2021年8月のことば まあ、どこにおってもお慈悲の中だからのう

 

先生との出遇い

今月は山本佛骨(ぶっこつ)先生のことばです。これは「喜憂を超えた人-山本佛骨先生をしのぶI」(『花と詩と念仏』梯賓圓著)と題しか文中に出ているもので、原文には、

  御往生の少し前に、病院をたずねたとき、ちょうど病室を変えられた直後でしたが、「いつまでここにいるのか」とおっしゃいますので「お楽になられるまで、もうしばらく御辛棒ください」といったら、「まあ、どこにおってもお慈悲の中だからのう」とつぶやくようにいわれたのが、今もあざやかに思い出されます。
(二一八頁)

とあります。
山本先生は、一九一〇(明治四十三)年石川県に生まれ、一九三九(昭和十四)年から大阪の高槻にある行信教校に学ばれた後、大阪の定専坊住職となられます。そして龍谷大学教授、浄土真宗本願寺派の伝道院長に就任され、一九七六(昭和五十二年には勧学を拝命、安居本講師も務められました。一九九一(平成三)年にご往生されています。研究書には、『道棹教学の研究』『浄土教の教理史的研究』『観経散善義鐙仰』などがあり、講話集や法話集には、『合輯求道者の疑問』『山本仏骨法話集』第一巻・第二巻、『歎異抄のこころ』『火中の蓮華』『人生の眼と足』『無限への歩み』『現世利益の味わいと扱い方』など、数多くの著書があります。
じつは、私の龍谷大学大学院時代の指導教授が山本佛骨先生でした。私は同文学部在学中から伝道に関心を持っておりましたので、学者としては言うに及ばず、布教法に関しても高名な方でしたので、先生のゼミを志望しました。
私の在学当時は、「伝道」よりも「教化」という言い方が一般的で、伝道学に関する研究も少なく、私の記憶では大宮学舎開講で選択科目として「真宗伝道学」という一科目。があっただけでした。その科目を担当されていたのが山本先生でした。
先生は龍谷大学をご退職後、伝道院長に着任されますが、折りしも同時期に私も百日間にわたる住職課程の受講生として、伝道院に入寮しました。院長のご講義では、伝える力や法義伝達への情熱を実感いたしました。布教はどう話すかということよりも、まず教えをどういただいているかが根本的な問題であること。布教はうまく聴衆を感心させようとする技術の問題ではなくして、全生命、全人格があらわれるところに伝道者は心しなければならないこと。また「信仰は生命の対決」であるとよくおっしゃっておられました。
人はこれなくしては生きていくことも死んでいくこともできない、またこれがあればこそ生きていける、これがあればこそ死んでいける、という生死をかけたいのちの問題を解決しなければならない。それには厳しい聴聞をくぐって、蓮如上人が明らかにされた後生の一大事の解決を腹にすえなければならない。こうした言葉には、信仰と教学とが一体となった先生のバックボーンを知ることができました。
個人的には、在学中にご自坊にお邪魔して論文指導を受けたこと、その後ご無理を申して私どもの結婚式の媒酌人をお引き受けいただいたこと、そして学問にたいする厳しさのみならず、法味あふれる語り口でやさしくご教導いただいたことなど、折々のことが今も懐かしく思い出されます。

三業相続の日暮らし

さて、私的なことばかり述べてしまいましたが、今月のことばには先生の信仰体験から溶み出る他力救済の妙味が感じられます。
浄土真宗の救いは「摂取不捨の利益」(『歎異抄』第一条、『註釈版聖典』八三一頁)といわれています。それは苦悩の衆生を必ずおさめ、まもり、すくうという阿弥陀さまの大慈大悲のみ心のことです。「慈」(サンスクリット語ではマイトリ士とは最高の友愛の情をもって、惜しみなく楽を与えようとする心であり、「悲」(同じくカルナ士とは苦しみや悲しみに同感して、苦を取り除こうとする心です。その心はI切のとらわれを離れた絶対平等の心を意味しますから、凡夫の慈悲(小悲)や聖者の慈悲(中悲)をはるかに超えています。
この「摂取不捨」の言葉は、『仏説観無量寿経』の定善、第九真身観に、

  念仏衆生摂取不捨           (『勤行聖典 浄土三部経』二六二頁)

(念仏の衆生を摂取して捨てたまはず。『註釈版聖典』 一〇二頁)

とある文によっています。善導大師は、この文言について『観経疏』「定善義」に「親縁釈」という釈義を設けられています。そこでは、

いろいろの行をよく修めて、それを往生の因に向けるならば、みな往生できる。
どうして阿弥陀仏の光はあまねく照らされるのに、ただ念仏のもののみを摂められるのは、どういう意味があるのか。
という問いを出し、それに答えて、

  衆生が行をおこして、口に常に名号を称えるならば、仏はすなわちこれを聞きたもう。身に常に仏を礼敬すれば仏はすなわちこれを見たもう。心に常に仏を念ずれば仏はすなわちこれを知りたもう。衆生が仏を憶念相続するならば、仏
もまた衆生を憶念せられる。かの阿弥陀如来の三業(聞・見・知)とこの衆生の三業(称・礼・念)とがたがいに離れないから親縁と名づける。

と示されています。
つまり、私か仏さまを敬い礼拝するならば、仏さまはそれを見ておいでになる。
お念仏を称えれば、仏さまはそれを聞いてくださっている。仏さまを念ずれば、仏さまは知ってくださっている。こちらからは見えずとも、気かっかずとも、仏さまは必ず見ていてくださり、聞いていてくださり、知っていてくださる。そんな訳で、仏さまと念仏の行者とは親しい関係で結ばれており、けっして離れることがないといわれるのです。したがって、念仏者は大悲心に安んじて二二業(身・口・意)相続の日暮らしをさせていただくいわれがあると教えられるのです。

仏さまからのメッセージ

そう言えば、真宗門徒の家庭では、子育てする折々に、「ほとけさまが見てはるよ、聞いてはるよ、知ってはるよ」などと、仏さまからのメッセージを伝えてきたと聞いています。私もその教育を受けた一人ですが、祖父母やご両親からそうした言葉がけをしてもらった記憶をお持ちの方も多いと思います。
以前、孫娘が保育園に通いはじめた頃だったでしょうか。居間で親子が顔を近づけて何やら話していた様子でしたが、急に「おかあさんの目のなかにサキちゃんがいる」と大声をあげたことがありました。「どこに、何か、見えるの」と母親が尋ねますと、孫娘は同じ言葉を繰り返していました。どうやら、お母さんの両眼の中に映るまるごとの自分を発見して、おどろいた様子でした。その光景を見ていた私は、まなざしがわが子にまっすぐ向けられるとき、子の姿全体を映し、心の内に摂めてしまう母なる眼力に脱帽せざるをえませんでした。

  まなざしに
とける
とければ
わかし なし
ない わかしに
はなし なし
ただ
まなざしに
とける
とけて
あなたに なる

(『そよ風のなかの念佛』三〇頁、百華苑)

これは中川静村氏の「まなざし」という詩です。
清らかでまっすぐなまなざしに出遇えば、そこに信頼が生まれます。そして信頼が醸成されれば、言葉も必要がなくなって、見ている私自身のとらわれも消えていきます。み仏のまなざしはそのようにして、私たちの汚れた煩悩の心を浄化し、真向きになって信頼と安心を届けてくださっているのです。
ある先生は、「仏さまって何だ」と言って、子どもたちにおヘソの話をされたといいます。「みんなにおヘソがあるのは、それぞれが自分勝手に生きてきたからではないんだ。命を全部もらってきた、いただいてきてるんだ。だからおヘソがあるということは、私か死ぬまでお母さんに頭があがらないということなんだよ」と先生は語られたそうです。
身体の中心におヘソがあるという事実から私たちは逃げることができないのでしょう。先生の意図が伝わったのかどうかは別にして、その後子どもたちが自分のおヘソをジツと眺めている情景が目に浮かぶようです。そして子どもたちはいつしか大人になり、親となり、先生の「おヘソの話」を思い出し、頭のあがらない世界があることに気づく日がきっとやってくるにちがいありません。
阿弥陀さまの広大な慈悲心には、端っこ、隅っこという尺度がありません。それはたとえば球の上に位置しているすべての点はどこをおさえても中心を指し示すようなもので、私をいつも真ん中に据えて支えてくださっているのです。この私を救いのめあてとされる摂取不捨の救いとは、いわば誰一人として置き去りにしたり放置したりしない、決して見捨てることがない心なのです。

摂取不捨の利益にあずかって

梯賓圓先生は、冒頭の山本佛骨先生のことばを受けて、病院にいようと、自宅に帰ろうと、生きようと、死のうと、お慈悲の中だという、この一言に、摂取不捨の利益にあずかって生きる念仏の行者のすがたが言いつくされています。
先生の最初の著書は『喜憂を超えて』でしたが、その題名こそ、先生の全生涯を象徴していたといえましょう。              (二一八頁)

と結んでおられます。
老いの時も若さ時も、善人の時も悪人の時も、この身このままで救われていくというご利益が念仏の行者には備わっています。ですからいつどのような死の迎え方をしても、それは何ら往生のさわりとはなりません。
私たちはただ「まかせよ、必ずすくう」と喚んでくださるみ仏の仰せにすべてをゆだね、大慈大悲をもってもろびとを利益する安楽浄土をめざすのです。
(貴島 信行)

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2021年7月のことば 人間は我を知らず 我ほど 知り難いものはないのである

師の生涯と著作

高光大船師は、文献(『近代真宗史論上局光大船の生涯と思想-』水島見一著、法蔵館、以下参照)によれば、一八七九(明治十二)年に石川県で五百年続いた旧家、高木家の四男として誕生。真宗大谷派専称寺に入寺され、九歳で得度、その後、三代目の住職に就任されます。一九〇一(明治三十四)年に真宗大学予科、そして本科入学(日露戦争勃発)、二十八歳で卒業されます。
この頃に、自らの聞法求道の歩みに決定的な影響を与えた、「自己とは何ぞや、これ人生の根本的問題なり」を基軸とした精神主義を主張する、清滓満之師の『我が信念』「絶対他力の大道」の文と出会い、以後清滓師の門人として私淑、さらには精神主義を継承する暁烏敏、曽我量深両師との出会いの中で、曽我量深師をわが師と仰いでいかれます。
清沢派には歴史派(山辺・赤沼)、観念派(曽我・金子)、人生派(暁烏・高光)があるといかれますが、法兄と慕った暁烏敏師や法友の藤原鉄乗師と高光大船師の三名は「加賀の三羽烏」と称されました。中でも高光師の「信に教学なし」という言葉は、自らの思想を象徴するものでした。仏法は客観的に頭で聞いて理解するものでなく、苦悩の身が聞き、聞いた身が深く頷くところにあるのであって、真の仏法とは体得すること、信心獲得なくしては真宗だりえない。信心は単にお話ではなく生活の中に実行し、「生活と信心が一枚となっている仏教二話がその人と一つになっている生きた仏教」でなければならないとして、煩瓊な論議や釈義で飾る説明を嫌われた、といわれています。
一九〇八(明治四十コ年には教誇師となり、二十七歳に説教を開始され、やがて全国で講演や布教活動を展開して多くの支持を得られました。ただ当初は、ご門徒や村人にはその信仰は異端であり、不信の者として責められ迫害を受けた時期があったようで、本当の仏教を知らずして説教をする資格などないと、自分自身に苦悩されたといいます。しかし「異安心者」と排撃され非難されることがあっても、村人との信頼の成就を願いながら、一寺院の住職として歩まれました。ご子息によれば、体格も大きく飾り気のないその姿から、迫力をもって全身で説法されたようで、「仏教という名に於いてメシが食えなかったら死んでもいい」「いのち懸けの話をしている」と言い放つたといわれます。
信仰活動では、「精神界」に多くの論考を発表。雑誌『旅人』『氾濫』、個人誌『直道』『太原』の創刊。また真人社運動、同朋会運動の礎も築かれました。著書は、戦前の三部作といわれる『生死を超える道』『帰命の生活』『新時代の浄土教』のほか、『時代の目足』『白日抄』など、多数にのぼっています。

仏教にはアイがない

さて、著者の紹介が少し長くなりましたが、冒頭の言葉は二〇〇〇(平成十二)年に高光師五十回忌を期して出版された著書『高光大船の世界 道ここに在り』

(東本願寺人は我を知らず、自已に迷っている。しかも一日として我を上張しない日もなく、我を張らない時もないのである。それほど人間は我を知らず、我ほど知り難いものはないのである。されば世の中の人々の主張ほど優いものほかいばど、
人々は我を知らず自己を知らず迷っているのである。       (二〇頁)

とあります。
私たちは自分の眼で自分の実像を把握することができません。。見ているところも実に狭い範囲でしかありません、しかも他人に対しては悪しきところはよく見えますし、反対に自分の悪しきところは見えない、というあり方をしています。善いの悪いの、損だ得だのとノ目分の心の尺度を基準にして固執します。
好きなことには夢中になってしまうのと同様に、欲や怒り、嫉妬や恨みなどにも没頭し、煩悩一色に陥ってしまうという愚かさも持ち合わせています。人間は本来自分自身については無知であり、自分かいったい何者であるかがよくわかっておりません。自分の外側に立って冷静に見定める確かな眼を持つことができず、どうしても見ている自分自身から抜け出すことができないのです。
かつて、ある学会の夕食懇親会の席で、同じテーブルにおられた某大学教授の先生から、バッジ(スーツの片襟にピン止めして使用する金属製メダル)をプレゼントしてもらったことがありました。その時先生は、「皆さんこれをジャケットに付けて仏教をひろめてくださいね。仏教にはアイがないですから」と言われました。私はおっしゃった意味がよくわからず、〔「アイ」とは「愛」のことなのかなあ?〕などと怪訝に思いながら、手に取って見れば、そこには銀色の表面に白字で「there is ni i in buddha」と彫り込まれた文字があり、それを読んでなるほどと納得できたのでした。
仏教ではあらゆる事物は因と縁によって生じるものであり、不変の実体としての「我」は存在しないと説いています。これが「諸法無我」の道理です。ですから、自我を肯定する西洋的スタンスとは違って、英文法で讐えれば主語がない、いわゆる「i」がない、ということになるわけです。

後日、軽い気持ちでバッジを付けて外出したところ、「それ、なんて書いてあるんですか」と尋ねられたことが何度かあり、「現代人に対する仏教からの問いかけとして、私自身は受けとめています」と伝えました。時には無我の教えや大乗仏教の自利利他の精神について、また世の中の「自分ファースト」の風潮や、「今だけ、金だけ、自分だけ」といった経済至上主義への偏りについてなどさまざまに話題が及ぶことがありました。こうしたさりげない工夫がもたらす伝道の効用について、再認識させていただくご縁となっています。

辞書によれば、世間とは「世」が遷流、破壊、覆真の義、「間」は中の意とあり、世の中の現象は定まりがなく、移ろい壊れゆく存在であり、真実がない、と説明されています。

先に挙げた『高光大船の世界 道ここに在り』の文には、「我ほど知りがたいものはない」「世の中の人々の主張ほど侈いものはない」とあります。
「世の中≒人々」とは他の誰かではなく、他人や世の中の出来事をつい自分ぬきで

評論し、「我」「他」「彼」「此」と分けへだてをし、とらわれの生活を繰り返す私自身のことです。自分のものさしに固執するあまり、自分勝手な言動が表出し、相手を損ない、傷つけてしまうのです。こうした自己・他者・事物に対して執着するという、やっかいな自分自身にいったいどう向き合い、対処すればよいのか。まさに煩悩渦巻く世俗に生きる凡庸な人間にとっては至難のことといわねばなりません。
仏教では教法を聞信し、さとりの智慧をこの身に獲得することをめざします。智慧とは事物の実相を見通す明晰な視野、ありのままを知る心のはたらきをいいます。
智慧は光明であり、煩悩の心を内側から照らし出し、対立や争いによって生じる迷いや苦しみ、その愚かさへの目覚めを促すのです。そして目覚めによって、自分中心の凝り固まったものの見方が破られ、とらわれの縄から少しずつ解き放たれていくことになります。

妙好人源左

『親なればこそ』と考えなされや、そがすりや有難いがのう」と言い、「悪いことは我にこそ付けりや、お慈悲に傷がつかんけえなあ」とも返答されたということです。
「堪忍してくださるお方」とは、直接的には阿弥陀さまのことをさしています。源左さんは、いつも「親様」と慕うみ仏がお助けくださるから「こそ」であり、「お慈悲」に許され包まれていれば「こそ」とよろこばれたのでした。ですから、「われ」が堪忍している、耐えて辛抱しているのだ、という我情が折れてしまって、そこに相手の辛抱がかえって知られるという心の転換がなされているのです。
「有難う御座んす」とは常の言葉でしたが、相手の気持ちや立場に思いを寄せるこうした心の視野は、ひとえに仏法聴聞の積み重ねによって培われたものであったといえましょう。

おごりからご恩への転換

かく私たちの無知の闇、煩悩の妄念妄執を打ち破ってくださるはたらきが仏さまの光明です。阿弥陀さまの智慧は我見を砕き、自己に執着する縄を解き放ち、やがて苦から楽へ、おごりからご恩へと、人間精神の高みに導いてくださいます。執着のつよい私たちにとっては、生涯無我の境地に至ることはありえないことですが、教法に遇うことで凝り固まった心を解きほぐし、衆縁に生かされている身を体感しつつ、心和らぐ生き方をめざすのです。
高光師は、

  夜明けの前は闇にきまつて居る。闇に先立つ夜明けはないことである。人生に  迷はぬ限り人生の闇は知る限りでなからう。  (「信に教学なし」『真人』二号)

といわれ、自身の名利や僑慢の心に涙されました。そして自らの罪業を「暗愚無才な性分」と表現し、

  掃いた畳はきれいになったようだけれど打叩けば埃はむくむくと立上るやうに  久遠の自性が煩悩           (『精神界』 一九一三〔大正二〕年一月)

と告白されています。人間の奥底に潜んでいる偽善を見抜く眼力の鋭さは一流だった、といわれています。
明るさ来たって闇が去るという理かあるように、

  仏に逢ふたら人間闇黒の無能を自覚し、其無能者に神力自在の躊躇なき光明生活を発見せしめられるこそ仏教生活である。  (「信に教学なし」『真人』二号)

と示されたのでした。
ご往生は一九五一(昭和二十六)年九月、七十三歳のご生涯でした。
(貴島 信行)

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2021年6月のことば 信心というのは 凡夫が仏さまと同じ命を共有するという出来事

「常によく考えなさい」

今月のことぼけ、大峯額先生の著書『生命環流 浄土和讃を読む 下』(本願寺出版社、以下、『生命環流』と表記します)に出てきます。
大峯穎先生が住職を務められた、奈良県の浄土真宗本願寺派専立寺は、吉野山を望む自然豊かな場所にあります。
一九二九(昭和四)年生まれの先生は、京都大学に進まれて哲学を専攻されます。
大学院文学研究科博士課程を修了された後、四十二歳から二年間は文部省在外研究員として、ドイツの(イデルベルク大学に留学されます。当時の思いを、

  哲学というものは、世間一般の常識に満足しないでものをどこまでも考える仕事です。阿弥陀さまがおられるとはどういうことなのか、お浄土は今生きているこの世と私たちの世界とどういう関係にあるのか、そういうことを徹底的に究明したいと思っていました。                 (二〇九頁)

と、述べておられます。毎日毎晩、このことを考えておられたそうです。毎日毎晩、ひたすら阿弥陀如来の救済について考える人はどれほどいるでしょうか。先生の言葉から私自身が問われているように感じます。浄土真宗の教えは他の誰かのための教えではない、私自身が教えに問い学ぶ中から聞こえてくるものなのでしょう。
先生は一九七六(昭和五十一)年に、論文「フィヒテの宗教哲学」によって京都大学で文学博士となられます。また、大阪大学名誉教授、龍谷大学教授などを務められます。また、今は浄土真宗本願寺派総合研究所とよばれる浄土真宗教学研究所の所長や顧問を歴任されました。その間、多くの著書をのこされ、二〇一八(平成三十)年一月三十日にご往生されました。
私も龍谷大学で先生の講義を受講したことがありましたが、授業の中で学生に「常によく考えなさい」とおっしゃっていたことが懐かしく思い出されます。

独りぼっちではない

今月のことば「信心というのは凡夫が仏さまと同じ命を共有するという出来事について考えるために、もう少し先生のことを紹介させていただきたいと思います。
俳句の世界でも著名な先生は、「毎日俳壇」の選者を務められ、数々の賞を受賞されました。『生命環流』に、先生の俳句とその情景が述べられていますのでご紹介いたします。

   虫の夜の星空に浮く地球かな              (『夏の峠』花神社)

という私の旧作があります。ある秋の夜、自宅の庭で、松虫や鈴虫が鳴いている声を聞きながら満天の星空を眺めていたら、自分かいるこの地球もいろいろな虫たちと一緒に星空の真っただ中に浮いているのだという感じが急に迫ってきたので、それを詠んだのです。                (三二〇頁)

俳句は世界で最も短い五七五の十七文字からなる短い詩です。俳句について先生は、「十七文字の中に、全宇宙がこもるような場合がある」と説明されています。先はどの俳句にも、無限とも思える宇宙の広がりの中で孤独ではない私の存在の不思議さについて触れられています。

  私たちの地球は、無限の星空の真っただ中にあるのです。空は頭の上だけでな  く、大地の下にも底抜けの空かあります。地球を會んだ太陽系は銀河系の中にありますが、宇宙にはそれ以外にもたくさん銀河系があるわけです。無数の太
陽があって、無数の銀河があり、そういう無数の星群の中の小さな惑星の一つである地球という所に、どうしてだが私たちは今いるわけです。そして、百年ほどの命を生きて、宇宙のどこかへ消えてゆくのです。けれども、この俳句をお読みになったら、ちょっと安らかな気持ちになりませんか。孤独で暗い気持  ちにはならないはずです。人間界の騒音がなくてにぎやかな宇宙です。
(二三一頁)

そして、このにぎやかな宇宙に生きている姿という受けとめから、浄土真宗の世界観として、親鸞聖人の『浄土和讃』「現世利益和讃」の一首を引用されます。

  南無阿弥陀仏をとなふれば
十方無量の諸仏は
百重千重囲続して
よろこびまもりたまふなり            (『註釈版聖典』五七六頁)

「現世利益和讃」は、他力信心の行者がこの世に生きている間(現世)からいただく現生正定聚などの利益について、親鸞聖人が讃嘆されたものです。
信心をいただいて南無阿弥陀仏を称える身になると、すべての世界の数限りない仏さま方が百重にも千重にもそのものを取りかこんで、喜んでお護りになるという内容です。これは現生において得る利益の一つで、諸仏が護ってくださる「諸仏護念」の利益といわれています。信心の人を幾重にも取り囲んで護ってくださるのですから、私は独りぼっちではなく、南無阿弥陀仏を称えると、いつも仏さま方が私と共に歩んでくださっていることを知らされます。
仏教は死後の世界のためだけにあるもの、信心や念仏はそのためのものと思っている人がいるかもしれません。しかし、この和讃を読むと、南無阿弥陀仏の教えはそのようなものではなく、今この世界に生きている私の人生に深く関わるものであることを教えてくださいます。
先生は、この和讃のおこころと、先はどの俳句を重ねて、私たちの地球というこの惑星は、独りぼっちではなくて無限の星の中にあるの  です。そうしますと、南無阿弥陀仏を称える人は無数の仏さまに取り巻かれ、護られていることになります。死んでから護られるのではありません。今ここで護られるのです。                      (一言二頁)

と、味わっておられます。宣(つ暗な闇にポツンと浮かぶのではなく、無数の太陽があって、無数の銀河があり、そういう無数の星群の中にある地球と受けとめる時、孤独で暗い気持ちではなく、どこかにぎやかで安らかな気持ちになるように、阿弥陀如来をはじめ、お釈迦さまや諸仏に護られて今生きているという事実が、私に安心を与えてくださるのです。
同じ命を共有する

今月のことばに「信心というのは凡夫が仏さまと同じ命を共有する」とあります。凡夫と仏さまが同じ命を共有するとはどういう意味なのでしょう。
先生の俳句に、「虫の夜」という言葉があります。夜は暗いため、周りがよく見えません、でも虫の夜とあります。夜の闇の中にその姿は見えないはずです。虫の音がそこにいる虫の存在を知らせ、孤独ではないことに気づかされているのではないかと思います。虫の音や満天の星のように、外からのはたらきかけによって孤独が打ち破られているのです。
親鸞聖人は、南無阿弥陀仏は阿弥陀如来の喚び声であると仰せになられました。
『教行信証』「信巻」には「弥陀の悲心招喚六『註釈版聖典』三天頁)とあり、阿弥陀如来の慈悲の心から発せられるものであるとお示しなのです。
「招」は招待の招です。披露宴など招待をされたら、招く側か来てくださいとお願いをしているので、遠慮なく参加します。阿弥陀如来は私たちに来て欲しいと願い招いてくださっていると受けとめることができるのです。「喚」は、普段私たち加人を呼ぶ時には使用しません。「喚」には「よびつづける」今よばふ」『同』二二五頁・脚註)という意味があると親鸞聖人は示されています。
『正像末和讃』には、

  弥陀・観音・大勢至
大願のふねに乗じてぞ
生死のうみにうかみっつ
有情をよばうてのせたまふ            (『註釈版聖典』六〇九頁)

とあります。阿弥陀如来は、大悲の観音菩薩、智慧の勢至菩薩を伴って、生死の迷いの苦海に沈没している私のところまでやって来て、招き喚びっづけ、私たちを大悲の願船に救いあげ、安らかなさとりの世界へと迎えいれてくださるというのです。
「有情をよばうて」とありますように、南無阿弥陀仏は私たちを喚び続けておられるという悲心の切なる様相なのです。このように、私の方から浄土真宗の教えにてあったのではなく、阿弥陀如来の切なる願いが南無阿弥陀仏の声となって喚び続ける中に、縁あって私はその喚び声に気づかせていただいたのです。たった六文字ではあるけれども、その六文字に阿弥陀如来の大悲の願心がこもっていると聞こえてくるのです。
こうして「必ずたすける」という阿弥陀如来の喚び声と、その声に喚び覚まされて仰せのままにおまかせする私の声が、一つに溶け合って響いているのが南無阿弥陀仏というお念仏なのです。ご信心は、私か勝手に起こす思いではなく、この喚び声を聞いて安心して生きていくことを表しているのです。
ですから、「信心というのは凡夫が仏さまと同じ命を共有するという出来事」とある今月のことぼけ、私か共有しているのではなく、阿弥陀如来のはたらきかけによって「共有する」出来事が生まれてくるのです。
今月のことばは『浄土和讃』にある、

  信心よろこぶそのひとを
如来とひとしとときたまふ
大信心は仏性なり
仏性すなはち如来なり             (『註釈版聖典』五七三頁)

のおこころについて述べられた中に出てきます。

この和讃に言われているように、阿弥陀如来を信じお念仏をよろこぶ人は如来に等しいのです。煩悩具足罪悪深重の凡夫であっても阿弥陀さまにまかせたら、その人の心は如来さまと等しい。これはつまり、その人は死なない命をいただいているということです。阿弥陀さまがそのようにおっしやっているのです。
信心というのは、凡夫が仏さまと同じ命を共有するという出来事です。共生と言ってもいいでしょう。われわれが生きているというのは、実は如来さまの命を生きさせてもらっているということです。如来さまは如来さまの無限の命を  生きていても、私は一人で死ななければならないと思うのであれば、それは信心ではなく疑い心であります。             言一一七上二一八頁)

南無阿弥陀仏の大悲の願いに喚び覚まされることによって、その無限のいのちに生きていくものとしての歩みが誕生するのです。その歩みは、これまでのように独りぼっちで寂しいものではなくなります。無数の太陽があって、無数の銀河があり、そういう無数の星群の中の小さな惑星の一つである地球と気づくように、諸仏に護られ歩む、たしかな大いなる南無阿弥陀仏の道なのです。
(和気 秀剛)

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2021年5月のことば 己れに願いはなくとも 願いをかけられた身だ

何にであうか

春先に、境内に咲いた花を見ていました。山間部の自然に囲まれた場所なので、さまざまな花が咲いています。
見ているうちに、ふと、その香りと共に、かすかな音がすることに気がっきました。花が音をだしているわけではないのですが、低いゾーンという音がするのです。
すると、ひとつの花弁の陰から小さな羽虫が出てきました。「あっ、「チかな?」と思って周りを見ると、それまで気がつかなかっただけで、咲いている小さな花の間を群れ飛び交っています。
山門の横の塀の隙間に(チの巣があり、春になって活動を始めたのでしょう。せっせと小さな羽を動かして忙しそうにしています。一生懸命働いている姿を見ながらふと、この(チはどんな(チミツを作るのだろうと思いました。
数日後、(チに詳しい門徒さんにいろいろと教えてもらいました。私か見ていたハチは、ニホンミツバチの種類だろうということでした。ニホンミツバチは黄色い7部分が少なく、小さいのが特徴なのです。
ハチミツについても、れんげ(チミツ、アカシア(チミツのように集めてくる花で名称が違い、いろんな花から集めたものは百花(チミツと呼ぶことを知りました。
ミツバチが一生懸命羽を動かして集めるハチミツは、花の種類によって香りや味わいが変わるのです。
であう花によって(チミツの香りや味が変わるように、私たちも、何にであうかによって人生のありようが変わるのではないでしょうか。
一生懸命生きることは人それぞれに変わらないことだとしても、何にであうかで味わい方は大きく変わるのだと思います。そして、どのような教えに支えられて生きているのかということがとても重要であると、ミツバチの姿から教えられました。

願生心なき身

私たちは、阿弥陀如来の願いを受けて生きている身であり、私を支えている生命の豊かさにめざめよ、と勧めてくださっているのが藤元正樹先生です。
墜冗正樹先生は真宗大谷派の僧侶で、兵庫県たつの市にある圓徳寺の住職でありました。一九二九(昭和四)年生まれで、真宗大谷派の真宗教学研究所員や真宗大谷派同和推進本部(現解放運動推進本部)委員を務められます。執筆活動や講演会など、伝道布教に尽力をなさり、二〇〇〇平成十二)年四月十六日にご往生されました。
今月のことば「己れに願いはなくとも願いをかけられた身だ」は、先生の著書『願心を師となす』(東本願寺出版)に出てきます。短い文章でありながらも、二度「願い」という言葉が出てきます。最初の願いは私か起こす願いのことです。『願心を師となす』には、

人間というものに願心があれば、願心というのは別の言葉でいえば求道心ともいえるし菩提心といってもいい。特に仏教の場合は菩提心といってもいいんでしょうけど

と述べられています。私か起こす願いとは、ただ単にあれが欲しいとかこれが欲しいという願望を満たすような願いのことではなく、阿弥陀如来の浄土に生まれて仏と成りたいと願う心のことなのです。
そして、実際にこのような心を持っているのかという問いに対しては、親鸞聖人にとって一番の問題は閑提にある。つまり成仏の可能性をもたないものです。言葉を代えれば、それはまさしく菩提心なんてものを認めないということでしょう。
とあります。仏となる道を歩もうという心を起こすことができるなら、すでに仏道を歩んでいるはずです。しかし、仏道を好むよりも世俗的な快楽を追求するのみで、さとりを求める心が起こらないのです。成仏することができないものを、仏教では「閏提」とか「一間提」と表現しています。

 

 そして、どこをさがしても願生心なんかないものが真宗の教えの機であります。

と述べられます。ここで「機」とあるのは教法に対する言葉で、仏の教えをこうむるべき対象のことをいいます。仏となる道を歩めないもの。浄土に生まれて仏と成りたいと願う心が起こせないもの。そのようなものこそが救われていく教えが浄土真宗であり、その教えの中心は阿弥陀如来の願いであると説かれるのです。

願いをかけられた身

今月のことばの二つ目の「願い」は、この阿弥陀如来の願いのことです。
阿弥陀如来の願いはすべてのいのちへと注がれ救済の対象とされていることを、どんな人間であろうとも、己れに願いがなくても、如来の願いを受けた身だと。
それを親鸞聖人は言い当てようとするんです。自分に仏法を求めるような心はないけれども、仏法を求める心はないものだから、どうにもならんというのでない。己れに願心はないけれども、如来の願心を受けた存在である

と述べられています。この世界を生きることで精一杯、仏教のような教えには無関心で、私にはまったく関係ないものと決め込んで生きているようなものも、阿弥陀如来の願いを受けた存在なのです。
その阿弥陀如来の願いは一方的に届けられていることを、

よくよく考えてみたら寝ていようと起きていようと、とにかく願いを受けた身
であった

と味わっておられます。阿弥陀如来の一方的な願いによって私たちは仏教の教えを聞き、南無阿弥陀仏とお念仏申す身となっているのです。このことは、願いには人を育み成長させる力があることを示しています。
阿弥陀如来の願いに学ぶ時、人は願いなくして生きることができないことを教えられます。
先生は、どのようなものであっても何かの願いを受けて生きていることを、

こんな大がと思っても、こんな大はどうにもならんやないかと思うけれども、その人の母か、その人の父か、その大の奥さんか誰か知らんけれども、その人間が生きているということは誰かの願いを受けて生きとるんです。己れに願いはなくとも願いをかけられた身だということ             (同頁)

と述べられています。ここに、今月のことば「己れに願いはなくとも願いをかけられた身だ」があります。
私の方からお願いもしていないのに、私のことを案じ、一方的に注がれている願いがあることに気づく時、自分の力で生きてきたと思っていたことが、生かされているという受けとめへと転換されていきます。
そして、生かされていることに気づく時、生きることが豊かなものであるという思いが湧きだしてくるのではないでしょうか。
お願いすることもなく、精一杯生きてきた私ですが、すでに阿弥陀如来の願いを受けて生かされている確かさを南無阿弥陀仏によって知らされているのです。『歎異抄』の「後序」には、

弥陀の五劫思惟の願をよくよく案ずれば、ひとへに親鸞一人がためなりけり。さればそれはどの業をもちける身にてありけるを、たすけんとおぼしめしたちける本願のかかじけなさよ             (『註釈版聖典』八五三頁)

と、親鸞聖人のご述懐が記録されています。阿弥陀如来が五劫もの長い間思いをめぐらせてたてられた本願をよくよく考えてみると、それはただ、この私一人をお救いくださるためであった。思えば、この私はそれほどに重い罪を背負う身であったのに、救おうと思いたってくださった阿弥陀如来の本願の何ともったいないことであろうか、という仰せであります。
仏になりたいと思えない私か、阿弥陀如来の願いによって南無阿弥陀仏と申す身となっている。そのことを「己れに願いはなくとも願いをかけられた身だ」と表現されたのです。

育み続けているもの

私に注がれている願いにはなかなか気づけないものです。だからといってないということではありません。願いには必ず気づきを与える力が具わっています。このことを、ある門徒さんから教えてもらいました。
数年前のことです。百歳のお母さまを見送られた息子さんの思いでした。
一周忌のお勤めの後、その方が、
「住職さん、今日は本当にありがとうございました」と、心の底からすっきりした表情でおっしゃったのです。
「いやあ、実はね、どうしてこんなことしないといけないのかと、正直面倒だなあと思っていたんですよ。でもね、いろいろと段取りを考えているうちに考え方が変わっていく自分に気づいたんです」
弟さんが体調を崩されたのがきっかけで、もしお母さまが生きておられたら心配するだろうなと思われたそうです。
「母だったらどう接するだろうかって考えたんです。母は、小学校の給食を作っていました。父が早くに亡くなったことでたいへんだったけど、いつも美味しいもの、滋養の付くものを、僕たち兄弟に食べさせようとしてくれました」
私も、お母さまが作った食事をいただいたことがあります。今もそのポテトサラダの美味しかったことを思い出します。
「弟のことを考えると母は辛かろうと思う。母に代わってできることをしてあげようと思って、弟が元気になれそうな食べ物を考えてたんです。それでね、わかったことがあるんです。私も同じように母から大事に思われていたんですね。母のためにと思っていた自分かまちかっていたと気づいたんです。母に育てられたから私かあるんだと教えてもらいました。

だから住職さん、ありかとうと言ったんです」
というお話でした。

生まれた時からお願いもしていないのに一方的に願いを受けてきた身だからこそ、自然と知らされていくことがあるのだと、この時教えてもらいました。それまで気づいていなかっただけで、ちゃんと受けた願いのとおりに生かされている姿があるのです。
薯几正樹先生は、

  人間の生涯なんてものは氷山の一角みたいなものですが、法海の中に隠れている部分、親鸞聖人はそれを言おうとされているんです。

と、『願心を師となす』の最後にしめくくっておられます。
願いをかけられた身であることになかなか気づけないものですが、願いは今も私を育み続けているのだと味わわせていただくことです。
(和気 秀剛)

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2021年4月のことば 如来さまより最も遠い身が 実は最も近い身でありました

闇を破る光

二〇一八(平成三十)年九月六日、私は北海道札幌市内にある寺院にご縁があって、滞在していました。
その日、午前三時七分に発生した地震は、各地に甚大な被害をもたらします。また、揺れの直後に北海道全域で停電が起こりました。
真っ暗な中、懐中電灯を持って住職さんと一緒に境内の被害状況を確認しました。
境内の外にある信号や、向かいのビルも真っ暗です。私の家族が住む関西から遠く離れていることもあって、大都会の片隅に一人残されたような気がします。お寺にいた何人かで地震の情報を集めているうちに、明け方近くになっていました。
少し休憩しようと廊下に出ました。宣言暗な廊下を歩いていると、光が差し始めたのです。ふと窓の外に目をやると、そこには闇を破って力強く昇ってくる太陽の姿がありました。

なんとあたたかい光だろう。まるで初めて太陽を見たような感じを覚え、同時に、不安を抱えていたことに気づきます。そして、明るくなったことに安心を感じました。
普段は遠くにあって気にもならない太陽が、この時ほど身近に感じられたことはありませんでした。
親鸞聖人は、阿弥陀如来の光明が無明の闇を破ることを「正信掲」に、

  摂取心光常照護 已能雖破無明闇  (『日常勤行聖典』言一頁)
(摂取の心光、つねに照護したまふ。すでによく無明の闇を破すといへども『註釈版聖
典』 二〇四頁)

と、仰せになられています。ここでいう無明とは、阿弥陀如来の本願に対する疑いのことで、無明を闇に讐えられています。なぜなら、夜の闇は太陽によってのみ打ち破られるように、闇は自らの力で闇を破れないからです。
阿弥陀如来の光明が私に至り届かなければ、自分の力で本願を疑う闇を破ることはあり得ないのです。そこで、阿弥陀如来の光明のはたらきかけによってのみ、本願に対する疑いの闇は破られ、信心が開かしめられると仰せになられたのです。
ですから、南無阿弥陀仏の教えに出遇えだのは、阿弥陀如来の本願のはたらきかけによることがわかります。無明の闇を破られたものは、常に阿弥陀如来の摂取の心光に護られているのです。

光を仰ぐ機縁

今月のことば「如来さまより最も遠い身が実は最も近い身でありました」は、父である和気良晴の『「慶ばしいかな」の人生』(百華苑、以下、『慶ばしいかな』と表記します)に出てきます。二〇〇一(平成十三)年一月十三日、本願寺御正忌報恩講特別講演の法話内容を出版したものです。

二〇〇四(平成十六)年、五十七歳で往生した父は、奈良県五條市、浄土真宗本願寺派圓光寺の住職を務めていました。昨年はちょうど十七回忌でした。
圓光寺の境内には立派な松がありました。根元の少し上から大きく湾曲しており、大人がその下を通れるほど大きく成長した古木です。お寺が建っている場所は吉野地方と呼ばれる山間部で、夜空に瞬く満点の星が美しく、澄んだ空気が特徴です。
夜になると人工的な光はほとんどありません。月がなければ真っ暗です。ですから、月の満ち欠けによって、夜の明るさが異なることがよくわかります。
『慶ばしいかな』には、

「松陰の暗さは月の光かな」という古歌があります。松の木がお月さまの光に照らされますと、松陰が地面に映ります。(中略)松の木を照らす月の光の強さによって、その陰の濃さや暗さが鮮やかになるのです        二一頁)

とあります。父は布教使として各地にご縁をいただき、お世話になりました。最寄りの駅がお寺から遠いこともあり、道中は車で移動していました。夜のお座が終わって、遠く暗い山道を縫うように運転して帰ってきます。駐車場に車を停めた後、家の玄関までの間に、あの松の古木があるのです。
月明かりに照らし出される松陰の濃淡に、自分目身の陰を重ねて見ていたのだろうと思います。
光は強ければ強いほど、陰は濃さを増し、よりはっきりとその輪郭を現します。
光と闇は分けて考えるものではないと思います。光があるから闇を感じ、闇と感じるところに光を仰ぐ機縁があるのです。
誰よりも、最も近い 親鸞聖人は、私たちの持つ貪愛(むさぼり)や瞑憎(いがり)といわれる煩悩と信心の関係を、先はどの「正信掲」のご文に続いて、

貪愛瞑憎之雲霧 常覆真実信心天
讐如日光覆雲霧 雲霧之下明無闇

(『日常勤行聖典』 二了一四頁)

(貪愛・瞑憎の雲霧、つねに真実信心の天に覆へり。
たとへば日光の雲霧に覆はるれども、雲霧の下あきらかにして闇なきがごとし。『註釈版聖典』二〇四頁)

とお示しになられます。

私たちの抱えている貪愛・填憎の煩悩を雲霧に讐えて、それは、信心の空を常に覆い隠すようであると仰せです。しかし、たとえ太陽が雲霧に覆われていたとしても、闇はすでにはれて、その下は明るいように、煩悩の雲霧があっても往生のさまたげとはならないのである、と教えてくださいます。煩悩を抱えながらも、阿弥陀如来の光明に照らされて歩む仏道があるのだとお示しくださったのです。
阿弥陀如来の光明に照らされて教えに生きているからこそ、ますます自ら煩悩を抱える愚かさに気づかされます。気づけば気づくほど、阿弥陀如来の願いから私は遠く隔たっている存在であると知らされます。しかし、それは同時に、その愚かさを抱えたまま、そのままの姿で救うとはたらき続けてくださる阿弥陀如来のご本願の確かさを、ますます仰ぐ身となっていくのです。
『慶ばしいかな』には、

  如来さまのご本願に出遇いましたときに、その智慧の光に照らされて浮かびあ  がる私の生きざまは、「悲しきかな」としか言いようのない姿でありましょう。
(六頁)

とあります。そして、私の「悲しきかな」という暗さは、そのままがすでに確かな光のなかに照らされていたからこそ、その暗さがいっそう光のなかで鮮やかになるのです。すでに光のなかにいるからこそ、それが言えるのですね。(中略)光に、すでに照らされていたのでありましたという驚きでもあり、大きな感動でもあります。如来さまより最も遠い身が、実は最も近い身でありましたと転ぜられることへの感動であります。                        (二言()

と、阿弥陀如来の光明に出遇ったよろこびが、「如来さまより最も遠い身が実は最も近い身でありました」と語られています。
弥陀の光明に出遇う前は、とても遠く感じられていた存在が、その光明に摂取され、教えに生きる中で、阿弥陀如来が最も身近な存在であったと受けとめる世界があるのです。
そして、「すでに照らされていた」と述べられているように、阿弥陀如来の光明は手を使って説明してくれます。
「両方の足の親指を、こうして少し重ねて座るのがコツやで。しびれてきた親指の上下を入れ替えると良いんやで。するとしびれがとれる。繰り返したら長いこと座れるよ」
なぜあの時、祖父がわざわざ正座の話をしてくれたのか。それは、私か数日前に、カナダから帰国したことに関わりがありました。
父は、母と結婚してしばらくの間、工業機械の設計技師をしていました。母の実家がお寺だったことが縁となって、数年後、仏教を学び、僧侶になる決心をします。
父が目標にしたのが母の父であり、正座の話を私にしてくれた祖父なのです。祖父はとてもお坊さんらしい人でした。温和で、いつも阿弥陀如来を仰ぐ生活を送っていました。その祖父の姿に感化されたのです。
それから父は開拓精神があったのか、カナダへ渡り、開教使(海外の寺院などで伝道活動に携わる僧侶)になりました。海外の寺院はさまざまな形をしています。父が赴任したカナダのマニトバ州ウィニペグ市にあったマニトバ仏教会の建物は、キリスト教の教会を改築したものです。日本の小学校の体育館のように、一段高くなった舞台のような位置に阿弥陀如来や親鸞聖人が安置されています。参拝するメンバー(カナダでの門徒さんの呼称)は、全員椅子に座ってお参りするのです。ですから、カナダで生まれた私は正座をしたことがなかったのです。
正座をしたことがない小さな孫に、祖父の視線が注がれていました。カナダから帰国した私たち家族は、ご縁があった圓光寺に人寺することになっていましたので、正座をする必要があります。小さいうちから正座に慣れて欲しい、ひょっとしたらそんなことを思っていたのかもしれません。
遠いと思っていた過去のできごとも、振り返ってみると今を支えているということがあるのです。
「如来さまより最も遠い身が実は最も近い身でありました」という今月のことばは縁がなかったら浄土真宗の教えに出遇うことはなかったはずの自分、縁があったから僧侶になった自分、その自分を常に包み込み育んでいる存在があることに気づいた父の人生を表す言葉だったのかもしれないと、この度のご縁を振り返りながら思うことです。
私たちは願われて、その願いの中に生かされているのです。煩悩を抱えながらも、阿弥陀如来の光明に摂取され、護られて歩める道があることをお聞かせいただきました。
南無阿弥陀仏と共に精一杯この人生を歩んでまいりたいと思います。
(和気 秀剛)

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2021年3月のことば 私の上にあるものは 全部賜うたものである

はじめに

今月のことばは、細川巌師の言葉です。師は、一九一九(大正八)年に福岡県に生まれ、広島文理大学(現広島大学)化学科に進学。卒業後に、広島師範学校(現広島大学)、福岡師範学校(後の福岡学芸大学、現福岡教育大学)、東京水産大学などで教育と研究に携わり、一九九六(平成八)年にご往生されました。専門は「分析化学・地球化学」で、「浅海底土の化学的研究」で東京大学の理学博士号を取得されています。
端的に言えば、河川や海の土壌の研究をされた「科学者(化学者)」です。その一方で、戦後の福岡に帰ってからは、福岡学芸大学内で仏教、特に親鸞聖人の教えの勉強会を主催し、さらに座談会などで来聴者との質疑応答を大切にしつつ、自らの仏教理解を深めていかれたそうです。そのような会を通して、多くの方々に影響を与えられたことでも知られています。
たとえば、私と郷里が同じ田畑正久(元龍谷大学大学院実践真宗学教授・宇佐市佐藤第二病院院長)先生は、九州大学医学部時代に師の主催する勉強会で仏法に触れることになったそうです。私は、田畑先生を通して師の書籍をたくさんいただきました……恥ずかしながら、ボチボチとしか読めていません……。師の生涯については、二〇〇〇(平成十二)年四月十三日放送のNHKラジオ「宗教の時間」でテーマ「自力を尽くした果てに見えてくる愚かな者の救いの道」の中で触れられています。この「愚かな者」とは師ご自身のことを意図しています。

 

仏法との出遇い-不思議なご縁-

さて、師は今風に言えば理系でしたが、仏教に触れたのは進学した広島文理大学で金子大築先生の講義を聴講したのが最初でした。また、在学中に二十名ほどの学生を指導する立場となり彼らと共同生活を始めますが、その場所が郊外の真宗関係の会館であったことが浄土真宗の教えを聴聞する機会となりました。毎日の生活の中で、会館関係者に「希望者は朝の勤行に出てもよい」と言われたそうですが、最初は誰も出なかったそうです。しかし、間借りの体裁を繕う気持ちで出るようになり、朝の勤行が聴聞の最初の縁となるのです。当初は仏教の知識がなかったので法話の内容がわかりづらいところもありましたが、「真実のみが末通る」など、学生にもわかり易い表現を使ったお話を聞いているうちに、興味が湧いてきたといいます。
やがて初めての「報恩講」を迎え、一週間の法座に皆勤しかことが大きな仏縁になったそうです。そこでの同行さん(念仏者)と寝食を共にする中で、「人として生きること」についてさまざまな気付きと影響を受けられました。
しかし、最初の一年間にあった聴聞ごとの感動も、二、三年と経つと薄れてきたそうです。ある時、ご講師にその思いをぶつけると、そのご講師は『歎異抄』の、

念仏申し候へども、踊躍歓喜のこころおろそかに候ふこと、・……(以下略)
(『註釈版聖典』八三六頁)

云々という「唯円房の問い」こそが「あなたの問いそのものです」と指摘され、その問いは「すぐに解決しようとせずに、一生それを背負って、続けて聞いていきなさい」と諭されたそうです。その言葉が縁となり、広島在住の時代には、島根や山口へ時間を作ってば何度も聴聞に出向き、繰り返し同じご講師の法話を聴聞されたそうです。

求道の姿勢とは

戦前・戦中・戦後の激動期を生き抜かれた多くの方が体験しかように、師も世間的な価値観の激変に悩まれたのでしょう。そこに、普遍的で変わることのない「真実というものがあるのか」という問いが生まれてきたのです。そのような中で、学生時代に縁のあった『歎異抄』の親鸞聖人の言葉を聞いていくことになるのです。
しかし、専門が化学という理系であったためか、他人が言っていることでも、自分がわからないことや実証できないことを受け入れることは難しかったそうです。化学(理系)の確信とは、「自分」を横に置いて、実験で実証できるとおりで間違いないと確認していく営みです。一方、仏法の教えは、その理解し確信する自分、すなわち「私」を問題にします。たとえば、家庭や学校・社会の中で、教えられたとおりに実行できればよいのですが、理屈はわかっていても、それが実行できない「私」がいるのです。師は、否応なく、そんな「私」の姿を見つめることになり、苦悩し続けられました。
このように客観的に「もの」を観察していた科学者が、観察している「自分」を見つめることの大切さに目覚めるという出来事は、ままあることのようです。私の読んだ『科学者の説く仏教とその哲学』(学会出版センター・一九九二年)の著者である泉美治先生(武田化学薬品株式会社勤務を経て大阪大学教授や蛋白質研究所長などを歴任)も、その一人だと思います。そんな方々の言葉を読むと、漠然と日暮らししている自分自身の至らなさやいい加減さ、そして傲慢さを痛感させられます。

「七仏通戒偶」とその逸話

「仏法という教えは何か」、それを一言で説明することは難しいですが、『法句経』などに伝えられる偶文があります。それは「七仏通戒偶」と呼ばれる、

諸悪莫作(しょあくまくさ) 衆善奉行(しゅぜんぶぎょう)
自浄其意(じじょうごい) 是諸仏教(ぜしょぶっきょう)

というものです。端的に言えば、「すべての悪を作らないようにしましょう。できるだけ多くの善を行いましょう。そうすると、自分自身のこころは浄くなります。これが諸々の仏さまの教えです」ということです。
この掲文には種々の逸話がありますが、その一つは次のようなものです。中国唐代の詩人である白居易(白楽天)は禅を愛好していました。ある時、鳥衆道林という禅僧に「仏教とは何か」と質問したところ、禅師が先の偶文で答えたのです。そこで、白居易は「そんなことは三歳の子どもでも知っている」と言ったのに対して、その禅僧が「確かに三歳の子どもでも知っていよう。しかし、自分は五十年あまり仏法の教えに依って生きようと心がけているが、今まで一日たりともできたことがない」と応えたのです。この問答は史実とは認められていませんが、「仏教(仏法)とは何か」を象徴的に示す逸話として大切にされています。この逸話によって、より善く生きようとする「私」自身を見つめることの重要性と、まさに今を生きている「私」自身を見失いがちであることに、改めて気付かされます。

先人達のご苦労に感謝する

私たち凡夫は、自分の周りの「人」も「物」も自己中心的な眼で観察し、比較して理解しています。それも、一人ひとり一つひとつを唯一無二のものと見ることができず、漠然とした表面的な因果関係でもって、自分にとって「役にたつか否か、必要であるか否か」という功利的なご都合主義で見ています。そのような利己的な視点では、本当に大切なものを見落としてしまい、感謝の慶びを失っていきます。
さて、「私」たちは「知識がある」とか「知識がない」とか言います。この「知識」という言葉は仏教に由来する語で、本来「先生」を意味します。たとえば、「私には多くの知識がある」という場合、それは困った時に教導してくれる「先生」が多いという意味です。私たちは生まれてから種々のことを学び知識を得ますが、そこには必ず「先生」がいました。ノーベル賞に値するような業績を残しか方々も、その分野の先人たちが研究し続けた成果の上に積み上げた業績が評価された受賞なのです。その成果をもたらした先人やその成果が「知識」なのです。翻って、その成果を知っていることが「知識」と転用されるようになったのです。「自分には知識がある」という場合、それは自らが学び修得したものですが、それを伝えてくださった方々のご苦労に感謝することが大切です。しかし多くの場合、感謝すらなく、傲慢にも「自分には知識がある」と威張ってしまうのです。

「知徳報恩」の世界

一般には、「ありかとうと感謝の気持ちを大切に生きていきましょう」といわれます。考えてみると、そんなことは三歳の子どもでも知っていますが、皆さんはできていますか。恐ろしいことに、大人になればなるほどできていないのではないでしょうか。「人間は一人では生きていけない」と言いながら、誰の世話にもなりたくないと思っていませんか。また、毎日の生活を支える知力も体力も自分一人で得たものだと傲慢にも思っていませんか。そこには真の意味での感謝も慶びもありません。
親鸞聖人が詠まれた『正像末和讃』の一つに「恩徳讃」があります。

如来大悲の恩徳は
身を粉にしても報ずべし

師主知識の恩徳も
ほねをくだきても謝すべし            (『註釈版聖典』六一〇頁)

「如来大悲」とは、「南無阿弥陀仏」の親心のことであり、この煩悩具足の「私」のいのちを見放すことなく照らし続ける阿弥陀さまの智慧と慈悲です。「師主」とは、先生の中の先生で、その「智慧と慈悲(南無阿弥陀仏の功徳)」を私たちに説き示してくださったお釈迦さまのことです。「知識」とは、その「南無阿弥陀仏」の親心を解きほぐして伝えてくだった方犬特に浄上教伝統における七人の先生(七高僧)と、その方々が残してくださった成果(書物)を意味します。親鸞聖人の「恩徳讃」は、それらのはたらきに対する、自らの「知徳報恩」の言葉なのです。
私は、今月のことば「私の上にあるものは全部賜うたものである」をその「知徳報恩」に通じる言葉として味わっています。
(内藤 昭文)

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2021年2月のことば 念仏者の人生はまさに慚愧と歓喜の交錯

はじめに

今月のことばは、梯宵圓師の言葉です。師は、一九二七(昭和二)年に兵庫県飾磨郡、現在の姫路市に生まれられました。今でいう大学進学のために、大阪の摂津富田にある、浄土真宗本願寺派の私塾ともいうべき行信教校に入学され、縁あってそのまま行信教校に身を置いて、浄土真宗の教えの研錐に励まれました。さらに、諸先生方の勧めもあって大阪教区阿倍野組の廣毫寺に人寺されました。その後も行信教校で後進の育成に従事され、校長まで務められました。宗門においては、浄土真宗教学研究所(現浄土真宗本願寺派総合研究所)所長、宗学院講師などの任にも就かれ、二〇一四(平成二十六)年にご往生されました。早いもので、この原稿を書いている二〇二〇(令和三年五月七日が七回忌でした。
私は、浄土真宗教学研究所の前身であった教学本部で師が副講師を務めていらっしゃった一九八六(昭和六十コ年の夏にお会いして以来、ご往生されるまでさまざまなご縁をいただきました。具体的には、教学研究所が発足した時には上司となっていただきました。また、梯先生―ここからは「先生」と表現します–に誘われて、行信教校での講義を担当することにもなりました。
それ以前から親交のあった行信教校の利井明弘校長は、「梯先生はサイボーグみたいな人だ」とよく評していましたが、それは記憶力のことかもしれません。さまざまな分野に興味を持ち、何でもよくご存じでした。「博学」あるいは「ウォーキングディクショナリ(生き字引)」とでもいうべき方でしたが、お念仏申すことを何よりも慶ばれる先生でした。

不思議なご縁の中に

先生は、前述したように縁あって入寺し住職となられました。先生は、念仏者・僧侶としての人生を送るようになりましたが、それは本当に不思議な縁だったと、話されていました。終戦前後に入学しか若かりし梯先生(旧姓は「北」でした)が当時歩もうとした人生は、念仏者・僧侶としての人生ではなかったであろうと思います。山本佛骨和上や桐渓順忍和上をけじめ、利井興弘先生など、行信教校で出遇った先生方、すなわちお念仏申す善知識の方々とのご縁の中でお育てを受けられたのでした。
梯先生の一番弟子である天岸浄圓先生が、恩師の葬儀の際に伝えられた逸話があります。梯先生はご往生の前年末より体調を崩され入院されていました。いよいよ臨終の近いことを覚悟された奥さまが、先生に「五十六年間、ほんまにありがとう。ほんまに楽しかったね」と声をかけられたそうです。その時先生は、笑顔を見せつつ「今も」と一言だけ応えられたそうです。どんなに苦しい状況であっても、まさに今を生きることの有り難さと、感謝申す人生のかかじけなさを伝えてくださっています。
先生は、行信教校において、お念仏申させていただく人生の「豊かさ」や「しあわせ」を聴聞し、そのことを多くの善知識のお育ての中で自らの人生を通して味わ
つて来られたのでしょう。それはまったく「不思議なご縁」としか言いようのないものだったと想像します。
その行信教校の一日は朝の勤行から始まりますが、その中で親鸞聖人の『教行信証』「総序」のご文を全員で唱和します。それは、「一月のことば」でも紹介した、

ああ、弘誓の強縁、多生にも値ひがたく、真実の浄信、億劫にも獲がたし。たまたま行信を獲ば、遠く宿縁を慶べ。もしまたこのたび疑網に覆蔽せられば、かへつてまた壊劫を経歴せん。誠なるかな、摂取不捨の真言、超世希有の正
法、聞思して遅慮することなかれ。        (『註釈版聖典』 一三二頁)

です。この「総序」唱和の伝統は、きっと梯先生か入学された頃も同様だったと思います。新入生も半年も経つと、このご文がスラスラと出るように身に染みこんでしまいます。 唱和する度に「摂取不捨の真言」、すなわち阿弥陀さまのみ名のおいわれを「聞思して」、法味を深めていかれたのでしょう。まさにこれこそが、天親(世親)菩薩のいう「法界等流の聞薫習」の姿-「真実まことの世界(お浄土)から、今日のわが身の上にはたらく如来の心(智慧と慈悲)を身に染みこむまで繰り返し聞く」というあり方-だと思います。

智慧と慈悲は「鳥の両翼の如し」

仏教徒とは、仏・如来の教えを帰依処とする者です。その仏・如来は智慧と慈悲のことですが、両者は不一不二なるものです。つまり、慈悲を伴っていない智慧は仏の智慧ではなく、智慧に裏付けられていない慈悲は如来の慈悲ではないのです。
恩師の長尾雅人(京都大学名誉教授)先生に、仏の智慧と慈悲は「鳥の両翼の如し」あるいは「車の両輪の如し」と教えてもらいました。
よく知られたことですが二仏陀(仏)」とはサンクスワット語のブッダ(回良江)の音訳で、「覚者(めざめた者)」と意訳されます。それは「智慧」を意図しています。一方、「如来」とはタターガタの意訳です。この言葉の解釈について、天親菩薩は①[{tatha+gata}と②[tatha+agata}という二通りを示します。前者①は
「如(真如・真実)に去る(行く)」で、後者②は「如から来る」の意味となります。前者は、「迷いの世界から真実の世界へ去ること(行くこと)」で、「真実を覚ること」によるめざめた智慧を意味します。後者は「真実の世界から迷いの世界に還って来ること」で、迷い苦悩する人々に寄り添う慈悲を意味します。すなわち、「如来」とは智慧に裏付けられた「慈悲」のはたらきを意味します。

 親鸞聖人は『教行信証』の中の「正信褐」で、

極重悪人唯称仏(ごくじゅうあくにんゆいしょうぶつ) 我亦在彼摂取中(がやくざいひせっしゅちゅう)

煩悩耶眼雖不見(ぽんのうしょうげんすいふけん) 大悲無倦常照我(だいひむけんじょうしょうが)  (『日常勤行聖典』言舌])

(極重の悪人はただ仏を称すべし。われまたかの摂取のなかにあれども、煩悩、眼を障へて見たてまつらずといへども、大悲、倦きことなくしてつねにわれを照らしたまふといへり。『註釈版聖典』二〇七頁)

といわれています。「摂め取って捨てない」という如来の智慧と慈悲のはたらきの中に「私」はいるのですが、煩悩に遮られて身勝手な私の眼ではそのことがわからないのです。しかし、如来の大悲はいつでもどこでも私を見通し、倦むことなく照らし続けてくださっているのです。その証拠が、今、私の口からこぼれている「南無阿弥陀仏」なのです。その念仏は「智慧」に裏付けられた「慈悲」そのものなのです。

「歓喜と慟愧」の尊さ

さて、私たちは成長するにつれて、「若い頃にもっとしっかり勉強しておけばよかった」などと思うことがあります。また、「○○をやってて良かった」と喜ぶことも、よくよく考えてみると親や先生などに「○○をしておきなさい」と勧められたからであったりします。むしろ若い当時は、「どうしてこんなことをしなければいけないのか」と不平不満を抱さながら、嫌々ながらやったことだったりします。なぜならば、若い頃の「私」は自分一人で大きくなったと思い、身勝手に自分の好きなことばかりをしてしまうのです。しかし、それは若い頃だけではないように思います。
三十歳、五十歳や七十歳になっても、いつでもどこでも私たちは、「そんなことをして何の役にたち、何の得になるのか」などと目先の損得勘定で、その時を生きています。あるいは「なぜ今、こんなことをする必要があるのか」などと、身勝手で利己的なご都合主義の中で生きています。すなわち、歳を重ね何歳になっても自己中心的な欲望に振り回されて、「今」を生きています。
世間には「失って初めて気付く親の恩」という言葉があります。親の恩だけではなく「ご恩」というものは、自己中心的な「私」にとって、悲しい哉、失うことでしか気付けないものばかりなのかもしれません。「親の恩」とは数多ある「ご恩」の象徴なのです。
仏の教えは、仏・如来のありようを「親」によく讐えて示されます。過去の「私」を振り返りつつ、未来の「私」を見据えつつ、今現在を生きることが大切です。そのことはわかっていても、自己中心的な「私」は身勝手な欲望のままに目の前のことしか見えていません。そんな「私」を見捨てることなく、いつでもどこでもはたらき続けているのが「親心」です。それをもって仏・如来の心を讐えるのです。しかも、常に「私」を見捨てることなく寄り添い続ける「親心」がわからないまま、「今」を生きています。その「親心」に何かの縁で触れて気付いた時、「かたじけない」という歓喜と「もうしわけない」という「慟愧」があるのです。これが「ご恩」の内実だと思います。

「末通るもの」のかたじけなさ

誰にでも親がいますし、その親にも親(祖父母)がいます。さらに、祖父母にも親がいるというように、「いのち」には必ずその「いのち」を育む「親」がいますが、それらに「末通るもの」が「親心(親の願い)」の讐喩で、如来の「智慧と慈悲」を意図しています。一方、この娑婆での親自身は、この苦悩多き世界の愚かな人間でしかありません。私も親ですが、悲しい哉、煩悩成就の身勝手な親でしかありません。
たとえどこまでも子に寄り添う優しい親でありたいと思っても、この娑婆のことにしか寄り添えません。しかし仏・如来は、過去を含めた今現在の身勝手な「私」を丸ごと「わが子」と認めて寄り添ってくださり、その「私」のいのちの往く先まで寄り添ってくださるのです。それが「智慧」に裏付けられた「慈悲」なのです。
私の称える「南無阿弥陀仏」とは、今を生きる身勝手な「私」を丸ごと認めてくださる「親心」なのです。お浄土から「必ず救う」と喚び覚ましつづける「親」の名告り(名号)なのです。聞法生活の中で、この身勝手な「私」にかけられた如来の智慧と慈悲、すなわち阿弥陀さまの「親心」を聞信して、ご恩の一つでも気付かせていただきましょう。

今月のことば「念仏者の人生はまさに漸愧と歓喜の交錯」とは、聞信の中でまさに「歓喜」と「懺悔」の交わる人生であり、それこそが先に紹介した「総序」のご文の内容なのでしょう。共にお念仏申しながら、聴聞のご縁を大切にいたしましょう。

(内藤 昭文)

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2021年1月のことば 私を生かしておる 力というものに 帰っていく歩み それが仏道

はじめに

今月のことぼは、宮城顎((みやぎしずか)師(法名・憚智雄)のものです。宮城師は一九三二昭和六)年京都市に生まれ、二〇〇八(平成二十)年に七十八歳でご往生されました。私は師のことをよく存じあげていませんが、大谷大学文学部卒業後には大谷専修学院講師・教学研究所所長・九州大谷短期大学教授や学長を歴任しながら、真宗大谷派本福寺の住職をされておられました。最晩年の二〇〇五(平成十七)年の五月に、東本願寺で開かれた「親鸞聖人七百五十回御遠忌法要」の真宗本廟お待ち受け大会で「汝、起ちて更に衣服を整うべし」と題しか記念講演をされています。その直後から闘病生活に入られたそうです。
その師の講義や講演、あるいは法話は、『宮城顎選集』(法蔵館)として出版されています。そこに見られる師の姿勢は「聞思」ということです。それは、親鸞聖人の『教行信証』「総序」に、

誠なるかな、摂取不捨の真言、超世希有の正法、聞思して遅慮することなかれ。                           (『註釈版聖典』 言一二頁)

とある「聞思」です。つまり、仏法に自分のいのちの営みを聞き直し、思惟することでしょう。それも「摂取不捨の真言、超世希有の正法」、すなわちお釈迦さまが『仏説無量寿経』で顕された阿弥陀さまの御名のおいわれを「聴聞」することによってです。換言すれば、『仏説無量寿経』の仏語に聞思することこそが大切です。

今を生きている「いのち」を知らされる

さて、私たちは不思議な因縁によって生まれ、因縁の中で歳を重ね、どこか病みながら、臨終の一念を迎えるのです。この「生・老・病・死」こそが「私」の「生きている」ありようなのです。確かに、お釈迦さまや親鸞聖人などの在世当時とは、その「いのち」を取り巻く環境や社会情勢などは随分変わっていますが、「生・老・病・死」という「いのち」そのもののあり様は何も変わってはいません。
また、この「生・老・病・死」の「いのち」の姿は、いわゆる私たち「人間」であれ、犬や猫であれ、さらには梅や桜であれ、同じです。さらに、そんな「いのち」を「生きている」とはどういうことなのでしょうか。寝て起きて、食事をして、身体などを動かすことなのでしょうか。

曇鸞大師は『往生論註』で、『荘子』「逍遥遊篇一」から引用して、

  「姉姑は春秋を識らず」といふがごとし。この虫あに朱陽の節を知らんや。知るものこれをいふのみ。           (『註釈版聖典(七祖篇)』九八頁)

と述べています。「能姑」とは、蝉-一説には夏蝉の「ツクツクボウシ」あるいは「ヒグラシ」-のことで、「朱陽の節」とは夏のことです。一般的に、蝉は上の中で幼虫として数年から十数年を過ごし、成虫になって地上に出て、「蝉」としては数週間で死んでいきます。したがって、蝉は春と秋を知らず短い夏を一生とするから、この蝉という「いのち」は、自らが「生きている」夏について春と秋と同じく何も知らないというのです。換言すれば、春と秋を知るものだけが「夏」とはどのようなものであるか知ることができるというのです。
この曇鸞大師の讐えを踏まえると、私たちは不思議な因縁によって生まれる前と、歳を重ねどこか傷みつつ臨終を迎えた後を知って、今を「生きている」ということがどのようなものであるかを知ることができるのです。しかも、私たちはその「生・老・病・死」の「いのち」をありのまま受け入れられず、「老・病・死」を忌み嫌って、歳を重ねどこか痛むことを「つまらんようになった」と愚瑕をこぼしてしまいます。それでは、いくら「いのちを大切にしましょう」と言葉にしても、私自らが一番「いのち」を粗末にしていることになります。
また、生きている今を認めることができないばかりか、その生きている今の「いのち」のあり様を身勝手な考えI「歳を取りたくない、死にたくない」―で見ているかぎり、そこには今を「生きている」ことの慶びも感謝も生まれ難いように思います。

親鸞聖人の慶び

親鸞聖人は、先に紹介した『教行信証』「総序」の言葉の直前に、

  ああ、弘誓の強縁、多生にも値ひがたく、真実の浄信、億劫にも獲かかし。た  またま行信を獲ば、遠く宿縁を慶べ。もしまたこのたび疑網に覆蔽せられば、かへつてまた礦劫を経歴せん。          (『註釈版聖典』一三二頁)

と述べられています。端的に言えば、私たちの自己中心的で身勝手な考えで「いのち」を見ているかぎり、これからもまだ迷いの中で、今を「生きていること」を慶べず、苦悩し続けるしかないのです。そのような私だけれども、今念仏申させていただく中に、如来さまの智慧と慈悲を恵まれていたことを慶ばれているのです。
それは、煩悩成就のわが身では知ることはできなかったが、如来の智慧によって「無始よりこのかた迷いの世界を流転し」てきたわが身であったことを知らされて、そこに今の「いのち」の姿を知らされたのです。同時に、そんな身勝手なわが身を「必ず救う」という「南無阿弥陀仏二摂取不捨の真言」の慈悲によって、臨終の一念には「浄土に往生させていただく」身であることを慶ばれているのです。すなわち、慈悲と一体の智慧により今の「いのち」の前のあり様を知らされ、智慧と不一不二の慈悲によってその「いのち」の後の姿のあり様を知らされているのです。換言すれば、まさに今の「いのち」のあり様を知らされ、その「いのち」の往き先を信知させていただき、今を「生きている」ことがどのようなことであるかを知らされるのです。

「生死いづべき道」を聞く

今も昔も自坊の門信徒の方々は、報恩講が近づくと、お寺の行事にあやかって「法行寺寒が来る」と言います。つまり、「寒波」が来るのです。私か小学校に上がった頃でしたが、ミカン箱と竹でソリを作り遊んだ記憶があるほど大雪になったことがあります。参り合わせをしている隣寺の専修寺の住職さんが夜座の出勤のためにやって来られ、玄関で下駄に付いた雪を落としながら、私の父親の名前を叫ばれました。そして「大雪子、今日は誰も参って来れんぞ」と言うと、父親が「それなら、お経さんだけで勤めさせてもらい、終わろう」と応えました。その声を聞きながら、私は「正座の時聞か短くなるな」と嬉しくなった記憶があります。案の定、家族だけの参拝者でお勤めが終わろうとした、まさにその時です、カタカタと本堂正面の戸が開きました。見ると「キクさん」と呼ばれるお同行さんです。
普段どおり家を出たのでしょうが、思わぬ大雪で行事を知らせる喚鐘には問に合わなかったのでしょう。内陣から降りてきた父親が、向拝の横で雪を払っているキクさんに、「よう参つたな。今夜は雪で誰も参りがなかろうから、お経さんだけで終わろうと専修寺さんと話しちょったんじや。お茶でも飲んで、専修寺さんに送ってもらいない」と言いました。「そうかえ、そうかえ」と相づちを入れながら聞いていたキクさんの口から、「生死の話炉聞きたかったな」という声がこぼれました。その言葉を聞いた父親が「一席、話そう」と言ったのです。子ども心にキクさんを恨んだものですが、「生死の話」という言葉だけは忘れられなくなりました。まさに、今を生きている「いのち」のあり様と、その往き先を聞かせていただくために、キクさんは大雪の中をやって来られたのでした。

今の私の姿

さて、生まれたばかりの私は自分で乳を飲むことなど何もできず、両親や祖父母、あるいは有縁の方々の願いとそのはたらき(力)で育まれたのですが、そのことを忘れています。そればかりか自分の力で生まれてきて、大きくなり、今を生きていると思っています。確かに、今は自ら仕事をして生活しています。そのような力、つまり体力・学力・知力・経済力・権力などは「生活力」ではあっても、「生きる力」ではないように思います。むしろ、このような力が自らを傲慢にし、ご恩のわからない「いのち」にしていると言えます。
『歎異抄』に伝えられる親鸞聖人の言葉に、

なごりをしくおもへども、娑婆の縁尽きて、ちからなくしてをはるときに、か
の土(浄土) へはまゐるべきなり。
(第九条、『註釈版聖典』八三七頁、括弧内引用者)

とあります。それは、わが縁ある方々と同じように、生老病死の「いのち」の往き先(お浄土)があることを知らされ、生きている「今」を「なごりをしく」思える「いのち」のご縁として、愚裔のこぼれる中にも慶びを味わえる生活にさせていただくことだろうと思います。そのためには、如来の智慧と慈悲が今を生きている「私」の上に「南無阿弥陀仏」となってはたらいていることを、聴聞簡思)すること以外にはないのです。なぜならば、生まれた以降に受けたご恩を当然のことと思ったり、忘れて生活しているのが今の「私」だからです。「南無阿弥陀仏」のお念仏は、今苦悩する「いのち」そのもののあり様を知らしめるために、いつもでどこでも「私」に寄り添い続ける如来の智慧と慈悲なのです。
そんな今の私を見捨てることなく願っている力、すなわち如来の本願力の源(お浄土)にかえらせていただく「いのち」の道を仰ぎつつ、念仏申す日暮らしを一緒に歩みましょう。それを表現しているのが今月のことば「私を生かしておる力というものに帰っていく歩みそれが仏道」である、と味わっています。
(内藤 昭文

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2021年表紙のことば 念仏となって 私の口から 現れてくださる み仏のはたらき

はじめに

表紙のことぼは、松野尾潮音師の言葉です。師は、一九ニー(大正十)年生まれで、愛知県岡崎市にある浄土真本願寺派明願寺の住職として門信徒を教化しつつ、一九九九(平成十二年にご往生されました。その間に、本願寺派の企画調査室室長や伝道院研修部長を歴任したり、地元の岡崎市の教育委員などを務めたりされています。
私は、恩師の武内紹晃先生のご縁で、同派の「布教講会」で一緒に仕事をさせていただきました。戦前・戦中・戦後という激動の時代を生き抜かれた師の人生は、ご苦労の多いものだったと思います。
私は、師の書かれた『仏教と浄土真宗』(本願寺出版社)を読んだことがあります。この表紙のことぼけ、伝道院研修部長の任にあった一九六五(昭和四十)年の文章の中にありますが、そこには世間的な価値観が急激に変化する時代と社会にどう対応しようかという思いが感じられます。

社会の変化

私か大学生になった一九七四(昭和四十九)年は、一九六〇年と一九七〇年の安保闘争という学生運動が終息しつつある時代でした。当時の社会では、若者を無気力・無関心・無責任の「三無主義」の世代と評価し、その後には無感動・無作法を加えて「五無主義」の世代とも評していました。戦争を体験しか世代の大人には、当時の若者たちが社会に対する積極的な情熱を持っていないように映ったのでしょう。
だから、この世代の若者を「しらけ世代」と総称しました。その後一九八〇年代には、自分かちの世代と社会に対する価値観が共有できない若者を「新人類」とレッテルを貼って呼びました。そのような若者の風潮は現代にも少なからず残っていて、影響を与えているように思います。
しかし、いつの時代でも、どこの世界・地域であっても、親の世代が感じる子どもたちの価値観は、「新人類」と呼ぶべきものではないでしょうか。それは世代が変わっただけで、それぞれが自己中心性(我執)の上にしか価値観をもっていないからでしょう。

念仏申す身となって

さて、私は表紙のことばを見た時、甲斐和里子さんのお念仏を喜ぶ二首の和歌、

  御仏をよぶわがこゑは御仏のわれをよびます御声なりけり
(『草かご』 二四四頁)

みほとけの御名を称ふるわが声はわがこゑながら尊とかりけり
(『同』 一八五頁)

が浮かびました。そして、「かたじけない≒もったいない」という思いが続きました。
彼女の和歌は、前者が二〇一三(平成二十五)年の九月、後者が二〇一四(平成二十六)年の一月の「法語カレンダー」に採用されています。私は、後者の縁で『心に響くことば』(本願寺出版社)にこれらの歌の味わいを書かせていただいていたので、思い合わせたのでしょう。
「念仏」とは、「私」の口をついて出てくる「南無阿弥陀仏」という声です。それを「称名」といいますが、それはみ仏が「私」を喚び続けるはたらきなのです。これを「名号」といいます。

「称名」と「名号」

浄土真宗では「南無阿弥陀仏」を、「称名」ともいい、「名号」ともいいます。この両者は一見してわかるように、「名」の字の位置が後と前という大きな違いがありまた。それらの経典が中国に伝来し、紀元前後から多くの方々の苦労によって、長い年月をかけて漢字に翻訳され続けました。徒歩以外に主な交通手段のない時代、シルクロードを通してインドの僧が中国に伝えたのです。その後、中国の僧がインドに求法の旅をされたのです。そのようにして翻訳に携わった僧をコニ蔵法師」と呼びます。その中には国禁を犯してまで仏典を求めた方がいます。それが、「玄奘」という三蔵法師です。孫悟空の『西遊記』で知られる玄奘三蔵は実在の人物なのです。
そのようにして漢訳された経典が日本にもたらされたのです。
私たち日本人は、本堂やお内仏で勤行する時には、漢訳された経典をそのまま拝読しているのです。一方、その内容を学ぶ時に、その漢文を和語として読み下したりします。漢文を和語としてどう読み理解するかで、種々な解釈と味わいが生まれたりするのです。
漢文では動詞の目的語はその動詞の後に置かれますので、「称名」とは「名を称する「こと」」と読み下すことができます。一方、「名号」が「名を号する[こと]」であす。
さて、インドで成立した経典はもともと主にサンスクリット語で書かれていましるならば「号名」となるべきですが、そうなってはいません。また、この「号」は略
字で本来は「號(ごう)」です。つまり、「號」は「虎」に関わるもので、虎が大声で自分の存在を十方に告げるために吠える様を意図しています。その意味で、「名号」とは名告
り主が大声で自己存在を告げている様です。端的に言えば、「名号」とは名告りです。
すなわち、阿弥陀如来が十方衆生に、この「私」に、自らの存在を「名」をもって名告り続けているのです。
また、「名号」については、伝統的に「すべての功徳を名に施す(全徳施名)」といわれます。すなわち、阿弥陀仏においては、その智慧と不一不二の大悲の「名告り」をもって衆生を「摂め取ること(摂取不捨)」こそが、仏のすべての功徳、如来の「いのち」をかけた願いであるというのです。それを踏まえた上で、敢えて漢語の「名号」を和語として書き下すならば、私は「名をもって号す[こと]」となると味わっています。しかし、阿弥陀仏の「名号」とは単に名を告げることだけではないのです。「名号」こそが私にとっては仏・如来そのものなのです。換言すれば、「私」の口にこぼれる「南無阿弥陀仏」の念仏こそ、「私」の「いのち」に寄り添う如来の願いそのものなのです。
さて、私たちは自分の親を「おかあさん」「おとうさん」と呼びます。しかし、どうして私たちはそう呼ぶようになったのでしょう。それは親の側が、赤ん坊は何もわかっていない、あるいはわからないのを承知の上で、生まれたばかりの「いのち」に向かって、「おかあさんよ」「おとうさんよ」と何度も喚びかけずにはおれず、名告り続けていたからでしょう。その名告り、喚びかけが「名号」なのです。その名号は、「ここにいるよ、心配するな」という親心であり、「お母さんとよんでくれ」という思いであり、「どんなことがあろうとも見捨てず、必ず育てる」という願いなのです。その願いが「私」に至り届いているからこそ、「私」の声となって「カアカア」「トオトオ」というように、「名を称える」ようになるのです。
時代が激変したとしても、また価値観に断絶を感じて親が子を「○○世代」などと評したとしても、この親心、親の願いは変わらないのではないでしょうか。

ある出来事を通して

たとえば、ドラマや映画を見ていると、迷子になったわが子を捜索するシーンがあります。捜索をしても見つからず、捜索隊員が拡声器を使って「OOちゃん」と子どもの名を叫んだりしでいます。たぶん、私たちも同じような行動を取ると思います。その場合、子どもの名を呼ぶ「私」は、子どもに返事を期待しているのではないかと思います。なぜなら、ふだん子どもの名を呼んだ時に返事をしないと、「聞こえたならば、返事をしなさい」と叱りますから。要するに、迷子のわが子の名を呼んで、その返事を聞き、「私」白身が安心したいのであろうと思います。
しかし、子どもの名を呼ばずに、「おかあさんよ」と叫びながら捜索する親の姿が㈲面に出てくる時があります。この場合でも子どもの返事を期待しているのでしょうが、もう一つ違う意味があるように思えます。それは、一人で不安なわが子に対して寄り添う親心が感じられるのです。つまり、「おかあさんよ」という名告りには、「私はあなたのことを忘れてないからね、一人ではないからね」という親心を感じるのです。それが「名号」なのではないでしょうか。
なお、私は迷子の子どもを探す時、「おかあさん」と呼ぶのが親心だと言いたいのではありません。また、どちらの探し方が正しいとか、そういうことを言いたいのではありません。自分の身に置き換えて味わってもらいたいだけです。

自己を知らされる

さて、お釈迦さまは私たちの生きている世界を「娑婆(サパー一忍土)」といわれました。この言葉は、古今東西、どんな制度の上でも人間が構築した社会(器世間)は苦悩を生み出すものであることを意味します。なぜならば、それを作りあげているのが、自己中心的な煩悩をもつ人間(有情世間)だからです。その点を、唯円房が著したといわれる『歎異抄』では、

煩悩具足(ぼんのうぐそく)の凡夫(ぼんぶ)、火宅無常(かたくむじょう)の世界は、よろづのこと、みなもってそらごとたは

ごと、まことあることなきに、ただ念仏のみぞまことにておはします
(『註釈版聖典』八五三~八五四頁)

というのです。親鸞聖人は、自らを「煩悩具足の凡夫」といわれ、そんな自己中心的な「私」が作り上げた世の中は真実ではなく、虚仮不実なのである、と仏・如来に知らされ、告白されているのです。
先の「しらけ世代」や「新人類」という表現も、当時の若者たちが他者との関係を嫌い、社会を無視する生き方をしているように見えたからでしょう。しかし、それは、戦前の全体主義や安保闘争への反感や反動だともいえます。身勝手な私たち凡夫は、ややもすると反動によって両極端に揺れてしまいます。そこには、今を生きる自己を見つめる視点が欠落していないでしょうか。悲しいかな、人間は自らを見つめることが苦手なのです。そして、無自覚に、「間違っている」のは自分以外の人であり、組織や社会であると決めつけています。

善導大師(ぜんどうだいし)は『観経疏(かんぎょうしょ)』「玄義分(げんぎぶん)」で、

これ経教はこれを喩ふるに鏡のごとし。 (『註釈版聖典(七祖篇)二二八七頁)

といわれています。「経」に顕された仏の教え(仏法)は、「私」を映し出す「鏡」のよ
うなものだといわれているのです。「南無阿弥陀仏」という仏の名告りこそが、「私」
のあり様を照らし続ける仏陀の「智慧」のはたらきであり、いつでもどこでも「私」
を見放さず寄り添い続ける如来の「慈悲」のはたらきに他ならないからです。如来
の「智慧と慈悲」のはたらきのすべてが、「南無阿弥陀仏」という名号となって届い
ています。
今を生きる自らの姿を知らないまま生きるということは、まさに「裸の王様」で
しかありません。自らのあり様を知らずして、いかに生きるかを考えても虚しくな

るだけではないでしょうか。お念仏申す日暮らしの中に如来の願いを聞き開きつつ、苦悩多い人生であっても如来のご恩を知り、感謝と慶びをもって生き抜かせていただきましょう。
以上のように、私は表紙のことば「念仏となって私の口から現われて下さるみ仏のはたらき」を味わいました。
(内藤 昭文)

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2020年法語カレンダー あとがき

親鸞聖人ご誕生八百年・立教開宗七百五十年のご法要を迎えた一九七三(昭和四十八)年に、真宗教団連合の伝道活動の一つとして「法語カレンダー」は誕生しました。門信徒の方々が浄土真宗のご法義を喜び、お念仏を申す日々を送っていただく縁となるようにという願いのもとに、ご住職方をけじめ各寺院のみなさまに頒布普及にご尽力をいただいたおかけで、現在では国内で発行されるカレンダーの代表的な位置を占めるようになりました。その結果、門信徒の方々の生活の糧となる「こころのカレンダー」として、ご愛用いただいております。
それとともに、法語カレンダーの法語のこころを詳しく知りたい、法語について深く味わう手引き書が欲しいという、ご要望をたくさんお寄せいただきました。本願寺出版社ではそのご要望にお応えして、一九八〇(昭和五十五)年版から、このカレンダーの法語法話集『月々のことば』を刊行し、年々ご好評をいただいております。今回で第四十一集をかぞえることになりました。

二〇二〇(令和二)年の「法語カレンダー」では、真宗教団連合結成五十周年を迎え、「わたしの歩み」というテーマを設け、これまで掲載した法語の中から、お念仏を称え人生を生きぬかれた先師の言葉を選定いたしました。本書では、これらのご文についての法話や解説を四人の方に分担執筆していただきました。繰り返し読んでいただき、み教えを味わっていただく法味愛楽の書としてお届けいたします。
本書をご縁として、カレンダーの法語を味わい、ご家族や周りの方々にお念仏のよろこびを伝える機縁としていただければ幸いです。また、各種研修会などのテキストとしても幅広くご活用ください。

二〇一九年八月
本願寺出版社

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