2022年10月のことば 悲しみあるがゆえに よろこびあり 煩脳あるがゆえに 菩提あり

人生のめぐり合わせ

十月のことぼは、「悲しみあるがゆえによろこびあり煩悩あるがゆえに菩提あり」
です。人生はI度きりです。それだけに誰もがそれぞれの人生を楽しく、よろこびいっぱいの幸福な人生であることを追い求めながら、生きています。キリスト教関係の本を開いたときに、幸福を意味するハッピー(Happy)は偶然をあらわすハプニング(happenning)と語根が同じであることから、幸福な生活、ひいては幸せな人生は、その人の努力や能力によるのではなくて、たまたまであり、めぐり合わせによるのである、と読みとりました。
納得しながらも、私たちの幸福感は、ともすれば所有欲が満たされたときや他の人々との比較において受けとめられていることがあります。お釈迦さまは、そこには不変のやすらぎはなく、むしろそのようなあり方、生き方の根底に目を向けられて、「人生は苦なり」ということを明らかにされました。私たちは願ってもいない悲しみ、寂しさ、苦しみに耐え続けて、生きているのが現実です。
お釈迦さまが、かつてインド諸国の一国の王子であった頃、将来国王の地位につくことで、財力と権力を掌握できることが約束されていました。そこには、誰もが夢見る華やかで幸せな人生が展開されるはずでした。それは、多くの大が渇望する名誉欲や財産欲という煩悩が満たされる人生です。ところが、人生において避けることのできない問題が、老・病・死です。しかも、これらは若く元気で活動しているなかに、すでにぴったり寄り添っているのです。
私の寺で、仏教壮年会の会長を務めておられる方がいらっしゃいます。父親は早く亡くなっておられましたが、母親は元気で家のこと、近隣とのつき合いなどもすべて引き受けておられました。もちろんお仏壇のこと、お寺参りもこの人の役割のようになっていて、息子さんのその男性は仏教壮年会についても関心がなく、加入を勧めても「今はいそがしいので、仕事をやめて暇ができたら考えます」と気のない返答でした。ところが、頼りにしていた母親が高齢となり病気もあって、母親がしていた数々のことをこの大がしなければならなくなりました。以前にもまして多忙な毎日となりましたが、かつて父親が若いとき、熱心にお寺に足をはこんでおられたときの思い出が、こころの底に残っていたのでしょう。やがて進んで仏教壮年会に加入されました。近年、母親も亡くなり今は一人暮らしですが、ますます熱心にお聴聞をこころがける生活をされています。
その姿勢が多くの人の目にふれ、私の寺にとどまらず、今では地域全体の仏教壮年会の中心となって活動されるようになっています。その言動を通して、念仏の教えに出遇えたよろこびが伝わってきます。両親によせる熱い思い、そして悲しく寂しい別離が縁となって念仏生活かはしまったと語るその男性に、数多くの大が出会ってきました。そのすがたからは、たしかなこころの支えを得た大のやすらぎとよろこびが感じとれます。まさに今月の法語の「悲しみあるがゆえによろこびあり」の身近な現実がうかがえます。
本願寺第八代宇王の蓮如上人が日頃から周囲の人々に話しかけておられたお言葉を集めた『蓮如上人御一代記聞書』の第百五十五条をみますと、

  仏法は世間の用事を差しおいて聞きなさい。世間の用事を終え、ひまな時間をつくって仏法を聞こうと思うのは、とんでもないことである。
(『蓮如上人御一代記聞書(現代語版)』 一〇〇-一〇一頁)

と厳しくいましめられ、また世間の人々がとかく急がなくてもよいことを急ぎ、急がねばならないことを後回しにしていることをなげかれて、

  仏法においては明日ということがあってはならない。    (『同』 一〇一頁)

とご催促されます。私たちは、いつもこのお言葉をこころにかけて生活しなければなりません。

不断煩悩得涅槃

つぎに、法語の後半の「煩悩あるがゆえに菩提あり」にポイントをおいて味わってみましょう。
私たちが親しんでおつとめする「正信謁」の一句に、「不断煩悩得涅槃」(煩悩を断ぜずして涅槃を得るなり。『註釈版聖典』二〇三頁)があります。このところを意訳の「しんじんのうた」では、「なやみ(煩悩)をた(断)たですくい(涅槃)あり」(『日常勤行聖典』一二頁)と歌っています。ここで表現される涅槃は、法語の菩提と同じこころと受けとめてよいでしょう。親鸞聖人は、苦悩の原因となる煩悩を断ち切りさとりを得る目標をもって、比叡山で二十年間、学問と修行に励まれました。しかし、かえって自らの煩悩の深さに気づかれ、失意のうちに山を下りてやがて法然聖人をたずねられます。そして法然聖人のお導きによって阿弥陀さまの本願に遇われるのです。数々の仏さま方のなかで、阿弥陀さまは、悩み苦しむすべてのものをそのまま救いさとりにいたらせようという誓い(本願)をもって、今この私にはたらき続けてくださっています。
二〇一六(平成二十八)年の伝灯奉告法要で、浄土真宗本願寺派第二十五代専如門主に、ご親教として「念仏者の生き方」をお示しいただきました。そのなかでも特に、

我執、我欲の世界に迷い込み、そこから抜け出せない私を、そのままの姿で救うとはたらき続けていてくださる阿弥陀如来のご本願ほど、有り難いお慈悲はありません。しかし、今ここでの救いの中にありながらも、そのお慈悲ひとす
じにお任せできない、よろこべない私の愚かさ、煩悩の深さに悲嘆せざるをえません。

というお言葉に胸が痛みます。

と彫られています。
私もときどき風邪をひき、決まって咳き込みます。才市さんがご法義の風邪をひいて、ひとりでにお念仏の咳が口にでる様子を、素直にあらわした詩です。才市さんは八十三年の生涯において四千首以上の詩を書きのこしたといわれていますが、どの一首をとっても、深い境地が短い言葉で端的に表現されています。今回の法語に関連してそのなかの一首を紹介しますと、

  もをねんをくやむじやない
もをねんわよろこびの太ね
さとりの太ねなむあみ犬ぶつ
(鈴木大拙編『妙奸人 浅原才市集』 一九九1二〇〇頁)

と謳われています。なさけない妄念煩悩のかたまり。それによって人を傷つけ、自分も傷つく。なんとかしようと努力しても取り除けない。ところがご本願をいただくままに、不思議にもそれがお慈悲をよろこぶこころとなる、といただいています。
如来の視座のなかにある人間親鸞聖人が、多大の影響を受けられた七高僧のひとり、中国の曇鸞大師の教えを
和讃で数多く讃えられるなかに、

  無擬光の利益より
威徳広大の信をえて
かならず煩悩のこほりとけ
すなはち菩提のみづとなる      (『高僧和讃』、『註釈版聖典』五八五頁)

罪障功徳の体となる
こほりとみづのごとくにて
こほりおほきにみづおほし
さはりおほきに徳おほし                      (同頁)

という二首がありますので、その意味をいただいてみます。
妨げるものがない阿弥陀如来の光のはたらきによって、広大ですぐれた功徳をそなえた信心をめぐまれ、それによってかならず煩悩の氷がとけてさとりの永となる。また、罪のさわりはそのまま転じられて功徳となる。それは氷と水の関係に例えられ、氷が多いととけた水も多いように、罪のさわりが多いと転じられた功徳も多い、としめされます。この歌のこころを、自らのこととして深くかみしめたいところです。
ところで、このたびの法語の出典は、一九八三(昭和五十八)年に発刊された[入門浄土真宗 宣]宗の教えI顕現さるべき私-』(真宗大谷派宗務所出版部)で、著者は当時、大谷大学で教鞭をとられていた伊東慧明師です。この書の「信心の章」に出てくるのが今月のことばです。この「信心の章」から内容の一部分を紹介しましょう。

人間の眼は、自分の眼を見ることができません。いろんなものを見ている眼でありますが、この眼は、自分を見ることができないのです。自分自身を、直接に見るということはできないのです。このことからも明らかなように、人間
の眼丿人間からの視野に映るのは、限られた部分であり皮相にしかすぎないのであります。
そこで、われわれは、如来の眼によって見いたされてある人間、如来からの視座のなかにとらえられている人間を知ることができてはじめて、人間の全体像を知りうることとなるのであります。だから、人間が、人間であることの実相にめざめるためには、この如来からの眼が、なによりも大切なこととなるのであります。
「月、我を見る」ということ、月の光に照護されてある我という所照の自覚から、月を仰ぐ。すると、そこに見開かれてくるのは、

    我また、かの摂取の中にあれども、
煩悩、眼を障えて見たてまつらずといえども、
大悲倦きことなく、常に我を照したまう。  -『正信掲』-

という、法界であります。               二七七-一七八頁)

この度の法語を通して、日々の「正信掲」のお勤めにおいて「不断煩悩得涅槃」、そして、

  我亦在彼摂取中   われまたかの摂取のなかにあれども、
煩悩郭眼雖不見   煩悩、眼を障へて見たてまつらずといへども、
大悲無倦常照我  大悲、倦きことなくして
つねにわれを照らしたまふといへり。
(『日常勤行聖典』三二頁)              (『註釈版聖典』二〇七頁)

のそれぞれの句をも、またこころして唱えたいと思います。
(清岡 隆文)

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2022年9月のことば 手を合わせ 仏さまを拝むとき わたしのツノを 知らされる

中学生はがき通信

私の父は、一九七三(昭和四十八)年一月から二〇〇三(平成十五)年四月まで、毎月一回、近隣の中学生を対象に「中学生はがき通信」というたよりを送っていました。はがきの裏面には、中学生に向けたメッセージを一目見てわかるようになるべく短い文にして、そして机の上に置いておけるように、その月のカレンダーも載せたレイアウトになっていました。カレンダーを載せるということは、月初めにつかないと意味がありません。そのために、必ず毎月投函するということを自分にも課していたのです。
父は、「はがき通信」に先駆けて小学生を対象にした日曜学校を始め、一九六五(昭和四十)年頃から中学生を対象にした、一泊二日のお寺でのサマースクールも夏休みに開催していました。若い頃から、思春期真っただ中の中学生に仏法とのご縁を繋げるということを第一に考えて、取り組んでいたのだと思います。それらの活動に込められた父の思いは、「たった一度のかけがえのない人生を、大切に生きていってほしい」ということでした。この思いを何とか伝えたいという取り組みの一つが、「はがき通信」だといえます。
さて、九月のことぼけ、この「中学生はがき通信」からの言葉です。

  ツ ノ

今から七十年前、浅原才市という人がいました。
画家に二本のツノが生えている自分の肖像画を描いてもらいました。

ツノは 心の姿
むさぼり・腹立ち・おろかさ

他人のツノは よく見えるが
自分のツノには 気がつかない
手を合わせ
仏さまを 拝むとき
私のツノを 知らされる
(『人生のほほえみI中学生はがき通信-』三三頁、本願寺出版社)

ツノが生えた肖像画

この言葉のなかで、ツノを貪り・怒り・愚かさの三毒の煩悩に例えています。このツノの例えは、妙奸人といわれた浅原才市さんのエピソードからきています。
浅原才市さんは、一八五〇(嘉丞三年に島根県の温泉津町に生まれ、浄土真宗の教えをとてもよろこばれて生き抜いた方です。そして、そのお聴聞したよろこびを「口あい」(盆踊りの口説きのような調子の詩)にして、たくさんのノートに書き残されました。才市さんが生まれ日暮らしをしていた温泉津町は父が住職をしていたお寺の隣町に当たり、とても近い距離ですので、才市さんの詩を含めて、才市さんにはとても親しみがありました。
このツノの絵が描かれたのは、一九一九(大正八)年、才市さん七十一歳のときで、ツノの絵を描いた理由について、才市さんと親交のあった寺本慧達師との間で次のようなやり取りがあったそうです。

  「あまりみなさんが、私をよくお寺に参るというでな、わしが寺に参るのは鬼が寺に参るのだと言うことを見てもらいます。温泉津の画工さん(日本画家若林春暁氏)に頼んで、鬼が仏さんを拝んどる絵を描いてもらいました」
「はあ、そりゃ面白いね」
「鬼にしても、わしに似せて描かにやつまりません。それで、画工さんに言うて、わしに似た画を描いてもらって額に角をはやしてもらいましたよ」
「そしてそれをどおするの、爺さん」
「来月は御正忌さんで、安楽寺(才市さんがいつもお参りしていた近隣の寺院)の本堂にかけてもらって、皆にわしが仏さんを拝むのは、この通りまったく鬼だ、と言うことを見てもらいますよ」
(寺本慧達著『浅原才市翁を語る』九六頁、今原山長円寺発行)

才市さんは、自分のこころのなかにある煩悩を鬼に例え、この鬼のすがたが自分の本当のすがたであると、お同行の方々に伝えようとしています。そして、その鬼のすがたは、お寺にお参りしてお聴聞するなかで気づかされるのだ、と味わっておられます。

三毒の煩悩

話は変わりますが、私の父は、二〇〇三(平成十五)年五月、満六十六歳を一期としてお浄土へ往生しました。亡くなる1ヵ月前に急性肝炎と診断され入院、最終的には劇症肝炎という診断で亡くなりました。その父が入院中の出来事です。
肝臓を患った人の症状に全身の倦怠感があります。父も入院中は、しきりに「しわいのう、しわいのう」(石見の方言で、だるい、苦しい、辛いという意)といっていました。とりわけ体調の思わしくない日は「体中がしわい」ともいっていました。そのようななか、父が次のようにぽっりといいました。
「このような病になって、今全身に毒が回ってしまったかのように体中がしわい。だけど、病気で体中に回った毒ならば、お医者さんの出してくれるお薬できれいになるかもしれん。しかしな、体中にまわった三毒の煩悩という毒は、どのような薬があっても、きれいになることがないことよ」
今となっては、父がどのような気持ちでそのようなことを話したのかはわかりません。病院のベッドの上で、体中がしわいという状態で横になっているとき、今までの人生のさまざまなことを思い出していたに違いありません。そして、いかに今まで貪り・怒り・愚かさの煩悩という毒を作り続けてきたのかということを、深く振り返っていたのでしょう。全身に毒が回ったかのような現在の体と、今まで毒を作り続けてきた自分のこれまでのあり様を重ね合わせてみたとき、あのようなことをつぶやいたのかもしれません。
煩悩とは、この身を煩わし悩ませるもので、仏教では苦しみの原因と考えます。
この煩悩には主なもので「貪欲」「玖恚」「愚痴」の三つがあり、それを三毒の煩悩といいます。
「貪欲」は貪りのことをさします。人間には必ず欲がありますが、欲が満たされただけでは満足できず、「まだほしい、まだほしい」と欲が際限なく続く状態をいいます。その結果、使えるものでもすぐに捨ててしまったり、ものを粗末に扱ったりしてしまいます。
「阻恚」は怒りのことで、自分の意に反していることに出合ったらおこる感情です。
意に沿ったことばかりだと楽ですが、そうでないとき怒りがわいてきて苦しくなり、その結果、他の人の心身を傷つけてしまうこともあります。
「愚痴」とは愚かさのことで、自己中心的なものの見方をさします。その見方とは、私自身に基準を作り、その基準で世の中をみるという見方です。私の基準で、良いか悪いか、好きか嫌いか、など物事を分けて考え、その結果、上下関係や差別が生み出されてしまいます。
このような三毒の煩悩を、浅原才市さんはツノの生えた鬼のすがたに例えていたのです。そして、そのようなことを、私たちは知らず知らずのうちに行ってしまっているのです。まさに、「他人のツノはよく見えるが、自分のツノには気がつかない」私のすがたです。
浅原才市さんは、そのような自分の鬼のすがたに、お聴聞を通して気がついていかれました。阿弥陀さまは、煩悩によって苦しんでいる私のすがたを見抜き、決して見捨ててはおけないと私を救ってくださるのです。その「私か救われる」という阿弥陀さまのお慈悲を聞いたとき、救われる煩悩だらけの私のすがたが見えてくるのです。そして、私のすがたがわかったからこそ、よりよい生き方がみえてくるのでしょう。

中学生への思い

このはがき通信の言葉は、一九八一(昭和五十六)年六月のものです。父が四十四歳、私か十一歳。二人の姉がそれぞれ十七歳と十四歳のときのものです。私の祖父は一九四二(昭和十七)年に戦死していますので、父は大学卒業後すぐ自坊へ帰り、
住職になっています。そして四十四歳の頃といえば、一般的にも気力、体力ともに充実しているときですから、熱心に教化活動に取り組んでいた頃でしょう。そして、家庭では思春期を迎えた子どもたちの子育て。さまざまな思いのなかで過ごしていた時代だったと思います。そんななか、走り続ける自分をふと振り返ってみたとき、お聴聞を通して自分のすがたを見つめていたのではないでしょうか。
父の「中学生はがき通信」を始めたときの思いは、「かけがえのない人生を、いのちを輝かせながら精一杯生きていってほしい」ということでした。多感で悩み多い思春期の子どもたちに、たまには立ち止まって自分自身を振り返ることの大切さを伝えたかったのだと思います。それは、まさに子どもたちに対するエールだったのです。
(波北 顕)

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2022年8月のことば 我が身を深く 悲しむ心に 仏法のことばが響く

はじめに

宮城顎先生は、一九三二昭和六)年、京都でお生まれになりました。真宗大谷派の教学研究所長や九州大谷短期大学の教授を歴任され、浄土真宗の教えをわかりやすく伝える書物も多数出版されています。八月のことばは、そのなかの『真宗の基礎』(真宗大谷派宗務所出版部)という書物からの言葉です。そこでは、

  (仏法から)いかに自分が遠くあるかと、我が身を深く悲しむ心に仏法のことばが響くのであって、自分はいちばん仏法の近くにおり、仏法をよく知っている、我よりほかは存知したるものなしと、そう思いあかっている者はいよいよ仏法から遠くなる。                        (六七-六八頁)

と書いておられます。このことについて味わってみたいと思います。

蝉の生涯

八月になり、毎日暑い日が続いています。蝉の大合唱も佳境に入ってきたようです。
蝉は、「恵姑春秋を知らず」という諺にもあるように、幼虫の時期を土の中で過ごし、夏に成虫になって地上に出て、その夏のうちに死んでいく生き物です。人間の目に映るのは夏の間だけなので、とても儚いいのちだと思われていますが、実は、蝉は数ある昆虫のなかでも長く生きる虫なのだそうです。そんな蝉が死んでいくときは、必ず仰向けになって死んでいます。昆虫は硬直すると足が縮まり関節が曲がってしまうので、足で体を支えることができなくなるためです。いったい蝉はいのちの終わりに何を見るのでしょうか。

  ただ、仰向けとは言っても、セミの目は体の背中側についているから、空を見ているわけではない。昆虫の目は小さな目が集まってできた複眼で広い範囲を見渡すことができるが、仰向けになれば彼らの視野の多くは地面の方を向くことになる。もっとも、彼らにとっては、その地面こそが幼少期を過ごしたなつかしい場所でもある。    (稲垣栄洋著『生き物の死にざま』 一一頁、草思社)

とあるように、蝉が最後に見る地面という光景は、その生涯の多くを過ごした場所なのです。
このように、私たちは目に見えている範囲で物事を理解し、「侈いいのちだね」などといって蝉の様子を知っているような気でいますので、蝉の本当のすがたに気づくことができません。「自分は何でも知っている」という思い上がりのこころがあると、物事の真実にはなかなか気づくことができません。

僑慢

その「自分は何でも知っている」という思い上がりのこころを「僑慢(きょうまん)」といいます。そのような思いは、得てして自分より力が劣っていると思った者を見下したり、馬鹿にしたりするようになってしまいます。
私は、高校生のとき野球部に所属していました。あるとき、数校と練習試合を行いましたが、総合的にみて私の所属しているチームの方が優れていて、私たちは楽勝だろうと思い込んでいました。ところが、緩慢なプレーが相次ぎ、勝つには勝ったものの、とてもよろこべるような内容ではありませんでした。練習試合終了後、私たちは監督の指示で二十キロ離れた学校まで走って帰りました。走って帰りながら、「私たちは絶対余裕で勝てる、自分たちは強いんだから」という驕りがあったんだと痛感しました。監督は、私たちのその驕った部分を見抜き、そのことを教えてくれようとしたのだと思います。
親鸞聖人が著された「正信偈」には、

弥陀仏本願念仏   弥陀仏の本願念仏は、
邪見僑慢悪衆生  邪見・僑慢の悪衆生、
信楽受持甚以難   信楽受持すること、はなはだもって難し。
難中之難無過斯   難のなかの難これに過ぎたるはなし。

(『日常勤行聖典』 一六頁)              (『註釈版聖典』二〇四頁)

とあります。
阿弥陀さまのご本願のはたらきを、邪なものの見方や思い上かっか気持ちのある私たちがよろこびをもって受け取っていくことは、とても難しいことである。世の中で難しいといわれることのなかでも最も難しいことだ、とお示しくださっています。僑慢のこころは、阿弥陀さまのご本願のおこころさえもみえなくしてしまうのです。

理解しようとするこころを離れて

もうおよそ十五年も前に亡くなられたご門徒のお話です。
Kさんは、ずいぶん前にお連れ合いに先立たれ、長く一人暮らしをなさっておられました。好奇心の旺盛な方で、新しいことにも積極的に挑戦される方でした。平成十年頃だったでしょうか、お参りにうかがいますと新しいパソコンが置いてあります。それまではワープロで手紙などを書いておられたようですが、聞けば、ワープロも飽きたので、最近出回ってきたパソコンを購入しワ≒フロの代わりにしたり、インターネットにも繋いでいろいろ見たりしているとのことでした。
そんなKさんは、とても勉強家で本もたくさん読まれていました。仏教書や浄土真宗に関する本なども読んでおられました。そして、お参りに行くたびに、本を読んでわがらなかったことを質問されるのです。仏教や浄土真宗の言葉の意味や文章の味わいでよくわからないところを毎回用意されて、ここぞとばかりに質問されるのです。そういえば、そのお宅に初めてお参りするときに、父が「頑張ってこい」といっていましたが、父がお参りしている頃からその質問は続いていたのです。
ある年、いつものように質問を聞いて、いろいろ話をしていたときのことです。
Kさんがこういわれました。
「ご院家さん、わしは浄土真宗の教えがわかりとうて一生懸命本を読んでみるんだが、読めば読むほど、理解しようとすればするほど、わがらんようになる」
その後しばらくして、Kさんは急に自宅で体調を崩され救急搬送されましたが、亡くなられました。ご葬儀にお参りしたとき、ご近所の方にいわれました。 「Kさんは理屈ばかりいうような人だったけど、あの人はわかっとったと思うで。
担架で運ばれるときに自分はそばにいたんだが、ずっと手を合わせておったからなあ」
そのときのKさんの心境を知るすべはありませんが、もしかしたら、Kさんは「わからないことがわかった」のかもしれません。いや、「わからなくてもいいことがわかった」というべきでしょうか。阿弥陀さまのご本願を理解できたから安心できるのではなく、わからないというそのままを阿弥陀さまはお救いくださるのです。
私たちは、その阿弥陀さまの仰せを素直に受け止めればいいのです。しかし、僑慢のこころが邪魔をして、なかなか素直に受け取れません。Kさんは自由のきかない身を担架に任せながら、そのことを考えられていたのでしょうか。

我が身を深く悲しむこころ

最後に、「我が身を深く悲しむ」ということを考えてみたいと思います。
私か二十歳のとき、母が亡くなりました。くも膜下出血で倒れ、翌日には息を引き取るという急なご縁でした。当時、私は龍谷大学に在籍していましたので、夜に母が倒れたという知らせを受け、夜行列車に飛び乗って急いで帰郷しました。病室につくと、意識のない状態の母かおりましたが、さすっても呼びかけても反応は返ってきません。そして、人工呼吸器が装着されましたが、ほどなくして息を引き取りました。母の最期に立ち会うことはできましたが、あまりにも急すぎて何か何だかわかりません。遺体がお寺に帰り、近所の方やご門徒の皆さまが弔問に来られても、母が亡くなったという実感はおこりません。仮通夜・密葬・出棺・火葬・収
骨・通夜・本葬と葬儀に関わる式が次々と執り行われても、実感は起こりません。
結局すべての式が終わるまで、私は一度も泣くことはありませんでした。
母が亡くなったのは七月十四日でしたので、大学ではそろそろ前期試験が始まっていました。初七日が終わった頃、父が「試験があるだろうから、一度京都に戻りなさい。試験を受けられるだけ受けて、それからまた帰ってきたらいい」といってくれましたので、私は一度京都へ戻ることにしました。
私は大家さんのお宅の離れを借りていましたので、京都仁戻って、まず大家さんへ挨拶に行きました。大家さんはお悔やみの言葉をいってくださった後、「波北さんがいない間に荷物が届いていたから預かっておいたよ」と、その荷物を渡してくれました。私は部屋に戻り、誰からだろうと荷札を見た瞬間驚きました。荷物の送り主は母だったのです。どうやら私に荷物を送る手続きをした後倒れたようで、私か母の元に帰るのと荷物が届くのが入れ違いになったようなのです。
私は急いで荷物を開けました。荷物の中身はいつもの定期便。お米や乾物をはじめ、私の好物が入ったクッパー、衣類や日用品など、いつも届く定期便でした。そして荷物の一番上には、いつものように広告の裏に「体に気をつけて」と書いてある手紙。そのいつもと変わらない母からの荷物を開けた瞬間、初めて泣きました。
それまでを取り返すかのように泣きました。そのとき、私は初めて母の願いや思いに気づいたのだと思います。いかに私のことを思って毎回荷造りをしてくれていたのかということに。 中学・高校の六年間、ずっとお弁当を作り続けてくれたこと。野球部の練習で泥だらけになったユニフォームが、いつもきれいになっていたこと。送られてくる荷物のなかには、必ず私の好物が入れられていたこと。どれもあたりまえだと思っていましたが、母からの最後の荷物を受け取って、今まで母の私に対する思いに気づくことができなかった自分を恥じ、後悔したのでした。そのことに気づいたとき、いつも広告の裏に書いてくれていた「体に気をつけて、頑張りなさい」という言葉が響いてきたのです。
私たちのこころの僑慢はなくなることはありません。しかし、そのような身であるからこそ、お聴聞を繰り返し、我が身を恥じ僑慢をいましめていくところに、阿弥陀さまの私を必ず救うぞというおこころが響いてくるのです。
(波北 顕)

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2022年7月のことば この心も身も全部 如来からの いただきもの

はじめに

 

七月のことばは、宗教学者で大阪大学の教授をしておられた大峯産先生の著作からです。
大峯先生は、著書『本願海流』(本願寺出版社)のなかで、

  とにかく、身体は私のものではないというのが仏教の精神です。身体だけでなく、心も私のものではありません。この心も身も全部、如来からのいただきもので、如来のものです。だから、この命は私の中で勣いているけれども、私の所有物ではないんです。たまわった命です。            (六四頁)

と書いておられます。私か存在しているから私の心身も存在しているのではなく、それらこころも身体も、如来のはたらきのなかでたまわり存在するいのちだといえるのです。

縁起の法

私には二人の娘がいますが、私の五十歳の誕生日に、次のようなクイズを出しました。
「今日はお父さんの誕生日だけど、今日でお父さんは何歳になったでしょうか」というものです。そのクイズに対して娘たちは口をそろえてこのように答えました。 「そんなの簡単だよ。お父さんは今年ちょうど五十歳になるのでしょう。」
子どもたちは、私がちょうど五十歳になるということで、よく覚えていたのです。
「では正解をいいます。お父さんは今日の誕生日で、十三歳になりました!」 子どもたちは不思議そうにいいます。
「どうしてお父さんが十三歳なの? そんなわけないよ」 「なぜお父さんが十三歳なのかというと、お父さんは、お姉ちゃんが生まれたからお父さんになることができたんだよ。だからお姉ちゃんの年齢がお父さんの年齢になるんだよ」
当時、長女が十三歳、次女が十歳だったので、私の父親としての年齢は長女の年齢と同じ十三歳というわけです。この問いが「私は何歳になったでしょう」とか「波北顕さんは何歳になったでしょう」というものであれば、五十歳が正解となります。
つまり、私は長女が生まれたことによって、初めて父親になったのです。
この私と娘の関係性を、仏教では「縁起」といいます。これは「因縁生起」といい、この世に起こる現象には必ず原因があってその結果として起こるということがあるからです。私かここに存在できるのは、私自身がここに存在していると認識しているからではなく、私以外の誰かが私の存在を認識してくれているから存在しているのです。世の中はあなたのおかげで私かここにいるという関係性で繋がっているというのが、仏教の考え方です。「私のものだ」という欲からはなれていのちをみつめていくところに、縁起の世界が開けてくるのでしょう。そして、縁起の法で私のいのちをみつめる時、私のいのちは大きな宇宙のなかに生かされているいのちといっても過言ではありません。

宇宙のなかのいのち

さて、俳人でもあった大峯先生には、次のような句があります。

  虫の夜の星空に浮く地球かな               (『夏の峠』花神社)

この句について、NHK教育(現在のEテレ)で放送された「こころの時代」のなかで、次のように話しておられます。

  秋のいろんな鈴虫とか松虫が鳴いている。今よりちょっと早い時季ですけれど  も、虫がしきりに鳴いている。空はもう満天の星ですね。それを見ておりましたら、ふと自分のこの地球がやっぱりこの星空の真っ直中にある一つの星だったという、そういう思いが痛切に迫ってきたわけですよ。観念としては、勿論前から、そういうことは分かっているんだけれども、あの虫の音を聞いている
と、何かフッとこう地球地面から離れちゃって、そうして無限の星空の中にある星の一つだという。だから、地球なんて特別なものじゃないんですね。みな同じものなんですね。宇宙の中ではね。これは自然科学的宇宙だけれども、自
分のおるところは特別なところだと思わないことが宗教じゃないんでしょうか。
二九九七(平成九)年十一月八日放送)

仏教の世界観では、私たちが住む地球すらも宇宙全体のなかに存在していると考えることができます。大峯先生は、この句を通してちっぽけな自分の存在をかみしめられたのではないでしょうか。
もう一句、大峯先生の俳句をご紹介します。

人は死に竹は皮脱ぐまひるかな                  (『星雲』)

いのち終わっていく人のすがたとこれから成長していく若竹のすがたを通して、生も死も大きな宇宙のなかでの出来事だということが詠まれています。この死と生を同列に詠まれた句によって、本願のなかに生きるいのちという揺るぎのない生命観が伝わってきます。

戦地での句

話は変わりますが、俳句つながりで私の祖父のことを書きたいと思います。私の父方の祖父は、現在私か住職を務める浄土真宗本願寺派光善寺の長男として、一九〇九(明治四十二)年に生まれました。龍谷大学を卒業後、布教使として京城に赴任した後、帰郷。ほどなくして住職を継職します。結婚後、一九三七(昭和十二)年に父が生まれ、一九三九(昭和十四)年に弟が生まれました。そして、一九四二(昭和十七)年二月九日、マレー半島南端のジョホールーバルの戦闘で、敵の銃弾を胸に受け戦死しました。行年三十四歳でした。残されたものによると、身長も高く、鴨居に頭が届くほど。明朗快活で学生時代はテニスをするなど、活発な人たったようです。
そんな祖父は、二十歳くらいの頃から俳句を学ぶようになったようで、たくさんの俳句が残されています。祖父は二度出征していますが、従軍中も俳句を詠んでは、携帯していた手帳に書き込んでいました。祖父の戦死後、祖父の父が返ってきた手帳の俳句をまとめて、『戦陣句集』という題で句集を発行しています。その句集を読んでみると、祖父が従軍中、何を見、何を思ったのかがみえてきます。
例えば、『戦陣句集』の最後の句は、

  壕堀りつマレー南端の月を見き

という句です。南方の月の明かりがとても印象的だったのでしょう。
また、故郷の母からの便りに記されてあった短歌への返歌もあります。その手紙には、このような短歌が歌われていました。

母の歌える

すみ渡る月ながめては思ふかな大陸照らす月もこの月

その歌への返歌は次のような歌です。「母のたまづさ(手紙)に答ふ」との書き出しの後、

  今宵さやかに照る月を母見てまさむ御名となへつつ

と歌っています。
故郷の母と戦地にいる自分を、あの月は等しく照らしてくれている。遠く離れていても、あの月と同じように阿弥陀さまの光に照らされているのだから心配ないよと、祖父は自分にこころを寄せてくれている故郷の母を思い出していたのでしょう。

生死を超えて

そういったたくさん詠まれた句のなかに、二度目の召集令状が来たときの心境を詠んだ句があります。日付は一九四一(昭和十六)年一月七日となっていますので、まだ太平洋戦争が始まっていないときです。当時は、どの家庭でもあったことなのでしょうが、幼い二人の我が子と、まだ若い妻、年老いた両親を残し、そして何よりもご門徒やお預かりしているお寺を離れて、いつ死んでもおかしくない戦地へと旅立ってゆかねばならない、そんな状況で詠まれた句です。それはこのような句です。

冬日照り照る道永久に生くる道

この歌を詠んだとき、祖父は三十二歳。時代背景が異なるので、現代の同年代と比べるべきではありませんが、何という超越した心境なのだろうかと思います。ここには、先に紹介した大峯先生と同じように、信仰に裏付けられた揺るぎない死生観があります。確かに残していくものも多く、心配で名残惜しいことばかりだったろうと思います。しかし、私のいのちは阿弥陀さまのご本願のなかで生かされているいのちなのであるから、いのちの行く末ははっきりとしている。目の前には、阿弥陀さまに照らされた、お浄土に向かっていく確かな道が開けている。そんな安心感のなかで出征していこうとしていたのだなあと思うのです。
縁起の法で説かれたこの世界に生きる私の身体は、阿弥陀さまからのいただきもの。阿弥陀さまのはたらきのなかで生きている私の人生は、生死を超えた「いのち」をいただいた人生でもあったのです。
(波北 顕)

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2022年6月のことば 〃あたりまえだ” と言うて、まだ不足を言うて生きている

はじめに

古典落語を聞いていますと、枕(前置き)で大相撲の巡業の話をしていました。昔、地方巡業は部屋ごとに行ったということをいっていました。なぜそんな話をするかというと、時代背景がわからないと落語の話か前に進まないからです。それでも、そんなことを話してまで落語をするのは、話が面白いからです。法話も同じです。
七十年、八十年前の法話が今に残っているのは、ありかたい法話だからです。ただ書物で残っていますので、例えが時代に合わないこともあります。その点て、例えの意図をふまえて法話を読むと、その法話の素晴らしさがよりわかります。
六月のことばに書かれている法話は、七十年ほど前の話かと思われます。
世扉哲雄師は、一九一九(大正八)年に、石川県羽咋郡志雄町(現在の宝達志水町)に誕生されました。大谷大学専門部卒業の後、真宗大谷派明円寺住職をされ、大谷派宗議会議員、同朋会館教導などを歴任されました。著書としては、『おかけさま
の世界』『深く生きる』『親鸞の教えに生かされて』などがあります。
師は、一九七〇(昭和四十五)年に季刊誌『人間成就』誌を発刊されました。一九八〇年頃には発行部数が四千部、日本全国とアメリカまで送っておられます。

人間成就

一九七〇年頃、国外で日本人はエコノミックアニマルといわれ、一方国内では、森林や海などの自然環境の破壊や工場排水などによる環境問題があり、水俣病・イタイイタイ病などの公害が、現代にまで通じる大きな社会問題になっていました。
そして、このような社会で人間は本当に幸せになれるのかということが問われました。
その頃、「人間を問う」というテーマで数々の雑誌が発刊されました。湯川秀樹博士を中心とした『創造の世界』、小田実・高橋和巳らの『人間として』、家永三郎らの『現代と思想』です。松扉師は、そんな雰囲気のなかで、自分自身がいや応なしに人間とは何かを問われたといわれます。それは、私たちは人間だけれども、ほんとうに人間という実があるかという問いでした。そして、実のある人間になろうじゃないかという呼びかけを周囲にしたいというところから、『人間成就』誌を発刊したと『おかけさまの世界』(一二-一五頁、要約)でいわれています。
この本には、「人間」と「実のある人間」という言葉が出てきます。「人間」とは自分中心の煩悩のままに生きている人間のことで、「実のある人間」とは相手の身になる、相手の立場にたつことができる人間のことです。これが真実の人間であるとされます。「実」の意味は、親鸞聖人が『浄土和讃』の「真実明に帰命せよ」(『註釈版聖典』五五七頁)の左訓に、「実」を「もののみ(実)となる」と註釈されているところから採られています。
『人間成就』誌を発刊された師は、生涯にわたって人間成就を説いていかれることになります。

深く生きる

今月のことばが載っている『深く生きる』(真宗大谷派宗務所出版部)のなかで、松扉師は人間成就とは深く生きることであるとされます。
師は、次のように述べられます。

  「なぜ仏法を聞くのか」それは「人生を深く生きるため」である。深く生きることなくして、人間は満足をもって生き切る、安心をもって人生を送ることはあ  り得ない。深く生きる中味は「生かされて生きる、おかげさまの一生といただくのみ」である。この「いただく」とは目覚めさせていただくことであり、「おかげさまの一生といただく」とは、一切の存在するものはみな支えられて生きていることに目覚めさせていただくことである。そのためには教えに出遇うことが大事である。           (『深く生きる』八三頁、引用者要約)

人間成就の仏教とは「深く生きる」ことです。深く生きるとは、おかげさまの一生と目覚めさせていただくことです。
「深く生きる」ことの内容は、「生かされて生きる」と「支えられて生きる」です。
私を支えるものは私を生かすものですから、この二つの言葉に大きな違いはありません。

おかげさまの一生と目覚めさせていただく

「生かすもの」「支えるもの」について、次のような話があります。
世評師は、ある講演の前に合掌してお茶をいただかれました。それを見ていた五十代くらいの女性が、「あのお坊さんは湯呑みに合掌してお茶を飲んだ」といって笑いました。松扉師は講演で次のようにいわれました。
「湯呑みがあるからお茶を飲めるのであって、ポットから直接お茶は飲めません。
私たちは湯呑みのはたらきに生かされています。そうであるのに、合掌を笑うのは真実が見えていないからです」
松扉師が「生かされて生きる」「支えられて生きる」といわれるのは、湯呑み・ポットのようなものから、家族・周りの人、あらゆる生き物・空気・土、さらには阿弥陀さまの願いまで、すべてのことです。
「生かされる」「支えられる」とは、順調なときのことだけをいっているのではありません。人は、辛いことや悲しいことを背負って生きていかねばならないこともありますが、これも、「生かされて生きる」ことになります。これを、師は「おかけさまの一生と目覚めさせていただく」といわれます。私たちの感覚では「おかけさま」とは、なかなか言いにくい面もありますが、師はその例として、本願寺第二十二代宗主鏡如上人の妹であり、仏教婦人会活動や社会福祉事業に邁進した歌人、九條武子夫人について語られます。
夫人は大正時代の一種のスターで、非常に世間の注目を集めた方です。短歌集を出版すればベストセラーになりました。
夫人には、「幸うすきわが十年」と詠まれるほど辛い時期がありました。また夫人の活動に対する世間の好奇の目もありました。次の短歌から、夫人へのあることないことのさまざまなそしりを背負いながらも、阿弥陀さまを頼りに精一杯の活動をされているすがたが想像できます。

  百人のわれにそしりの火はふるもひとりの人の涙にぞ足る
(『九條武子全歌集 無憂樹(あそか)』三一八頁)
(百人の人からの私に対する誹りが火の降るように激しくても、仏さまが慈悲の涙を流していただいている、それで十分である。著者訳)

これが松扉師のいわれる、教えを聞いて「おかげさまの人生と目覚めさせられる」生き方、つまり人間成就の仏教になります。

あさましいヤツであった

“あたりまえだ”と言うて、まだ不足を言うて生きている」という今月のことぼは、『深く生きる』からとったものですが、次のような話を受けての言葉です(四九~五〇頁、要約)。昭和二、三十年代の話のように感じます。
ある九十歳を過ぎた老夫婦は、「おかけさま」「ありかたい」という日暮しをしていましたが、そのおばあさんが脳出血で倒れて、寝込んでしまわれました。そこで、数人の友人がおじいさんを慰めようと訪ねて来ました。そのとき、おじいさんが友人に話したことです。
おばあさんが粗相をして腰巻きを汚してしまいました。おじいさんは、若いお嫁さんに洗ってもらうと、おばあさんも肩身がせまいだろうと思って、お湯を沸かし、タライを出して腰巻きを洗って、隠居部屋の物干しに掛けておきました。
そのおじいさんが干している様子が、おばあさんには見えました。おばあさんは「モッタイナイ」といって、おじいさんを拝みました。おじいさんは六十年間、禅を洗ってもらってお礼をいったことがないのに、たった一回腰巻きを洗っただけで拝まれました。おじいさんは、拝まれたときの気持ちを「自分は何とあさましいヤツであったかと、今朝ほど思い知らされたことはない」と、見舞いに来た友人たちに話しました。
この話を聞いた松扉師は、次のように述べられます。

  褌一枚すら女房に洗うてもらわねばならないところに立って、生かされて生きておるのがこの身でしょう。にもかかわらず、われわれは”あたりまえだ”というところにしか立っていない。真実を見る眼を持かないために、〃あたりまえだ”
と言うて、まだ不足を言うて生きているのが、お互い私たちの今の生きざまでありませんか。                (『同』五〇頁 傍線、引用者)

世評師の人間成就の道についての見解から考えますと、自分中心の煩悩にふりまわされているから、「あたりまえだ」といってまだ不足までいっていることになります。ところが、「あたりまえだ」といっていたことが「あたりまえ」でないことがわかりますと、不足の言葉にならず感謝になります。

「モッタイナイ」

私の推測も含めていえば、この老夫婦は元気なときは常々お寺にお参りされ法話を聞いておられました。そのためにみ教えが身につき、「ありかたい≒おかげさま」という日暮しをされていました。ところが、おばあさんの「モッタイナイ」という言葉によって、六十年間、下着を洗濯してもらいながらお礼さえいったことがなかったことに、おじいさんは気づきました。洗濯をしてもらっていたことをあたりまえと思っていたのでした。「モッタイナイ」の二言で、おばあさんの六十年間の下着の洗濯が支えであった、恩恵であったことに気づきました。
それとともに、気づけなかった自分が「あさましいヤツ」と知らされることになります。おじいさんは、み教えを聞くなかであさましいこころを持った自分であることは知っていたのですが、この「あさましいヤツ」はまさに実感で、自分を恥じ情けないと思ったのです。おじいさんは改めて、おばあさんに生かされて生きてきたことに気づかされました。
おばあさんは自由には動けなくなられましたが、老夫婦はお互いに生かされて生きる日暮しをされそうです。お互いが支えられていることを感じながらの生活は幸せな生活になります。

教えに遇う

人間成就とは、教えに遇って「あらゆるものに支えられて生きる≒生かされて生きる」ことに目覚めることです。しかし、「生かされて生きる」ことがわかれば、人間として成就したということではありません。日々の生活のなかで目覚めさせていただくのが人間成就の道です。具体的には、今回のようにおばあさんの一言に自分のあさましさを感じたり、浄土真宗の門信徒が食事の際に唱える「多くのいのちとみなさまのおかげにより」で始まる〈食前のことば〉を読んで、「確かにいのちをいただいている」と思ったり、念仏のなかに亡き人の恩恵を感じたりすることで、目覚めさせられます。
人間成就の道は、教えに遇って「あらゆるものに支えられて生かされて生きる」ことに目覚めていくことですから、私を支えるものに対する感謝とよろこびがあります。
一方、今月のことばにある“あたりまえだ”と言って、まだ不足まで言っている」自分中心の煩悩のままの行いのままであれば、正しくもなくよろこびもありません。
ところが、人間成就の道を歩みながら、「生かされて生きる」よろこびも感じている私たちであっても、今月のことばのように「不足まで言って」います。どうすればいいのかわからなくなりますが、やはり、教えに遇い、自分自身を見つめて、さまざまなご縁に出会っていくことが大切であると考えています。今回のおじいさんのように。
(村上 泰順)

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2022年5月のことば 失ったものを 数える人あり 与えられたものに 感謝する人あり

はじめに

五月は花の季節です。気温も上がり、空も明るくなり、散歩する人の足取りも軽やかで、道筋や庭先には、ツツジやパンジー、ガーベラなどの花が色鮮やかに咲いています。散歩をしていても、お寺の掲示板の言葉をみては、「俯かにそのとおりだ」とか「難しいことが書いてあるなあ」と、その場その場で感想をいっていることがあります。
さて、五月のことばは豊島学由師の掲示伝道の言葉です。
豊島先生は、一九二九(昭和四)年に大阪府堺市に誕生されました。龍谷大学大学院で真宗学を学ばれた後、布教使として活躍され、NHK文化センター講師、中央仏教学院講師を歴任されました。浄土真宗本願寺派覚円寺のご住職でもありました。
著書としては、『親鸞聖人と私』『生死を超える道』『人間の願いと如来の願い』など多数あります。
私は、数度先生のご法話を聴聞させていただきました。先生は、よく通る声、明快な口調で、冗談を交えながらお話をされました。そのようなユーモアあふれるなかで、獅子吼の説法の言葉どおり、すごい迫力でみ教えを説いておられました。
余談ですが、今はスマートフォンがあれば法話を聞くことができます。本願寺も法話を配信しています。豊島先生のご法話もべ呂H呂ので聞くことができます。
今月のことばは、
失ったものを数える人あり 与えられたものに感謝する人あり                (一三頁)
です。『いのちの言葉掲示伝道法語集』(法蔵館)にある言葉です。掲示用の法語ですから、先生が実際にご自坊の掲示板に書かれた言葉かもしれません。
私たちは、しばしば掲示伝道の法語を目にします。この真宗教団連合の「法語力
レンダー」も掲示伝道の一つです。法語を毎日のように目にしますが、同じ言葉でも、面白いと感じたり、ありかたかったり、ときには「自分のことをいわれている」と思ったり、そのときの心情によって受け取り方が変わります。お説教で法話を聞くだけではなく、法語を書物や掲示板で読むことも楽しみの一つです。

与えられたもの

さて、今月のことばです。「失ったものを数える」ことは、よくあることです。現在に満足していなければ、自然に思い出してぼやいているかも知れません。元に戻ることがないことがわかっていながら数えるのですから、結局は愚痴になってしまいます。このような人は今が満足できないのですから、与えられたものに感謝をすることはありません。
普通に考えると、「失ったものを数える」より「与えられたものに感謝」できる方が、こころ豊かな生活になります。

 「与えられたものに感謝する」生活について考えます。
「与えられたもの」が何を指すかは、この法語を読んだ人によって異なりますが、自分の家・家族・仕事などの生活環境と、住んでいる社会の環境のこととしておきましょう。
「与えられたものに感謝する」とはどのようなことでしょうか。

狭い家に住めば広い家に住む人が羨ましいといい
広い家に住めばこじんまりとした狭い家がよいという
(相愛中・高等学校編『日々の糧』)

これはある法語の一節です。広い家に住めば、大きな家具も置ける、友達も呼べると思いますが、広い家に住んでみると、掃除する部屋が多く電気代も高くつくという不満も出ます。この感覚は私たちの多くが持っています。この感覚を持つたままでは、いつまで経っても不満だらけの生活になります。しかし、狭い家には狭い家の良さがあり、広い家にも広い家の良さがあります。私たちは見方を少し変えると良さがわかります。その良さを見つけると、満足感になり感謝になります。
家だけではなく、家族・学校・仕事・出遇う人々など、どれもにもよいところがあります。そこを探す努力をすると、「与えられたものに感謝する」生活になります。
一つよいところを見つけると、どんどんよいところが見つかり、こころ豊かに過ごせます。

恩恵に気づく

私たちは、どのようなときに感謝をするのでしょうか。
古い話で、スマートフォンが普及した今では考えにくいことです。以前、私は高校の教員をしていました。定期考査が近くなって、病気で欠席をする生徒がいます。
テスト前は大事な時期です。欠席したときのノートを見たいのですが、誰もがテス卜勉強をする時期ですから、簡単にノートを貸してほしいとは言いにくいものです。
そんなときにノートを貸してくれる生徒がいれば、嬉しいことでもあり、ありかたいことでもありますから、「ありがとう」と口にします。この生徒は、今度は貸してくれた生徒がノートで困ったときは、多少無理をしてでも貸してあげます。また別の生徒がノートで困ったときも、自分か困ったことがあるだけに、できるだけノートを貸してあげます。
ノートを借りたことは恩恵です。恩恵を受けたことがよろこびになり、よろこびが感謝のこころになり、それが言葉になります。恩恵を感じると、その恩の思いが行動になっていきます。しかし恩恵とわがらなければ、感謝にはなりません。恩恵は自分が感じるものです。人から「恩恵を受けているから感謝しなさい」といわれても、感謝の気持ちは湧きません。
今月のことばでいえば、「与えられたもの」に恩恵を感じるならば感謝します。

恩恵のなかの私

昭和時代の禅の大家である沢木興道師は、

  天地も施し、空気も施し、水も植物も動物も人間も施し合い。われわれはこの  施し合いの中でのみ生きている。ありかたいと思うても、思わないでもそうなのである。
(ネルケ無方著『ドイツ人住職が伝える禅の教え生きるヒント33』 一九〇頁)

と、自らが感謝するしないに関係なく、施し合いのなかに生きていることが縁起の意味である、といわれたそうです。
人間同士も施し合っています。施し合うとはめぐみ合うことです。親子で考えると、親は施す意識はありませんが、子を育てることに精一杯施します。子は、特に親のことを考えて成長するわけではありませんが、子どもと一緒にいると楽しい、子どもがいるから意欲的に生きることができる、といったことなどはよく聞く話です。これらは子どもからの恩恵です。子どもがいるから遊びにも連れて行かねばならないと思っていても、後から考えると子どもがいたから遊びに行けたことがわかります。これは子どものめぐみです。
沢木師の話を前提に考えますと、私たちは恩恵のなかに生きています。施し合いが恩恵とわかると、よろこびになり感謝にもなります。

大きなご恩

親鸞聖人も恩恵に対して感謝されます。聖人の著述には、感謝の言葉として「謝す(感謝する)」「報ず(報いる)」「報謝(感謝して報いる)」という言葉が出てきます。
この三つの言葉を同じ意味で使っておられます。聖人の感謝とは、感謝して報いることです。また、家族や周りの人々の恩恵に感謝されていたと思いますが、残された著述はすべて教えに関するものですから、推測しかできません。ここでは「恩徳讃」を読んで、感謝の内容を考えます。

如来大悲の恩徳は
身を粉にしても報ずべし
師主知識の恩徳も
ほねをくだきても謝すべし     (『正像末和讃』、『註釈版聖典』六一〇頁)
(私を救う阿弥陀仏の恩恵は身を粉にしても報うべきである。阿弥陀仏の教えを親鸞聖  人まで伝えたお釈迦さま、七人の高僧の恩恵も骨を砕いてでも感謝すべきである。著者訳)

親鸞聖人は、二十年間比叡山で修行しても、煩悩を断じてさとりに近づくことができませんでした。そこで法然聖人に出遇い、煩悩があるままで必ず浄土に往生させるという、阿弥陀さまの願いを知られました。それは聖人にとっては大きな救いでした。
親鸞聖人は阿弥陀さまに帰依されました。さらに生涯にわたって、何かおきても阿弥陀さまを頼りに生きていかれました。
これが「如来大悲の恩徳」の内容です。
法然聖人は、阿弥陀さまに帰依し念仏生活を送っておられましたが、そのおすがたは、阿弥陀さまの救いに摂め取られ安らかで温かいものでした。そのおすがたを見、お話を聞くなかで、親鸞聖人は阿弥陀さまに帰依することが正しい道と確信されたのです。
阿弥陀さまの願いはお釈迦さまによって示され、インド・中国の高僧、日本の源信和尚、法然聖人へと伝わってきました。その人々のおかけを「師主知識の恩徳」といいます。
親鸞聖人は、如来の大悲と師主知識の恩徳は、身を粉にしても骨を砕いても報いていかねばならない、といわれます。恩恵の大きさがこのような表現になったのでしょうが、聖人の苦難の生涯をみると、言葉どおり身を粉にして報恩に努められたことがうかがえます。
ところで、別の書物では報恩は利益であるといわれます。利益ですから、頂戴してよろこばしいもの、うれしいものです。利益ですから、厳しい報恩の行いはよろこばしい行いでもあります。
報恩の行為とは、念仏すること、教えを伝えること、そのための著述をすることです。親鸞聖人は生涯、お念仏をし教えを伝えられました。また八十八歳の頃まで著述をして教えを説かれました。このようにみますと、聖人は報恩のために一生を過ごされています。それは嫌なことではなく、よろこびの生涯でした。

恩恵に気づくよろこび

私たちも、阿弥陀さまに帰依しますと、親鸞聖人と同じ恩恵をいただきます。この恩恵を恩恵として受け止めることができればありかたいことです。
仏の恩恵がわかればさますまな恩恵もわかるとは思いませんが、聖人をけじめ多くの念仏をよろこばれた人々についての話を通して、凡夫の私か多くの恩恵に生かされていることもわかってきます。先にお話ししたように、自分の体験を通して、実感できなかったものが恩恵であるとわかることもあります。また、自分中心の煩悩をもっていることがわかると、少し方向を変えて物事をみれば恩恵とわかることもあります。
恩恵を数える必要はありませんが、恩恵のなかに生かされているとわかることに気づくことは、幸せなことですし楽しいことです。それは、たった一人で頑張っていたつもりの人が、自分に向けられた多くの支えがあることに気づけば、一気によろこびが湧いてくるようなものです。
(村上 泰順)

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2022年4月のことば如来の本願は 風のように身に添い 地下水の如くに 流れ続ける

はじめに

新年度になりました。近くの駅に行きますと、時間によって学生で溢れています。
親子連れの多い日は、「今日は入学式か」と思って眺めています。
私が大学生になった昭和四十年頃は、入学式は学生一人で参列していました。私の子どもが大学に入る頃には保護者同伴で参列しました。どちらかというと親のほうが楽しそうでした。
受験に関しては、生徒数が多く、大学でも高校でも競争率が高く、それほど簡単に志望校へは合格できませんでした。今は生徒数が少なくなり受験は楽になったかというと必ずしもそうではなく、やはり受験は厳しそうです。
平野先生は、一九四三(昭和十八)年に石川県に誕生され、大谷大学大学院博士課程を経て九州大谷短期大学教授を一九九一(平成三)年までされ、一九九五(平成七)年に往生されました。その間、一九八八(昭和六十三)年には真宗大谷派金沢教区真
宗研究室初代室長に就任されました。また、石川県松任市(現・白山市)明証寺の住職でもありました。著書は、『真宗の教相』『民衆のなかの親鸞』『生きるということ』『教行信証に学ぶ』など多数あります。二〇〇二(平成十四)年には『平野修選集』全十七巻が刊行されています。
平野先生の著書のほとんどは講義・講演を書籍化したものです。先生は最期まで各地で講義をされました。その講義録はご往生後数年して盛んに書籍化され、今も多くの著書を読むことができます。

自ら在る

四月のことばは、『生きるということ』(真宗大谷派宗務所出版部)の「あとがき」に載っています。
この書物は、真宗大谷派の大阪教区と熊本教区の青年研修会での講義録です。この本を見る限り、いつの講義かわかりません。先生の没後十一年経った二〇〇六(平成十八)年の刊行です。
ここでは、先生のお人柄、生き方を知るという意味で、先生が説かれる「自ら在る」ということについて読んでいきます。
『生きるということ』では、先ず「人間は体いっぱい動かして肉体に宿った言葉を話していきたい」、しかし現実は、「『あなたの学校の成績はね』と言われるともうそんな気持ちにはなれない」というところから始まります。その意図は、私たち一人ひとりの本来在るはずのすがたと多くの人の実際の様相を示すことです。次の文は先生ご自身の体験です。

平野先生は、高校受験では第一志望ではない高校に大られました。まだ学校制定の帽子があった時代です。帽子には学校の紋章である校章がついています。通学途中は正面から校章が見えないような被り方をし、身体も歪めて歩いていました。学校内では、普通に正面を見て学校生活を楽しんでいました。周りの環境によって自分の対応が決まってきます。世の中の見方が本来の自分を出せなくしています。こんな自分がいいはずがありません。
平野先生は、外からのはたらきと自分の考えの関わりを、次のような例をあげて述べられます。
日本は、戦後からずっと豊かな社会になるために努力してきました。私たちも豊かになるために働いてきました。ところが、歳を取り、豊かさのために何もできなくなると、家族に迷惑をかけないことを考え、早く亡くなってもいいと思う人も出てきました。平野先生は、本当は早く亡くなりたいと思うことはないはずだといわれ、豊かさのために努力することがいいことだという世間の価値観が影響して自分の考えになってしまったから、早く亡くなりたいと思うのだとされます。
実際に、私たちは他からの働きを避けることはできません。普段日本語を話し、日本語で考えることも他からの働きです。他からの働きが自分のあり方を変えています。そうならば、自分の根底の自ら在るという点に気づくことが大切であると、平野先生はいわれます。
自ら在るとは、ここに在る自分を何かによって隠したり覆したり押さえたりすることを許さないということです。他との比較で生きる、豊かさを求めて生きる、人の都合で生きる、あなたのために生きるなど、外からの働きで生きることは、自ら在るという生き方ではありません。

世界といっしよにある

平野先生によりますと、親鸞聖人は大乗と小乗という二つの生き方を示されました。大乗では他との関係で生きることを説いています。小乗では他との関係を断ち切って、一人で生きていくことになります。
関係性のなかで生きていくことは揉めることもあり、気を使うことも多く、煩わしいものです。だから一人で生きたくなります。しかし、現実の世界は多くの人とともに生きる世界ですから、小乗の生き方はできません。このことを親鸞聖人は教えようと、大乗・小乗といわれたのではないかと、平野先生は述べられています。
また、他の人も自ら在る人ですが、その人の自ら在ることに対して邪魔したり押さえたりすることは許されません。
自ら在る私は、自ら在る他者との関係性のなかに生きていくことになります。それが、世界とともにここにあるという生き方です。この世界は私の生きる場ですから大切な世界です。
自ら在るという声は、私の一番深いところにあります。その声が出るかでないかは人それぞれです。その声が出ることが、『生きるということ』の最初にあった「人間は体いっぱい動かして肉体に宿った言葉を話していきたい」という生き方になります。それはまた「自身を生き尽く(す)」(二二〇頁)生き方です。

本願に遇う

四月のことばは、『生きるということ』の「あとがき」で秋吉正道師が紹介された平野先生の言葉です。

  「如来の本願は、風のように身に添い、地下水の如くに流れ続ける」という最後の言葉は、平野修その大そのものの生き方であり、青年に向き合って真宗に生きる願いでもあったかと思う。                 (ニニー頁)

「如来の本願は、風のように身に添い」とあります。風が吹けば、その場にいる人の一人ひとりが風を感じます。本願はすべての大にはたらきかけていますが、本願のはたらきを受け取るのは一人ひとりです。また本願には、地下水の流れが四方八方に広がるように、どこまでもはたらき続けるという意味があります。
本願とは、阿弥陀如来が私たちを救いたいと建てた四十八の誓願の第十八番目の願で、第十八願ともいいます。また本願は、信心と念仏によって浄土に往生させるという願いです。その願いは「南無阿弥陀仏」という名前(名号)となって、「南無阿弥陀仏」を頼りとせよとはたらきかけています。
私たちは、本願の話を聞いても自分のこととも思えません。しかし、自分自身を振り返ったときノ言ってはならないことを言って人を傷つけたり、言うべきことを言えずに人を苦しめたり、人の失敗を同情しながらも、どこかで面白がっかりする自分を見出します。ねたみ・やっかみ・怒り・腹立ちのこころが、しばしば現れます。
このようなことは反省をします。でも気がつけば、また同じようなことをしています。結局は、こころの持っていきようがないままに過ごしていることになります。
このようなときに、阿弥陀さまの本願の話が自分のこととして聞こえてきます。
阿弥陀さまを頼りとすることで、持っていきようのなかった自分のこころに道筋が与えられたような感じを受けます。今まで関心がなかった本願のはたらきは、自分の罪悪性・煩悩をみつめるなかで、私のこととして受け止められます。
自分には関係ないと思っていた本願の話か、実はそうではなかったと受け止められてくることを書きました。実際には、自分には関係ないといいながらも、縁があつて何度も本願の話を聞いているなかで、自分をみつめ直し本願を受け止めています。また親しい人の死、自分の受けた災難などを通して、本願の話が聞こえてくることも多くあります。

親鸞一人がため

本願が「風のように身に添う」ということについて、親鸞聖人は、

  弥陀の五劫思惟の願をよくよく案ずれば、ひとへに親鸞一人がためなりけり。
(『歎異抄』、『註釈版聖典』八五三頁)

といわれます。阿弥陀さまは、五劫の間思惟して四十八の誓願を建てられました。
その願は、親鸞ただ一人を救うための願であったという意味です。このお言葉は『歎異抄』の「後序」にあります。それによりますと、このお言葉は聖人がいつもおっしゃっていました。
そして、

  それほどに重い罪を背負う身であったのに、救おうと思い立ってくださった阿弥陀仏の本願の、何ともったいないことであろうか
(『歎異抄(現代語版)』四九頁)

と続きます。それに対して『歎異抄』の著者である唯円房は、

 

  親鸞聖人がご自身のこととしてお話しになっだのは、わたしどもが、自分の罪悪がどれほど深く重いものかも知らず、如来のご恩がどれほど高く尊いものかも知らずに、迷いの世界に沈んでいるのを気づかせるためであったのです。(同頁)

といいます。
親鸞聖人がご自身のこととしておっしゃったことでしょうが、唯円房がいわれることもよくわかります。唯円房は、聖人のお言葉を聞いて、自分の罪業の深いこと、仏の恩徳の深いことに、いつも気づかされていたと思われます。

私に合わせて

「親鸞一人」とは、どのようなことでしょうか。
親鸞聖人は自分を極めて厳しくみつめられます。だから自分ほど罪業の深いものいないと思っておられました。そのようなものまでが救われるという意味で、「親鸞一人」といわれたと考えられます。
また十方衆生の救いといっても、あらゆる人々を網で掬うような救い方ではありません。本願においては信心ひとつで往生できます。しかし、日々楽しいという人、なぜ苦しい生活をしなければならないのかと悩む人、自分の能力に悩む人、自分の家庭に悩む人など、キリのないほどのさまざまな人がいます。また、若者か年寄りか病気なのかと、今の状態もさまざまです。そうなると、本願もその人に即してはたらいていると窺われます。つまり私か本願に合わせるのではなく、本願が私に合わせてはたらきかけてくださっているのです。このことを、親鸞聖人は「親鸞一人がため」とおっしゃたのです。
本願によって見出された世界はさまざまです。ガンになって阿弥陀さまの説法が聞こえてくるといわれる方もあれば、おかげさまのど真ん中といわれる方もいます。
平野先生は、世界といっしょに自ら在るという生き方を見出されました。
さて私たちは、必ず救うという阿弥陀さまを頼りに、どのような世界を見出すのでしようか。
(村上 泰順)

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2022年3月のことば われ称え われ聞くなれど 南無阿弥陀 つれてゆくぞの 親のよびごえ

はじめに

三月のことぼは、原口針水和上のお言葉です。針水和上は、江戸時代末期の文化五(一八〇八)年に今の熊本県山鹿の光照寺に生まれました。幼名を妙丸といい、母親と四歳で死別し、五歳から僧侶になる勉強を始めたそうです。七歳で基本的な経典を学び、九歳のときには四書五経を勉強し、十二歳から十四歳の間には父親と叔父からお経の解釈を学んだといいます。
その後、名前を得慶と改め、二十三歳からは福岡の万行寺で七里曇龍師に師事しましたが、曇龍師が亡くなると故郷の光照寺に戻ってきました。その頃にはすでに学僧として全国に名前が知られる存在となっていました。その後三十六歳で光照寺の住職となりますが、全国からその学問の深さを聞きつけてお坊さんが訪れるようになり、光照寺の前の細い参道が人通りの絶えない広い参道になったといわれています。やがて西本願寺や龍谷大学の要職に就き、またその間、慶応三(一八六七)年には本願寺派司教となり、神道を主体として仏教をそこに統合しようとする政府の動きに対して、本願寺を代表して厳しくその政策を批判し、弟子であった島地黙雷らとともに仏教を擁護していきました。
針水和上の博学ぶりは真宗、仏教にとどまらず、キリスト教や神道にも及びます。それは単に博学というだけではなく、江戸から明治にかけて日本中が変革の嵐に包まれるなか、キリスト教が日本に広まるであろうこと、天皇制の下、神道が力を強めて行くであろうことを予見してのことだったといいます。一八六九(明治二)年の安居(本願寺の法会)では、副講者として『正像末和讃』の講義とともに『旧約聖書』「出エジプト記」の講義を行っているのは有名な話ですが、一八七三(明治六)年には本願寺派勧学を命じられ、安居での講義は六回に及んだといいます。その後も和上は積極的に活躍されるのですが、一八九三(明治二十六)年にあやまって負ったかすり傷がもとで、六月十二日に往生の素懐を遂げられました。
ちなみに「針水」という名は、福岡の万行寺で七里曇龍師に師事していた頃に曇龍師が付けた名前で、提婆達多と龍樹菩薩の物語に由来しているといいます。
提婆達多がある日、龍樹菩薩に仏教の解釈について論議を申し入れたところ、提婆達多の悪評を聞いていた龍樹菩薩は、鉢いっぱいに水を入れて提婆達多を待っていました。やってきた提婆達多に対して龍樹菩薩が鉢の水を指さすと、提婆達多は一本の針を取り出して水のなかに放り入れたのです。その針は鉢の底に沈んでいきました。龍樹菩薩が指さした鉢いっぱいの水は龍樹菩薩の智慧の深さを示していたのに対して、提婆達多が放り入れ鉢の底に沈んでいった針は、龍樹菩薩の智慧の底を見極めたという答えだったのです。龍樹菩薩は「提婆達多は利口だ」という感想を漏らしたといいます。この故事から、知恵深い僧となるようにとの願いを込めて、曇龍師は針と水とて「針水」と名づけたといわれています。
今月のことばである。

  われ称えわれ聞くなれど南無阿弥陀仏
つれてゆくぞの親のよびごえ
(梯賓圓著『わかりやすい名言名句 妙奸人のことば』三一七頁、法蔵館)

の歌は、針水和上が、七十七歳の喜寿を祝った折、有縁の人々に色紙に書いて与えられたというもので、今も多くの人々に親しまれています。

親の喚び声

今月のことばの意味は、「私か称え、またその自分の声を私自身が聞くのだけれど、この南無阿弥陀仏は、お浄土に連れて行くぞといわれる親さまの喚び声に他ならない」ということです。私の声がそのまま阿弥陀さまの喚び声だというのはどういうことでしよう。
今ちょうど、嫁いだ娘が里帰り出産で帰ってきています。産後一ヵ月少ししたら大阪に帰る予定でしたが、折しも新型コロナウイルスが大阪で爆発的に感染拡大し、もう生まれて三ヵ月になりますが、なかなか帰れないでいます。小さな命で、周りがいろいろなことをしてあげないといけないのに、赤ちゃんは泣くことしかできません。ときには、何ということはなくただぐずっているだけのようなこともあります。娘が何かしていて手が離せないようなときには、私と坊守がなんとかあやそうとするのですが、なかなかどうしてうまくいきません。ところが母親というのは偉いもので、「はい、お母さんですよ。大丈夫、大丈夫」といいながら抱っこをすると、安心したような顔でピタリと泣き止みます。不思議なもんだなあ、ちゃんと親がわかるんだなあ、と思って眺めてますと、娘は何度も「はい、お母さん。大丈夫、大丈夫」と繰り返しています。そのことに気づいてから何とはなしに見ていると、同じような言葉を繰り返し繰り返しいいながら、赤ちゃんをあやしているのです。
その様子を見ながら、やがてこの赤ちゃんも言葉を話すときが来るのだろうけれど、そのときはやはり「お母さん」とか「ママ」とかを一番最初にいうんだろうなあと思いました。私の口をついて出るお念仏のご法話で、昔はよく梓みちよさんの「こんにちは 赤ちゃん」の歌が例えに使われていました。赤ちゃんが「ママ」というのは、親が先に「ママよ、ママよ」と呼びかけているからだと。でも、娘が赤ちゃんをあやしているのを見ていると、それだけではないように思います。おそらく「はい、お母さん。大丈夫、大丈夫」というその「お母さん」という言葉のなかには、「まかせなさいよ、大丈夫よ」ということが込められており、その「まかせなさいよ、大丈夫よ」ということが込みで赤ちゃんには届いているのではないでしょうか。
いずれこの赤ちゃんが「お母さん」と呼ぶとき、その「お母さん」には、先に「大丈夫、まかせなさいよ」という母親の呼びかけがあり、それが全部つまって赤ちゃんの「お母さん」という言葉になっているのでしょう。

本願招喚の勅命

私の称えるお念仏が、そのまま阿弥陀さまが私をつれていくぞといわれる喚び声である。そのことを明らかにされたのは親鸞聖人でした。『教行信証』「行文類」には、

   しかれば、「南無」の言は帰命なり。……ここをもって「帰命」は本願招喚の勅命なり。                    (『註釈版聖典』 一七〇頁)

とあります。(親鸞聖人の)「六字釈」といわれる箇所です。「本願招喚の勅命なり」といわれるのは、私たちの称える「南無阿弥陀仏」が如来さまの私に対する喚びかけであるということです。この喚びかけについて、善導大師は『観経四帖疏』に二河白道の比喩を明かし、その解釈を示されるなかで、

   「西の岸の上に人ありて喚ばふ」といふは、すなはち弥陀の願意に喩ふ。

(『註釈版聖典(七祖篇)』四六九頁)

といわれています。また親鸞聖人は『愚禿妙』で、この二河白道の比喩について、

  「また、西の岸の上に、人ありて喚ばうていはく、〈汝一心正念にして直ちに来れ、我能く護らん〉」といふは、
「西の岸の上に、人ありて喚ばうていはく」といふは、阿弥陀如来の誓願なり。
……方便仮門を捨てて如来大願の他力に帰するなり、……また摂取不捨を形す
の貌なり、すなはちこれ現生護念なり。  (『註釈版聖典』五三八-五三九頁)

と示されていますから、聖人が「本願招喚の勅命」といわれた意味は、「他力に帰せよ」ということであり、「摂め取って捨てない」ということです。「他力に帰せよ」というのは「我にまかせよ」ということであり、「摂め取って捨てない」ということは「必ず救う」「そのまま救う」ということに他なりません。
私たちのお念仏「南無阿弥陀仏」の「南無」はインドの言葉の音を写したもので、漢語になおすと「帰命(する)」という言葉になります。浄土真宗の「帰命(する)」は、「必ず救う、我にまかせよ≒そのまま救う、我にまかせよ」とのご本願が私に届き、その本願招喚の勅命に順うすがたです。私か願うより先に、如来さまの方が願っていてくださる。それが浄土真宗の「南無阿弥陀仏」のお念仏なのです。

称えさせてもらうお念仏

「はい、お母さんですよ。大丈夫、大丈夫」と声がしています。この母親の呼びかけに、やがてこの赤ちゃんも「お母さん」と呼ぶようになっていくのでしょう。母親の呼びかけなくして、赤ちゃんが「お母さん」と呼ぶようになることはなかろうと思います。私の称えるお念仏も、阿弥陀さまのご本願が、そして私にはたらきかけてくれるたくさんの縁があって、私か「南無阿弥陀仏」と申すことができているのでしょう。そうでなければ、この煩悩具足、罪悪深重の私か如来さまの名を称え、お念仏申すことなどできるはずもありません。

「先手は弥陀、それを忘れてはいかん」
浄土真宗のみ教えを学び始めたときに、先輩方から鏝初にいわれたのはこのことでした。私かあれこれ考えるそのずっと前から、阿弥陀さまの方が私を願っていてくださった、そのことをいただくのがお念仏のみ教えです。

  弥陀の五劫思惟の願をよくよく案ずれば、ひとへに親鸞一人がためなりけり。
さればそれはどの業をもちける身にてありけるを、たすけんとおぼしめしたちける本願のかかじけなさよ             (『註釈版聖典』八五三頁)

『歎異抄』に示された聖人のお言葉に、あらためて頷かされることでした。
(安藤 光慈)

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2022年2月のことば ふみはずしましたが 気がつけば ここもも 仏の道でございました

はじめに

今月のことばは、榎本栄一さんのお言葉です。榎本さんは一九〇三(明治三十六)年十月に兵庫県の淡路島に生まれ、一九九八(平成十)年に九十四歳で往生されました。幼少期は身体が弱く、あまり学校にも通えなかったそうですが、十五歳の頃に父親を亡くし、十九歳の頃から家業であった化粧品店で精を出して働いたといいます。一九四五(昭和二十)年の大阪大空襲で淡路島に逃れ戻りますが、終戦後知人の店で化粧品を扱うようになり、一九五〇(昭和二十五)年に東大阪市で化粧品店を開業します。やがて浄土真宗のみ教えに帰依し、念仏のうたと称する仏教詩を書いて『群生海』『煩悩林』『難度海』などの詩集を著しておられます。

今月のことばは、その『念仏のうた難度海』(樹心社)から採られています。詩の全体は「仏の道」という題で詠まれたものであり、

  ふみはずしましたが
気がつけば
ここも仏の道でございました                   (三三頁)

とある直前には、

  今日も
如来さまは
この足弱き私の
道づれになってくださる
この道 平坦ではありません                    (二五頁)

と詠まれています。

以前に『難度海』を味わわせていただく機会があり、今月のことばを見たときに、同じく榎本さんの、

こまごまと自力で
いちにちはたらいたが
気がつけば
大きな他力の中                          (四二頁)

という、「他力一元」と題された詩を思い出しました。
一九七九(昭和五十四)年、榎本さんは七十四歳のときに化粧品店を閉めておられます。『難度海』は一九八一(昭和五十六)年に出された詩集ですが、この詩を書いた頃、榎本栄一さんはまだ化粧品店を営んでおられましたようです。今月のことばの詩は、ひょっとするとお店を閉める前後あたりのものかもしれません。そうすると、「ふみはずしましたが」という言葉は内面的なものというより、少しリアルな日常のことのようにも思えます。どちらにも「気がつけば」という言葉があります。
二つを並べて味わわせていただくのもよいかもしれません。

在家の念仏者

榎本栄一さんは在家の念仏者です。とはいえ、はじめは真宗大谷派の僧侶で仏教思想家であった暁鳥敏師に法を聞き、その後幾人かの先生に教えを受けて、念仏申しながら自分の内面を見つめ、自分の内側の声を聞くということに努めて、やがて振り返れば「内観の詩」を詠むという方向に進んできたと、自らいかれています。
いま「在家の念仏者」といいましたが、浄土真宗のみ教えは、もとより在家の念仏者の教えです。蓮如上人の『御文章』のなか、

  末代無智の在家止住の男女たらんともがらは、……                          (『註釈版聖典』 一一八九頁)

と始まる「末代無智章」は私たちの耳に馴染みの深いものですが、他にも多くは「在家止住」「在家無智」という形で、十数箇所に用例が認められます。
在家とは、出家せずに世俗の生活を営みながら仏教に帰依するもののことで、インドでは、男は優婆塞、女は優婆夷とよばれていました。出家者である比丘・比丘尼にこの優婆塞・優婆夷を加えて四衆といい、これが仏教教団を構成する人々ということになります。経典等で「善男子・善女人」とあるのは基本的にこの優婆塞・優婆夷のことと考えていただければよいと思います。『仏説阿弥陀経』にも善男子・善女人の語は多く登場しますが、『仏説阿弥陀経』はインドにおける当時の浄土教信仰の様子が反映されている一面があることを考えれば、もともと浄土教は在家信者の信仰であったと思ってよいでしょう。
また、当時の仏教圈から出土したレリーフには阿弥陀仏が説法している様子が描かれていたりしますが、阿弥陀仏の膝元で礼拝している二人の人間は明らかに在家の男女のすがたで描かれていますから、これもインドにおける阿弥陀仏信仰の中心的な担い手が在家信者であったことを示しています。お釈迦さまが入滅された後、出家者はお釈迦さまの示された教え、すなわち経典にもとづいてさとりへの道を歩んでいきますが、在家信者もまた阿弥陀仏に手を合わせ、さとりへの道を歩んでいるのです。

仏の道

今月のことばと参考にあげた詩とをみると、両方ともに「気がっけば」という言葉があることに気づきます。二つの詩はともに、「気がつく辻剛後で榎本さんのまなざしが向けられている対象の質が変わっているのです。参考にあげた「他力一元」の方がより対照的に描かれていますので、まずこちらを味わってみましょう。

こまごまと自力で
いちにちはたらいたが
気がつけば
大きな他力の中

「気がっけば」の前の文には「自力」という言葉があります。そして後の文には「他力」という言葉があります。最初に申しましたように、この詩を書かれた頃、榎本さんはまだ化粧品店を営んでおられたようです。当時の化粧品店がどのようなお仕事だったのかは想像するしかありませんが、お客さんが来られたらその方に合った化粧品を勧め、売れるときもあれば売れないときもあったでしょう。また品物が置いてある棚の整理も必要かもしれません。お掃除も仕事の一つです。化粧品の発注もしなければなりませんし、伝票も書いたりしなければならないでしょう。なかには愚痴をこぼすお客さんもいるかもしれません。「こまごまと自力で いちにちはたらいたが」という文言には、いろいろと努力しながら一日の生活を送るすがたがうかがえます。
在家の者の道は、そうした日常の営みのなかにあります。こまごまとしたことに気を遣いながら、一日を送っていきます。出家の者のように世間を離れて生きているわけではありません。しかしそうした日常のなか、お念仏申しながら生きていく私を、如来さまはそのまま摂め取ってくださっている。「大きな他力のなか」というのは、ふと気がつけばそのこまごまとした日常も、他力すなわち如来さまのはたらきのなかにあったといわれているのです。
他力という言葉は、如来さまのはたらきということです。如来さまはいつも私に寄り添ってはたらいていてくださる。それは、如来さまが如来さまとしての道を歩んでおられるということです。お念仏のみ教えはありかたいなあと思います。私のこまごまとした日常はそのままお浄土参りの道であり、そのお浄土参りの道はそのまま如来さまのはたらかれる如来さまの道なのです。
さて、今月のことばが掲載されている『難度海』の「あとがき」(践)には榎本さんの言葉が添えられているのですが、そこで、

  一昨年の五十四年末に店を閉じました。行けるところまで行くつもりでしたが。
店をやめました。                       二九四頁)

と述懐されています。この詩が店を閉じる前後に書かれたものであるとしたら、「この道 平坦ではありません」「ふみはずしましたが」とあるのは、「行けるところまで行くつもり」であったのがうまくいかなかった、ということかもしれません。だとすると、おそらくいろいろな出来事があり、いろいろな事情も絡んでいることでしょう。「ふみはずしました」という言葉には、無念の思いがにじみ出ているように思います。
私たちの人生は、うまく行かないことの方が多い、思いどおりになど進むことのない人生です。しかし気がっけば、それでも私を捨てたまわぬ如来さまがおられた、そのことを「ここも仏の道でございました」といわれているのです。
ここでいわれている「仏の道」は、如来さまが私を摂め取って捨てたまわぬ如来さまの道でしょうか。それとも、お念仏申しお念仏申し歩んでいく私のお浄土参りの道でしょうか。おそらくそれはどちらでもよいのでしょう。私の道がそのまま如来さまの道なのですから。
「あとがき」に添えられた榎本さんの言葉の最後は、

  そんなわけで、耳が聞こえんようになったということが、私の詩の出発点で、
難聴さまさまでございます。    (『念仏のうた 難度海』 一九四-一九五頁)

というものでした。あるいはこのことが店を閉められた原因の一つかもしれません。
それでも、お念仏申しながらしっかりと前を向いて在家の仏道を歩まれていくすがたを、今月のことばからうかがうことができます。
ジタバタしながら生きている私ですが、気がつけば、ここも仏の道でありました。
(安藤 光慈)

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2022年1月のことば きょうもまた 光り輝くみ仏の お顔おがみて うれしなつかし

はじめに

一月のことぼけ、稲垣瑞剱師のお言葉です。師は、一八八五(明治十八)年十月に姫路市に生まれ、一九八一(昭和五十六)年に九十五歳で往生されました。幼い頃から学問に励まれ、漢文学、英文学、そして仏教や哲学に造詣が深く、特に真宗のみ教えに真摯に向き合っていかれました。学者でありながら念仏のご法義をよろこばれた人として名高く、真宗の伝道と著述に生涯を捧げられたといいます。
今月のことぼけ、師の著書『願力往生法雷叢書3』言華苑)のなか、「大信海」の章にある和歌調豆七五七七)の一節です。「大信海」の章は、地の文と二字下げ(あるいは一字下げ)の韻文とが交互に示される形で書かれていますが、全編にわたっ
てほぼ韻文とも思える文体でその境目は判然とはしておらず、全体の文章が流れるように読み手のこころに入ってきます。全体が如来さまに対する讃嘆であり、「親様がなあ」「親様じゃなあ」という言葉が印象的です。本当はこの「大信海」の全文を読んでいただく方が今月のことばを解説することになろうかと思いますが、そうはまいりません。しかしせっかくですから、今月のことばを含む一段を示しておきたいと思います。

   お慈悲じゃなあ、親様じゃなあ。
「ああ辛らと いうもあとなり 唐がらし」
「勢つきて 汲み上げられし 蛙かな」
やれうれし けさもまた 念々相続
み仏の お慈悲は ありあり 眼の前に
お立ちあそばす如来様
お顔のうちに 生死をはなる
我もまた
彼の摂取のうちに在り

ともに参ろう 法の友
きょうもまた 光り輝く み仏の
お顔おがみて うれしなつかし
(『願力往生』四七一頁)

光り輝くみ仏

「大信海」では右の文の後に、

  お内仏の阿弥陀様が、四十八本の光明を放ってござる。あの光明が、ずうっと延びて、私を抱いていてくださる。

という地の文が続きます。お内仏のご本尊を見てみましょう。ちょうどお顔のあたりから光が四方に延びて描かれています。数えるとたしかに四十八本ありますけれども、どうして四十八本なのか。それは阿弥陀さまの願いが四十八あるからだといわれます。他にも説はあるそうですが、光は仏の智慧のはたらきを表していますから、四十八願を表しているというのがしっくりくるように思います。
『仏説無量寿経』に示されている如来さまの誓願は四十八ありますが、なかでも第十二願は「光明無量の願」といわれます。

 たとひわれ仏を得たらんに、光明よく限量ありて、下百千億那由他の諸仏の 国を照らさざるに至らば、正覚を取らし。      (『註釈版聖典』一七頁)

『浄土三部経(現代語版)』では、

わたしが仏になるとき、光明に限りがあって、数限りない仏がたの国々を照らさないようなら、わかしは決してさとりを開きません。      (二八頁)

と訳されていますが、このように光明を無量にそなえようと誓われた仏が阿弥陀さまです。それは、私かどのような世界にあっても必ずそのはたらきを届けてくださると誓ってくださっているのです。瑞剱師が「あの光明が、ずうっと延びて、私を抱いていてくださる」といわれるように、私たちはいつもその光にいだかれ、そのはたらきのなかに摂め取られているのです。
ご本尊の絵像や木像はそのことをお示しくださっているのです。まさに光り輝くみ仏です。

きょうもまた

私たちの人生は、朝な夕なにお念仏申す人生です。瑞剱師が「きょうもまた」といわれているのをみると、おそらく師は朝、いつもと同じようにお仏壇の前で手を合わせておられるのでしょう。
親鸞聖人は「いつも」ということについて、二念多念文意』にこのような説明をされています。

  「恒」は、つねにといふ、「願」はねがふといふなり。いまつねにといふは、たえ  ぬこころなり、をりにしたがうて、ときどきもねがへといふなり。いまつねにといふは、常の義にはあらず。常といふは、つねなること、ひまなかれといふこころなり。ときとしてたえず、ところとしてへだてずきらはぬを常といふなり。                        (『註釈版聖典』六七七頁)

「恒」という字が表すのは、私たちがお念仏申すあり様です。朝な夕なにお念仏申すとはいえ、四六時中ずっとお念仏申しているわけではありません。でも、その朝な夕なのお念仏、あるいは折に触れ称えるお念仏は、ご信心をいただいて称える念々相続の絶えざるお念仏なのです。
このことについて、先人は雲のなかの龍の例えで説明しておられます。雲のなかの龍はずっと雲のなかにいるのだけれども、そのすがたがいつも見えているわけではない。しかし、時折雲の隙間から手足が見えたり尾が見えたりする。そのことで雲のなかにずっと龍がいることがしられるというのです。

「一方言常」という字が表すのは如来さまのはたらきです。源信和尚は『往生要集』のなかで、その如来さまのはたらきを、

大悲無倦常照我身       (『浄土真宗聖典全古川三経七祖鎬』 一一〇八頁)
(大悲倦むことなくして、つねにわが身を照らしたまふ。『註釈版聖典(七祖編)』九五六-九五七頁)

と示しておられるのですが、これを承けて、親鸞聖人は「正信偈」のなかで「大悲無倦常照我」(大悲、倦きことなくてつねにわれを照らしたまふといへり。『註釈版聖典』二〇七頁)と讃嘆しておられるので、思い当たられる方も多いと思います。ここでは
「常」の字が使われていますが、それは如来さまのはたらきは、

  つねなること、ひまなかれといふこころなり。ときとしてたえず、ところとし てへだてずきらはぬ        『二念多念文意』、『註釈版聖典』六七七頁)

ものだからです。「ひまなし」というのは間隙がないということです。親鸞聖人は『唯信紗文意』のなかで、「光明は智慧のかたちなり」(『註釈版聖典』七一〇頁)といわれていますから、「つねにわが身を照らしたまふ」とあるのは、如来さまの私を摂め取るはたらきがいつも私に届いているということです。
瑞剱師が「きょうもまた 光り輝く み仏の お顔おがみて」といわれているのは、お内仏のご本尊に向かって手を合わせると、その四十八本に延びている光が見えている。その光は、私を摂め取って捨てたまわぬ摂取不捨の光明であり、常に我が身を照らす光であったということを、「きょうもまた」という形で表しておられるのです。もちろん、「きょうもまた」は「お顔おがみて」にかかると考えられますが、「きょうもまた光り輝くみ仏の お顔おがみて」ということを成り立たせているのは、常に我が身を照らしたもう如来の摂取不捨の光明に他なりません。

お慈悲じゃなあ、親様じゃなあ

今月のことぼけ「うれしなつかし」という言葉で終わっていますが、最初に示しか今月のことばを含む一段は、「お慈悲じゃなあ、親様じゃなあ」という言葉で始まっています。意図されたわけではないのかもしれませんが、最初に「大信海」を読ませていただいたときに、「お慈悲じゃなあ」は「うれし」に対応し、「親様じゃなあ」は「なつかし」に見事に対応しているようにみえて、ちいさな感動を覚えました。
物心ついた頃、お寺でお坊さんがお話しになるのを聞いていると、この「慈悲」という言葉がしょっちゅう出てきます。私は、どうして「悲しい」んだろうと不思議でなりませんでした。やがて仏教のことを学ぶようになり、そこでは「慈」はいつくしみのこころ、「悲」はあわれみのこころと教わることもあり、今度は「憐れまれる」のも何か釈然としない気分で「慈悲」という言葉を考えておりました。
そんな私か「ああ、そうか」と得心したのは、やはりお寺にご法話にこられた高齢のお坊さんが、阿弥陀さまのことを「親さま、親さま」と呼ばれていたのを聞いたときでした。「ああそうか、阿弥陀さまは私のあり様を我がこととして悲しまれておられるのだ」とそう思ったとき、これまでどこか引っかかりながらみていた「悲」という字が、途方もなくありかたいものにみえてきたのです。
阿弥陀さまのようにとはいえませんし、限られたものであるかもしれないけれど、私たちの世界で私かいたらぬことをしたときに私以上に悲しみ、たまたま褒められるようなことをしたときに我がこととして喜んでくれるのは、親しかおりません。
親鸞聖人の書かれたものを読んでも、蓮如上人の「御文章」を拝読しても、どこにも阿弥陀さまのことを親さまとして慕うようなことは書かれていませんが、手を合わせお念仏申す人々は、いつの間にか阿弥陀さまを親さまと呼ぶようになっていきました。父母は、私の悲しみやよろこびを自分のこととして悲しみよろこんでくれる。阿弥陀さまも、煩悩具足の私か迷いの世界を抜け出ることができないでいることを阿弥陀さま自身の悲しみとして、何とか救わずにはおれずに「我が名を呼べよ、そのまま救う」とおっしゃってくださる。

  お慈悲じゃなあ、親様じゃなあ。
きょうもまた 光り輝く み仏の お顔おがみて うれしなつかし

まことそのとおりでありました。
(安藤 光慈)

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