を刊行し、年々ご好評をいただいております。今回で第四十一集をかぞえることになりました。

二〇二〇(令和二)年の「法語カレンダー」では、真宗教団連合結成五十周年を迎え、「わたしの歩み」というテーマを設け、これまで掲載した法語の中から、お念仏を称え人生を生きぬかれた先師の言葉を選定いたしました。本書では、これらのご文についての法話や解説を四人の方に分担執筆していただきました。繰り返し読んでいただき、み教えを味わっていただく法味愛楽の書としてお届けいたします。
本書をご縁として、カレンダーの法語を味わい、ご家族や周りの方々にお念仏のよろこびを伝える機縁としていただければ幸いです。また、各種研修会などのテキストとしても幅広くご活用ください。

二〇一九年八月
本願寺出版社

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2020年12月のことば 智慧・慈悲のはたらきそのものが「仏」なのです

はたらく仏さま

坂東性純師の言葉です。坂東性純師は、一九三二(昭和七)年、東京でお生まれになられ、東京大学の印度哲学科を卒業されました。その後、大谷大学、上野学園大学などで教鞭を執られます。当然専門は仏教学でしたが、ご自身、真宗大谷派の坂東報恩寺の住職でもいらっしゃいました。報恩寺は、親鸞聖人の主著『顕浄土真実教行証文類』の草稿本、言うところの坂東本を伝えてきた寺院としても有名です。師は、このご自坊でも熱心に法話を続けられ、広く一般の人々に聖人の教えを説かれました。二〇〇四(平成十六)年、七十二歳でご往生になられています。
この言葉をよく噛みしめてみると、不思議な味わいがあることに気づきます。「『仏』は智慧と慈悲となって、はたらいていらっしゃいます」とは表現されていません。「智慧・慈悲のはたらきそのものが『仏』なのです」といわれています。「『仏』は智慧と慈悲となって、はたらいていらっしゃいます」と表現した場合、どこか「仏」は遠いところにおられ、そこから「智慧」と「慈悲」となってはたらいておられるような、場合によっては疎外感を感じさせるような表現になりかねません。「智慧・慈悲のはたらきそのものが『仏』なのです」といわれると、仏は「はたらき」、言い換えると、この私の上で「はたらき続けて止まない」すがたとして味わうことができます。坂京師は『はたらく仏さま』(真宗大谷派東京教務所)という本のなかで、次のようにいかれています。

じっとしている仏さんは物体(真宗学で使う、ものの本質という意味ではなく、ここでは文字通り、「ぶったい」として物そのものという意味)なのです。対象化された仏さんです。この勣いてやまない仏様の実態は何かというと智慧と慈悲なのです。智慧と慈悲は一刻も休みなくはたらいております。智慧と慈悲の渾然一体としたはたらきが仏様であり、そのはたらきを「仏」というわけです。

このように書かれた続きに、表記の言葉が続くのです。端的に言えば、仏さまは「はたらき」であるというのです。

智慧の出でくるなり

親鸞聖人の言葉を通して、「智慧」と「慈悲」について昧わってみましょう。いまコニ帖和讃」に資料を絞って、これらの言葉がどのように使われているか調べてみます。「智慧」という言葉は十四例、「慈悲」は四例ほど見いだすことができます。
いま「智慧」については、最もなじみの深い「讃阿弥陀仏掲和讃」から見てみましょう。親鸞聖人は、重要な語句には左側にルビのような形で説明や漢字の読み方を付しておられ、これを左訓といっています。この豊かな左訓を味わうため、ここでは本願寺派から出版されている『浄土真宗聖典全書口』から引いてみます。

智慧の光明ぽかりなし
有量の諸相ことごとく
光僥かぶらぬものはなし
真賓明に蹄命せよ
(『浄土和讃』、『浄土真宗聖典全書口』宗祖篇土、三三七頁)

真宗高田派に伝えられてきた「国宝本」と呼ばれる和讃では、この部分にまことに豊かな左訓が施されています。このなか「智慧」という言葉については、次のように記されています。現代語表記に改めてみましょう。

  智は、あれはあれ、これはこれと分別して、思いはからうによりて思惟に名づ  く。慧はこの思いの定まりて、ともかくもはたらかぬによりて、不動に名づく。
不動三昧なり。                         (同頁、参照)

たいへん難しい言葉です。親鸞聖人は聖教を読まれるとき、言葉一つひとつ、漢字も一文字一文字を、きわめて注意深く正確に読んでいかれます。いまここで「智」という文字は、さますまなものを分別し、思いはからうという意味をあらわすといわれるのです。そのうえで、「慧」はこの分別が定まってあれこれ揺れ動かない、不動の意味をあらわすと書かれているのです。その両方の意味が込められているのが、「智慧」であるといわれています。
子どもが病気になったとき、親は心配で、何とか少しでもはやく直してやりたいと思います。小さな子どもはよく怪我をします。子どもがこけて怪我をしたとき、その怪我がどのような状態なのか、そのままでいいのか、家庭の薬を使うのか、一刻もはやく病院に行くべきなのか。怪我の場合は外科ですが、熱が出たりぐったりしているときは何科を受診させたらよいのか。親は、それらを見分けなければなりません。そのうえで、ここを受診すると決めた以上、迷ってはいけません。揺れ動いてはならないのです。
智慧のはたらきを、親鸞聖人は、法蔵菩薩の発願と修行、そして本願成就のすがたで味わっておられたのではないでしょうか。法蔵菩薩は、世自在王仏のもとで二百一十億の諸仏の国土をご覧になり、清浄の行をすべて摂め取られます。そのうえで四十八の願いをおこされ、一人もすくいからもれることのない、念仏往生の誓いが成就されているのです。「智は、あれはあれ、これはこれと分別して、思いはからう」のは、この「二百一十億の諸仏の国土」をご覧になり、思惟されたはたらきに当たります。そのうえで、念仏往生の誓いが成就されたからには、そのすくいの法は微塵も揺れ動くことはありません。このようなはたらきを「智慧」と味わっておられたのでしょう。
さらに和讃を見ますと、「智慧の念仏」とか「信心の智慧」という表現に出会います。いずれも『正像末和讃』にある言葉です。「智慧の念仏」とは、「智慧そのもののはたらきである念仏」という意味であり、「信心の智慧」とは、「信心という智慧。信心即智慧」ということなのでしょう。
ここで気をつけなければならないのは、智慧のはたらきをどこか遠いところに見てはならないということです。いま、ここで私か称える念仏、それがそのまま「智慧」のはたらくすがたなのであり、私か本願のこころを疑いなく聞き入れ、信順することが「智慧」を得ていることに他ならないのです。
同じ『浄土和讃』「讃阿弥陀仏掲和讃」の四首目を引いてみましょう。

光雲元尋如虚空
一切の有尋にさはりなし
光滓かぶらぬものぞなき
難思議に蹄命せよ       (『浄土真宗聖典全書口』宗祖扁上、三三八頁)

この和讃を味わう際にも、よく左訓に注意する必要があります。これについては「顕智本」と呼ばれる和讃に重要な左訓があります。「光澤」の洋の横に、「ウルオウ」と書がれてあります。「潤う」の意味です。ここは、よく誤解されるところで、「光沢を蒙る」といえば、なにか光に当たっているように考えてしまいがちです。
よく考えると「滓(沢)」は「さわ」ですから、それは「浅く水がたまり、草の生えている湿地」(『日本国語大辞典』)です。そして、この和讃の三句目「光滓かぶらぬものぞなき」全体を、「国宝本」では「光に当たるゆへに、智慧の出でくるなり」
(『浄土真宗聖典全書口』宗祖篇上、三三八頁、原片仮名、傍点・引用者)と左訓されています。「出でくる」というのは文字どおり、「徐々に出てくる」ということです。 こう考えると、親鸞聖人加味わっておられた「智慧」のはたらきとは、浄土と本願のいわれを聞き、仰せのとおりに念仏し信順しているこの私の上に、「智慧の潤いが生まれつつある」ということであったのでしょう。

釈迦・弥陀の慈悲

「慈悲」についても、二例ほど味わってみましょう。

釈迦・弥陀は慈悲の父母
種々に善巧方便し
われらが無上の信心を
発起せしめたまひけり        『高僧和讃』、『註釈版聖典』五九一頁)

(お釈迦さまと阿弥陀さまは、あたかも父母のような慈悲のお方です。さまざま巧みに我々を導いて、無上の信心を起こすように、はたらいておられるのです。)

釈迦・弥陀の慈悲よりぞ
願作仏心はえしめたる
信心の智慧にいりてこそ
仏恩報ずる身とはなれ           (『正像末和讃』、『同』六〇六頁)

(お釈迦さまと阿弥陀仏の慈悲によって、菩提心である、仏のさとりをひらこうというこころをいただくのです。信心の智慧をいただくことこそ、仏さまのご恩に報いているすがたなのです。)

これらを読んでみると、慈悲の味わいがよくわかります。お釈迦さまや阿弥陀さまの慈悲は、文字どおり、この私に「無上の信心」や「信心の智慧」を起こさせるはたらきであったのです。
こう考えて、もう一度、坂東性純師の言葉にかえってみましょう。

  智慧・慈悲のはたらきそのものが「仏」なのです (『はたらく仏さま』五九頁)

いま、この私の上で、「信心の智慧」となってはたらいていらっしやる阿弥陀さま。そして、必ず「信心の智慧」を得させようとはたらいておられる阿弥陀さま。そのはたらきの他、別に仏さまがおられるのではなかったのです。私たち一人ひとりは、みな、阿弥陀さまとともにあったのです。そう気づいて歩む人生が、親鸞聖人のいわれた仏道であったのでしょう。
(山本撮叡)

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2020年11月のことば 拝まない者も おがまれている 拝まないときも おがまれている

体験と言葉

車井義雄師の最晩年の詩集にある言葉です。このフレーズは一度だけでなく、何度か異なる詩のなかでも使っておられるようです。
東井義雄師は、兵庫県豊岡市にある浄土真宗本願寺派の東光寺でお生まれになりました。一九コー(明治四十五)年、四月九日のことです。宣]宗ゆかりのものは、宗教者として師を見ていきますが、師の略歴を見ますと、なんと言っても師の表の顔は教育者でした。インターネット上にあるホームページ『東井義雄記念館』には、その足跡が詳しく書かれています。小学校一年生での、母との死別。貧窮による旧制中学への進学断念。時代の勁きや流れのなかでの苦悩。決して順風満帆の生活を送られたわけではありませんでしたが、師範学校卒業後、一九七一一(昭和四十七)年の定年退職まで、四十年の長さにわたって教育に携わって来られました。
東井義雄師の言葉には、阿弥陀さまのご恩が語られていると同時に、師の深い体験も語られているのです。何の本であったか忘れましたが、若い頃、東井師の教員時代の次のような逸話を読んだ記憶があります。

弁当の時間になると、必ず何人かの生徒が、フッと教室から出て行きます。そ  の理由が、よく私にはわかります。彼らは貧しくて、弁当を持って来ることができないのです。黙って校庭で、水だけを飲んで時を過ごし、午後の授業が始まる頃、彼らぼそっと戻って来る……

こんな内容であったと思います。感性の豊かな師は、教員としてそのすがたを見ながら、何もしてやれないもどかしさに、どれほど苦悩されたことでしょう。師自身も旧制中学の試験に合格しながら、経済的な事情から父に反対され、進学を断念された経験があります。また、このような言葉もあったと思います。
貧乏なお寺の本堂には、ネズミがうろうろしている。ネズミたちは、お供えしてあるお仏飯にかじりつく。仏さまは何もなさらない。お仏飯をかじる不ズミに何もできない仏さま。こんな仏さまに何の力があるのだろうか……。ここにはむしろ、仏さま、仏法に対する懐疑の念が表明されています。小学校一年生で母と死別されたときの経験を、後に師は次のように語られています。
父の不在の時など、母が仏前に座しておつとめをするかたわらで、母をまねて「きみょうむりょうじゅにょらい……」と唱和しながら見上げる時の、母のなんともいえぬうれしそうな微笑は、今もあざやかに私の眼前にある。私は、それがうれしくて、母の顔をみいみい体をくっつけておつとめをした記憶がある。(中略)後年、ずいぶん仏にそむくような思想を追い求めた私であるが、結局、そむき切ることができず、仏の前にひきすえられて仏前にぬかずいた時、私は、仏の微笑の中に、母の微笑を見て頭があがらなかった。
(『わが心の自叙伝』、『車井義雄著作集』第七巻二三四頁)

「後年、ずいぶん仏にそむくような思想を追い求めた私であるが」と告白されています。それでも「そむき切ることができなかった」のは、その母の微笑の記憶ゆえであったのです。仏さまや教えに対する懐疑、それが仏さまとの決定的な決別に至らなかったのは、幼少時の記憶にある母の微笑のおかげであった。この告白は、宗教の本質がどこにあるかを雄弁に語っていると思います。車井師晩年の境地とその言葉は、このような経験を経てのものであったのです。

人生観の変化と円熟

この言葉が使われている詩を、鑑賞してみましょう。

  なんだかうれしく

「無理をせんといてください」

「無理をしないで休んでいてください」
腰が曲がって
ひどく小さくなってしまった老妻に
何べんも気づかってもらいながら
土手の草を刈る

何だか
うれしく
何だか
しあわせで……
「拝まない者も
おがまれている
拝まないときも
おがまれている」

「ここが
み手の
まんなか」

土手の草を刈らせてもらう

何だか
うれしく
何だか
しあわせで……。             (『東井義雄詩集』 一九九~二00頁)

この詩では、一組の老夫婦の日常が描かれています。土手の草を刈る私に、腰の曲がった老妻が声を掛けてくれるのです。
「無理をせんといてください」
「無理をしないで休んでいてください」
年老いた私を気遣う妻。
人は一生のなかで、そのときそのとき、人生観を変えながら生きています。皆、それぞれは忘れていても、二、三歳の幼児期には、私は世界をどのように見ていたのか。もっとさかのぼれば、胎児のときはどんな世界を見ていたのか。少年期、青年期、結婚や家族、子どもとの出会い、やがて孫に囲まれて……。皆が同じ道を歩むとは限りませんが、経験を積むと、歳相応に人生観も世界観も変わってきます。
少年期はもとより、教員となってからも、車井師は、たいへんなご苦労を続けられました。それらの経験を経て退職を迎え、全国に講演行脚に出られるようになり、師の人生観もまた円熟味を加えていったのでしょう。

「拝む」と「おがまれている」

右の詩にもどってみます。車井師は、老妻の声、その気遣いに喜びを感じておられることに、気をつけねばなりません。
私たちは、決して阿弥陀さまの恩や慈悲のはたらきを、直接知ることはできません。浄土や仏さまのすがたは「こころも言葉も及ばぬ」世界なのです。
「拝まない者もおがまれている拝まないときもおがまれている」というフレーズを見てみましょう。一句目と三部目の「拝む」は漢字です。二部目と四効目の「おがむ」はひらがなになっています。「拝む」という言葉は、第一義的には、礼拝する、手を合わせてお辞儀するという、私の動作をあらわす言葉です。「▽心に願う」「懇願する」「嘆願する」などの意味もありますが、これは真宗の味わいとしてはふさわしくないでしょう。とすると、右の「拝む」は、具体的には本堂やお仏壇、お墓参りなどのときにする、私たちの身体の動作と考えてよいでしょう。そう考えると、

一日のうちで私か拝んでいる時間は、ごくわずかしかありません。
日本語は便利な言葉で、漢字、ひらがな、カタカナを使い分けられます。右の詩で、漢字の「拝む」は私の動作です。それをひらがなの「おかか」にすると、よほど表情が柔らかになります。続いて「ここがみ手のまんなか」とありますから、もちろんこの「み手」は仏さまの「み手」をあらわしています。「おがむ」というはたらきは、あくまで仏さまのはたらきなのです。さらに気をつけなければならないのは、「み手のまんなか」ですから、仏さまは手を合わせて私を拝んでいらっしやるのではなく、「み手」のなかにこの私を包み込んでいらっしゃる、というのです。「み手」というのは、もちろん比喩、象徴的な表現で、阿弥陀さまの大いなるはたらきをあらわしています。

阿弥陀さまの大いなるはたらき

繰り返しになりますが、車井師は仏さまの「み手」を直接感じ取っておられるのではありません。「無理をせんといてください 無理をしないで休んでいてください」という、妻の声の上に、仏さまのはたらきを味わっておられるのです。そしてここでは、妻の声を契機として「うれしさ」「しあわせ」が語られていますが、匹十年の教員生活で出会われたであろう幾多の人々。教え子、同僚、また幼い頃「正信掲」を勣めたとき。それらすべてが、私に大いなるはたらきを知らせてくれるすがたであったという境地が、ここで語られているのでしょう。
「拝まない者も」とありますから、これを「拝んでいないときの私」と読むこともできます。一般化して「拝むことを知らない者」と読むこともできます。両方の意味を兼ねているのでしょう。そうすると詩の最初二句は、「拝んでいないときの私も、いまだ拝むことすら知らない人も、大いなる仏さまのはたらきのまんなか」という意味になります。これは阿弥陀さまの大いなるはたらき、その広大無辺の側を詠嘆したものとも言えましょう。
「拝まないときも」は、文字どおり時間をあらわしています。先ほど私は、拝むことを私の身体の動作と言いましたが、心で仏さまを思うことも含めてよいのではないかという疑問も湧いてきます。しかし、私の心の「思い」は、喜怒哀楽、私の感情の動きの一つですから、やはりここは善導大師のいわれる、読誦・観察・礼拝・称名・讃嘆供養の五正行のなかの一つである「礼拝」と見ておきたいと思います。そうすると私たちは一日のうち、「拝んで」いないときがほとんどしょう。
東井先生がどこかで、体中毛の一杯生えた毛虫、モゴモゴとどこかユーモラスな動きをする毛虫が、あぜ道をあっちへ行き、こっちへ行きしているすがたを見て、そこに私たちのすがたを投影していらっしゃった詩を、読んだことがあります。そのように、うろうろしているばかりの私。そんな私を休むことなく「おがんで(つつみこんで)」おられる阿弥陀さま。これは大悲無倦の徳をあらわしたとも読めます。 これは、さまざまな経験の上に到達された、東井先生最晩年の味わいの言葉なのでした。
(山本撮叡)

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2020年10月のことば 念仏とは 自己を発見することである

他人事の分析的知識

徳聞書店刊行『歎異抄』のなかで、金子大茶師が使われた言葉です。
親鸞聖人の教えや教学は、何より聖人ご白身の著作によって学ばねばなりません。
さらにはその背景となった、七高僧をはじめ、聖人が引用された膨大な著作をも視野に入れて、親鸞聖人の領解・味わいを味読するのが王道でしょう。ただ、それができなければ念仏はわからないのかといえば、そうではありません。二文不知」と呼ばれたような文字一つ知らない人であっても、すぐれた学匠よりはるかに深い味わいをいただいておられます。妙奸人の言葉が、それを証明しています。そこに、学問と信仰の違い、宗教の不思議と難しさがあります。
金子大楽師は、清沢満之師らから始まった近代真宗教学運動の影響下、同郷の曽我量深師らとともに活躍された、真宗大谷派の学僧です。清沢師が東京大学の哲学科を卒業されたことからもわかるように、この方々の言葉は、伝統的な宗学の枠にはまらず、哲学的な思索と密接な関係を保ちつつ、他に例のない独特の表現で真宗を語られました。
「念仏とは自己を発見することである」(『同』四六頁)。この言葉を読んで、多少なりとも真宗に関わりのある人でも、即座にその意味するところを理解できる人はないでしょう。どのような文脈のなかで、何を言うためにこのような表現をされたのか、しばらくそれをうかがってみましょう。

  多くの人の思いでは、仏というものがあり、自分というものがあって、それを  結びつけるものが念仏ともいい、信心というものでもある こう考えており  ますけれども、それはいわゆる分析的な知識なのでありましょう。
(『歎異抄』四五頁)

この言葉の直前で、金子師はこう語っておられます。向こうに仏の存在があり、それに対して自分がいる。その両者を結びつけているのが、信心であり念仏である。このような考えは「分析的な知識」であると、師は述べられます。「分析」とは、ものをさまざまな要素に分けて、その関係を明らかにすることでしょう。仏さま、仏さまとは何か。私、私は何ものか。信心、念仏、これらはそれをどう結びつけるのか。このように考えることを、「分析的な知識」と師はいかれるのでしょう。
子どもの頃、風邪をひくと、小さなお盆にお粥や梅干し、卵などを載せ、母が枕元まで運んでくれました。
「起きるのがしんどいでしょう。今日はここで食べなさい」
狭い家で、居間へ行くのにそれはどかかる訳でもないのに、なぜかそれが習慣でした。私の密かな楽しみでもありました。 子どもは、何かいつもと変わったことがあると、無性にうれしいものです。お正月三が日、赤い塗りのお椀で食事をいただくのも、楽しい出来事でした。三日目の夜、

「今晩はもう、普通のお椀にしよう」
と父が言ったとき、とても悲しかったことを覚えています。いつもと違って、病気だから、今日はここで食べられる。いま考えると、祖母や家族に風邪をうつさないようにとの配慮があったのかも知れません。何も知らないまま私は、母の運んでくれた「病人食」を食べていました。
ここでもし、分析を始めたらどうなるでしょう。
今日の「病人食」のメニューは何だろうか。栄養のバランスはとれているだろうか。母はどのようにつくってくれたのか。お盆は何を使うだろうか。私の病気はどんな状態なのか。病気を治すのに十分な栄養があるだろうか……、書き出したらいくらでも続けられます。けれども、いくら続けても、そこに私の密かな楽しみはありません。母のこころもわかりません。要は、分析はあくまで「他人事」の連続でしかなかったのです。

 

道理と事実

また、金子師は「念仏とは自己を発見することである」と書かれた後半で、次のようにもいわれます。
本願のいわれということばがありますが、本願というものは、それを聞けば、いかにもごもっともであるとうなずかずにおれないところの深い道理をもった  ものであります。本願はいわれです。体は、この身の事実です。だから、本願とは、われらのそれにうなずいていかなければならないいわれでありますし、体とは、われわれがそれを実践していかなければならない、身にうけていかなければならないところの法であり、のりであるこういっていいのであります。                        (『歎異抄』四九~五〇頁)
少しわかりにくい表現があります。ここに引用はしませんでしたが、この文脈の冒頭、師は、

  如来の本願を説きて経の宗致とす、すなはち仏の名号をもって経の体とする
なり。             (『教行信証』「教巻」、『註釈版聖典』 一三五頁)

という、親鸞聖人の『無量寿経』についての領解を前提に話を進めておられます。『無量寿経』の教え、その最も大切なところ、「宗」は本願です。本願は阿弥陀さまの「願い」「誓い」「約束」です
から、それは実現されなければなりません。その実現されたすがたが「体」、すなわち名号であり、十方の衆生が称えるところの念仏であるというのでしょう。そこで、右の「体は、この身の事実です」とあるのは、念仏申している私のすがたは本願を疑いなく受け入れているすがたであり、朧として動かしがたいものであるから、「事実」と表現されたものかと思います。
「本願のいわれ」とは、本願は「なぜ」「だれのために」「どのように」起こされたのか。またそれが「どのように」成就されているのかということでしょう。
祖母の苦労
よくお話しするのですが、私の母の口癖は「親孝行、したいときには親はなし」でした。本当にいつも、時と所を構わず口にしていました。あまりによく耳にするものですから、馬耳東風、なにも気にとめず、ずっと聞き流していました。
「なぜ同じ言葉を繰り返すのだろう」
「何を言いたいのだろう」
ひょっとすると、「私か元気なうちに、お前もよく親孝行しておくのだよ」という意味だろうか、などと考えたりしていました。私か母の気持ちに気づいたのは、ずっと後になってのことでした。
私の母は、琵琶湖畔の農家の生まれです。八人兄弟の次女でした。母の生みの母、
顔も知らない私の祖母は、若くして病死しています。働き手として若い女性のいない農家は、一日も成り立ちません。間を置かずに祖父は再婚し、新しい母を迎えました。その母から、男女二人、弟と妹が生まれます。昔ならよくある話でした。
母が亡くなって後、これらのことを考え合わせ、ようやく私は母の気持ちがわかったのです。義理の母と異母兄弟。さますまな葛藤があったことと思います。若い私には、それを想像ができませんでした。「親孝行、したいときには親はなし」。これは旅行や外食はもとより、何の娯楽も知らないまま、農家に嫁いで苦労を重ね、若くして亡くなった母。その自分の生母を想う言葉だったのです。

真実の私の誕生

金子師がいかれた「念仏とは自己を発見することである」を、以上の文脈からまとめてみましょう。
私たちがものを知るのに、二つの種類があります。理解することと体験すること、言い換えると味わうということです。理解するという金子師がはじめにいわれた表現によると、「分析的に」知ることは一応の理解力があれば可能でしょう。しかし、その方法はいくら時間をかけてもあくまで対象を向こうに見ることであって、距離を詰めることはできません。
いま、私はなぜ念仏しているのか。本願の起こり、本願は「なぜ」「誰のために」「どのように」起こされ、「どのように」成就されているのか。大ごととして聞くのでなく、私こそが目当てであった、むしろ「私一人のため」の本願であったと、心に響いて領解されたとき、私は念仏せずにおられません。そのように念仏している私は、いままでの私とは違います。愚痴と煩悩のなかでしか生きていなかった私か、愚痴と煩悩が恥ずかしいことであったと気づかされる。そこに新しい私、真実の私か誕生するのです。そこを金子師は、「念仏とは自己を発見することである」といわれたのでしょう。少し丁寧な表現に変えれば、「念仏とは真実の自己を発見することである」ということではなかったでしょうか。
讃岐の庄松さんに、ある人が、 「仏をたのむとはどういうことか」
と尋ねたとき、庄松さんは、
「お前さんは、仏をたのんだことがないとみえる」
と答えられたのが、このことを如実にあらわしています。仏さまは、「分析的に」知る世界ではなかったのです。
(山本撮叡)

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2020年9月のことば 自分のあり方に痛みを感ずるときに 人の痛みに心が開かれる

心に感じる痛み

私は大学のソフトボールの試合をときどき観に行きます。面識のある保護者の方々と、選手の調子や対戦相手の状況などを話しながら観戦します。保護者の方は、わが子たちのプレーに一喜一憂しながら、勝てば歓喜の笑みを浮かべ、負ければ悲しみを抱きつつ、次の目標に向かって切り替えようと励まし合われます。そこには、保護者同士、お互いに同じ思いを共有されている光景が広がっています。ほとんどの選手は小学校からソフトボールを続けています。ですから、わが子加活躍したときのうれしさも、失敗したときの悔しさ・申し訳なさも、幾度となく体験されてきた親御さんばかりですから、お互いに相手の気持ちが理解できるのです。
このように、私たちは自らが体験したことのある同じ状況に他の人が置かれたときは、自分目身を相手に投影させて(シンクロさせて、相手の心持ちを慮ることができます。今月のことば「自分のあり方に痛みを感ずるときに人の痛みに心が開かれる」は、九州大谷短期大学名誉教授であった宮城顎先生の『他人さえもいとおしく』(九州大谷文化センター)にあるお言葉です。宮城先生は、

  自分のあり方に痛みを感ずるときに、人の痛みに心が開かれる(中略) 一人一 人には、他の人にはわからない心の痛み、その重さがあるということが、わかるということです。                       二五頁)

と述べられています。
たとえば、親(子)を亡くし、何一つ親孝行できなった(親らしいことができなかった)と、自分白身に痛みを感じている人は、親(子)を亡くして悲しんでおられる人の心の痛みを感ずることができます。しかし、その経験のない人は、悲しいという気持ちを推し量ることはできても、どれはどの悲しみかを感じることはできません。自らが痛みを感じるとき、その人は悲しみに沈んでおられる、あるいは立ち直ろうとされている人の痛みを、我がこととして感じることができるのです。

 

REMEMBER PEARL HARBOR! の教訓

 

話は変わりますが、私は広島に生まれ育ちました。小学生の頃から、学校で「平和学習」という授業がありました。平和公園や原爆ドーム・平和記念資料館にも、何度も訪れました。
身内の体験談も聞きました。祖母(父方)は、原爆が投下されたときお寺にいて、爆風で倒壊した建物の下敷きになりました。たまとま近くを通りかかった人に助け出されて一命を取り留めましたが、その後も亡くなるまで後遺症に悩まされました。祖父(母方)は海軍に所属しており、潜水艦に乗って赤道直下の方までよく行っていたそうです。八月六日には、たまたま山口県の岩国に帰還していました。もし国外で終戦を迎えていたら、日本仁戻ってこられなかったかもしれません。両親からも疎開していたときのこと、戦中・戦後のことを聞きました。

また、原爆の日には、毎年、平和公園内の原爆供養塔前で、いくつかのお勤めが行われています。広島市内の中心部に位置する本願寺派の広陵東組・広陵西組においても、八月五日の夜には、僧侶やご門徒さんなどの関係者が原爆ドームそばのお寺に集まってお勤めをし、供養塔前まで提灯行列をして、そこで原爆死没者のお逮夜法要を勤修しています。このような環境のなかで私は育ちましだから、平和についての思いもそれなりに持っていると思っていました。
ところが、私自身、”本当の平和とはなにかとを考えさせられたことがありました。いまから二十数年前になりますが、龍谷大学の研究の一環で、先生や大学院生たちと一緒に本願寺派の(ハワイの開教区を訪れる機会をいただきました。そのとき、私たちは(ハワイの開教使の先生にアメリカ軍の基地内を案内していただきました。
いろいろ見て回るなかで、古びた建物の外壁に、穴と言いますか、くぼみのようなものが幾つも空いているのに気づきました。けじめは、。なんとも変わったデザインだな”と、〃老朽化が進んで穴が空いたのかな”などと呑気なことを考えながら見て回っていましたが、どうしても気になったので、開教使の先生に尋ねました。
そうすると先生は、「これは真珠湾攻撃のときの弾丸の跡です。取り壊したり修繕したりしないのは、そのときのことを忘れないようにするためです」と教えてくださいました。その話を聞いて私は、(ワイの人々にとっての「REMEMBER PEARL HARBOR!(真珠湾を忘れるな!)」がどれだけ大きくて、深い憤りと悲しみをいまだに残しているかを感じました。私は、戦争がもたらす悲しみは、立場が違っても同じであると思いました。と同時に、私は”お主えは戦争による本当の痛み・悲しみとは何かを真剣に捉えようとしていたか”。生半可なうわべだけの平和しか見ていなかったのではないかと、「本当の平和とは何か」をつきつけられたように感じました。
戦争は敵も味方も関係ありません。それに関わったすべての人々に深い悲しみをもたらします。戦争はしてはいけない、それは誰もがわかっていることだと思います。戦争という手段では、何の解決も導かれません。握造されたり作為的に書きかえられたりした歴史に触れても何にもなりませんが、歴史の事実を直視することによって、戦い・争いは問題を解決する有効な手段とはならないことに気づかされます。自らに痛みを感じることができる人は(被害を受ける悲しみだけでなく、相手を傷つけてしまう・殺めてしまうと感じる痛みもあります)、相手が受けた(あるいは受ける)心の痛みを知ることができるはずです。そこに初めて戦争は無益なものだとうなずかされてくるのではないでしょうか。

 

自らの痛みと他者の痛み

 

自らに痛みを感じない人は、相手の痛みを感じることができません。ずいぶん前になりますが、ある方が広島の赤十字・原爆病院を訪問し、「病は気からと言いますから、気をしっかりと持ってください」と、原爆症で苦しんでおられる方々に声を掛けられました。その言葉に被爆者の方々は、言葉であらわせない深い悲しみを抱かれたそうです。なぜなら、原爆による後遺症は、ふつうの病気やけがによるものとは違います。言葉をかけたその方も戦争を体験された一人です。身をもって戦争による悲しみ・痛みを感じておられるであろうはずなのに、間違ったお見舞いの言葉を掛けてしまうということは、自らの痛みとして感していない人としか言い様がありません。自ら痛みを感じていないのですから、相手の痛みを感じられないのも当然ですよね。逆に、結果的に自らの研究が原爆製造に力を貸すことになってしまったアインシュタイン博士は、日本の人々に対して「申し訳ない」との思いを抱いておられたそうです。それは、自らの研究が人類の役に立つと思って疑わなかったけれども、幸福をもたらす道具とはならずに悲劇を生む元を作ってしまったという漸愧の思いを、自らの痛みとして感じておられたからだと思います。だからこそ、多くのいのちが失われ、後遺症に苦しんでおられる方々の痛みを、重く受け止められたのだと思います。争いからは、決して安らぎは生まれません。争いは争いを生かだけで絶えることがありません。その連鎖を断ち切らない限り、真の安らぎは訪れません。

偉そうなことを言っていますが、私は非常に性格が短気です。些細なことでも、つい頭に血がよって”カーツ”となってしまいます。気がつけば近くにあった物を投げつけたり、壊したりしてしまうこともあります。そのあと少し冷静になって感じることは、自らがとった言動に対しての後悔です。。なぜその二日を言ってしまったのだろう刀”どうしてあんなことをしたのだろうと。ときにはその逆もあります。なぜ、その一言を掛けてあげられなかったのだ。どうしてあのとき、行動に移せなかったのだと。ただ、私か気付けている自らの反省すべき言動は、ほんの一部だと思っています。なぜなら、後で周りの人から叱責されて、初めて気付くことが何度もあるからです。

 

他者の痛みを自らの痛みに

 

悪性さらにやめかかし
こころは蛇蝸のごとくなり

修善も雑毒なるゆゑに
虚仮の行とぞなづけたる

無漸無愧のこの身にて
まことのこころはなけれども
弥陀の回向の御名なれば
功徳は十方にみちたまふ             (『註釈版聖典』六一七頁)

(悪い本性を抑えることなどできるはずもない。その心はまるで蛇や蝸のようであり、たとえ善い行いをしても、煩悩の毒がまじっている。だから、その行いはいつわりの行と呼ばれている。 罪を恥じる心がないこの身には、まことのこころなどないけれども、阿弥陀仏があらゆるものに回向してくださる名号であるから、その功徳はすべての世界に満ちわたっている。『三帖和讃(現代語版)』 一八三頁)

このご和讃は、親鸞聖人の『正像末和讃』「愚禿悲歎述懐讃」のなかの二首です。私の心は正に蛇や蝸のたとえで示されるように、他人を傷つけてしまう邪悪な心の持ち主でしかありません。しかも後悔できればまだいい方ですが、ほとんどの場合、自らが取った言動を顧みることもしません。そんな私か「争いはよくない」と言ってみても、それは痛みを感じないものでしかありません。痛みを痛みとして感じることができない、それが私の本性なのです。しかしそんな私に、。なかなか痛みを感じられない私であるμと気づかせてくださるのが、「南無阿弥陀仏」のみ名をもって私に掛けられている阿弥陀さまの願いなのです。
相手を傷つけてしまうことは悲しみであると感じられるようになれば、おのずと相手の気持ちを感じることができるようになると思います。いまも世界のあちらこちらで、紛争やテロが起こっています。自分の愚行が他人を傷つけてしまうことに痛みを感じられる人は、紛争やテロによってどれだけの人が悲しむかを知ることができるのではないでしょうか。私は、広島でも(ワイでも、多くの方々が国籍に関係なく一緒に手を合わせておられる様子をみてきて、勝者も敗者もない、ともに「南無阿弥陀仏」のご縁に遇わせていただく、それがお念仏の世界だと思っています。
(貫名 譲)

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2020年8月のことば 念仏もうすところに 立ち上がっていく力があたえられる

報恩知徳の道

今月のことばは、西元宗助先生が『み仏の影さまざまに』(樹心社)のなかで述べられた一文です。
酉几先生は、『歎異抄』第四条について触れられた後で、

けだし、聖人がここで「念仏もうすのみぞ」と仰せになる、その念仏の意味  はじつに無上甚深でありまして、称名念仏こそは実は如来の大行であり、その大行たる如来の本願念仏をわが身にいただくことが大信、即ち他力の信心であり、したがってまた大菩提心であり、大慈悲心をたまわることであるのでありました。だからこそ「念仏もうすのみぞ、すえとおりたる1最後まで⊇貝した、徹底したI大慈悲心にてそうろふべき」と仰せになられたのでありました。(中略)

要するにです、念仏もうすところに、立ち上がっていく力があたえられる。
どこまでも自分のことしか考洸ない、自分たちだけの幸せを求めてやまない、その浅ましいことに気づかされて、噺愧の念と感恩の念がめぐまれる。そして及ばずながら、せめて出来るだけお役にたちたいと願うようになる。お念仏は、このような徳をもっているのでございます。
いや、それに、わたしのいささがな経験でも、ひとを救おう助けようと思うことは、まことに結構なことに違いありませんが、しかし気をつけないと、助けよう救おうと思うこころが、いつのまにか思いあかっか傲慢心になっていて、人を救い助けるどころか、却って人とのあいだを疎遠にしてしまっていたということも経験しております。だから、いちばん大事なことは、私ども自身が世のひとびと、即ち人さまのご恩を感じることにあるようでありまして(中略)まことに念仏もうすということは、仏恩報謝の念仏という言葉もありますように、われら忘恩の煩悩具足の凡夫が、み仏のご恩を感じさせていただき、また人さまのご恩を感じさせていただく世界-境涯でありましょう。そしてそのあらゆるもののご恩を感じさせていただくことこそが、凡夫の大菩提心、凡夫の度衆生心をなりたたしめる根源1本願力廻向であることを思うにつけ、われら凡夫におきましては、ただ念仏で、他力廻向の大信心を讃嘆させていただくばかりなのでございます。けだし本願を信じ念仏もうす信心のほかに凡夫の知恩報徳の道はないからであります。         (一三七~一三九頁)

と、述べられています

源信和尚のお母さま

現実に目を向けてみますと、私たちはいろいろなところ・場面で、「感謝」とか「恩返し」という言葉を用いています。たとえば、何か目標を達成できたときに、「お世話になった方々に対して、これで恩返しができたかなと思います」「感謝しています」などです。それは本心からの素直な表現だと思いますが、私は”本当に感謝しているのかな”とか。恩返しできたって言ってるけど、それって自己満足でしかないんじゃないかな刀などと思うときがあります。私の受け止め方が間違っているのかもしれませんが(性格が素直でないのかもしれませんが二、どことなくすっきりとしない感情を抱いてしまいます。私は、世間一般的な「感謝」とか「ご恩」の使用は、「私はうれしい。だから○○も喜んでくれる」というように、「他者」よりも「自分」が優先されているのではないかと考えます。
平安時代、源信和尚は『往生要集』を著されて人々にも念仏往生を勧められましたが、お若い頃のエピソードとして次のようなお話が残されています。
源信和尚は、若くして比叡山でもその名をとどろかせる立派なお坊さまでしか。あるとき、村上天皇の御前で経典の講義をなされ、村上天皇はたいそう喜ばれ、源信和尚にご褒美を授けられました。源信和尚は、早速、その言褒美をお母さまに贈られました。「これでお母さんに恩返しができる。お母さんもさっと喜んでくれるに違いない。立派になった私を責めてくれるだろう」と、源信和尚にしてみれば、お母さまへの感謝の印として、ご褒美をそのまま届けられたのでした。
ところが、お母さまはご褒美を一切受け取られずにすべて源信和尚に送り返され、「あなたは名誉や地位を得るために仏門に入ったのですか。世の人々の助けとなるために、仏の教えを学ぼうとして比叡山に上ったのではありませんか」といった内容の書かれた手紙を添えられていたそうです。源信和尚はお母さまのお言葉によって自らの姿勢を恥じ、褒美の品々をすべて天皇にお戻しになりました。そして改めて仏道に真摯に向き合い、念仏の道を精進されたそうです。

常行大悲の益

源信和尚のお母さまは、源信和尚に対して「本当の感謝とは何か。ご恩に報いるとは何か」を、身をもってお示しになったのではないでしょうか。先はども述べましたが、どうしても私たちは自分優先の感謝を相手に押しつけて、それで恩に報いたと勝手に納得しています。それでは本当の「感謝」「恩」とは言えません。 そうすると、「私たちには恩返しも感謝もできないのでしょうか」とおっしゃるかもしれませんが、決してそのようなことを申しあげているのではありません。
”私から他者へのムダを、”他者から私へのヽ少として受け止められるところに、本当の感謝の心が語られてくるのではないでしょうか。言いかえますと、「恩」は私か誰かに差しあげるものではなく、私かさまざまな方からいただいたもの(いただいているもの)だということです。いただいた「恩」であることを知ってこそ、初めて「ありかたい」「もったいない」の心が生じるのです。
お念仏も同じです。私たちが「南無阿弥陀仏」と称えることは、「仏恩報謝」あるいは「報恩感謝」のお念仏だとよく言われますが、阿弥陀さまからいただいたお念仏であると知る(受けとめる)ことが、信心を得たということなのです(信知)。親鸞聖人は『教行信証』「信巻」に、阿弥陀さまの仰せを疑いなく聞き信じることができたものに具わる徳として「十種の利益」をあげられています。その八番目に「知恩報徳の益」があります。阿弥陀さまから私に掛けられた「ご恩」であると受け止められたものだけが、徳を報じていくことができるのです。さらに九番目には「常行大悲の益」とあります。「大悲」とは、阿弥陀さまがすべての生きとし生けるものを救済しようと願われた大きな慈悲の心です。「徳を報ずる」とは、阿弥陀さまからいただいた大悲の心を阿弥陀さまにお返ししていくことではありません。そもそもそのような大それたことが私にできるはずもありません。阿弥陀さまからいただいたお心を、私白身の依りどころとしてお念仏を称えていくこと、それが「徳を報ずる」ことなのです。源信和尚のお母さまがわが子に示されたのは、「世の人々に阿弥陀さまのみ教えを伝えていくことが、あなたにできる恩返しですよ」ではなかったでしょうか。
とはいえ、私たちはどうしても。自分”という立場を後回しにしてものを見たり考えたりすることができません。詰まるところ、。自分”を抜きにすることはできません。ただ、そのことに気づけるかどうかが重要なのです。自分の本当の心持ち・すがたをごまかさないで受け止めることが大切です。そこに初めて、阿弥陀さまから私に掛けられた願いの有り難さに気づかされるのです。西元先生の「念仏もうすところに、立ち上がっていく力があたえられる。どこまでも自分のことしか考えない、自分たちだけの幸せを求めてやまない、その浅ましいことに気づかされて漸愧の念と感恩の念がめぐまれる。そして及ばずながら、せめて出来るだけお役にたちたいと願うようになる。お念仏は、このような徳をもっているのでございます」のお言葉は、正に「仏恩報謝」のお念仏の心を表現されたものに他なりません。

自らのすがたを見つめ直すご縁

一つ付け加えますと、自らの無力さを痛感すると、人はなかなか他者(人・物)に向かっていく気力が失われてしまいがちです。

しかし、行動に移すことによって、現実には十分なことはできないと気づかされるのです。何もしないでいては、働愧の心も、感謝の心も起こりえません。それではいくら念仏を称えてみたところで、真の念仏者にはなれません。

ご門主さまが伝灯奉告法要でのご親教に、私たちはこの命を終える瞬間まで、我欲に執われた煩悩具足の愚かな存在であり、仏さまのような執われのない完全に清らかな行いはできません。しかし、それでも仏法を依りどころとして生きていくことで、私たちは他者の喜びを自らの喜びとし、他者の苦しみを自らの苦しみとするなど、少しでも仏さまのお心にかなう生き方を目指し、精一杯努力させていただく人間になるのです。

とおっしゃっています。お念仏のみ教えに出遇えたことを尊いご縁として、私白身も自らのすがたをあらためて見つめ直してみたいと思います。
(貫名 譲)

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2020年7月のことば 人間は死を抱いて 生まれ 死をかかえて成長する

死のカウントダウン

今月のことばは、信國淳先生の「人間は死を抱いて 生まれ 死をかかえで成長する」です。信國先生は、一九〇四(明治三十七)年に大分県宇佐市にお生まれになり、一九八〇(昭和五十五)年にお亡くなりになりました。先生は、東京帝国大学(現・東京大学)仏蘭西文学科をご卒業なさり、大谷大学教授、大谷専修学院長を務められた方です。
この言葉は、『信國淳 選集』第六巻「浄土-個人と衆生-」(柏樹社)に収」一{られている「浄土(コー仏教の身土観-)の一文です。
信國先生は、

私どもの身体は生きる始めをもつとともに、また死ぬる終わりをもつ身体であように私どもは、死ぬべき身としてこそ生を始めるのであって、死なぬ身、不死身として生きるのではない。死をよそにして生きる身体というものはない。人間は死を抱いて生まれ、死をかかえて成長する。死はこの身において成熟する。若い頃のものの見方、考え方と、年取ってからのそれとはすっかり違うというが、違うのが当然で、身の中にある死の成熟の度合いが違うのである。(中略)死はこの身の老いに従って、この身の内に成熟し、病を通してこの身の内から現実に近寄る。老・病・死する身として私どもは生まれ、かつ生きているのである。                           (二四頁)

と述べられています。
このなかで、「死ぬべき身としてこそ生を始める」とあらわされておりますが、私たちは、この世に生を受けたときから死のカウントダウンが始まります。小さないのちが誕生したとき、周りの人たちは祝福をします。誰も「この子のいのちの終わりが、いま始まった」などと思う人はいません。信國先生のお言葉は、私たちはみな生老病死の苦しみから逃れることはできない、その現実を生きているのである、ということをお示しくださっているのではないでしょうか。「死」を遠ざけて「生」しか見ようとしないものは、「生」の意義を考えることはできません。

「死」はわからない

さて、私は大学で「宗教」「仏教」に関連しか授業を担当しています。そのなかで「生と死」「死と生」について、一般社会における捉え方から宗教・仏教的な見方に至るまで、私の思うところを織り交ぜながら学生さんにお話をしています。大半の学生は、どうしても学問的な観点で「生」と「死」を捉えようとする傾向が強く見られます。大学の授業ですから、学問的観点からのアプローチで何の問題もありませんが、「いのち」については、他の学問とは違う捉え方・向き合い方をしてほしいと思ってお話をしています。しかし、学生さんには自らの切実なる思いとしては捉えにくいようです。考えてみれば、それは当たり前といえば当たり前の話なのです。二十歳前後の若者に、コこの世に生まれてきたものは、いつかはその終わりを迎えるのです」と言っても、いま、まさにいのちを謳歌している若者に、「死」について語っても真剣に考えるはずはありません。私は、授業を担当しけじめの頃は、「どうしてわからないかな」「なぜ真剣に考えようとしないのかな」と、なんとも言えないもどかしさを抱えながら授業をしていました。
ところが何年か経ったころです。年度始めにいつものように授業の見直しをしていたとき、話をしている私自身も、「死」はわからないということに気づきました。なぜなら自分自身の身体で「死」を実感したことがないからです。授業で偉そうに言っても、自分自身の体験としての「死」を体験しかことがない私の言葉は、それこそ「どこかの本に書かれてあった」とか、「どなたかがお説教でお話になっていた」言葉の受け売りでしかありませんでした。僧侶という立場上、多くの方々よりはご葬儀に接する機会がたくさんあります。しかし、一つひとつのご葬儀を通して「いのち」を切実な問題として考えたことはほとんどありませんでした。ですから、私の言葉自体がしょせん空虚なものでしかなかったのです。そんなものが人様にもっともらしいことを言っても、説得力はありませんよね。
以前、私か読んだ「死生学」を学ぶ学生向けに書かれたテキストのなかに、私たちは「三人称の死」から「二人称の死」へ、そして「一人称の死」へと、歳とともに「死」との向き合い方が移り変わっていくとありました。若いときに経験する「死」は、テレビや新聞などを通して伝わる、自分にとってはほとんど面識のない方々の死です。そして年齢を重ねていくにしたがって、お世話になった方々や身内・肉親の死と向き合うことになります。最終的には自分白身の死と向き合うことになります。年齢を重ねていく過程のなかで、私たちは嫌でも「死」を意識しないではいられなくなってきます。私はテキストを読んで、そのとおりだなと思いましたが、どことなく空虚なと言いますか、失礼ながら薄っぺらさを感じました。なぜか。ただ、それが何によるものなのかは、そのときははっきりとしませんでした。

老病死としての生

なかなかこの空虚な感覚を払拭できないでいましたが、私自身が歳を重ねていくにつれて「いのち」について考えさせられる機会が増え、少しずつですが理解できるようになりました。それは、私自身が直接関わりを持った方々の死を通してです。いろいろお世話になった方々が亡くなっていかれるのです。大学時代にご指導いただいた恩師をけじめとする諸先生方、父や叔父・叔母、幼い頃からお育ていただいたご門徒の方々・…本当に多くの方々の死(あるいは訃報)に接する機会が増えていきました。私か歳を重ねていくということは、お世話になった方々も歳を重ねられます。つまり老いていかれます。病気を抱えて入院されることもあります。そのようなご様子を目の当たりにすることにより、それまで頭でしか理解できていなかった「生老病死に生きるものの根本の問題があるのだ」ということが、切実な問題として私白身に迫ってくるようになりました。つまり、他者の「老病死」を通して自らの「生」を考え、さらに私もまた歳を重ねていくなかで、自らの「老病死」を考えることができるようになりました。それによって、先はどの死生学のテキストを読んで釈然としなかった思いの原因がなんとなくわかりました。
それは、「生と死」が、二元的・対極的なものとしてしかあらわされていなかったからです。このテキストは、人生の苦悩の根源である「生老病死」の「老」「病」を見ないで、「生」と「死」だけを取り上げて論じられていました。もちろん、幼いときに亡くなる方や、若くして不慮の事故に遭われる方もおられます。ですから、老病なし仁生から死へという場合もあります。私か申しあげたいのは、仏教で説かれるところの「生死」は、二元的・対極的なものとして語られた教えではないということです。「いのち」を生きるその現実を直視することが大切なのです。そのことを、お釈迦さまは、老・病・死に生きるものの限本の司題があるとみられたのです。
信國先生があらわされた「人間は死を抱いて生まれ、死をかかえて成長する。死はこの身において成熟する。(中略)死はこの身の老いに従って、この身の内に成熟し、病を通してこの身の内から現実に近寄る。老・病・死する身として私どもは生まれ、かつ生きているのである」は、正に現実の問題として「いのち」を考える必要性をお示しくださっているのだ、と私は受け止めました。

いのちのはかなさと尊さ

そもそも私たちが、自らの「生(老病)死」を見つめるきっかけは、他者の「生(老病)死」を通してです。たとえば、蓮如上人がご門弟に宛てて書かれたお手紙(『御文章』)のなかで無常観をおっしゃるようになったのは、妻子の死を契機としてです。とりわけ次女の見玉尼さまがお亡くなりになったことは、蓮如上人にとって大きな悲しみであったといわれています。自分よりも若い方々、しかも自らに親しい人であればあるほど、筆舌に尽くしがたい悲しみに覆われます。蓮如上人は、そのようないくつもの悲しみを体験されたことによって、自らの根本的な問題として「いのち」と向き合われたのではないでしょうか。さらに重要なのは、蓮如上人は無常であるとだけあっしゃってはいません。いのちのほかなさを述べるだけでは、「諦め」でしかありません。
蓮如上人は、その後に、

後生の一大事を心にかけて、阿弥陀仏をふかくたのみまゐらせて、念仏申すべきものなり。      (『御文章』五帖目第十六通、『註釈版聖典』 一二〇四頁)

とお示しくださっています。私たちの「いのち」ははかないものですが、だからこそ、永遠のいのちとして浄土に生まれさせようとおはたらきになっている阿弥陀さまのお救いをいただくべきである、とされています。当時の人のみならず、現代においても、蓮如上人のお言葉に触れるものをして、「いのち」の尊さを感じることができるのは、蓮如上人ご白身が阿弥陀さまのおはたらきにあずかることの大切さを感じられた、そのままのお心をお説きになっているからだと思います。  (貫名 譲)

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2020年6月のことば 人が何よりも 執着せんとするものが 自己である

苦しみの原因

毎田周一氏は、石川県金沢市ご出身で、明治から昭和にかけて活躍された仏教思想家であり詩人でもあった方です。今月のことぼけ、毎田氏の逝去後にまとめられた『毎田周一撰集』第六輯の『釈尊の心 一真海』(一周会、一九七八年)のなかで述べられたものです。
「執着」とは、ものや事がらにとらわれて離れないことを意味する仏教の言葉ですが、「私たち人間がもっともとらわれて離れないのが自己である」とはどんな意味なのでしょうか。
仏教は、お釈迦さまが説かれた仏に成る教えですが、もともと苦しみが出発点でした。お釈迦さまは、生まれてきたことからくる苦しみ、老いていくことからくる苦しみ、病になることからくる苦しみ、命つきていくことからくる苦しみ、この四苦を、どう乗り越えたらよいかを見つけるために出家されたのです。生老病死という現象は、動物でも植物でも命あるものすべてにありますが、それを苦しみと受け止めるのは人間だけです。お釈迦さまは、先ずはその苦しみの原因を考えられました。苦の原因は大きく二つあり、

・苦しみは自分の外に原因はなく、自分自身の心が生みだしている
・自分か苦を生みだす原因は、ものの本当のあり方を知らないことによる

とわかりました。それでお釈迦さまは菩提樹の下で、自分と自分をつつむ周りの世界のありのままのあり方を静かに考えられました。そしてお釈迦さまのさとられた内容は、

一、すべてのものは、生滅変化を繰り返し、変わらないものは一つもない
二、すべてのものは、互いに関わり合って存在している

という真理です。そんなことは誰でも知っていると思われる方もあるでしょうが、本当に誰もが理解しているでしょうか。

ものの本当のあり方

一つ目の真理は、仏教では「無常」といわれますが、すべてのものの存在は、必ず移り変わっていくという真理です。無常と聞いてどんな思いがするでしょうか。
「ああ、すべては朽ちていき、自分も年老いていく」と、寂しいし悲しいと考えるでしょうか。でもそれは、滅びいくという無常の一面だけにとらわれています。必ず移り変わり常ではないのですから、命の誕生も無常なのです。
また二つ目の真理は、仏教では「縁起」といわれます。すべてのものの存在は絶えず変化していく無常だが、それはなぜかというと、さますまな条件(縁)によって、お互いが関わりながら異なったすがたで存在するから、という真理です。つまり、関わらずに存在するものはないという真理です。

私という人間は、親の存在が縁となり、子としての命を生きています。また学校では、先生炉縁となり生徒としての自分があります。職場では、会社という組織を縁として社員としての自分を生きています。ですから生きていること自体が、さますまな関わり(縁)のなかで、縁起を生きているということになります。生きている私は、そのまま生かされている私と気づきます。また縁起に良し悪しはありませんし、縁起の言葉を前兆の意味で使用することも二言葉の意味を考えると好ましくない使い方だと、心にとどめておいてください。

私たちはなぜさとれない

先に述べたように、苦しみの原因は、ものの本当のあり方を知らないからで、これを知れば苦を乗り越えて、仏になることができるはずです。しかし、無常も縁起も、いま、その内容を知ったのに、私もあなたも仏にはなっていませんね。それはなぜでしょう。無常も縁起もわかっているようで、本当に理解できるのはさとりを得た仏しかありません。この二つの真理を、仏教では「法(ダルマ)」といいます。
この真理である法を得たときに仏になることができると、経典には説かれています。
無常や縁起という真理を頭で理解するだけでよいならば、この世に争いや苦しみはありません。仏になれないのはなぜか、ここに重要な私たちの心の問題点があるのです。
先日、電車に乗ったときのことです。駅のホームでは、たくさんの人が電車を待っていました。やっと到着した電車のドアが開いたとき、一人の男性が降りる人を押しのけて乗り込んでいきました。降りる人がおわり、やがて私も乗り込み、つり革につかまり立っていると、先はどの男性が目の前に座っています。しばらくして終点の駅に着き、ドアが開くと、今度は学生さんらしか人が、乗客を押しのけて乗り込もうとしました。そのときです。あの男性が大きな声で、「こら、降りるもんか先じゃ」と言ったのです。私も周りの人も、その言葉にあ然として、なかにはクスクス笑う人もいました。でも、このことは私たちにもありうることです。
電車に乗り降りするという状況は同じなのに、自分か乗り込む側の立場なら自分を優先して割り込んでいく、自分が降りる立場ならまた逆に自分を優先して降りていく、という行為です。つまり、私たちは、人のことを思いやる大切さを頭で理解していても、自分か出会う場面場面で、我が身の方からしかものが見えないのです。
しかも思いどおりにならないことで、不平不満の絶えない愚痴の生活を繰り返しているのです。こうした自分の側からしかものが見えないという、自己中心の思いが私たちの心の奥底にあることが問題点であり、それがさとりをさまたげる大きな原因になっているのです。
今月のことば「大が何よりも執着せんとするものが自己である」は、私たちの愚痴の生活が自己中心性の思いによることを示して、毎田氏が述べられたものです。

阿弥陀さまの他力の救い

しかし、仏になれず、愚痴の生活を繰り返している自分と知っただけでおわっては、私たちには安らぎがありません。
実は、親鸞聖人の苦しみもこの点にありました。親鸞聖人は、ご承知のように、比叡山で二十年もの間修行をされた方です。しかし、修行を積めば積むほど見えてくるのは、己の執着、自己中心性でありました。では、こうした煩悩を持ったままの私では仏にはなれないのか、道はないのかという問いと苦しみがありました。そして、道を求め比叡山をおりて、法然聖人がその頃説かれていた、阿弥陀さまの他力念仏の教えに出遇われたのです。
阿弥陀さまは、煩悩ある私をそのまま救いとろうとされる仏さまです。煩悩を断ち切ることがなくとも、私の名前、南無阿弥陀仏を呼んでおくれ、その名前のなかに、あなたたちが仏になるためのはたらきをすべてこめるからと、願いはたらき続けておられます。親鸞聖人は、阿弥陀さまの他力念仏の救いに身を託し、安らぎの道を歩んでいかれました。

願われる私

以前、ある人が「阿弥陀さまに願われて何か得になることがありますか」と言っているのを聞いたことがあります。願われて治病や得財の役に立つか、という意味でしょう。もちろんそんな役には立ちません。しかし、私事で恐縮ですが、願われるということはこういう心持ちなのか、という経験をしたことがあります。
ある日の朝、いつものように、洗面所で顔を洗い、歯をみがいて口をゆすごうとしました。ところが口の中に水を含もうとすると、水がこぼれ落ちてしまうのです。
そこで鏡をのぞきこむと、自分の顔全体が変形し、口も大きくゆがんでいることに初めて気づきました。お医者さんの診断は、過労から起こる顔面神経マヒ。いつ回復するかわからず、気長な治療が必要とのことでした。すぐに入院といわれ、不安になりました。それから毎日、首からの注射や電気治療が続き、食事がうまくできないことや仕事や面会を禁じられたことで、次第にいらだちを感じるようになりました。
そんなある日、妻と子どもが見舞いにきてくれたのです。そのとき、顔が変形したま圭戻らないかもしれないという夫婦の会話を聞いていたのか、子どもが涙をうかべてこう言いました。
「お父さん、顔がまかっかままでもいい!」
「えっ、ど、どうして」
「お父さんがどんな顔でも、私はいつまでもお父さんが好きだよ。きっと帰ってきてね、まってるからね」
私は言葉につまりました。不平不満ばかりで、わが身のことしか考えていなかった自分が恥ずかしくなりました。そして、そうだった、自分は願われてある命なのだと気づかされたとき、早く治してやろうというりきみではなく、いいようのない安らぎを感じました。子どもは、治療をしてくれるわけでもなく、心配してくれたからといって、お金を出すわけでもありません。しかし、私にとっては願われているというそのことが、大きな心の支えになったのです。
阿弥陀さまと子どもを同等には言えませんが、阿弥陀さまから願われることはさらに大きな安らぎであり、それはもので交換できないものです。自己に執着する煩悩を持った私を、そのまま受け入れお浄土に生まれさせるというはたらきある願いです。今月のことばを自分のこととして、昧わってみてはいかがでしょうか。
(東光爾英)

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2020年5月のことば いだかれてありとも 知らずおろかにも われ反抗す大いなるみ手に

大いなるみ手に

今月のことばは、九條武子夫人による短歌です。武子夫人は、本願寺第二十一代・大谷光尊さまのご息女としてお生まれになられた方です。またこの言葉は、武
子夫人の逝去後に、大谷嬉子お裏方さまによって編纂された『九條武子全歌集 無憂樹(あそか)』(本願寺出版社、一九八三年)のなかに挙げられています。しかしも
とは、武子夫人存命中に夫人著として出版された歌集『無憂華』(実業之日本社、一九二七年)のなかに、「幼児のこゝろ」と題して掲載された歌です。
ここには、

幼児が母のふところに抱かれて、乳房を哺くんでゐるときは、すこしの恐怖も感じない。すべてを托しさって、何の不安も感じないほど、遍満してゐる母性愛の尊きめぐみに、脆かずにはをられない。
いだかれてありとも知らずおろかにもわれ反抗す大いなるみ手に

しかも多くの人々は、何ゆゑにみづから悩み、みづから悲しむのであらう。
救ひのかゞやかしい光のなかに、われら小さきものもまた、幼児の素純な心をもって、安らかに生きたい。大いなる慈悲のみ手のまヽ、ひたすらに久遠のいのちを育くみたい。-大いなるめぐみのなかに、すべてを托し得るのは、美し吉信の世界である。                        (八頁)

とあります。
赤ちゃんがお母さんに抱かれて、お乳をのんでいるときは、不安を感じることはない。それは赤ちゃんがお母さんにすべてをゆだねきっているからで、お母さんの愛情の深さ、尊さがあればこそだからである。
ところが、自らの人生は、苦しい悩みに埋もれ、大きな悲しみのなかに流されている。阿弥陀さまの救いの光のなかにあるのだから、お母さんに抱かれる赤ちゃんのように、純粋に救いの慈悲に身をゆだねて、安らかに生き、願われる生き方をしていきたい。それが信心をいただく美しい世界だ、と武子夫人はいわれています。
しかしまた一方、『無憂華』のなかで、

罪のなげき

道をもとむる人のなかに、ともすれば人生を罪深いものとして、これを否定しようとするものがある。しかしながら否定し得ない現実の前には、何人も心おどろき慄かざるを得ないのである。
救済のひかりは、悩めるものゝためにかぎヤいてゐる。ひかりは睨はれた罪をこそ照らしてくれる。悩みのあるところ、ひかりはつねに、悩めるものと偕に在るのである。

光に照らし出されたよろこびを味はふものは、また罪のなげきを味はふものであらう。否定し得ない罪をみつむるものこそ、真実に救ひのよろこびを受け入れることが出来る。                      豆八頁)

とも、武子夫人自らの言葉で述べられています。
阿弥陀さまの救いは、苦しい悩みをもち、大きな悲しみにくれるもののためにある。その智慧のひかりのはたらきは、悩めるものによろこびを与えるものだが、また同時に、自らの罪の大きさを知らしめられることになる。しかし、自分の力で消すことができない煩悩という罪を、自分のこととして深く省みるときに、阿弥陀さまのはたらきがまことの救いとして、よろこび受け入れられるのです、と述べられています。
赤ちゃんが母に抱かれているように、私は阿弥陀さまの大いなる慈悲の手に抱かれているのに、それに気づかない。それを無視して、自分中心の思いを常にもち、自分が起こす苦しみなのに愚痴をこぼし、知らぬまに人を傷つけている。まるで阿弥陀さまの救いに反抗するかのようなおろかな生き方をしているのがこの私だ、という言葉が、「いだかれてありとも知らずおろかにもわれ反抗す大いなるみ手に」の歌でありましょう。

たまわる信心

ここまで述べてきました武子夫人のこの二つの心。つまりそれは、阿弥陀さまのひかりに照らされた私は、自らの煩悩にまみれ、自己の力ではとうてい仏に成りようのない人問だとなげく心と、その無力な自己を深く見つめ、自分のこととして味わうときに、逆にその私に願いをかけ、仏にさせようとする阿弥陀さまの他力の救いが、真実のはたらきとしてあることを心の底からよろこぶ心とてすが、この二つの心は、実は阿弥陀さまからたまわる信心の内容を示しているのです。
「自己の力では仏になりようのない生き様の私だ」と強く思う心と、「その私を救いとり必ず仏にさせるという、広大な慈悲の阿弥陀さまのはたらきがある」とよろこぶ心とは、一石であって二つでない、信心の二面をあらわすものであります。
つまり、この迷いの世界を離れる手がかりを持たず、仏になりようのない自己の力を捨てて、阿弥陀さまの他力の救いに我が身を託すというひとつの心、それが他力の信心ということです。

阿弥陀さまの光を仰ぐ

私は、武子夫人のこの短歌に、一九九七(平成九)年に初めて出会いました。それは、武子夫人の兄である本願寺第二十一一代・大谷光瑞さまの五十回忌法要が、私の在往する大分県でっとめられたことが、ご縁でした。シルクロード調査のために大谷探検隊を派遣されたことで知られる光瑞さまは、晩年を別府で過ごされ、別府でご往生されたのです。その法要時、武子夫人の短歌を拝読する機会に恵まれました。
多くの短歌のなかで、特にこの歌に強烈な印象を持ちました。それは「反抗す」という言葉が使われていたからです。「反抗」とは、辞書によれば、

親や目上の人の言う事を聞かず、なんでも逆らってみたり自分の主張を押し通してみようとしたりすること。  (『新明解国語辞典』第五版、一一五五頁)

とあります。「反抗す」という言葉には、阿弥陀さまの救いに「背く」とか「反する」というのではなく、それらよりも一層強い意味があると感じます。武子夫人は、それだけ自らの生き様を真剣に見つめ、苦しみや悲しみのなかに生きなければならない我が身と強く受け止めていかれたと、味わうことができます。しかし、それゆえに、逆に救われる手段のまったくない私を救おうとされる阿弥陀さまの光を、強くよろこびとして仰がれたと思います。
武子夫人の同じ歌集『無憂華』のなかに、夫人作「聖夜」という歌があります。

星の夜ぞらのうっくしさ

たれかは知るや天のなぞ

無数のひとみかゞやけば

歓喜になごむわがこゝろ

ガンジス河のまさごより

あまたおはするほとけ達

夜ひるつねにまもらすと

きくに和めるわがこヽろ

そうです。仏教讃歌としていま、多くの人々に親しまれている歌ですね。夜の星空のなんと美しいことか、この宇宙の不思議さを誰が知るであろうか。輝く無数の星は仏さま方のまなこのようで、このまなこのなかの我が身を思うと、私のこころはよろこびに満ちあふれます。
インドのガンジス河の砂の数より多くおられる仏さまが、夜昼、いつも守りはたらきつづけてくださると聞かせていただくとき、私の心はどれはどなごみ安らぐでしょうか、と。仏心に反抗するような私にとって、阿弥陀さま(この歌では多くの仏さまですが)の念仏の救いのなかにある我が身は、何ものにも代えがたいよろこびと安らぎである、という夫人の声が聞こえてくるようです。

武子夫人のご生涯

武子夫人のこうした歌は、単なる文学的あるいは感傷的な思いで作られたものではありません。お念仏のみ教えを一人でも多くの女性に伝えようと、二十四歳頃より仏教婦人会を設立され、長年にわたり全国を伝道巡回され、各地の仏教婦人会結成の運動を推進されました。また、三十二歳のときには、仏教理念にもとづく京都女子専門学校(現・京都女子大学)の設立にかかわられました。そして、一九一三一(大正十二)年、三十六歳のとき、関東大震災が起こります。
東京築地にお住まいだった夫人は、家屋も焼失し、多くの人々の悲惨な生活をごらんになります。
家族の死は人々に絶望的な悲しみを与えました。夫人は自ら被災されながらも、被害にあった人々の支援活動に身を挺して当たり、社会事業を続けていく決意をされます。その一環として、あそか診療所を開設し、診療奉仕のため各地を巡回されました。しかし、敗血症を発病され、一九二八(昭和三)年二月七日、四十一歳でご往生されました。夫人を慕うことから、ご命日は如月忌と呼ばれています。
まさに、武子夫人のご生涯は、自らの生き様を深くみつめ、お念仏のみ教えをよろこびながら、社会的にも篤い思いをもって実践活動を行ってこられた人生であったと思います。私も夫人の生き方に学んでまいりたいと思います。                                 (東光爾英)

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