2023年1月のことば この世のことは 何事も何事も お念仏の助縁

救いの助縁

一月は、元龍谷大学学長の信楽峻麿先生(一九二六-二○一四)の「この世のことは、何事も何事も、お念仏の助縁」という言葉です。先生は、現在の広島県東広島市の浄土真宗本願寺派教円寺にお生まれになり、龍谷大学文学部、文学研究科と進まれました。一九五八(昭和三十三)年四月に龍谷大学文学部に奉職し、さらに真宗学ひとすじに研究と教育の歩みを進めていかれ、多くの研究成果を残し、有為な人材を育成されました。先生は、真宗教学の現代化と国際化に取り組まれつつ、臓器移植問題など、社会の諸問題に対しても積極的に発言、行動され、そのなかで常々に浄土真宗は「めざめの宗教」であり、信心とは「智慧を得ること」であることを、教えてくださいました。
一九九五(平成七)年に定年退職されて後には仏教伝道協会理事長として、国内外における仏教伝道活動に尽力されました。すでに大学ご在職中から浄土真宗本願
寺派の海外開教区の別院や寺院を幾度も訪問し、開教使や門信徒の要請に応じて親鸞聖人のみ教えの本義を語られました。先生は、真宗の教義が世界に通用するためには、大乗仏教の原理に立ち返りながら語ることが大事であることを強調されていました。そのことは、そのまま今の日本において、私たちが浄土真宗のみ教えを学び、お念仏の生活を送る上にも必要な視点であると思います。

この一月のことぼは、ご著書『この道をゆく』に掲載されています。先生が座右の銘とされていた言葉で、縁のあった学生が卒業するにあたって、何か書いてほしいと頼まれたときに、好んで書き続けてこられた言葉であるとうかがったことがあります。ご著書には、この言葉の由来となった法然聖人の次の文章を引用されています。

  現世をすぐべき様は、念仏の申されん様にすぐべし。念仏のさまたげになりぬ
べくは、なになりともよろづをいとひすてべこれをとゞむべし。(中略)衣
食住の三は、念仏の助業也。 (『浄土真宗聖典全書』第六巻、六一一-六一二頁)

これは、法然聖人のお手紙や法語、伝記などが集録されている『和語燈録』(巻五)のなかの文章です。省略されている箇所も含めて、文意をいただいてみます。 法然聖人は、人生の目的はお念仏を申すことにあるから、お念仏を申しやすいように人生を送りなさい、ライフスタイルも一人ひとりにあった様式でよいともおっしゃっています。「衣食住の三は、念仏の助業也」というのは、衣食住は私たちの生活の基本です。その三つがお念仏を支えるための生業だと言われています。これは、お念仏を人生の第一義に、生活の中心にして生きることを薦められたものです。
念仏即生活、生活即念仏というお諭しです。法然聖人は、阿弥陀如来は煩悩具足の凡夫の浄土往生の行業として「称名念仏」 一行をお選びになったのであり、その他の諸行はお捨てになったことを明らかにされました。その称名念仏することが人生の第一義、生活の中心であるということには、どういう意味があるのでしょうか。

煩悩中心の自我教

少し視点を広くして、その意味をいただいてみたいと思います。世の中では、浄土真宗は宗教の一つだと考えられています。では、「宗教とは何か?」と問われると、その答えは一通りではありません。インターネットで検索すると、国語辞典などを出典にした定義が示されますが、そもそもキリスト教やイスラム教、その他、さまざまな名称の個別の教えをひとくくりにできる定義は存在しないのです。ただ一人の神を中心に成立している教えもあれば、多くの神を信仰することで成立している教えもあるし、そういった神の存在を前提にしない教えもあります。多種多様の様相です。昔から宗教学者が百人いたら百通りの定義があるとも言われるゆえんです。
先日ある宗教哲学の先生が、「宗教」という言葉を漢字のとおり、自分か「宗と
する教え」と解釈したらどうかというお話をされました。この場合の宗というのは、自分の考え方や行動を支配するもの、基準になるものという意味です。自覚的に信仰を持っている大は、その教えに黄づいて、たとえば食べるものや生活態度を決めています。こう言うと、現代の多くの日本人は、「私は無宗教者なので、そのようなものは持ち合わせていない」と答えるかも知れません。それに対して先生は、「自我教(自分教ともいう)」というものがありますよ、とおおせになりました。「自我教」つまり自我=自己中心の価値観がその人の考え方や行動を決めているということです。誰もが、それぞれの個性があるので、一見それは多様なように見えますが、仏教でいう煩悩をモノサシにしている点では共通していそうです。すべてを自分の都合の良し・悪し、損・得、快・不快、好き・嫌い、役に立つ・立たない等という価値基準で判断し、行動しています。自分にメリットをもたらすものはこれを際限なく求めようとし、気に大らないもの、デメリットをもたらすものは際限なく遠ざけ、排除しようとする、この煩悩が人生生活の基準になっているというのが自
我教、自分教の正体です。これでいくと、どうやら無宗教者という人は皆無に等しいようにうかがえます。

ところで、この自我教徒は他ならぬ私のことだと言えます。自信を持って言ってはいけませんが、否定はできません。正確に言うと、浄土真宗のみ教えに出遇う前の私の姿でありました。これもまた、言い直しが必要かと思います。お念仏のみ教えに生きるようになったからといって、自我教徒であることを免れたわけではありません。そのことを教えてくださったのが、信楽先生が大事にされた「生活念仏」です。先生は、真宗の仏道としての称名念仏とは、私か申すべき行為でありながら、それは決して私の行為に価値があるのではないことを強調されました。ただ南無阿弥陀仏と申す、その念仏の響きを通して、自身の心の奥底に聞こえてくるものに耳を傾け、それを味わうことが大切だとして、称名即聞名が親鸞聖人が明かされた念仏の肝要であると教えてくださいました。

念仏において、私自身が問われ、砕かれてゆくのです。すなわち、私から仏への方向において成り立つ称名念仏とは、またそのまま、仏から私への方向を持つところの聞名念仏、仏の呼び声を聞き、仏に念ぜられて生きる、ということ
へのめざめでなければなりません。仏を念ずるとは仏に念ぜられていることである。仏の名を呼ぶことは仏の呼び声を聞くことである。称名とは聞名である。
(『この道をいく』五〇-五一頁)

めざめ体験としての「信心」

教えを聞き始めた人にとって、自ら称える念仏が、ただちに阿弥陀如来の喚び声として聞こえてくるということはないでしょう。それは日頃のお聴聞、お仏壇へのお参り(勤行)、日々の称名念仏の相続によって、次第に阿弥陀如来の本願が、この私に向けて誓われたもので、いつの日か、その念仏が阿弥陀如来の私への喚び声と聞こえてくるのだと思います。まさに、仏さまの心が私に届き、仏に念ぜられていると感じるときがあるのです。そのような仏心に対する「めざめ」体験を「信心」といいます。その機縁やプロセスは人によってさまざまな違いがあるかも知れ
ませんが、信楽先生はその体験こそが真宗念仏の肝要だと示されました。

  煩悩具足の凡夫、火宅無常の世界は、よろづのこと、みなもってそらごとたはごと、まことあることなきに、ただ念仏のみぞまことにておはします

(『歎異抄』、『註釈版聖典』八五三頁)

在俗生活とは、自我教に生きる日々とも言えるでしょう。それが偽らざる事実かと思います。しかし、聴聞を重ね念仏申していく人は、そんな生活のなかに、仏の智慧と慈悲を依りどころとする生き方を願うのです。それは、あらゆるいのちあるものが自他ともに平和で心豊かに生きることができることを願う生き方です。煩悩に基づく自我教はどこまでも自己中心的で、「まことあることなき」教えです。人によっては、そのままで生き続けていく人もいます。しかし、仏教に縁をいただき、なおかつ在俗の生活(自我教)のなかに、智慧と慈悲を活かした生き方、真実の生き方を願う人には、「念仏のみぞまこと」という基準がいただけるのです。日々にお念仏申す一声一声に阿弥陀如来の心を意識して、不真実なる方向へ進みがちな自分の考え方や行動を常に軌道修正してもらう、そういった在俗の仏道が浄土真宗と言えるでしょう。繰り返し繰り返し、日々の生活のなかで「めざめ」をいただく。
それゆえに、念仏することが人生の第一義であり、生活の中心となることを強調されたのです。宗とすべきは、本願の心、お念仏なのです。
最後に、先生の言葉では「助業」ではなく、「助縁」となっていることについて、自ら味わっていらっしゃる言葉を引用してみます。

  自分の人生生活の中で、どんなに悲しいことがあっても、どんなに腹が立つことに出あっても、それらはすべて、私に念仏を忘れないように、一声でも多くのお念仏を申すようにと、何かが働きかけているのだと、このように思いとって念仏せよ。そうすれば、どんな悲しみも苦しみも、きっと超えていくことができる。新しい道が開けてくる。          (『真宗の大意』七一頁)

誰しも人生の上に起こる順境は「おかけさま」とお念仏申すことができます。しかし、先生はそれだけではなく、逆境もまた、そこに仏法の真実、人生を味わっていくための大切な意味があるのだと言われています。これが親鸞聖人が浄土真宗を開いて、私たちに残してくださった、生活念仏のみ教えなのです。
(河智 義邦)

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2023年表紙のことば 親鴬聖人の出現は私一人のためであった

難信・難聞の教え

本年の法語カレンダー(表紙)は、横超慧日先生(一九〇六-一九九六)の言葉からはじまります。先生は、現在の愛知県二呂市にある真宗大谷派の願行寺に生まれ、東京帝国大学(現・東京大学)の印度哲学科に入学されて、高楠順次郎・木村泰賢・宇井伯寿といった、仏教学の研究で世界的な業績を残された諸教授から薫陶を受けられました。なかでも直接師事されたのが、同じ真宗大谷派寺院の出身者であった常磐大定教授でした。そのもとで中国仏教の研究に邁進され、とりわけ大乗仏教経典の『法華経』や『涅槃経』について、多くの著作を上梓されました。
一九四九(昭和二十四)年に大谷大学の教授になられてからは、中国仏教思想はもとより、親鸞聖人を中心に浄土仏教思想の研究や学生の教育、そしてお同行への教化伝道にも力を尽くしていかれました。
この表紙のことぼは、『慶喜奉讃に起つ』のなかの一節です。この本は、二〇二二(令和四)年に親鸞聖人御誕生八百五十年・立教開宗八百年の慶讃法要を記念して出版されたものですが、先生の言葉は、これより五十年ほど前の一九七三(昭和四十八)年の慶讃法要時に執筆された文章が、再録されたものです。その言葉は、半世紀という時間を越えて、今なお強い感化を与えてくださいます。前後の文章と併せて引用いたします。

浄土ということを現在の生と同じ地平に求めたり、来生ということをただ単に肉体的死滅後の生とのみ考えて、自己にとって何か望ましい生であるかを考えたことのない人、また自己の力の限界につき当たったことのない人、そうした人には正しくこの法門は難信であるといわれるゆえんである。そしてこれが難信であり、不可思議の法であるだけに、その法にめぐり会えた人のよろこびは大きく、これを明らかにせられた親鸞聖人の出現は私一人のためであったとい
う感激をよびおこすのであろう。              (七二丁七四頁)

聖人が誕生された八百五十年前と私たちが生きている現代とは別世界といっていいほどの隔たりがあることは、誰もが認めるところだと思います。「浄土に往生する」というお話をうかがっても、ご縁が深くそのままに聞ける人もいれば、「浄土」という言葉・世界について引っ掛かると言いますか、疑問を抱いて、そのような場所・世界を信じることはできないから、その教えをいただくことはできませんという人がいることは、この言葉が書かれた五十年前も同様であったと思います。それが「現在の生と同じ地平に求め」る人のことです。浄土という世界がいかに遠くとも、月や火星のように実際に存在するならば、その教えを受け入れるという立場の人がいます。実証的・合理的に理解できるならば信じましょうということだと思います。
また、阿弥陀如来の救い・浄土往生の教えは、単に死後の救いを説いているもの
で、今の自分の人生や生き方、あるいは幸福とは無関係な教えで、まだまだ先で聞くべきものなどと考えている人にとっても、「浄土」という世界、その教えは、難信だと指摘されています。難信という前に、右から左へ聞き流されてしまう、聞いてもらうことの難しい難聞の教えとも言えるかもしれません。

知的理解の重要性

浄土真宗のみ教えは、自力の修行ではさとりの境地に入ることのできない凡夫・衆生が、阿弥陀如来のご本願のいわれを疑いなく、すなおに聞き入れていくことによって、その浄土に往生せしめられ、直ちにさとりの身とさせていただくというものです。そこに、さかしらな凡夫の知恵や価値判断をさしはさむ必要はないとも聞かせていただきます。しかしながら、そのことは、決して本願について説かれた『仏説無量寿経』の教説や、阿弥陀如来、そして浄土という存在や場所について、学問的に学ぶことを否定されているわけではありません。

『歎異抄』第十二条には、次のようにあります。

   本願他力の真実の教えを説き明かされている聖教にはすべて、本願を信じて念仏すれば必ず仏になるということが示されています。浄土に往生するために、この他にどのような学問が必要だというのでしょうか。
本当に、このことがわからないで迷っている人は、どのようにしてでも学問をして、本願のおこころを知るべきです。経典や祖師がたの書かれたものを読んで学ぶにしても、その聖教の本意がわからないのでは、何とも気の毒なことです。                    (『歎異抄(現代語版)』二一頁)

阿弥陀如来の本願のお心(真意)や聖教の本意を知るために学問することは、意味のあることだと述べられています。そのことによって、ますます阿弥陀如来の深いお心を知り、浄土真宗の教えがいかに素晴らしい道を説いているかがわかるので
す。ただし、学問をすることで往生が決まるとか、学問によって名聞利養(名誉欲や財欲)を得ようとする考え方に対しては、過ちであると厳しく戒められていることは十分に注意しなければなりません。
法事の後の会食時に、あるご門徒さんから「浄土について理論的な説明をしてほしい」と依頼されたことが何度かあります。現代にあって、こうした人が数多くおられることは無理がらぬことだと思いますし、その心情を否定することなく、少しでも学問的な解説を通して、その真意・本意を、まずは知識としてでも知っていただくことも大切なことだと思います。

私一人のため

ところで、このご指摘に続くのが表紙のことばです。この「親鸞聖人の出現は私一人のためであった」という言葉をうかがって、ただちに思い起こされるのが、『歎異抄』後序の次の文です。

親鸞聖人がつねづね仰せになっていたことですが、「阿弥陀仏が五劫もの長い間思いをめぐらしてたてられた本願をよくよく考えてみると、それはただ、この親鸞一人をお救いくださるためであった。思えば、このわかしはそれほど
に重い罪を背負う身であったのに、救おうと思い立ってくださった阿弥陀仏の本願の、何ともったいないことであろうか」と、しみじみとお話しになっておられました。                      (『同』四八-四九頁)

阿弥陀如来の本願は、十方の衆生、生きとし生けるものを救うと喚びかけてくださっています。では、その喚びかけを聞き入れ、浄土に往生する道を歩まねばならないのは、一体誰のことでしょうか。親鸞聖人は、それはさとりにいたるための善行を何一つ修めきることができない私以外にない、と受けとめられたのです。聖人は比叡山で修行に励み、心を磨き、自らの煩悩を抑制して、あらゆる人々を分けへだてなく救いとることのできる、聖なる菩薩になろうとされていました。しかしながら、根強い煩悩の火を消すことができず、貪愛の心・脱憎の心を断つことができず、仏道者として絶望の淵に立だされたのです。そのときの聖人の心情は、存覚上人の『歎徳文』に次のように表現されています。

  定水を凝らすといへども識浪しきりに動き、心月を観ずといへども妄雲なほ覆ふ。                      (『註釈版聖典』 一〇七七頁)

厳しい瞑想行に励み、心を集中して静かな水面のような心境に入ろうとしても、私の意識は波のようにしきりに動き落ち着かず、きれいに輝く月のような心の本性を見ようとしても、煩悩の雲が心を覆ってしまう。年少時に比叡山に登られ、不思議にも「この身」として生まれたいのちの意義を、菩薩行に従事して生きること、つまり心を磨き智慧を得て利他行(慈悲行)に従事する生き方に見出されたものの、青春の、人生のすべてをかけたその道に、大きな挫折と絶望感を抱かれたのです。
その心情はいかぽかりであっただろうと想像します。そうした経験を経て、法然聖人に出遇われ、阿弥陀如来の本願のみ教えに帰人されていかれたのです。浄土に往生するという教えは、聖人と同じような比叡山での修行を必須条件とはされませんが、智慧と慈悲を理想として真実の生き方を求めつつ、この身に宿る識浪と妄雲を深く自覚することを通してのみ、深くうなずいていけるものだといえます。

先生は、そのことを「現に苦難の道にさまよっている私に代わって道をきりひらいてくださった」と述懐されています。まさしく、極悪最下の人のための極善最上の真実の教えが、親鸞聖人のご誕生によって、歴史のなかにその身をもって具体的に明らかになったのです。真実を求め、煩悩を抱えた身であることに苦悩する者に、真実に生きる道が開かれたことを意味する出来事でありました。聖人にとっては、阿弥陀如来の出現はまさに「親鸞一人がため」と表現するほどの有り難き出来事であり、またその聖人がご誕生にならなければ、今日の私たちが本願の真意に遇うことはできませんでした。あらためて、「親鸞聖人の出現は私一人のためであった」という言葉の感激が伝わってきます。先生もまた聖人同様に、仏道を歩む現実のまっただ中で、「この身」に苦悩されたのだと思います。
(河智 義邦)

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2022年法語カレンダー あとがき

あとがき

親鸞聖人御誕生八百年・立教開宗七百五十年のご法要を迎えた一九七三(昭和四十八)年に、真宗教団連合の伝道活動の一つとして「法語カレンダー」は誕生しました。門信徒の方々が浄土真宗のご法義を喜び、お念仏を申す日々を送って
いただく縁となるようにという願いのもとに、ご住職方をはじめ各寺院のみなさまに頒布普及にご尽力をいただいたおかげで、現在では国内で発行されるカレンダーの代表的な位置を占めるようになりました。その結果、門信徒の方々の生活
の糧となる「こころのカレンダー」として、ご愛用いただいております。
それとともに、法語カレンダーの法語のこころを詳しく知りたい、法語について深く味わう手引き書がほしいという、ご要望をたくさんお寄せいただきました。
本願寺出版社ではそのご要望にお応えして、一九八〇(昭和五十五)年版から、このカレンダーの法語法話集『月々のことば』を刊行し、年々ご好評をいただいております。今回で第四十三集をかぞえることになりました。
二〇二二(令和四)年の「法語カレンダー」では、「宗祖親鸞聖人に遇う」というテーマを設け、これまでお念仏を称え人生を生きぬかれた、先師の言葉を選定いたしました。本書では、これらのご文についての法話や解説を四人の方に分
担執筆していただきました。繰り返し読んでいただき、み教えを味わっていただく法味愛楽の書としてお届けいたします。
本書をご縁として、カレンダーの法語を味わい、ご家族や周りの方々にお念仏のよろこびを伝える機縁としていただければ幸いです。また、各種研修会などのテキストとしても幅広くご活用ください。

二〇ニー (令和三)年八月
本願寺出版社

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2022年12月のことば いただきますと 合掌するのは 感動の表現である

あいさつの大切さ

十二月のことば「いただきますと合掌するのは感動の表現である」について昧わってみます。
私の寺からいくらも離れていない所に、同じ浄土真宗本願寺派の万福寺(渓間和美住職)があります。このお寺はかつて大阪市内の中心に位置していましたが、戦時中空襲をうけて焼失し、その後、一九六二(昭和三十七)年に郊外の現在地に再建されて、今に至っています。先々代住職が渓間秀典師でした。
この方は経歴からしてユニークで、プロ野球の当時全盛期であった阪急ブレーブスの球団社長でありました。公式試合が行なわれる東京に、また福岡へと出かける多忙なスケジュールにもかかわらず、毎月一回、この方を囲んで食事会が行われていました。私も幅広い話題がとりあげられるこの会に参加し、数人の先輩住職方と食事をともにしました。新参者の私は静かに耳を傾けて、貴重な勉強をさせていた
だきました。
あるとき、今頃はお互いにあいさつをしなくなって、人間関係がギスギスしてきたのではないか、という問題提起がありました。まず渓間師は、仕事がら新幹線で東へ西へと移動するが、その車内で隣り合わせた人と最初に言葉を加わさないと降車するまでお互いに口を開かないという体験を、前置きとして話されました。
そして、みんなの目の前に出されたのが厚手の紙に印刷された六つのあいさつ言葉です。この紙を折り目にそって組み立てると、立体的な形に仕上がります。これをそれぞれの家の食卓において、そこに表示されるあいさっが家族間で正しくとりかわされているかを確認しながら生活しようと、たくさん作って縁ある人々に配り、多くの人々に勧めているとのことでした。
早速、その一枚をもらって帰り実行しました。そこに掲げられた六つのあいさつ言葉は、

  〈おはようございます〉
〈いただきます〉
〈ごちそうさま
〈いってきます〉
〈ただいま(帰りました)〉
〈おやすみ(なさい)〉

です。近頃の子どもはあいさつができないとなげく人がいますが、古来、子どもは親を了不て育つといいますので、なげく大人の側に問題の根っこがあるのかもしれません。渓間師は、まず家庭において、子どもが小さいときからお互いにしっかりあいさつをかわすことが大切であることを強調されていたのです。
このたびの法語は、東本願寺からでている「同朋新聞」の一九八五(昭和六十)年四月一日号(通巻三二九号)に掲載されている、「和讃身読記」という表題の米沢英雄
師の文中にうかがえます。その記事の前後の文を含めて抜粋しますと、

仏性が目覚めると今までエゴを先に立てて生きてきて、エゴを満足させるために奔走してきたが、自分がここにこうして息せしめられているだけですばらしいことだと、他力のはたらきに感動する。実は日常生活においてもこの感動
するところに人間があるのだ。
動物には感動がない。空腹になれば動物も食べるが、感動がない。いただきますと合掌するのは感動の表現である。ろくでもない自分にこうして食物が与えられる。もったいないという感動、この感動が我々を人間にするのだ。

と語りかけています。米沢英雄師は、かつて福井市で内科・小児科医院を開業するかたわら、浄土真宗のご法義に関して、こころにしみる数々の著作を残されました。

食事のことば

かつて一九九七(平成九)年の法語カレンダーの言葉に、広島の女性から送られてきたものが選考され掲載されていました。その言葉は。

  ともすれば 二度のお礼も欠くるなり 三度の箸は忘れざる身も 小野逸子

というものでした。この文のコ二度の箸」とは、一日に三回食事をすることです。
私は、この法語は、一日に三回食事をすることが楽しみで待ちどおしいが、朝晩の仏前での二度のお勤めが難しいという、作者の自己告白ではなかったかと受けとめました。この言葉が反響をよんだのは、他人事で済ましてしまうことができないからでしょう。人間に限らず、すべての生きものは食べなければ、その命を保つことはできません。ただ私たちは無感動に黙々と食べるだけでよいものでしょうか。
〈食べる〉という動物的生活だけで暮らすのではなく二お礼〉でしめされている宗教的生活こそが、人問であることの証でありましょう。同じ屋根の下で生活する我が家で、小学校に通う三人の孫たちも声をそろえて、食事のときに、〈食前のことば〉〈食後のことば〉を唱和しています。みんなでそろってまず合掌して、

    〈食前のことば〉
多くのいのちと、みなさまのおかげにより、
このごちそうをめぐまれました。
深くご恩を喜び、ありかたくいただきます。

〈食後のことば〉
尊いおめぐみをおいしくいただき、
ますます御恩報謝につとめます。
        おかげで、ごちそうさまでした。

といいます。食事の内容に注文や不足があったり、また漫然と食べるのではなくて、二三句にこめられた表現のなかに、自ずから感動せずにはおられないこころが広がります。したがってくいただきます〉もくごちそうさま〉も、ともにくありがとうございます〉で結ばせていただきたいものです。
蓮如上人のお言葉を今に伝えるなかに、食事についてのこころがけがいくっか記されています。それを取りあげますと、

  蓮如上人は、お食事を召しあがるときは、まず合掌されて、「阿弥陀如来と親鸞聖大のおはたらきにより、着物を着させていただき、食事をさせていただきます」と仰せになりました。
(『蓮如上人御一代記聞書(現代語版)』一〇八-一〇九頁)

蓮如上人は、「食事をいただくときにも、阿弥陀如来・親鸞聖人のご恩によって恵まれたものであることを忘れたことはない」と仰せになりました。また、「だだ一口食べても、そのことが思いおこされてくるのである」とも仰せになりま
した。                              (『同』 一七四頁)

蓮如上人はお食事のお膳をご覧になっても、「普通はいただくことのできない、仏より賜ったご飯を口にするのだとありかたく思う」と仰せになりました。それで、食べ物をすぐに口にされることもなく、「ただ仏のご恩の尊いことばかりを思う」とも仰せになりました。             (『同』 一七五頁)

現代社会においても、これらの蓮如上人の報謝のお気持ちにあふれたお言葉を、時代が異なる、立場が違うなどといって、なおざりにしてはなりません。聴聞の場で耳にしか、科学者でありまた熱心な念仏者であった、東昇博士の「宗教のことば
は時代を超えてひびき、科学のことぼけ時代とともに変わる」という言葉が、よみがえってきます。報謝のお念仏こそ、時代を越えて親鸞聖人より今に至るまで相続されてきたのです。

厭う身にいただく念仏

私たちは、自分はしっかりしていて、他からの影響はうけないで自立していると思いこんでいるかもしれません。しかし仏教の教えのうえでは、つねに内なる煩悩に支配されているのが人間です。
親鸞聖人は、「煩悩」の文字を解釈されて、

  「煩」は身をわずらわせるということであり、「悩」はこころをなやませるということである。               (『唯信紗文意(現代語版)』 一九頁)

と記されていますが、私の体とこころがここにあることから、自ずからわきでてくるのが煩悩です。また「煩」の字のつくりが火偏であることから、炎に関連して考えますと、人間はいつも体のうちに煩悩の炎を燃やし続けているのです。したがって、状況しだいで一気に激しく燃え上がり、人を傷つけ自らも傷つく生活を送っています。やがてふりかえって一時的に反省することになっても、また同じことを繰り返すことになります。
阿弥陀さまはそのような私たちの生き方を危ぶみ、また憐れみ悲しまれて、本願をおこされたのです。苦しみと迷いから抜け出せない私たちに、「まかせよ、必ずすくう」という阿弥陀さまの本願が、今「南無阿弥陀仏」としてはたらいてくださっています。ただ阿弥陀さまの本願によるすくいが必ずあるからといって、この身このままでよいということではありません。
親鸞聖人は門弟にあてられた手紙のなかで、

煩悩をそなえた身であるから、阿弥陀仏はわたしたちの心の善し悪しを問うことなく、問違いなく浄土に迎えてくださるのだと説かれるのです。このように聞いて阿弥陀仏を信じようと思う心が深くなると、心からこの身を厭い、迷い
の世界を生れ変り死に変りし続けることをも悲しんで、深く阿弥陀仏の本願を信じ、その名号を進んで称えるようになるのです。
(『親鸞聖人御消息 恵信尼消息(現代語版)』 一一頁)

と明らかにされています。
専如ご門主が示された「念仏者の生き方」のこころを伝えるためその肝要を短く簡潔な四ヵ条の言葉にまとめられた「私たちのちかい」の一つに、

  一、むさぼり、いがり、おろかさに流されず
しなやかな心と振る舞いを心がけます

心安らかな仏さまのように

があります。
私たちは文字を目で追い、その意味を記憶にとどめています。ただ目で見るだけでは、あまり後まで残らないことにもなります。しかし、しばしばその言葉を口にすることによって、こころに焼きつくことになります。そこで、この「私たちのちかい」も繰り返し声に出して唱和することが奨励されています。
ところで、浄土真宗のすくいは、この如来のはたらきを疑いなく受けとる、すなわち信心ひとつに定まり、お念仏はすくわれたよろこびが口からこぼれでたものといただきます。「正信偈」には、

  唯能常称如来号
応報大悲弘誓恩             (『日常勤行聖典』二〇頁)

としめされ、ここを「ただよくつねに如来の号を称して、大悲弘誓の恩を報ずべし」(『註釈版聖典』二〇五頁)と表現しますが、阿弥陀さまは私たちをすくうことによって、その見返りを望まれてはいません。ばかり知ることのできない阿弥陀さまのご恩は、私たちが返すことのできない大いなるめぐみであります。ただ、そのご恩をよろこび、そのこころを南無阿弥陀仏と声にあらわすばかりで、これを報恩の念仏といいます。
すくいのよろこびをめぐまれた私たちは、つねに報恩の思いからすすんで念仏をさせていただきましょう。
(清岡 隆文)

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2022年11月のことば たとえ一人になるうとも 仏はあなたと共にある

「フッドーバイ」という言葉の由来

一九九一(平成三)年に発刊された『ブッドーバイーみほとけのおそばにI』(百華苑)という題名の本を手元においています。これは、その前年に五十歳で往生された雪山隆弘師の遺稿集です。この本の題名が鮮烈で、ひきつけられたのです。
ページをひらくとまず、別れの挨拶に使う英語「グッドーバイ」の「グッドはゴッドにつながり、別れてもいつも神さまのおそばにいる」という意味にヒントを得たことが記されています。そして、「私はゴッドをブッダ、『神』を『仏』にあらためて使う」としめしておられます。
そして、

   われらのブッダ、阿弥陀仏は、いつでも、どこでも、今ここでも私のそば
にいらっしゃってくださるのだ。
そう、〃なもあみだ仏”というお念仏は、この私の日常の暮しの中にあって、それはことばを加えれば『ブッドバイ』なのだ。
(『ブッドーバイーみほとけのおそばにI』二頁)

と、「ブッドーバイ」の言葉の由来を述べられています。
この本におさめられている二十五話最後の「道」という文中に出てくるのが「たとえI人になろうとも 仏はあなたと共にある」という十一月のことばです。
著者の表現をかりれば、

   私は、最愛の父、最も尊敬していた師をいま失った。しかし、念仏者はブッドバイだ。
つまり失ったのではなく、別れたのでもなく、私の大好きな父は、阿弥陀仏の世界に往き、阿弥陀仏の世界に生まれて、いま、この私を待ってくれている
のである。                           (『同』三頁)

とあるように、私たちにとってかけがえのない大の死が大きな衝撃となり、こころが傷つけられます。しかし、この別れは誰もが経験しなければならないことであって、どのような方法をもっても避けることはできません。
悲しみにくれている大に周囲の人々が心配して二亡くなった人のことばかりで明け暮れないで、あきらめて元気をだしなさい〉と励まします。このときの「あきらめる」は「諦める」と表現され、「それ以上考えない」という意味です。しかしそれでは問題の本質に目をそむけ、避けては通れない死について考えたくないという姿勢となり、不安の根本的解決にはなりません。

現在進行形の「南無阿弥陀仏」

ところで、仏教には諦観という言葉があります。これは「あきらかにみる」という意味で、目をそらさないでしっかりと見つめることです。私たちは自分のことはわかっているつもりですが、とかく自己中心的です。ですから、自らの生か死と一体であることを忘れて、いつまでも生きているつもりで先々の予定を立てて生活をしています。ところが、予想外の大切な人の死によって、自らも死に向き合わねばならなくなります。私か「生きている」ことは当然ではなくて、私の意志を超えて「生かされている」ことに気づくことによって、こころが大きくひらかれることになります。
私たちは幸福な人生を願って、いつも愛を求めてやまないこころ(愛欲)、地位や肩書を重んじるこころ(名誉欲)、そして金銭に執着するこころ(財産欲)をもち続けています。しかし、そのどれもが本当の幸せの条件とはなりません。かえってそれらの欲望がもととなって憎み合ったり、争ったりしなければならなくなり、願いとは逆の苦しみを背負うことになります。みんなで楽しく暮してきた家族も時間の経過とともにバラバラになり、また亡くなって一人になってしまいます。それを『仏説無量寿経』には、

  人は世間の情にとらわれて生活しているが、結局独りで生れて独りで死に、独りで来て独りで去るのである。      (『浄土三部経(現代語版)』九九頁)

と戒めています。
しかし、本当のやすらぎとなり依りどころとなるのが、お念仏―南無阿弥陀仏です。親鸞聖人は、法然聖人から「ただお念仏をするばかりで、まちがいなく阿弥陀さまのお救いにあずかるのだよ」という教えを聞くことによって、迷いの世界を乗り越えることができるよろこびを得られました。ここに親鸞聖人の依りどころが定まるのです。
阿弥陀さまは、たくさんの仏さま方のなかで、煩悩(欲望)の火をあるときは大きく、また激しく燃やし続けて生きる、この私をすくうことをめあてに、「必ずわかしの世界(浄土)に生まれさせたい、もしそれができないならば、わたしは決してさとりをひらかない」と誓われました。その私に「信じさせ(み名を)称えさせよう」とのおこころが本願であり、その誓いの名のりが名号です。
親鸞聖人は、

  「尊号」というのは南無阿弥陀仏である。  (『唯信診文意(現代語版)』四頁)

と示されています。尊号の「尊」とは尊くすぐれているということであり、名号の「号」は、本願をなしとげて仏になられてからのお名前です。この名号は、すべてのものをこの上ないさとりに至らせてくださるのです。
国語の文法にしたがえば、名号は名詞に分類されることになりましょう。しかし、南無阿弥陀仏は「まかせよ、必ずすくう」という本願のはたらきであり、今私をめあてに喚び続けてくださっているのですから、動詞、しかも現在進行形といってよいでしょう。南無阿弥陀仏の名号は単なる名称ではなく、ましてや無意味な呪文でもなくて、阿弥陀さまがその功徳のすべてをこの私にあたえたいと願われる、大いなる慈悲のおこころの表れなのです。

前のものを尋ね後のものを導く

ブツドパイーみほとけのおそばにー』の著者である雪山師厄姓は牡牛)の郷里は私の住まいに近いことから、学校の通学区域のこともあって同じ高校で学ぶ同級生でした。卒業後、彼は東京へ、私は引き続き大阪と、所を異にすることによって、長い時間が経過してゆきました。このたび、私かこの著書の法語の味わいを書くことになったことに、深い因縁を感じないではおれません。「最愛の父、最も尊敬していた師」のみ跡を慕うように、彼はほどなくお浄土へ導かれていきました。 私は、一番身近な存在である自分の親を「師」と仰ぐ彼の姿勢にこころひかれますが、このことについて、かつて目にした東昇博士の言葉が浮かんできます。この方のことを、私の龍谷大学での恩師、村上速水先生は、しばしばその著書で紹介されていました。
東昇博士二九一二-一九八二)は、京都大学医学部教授で、日本ウイルス学会長もされる一方、熱心な念仏者でもありました。この方の言葉に、「宗教のことばは時代を超えてひびき、科学のことぼけ時代とともに変わる」があります。近年、日常生活のなかにカタカナ表現が氾濫していて、それらの用語を理解しようと追いかけることでたいへんですが、一時的な流行語として消えていくものもあります。お釈迦さまの説法は、はるか二千五百年前で、親鸞聖人の書物は七百五十年以上前に著わされたものです。しかし、そこに示される表現は、混迷を深める私たちのこころにいつも新鮮な息づかいをもって聞こえてきます。
束昇博士は、「二人の師」(『心-ゆたかに生きるI』法蔵館)において

  生後はじめて耳にした人間の言葉は、念仏者たった母のとなえる南無阿弥陀仏
であったにちがいありません。幼年時代、私は母の背中で念仏を聞きながら育  った記憶があります。小学校へ通う以前、母が最初につれていったのは村のお寺たった。今は昔、六十年の昔、村のお寺で何遍か聖人のお名前を聞いた。浄
土真宗信徒の多い鹿児島は薩摩半島の南端で、お寺参りをした体験、私にとり原体験ともいうべきもので、いまの私に生きています。私の親鸞教信仰への門出はまったく念仏者、母の感化によるものです。         (一三九頁)

と書かれているように、生涯、お念仏への導きをされたお母さんを「師」と仰がれました。
浄土真宗の根本聖典である『教行信証』の結びに、

  前に生れるものは後のものを導き、後に生れるものは前のもののあとを尋ね、
果てしなくつらなって途切れることのないようにしたい
(『顕浄土真実教行証文類(現代語版)』六四六頁)

と説かれています。ここにはお念仏相続の願いが表されています。すべてのものを喪失し絶望の淵に立つことになっても、南無阿弥陀仏のはたらきはつねに声となって私とともにあるのです。そして、そのお念仏を先人より受け継ぎ次代にしっかりと伝えることが願われています。
我がお念仏の師
最も身近な親を「師」と敬慕できることはすばらしいことです。先立った方々のことを想えば、ありし口の面影をなつかしむと同時に、いいようのない寂しさを感じることがあります。それも一人になったらなおさらです。自ずから手を合わせ、〈ナマンダブー、ナマンダブー〉と口から声がこぼれでます。もし家族に取り囲まれて賑やかで楽しい家庭生活を送っていれば、合掌・念仏、そして礼拝はしないままで、ときを過ごしていたかもしれません。涙にくれた別れが縁となって、仏法の門戸が開かれたのです。
親鸞聖人はお弟子宛のお手紙で、

  わかしは今はもうすっかり年老いてしまい、きっとあなたより先に往生するでしょうから、浄土で必ずあなたをお待ちしております。
(『親鸞聖人御消息 恵信尼消息(現代語版)』八四頁)

と書き送っておられます。私は、これをそのまま私へのお言葉といただいています。
再び会うことのできる所がそこに用意されているのです。また、『歎異抄』では、

  往生浄土の真実の教えでは、この世において阿弥陀仏の本願を信じ、浄土に往
生してさとりを開くのである         (『歎異抄(現代語版)』三八頁)

と教えてくださいます。すでに本願の教えに出遇えたとき、今ここで救われ、再び会うことのできる世界がめぐまれます。
私か四歳のとき、父はフィリピンで戦死しました。父とのふれ合いは残された数々の写真を通して、かすかに回想するばかりです。すでに七十五年もの歳月が過ぎています。しかし最近、ますます私の体内で父への想いが強くかけめぐっています。
私か今、お念仏の生活ができるのも、自分の意志や努力ではなかったのです。
私もまた、東昇博士や雪山隆弘師のように、我が父をお念仏の「師」と仰ぐばかりです。
(清岡 隆文)

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2022年10月のことば 悲しみあるがゆえに よろこびあり 煩脳あるがゆえに 菩提あり

人生のめぐり合わせ

十月のことぼは、「悲しみあるがゆえによろこびあり煩悩あるがゆえに菩提あり」
です。人生はI度きりです。それだけに誰もがそれぞれの人生を楽しく、よろこびいっぱいの幸福な人生であることを追い求めながら、生きています。キリスト教関係の本を開いたときに、幸福を意味するハッピー(Happy)は偶然をあらわすハプニング(happenning)と語根が同じであることから、幸福な生活、ひいては幸せな人生は、その人の努力や能力によるのではなくて、たまたまであり、めぐり合わせによるのである、と読みとりました。
納得しながらも、私たちの幸福感は、ともすれば所有欲が満たされたときや他の人々との比較において受けとめられていることがあります。お釈迦さまは、そこには不変のやすらぎはなく、むしろそのようなあり方、生き方の根底に目を向けられて、「人生は苦なり」ということを明らかにされました。私たちは願ってもいない悲しみ、寂しさ、苦しみに耐え続けて、生きているのが現実です。
お釈迦さまが、かつてインド諸国の一国の王子であった頃、将来国王の地位につくことで、財力と権力を掌握できることが約束されていました。そこには、誰もが夢見る華やかで幸せな人生が展開されるはずでした。それは、多くの大が渇望する名誉欲や財産欲という煩悩が満たされる人生です。ところが、人生において避けることのできない問題が、老・病・死です。しかも、これらは若く元気で活動しているなかに、すでにぴったり寄り添っているのです。
私の寺で、仏教壮年会の会長を務めておられる方がいらっしゃいます。父親は早く亡くなっておられましたが、母親は元気で家のこと、近隣とのつき合いなどもすべて引き受けておられました。もちろんお仏壇のこと、お寺参りもこの人の役割のようになっていて、息子さんのその男性は仏教壮年会についても関心がなく、加入を勧めても「今はいそがしいので、仕事をやめて暇ができたら考えます」と気のない返答でした。ところが、頼りにしていた母親が高齢となり病気もあって、母親がしていた数々のことをこの大がしなければならなくなりました。以前にもまして多忙な毎日となりましたが、かつて父親が若いとき、熱心にお寺に足をはこんでおられたときの思い出が、こころの底に残っていたのでしょう。やがて進んで仏教壮年会に加入されました。近年、母親も亡くなり今は一人暮らしですが、ますます熱心にお聴聞をこころがける生活をされています。
その姿勢が多くの人の目にふれ、私の寺にとどまらず、今では地域全体の仏教壮年会の中心となって活動されるようになっています。その言動を通して、念仏の教えに出遇えたよろこびが伝わってきます。両親によせる熱い思い、そして悲しく寂しい別離が縁となって念仏生活かはしまったと語るその男性に、数多くの大が出会ってきました。そのすがたからは、たしかなこころの支えを得た大のやすらぎとよろこびが感じとれます。まさに今月の法語の「悲しみあるがゆえによろこびあり」の身近な現実がうかがえます。
本願寺第八代宇王の蓮如上人が日頃から周囲の人々に話しかけておられたお言葉を集めた『蓮如上人御一代記聞書』の第百五十五条をみますと、

  仏法は世間の用事を差しおいて聞きなさい。世間の用事を終え、ひまな時間をつくって仏法を聞こうと思うのは、とんでもないことである。
(『蓮如上人御一代記聞書(現代語版)』 一〇〇-一〇一頁)

と厳しくいましめられ、また世間の人々がとかく急がなくてもよいことを急ぎ、急がねばならないことを後回しにしていることをなげかれて、

  仏法においては明日ということがあってはならない。    (『同』 一〇一頁)

とご催促されます。私たちは、いつもこのお言葉をこころにかけて生活しなければなりません。

不断煩悩得涅槃

つぎに、法語の後半の「煩悩あるがゆえに菩提あり」にポイントをおいて味わってみましょう。
私たちが親しんでおつとめする「正信謁」の一句に、「不断煩悩得涅槃」(煩悩を断ぜずして涅槃を得るなり。『註釈版聖典』二〇三頁)があります。このところを意訳の「しんじんのうた」では、「なやみ(煩悩)をた(断)たですくい(涅槃)あり」(『日常勤行聖典』一二頁)と歌っています。ここで表現される涅槃は、法語の菩提と同じこころと受けとめてよいでしょう。親鸞聖人は、苦悩の原因となる煩悩を断ち切りさとりを得る目標をもって、比叡山で二十年間、学問と修行に励まれました。しかし、かえって自らの煩悩の深さに気づかれ、失意のうちに山を下りてやがて法然聖人をたずねられます。そして法然聖人のお導きによって阿弥陀さまの本願に遇われるのです。数々の仏さま方のなかで、阿弥陀さまは、悩み苦しむすべてのものをそのまま救いさとりにいたらせようという誓い(本願)をもって、今この私にはたらき続けてくださっています。
二〇一六(平成二十八)年の伝灯奉告法要で、浄土真宗本願寺派第二十五代専如門主に、ご親教として「念仏者の生き方」をお示しいただきました。そのなかでも特に、

我執、我欲の世界に迷い込み、そこから抜け出せない私を、そのままの姿で救うとはたらき続けていてくださる阿弥陀如来のご本願ほど、有り難いお慈悲はありません。しかし、今ここでの救いの中にありながらも、そのお慈悲ひとす
じにお任せできない、よろこべない私の愚かさ、煩悩の深さに悲嘆せざるをえません。

というお言葉に胸が痛みます。

と彫られています。
私もときどき風邪をひき、決まって咳き込みます。才市さんがご法義の風邪をひいて、ひとりでにお念仏の咳が口にでる様子を、素直にあらわした詩です。才市さんは八十三年の生涯において四千首以上の詩を書きのこしたといわれていますが、どの一首をとっても、深い境地が短い言葉で端的に表現されています。今回の法語に関連してそのなかの一首を紹介しますと、

  もをねんをくやむじやない
もをねんわよろこびの太ね
さとりの太ねなむあみ犬ぶつ
(鈴木大拙編『妙奸人 浅原才市集』 一九九1二〇〇頁)

と謳われています。なさけない妄念煩悩のかたまり。それによって人を傷つけ、自分も傷つく。なんとかしようと努力しても取り除けない。ところがご本願をいただくままに、不思議にもそれがお慈悲をよろこぶこころとなる、といただいています。
如来の視座のなかにある人間親鸞聖人が、多大の影響を受けられた七高僧のひとり、中国の曇鸞大師の教えを
和讃で数多く讃えられるなかに、

  無擬光の利益より
威徳広大の信をえて
かならず煩悩のこほりとけ
すなはち菩提のみづとなる      (『高僧和讃』、『註釈版聖典』五八五頁)

罪障功徳の体となる
こほりとみづのごとくにて
こほりおほきにみづおほし
さはりおほきに徳おほし                      (同頁)

という二首がありますので、その意味をいただいてみます。
妨げるものがない阿弥陀如来の光のはたらきによって、広大ですぐれた功徳をそなえた信心をめぐまれ、それによってかならず煩悩の氷がとけてさとりの永となる。また、罪のさわりはそのまま転じられて功徳となる。それは氷と水の関係に例えられ、氷が多いととけた水も多いように、罪のさわりが多いと転じられた功徳も多い、としめされます。この歌のこころを、自らのこととして深くかみしめたいところです。
ところで、このたびの法語の出典は、一九八三(昭和五十八)年に発刊された[入門浄土真宗 宣]宗の教えI顕現さるべき私-』(真宗大谷派宗務所出版部)で、著者は当時、大谷大学で教鞭をとられていた伊東慧明師です。この書の「信心の章」に出てくるのが今月のことばです。この「信心の章」から内容の一部分を紹介しましょう。

人間の眼は、自分の眼を見ることができません。いろんなものを見ている眼でありますが、この眼は、自分を見ることができないのです。自分自身を、直接に見るということはできないのです。このことからも明らかなように、人間
の眼丿人間からの視野に映るのは、限られた部分であり皮相にしかすぎないのであります。
そこで、われわれは、如来の眼によって見いたされてある人間、如来からの視座のなかにとらえられている人間を知ることができてはじめて、人間の全体像を知りうることとなるのであります。だから、人間が、人間であることの実相にめざめるためには、この如来からの眼が、なによりも大切なこととなるのであります。
「月、我を見る」ということ、月の光に照護されてある我という所照の自覚から、月を仰ぐ。すると、そこに見開かれてくるのは、

    我また、かの摂取の中にあれども、
煩悩、眼を障えて見たてまつらずといえども、
大悲倦きことなく、常に我を照したまう。  -『正信掲』-

という、法界であります。               二七七-一七八頁)

この度の法語を通して、日々の「正信掲」のお勤めにおいて「不断煩悩得涅槃」、そして、

  我亦在彼摂取中   われまたかの摂取のなかにあれども、
煩悩郭眼雖不見   煩悩、眼を障へて見たてまつらずといへども、
大悲無倦常照我  大悲、倦きことなくして
つねにわれを照らしたまふといへり。
(『日常勤行聖典』三二頁)              (『註釈版聖典』二〇七頁)

のそれぞれの句をも、またこころして唱えたいと思います。
(清岡 隆文)

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2022年9月のことば 手を合わせ 仏さまを拝むとき わたしのツノを 知らされる

中学生はがき通信

私の父は、一九七三(昭和四十八)年一月から二〇〇三(平成十五)年四月まで、毎月一回、近隣の中学生を対象に「中学生はがき通信」というたよりを送っていました。はがきの裏面には、中学生に向けたメッセージを一目見てわかるようになるべく短い文にして、そして机の上に置いておけるように、その月のカレンダーも載せたレイアウトになっていました。カレンダーを載せるということは、月初めにつかないと意味がありません。そのために、必ず毎月投函するということを自分にも課していたのです。
父は、「はがき通信」に先駆けて小学生を対象にした日曜学校を始め、一九六五(昭和四十)年頃から中学生を対象にした、一泊二日のお寺でのサマースクールも夏休みに開催していました。若い頃から、思春期真っただ中の中学生に仏法とのご縁を繋げるということを第一に考えて、取り組んでいたのだと思います。それらの活動に込められた父の思いは、「たった一度のかけがえのない人生を、大切に生きていってほしい」ということでした。この思いを何とか伝えたいという取り組みの一つが、「はがき通信」だといえます。
さて、九月のことぼけ、この「中学生はがき通信」からの言葉です。

  ツ ノ

今から七十年前、浅原才市という人がいました。
画家に二本のツノが生えている自分の肖像画を描いてもらいました。

ツノは 心の姿
むさぼり・腹立ち・おろかさ

他人のツノは よく見えるが
自分のツノには 気がつかない
手を合わせ
仏さまを 拝むとき
私のツノを 知らされる
(『人生のほほえみI中学生はがき通信-』三三頁、本願寺出版社)

ツノが生えた肖像画

この言葉のなかで、ツノを貪り・怒り・愚かさの三毒の煩悩に例えています。このツノの例えは、妙奸人といわれた浅原才市さんのエピソードからきています。
浅原才市さんは、一八五〇(嘉丞三年に島根県の温泉津町に生まれ、浄土真宗の教えをとてもよろこばれて生き抜いた方です。そして、そのお聴聞したよろこびを「口あい」(盆踊りの口説きのような調子の詩)にして、たくさんのノートに書き残されました。才市さんが生まれ日暮らしをしていた温泉津町は父が住職をしていたお寺の隣町に当たり、とても近い距離ですので、才市さんの詩を含めて、才市さんにはとても親しみがありました。
このツノの絵が描かれたのは、一九一九(大正八)年、才市さん七十一歳のときで、ツノの絵を描いた理由について、才市さんと親交のあった寺本慧達師との間で次のようなやり取りがあったそうです。

  「あまりみなさんが、私をよくお寺に参るというでな、わしが寺に参るのは鬼が寺に参るのだと言うことを見てもらいます。温泉津の画工さん(日本画家若林春暁氏)に頼んで、鬼が仏さんを拝んどる絵を描いてもらいました」
「はあ、そりゃ面白いね」
「鬼にしても、わしに似せて描かにやつまりません。それで、画工さんに言うて、わしに似た画を描いてもらって額に角をはやしてもらいましたよ」
「そしてそれをどおするの、爺さん」
「来月は御正忌さんで、安楽寺(才市さんがいつもお参りしていた近隣の寺院)の本堂にかけてもらって、皆にわしが仏さんを拝むのは、この通りまったく鬼だ、と言うことを見てもらいますよ」
(寺本慧達著『浅原才市翁を語る』九六頁、今原山長円寺発行)

才市さんは、自分のこころのなかにある煩悩を鬼に例え、この鬼のすがたが自分の本当のすがたであると、お同行の方々に伝えようとしています。そして、その鬼のすがたは、お寺にお参りしてお聴聞するなかで気づかされるのだ、と味わっておられます。

三毒の煩悩

話は変わりますが、私の父は、二〇〇三(平成十五)年五月、満六十六歳を一期としてお浄土へ往生しました。亡くなる1ヵ月前に急性肝炎と診断され入院、最終的には劇症肝炎という診断で亡くなりました。その父が入院中の出来事です。
肝臓を患った人の症状に全身の倦怠感があります。父も入院中は、しきりに「しわいのう、しわいのう」(石見の方言で、だるい、苦しい、辛いという意)といっていました。とりわけ体調の思わしくない日は「体中がしわい」ともいっていました。そのようななか、父が次のようにぽっりといいました。
「このような病になって、今全身に毒が回ってしまったかのように体中がしわい。だけど、病気で体中に回った毒ならば、お医者さんの出してくれるお薬できれいになるかもしれん。しかしな、体中にまわった三毒の煩悩という毒は、どのような薬があっても、きれいになることがないことよ」
今となっては、父がどのような気持ちでそのようなことを話したのかはわかりません。病院のベッドの上で、体中がしわいという状態で横になっているとき、今までの人生のさまざまなことを思い出していたに違いありません。そして、いかに今まで貪り・怒り・愚かさの煩悩という毒を作り続けてきたのかということを、深く振り返っていたのでしょう。全身に毒が回ったかのような現在の体と、今まで毒を作り続けてきた自分のこれまでのあり様を重ね合わせてみたとき、あのようなことをつぶやいたのかもしれません。
煩悩とは、この身を煩わし悩ませるもので、仏教では苦しみの原因と考えます。
この煩悩には主なもので「貪欲」「玖恚」「愚痴」の三つがあり、それを三毒の煩悩といいます。
「貪欲」は貪りのことをさします。人間には必ず欲がありますが、欲が満たされただけでは満足できず、「まだほしい、まだほしい」と欲が際限なく続く状態をいいます。その結果、使えるものでもすぐに捨ててしまったり、ものを粗末に扱ったりしてしまいます。
「阻恚」は怒りのことで、自分の意に反していることに出合ったらおこる感情です。
意に沿ったことばかりだと楽ですが、そうでないとき怒りがわいてきて苦しくなり、その結果、他の人の心身を傷つけてしまうこともあります。
「愚痴」とは愚かさのことで、自己中心的なものの見方をさします。その見方とは、私自身に基準を作り、その基準で世の中をみるという見方です。私の基準で、良いか悪いか、好きか嫌いか、など物事を分けて考え、その結果、上下関係や差別が生み出されてしまいます。
このような三毒の煩悩を、浅原才市さんはツノの生えた鬼のすがたに例えていたのです。そして、そのようなことを、私たちは知らず知らずのうちに行ってしまっているのです。まさに、「他人のツノはよく見えるが、自分のツノには気がつかない」私のすがたです。
浅原才市さんは、そのような自分の鬼のすがたに、お聴聞を通して気がついていかれました。阿弥陀さまは、煩悩によって苦しんでいる私のすがたを見抜き、決して見捨ててはおけないと私を救ってくださるのです。その「私か救われる」という阿弥陀さまのお慈悲を聞いたとき、救われる煩悩だらけの私のすがたが見えてくるのです。そして、私のすがたがわかったからこそ、よりよい生き方がみえてくるのでしょう。

中学生への思い

このはがき通信の言葉は、一九八一(昭和五十六)年六月のものです。父が四十四歳、私か十一歳。二人の姉がそれぞれ十七歳と十四歳のときのものです。私の祖父は一九四二(昭和十七)年に戦死していますので、父は大学卒業後すぐ自坊へ帰り、
住職になっています。そして四十四歳の頃といえば、一般的にも気力、体力ともに充実しているときですから、熱心に教化活動に取り組んでいた頃でしょう。そして、家庭では思春期を迎えた子どもたちの子育て。さまざまな思いのなかで過ごしていた時代だったと思います。そんななか、走り続ける自分をふと振り返ってみたとき、お聴聞を通して自分のすがたを見つめていたのではないでしょうか。
父の「中学生はがき通信」を始めたときの思いは、「かけがえのない人生を、いのちを輝かせながら精一杯生きていってほしい」ということでした。多感で悩み多い思春期の子どもたちに、たまには立ち止まって自分自身を振り返ることの大切さを伝えたかったのだと思います。それは、まさに子どもたちに対するエールだったのです。
(波北 顕)

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2022年8月のことば 我が身を深く 悲しむ心に 仏法のことばが響く

はじめに

宮城顎先生は、一九三二昭和六)年、京都でお生まれになりました。真宗大谷派の教学研究所長や九州大谷短期大学の教授を歴任され、浄土真宗の教えをわかりやすく伝える書物も多数出版されています。八月のことばは、そのなかの『真宗の基礎』(真宗大谷派宗務所出版部)という書物からの言葉です。そこでは、

  (仏法から)いかに自分が遠くあるかと、我が身を深く悲しむ心に仏法のことばが響くのであって、自分はいちばん仏法の近くにおり、仏法をよく知っている、我よりほかは存知したるものなしと、そう思いあかっている者はいよいよ仏法から遠くなる。                        (六七-六八頁)

と書いておられます。このことについて味わってみたいと思います。

蝉の生涯

八月になり、毎日暑い日が続いています。蝉の大合唱も佳境に入ってきたようです。
蝉は、「恵姑春秋を知らず」という諺にもあるように、幼虫の時期を土の中で過ごし、夏に成虫になって地上に出て、その夏のうちに死んでいく生き物です。人間の目に映るのは夏の間だけなので、とても儚いいのちだと思われていますが、実は、蝉は数ある昆虫のなかでも長く生きる虫なのだそうです。そんな蝉が死んでいくときは、必ず仰向けになって死んでいます。昆虫は硬直すると足が縮まり関節が曲がってしまうので、足で体を支えることができなくなるためです。いったい蝉はいのちの終わりに何を見るのでしょうか。

  ただ、仰向けとは言っても、セミの目は体の背中側についているから、空を見ているわけではない。昆虫の目は小さな目が集まってできた複眼で広い範囲を見渡すことができるが、仰向けになれば彼らの視野の多くは地面の方を向くことになる。もっとも、彼らにとっては、その地面こそが幼少期を過ごしたなつかしい場所でもある。    (稲垣栄洋著『生き物の死にざま』 一一頁、草思社)

とあるように、蝉が最後に見る地面という光景は、その生涯の多くを過ごした場所なのです。
このように、私たちは目に見えている範囲で物事を理解し、「侈いいのちだね」などといって蝉の様子を知っているような気でいますので、蝉の本当のすがたに気づくことができません。「自分は何でも知っている」という思い上がりのこころがあると、物事の真実にはなかなか気づくことができません。

僑慢

その「自分は何でも知っている」という思い上がりのこころを「僑慢(きょうまん)」といいます。そのような思いは、得てして自分より力が劣っていると思った者を見下したり、馬鹿にしたりするようになってしまいます。
私は、高校生のとき野球部に所属していました。あるとき、数校と練習試合を行いましたが、総合的にみて私の所属しているチームの方が優れていて、私たちは楽勝だろうと思い込んでいました。ところが、緩慢なプレーが相次ぎ、勝つには勝ったものの、とてもよろこべるような内容ではありませんでした。練習試合終了後、私たちは監督の指示で二十キロ離れた学校まで走って帰りました。走って帰りながら、「私たちは絶対余裕で勝てる、自分たちは強いんだから」という驕りがあったんだと痛感しました。監督は、私たちのその驕った部分を見抜き、そのことを教えてくれようとしたのだと思います。
親鸞聖人が著された「正信偈」には、

弥陀仏本願念仏   弥陀仏の本願念仏は、
邪見僑慢悪衆生  邪見・僑慢の悪衆生、
信楽受持甚以難   信楽受持すること、はなはだもって難し。
難中之難無過斯   難のなかの難これに過ぎたるはなし。

(『日常勤行聖典』 一六頁)              (『註釈版聖典』二〇四頁)

とあります。
阿弥陀さまのご本願のはたらきを、邪なものの見方や思い上かっか気持ちのある私たちがよろこびをもって受け取っていくことは、とても難しいことである。世の中で難しいといわれることのなかでも最も難しいことだ、とお示しくださっています。僑慢のこころは、阿弥陀さまのご本願のおこころさえもみえなくしてしまうのです。

理解しようとするこころを離れて

もうおよそ十五年も前に亡くなられたご門徒のお話です。
Kさんは、ずいぶん前にお連れ合いに先立たれ、長く一人暮らしをなさっておられました。好奇心の旺盛な方で、新しいことにも積極的に挑戦される方でした。平成十年頃だったでしょうか、お参りにうかがいますと新しいパソコンが置いてあります。それまではワープロで手紙などを書いておられたようですが、聞けば、ワープロも飽きたので、最近出回ってきたパソコンを購入しワ≒フロの代わりにしたり、インターネットにも繋いでいろいろ見たりしているとのことでした。
そんなKさんは、とても勉強家で本もたくさん読まれていました。仏教書や浄土真宗に関する本なども読んでおられました。そして、お参りに行くたびに、本を読んでわがらなかったことを質問されるのです。仏教や浄土真宗の言葉の意味や文章の味わいでよくわからないところを毎回用意されて、ここぞとばかりに質問されるのです。そういえば、そのお宅に初めてお参りするときに、父が「頑張ってこい」といっていましたが、父がお参りしている頃からその質問は続いていたのです。
ある年、いつものように質問を聞いて、いろいろ話をしていたときのことです。
Kさんがこういわれました。
「ご院家さん、わしは浄土真宗の教えがわかりとうて一生懸命本を読んでみるんだが、読めば読むほど、理解しようとすればするほど、わがらんようになる」
その後しばらくして、Kさんは急に自宅で体調を崩され救急搬送されましたが、亡くなられました。ご葬儀にお参りしたとき、ご近所の方にいわれました。 「Kさんは理屈ばかりいうような人だったけど、あの人はわかっとったと思うで。
担架で運ばれるときに自分はそばにいたんだが、ずっと手を合わせておったからなあ」
そのときのKさんの心境を知るすべはありませんが、もしかしたら、Kさんは「わからないことがわかった」のかもしれません。いや、「わからなくてもいいことがわかった」というべきでしょうか。阿弥陀さまのご本願を理解できたから安心できるのではなく、わからないというそのままを阿弥陀さまはお救いくださるのです。
私たちは、その阿弥陀さまの仰せを素直に受け止めればいいのです。しかし、僑慢のこころが邪魔をして、なかなか素直に受け取れません。Kさんは自由のきかない身を担架に任せながら、そのことを考えられていたのでしょうか。

我が身を深く悲しむこころ

最後に、「我が身を深く悲しむ」ということを考えてみたいと思います。
私か二十歳のとき、母が亡くなりました。くも膜下出血で倒れ、翌日には息を引き取るという急なご縁でした。当時、私は龍谷大学に在籍していましたので、夜に母が倒れたという知らせを受け、夜行列車に飛び乗って急いで帰郷しました。病室につくと、意識のない状態の母かおりましたが、さすっても呼びかけても反応は返ってきません。そして、人工呼吸器が装着されましたが、ほどなくして息を引き取りました。母の最期に立ち会うことはできましたが、あまりにも急すぎて何か何だかわかりません。遺体がお寺に帰り、近所の方やご門徒の皆さまが弔問に来られても、母が亡くなったという実感はおこりません。仮通夜・密葬・出棺・火葬・収
骨・通夜・本葬と葬儀に関わる式が次々と執り行われても、実感は起こりません。
結局すべての式が終わるまで、私は一度も泣くことはありませんでした。
母が亡くなったのは七月十四日でしたので、大学ではそろそろ前期試験が始まっていました。初七日が終わった頃、父が「試験があるだろうから、一度京都に戻りなさい。試験を受けられるだけ受けて、それからまた帰ってきたらいい」といってくれましたので、私は一度京都へ戻ることにしました。
私は大家さんのお宅の離れを借りていましたので、京都仁戻って、まず大家さんへ挨拶に行きました。大家さんはお悔やみの言葉をいってくださった後、「波北さんがいない間に荷物が届いていたから預かっておいたよ」と、その荷物を渡してくれました。私は部屋に戻り、誰からだろうと荷札を見た瞬間驚きました。荷物の送り主は母だったのです。どうやら私に荷物を送る手続きをした後倒れたようで、私か母の元に帰るのと荷物が届くのが入れ違いになったようなのです。
私は急いで荷物を開けました。荷物の中身はいつもの定期便。お米や乾物をはじめ、私の好物が入ったクッパー、衣類や日用品など、いつも届く定期便でした。そして荷物の一番上には、いつものように広告の裏に「体に気をつけて」と書いてある手紙。そのいつもと変わらない母からの荷物を開けた瞬間、初めて泣きました。
それまでを取り返すかのように泣きました。そのとき、私は初めて母の願いや思いに気づいたのだと思います。いかに私のことを思って毎回荷造りをしてくれていたのかということに。 中学・高校の六年間、ずっとお弁当を作り続けてくれたこと。野球部の練習で泥だらけになったユニフォームが、いつもきれいになっていたこと。送られてくる荷物のなかには、必ず私の好物が入れられていたこと。どれもあたりまえだと思っていましたが、母からの最後の荷物を受け取って、今まで母の私に対する思いに気づくことができなかった自分を恥じ、後悔したのでした。そのことに気づいたとき、いつも広告の裏に書いてくれていた「体に気をつけて、頑張りなさい」という言葉が響いてきたのです。
私たちのこころの僑慢はなくなることはありません。しかし、そのような身であるからこそ、お聴聞を繰り返し、我が身を恥じ僑慢をいましめていくところに、阿弥陀さまの私を必ず救うぞというおこころが響いてくるのです。
(波北 顕)

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2022年7月のことば この心も身も全部 如来からの いただきもの

はじめに

 

七月のことばは、宗教学者で大阪大学の教授をしておられた大峯産先生の著作からです。
大峯先生は、著書『本願海流』(本願寺出版社)のなかで、

  とにかく、身体は私のものではないというのが仏教の精神です。身体だけでなく、心も私のものではありません。この心も身も全部、如来からのいただきもので、如来のものです。だから、この命は私の中で勣いているけれども、私の所有物ではないんです。たまわった命です。            (六四頁)

と書いておられます。私か存在しているから私の心身も存在しているのではなく、それらこころも身体も、如来のはたらきのなかでたまわり存在するいのちだといえるのです。

縁起の法

私には二人の娘がいますが、私の五十歳の誕生日に、次のようなクイズを出しました。
「今日はお父さんの誕生日だけど、今日でお父さんは何歳になったでしょうか」というものです。そのクイズに対して娘たちは口をそろえてこのように答えました。 「そんなの簡単だよ。お父さんは今年ちょうど五十歳になるのでしょう。」
子どもたちは、私がちょうど五十歳になるということで、よく覚えていたのです。
「では正解をいいます。お父さんは今日の誕生日で、十三歳になりました!」 子どもたちは不思議そうにいいます。
「どうしてお父さんが十三歳なの? そんなわけないよ」 「なぜお父さんが十三歳なのかというと、お父さんは、お姉ちゃんが生まれたからお父さんになることができたんだよ。だからお姉ちゃんの年齢がお父さんの年齢になるんだよ」
当時、長女が十三歳、次女が十歳だったので、私の父親としての年齢は長女の年齢と同じ十三歳というわけです。この問いが「私は何歳になったでしょう」とか「波北顕さんは何歳になったでしょう」というものであれば、五十歳が正解となります。
つまり、私は長女が生まれたことによって、初めて父親になったのです。
この私と娘の関係性を、仏教では「縁起」といいます。これは「因縁生起」といい、この世に起こる現象には必ず原因があってその結果として起こるということがあるからです。私かここに存在できるのは、私自身がここに存在していると認識しているからではなく、私以外の誰かが私の存在を認識してくれているから存在しているのです。世の中はあなたのおかげで私かここにいるという関係性で繋がっているというのが、仏教の考え方です。「私のものだ」という欲からはなれていのちをみつめていくところに、縁起の世界が開けてくるのでしょう。そして、縁起の法で私のいのちをみつめる時、私のいのちは大きな宇宙のなかに生かされているいのちといっても過言ではありません。

宇宙のなかのいのち

さて、俳人でもあった大峯先生には、次のような句があります。

  虫の夜の星空に浮く地球かな               (『夏の峠』花神社)

この句について、NHK教育(現在のEテレ)で放送された「こころの時代」のなかで、次のように話しておられます。

  秋のいろんな鈴虫とか松虫が鳴いている。今よりちょっと早い時季ですけれど  も、虫がしきりに鳴いている。空はもう満天の星ですね。それを見ておりましたら、ふと自分のこの地球がやっぱりこの星空の真っ直中にある一つの星だったという、そういう思いが痛切に迫ってきたわけですよ。観念としては、勿論前から、そういうことは分かっているんだけれども、あの虫の音を聞いている
と、何かフッとこう地球地面から離れちゃって、そうして無限の星空の中にある星の一つだという。だから、地球なんて特別なものじゃないんですね。みな同じものなんですね。宇宙の中ではね。これは自然科学的宇宙だけれども、自
分のおるところは特別なところだと思わないことが宗教じゃないんでしょうか。
二九九七(平成九)年十一月八日放送)

仏教の世界観では、私たちが住む地球すらも宇宙全体のなかに存在していると考えることができます。大峯先生は、この句を通してちっぽけな自分の存在をかみしめられたのではないでしょうか。
もう一句、大峯先生の俳句をご紹介します。

人は死に竹は皮脱ぐまひるかな                  (『星雲』)

いのち終わっていく人のすがたとこれから成長していく若竹のすがたを通して、生も死も大きな宇宙のなかでの出来事だということが詠まれています。この死と生を同列に詠まれた句によって、本願のなかに生きるいのちという揺るぎのない生命観が伝わってきます。

戦地での句

話は変わりますが、俳句つながりで私の祖父のことを書きたいと思います。私の父方の祖父は、現在私か住職を務める浄土真宗本願寺派光善寺の長男として、一九〇九(明治四十二)年に生まれました。龍谷大学を卒業後、布教使として京城に赴任した後、帰郷。ほどなくして住職を継職します。結婚後、一九三七(昭和十二)年に父が生まれ、一九三九(昭和十四)年に弟が生まれました。そして、一九四二(昭和十七)年二月九日、マレー半島南端のジョホールーバルの戦闘で、敵の銃弾を胸に受け戦死しました。行年三十四歳でした。残されたものによると、身長も高く、鴨居に頭が届くほど。明朗快活で学生時代はテニスをするなど、活発な人たったようです。
そんな祖父は、二十歳くらいの頃から俳句を学ぶようになったようで、たくさんの俳句が残されています。祖父は二度出征していますが、従軍中も俳句を詠んでは、携帯していた手帳に書き込んでいました。祖父の戦死後、祖父の父が返ってきた手帳の俳句をまとめて、『戦陣句集』という題で句集を発行しています。その句集を読んでみると、祖父が従軍中、何を見、何を思ったのかがみえてきます。
例えば、『戦陣句集』の最後の句は、

  壕堀りつマレー南端の月を見き

という句です。南方の月の明かりがとても印象的だったのでしょう。
また、故郷の母からの便りに記されてあった短歌への返歌もあります。その手紙には、このような短歌が歌われていました。

母の歌える

すみ渡る月ながめては思ふかな大陸照らす月もこの月

その歌への返歌は次のような歌です。「母のたまづさ(手紙)に答ふ」との書き出しの後、

  今宵さやかに照る月を母見てまさむ御名となへつつ

と歌っています。
故郷の母と戦地にいる自分を、あの月は等しく照らしてくれている。遠く離れていても、あの月と同じように阿弥陀さまの光に照らされているのだから心配ないよと、祖父は自分にこころを寄せてくれている故郷の母を思い出していたのでしょう。

生死を超えて

そういったたくさん詠まれた句のなかに、二度目の召集令状が来たときの心境を詠んだ句があります。日付は一九四一(昭和十六)年一月七日となっていますので、まだ太平洋戦争が始まっていないときです。当時は、どの家庭でもあったことなのでしょうが、幼い二人の我が子と、まだ若い妻、年老いた両親を残し、そして何よりもご門徒やお預かりしているお寺を離れて、いつ死んでもおかしくない戦地へと旅立ってゆかねばならない、そんな状況で詠まれた句です。それはこのような句です。

冬日照り照る道永久に生くる道

この歌を詠んだとき、祖父は三十二歳。時代背景が異なるので、現代の同年代と比べるべきではありませんが、何という超越した心境なのだろうかと思います。ここには、先に紹介した大峯先生と同じように、信仰に裏付けられた揺るぎない死生観があります。確かに残していくものも多く、心配で名残惜しいことばかりだったろうと思います。しかし、私のいのちは阿弥陀さまのご本願のなかで生かされているいのちなのであるから、いのちの行く末ははっきりとしている。目の前には、阿弥陀さまに照らされた、お浄土に向かっていく確かな道が開けている。そんな安心感のなかで出征していこうとしていたのだなあと思うのです。
縁起の法で説かれたこの世界に生きる私の身体は、阿弥陀さまからのいただきもの。阿弥陀さまのはたらきのなかで生きている私の人生は、生死を超えた「いのち」をいただいた人生でもあったのです。
(波北 顕)

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2022年6月のことば 〃あたりまえだ” と言うて、まだ不足を言うて生きている

はじめに

古典落語を聞いていますと、枕(前置き)で大相撲の巡業の話をしていました。昔、地方巡業は部屋ごとに行ったということをいっていました。なぜそんな話をするかというと、時代背景がわからないと落語の話か前に進まないからです。それでも、そんなことを話してまで落語をするのは、話が面白いからです。法話も同じです。
七十年、八十年前の法話が今に残っているのは、ありかたい法話だからです。ただ書物で残っていますので、例えが時代に合わないこともあります。その点て、例えの意図をふまえて法話を読むと、その法話の素晴らしさがよりわかります。
六月のことばに書かれている法話は、七十年ほど前の話かと思われます。
世扉哲雄師は、一九一九(大正八)年に、石川県羽咋郡志雄町(現在の宝達志水町)に誕生されました。大谷大学専門部卒業の後、真宗大谷派明円寺住職をされ、大谷派宗議会議員、同朋会館教導などを歴任されました。著書としては、『おかけさま
の世界』『深く生きる』『親鸞の教えに生かされて』などがあります。
師は、一九七〇(昭和四十五)年に季刊誌『人間成就』誌を発刊されました。一九八〇年頃には発行部数が四千部、日本全国とアメリカまで送っておられます。

人間成就

一九七〇年頃、国外で日本人はエコノミックアニマルといわれ、一方国内では、森林や海などの自然環境の破壊や工場排水などによる環境問題があり、水俣病・イタイイタイ病などの公害が、現代にまで通じる大きな社会問題になっていました。
そして、このような社会で人間は本当に幸せになれるのかということが問われました。
その頃、「人間を問う」というテーマで数々の雑誌が発刊されました。湯川秀樹博士を中心とした『創造の世界』、小田実・高橋和巳らの『人間として』、家永三郎らの『現代と思想』です。松扉師は、そんな雰囲気のなかで、自分自身がいや応なしに人間とは何かを問われたといわれます。それは、私たちは人間だけれども、ほんとうに人間という実があるかという問いでした。そして、実のある人間になろうじゃないかという呼びかけを周囲にしたいというところから、『人間成就』誌を発刊したと『おかけさまの世界』(一二-一五頁、要約)でいわれています。
この本には、「人間」と「実のある人間」という言葉が出てきます。「人間」とは自分中心の煩悩のままに生きている人間のことで、「実のある人間」とは相手の身になる、相手の立場にたつことができる人間のことです。これが真実の人間であるとされます。「実」の意味は、親鸞聖人が『浄土和讃』の「真実明に帰命せよ」(『註釈版聖典』五五七頁)の左訓に、「実」を「もののみ(実)となる」と註釈されているところから採られています。
『人間成就』誌を発刊された師は、生涯にわたって人間成就を説いていかれることになります。

深く生きる

今月のことばが載っている『深く生きる』(真宗大谷派宗務所出版部)のなかで、松扉師は人間成就とは深く生きることであるとされます。
師は、次のように述べられます。

  「なぜ仏法を聞くのか」それは「人生を深く生きるため」である。深く生きることなくして、人間は満足をもって生き切る、安心をもって人生を送ることはあ  り得ない。深く生きる中味は「生かされて生きる、おかげさまの一生といただくのみ」である。この「いただく」とは目覚めさせていただくことであり、「おかげさまの一生といただく」とは、一切の存在するものはみな支えられて生きていることに目覚めさせていただくことである。そのためには教えに出遇うことが大事である。           (『深く生きる』八三頁、引用者要約)

人間成就の仏教とは「深く生きる」ことです。深く生きるとは、おかげさまの一生と目覚めさせていただくことです。
「深く生きる」ことの内容は、「生かされて生きる」と「支えられて生きる」です。
私を支えるものは私を生かすものですから、この二つの言葉に大きな違いはありません。

おかげさまの一生と目覚めさせていただく

「生かすもの」「支えるもの」について、次のような話があります。
世評師は、ある講演の前に合掌してお茶をいただかれました。それを見ていた五十代くらいの女性が、「あのお坊さんは湯呑みに合掌してお茶を飲んだ」といって笑いました。松扉師は講演で次のようにいわれました。
「湯呑みがあるからお茶を飲めるのであって、ポットから直接お茶は飲めません。
私たちは湯呑みのはたらきに生かされています。そうであるのに、合掌を笑うのは真実が見えていないからです」
松扉師が「生かされて生きる」「支えられて生きる」といわれるのは、湯呑み・ポットのようなものから、家族・周りの人、あらゆる生き物・空気・土、さらには阿弥陀さまの願いまで、すべてのことです。
「生かされる」「支えられる」とは、順調なときのことだけをいっているのではありません。人は、辛いことや悲しいことを背負って生きていかねばならないこともありますが、これも、「生かされて生きる」ことになります。これを、師は「おかけさまの一生と目覚めさせていただく」といわれます。私たちの感覚では「おかけさま」とは、なかなか言いにくい面もありますが、師はその例として、本願寺第二十二代宗主鏡如上人の妹であり、仏教婦人会活動や社会福祉事業に邁進した歌人、九條武子夫人について語られます。
夫人は大正時代の一種のスターで、非常に世間の注目を集めた方です。短歌集を出版すればベストセラーになりました。
夫人には、「幸うすきわが十年」と詠まれるほど辛い時期がありました。また夫人の活動に対する世間の好奇の目もありました。次の短歌から、夫人へのあることないことのさまざまなそしりを背負いながらも、阿弥陀さまを頼りに精一杯の活動をされているすがたが想像できます。

  百人のわれにそしりの火はふるもひとりの人の涙にぞ足る
(『九條武子全歌集 無憂樹(あそか)』三一八頁)
(百人の人からの私に対する誹りが火の降るように激しくても、仏さまが慈悲の涙を流していただいている、それで十分である。著者訳)

これが松扉師のいわれる、教えを聞いて「おかげさまの人生と目覚めさせられる」生き方、つまり人間成就の仏教になります。

あさましいヤツであった

“あたりまえだ”と言うて、まだ不足を言うて生きている」という今月のことぼは、『深く生きる』からとったものですが、次のような話を受けての言葉です(四九~五〇頁、要約)。昭和二、三十年代の話のように感じます。
ある九十歳を過ぎた老夫婦は、「おかけさま」「ありかたい」という日暮しをしていましたが、そのおばあさんが脳出血で倒れて、寝込んでしまわれました。そこで、数人の友人がおじいさんを慰めようと訪ねて来ました。そのとき、おじいさんが友人に話したことです。
おばあさんが粗相をして腰巻きを汚してしまいました。おじいさんは、若いお嫁さんに洗ってもらうと、おばあさんも肩身がせまいだろうと思って、お湯を沸かし、タライを出して腰巻きを洗って、隠居部屋の物干しに掛けておきました。
そのおじいさんが干している様子が、おばあさんには見えました。おばあさんは「モッタイナイ」といって、おじいさんを拝みました。おじいさんは六十年間、禅を洗ってもらってお礼をいったことがないのに、たった一回腰巻きを洗っただけで拝まれました。おじいさんは、拝まれたときの気持ちを「自分は何とあさましいヤツであったかと、今朝ほど思い知らされたことはない」と、見舞いに来た友人たちに話しました。
この話を聞いた松扉師は、次のように述べられます。

  褌一枚すら女房に洗うてもらわねばならないところに立って、生かされて生きておるのがこの身でしょう。にもかかわらず、われわれは”あたりまえだ”というところにしか立っていない。真実を見る眼を持かないために、〃あたりまえだ”
と言うて、まだ不足を言うて生きているのが、お互い私たちの今の生きざまでありませんか。                (『同』五〇頁 傍線、引用者)

世評師の人間成就の道についての見解から考えますと、自分中心の煩悩にふりまわされているから、「あたりまえだ」といってまだ不足までいっていることになります。ところが、「あたりまえだ」といっていたことが「あたりまえ」でないことがわかりますと、不足の言葉にならず感謝になります。

「モッタイナイ」

私の推測も含めていえば、この老夫婦は元気なときは常々お寺にお参りされ法話を聞いておられました。そのためにみ教えが身につき、「ありかたい≒おかげさま」という日暮しをされていました。ところが、おばあさんの「モッタイナイ」という言葉によって、六十年間、下着を洗濯してもらいながらお礼さえいったことがなかったことに、おじいさんは気づきました。洗濯をしてもらっていたことをあたりまえと思っていたのでした。「モッタイナイ」の二言で、おばあさんの六十年間の下着の洗濯が支えであった、恩恵であったことに気づきました。
それとともに、気づけなかった自分が「あさましいヤツ」と知らされることになります。おじいさんは、み教えを聞くなかであさましいこころを持った自分であることは知っていたのですが、この「あさましいヤツ」はまさに実感で、自分を恥じ情けないと思ったのです。おじいさんは改めて、おばあさんに生かされて生きてきたことに気づかされました。
おばあさんは自由には動けなくなられましたが、老夫婦はお互いに生かされて生きる日暮しをされそうです。お互いが支えられていることを感じながらの生活は幸せな生活になります。

教えに遇う

人間成就とは、教えに遇って「あらゆるものに支えられて生きる≒生かされて生きる」ことに目覚めることです。しかし、「生かされて生きる」ことがわかれば、人間として成就したということではありません。日々の生活のなかで目覚めさせていただくのが人間成就の道です。具体的には、今回のようにおばあさんの一言に自分のあさましさを感じたり、浄土真宗の門信徒が食事の際に唱える「多くのいのちとみなさまのおかげにより」で始まる〈食前のことば〉を読んで、「確かにいのちをいただいている」と思ったり、念仏のなかに亡き人の恩恵を感じたりすることで、目覚めさせられます。
人間成就の道は、教えに遇って「あらゆるものに支えられて生かされて生きる」ことに目覚めていくことですから、私を支えるものに対する感謝とよろこびがあります。
一方、今月のことばにある“あたりまえだ”と言って、まだ不足まで言っている」自分中心の煩悩のままの行いのままであれば、正しくもなくよろこびもありません。
ところが、人間成就の道を歩みながら、「生かされて生きる」よろこびも感じている私たちであっても、今月のことばのように「不足まで言って」います。どうすればいいのかわからなくなりますが、やはり、教えに遇い、自分自身を見つめて、さまざまなご縁に出会っていくことが大切であると考えています。今回のおじいさんのように。
(村上 泰順)

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