2022年3月のことば われ称え われ聞くなれど 南無阿弥陀 つれてゆくぞの 親のよびごえ

はじめに

三月のことぼは、原口針水和上のお言葉です。針水和上は、江戸時代末期の文化五(一八〇八)年に今の熊本県山鹿の光照寺に生まれました。幼名を妙丸といい、母親と四歳で死別し、五歳から僧侶になる勉強を始めたそうです。七歳で基本的な経典を学び、九歳のときには四書五経を勉強し、十二歳から十四歳の間には父親と叔父からお経の解釈を学んだといいます。
その後、名前を得慶と改め、二十三歳からは福岡の万行寺で七里曇龍師に師事しましたが、曇龍師が亡くなると故郷の光照寺に戻ってきました。その頃にはすでに学僧として全国に名前が知られる存在となっていました。その後三十六歳で光照寺の住職となりますが、全国からその学問の深さを聞きつけてお坊さんが訪れるようになり、光照寺の前の細い参道が人通りの絶えない広い参道になったといわれています。やがて西本願寺や龍谷大学の要職に就き、またその間、慶応三(一八六七)年には本願寺派司教となり、神道を主体として仏教をそこに統合しようとする政府の動きに対して、本願寺を代表して厳しくその政策を批判し、弟子であった島地黙雷らとともに仏教を擁護していきました。
針水和上の博学ぶりは真宗、仏教にとどまらず、キリスト教や神道にも及びます。それは単に博学というだけではなく、江戸から明治にかけて日本中が変革の嵐に包まれるなか、キリスト教が日本に広まるであろうこと、天皇制の下、神道が力を強めて行くであろうことを予見してのことだったといいます。一八六九(明治二)年の安居(本願寺の法会)では、副講者として『正像末和讃』の講義とともに『旧約聖書』「出エジプト記」の講義を行っているのは有名な話ですが、一八七三(明治六)年には本願寺派勧学を命じられ、安居での講義は六回に及んだといいます。その後も和上は積極的に活躍されるのですが、一八九三(明治二十六)年にあやまって負ったかすり傷がもとで、六月十二日に往生の素懐を遂げられました。
ちなみに「針水」という名は、福岡の万行寺で七里曇龍師に師事していた頃に曇龍師が付けた名前で、提婆達多と龍樹菩薩の物語に由来しているといいます。
提婆達多がある日、龍樹菩薩に仏教の解釈について論議を申し入れたところ、提婆達多の悪評を聞いていた龍樹菩薩は、鉢いっぱいに水を入れて提婆達多を待っていました。やってきた提婆達多に対して龍樹菩薩が鉢の水を指さすと、提婆達多は一本の針を取り出して水のなかに放り入れたのです。その針は鉢の底に沈んでいきました。龍樹菩薩が指さした鉢いっぱいの水は龍樹菩薩の智慧の深さを示していたのに対して、提婆達多が放り入れ鉢の底に沈んでいった針は、龍樹菩薩の智慧の底を見極めたという答えだったのです。龍樹菩薩は「提婆達多は利口だ」という感想を漏らしたといいます。この故事から、知恵深い僧となるようにとの願いを込めて、曇龍師は針と水とて「針水」と名づけたといわれています。
今月のことばである。

  われ称えわれ聞くなれど南無阿弥陀仏
つれてゆくぞの親のよびごえ
(梯賓圓著『わかりやすい名言名句 妙奸人のことば』三一七頁、法蔵館)

の歌は、針水和上が、七十七歳の喜寿を祝った折、有縁の人々に色紙に書いて与えられたというもので、今も多くの人々に親しまれています。

親の喚び声

今月のことばの意味は、「私か称え、またその自分の声を私自身が聞くのだけれど、この南無阿弥陀仏は、お浄土に連れて行くぞといわれる親さまの喚び声に他ならない」ということです。私の声がそのまま阿弥陀さまの喚び声だというのはどういうことでしよう。
今ちょうど、嫁いだ娘が里帰り出産で帰ってきています。産後一ヵ月少ししたら大阪に帰る予定でしたが、折しも新型コロナウイルスが大阪で爆発的に感染拡大し、もう生まれて三ヵ月になりますが、なかなか帰れないでいます。小さな命で、周りがいろいろなことをしてあげないといけないのに、赤ちゃんは泣くことしかできません。ときには、何ということはなくただぐずっているだけのようなこともあります。娘が何かしていて手が離せないようなときには、私と坊守がなんとかあやそうとするのですが、なかなかどうしてうまくいきません。ところが母親というのは偉いもので、「はい、お母さんですよ。大丈夫、大丈夫」といいながら抱っこをすると、安心したような顔でピタリと泣き止みます。不思議なもんだなあ、ちゃんと親がわかるんだなあ、と思って眺めてますと、娘は何度も「はい、お母さん。大丈夫、大丈夫」と繰り返しています。そのことに気づいてから何とはなしに見ていると、同じような言葉を繰り返し繰り返しいいながら、赤ちゃんをあやしているのです。
その様子を見ながら、やがてこの赤ちゃんも言葉を話すときが来るのだろうけれど、そのときはやはり「お母さん」とか「ママ」とかを一番最初にいうんだろうなあと思いました。私の口をついて出るお念仏のご法話で、昔はよく梓みちよさんの「こんにちは 赤ちゃん」の歌が例えに使われていました。赤ちゃんが「ママ」というのは、親が先に「ママよ、ママよ」と呼びかけているからだと。でも、娘が赤ちゃんをあやしているのを見ていると、それだけではないように思います。おそらく「はい、お母さん。大丈夫、大丈夫」というその「お母さん」という言葉のなかには、「まかせなさいよ、大丈夫よ」ということが込められており、その「まかせなさいよ、大丈夫よ」ということが込みで赤ちゃんには届いているのではないでしょうか。
いずれこの赤ちゃんが「お母さん」と呼ぶとき、その「お母さん」には、先に「大丈夫、まかせなさいよ」という母親の呼びかけがあり、それが全部つまって赤ちゃんの「お母さん」という言葉になっているのでしょう。

本願招喚の勅命

私の称えるお念仏が、そのまま阿弥陀さまが私をつれていくぞといわれる喚び声である。そのことを明らかにされたのは親鸞聖人でした。『教行信証』「行文類」には、

   しかれば、「南無」の言は帰命なり。……ここをもって「帰命」は本願招喚の勅命なり。                    (『註釈版聖典』 一七〇頁)

とあります。(親鸞聖人の)「六字釈」といわれる箇所です。「本願招喚の勅命なり」といわれるのは、私たちの称える「南無阿弥陀仏」が如来さまの私に対する喚びかけであるということです。この喚びかけについて、善導大師は『観経四帖疏』に二河白道の比喩を明かし、その解釈を示されるなかで、

   「西の岸の上に人ありて喚ばふ」といふは、すなはち弥陀の願意に喩ふ。

(『註釈版聖典(七祖篇)』四六九頁)

といわれています。また親鸞聖人は『愚禿妙』で、この二河白道の比喩について、

  「また、西の岸の上に、人ありて喚ばうていはく、〈汝一心正念にして直ちに来れ、我能く護らん〉」といふは、
「西の岸の上に、人ありて喚ばうていはく」といふは、阿弥陀如来の誓願なり。
……方便仮門を捨てて如来大願の他力に帰するなり、……また摂取不捨を形す
の貌なり、すなはちこれ現生護念なり。  (『註釈版聖典』五三八-五三九頁)

と示されていますから、聖人が「本願招喚の勅命」といわれた意味は、「他力に帰せよ」ということであり、「摂め取って捨てない」ということです。「他力に帰せよ」というのは「我にまかせよ」ということであり、「摂め取って捨てない」ということは「必ず救う」「そのまま救う」ということに他なりません。
私たちのお念仏「南無阿弥陀仏」の「南無」はインドの言葉の音を写したもので、漢語になおすと「帰命(する)」という言葉になります。浄土真宗の「帰命(する)」は、「必ず救う、我にまかせよ≒そのまま救う、我にまかせよ」とのご本願が私に届き、その本願招喚の勅命に順うすがたです。私か願うより先に、如来さまの方が願っていてくださる。それが浄土真宗の「南無阿弥陀仏」のお念仏なのです。

称えさせてもらうお念仏

「はい、お母さんですよ。大丈夫、大丈夫」と声がしています。この母親の呼びかけに、やがてこの赤ちゃんも「お母さん」と呼ぶようになっていくのでしょう。母親の呼びかけなくして、赤ちゃんが「お母さん」と呼ぶようになることはなかろうと思います。私の称えるお念仏も、阿弥陀さまのご本願が、そして私にはたらきかけてくれるたくさんの縁があって、私か「南無阿弥陀仏」と申すことができているのでしょう。そうでなければ、この煩悩具足、罪悪深重の私か如来さまの名を称え、お念仏申すことなどできるはずもありません。

「先手は弥陀、それを忘れてはいかん」
浄土真宗のみ教えを学び始めたときに、先輩方から鏝初にいわれたのはこのことでした。私かあれこれ考えるそのずっと前から、阿弥陀さまの方が私を願っていてくださった、そのことをいただくのがお念仏のみ教えです。

  弥陀の五劫思惟の願をよくよく案ずれば、ひとへに親鸞一人がためなりけり。
さればそれはどの業をもちける身にてありけるを、たすけんとおぼしめしたちける本願のかかじけなさよ             (『註釈版聖典』八五三頁)

『歎異抄』に示された聖人のお言葉に、あらためて頷かされることでした。
(安藤 光慈)

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2022年2月のことば ふみはずしましたが 気がつけば ここもも 仏の道でございました

はじめに

今月のことばは、榎本栄一さんのお言葉です。榎本さんは一九〇三(明治三十六)年十月に兵庫県の淡路島に生まれ、一九九八(平成十)年に九十四歳で往生されました。幼少期は身体が弱く、あまり学校にも通えなかったそうですが、十五歳の頃に父親を亡くし、十九歳の頃から家業であった化粧品店で精を出して働いたといいます。一九四五(昭和二十)年の大阪大空襲で淡路島に逃れ戻りますが、終戦後知人の店で化粧品を扱うようになり、一九五〇(昭和二十五)年に東大阪市で化粧品店を開業します。やがて浄土真宗のみ教えに帰依し、念仏のうたと称する仏教詩を書いて『群生海』『煩悩林』『難度海』などの詩集を著しておられます。

今月のことばは、その『念仏のうた難度海』(樹心社)から採られています。詩の全体は「仏の道」という題で詠まれたものであり、

  ふみはずしましたが
気がつけば
ここも仏の道でございました                   (三三頁)

とある直前には、

  今日も
如来さまは
この足弱き私の
道づれになってくださる
この道 平坦ではありません                    (二五頁)

と詠まれています。

以前に『難度海』を味わわせていただく機会があり、今月のことばを見たときに、同じく榎本さんの、

こまごまと自力で
いちにちはたらいたが
気がつけば
大きな他力の中                          (四二頁)

という、「他力一元」と題された詩を思い出しました。
一九七九(昭和五十四)年、榎本さんは七十四歳のときに化粧品店を閉めておられます。『難度海』は一九八一(昭和五十六)年に出された詩集ですが、この詩を書いた頃、榎本栄一さんはまだ化粧品店を営んでおられましたようです。今月のことばの詩は、ひょっとするとお店を閉める前後あたりのものかもしれません。そうすると、「ふみはずしましたが」という言葉は内面的なものというより、少しリアルな日常のことのようにも思えます。どちらにも「気がつけば」という言葉があります。
二つを並べて味わわせていただくのもよいかもしれません。

在家の念仏者

榎本栄一さんは在家の念仏者です。とはいえ、はじめは真宗大谷派の僧侶で仏教思想家であった暁鳥敏師に法を聞き、その後幾人かの先生に教えを受けて、念仏申しながら自分の内面を見つめ、自分の内側の声を聞くということに努めて、やがて振り返れば「内観の詩」を詠むという方向に進んできたと、自らいかれています。
いま「在家の念仏者」といいましたが、浄土真宗のみ教えは、もとより在家の念仏者の教えです。蓮如上人の『御文章』のなか、

  末代無智の在家止住の男女たらんともがらは、……                          (『註釈版聖典』 一一八九頁)

と始まる「末代無智章」は私たちの耳に馴染みの深いものですが、他にも多くは「在家止住」「在家無智」という形で、十数箇所に用例が認められます。
在家とは、出家せずに世俗の生活を営みながら仏教に帰依するもののことで、インドでは、男は優婆塞、女は優婆夷とよばれていました。出家者である比丘・比丘尼にこの優婆塞・優婆夷を加えて四衆といい、これが仏教教団を構成する人々ということになります。経典等で「善男子・善女人」とあるのは基本的にこの優婆塞・優婆夷のことと考えていただければよいと思います。『仏説阿弥陀経』にも善男子・善女人の語は多く登場しますが、『仏説阿弥陀経』はインドにおける当時の浄土教信仰の様子が反映されている一面があることを考えれば、もともと浄土教は在家信者の信仰であったと思ってよいでしょう。
また、当時の仏教圈から出土したレリーフには阿弥陀仏が説法している様子が描かれていたりしますが、阿弥陀仏の膝元で礼拝している二人の人間は明らかに在家の男女のすがたで描かれていますから、これもインドにおける阿弥陀仏信仰の中心的な担い手が在家信者であったことを示しています。お釈迦さまが入滅された後、出家者はお釈迦さまの示された教え、すなわち経典にもとづいてさとりへの道を歩んでいきますが、在家信者もまた阿弥陀仏に手を合わせ、さとりへの道を歩んでいるのです。

仏の道

今月のことばと参考にあげた詩とをみると、両方ともに「気がっけば」という言葉があることに気づきます。二つの詩はともに、「気がつく辻剛後で榎本さんのまなざしが向けられている対象の質が変わっているのです。参考にあげた「他力一元」の方がより対照的に描かれていますので、まずこちらを味わってみましょう。

こまごまと自力で
いちにちはたらいたが
気がつけば
大きな他力の中

「気がっけば」の前の文には「自力」という言葉があります。そして後の文には「他力」という言葉があります。最初に申しましたように、この詩を書かれた頃、榎本さんはまだ化粧品店を営んでおられたようです。当時の化粧品店がどのようなお仕事だったのかは想像するしかありませんが、お客さんが来られたらその方に合った化粧品を勧め、売れるときもあれば売れないときもあったでしょう。また品物が置いてある棚の整理も必要かもしれません。お掃除も仕事の一つです。化粧品の発注もしなければなりませんし、伝票も書いたりしなければならないでしょう。なかには愚痴をこぼすお客さんもいるかもしれません。「こまごまと自力で いちにちはたらいたが」という文言には、いろいろと努力しながら一日の生活を送るすがたがうかがえます。
在家の者の道は、そうした日常の営みのなかにあります。こまごまとしたことに気を遣いながら、一日を送っていきます。出家の者のように世間を離れて生きているわけではありません。しかしそうした日常のなか、お念仏申しながら生きていく私を、如来さまはそのまま摂め取ってくださっている。「大きな他力のなか」というのは、ふと気がつけばそのこまごまとした日常も、他力すなわち如来さまのはたらきのなかにあったといわれているのです。
他力という言葉は、如来さまのはたらきということです。如来さまはいつも私に寄り添ってはたらいていてくださる。それは、如来さまが如来さまとしての道を歩んでおられるということです。お念仏のみ教えはありかたいなあと思います。私のこまごまとした日常はそのままお浄土参りの道であり、そのお浄土参りの道はそのまま如来さまのはたらかれる如来さまの道なのです。
さて、今月のことばが掲載されている『難度海』の「あとがき」(践)には榎本さんの言葉が添えられているのですが、そこで、

  一昨年の五十四年末に店を閉じました。行けるところまで行くつもりでしたが。
店をやめました。                       二九四頁)

と述懐されています。この詩が店を閉じる前後に書かれたものであるとしたら、「この道 平坦ではありません」「ふみはずしましたが」とあるのは、「行けるところまで行くつもり」であったのがうまくいかなかった、ということかもしれません。だとすると、おそらくいろいろな出来事があり、いろいろな事情も絡んでいることでしょう。「ふみはずしました」という言葉には、無念の思いがにじみ出ているように思います。
私たちの人生は、うまく行かないことの方が多い、思いどおりになど進むことのない人生です。しかし気がっけば、それでも私を捨てたまわぬ如来さまがおられた、そのことを「ここも仏の道でございました」といわれているのです。
ここでいわれている「仏の道」は、如来さまが私を摂め取って捨てたまわぬ如来さまの道でしょうか。それとも、お念仏申しお念仏申し歩んでいく私のお浄土参りの道でしょうか。おそらくそれはどちらでもよいのでしょう。私の道がそのまま如来さまの道なのですから。
「あとがき」に添えられた榎本さんの言葉の最後は、

  そんなわけで、耳が聞こえんようになったということが、私の詩の出発点で、
難聴さまさまでございます。    (『念仏のうた 難度海』 一九四-一九五頁)

というものでした。あるいはこのことが店を閉められた原因の一つかもしれません。
それでも、お念仏申しながらしっかりと前を向いて在家の仏道を歩まれていくすがたを、今月のことばからうかがうことができます。
ジタバタしながら生きている私ですが、気がつけば、ここも仏の道でありました。
(安藤 光慈)

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2022年1月のことば きょうもまた 光り輝くみ仏の お顔おがみて うれしなつかし

はじめに

一月のことぼけ、稲垣瑞剱師のお言葉です。師は、一八八五(明治十八)年十月に姫路市に生まれ、一九八一(昭和五十六)年に九十五歳で往生されました。幼い頃から学問に励まれ、漢文学、英文学、そして仏教や哲学に造詣が深く、特に真宗のみ教えに真摯に向き合っていかれました。学者でありながら念仏のご法義をよろこばれた人として名高く、真宗の伝道と著述に生涯を捧げられたといいます。
今月のことぼけ、師の著書『願力往生法雷叢書3』言華苑)のなか、「大信海」の章にある和歌調豆七五七七)の一節です。「大信海」の章は、地の文と二字下げ(あるいは一字下げ)の韻文とが交互に示される形で書かれていますが、全編にわたっ
てほぼ韻文とも思える文体でその境目は判然とはしておらず、全体の文章が流れるように読み手のこころに入ってきます。全体が如来さまに対する讃嘆であり、「親様がなあ」「親様じゃなあ」という言葉が印象的です。本当はこの「大信海」の全文を読んでいただく方が今月のことばを解説することになろうかと思いますが、そうはまいりません。しかしせっかくですから、今月のことばを含む一段を示しておきたいと思います。

   お慈悲じゃなあ、親様じゃなあ。
「ああ辛らと いうもあとなり 唐がらし」
「勢つきて 汲み上げられし 蛙かな」
やれうれし けさもまた 念々相続
み仏の お慈悲は ありあり 眼の前に
お立ちあそばす如来様
お顔のうちに 生死をはなる
我もまた
彼の摂取のうちに在り

ともに参ろう 法の友
きょうもまた 光り輝く み仏の
お顔おがみて うれしなつかし
(『願力往生』四七一頁)

光り輝くみ仏

「大信海」では右の文の後に、

  お内仏の阿弥陀様が、四十八本の光明を放ってござる。あの光明が、ずうっと延びて、私を抱いていてくださる。

という地の文が続きます。お内仏のご本尊を見てみましょう。ちょうどお顔のあたりから光が四方に延びて描かれています。数えるとたしかに四十八本ありますけれども、どうして四十八本なのか。それは阿弥陀さまの願いが四十八あるからだといわれます。他にも説はあるそうですが、光は仏の智慧のはたらきを表していますから、四十八願を表しているというのがしっくりくるように思います。
『仏説無量寿経』に示されている如来さまの誓願は四十八ありますが、なかでも第十二願は「光明無量の願」といわれます。

 たとひわれ仏を得たらんに、光明よく限量ありて、下百千億那由他の諸仏の 国を照らさざるに至らば、正覚を取らし。      (『註釈版聖典』一七頁)

『浄土三部経(現代語版)』では、

わたしが仏になるとき、光明に限りがあって、数限りない仏がたの国々を照らさないようなら、わかしは決してさとりを開きません。      (二八頁)

と訳されていますが、このように光明を無量にそなえようと誓われた仏が阿弥陀さまです。それは、私かどのような世界にあっても必ずそのはたらきを届けてくださると誓ってくださっているのです。瑞剱師が「あの光明が、ずうっと延びて、私を抱いていてくださる」といわれるように、私たちはいつもその光にいだかれ、そのはたらきのなかに摂め取られているのです。
ご本尊の絵像や木像はそのことをお示しくださっているのです。まさに光り輝くみ仏です。

きょうもまた

私たちの人生は、朝な夕なにお念仏申す人生です。瑞剱師が「きょうもまた」といわれているのをみると、おそらく師は朝、いつもと同じようにお仏壇の前で手を合わせておられるのでしょう。
親鸞聖人は「いつも」ということについて、二念多念文意』にこのような説明をされています。

  「恒」は、つねにといふ、「願」はねがふといふなり。いまつねにといふは、たえ  ぬこころなり、をりにしたがうて、ときどきもねがへといふなり。いまつねにといふは、常の義にはあらず。常といふは、つねなること、ひまなかれといふこころなり。ときとしてたえず、ところとしてへだてずきらはぬを常といふなり。                        (『註釈版聖典』六七七頁)

「恒」という字が表すのは、私たちがお念仏申すあり様です。朝な夕なにお念仏申すとはいえ、四六時中ずっとお念仏申しているわけではありません。でも、その朝な夕なのお念仏、あるいは折に触れ称えるお念仏は、ご信心をいただいて称える念々相続の絶えざるお念仏なのです。
このことについて、先人は雲のなかの龍の例えで説明しておられます。雲のなかの龍はずっと雲のなかにいるのだけれども、そのすがたがいつも見えているわけではない。しかし、時折雲の隙間から手足が見えたり尾が見えたりする。そのことで雲のなかにずっと龍がいることがしられるというのです。

「一方言常」という字が表すのは如来さまのはたらきです。源信和尚は『往生要集』のなかで、その如来さまのはたらきを、

大悲無倦常照我身       (『浄土真宗聖典全古川三経七祖鎬』 一一〇八頁)
(大悲倦むことなくして、つねにわが身を照らしたまふ。『註釈版聖典(七祖編)』九五六-九五七頁)

と示しておられるのですが、これを承けて、親鸞聖人は「正信偈」のなかで「大悲無倦常照我」(大悲、倦きことなくてつねにわれを照らしたまふといへり。『註釈版聖典』二〇七頁)と讃嘆しておられるので、思い当たられる方も多いと思います。ここでは
「常」の字が使われていますが、それは如来さまのはたらきは、

  つねなること、ひまなかれといふこころなり。ときとしてたえず、ところとし てへだてずきらはぬ        『二念多念文意』、『註釈版聖典』六七七頁)

ものだからです。「ひまなし」というのは間隙がないということです。親鸞聖人は『唯信紗文意』のなかで、「光明は智慧のかたちなり」(『註釈版聖典』七一〇頁)といわれていますから、「つねにわが身を照らしたまふ」とあるのは、如来さまの私を摂め取るはたらきがいつも私に届いているということです。
瑞剱師が「きょうもまた 光り輝く み仏の お顔おがみて」といわれているのは、お内仏のご本尊に向かって手を合わせると、その四十八本に延びている光が見えている。その光は、私を摂め取って捨てたまわぬ摂取不捨の光明であり、常に我が身を照らす光であったということを、「きょうもまた」という形で表しておられるのです。もちろん、「きょうもまた」は「お顔おがみて」にかかると考えられますが、「きょうもまた光り輝くみ仏の お顔おがみて」ということを成り立たせているのは、常に我が身を照らしたもう如来の摂取不捨の光明に他なりません。

お慈悲じゃなあ、親様じゃなあ

今月のことぼけ「うれしなつかし」という言葉で終わっていますが、最初に示しか今月のことばを含む一段は、「お慈悲じゃなあ、親様じゃなあ」という言葉で始まっています。意図されたわけではないのかもしれませんが、最初に「大信海」を読ませていただいたときに、「お慈悲じゃなあ」は「うれし」に対応し、「親様じゃなあ」は「なつかし」に見事に対応しているようにみえて、ちいさな感動を覚えました。
物心ついた頃、お寺でお坊さんがお話しになるのを聞いていると、この「慈悲」という言葉がしょっちゅう出てきます。私は、どうして「悲しい」んだろうと不思議でなりませんでした。やがて仏教のことを学ぶようになり、そこでは「慈」はいつくしみのこころ、「悲」はあわれみのこころと教わることもあり、今度は「憐れまれる」のも何か釈然としない気分で「慈悲」という言葉を考えておりました。
そんな私か「ああ、そうか」と得心したのは、やはりお寺にご法話にこられた高齢のお坊さんが、阿弥陀さまのことを「親さま、親さま」と呼ばれていたのを聞いたときでした。「ああそうか、阿弥陀さまは私のあり様を我がこととして悲しまれておられるのだ」とそう思ったとき、これまでどこか引っかかりながらみていた「悲」という字が、途方もなくありかたいものにみえてきたのです。
阿弥陀さまのようにとはいえませんし、限られたものであるかもしれないけれど、私たちの世界で私かいたらぬことをしたときに私以上に悲しみ、たまたま褒められるようなことをしたときに我がこととして喜んでくれるのは、親しかおりません。
親鸞聖人の書かれたものを読んでも、蓮如上人の「御文章」を拝読しても、どこにも阿弥陀さまのことを親さまとして慕うようなことは書かれていませんが、手を合わせお念仏申す人々は、いつの間にか阿弥陀さまを親さまと呼ぶようになっていきました。父母は、私の悲しみやよろこびを自分のこととして悲しみよろこんでくれる。阿弥陀さまも、煩悩具足の私か迷いの世界を抜け出ることができないでいることを阿弥陀さま自身の悲しみとして、何とか救わずにはおれずに「我が名を呼べよ、そのまま救う」とおっしゃってくださる。

  お慈悲じゃなあ、親様じゃなあ。
きょうもまた 光り輝く み仏の お顔おがみて うれしなつかし

まことそのとおりでありました。
(安藤 光慈)

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2022年 表紙のことば 念仏は まことなき人生の まことを見せしむる

 

はじめに

表紙のことばは正親含英師の言葉です。師は、一八九五(明治二十八)年十一月十六日に姫路市に生まれ、真宗大谷大学(現・大谷大学)研究科を卒業後、真宗大谷大学の教授となられました。また、一九五八(昭和三十三)年から一九六一(昭和三十六)年まで大谷大学の学長を務められました。一九六九(昭和四十四)年十二月二十八日に往生されたのですが、生前に親交のあった金子大栄師からは「本当に救われる道があるということを話しあうことができるのは、あるいはあの人だけではなかったかということも思われる」といわしめるほど、お念仏のご法義に真摯に向き合った方ともいわれています。
この表紙のことばは、師の書かれた『真宗読本』(法蔵館)の第三章に、

  生も死も容易でない。吉凶禍福、さまざまに織りなされてゆく人生は、そのまま仏教にいわゆる六道輪廻(地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天上の六の境界をへめぐること)の絵図そのままではないか。けれど、こうして、どうにもならないものが、どうにもならぬままに度されてゆく法がある。それが念仏である。この
智慧の念仏は、まことなき人生のまことを見せしむる光であり、一つ一つ苦悩の経験において、一つ一つの寂かなる、まことのよろこびを見るのである。
(九六頁)

とあるところから採られています。この章では、私たちの人生をご本願のはたらきのなかに歩む横超の道であると説かれており、そのなか、私たちの人生を横超の道として成り立たせるものこそお念仏なのだ、と明らかにされています。その鍵となるのが、この「(智慧の)念仏は、まことなき人生のまことを見せしむる光(であり)」
という言葉だと思います。

まことなき人生

さて、私たちが「まこと」と訓じる漢字には、ぱっと思い浮かぶだけでも「真≒誠」「実」などがあります。「信」も「まこと」と読むときがありますね。他にもいろいろあるようですが、漢字で考えると、「真」の基本的な対義語は「偽」、「誠」の対義語は「嘘」、「実」の対義語は「虚」、そして「信」の対義語は「疑」となりますから、同じ「まこと」でもそれぞれにニュアンスが異なっているようです。「まことなき人生」といわれる「まこと」には、どの漢字が当てはまるのでしょう。
あえていうなら、「実」ではないかと思います。師のいわれるとおり、私たちの人生は「吉凶禍福、さまざまに織りなされて」いきます。よろこびも楽しみもあり(吉・福)、悲しみも苦しみもある(凶・禍)人生です。しかしながら、そのよろこびや楽しみがいつまでも続くわけではなく、地震や水害などにも遭い、悲しみや苦しみを逃れることはできません。そのことを、含英師は「いわゆる六道輪廻(地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天上の六の境界をへめぐること)の絵図そのままではないか」といわれるのであり、そうした吉凶禍福に迷うだけであれば、それは実ならざる虚ろな人生といわねばなりません。このような世界を、師は「苦悩の土」とよんでおられるのでした。
昨年は、新型コロナウイルスの感染拡大にともない、重症化して苦しんだ人、命を亡くされた人、そしてその周りで心配し悲しむ人々……、私たちもまた、いつ感染してしまうかわがらずに、漠然とした不安を抱えて日々を過ごしていました。まさに人生は諸行無常であり、何か起きてもおかしくないと実感した一年でした。諸行無常、それは、東日本を襲った震災のときにも思い知らされたことでした。こうした大きな災害や事件だけではなく、私たちの周りには世の無常を思い知る出来事で満ち満ちています。
しかし、この世は無常、本当にそれだけでよいのでしょうか。

諸行無常ということを考えるとき、すぐに思い浮かぶのは鴨長明の『方丈記』ではないでしょうか。『方丈記』は、ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず。よどみに浮ぶうたかたは、かつ消えかつ結びて、久しくとゞまりたるためしなし。世中にある人と栖と、又かくのごとし。     (市古貞次校注『新訂方表記』九頁、岩波文庫)

という文で始まり、無常観を示すものとして有名です。東日本大震災が起きたときには再び注目されたのですが、それは鴨長明が生きた時代もまた政治的な騒乱が多く、加えて地震などの災害が人々を苦しめていた時代だったことも関係していると考えられます。『方丈記』は和漢混淆文とよばれる文体で書かれた名文で、京都の鴨川のほとりにたたずみ、荒れた都の家々を背に、暗いまなざしで移りゆく川面を静かに見つめる長明のすがたが目に浮かぶようです。
たしかに『方末記』のこの冒頭の文は、この世の無常観を示したものに違いありませんが、正確には仏教の無常観、諸行無常ということを表しているわけではありません。この文から浮かぶ長明は、川のほとりにじっとたたずんでいます。移り変わり変化しているのは彼が見ている目の前の川であり、「世の中にある人とすみか」です。彼はただじっとたたずみ、彼の周りだけが移り変わっていく、その様子を見ているのです。
しかし仏教の諸行無常でいうなら、移り変わり変化しているのは長明白身に他なりません。もちろん、目の前の川も「世の中にある人とすみか」も移り変わり変化していますが、仏教が問題にしているのは私自身のすがたであり、私こそが諸行無常であるということなのです。長明は、もとより下鴨神社の神事を統率する家の出であり、後に出家はしていますが、むしろ歌人あるいは随筆家として名を馳せた人物です。出家遁世の原因も、琴や琵琶などの管絃の名手であった長明か、演奏することを許されていない秘曲「啄木」を演奏したことが知られてしまったためともいわれているのですから、『方丈記』の冒頭の文は仏教の諸行無常というよりも、この世に移り変わらないものなどないということを表そうとしているのでしょう。

まことのこころはなけれども

親鸞聖人が書がれたものにも「まこと」という言葉がたくさん用いられていますが、私か表紙のことばを見たときに思い浮かんだのは、

無慚無愧のこの身にて
まことのこころはなけれども
弥陀の回向の御名なれば
功徳は十方にみちたまふ
(『正像末和讃』、『註釈版聖典』六一七頁)

というご和讃でした。自分に「まことのこころ」がないということ、それを認めることは容易ではありません。その容易ではないことを認めさせてもらえるのは、「そのまま救う 我にまかせよ」という如来さまの喚び声があればこそではないかと思います。
私の称えるお念仏は如来回向のお念仏であり、如来さまのすべての功徳は南無阿弥陀仏の名号となり、私の口をついて出るお念仏となってくださいます。そして、無漸無愧のこの身のままに、まことのこころなきこの身のままに、「苦悩の土」を渡らせてくださるのです。「苦悩の土」であっても、私を往生成仏せしめる如来さまの功徳が「十方にみちたもう」なかに、この人生を歩むことができます。何ごとにも我を張って、自分中心にしか考えることのできない煩悩具足の私ですが、その私か「まことのこころはなけれども」と自らを煩悩具足の凡夫と顧みることができるのは、「そのまま救う 我にまかせよ」という如来さまの喚び声のなかにあるからなのでししょう。

二種深信のこころ

私たちお念仏申す者は、他力回向のご信心をいただき、この「苦悩の土」を生きていきます。そのご信心のすがたを、善導大師は『観経四帖疏』に、一には決定して深く、自身は現にこれ罪悪生死の凡夫、劫劫よりこのかたつねに没しつねに流転して、出離の縁あることなしと信ず。
二には決定して深く、かの阿弥陀仏の、四十八願は衆生を摂受したまふこと、
疑なく慮りなくかの願力に乗じてさだめて往生を得と信ず。
(『註釈版聖典(七祖鎬)』四五七頁)

と示されていて、「一には……」の方を「機の深信」、「二には……」の方を「法の深信」といい、両者を合わせて「二種深信」といいます。
親鸞聖人は、他力の信とは仏願の生起本末を聞いて疑いのこころがないことであると示されています。「仏願の生起」とは、如来さまはなぜご本願を誓われたのかということですが、それは、煩悩具足の凡夫でありどこまでも迷いの世界を抜け出ることができない私を救うためだ、ということです。また「仏願の本末」とは、その私を救うために、五劫の問思惟し兆載永劫の間行を修めて願を成就し、十方の衆生を摂め取る阿弥陀如来となられたということ。換言すれば、煩悩具足の凡夫である私か間違いなく浄土に往生して仏と成らせていただく、ということです。そのことを聞いて疑いのこころがないということが他力のご信心です。すでにおわかりのように、「仏願の生起」を聞くということと機の深信の内容、あるいは「仏願の本末」を聞くということと法の深信の内容とは、同じです。善導大師の示された二種深信とは、仏願の生起本末を聞いて疑いのこころがないという、他力のご信心をいただいた上での信心のすがたなのです。ですから、一つの信心に具わる二つのすがたであって、これを別々のこころとするのはもとより誤った考えです。
しかしながら従来より、どちらの深信の方が先なのかということを問題にする人がいます。そしてそうした人は、大方「機の深信」を「法の深信」を得るための手だてと考えているようです。そういう考えは、信心を得た上でそのすがたを表されているものが二種深信であるということを理解されていないと思われますが、そもそも機の深信だけをおこすということは私たちにはできないのです。 何ごとにも我を張り、自分中心にしか物事を考えることができない。それが罪悪生死の凡夫なのであり、それを自分で認めることができないということが、親鸞聖人のご和讃にいわれる「無漸無愧のこの身」ということです。その私に「そのまま救う 我にまかせよ」といってくださる如来さまのご本願に出遇ってはじめて、「そのまま」の私、「まことのこころ」を持ち合わせていない私であることを認めることができるのです。
二種深信は、ご本願に出遇って他力の信を得た上での信心のすがたです。ですから、機の深信・法の深信のそれぞれに、「ご本願に出遇わなければ「ご本願に出遇ったからには」と付けてみると、わかりやすいかもしれません。

人生のまこと

表紙のことばをもう一度味わうと、「まことなき人生」とは機の深信に示されるように、ご本願に出遇わなければ煩悩具足の凡夫として流転し続けていくしかない人生を、私か歩んでいるということでしょう。それはまことなき私を中心に、世界を、そして私自身を見ていくしかない人生です。しかし、念仏申して歩む人生は、法の深信に示されるように、ご本願に出遇って如来に摂め取られ、間違いなくお浄土へ往生し仏と成らせていただく人生です。「そのまま救う我にまかせよ」との如来さまの喚び声のなか、如来さまの智慧の念仏を通して世界を、そして私自身をみていく。そのことを、「(智慧の)念仏は……人生のまことを見せしむる光」といわれているのです。
(安藤 光慈)

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2021年12月のことば 今日である あること難き 今日である

先生の生涯

今月のことばは、九州鸞音会から発行された『藤代聴麿先生法語集』からの引用です。
藤代聴麿先生は一九一一(明治四十四)年に、福岡県田川郡にある真宗大谷派の伯林寺にてお生まれになりました。
藤代先生については、法語集の「けじめに」の中に次のように紹介されています。

藤代先生は念仏者であり、伝道者であると同時に、絵描きでもあられました。
「若いころ、絵でも書いて暮らそうかと、寺を出て京都に上りました。」と話しておられたように、曽我量深先生に出遇わなければ、一生絵を描いて過ごされた方かも知れません。
先生の一生を変えたものは、戦争そして師との出会いでした。

(『藤代聴麿先生法語集』)

藤代先生は、真宗大谷派屈指の学僧である曽我量深師との出遇いによって、真の念仏者としてその生涯を歩まれました。深く聞思した曽我師の教えを、持ち前の感受性と自らの人生経験により幾度も咀聯し、再びその深遠な教えを極めて短い「法語」という言葉に凝縮して、多くの人々に感化を与えられました。また多才であった先生は絵描きとしてもご高名で、自らの絵に法語を書き添えるという手法により、あまたの念仏者をお育ていただいた希有の伝道者でもあったのです。
多大な功績を残された先生は、一九九三(平成五)年四月十三日に自坊の伯林寺にてご往生になりました。御年八十二歳のことです。

これからとこれまで

藤代先生が遺された法語の中で最も有名な言葉と言えば、これまでが これからを 決めるのではない。これからが これまでを 決めるのだ                         (『藤代首麿先生法語集』)
ではないかと思います。この言葉は仏教の世界だけではなく、学校教育の現場や一般社会の中でも広く紹介されて、今でも人々の心をとらえているようです。今月の法語にも通じる言葉なので、先ずこのことについて少し昧わってみたいと思います。

時の流れ

私たちは普段の生活の中で、時の流れを「未来」↓「現在」↓「過去」という時間の流れの中で受け止めています。そしてこのような時間感覚の中で、幼い子どもは「大きくなったら野球選手になりたい」などと未来に夢と希望を抱き、大人になると「老後のことが不安で」と未来を不安の種として生活をしています。常に未来がやって来て今となり、過去として流れ去っていき、一度過ぎ去った過去は立ち戻ることも変えることもできない事実として私の人生に足跡を残していくのです。しかし、少し視点を変えると「過去」↓「現在」↓「未来」へと時間が逆に流れている場合もあるのではないでしょうか。「あの時、あなたと出会ったから……」までは同じでも、「私はこんなに幸せな人生を歩んでいます。これから先もさっと……」と人生の行く先に光を見つめながら生きている人もあれば、それとは逆に、「ろくな人生じゃなかった。これから先が思いやられる」と未来を悲観的に生きている人もいます。この場合明暗は分かれていますが、両者とも過去を起点に今があり、未来に向かって時間か流れているという点では同じなのです。

諸行無常

お釈迦さまは、私のいのちとそれを支えている一切の世界のあり方を「諸行無常・諸法無我」、そして「縁起」という教えとして明らかにしてくださいました。その内容を簡潔に言えば、-この世のあらゆるもの(私も含めて)は千変万化しながら常に移り変わり続けていて、不変なものは何一つない。一瞬一瞬に変化しながら、ただその時の縁によって結びついている存在であるIということです。
先はどの時間ということに話を戻してみましょう。私たちはお釈迦さまから教えていただいた「諸行無常(移り変わり)」を「時の流れ」として捉えています。1赤ちゃんが生まれて成長して大人となり、やがて年老いて死んでいくIという一連の流れを、「変化し続けた」と受け取るのか、それとも「時が流れた」と受け取るかの違いです。ここで大切なのは、過去も現在も未来も「今を生きる私の中では同時に流れている(変化している)」ということです。もっと端的に言えば、過去とは-今の私の中にある記憶のことIであり、未来とはI今の私の中にある期待や不安のことなのです。ですから過去に起こった事実は変わらなくても、過去の意味は今の私の中でいくらでも変わっていきます。人間は出会った事実で生きているのではなく、その意味によって喜怒哀楽しているのですから、「今」を生きる私か「これから」の人生の本当の意味と喜びを見出し九時、私の「これまで」の意味も大きく変わってきます。大切なのは人生は常に今の連続なのだということです。

本願力にあひぬれば
功徳の宝海みちみちて
煩悩の濁水へだてなし

(『高僧和讃』、『註釈版聖典』五八〇頁)

本願のはたらきに出会ったものは、むなしく迷いの世界にとどまることがない。あらゆる功徳をそなえた名号は宝の海のように満ちわたり、濁った煩悩の水であっても何の分け隔てもない。

(『三帖和讃(現代語版)』七八頁)

親鸞聖人のお示しを大切にいただきたいと思います。

あること難き今日

アメリカの作家デールーカーネギー(一八八八-一九五五)は「人生とは今日一日のことである」と言っていますが、これは前述した「人生は今の連続である」と共通しか言葉だと思います。人生は今日の連続なのです。目が覚めたらいつも今日なのです。しかしここで大切なことは、「連続」と「繰り返し」は違うということです。
浄土真宗の僧侶で教育者でもあった東井義雄先生の次のような詩があります。

目がさめてみたら

目がさめてみたら
生きていた
死なずに
生きていた
生きるための
一切の努力をなげすてて

眠りこけていたわかしであったのに
目がさめてみたら
生きていた
劫初以来
一度もなかった
まっさらな朝のどまんなかに
生きていた

(『家にこころの灯を』二四三頁、探究社)

さて、藤代先生の「今日である あること難き 今日である」という法語には住職継承を祝してという添え書きがあります。ご自坊なのか他寺に出講された時のものなのかはわかりませんが、この短い言葉の中に先生の感慨深さ胸中が伝わっ
てくるようです。
お寺の住職が後継者に代を譲ることは、その寺が存続していくためには当然必要なことであり別に珍しい出来事でもありません。しかし継職ができるということは当たり前のことではないのです。今まで寺を護り続けてくださった方々の苦労とご恩を、これから寺を担う者が引き継いでいく。それは、よくぞ生まれ難き人間
に生まれ、如来の強縁に催され、寺を継ごうという心を育てられた。そして何よりもあること難きいのちがいま今日ここにある。そんな出来事なのです。何と不思議なご縁なのでしょうか。
ある日のこと、お釈迦さまはこれまで一度たりとも誰にも見せたことがない清らかなお姿で、目映い光を放ちながらお立ちになられていました。そのお姿を拝したお弟子の阿難維者は光の訳を問い讃歎します。

今日世尊、諸根悦予し、姿色清浄にして光顔巍々とましますこと、明浄なる鏡の影、表裏に暢るがごとし。威容顕曜にして超絶したまへること無量なり。
(『仏説無量寿経』、『註釈版聖典』八頁)
(世尊、今日は喜びに満ちあふれ、お姿も清らかで、そして輝かしいお顔がひときわ気高く見受けられます。まるでくもりのない鏡に映る姿が透きとおっているかのようでございます。そして、その神々しいお姿がこの上なく超えすぐれて輝いておいでになります。『浄土三部経(現代語版)』 コー~一三頁)

出世の本懐(お釈迦さまがこの世にお出ましになった目的)である『仏説無量寿経』が説かれようとしている今日という日。それは阿難尊者だけではなく、煩悩の苦海に浮き沈みする私たち一切の衆生にとって、今日という日に法が説かれるのではなく、法が説かれるために選び取られ、与えられた今日であったのです。私かいま生かされている今日という日は、本願に出遇い念仏申すために与えられた、まことに「あること難き今日」なのです。
(田中 信勝)

あとがき

親鸞聖人御誕生八百年・立教開宗七百五十年のご法要を迎えた一九七三(昭和四十八)年に、真宗教団連合の伝道活動の一つとして「法語カレンダー」は誕生しました。門信徒の方々が浄土真宗のご法義を喜び、お念仏を申す日々を送って
いただく縁となるようにという願いのもとに、ご住職方をけじめ各寺院のみなさまに頒布普及にご尽力をいただいたおかけで、現在では国内で発行されるカレンダーの代表的な位置を占めるようになりました。その結果、門信徒の方々の生活
の糧となる「こころのカレンダー」として、ご愛用いただいております。
それとともに、法語カレンダーの法語のこころを詳しく知りたい、法語について深く味わう手引き書が欲しいという、ご要望をたくさんお寄せいただきました。
本願寺出版社ではそのご要望にお応えして、一九八〇(昭和五十五)年版から、このカレンダーの法語法話集『月々のことば』を刊行し、年々ご好評をいただいております。今回で第四十二集をかぞえることになりました。
二〇ニー (令和三)年の「法語カレンダー」では、「宗祖親鸞聖人に遇う」というテーマを設け、これまでお念仏を称え人生を生きぬかれた、先師の言葉を選定いたしました。本書では、これらのご文についての法話や解説を四人の方に分
担執筆していただきました。繰り返し読んでいただき、み教えを味わっていただく法味愛楽の書としてお届けいたします。
本書をご縁として、カレンダーの法語を味わい、ご家族や周りの方々にお念仏のよろこびを伝える機縁としていただければ幸いです。また、各種研修会などのテキストとしても幅広くご活用ください。

二〇二〇(令和二)年八月
本願寺出版社

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2021年11月のことば 人間そのものの目ざめを 呼びかけているものが 如来の本願である

先生の生涯

今月のことばは、本願寺出版社の前身である本願寺出版協会編集の『浄土真宗を理解するために』に収められている、中西智海先生のお言葉です。この本は七名の先生方による共著となっていますが、中西先生のご担当は「第七章『本願』が問われるとき」という内容のものです。
先生は一九三四(昭和九)年に、富山県氷見市にある浄土真宗本願寺派西光寺にお生まれになりました。晩年、ご本人が自らの人生を回顧された言葉の中に、

若い頃の一時期は、仏教に疑問を抱いたこともありました。しかし、やはり生まれ育った環境が影響するのでしょうか、仏教という何か大きなものに包まれ安堵する気持ちと、子供の頃に自然の中で暮らし培われた感覚との間に共通性があったように感じます。さらに、仏に手を合わせる母の姿を見て育ったということも、この道に進む大きな影響力となったと思います。
(東京都中央区HPより)

と、自らが仏道に誘われたご縁を振り返っておられます。
先生は西光寺住職を務められる傍ら、本願寺派関係諸学校にて永年にわたり教鞭を執られ、真宗僧侶・同行の育成にご尽力をいただきました。またその間には、ブラジルにおいて南米開教区の開教総長として、海外における伝道教化にも貢献されています。その後も本願寺築地別院(現築地本願寺)の輪番、また勧学(真宗教学の最高学階)として、私たちに浄土真宗のみ教えを現代的な視点で説き明かし導いてくださいました。このように数多くのご功績を残された中西先生でしたが、二〇二一(平成二十四)年にご自坊である富山の西光寺において往生なさいました。御年満七十八歳のことでした。

人間の願い

さて、今月のことばについて味わってゆきましょう。
先生はこの本を通して、人間(私)の「本当の願い」とは何かについて読者に問いを投げかけられています。

   人間がほんとうに生きることが問われるとき、〈人はパンのみにて生きるにあらず〉という言葉を引用するまでもなく、人間そのもの、生きることのほんとうの意味、心の底のねがいを掘りあてねばならぬという人間の実存の問題に出
会わねばならぬ。(中略)たしかに生存・生活の問題は、表面的で、激しく、大きいものであろう。(中略)しかし玉きることの本当の意味は)見えないから無いのではなく、見えない根こそもっともよく知らねばならぬものである。
(『浄土真宗を理解するために』九六頁、括弧内筆者)

先生は、人間が生きる「願い」について二つの方向があることを示されています。
一つは生存・生活を向上させたいという願いです。
人はがれでもが、衣食住のすべてが整い、健康であり、地位や名誉が与えられることが、幸せの絶対的な条件であると信じながら生きています。いや、そのことが「生きることの目的」であるとさえ確信している人もいるのです。しかし本当にそのことが「生きることの目的」と言えるのでしょうか。
作家の太宰治は作品の中で、このような人間(自分)のあり方について主人公の言葉を通してその内心を露呈しています。

  人間は、めしを食べなければ死ぬから、そのために働いて、めしを食べなければならぬ。                  (『人回失格』 一三頁、角川文庫)

生きる目的

あなたは「なぜ働くのですか」と問われたならば、何と答えるでしょうか。きっと「働かなければ食べていけないから」というのが答えだと思います。では「なぜ食べなければならないのですか」と問われたらどうでしょうか。答えは決まっています。「食べなければ死んでしまうから」なのです。それでは最後に、「食べていたら死なないのですか」という質問に対してはどうでしょうか。その答えは一つしかありませんね。「いや食べていても、いつかは死なねばなりません」だけなのです。生きるために生きていると思っていた私は、実は死に向かって生きていたのです。
これが私のいのちの事実です。この事実が、理屈ではなく自らが受け止めなければならない現実となった時、今まで幸せの絶対条件であると信じ追い求めてきた、地位も名誉も財産も、すべてのものが砂で造った城のように儚く崩れ去っていきます。そして今まで生きていることを前提として求めていた「願いの根幹」が揺すぶ
られるのです。私は、いったい何のために生きているのでしょうか。
ここに、先生が示されるもう一つの人間の願いの方向が明らかになります。それは人間の実存に関わる願いです。つまり「私とは何か≒なぜ生きているのか」という問いであり、そのことを解決して生と死に惑うことのない「安らかで本当に豊かな人生を歩みたい」という、人間としての根源的な願いのことなのです。

人間としての目覚め

私か住む佐賀県内に「佐用姫伝説」という逸話が伝えられています。紙面の都合上、その内容をここでは紹介できませんが、この伝説の主人公である佐用姫という女性の巨像が、町おこしの一環として、出身地である厳木という町に建てられた時の話です。高さが十四メートルほどある真っ白な巨像が高台の上に建っているので、どこから見てもその姿は一目瞭然です。初めてその像を見た私は、早速友人にそのことを話しました。すると、その友人も最近その像を見たというのです。しかしどうも話が合いません。私か見た佐用姫は確かに北の方角を向いて立っていました。
しかし、友人は「いや西を向いている」と言い張るのです。少しムキになってきた二人は、じゃあ真相を(ツキリさせようと町役場に電話をしたのです。すると担当者曰く、「あの像は可動式で、二十分で一周するようなっております」とのこと。二人は唖然とした後、腹を抱えて大笑いをしました。
私は絶対的な自信がありました。友人も同じです。しかし真実は見えていなかったのです。自分は絶対に間違いがないという思いが真実を見る目を曇らせ、相手の言葉さえも疑心という刃でそのいのちを奪おうとしていたのです。親鸞聖人はこのような私のあり方を「無明の闇」を生きる愚かな姿なのだと厳しく諭されるのです。
これは人間の根源的な生死の問題についても同じです。深い迷いの中にありながら、そこが迷いの場所であることさえ知らずに、日常生活の中に幸せと快楽を求め続けながら生きています。自らのいのちの事実と真摯に向き合うことなく、死はいつも他人事なのです。

しかるに世の人、薄俗にしてともに不急の事を諍ふ。この劇悪極苦のなかにして、身の営務を勤めてもつてみづから給済す。
(『仏説無量寿経』、『註釈版聖典』五四頁)

ところが世間の人々はまことに浅はかであって、みな急がなくてもよいことを争いあっており、この激しい悪と苦の中であくせくと働き、それによってやっと生計を立てているに過ぎない。『浄土三部経(現代語版)』九五~九六頁)

まことにお釈迦さまの言葉が身に染みてきます。本当に急がなくてはならないことをなおざりにして、目の前の欲望を満たすことだけに、毎日をあくせくと働き続けているのが、私の姿なのです。

如来の本願

このような人間の姿を観見し、それは自らの罪業であると抱き悲しみ、私の苦悩の人生に無量の光といのちを恵み与えて、安らかで真実なる世界(浄土)へ迎え入れようと誓われたのが、如来の本願でした。無智なるがゆえに自らの人生を暗闇へと暗転させ、他人を傷つけ、そして己さえも傷つきながら無明の闇を迷い続ける私。そのことを私に知らしめ、救いの灯矩を掲げるために成就されたのが、本願の名号(念仏)だったのです。

如来の作願をたづぬれば

苦悩の有情をすてずして

回向を首としたまひて

大悲心をば成就せり

(『正像末和讃』、『註釈版聖典』六〇六頁)

阿弥陀仏が願いをおこされたおこころを尋ねてみると、苦しみ悩むあらゆるものを見捨てることができず、何よりも回向を第一として大いなる慈悲の心を成就されたのである。

(『三帖和讃(現代語版)』 一五二頁)

そこが迷いの世界であることさえ知らず、邪見と僑慢の苦海に浮き沈みする私に向かって「自らのあり方に目覚め、如来の本願を信じ、浄土を目的としてその人生を歩め。我が名を称えよ」と、阿弥陀如来はI南無阿弥陀仏1という名号となって、私にまことの生き方を示してくださいます。今月のことば「人間そのものの目ざめを呼びかけるものが如来の本願である」とは、今の私のあり方を問い、真実の生き方を示された言葉であることは言うまでもありません。
(田中 信勝)

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2021年10月のことば 老いが、病いが、死が、私の生を問いかけている

先生の生涯

今月のことばは、東本願寺出版部(現東本願寺出版)より出されている、同朋選書図『自分か自分になる』の中にある二階堂行邦(ゆきくに)先生のお言葉です。
二階堂先生は、一九三〇(昭和五)年に東京の真宗大谷派専福寺にてお生まれになられました。戦中、戦後と激動の時代を生き抜かれる間には、早世されたお父さまの後を継ぎ、二十三歳という若さで住職を譲り受けられました。それ以来、自坊教化と積極的な布教活動により、全国に多くの念仏者をお育ていただきました。
二〇一三平成二十五)年にご往生されるまでの八十三年という長い人生の中で、曽我量深、安田理深という真宗大谷派の学僧など、浄土真宗のみ教えに深い造詣を持った方々との出遇いが、自分の人生に大きな影響を与えてくださったと、晩年に自らの人生を回顧しておられます。

言葉の背景

さて、今月の法語は「老いが、病いが、死が、私の生を問いかけている」という言葉です。先ず、この言葉の真意をくみ取るために、その前後の流れを少しだけ紹介しておきたいと思います。『自分が自分になる』のこの章は、質問者に先生が応えるという、いわゆるインタビュー形式にて構成されています。
ここでの話題の中心は、浄土真宗における葬儀の意味です。身近な人の死を通して、私か何をどう受け取めるのかという問題です。インタビューの中で、先生は現在大きく変わりつつある、「看取り」の問題や「葬儀・納骨」のあり方について言及されます。人生最後の「看取り」という家族にとって極めて大切な作業が、医療技術の進歩と合理的な便利さの中で病院の仕事となったために、ほとんどの家庭から消えてしまったという事実。「葬儀」が「直葬」や「お別れ会」という名で合理化・簡略化され、「納骨」が「合葬」や「散骨」という名のもとに遺骨廃棄になり、その人の死が忘却の彼方に忘れ去られているという現状があります。
そのような問題を語られた後に次のようなお言葉があります。

  生・老・病・死という人生苦を、私だけの体験として固執し、私だけが災難に遭ったように考えてしまい、そこから自分の人生をすぐ結論づけてしまうのです。しかし、人生の体験は、結論を与えるものではなくして、むしろ人生体験の事実からその人の人生が問いかけられているのです。老いが、病いが、死が、私の生を問いかけているのです。「これでいいのか?」と。しかし、自分の合理主義的な思考では、その問いに答えられないのです。それで苦悩する。それが人間なんですね。                       (一六一頁)

葬儀の目的とは

先生は、人間の合理的な思考が自らを苦悩の存在にしていると申されていますが、合理的な思考とはどのような考え方なのでしょうか。因みに「合理的」を辞書で引いてみると、

①論理にかなっているさま。因習や迷信にとらわれないさま。
②目的に合っていて無駄のないさま

と、二つの意味が出て来ますが、この解釈に従って「葬儀」を当てはめてみれば、合理的な葬儀とは「因習や迷信にとらわれないで、目的に合った、シンプルで無駄のない葬式」ということになります。
私の住む地域では、平成の初め頃までは結構自宅葬が残っていました。そして葬列を組む時は(列といっても玄関から霊柩車までの短い距離ですが)、紙で作った「旗」「燈篭≒天蓋」という三つの葬具が必需品でした。それ以前、墓場まで棺を運んでいた時代はもっとたくさんの葬具が使われていたと聞いています。多分、各地各宗派で行われていた因習的な葬送の形式が、浄土真宗独自の形をもって習俗として当地に受け継がれてきたものだと思います。斎場(ホール)での葬儀が流行りだした当初までは、喪主から「故人は入院生活が長かったので、一度自宅に連れて帰り、せめて通夜は自宅で……」という声をよくいただいたものです。ですから葬送の列といっても、自宅の玄関から霊柩車までのほんのわずかな葬列の場合もありましたが、それでも隣保班(隣組)の人たちによって葬具は使われ続けていたのです。
旗には、『仏説無量寿経』「往致傷」より、

其仏本願力 聞名欲往生
皆悉到彼国 自致不退転
(『葬儀勤行集』四一~四二頁)

光明はひろくすべての世界を照らして、仏を念じる人々を残らずその中に摂め取り、お捨てになることがない
(『浄土三部経(現代語版)』 一八四頁)

の文が、燈篭には、『仏説観無量寿経』より、

光明偏照 十方世界
念仏衆生 摂取不捨
(『勤行聖典浄土三部経』二六二頁)

この仏の本願の力により、仏の名を聞いて往生を願うものは、残らずみなその国に往き、おのずから不退転の位に至る
(『浄土三部経(現代語版)』八〇頁

の文字を大きく書き入れます。

笹竹の先端だけに葉を残しか竹棒の先に、この旗(四本)と燈篭二対)、そして天蓋をつるして、葬送の列は進むのです。私の父が生前に、あの天蓋は「仏天蓋」だったとよく話していました。つまり、それは亡くなられた方のご遺体を「死体」としてではなく、その人を世の無常と念仏の確かさを知らしめてくださる「仏さま」として敬い、その仏さまに雨露がかがらぬように、棺桶の上に天蓋をかぎして歩いたのだというのです。 現在では、ほとんどの葬儀が葬儀社のホールで執り行われるようになり、葬送の列がなくなると同時に、いつの間にか三つの葬具も消えていってしまいました。夏は涼しく冬は暖かいホール。そしてロビーにはコーヒーまで準備が整い、すべてのことを業者の方が時間どおりに進めてくださる。まさに斎場は、楽で便利で非常に合理的な場所として遺族に提供されています。しかし、そこからは、先立つ人を「仏さまとして敬う」という心をほとんど感じ取ることができなくなってしまいました。
浄土真宗にとって、葬儀は「お別れ会」や「告別式」ではありません。身近な人の「死」を通して、今の私の「生(いのち)」と「生き方」が問われる場所なのです。

老と病から問われること

人は誰しもが、できることならば健康で若さを保ち、病むことなく、少しでも長生きをしたいと願いながら生きています。しかし人間が生身である以上、老いも病も絶対に避けることができない事実です。不老長寿という言葉がありますが、歳を取らず(不老)長生き(長寿)ができる人など一人もいないはずです。そもそも「若死に」と「長生き」に境界線はありません。法律上は前期高齢者や後期高齢者などという言葉がありますが、誕生日が来た途端に老人になるというのもおかしな話です。しかし、そんな曖昧な寿命の長短にとらわれ右往左往しているのが私たち人間なのです。
親鸞聖人のご和讃に次のようなものがあります。

南無阿弥陀仏をとなふれば
この世の利益きはもなし
流転輪廻のつみきえて
定業中夭のぞこりぬ
(『浄土和讃』、『註釈版聖典』五七四頁)

南無阿弥陀仏を称える身になると、この世で得る利益は果てしない。迷いの世界を生れ変り死に変りし続ける罪も消え、寿命に限りがあることや、その途中で死んでしまうという恐れも断ち切られる。
(『三帖和讃(現代語版)』五九頁)

「定業」とは人間の「寿命」のことです。また「中夭」とは「早死に」のことであり、「のぞこりぬ」とは「除かれる」という意味なのです。つまり、阿弥陀如来の至心を疑いなく受け入れ、お念仏申しながら浄土を目指して生きていく人の人生からは、「いつかは死ななければならない」という怖れや「早死にするのではないだろうか」という不安が取り除かれてしまうのだ、とお示しくださったのでした。
他人から「この歳まで生きたのだから大往生だよ」と言われるほどに長生さした人も、または「早かたね」と悔やまれる年齢でこの世を去った人も、その人のいのちの重さには何の違いもありません。大切なのは、この人生で真実に出遇い生死
の迷いを超え、仏恩を報ずる生き方に目覚め得たかということでしょう。

清浄光明ならびなし
遇斯光のゆゑなれば
一切の業繋ものぞこりぬ
畢竟依を帰命せよ

(『浄土和讃』、『註釈版聖典』五五七頁)

阿弥陀仏の清らかな光に並ぶものはない。この光に出会うことにより、迷いの世界につなぎとめる悪い行いも、その力がすべて失われる。究極のよりどころである畢竟依に帰命するがよい。
『三帖和讃(現代語版)』九頁)

日常の生活の中で、自分の思いどおりになるのが当たり前だと傲慢に生きている私に、老いが、病いが、死が、思いどおりにならない現実となって、「私とは何なのか、生きる喜びに出遇えたか、何を依りどころとして、どこに向かって生きているのか」と、私の「生」を問いかけてきます。
(田中 信勝)

 

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2021年9月のことば 如来の願心が 我一人に成就したのが 信心である

師の生涯

安田理深師は、一九〇〇(明治三十三)年に生まれられ、一九八二(昭和五十七)年にご往生されました。兵庫県美方の出身であり、明治から昭和時代にかけての真宗大谷派の学僧です。幼少期のキリスト教系への尊敬の念、十代なかばで発心しての参禅体験を通して禅の道に入門、戒名を受けられています。
一九一九(大正八)年に金子大祭師の『仏教概論』の著作に大きな影響を受けられ、九二四(大正十三)年に大谷大学に入学されました。そして金子大祭・曽我量深両師らが創立された学塾「興法学園」に参加、雑誌「興法」を主宰、一九三五(昭和十)年に私塾「相応学舎」を設立し、後進の指導にあたられました。その学問に対する真摯な姿勢は多くの門人に影響を与えておられます。

一心の中に成就された願心

ことに安田師の求道聞法における思想的深まりは、天親菩薩の『浄土論』『唯識三十頌』『十地経論』などの書を通じてであったといわれています。
冒頭のことばは、同師の著『正信偶講義』第二巻(法蔵館)の中で、「正信偶」本文の天親章、

  為度群生彰一 心             (『日常勤行聖典』二二頁)
(群生を度せんがために一心を彰す。『註釈版聖典』二〇五頁)

の一心について、願心と対応させて述べられたものです。そして、

  願心に感動すれば一心というものであり、一心の中に願心全体が成就されてある。願に感動すれば、感動しか一心に願全体が輝く。(中略)願心によって信心が成就し、信心によって願心を証明する。            (一三九頁)

という文が続いています。
願心とは、『仏説無量寿経』に説示される第十八願の心をあらわします。第十八願には、あらゆる衆生をわがさとりの浄土に往生させずにはおかないという法蔵菩薩の願いの全体が凝縮されています。そこには、菩薩の願と行の結果による智慧の完成(自利)と衆生の救済を実現する慈悲の成就(利他)とが一体のものとして誓われつつも、大乗菩薩の心が、「衆生病むが故に菩薩病むソ『法華義疏』)といわれるように、苦悩の衆生を自らの正覚に先んじて利益せんとする大悲の心としてあらわれています。
親鸞聖人は、われら衆生が往生する因は第十八願に誓われる三心(半心・信楽・欲生)であるが、その三心は智彗一(至心)・慈悲(欲生)の功徳が備わっている南無阿弥陀仏を信楽する一心において救いが極まることを、天親菩薩のご指南によって明らかにされました。
一心の「一」とは、三に対しての一、純一にして無二という意味ですが、疑いの雑じらないただ一つの心をいいます。ではその心がどうして衆生に起こるのかといえば、阿弥陀さまの願心の始終を聞くことによるとあらわされます。聞くとは、法蔵菩薩の誓いが起こされた動機や理由、そして誓いが実現されるまでのながい思惟や修行、そして誓いのとおりに完成された仏さまの名が、私たち一人ひとりに「われをたよりとせよ、必ず救う」と喚びかけお救いくださることに何ら疑いがないと聞くことです。ですから聞くことはそのまま信じることと同義になります。
安田師が「丁心の中に願心全体が成就されてある」といわれるのは、そのように衆生が仏さまの願心を聞信すること、つまり智慧と慈悲の功徳のありったけが信楽の一心にきわまり、そこで救いが成立するという真宗の要を述べられたものにほかなりません。「如来の願心が我一人に成就したのが一心である」という今月のことばには、このような背景をうかがうことができます。 親の慈愛はわが子に対してIすじであり、一方的であるといえるでしょう。いわばそれは切なる「片思い」とも表現できる心です。仏心が「同体の慈悲」といわれる由縁もそこにあります。
たとえば、手足の指先にトゲが刺さったりすれば、それがほんのわずかな一片にすぎないものであっても、その傷の痛みを無視したり放置したりすることはできないでしょう。なぜなら、どんな小さな傷の痛みも自分の身体の一部であるからです。
ひどい打撲ともなればなおさらのこと、とっさに手が無意識的に反応して傷んだところに飛んでいきます。それも「痛いっ」と叫ぶよりも手の動きの方が先にです。刺さったトゲは抜いて傷口を消毒したり、打ち身であれば湿布薬を貼ったりして処置しなければなりません。「同体」とはそのような心であって、必ずそこに行動が伴うのです。
仏さまにとっては、衆生の痛みはわが痛みであり、衆生のよろこびはわがよろこびであって、他人事という世界がありません。しかも救ったからといって見返りを求められることがなく、たとい背を向けられても、あきらめず辛抱強く衆生の目覚めを促されるのです。

動物や人間の慈愛

先般、テレビで「皇帝ペンギン」という映画を観賞しました。これはフランスが二〇〇五平成十七)年に、流氷に生きる唯一の生き物、皇帝ペンギンの生態を調査し、出産や育児の様子を中心に編集したドキュメンタリー映画です。
ペンギンたちは、マイナス四〇度という極寒の南極大陸の過酷な環境下で過ごします。そして繁殖期になれば、海辺からはるか百キロも離れた産卵スポットに向かって氷上行進を始めます。なぜなら、そこが敵の襲来を避けるための安全な場所となるからです。産卵場所にはペンギンたちは群れをなして集まり、やがてツガイたちの求愛と産卵、孵化から子の旅立ちまでが行われます。
その親ペンギンたちの苦難と試練のすがたは、まさに想像をはるかに超えるものでした。繁殖期にはペンギンはたった一個の卵しか生みません。極寒の氷上では五分も放置ずれば卵は凍って死んでしまいますから、父親ペンギンは氷上に落とさないように、慎重に体重を足の躍にかけながら、下腹部で抱卵し温めます。時折襲うブリザードにも足の動きを止めず、互いに身を寄せ合いながら耐え抜きます。
一方で、母親ペンギンは採餌のために氷上を歩き、元の海辺をめざします。そしてわが子のためにお腹いっぱい餌の蓄えをしてから、また同じ距離を歩いて戻るのです。その間父親ペンギンはブリザードに耐え、やがて孵化した赤ちゃんを下腹部で温めながら、母親ペンギンの帰りを待つのです。その期間は三週間以上、時には数力月に及ぶともいわれます。立ったままで眠り、自分も絶食状態が続く中を、最後の力をふりしぼって自らの体内脂肪をミルク状にして子に与えます。そして無事に母ペンギンが帰還すれば、今度は自分の生命維持のために、餌を求めてさらに氷上を海辺まで歩いて行くのです。
こうした途方もない試練の中で、子孫を残す生命ギリギリの営みが行われます。
もちろん皇帝ペンギンだけでなく、あまたの生命には子孫を残すための過酷な営為があることは事実です。しかしながら、こうしたペンギンの親たちの勇姿を前にすると、果たして人間の親としてはどうなのか、と自問自答せずにはおれません。人間もペンギンも子孫を存続させる本能は同じでも、渇愛という自己中心の欲望が人間の心には渦巻いています。親子関係の情愛も複雑で、今口でいう育児放棄が行われたり、親と子加愛欲と憎悪でいがみ合い傷つけ合って、悲しい結末を迎えてしまう、そんな罪悪性をかかえているのです。
この世に親がいない千は存在しません。そして子育てには多がれ少なかれ忍耐という試練がつきまといます。教育には待つ時間と耐える行動、そして受け入れる心がどうしても必要なのです。
私事で恐縮ですが、私の父は亡くなる前の十三年間は、脳梗塞の後遺症による失語症、身体の麻庫などに苦しみましたが、それまでと変わらない態度で家族やご門徒に接し、穏やかな姿、忍耐強い心で生きてくれました。また、母は重度の自宅介護の身となり、数年のベッド生活を余儀なくされましたが、ご恩に生きんという気概を周囲に感じさせながら生涯を過ごしました。
親と過ごした時間の中で、振り返ってみれば記憶はいたって断片的であり、結局は自分にはわからないことだらけだった気がします。親を苦しめてきた時間はどれほどであったかは想像もっきません。しかし私は罪深いままに間違いなく守られ、支えられ、生かされてきたのです。
自分自身が老いの時期を迎えつつある今、そうした両親への謝念は、帰すべきいのちのふる里、ともに会えるお浄土が疑えなくなったこと、そしてご恩を報じる人生の意味が明らかになったことへと、いよいよ深まっていることを実感しています。
この世の出会いも別れも、私にとっては弥陀大悲の確かさとだのもしさをいただくご縁なのです。

感動に潤う生活

『蓮如上人御一代記聞書』第二百四十二条には、

  思案の頂上と申すべきは、弥陀如来の五劫思惟の本願にすぎたることはなし。
この御思案の道理に同心せば、仏に成るべし。  (『註釈版聖典』 三一一一頁)

という言葉があります。
阿弥陀さまは、人生に苦悩する私たちを往生成仏させるために、人知を超えたながらご思案をめぐらせ、あらゆる叡智を結集し、想像を絶する修行の時を重ね、ついに南無阿弥陀仏の救いのみ名となられたのでした。その用意周到なご思案に心からうなずき、同心していくところに成仏の道がある、と蓮如上人は示されています。
人間はその情愛あるがゆえに、また煩悩による罪業性を持つがゆえに、親業の歴史をたすね、菩薩の願心を感得することができる宗教性を有しているのでしょう。
願いも頼みもしなかった私の上に、「どうか目覚めておくれ」と立ちづめ、喚びどおしのみ仏の願心に、ただ同心させていただくばかりです。
安田師は、

願心に感動すれば一心というものであり、一心の中に願心全体が成就されてある。
願に感動すれば、感動した一心に願全体が輝く。         (一三九頁)

と語られています。願心のきわまりが一心であるということ、それはひとえに他力によって信知せられたことではありますが、師ご自身にとっては禅や論書に学びつつ、真摯な哲学的思索によって確かめられた上での感動であったのだと思います。 願心に耳を傾け、心を凝らして、感動に潤う生活を心がけたいものです。
(貴島 信行)

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2021年8月のことば まあ、どこにおってもお慈悲の中だからのう

 

先生との出遇い

今月は山本佛骨(ぶっこつ)先生のことばです。これは「喜憂を超えた人-山本佛骨先生をしのぶI」(『花と詩と念仏』梯賓圓著)と題しか文中に出ているもので、原文には、

  御往生の少し前に、病院をたずねたとき、ちょうど病室を変えられた直後でしたが、「いつまでここにいるのか」とおっしゃいますので「お楽になられるまで、もうしばらく御辛棒ください」といったら、「まあ、どこにおってもお慈悲の中だからのう」とつぶやくようにいわれたのが、今もあざやかに思い出されます。
(二一八頁)

とあります。
山本先生は、一九一〇(明治四十三)年石川県に生まれ、一九三九(昭和十四)年から大阪の高槻にある行信教校に学ばれた後、大阪の定専坊住職となられます。そして龍谷大学教授、浄土真宗本願寺派の伝道院長に就任され、一九七六(昭和五十二年には勧学を拝命、安居本講師も務められました。一九九一(平成三)年にご往生されています。研究書には、『道棹教学の研究』『浄土教の教理史的研究』『観経散善義鐙仰』などがあり、講話集や法話集には、『合輯求道者の疑問』『山本仏骨法話集』第一巻・第二巻、『歎異抄のこころ』『火中の蓮華』『人生の眼と足』『無限への歩み』『現世利益の味わいと扱い方』など、数多くの著書があります。
じつは、私の龍谷大学大学院時代の指導教授が山本佛骨先生でした。私は同文学部在学中から伝道に関心を持っておりましたので、学者としては言うに及ばず、布教法に関しても高名な方でしたので、先生のゼミを志望しました。
私の在学当時は、「伝道」よりも「教化」という言い方が一般的で、伝道学に関する研究も少なく、私の記憶では大宮学舎開講で選択科目として「真宗伝道学」という一科目。があっただけでした。その科目を担当されていたのが山本先生でした。
先生は龍谷大学をご退職後、伝道院長に着任されますが、折りしも同時期に私も百日間にわたる住職課程の受講生として、伝道院に入寮しました。院長のご講義では、伝える力や法義伝達への情熱を実感いたしました。布教はどう話すかということよりも、まず教えをどういただいているかが根本的な問題であること。布教はうまく聴衆を感心させようとする技術の問題ではなくして、全生命、全人格があらわれるところに伝道者は心しなければならないこと。また「信仰は生命の対決」であるとよくおっしゃっておられました。
人はこれなくしては生きていくことも死んでいくこともできない、またこれがあればこそ生きていける、これがあればこそ死んでいける、という生死をかけたいのちの問題を解決しなければならない。それには厳しい聴聞をくぐって、蓮如上人が明らかにされた後生の一大事の解決を腹にすえなければならない。こうした言葉には、信仰と教学とが一体となった先生のバックボーンを知ることができました。
個人的には、在学中にご自坊にお邪魔して論文指導を受けたこと、その後ご無理を申して私どもの結婚式の媒酌人をお引き受けいただいたこと、そして学問にたいする厳しさのみならず、法味あふれる語り口でやさしくご教導いただいたことなど、折々のことが今も懐かしく思い出されます。

三業相続の日暮らし

さて、私的なことばかり述べてしまいましたが、今月のことばには先生の信仰体験から溶み出る他力救済の妙味が感じられます。
浄土真宗の救いは「摂取不捨の利益」(『歎異抄』第一条、『註釈版聖典』八三一頁)といわれています。それは苦悩の衆生を必ずおさめ、まもり、すくうという阿弥陀さまの大慈大悲のみ心のことです。「慈」(サンスクリット語ではマイトリ士とは最高の友愛の情をもって、惜しみなく楽を与えようとする心であり、「悲」(同じくカルナ士とは苦しみや悲しみに同感して、苦を取り除こうとする心です。その心はI切のとらわれを離れた絶対平等の心を意味しますから、凡夫の慈悲(小悲)や聖者の慈悲(中悲)をはるかに超えています。
この「摂取不捨」の言葉は、『仏説観無量寿経』の定善、第九真身観に、

  念仏衆生摂取不捨           (『勤行聖典 浄土三部経』二六二頁)

(念仏の衆生を摂取して捨てたまはず。『註釈版聖典』 一〇二頁)

とある文によっています。善導大師は、この文言について『観経疏』「定善義」に「親縁釈」という釈義を設けられています。そこでは、

いろいろの行をよく修めて、それを往生の因に向けるならば、みな往生できる。
どうして阿弥陀仏の光はあまねく照らされるのに、ただ念仏のもののみを摂められるのは、どういう意味があるのか。
という問いを出し、それに答えて、

  衆生が行をおこして、口に常に名号を称えるならば、仏はすなわちこれを聞きたもう。身に常に仏を礼敬すれば仏はすなわちこれを見たもう。心に常に仏を念ずれば仏はすなわちこれを知りたもう。衆生が仏を憶念相続するならば、仏
もまた衆生を憶念せられる。かの阿弥陀如来の三業(聞・見・知)とこの衆生の三業(称・礼・念)とがたがいに離れないから親縁と名づける。

と示されています。
つまり、私か仏さまを敬い礼拝するならば、仏さまはそれを見ておいでになる。
お念仏を称えれば、仏さまはそれを聞いてくださっている。仏さまを念ずれば、仏さまは知ってくださっている。こちらからは見えずとも、気かっかずとも、仏さまは必ず見ていてくださり、聞いていてくださり、知っていてくださる。そんな訳で、仏さまと念仏の行者とは親しい関係で結ばれており、けっして離れることがないといわれるのです。したがって、念仏者は大悲心に安んじて二二業(身・口・意)相続の日暮らしをさせていただくいわれがあると教えられるのです。

仏さまからのメッセージ

そう言えば、真宗門徒の家庭では、子育てする折々に、「ほとけさまが見てはるよ、聞いてはるよ、知ってはるよ」などと、仏さまからのメッセージを伝えてきたと聞いています。私もその教育を受けた一人ですが、祖父母やご両親からそうした言葉がけをしてもらった記憶をお持ちの方も多いと思います。
以前、孫娘が保育園に通いはじめた頃だったでしょうか。居間で親子が顔を近づけて何やら話していた様子でしたが、急に「おかあさんの目のなかにサキちゃんがいる」と大声をあげたことがありました。「どこに、何か、見えるの」と母親が尋ねますと、孫娘は同じ言葉を繰り返していました。どうやら、お母さんの両眼の中に映るまるごとの自分を発見して、おどろいた様子でした。その光景を見ていた私は、まなざしがわが子にまっすぐ向けられるとき、子の姿全体を映し、心の内に摂めてしまう母なる眼力に脱帽せざるをえませんでした。

  まなざしに
とける
とければ
わかし なし
ない わかしに
はなし なし
ただ
まなざしに
とける
とけて
あなたに なる

(『そよ風のなかの念佛』三〇頁、百華苑)

これは中川静村氏の「まなざし」という詩です。
清らかでまっすぐなまなざしに出遇えば、そこに信頼が生まれます。そして信頼が醸成されれば、言葉も必要がなくなって、見ている私自身のとらわれも消えていきます。み仏のまなざしはそのようにして、私たちの汚れた煩悩の心を浄化し、真向きになって信頼と安心を届けてくださっているのです。
ある先生は、「仏さまって何だ」と言って、子どもたちにおヘソの話をされたといいます。「みんなにおヘソがあるのは、それぞれが自分勝手に生きてきたからではないんだ。命を全部もらってきた、いただいてきてるんだ。だからおヘソがあるということは、私か死ぬまでお母さんに頭があがらないということなんだよ」と先生は語られたそうです。
身体の中心におヘソがあるという事実から私たちは逃げることができないのでしょう。先生の意図が伝わったのかどうかは別にして、その後子どもたちが自分のおヘソをジツと眺めている情景が目に浮かぶようです。そして子どもたちはいつしか大人になり、親となり、先生の「おヘソの話」を思い出し、頭のあがらない世界があることに気づく日がきっとやってくるにちがいありません。
阿弥陀さまの広大な慈悲心には、端っこ、隅っこという尺度がありません。それはたとえば球の上に位置しているすべての点はどこをおさえても中心を指し示すようなもので、私をいつも真ん中に据えて支えてくださっているのです。この私を救いのめあてとされる摂取不捨の救いとは、いわば誰一人として置き去りにしたり放置したりしない、決して見捨てることがない心なのです。

摂取不捨の利益にあずかって

梯賓圓先生は、冒頭の山本佛骨先生のことばを受けて、病院にいようと、自宅に帰ろうと、生きようと、死のうと、お慈悲の中だという、この一言に、摂取不捨の利益にあずかって生きる念仏の行者のすがたが言いつくされています。
先生の最初の著書は『喜憂を超えて』でしたが、その題名こそ、先生の全生涯を象徴していたといえましょう。              (二一八頁)

と結んでおられます。
老いの時も若さ時も、善人の時も悪人の時も、この身このままで救われていくというご利益が念仏の行者には備わっています。ですからいつどのような死の迎え方をしても、それは何ら往生のさわりとはなりません。
私たちはただ「まかせよ、必ずすくう」と喚んでくださるみ仏の仰せにすべてをゆだね、大慈大悲をもってもろびとを利益する安楽浄土をめざすのです。
(貴島 信行)

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2021年7月のことば 人間は我を知らず 我ほど 知り難いものはないのである

師の生涯と著作

高光大船師は、文献(『近代真宗史論上局光大船の生涯と思想-』水島見一著、法蔵館、以下参照)によれば、一八七九(明治十二)年に石川県で五百年続いた旧家、高木家の四男として誕生。真宗大谷派専称寺に入寺され、九歳で得度、その後、三代目の住職に就任されます。一九〇一(明治三十四)年に真宗大学予科、そして本科入学(日露戦争勃発)、二十八歳で卒業されます。
この頃に、自らの聞法求道の歩みに決定的な影響を与えた、「自己とは何ぞや、これ人生の根本的問題なり」を基軸とした精神主義を主張する、清滓満之師の『我が信念』「絶対他力の大道」の文と出会い、以後清滓師の門人として私淑、さらには精神主義を継承する暁烏敏、曽我量深両師との出会いの中で、曽我量深師をわが師と仰いでいかれます。
清沢派には歴史派(山辺・赤沼)、観念派(曽我・金子)、人生派(暁烏・高光)があるといかれますが、法兄と慕った暁烏敏師や法友の藤原鉄乗師と高光大船師の三名は「加賀の三羽烏」と称されました。中でも高光師の「信に教学なし」という言葉は、自らの思想を象徴するものでした。仏法は客観的に頭で聞いて理解するものでなく、苦悩の身が聞き、聞いた身が深く頷くところにあるのであって、真の仏法とは体得すること、信心獲得なくしては真宗だりえない。信心は単にお話ではなく生活の中に実行し、「生活と信心が一枚となっている仏教二話がその人と一つになっている生きた仏教」でなければならないとして、煩瓊な論議や釈義で飾る説明を嫌われた、といわれています。
一九〇八(明治四十コ年には教誇師となり、二十七歳に説教を開始され、やがて全国で講演や布教活動を展開して多くの支持を得られました。ただ当初は、ご門徒や村人にはその信仰は異端であり、不信の者として責められ迫害を受けた時期があったようで、本当の仏教を知らずして説教をする資格などないと、自分自身に苦悩されたといいます。しかし「異安心者」と排撃され非難されることがあっても、村人との信頼の成就を願いながら、一寺院の住職として歩まれました。ご子息によれば、体格も大きく飾り気のないその姿から、迫力をもって全身で説法されたようで、「仏教という名に於いてメシが食えなかったら死んでもいい」「いのち懸けの話をしている」と言い放つたといわれます。
信仰活動では、「精神界」に多くの論考を発表。雑誌『旅人』『氾濫』、個人誌『直道』『太原』の創刊。また真人社運動、同朋会運動の礎も築かれました。著書は、戦前の三部作といわれる『生死を超える道』『帰命の生活』『新時代の浄土教』のほか、『時代の目足』『白日抄』など、多数にのぼっています。

仏教にはアイがない

さて、著者の紹介が少し長くなりましたが、冒頭の言葉は二〇〇〇(平成十二)年に高光師五十回忌を期して出版された著書『高光大船の世界 道ここに在り』

(東本願寺人は我を知らず、自已に迷っている。しかも一日として我を上張しない日もなく、我を張らない時もないのである。それほど人間は我を知らず、我ほど知り難いものはないのである。されば世の中の人々の主張ほど優いものほかいばど、
人々は我を知らず自己を知らず迷っているのである。       (二〇頁)

とあります。
私たちは自分の眼で自分の実像を把握することができません。。見ているところも実に狭い範囲でしかありません、しかも他人に対しては悪しきところはよく見えますし、反対に自分の悪しきところは見えない、というあり方をしています。善いの悪いの、損だ得だのとノ目分の心の尺度を基準にして固執します。
好きなことには夢中になってしまうのと同様に、欲や怒り、嫉妬や恨みなどにも没頭し、煩悩一色に陥ってしまうという愚かさも持ち合わせています。人間は本来自分自身については無知であり、自分かいったい何者であるかがよくわかっておりません。自分の外側に立って冷静に見定める確かな眼を持つことができず、どうしても見ている自分自身から抜け出すことができないのです。
かつて、ある学会の夕食懇親会の席で、同じテーブルにおられた某大学教授の先生から、バッジ(スーツの片襟にピン止めして使用する金属製メダル)をプレゼントしてもらったことがありました。その時先生は、「皆さんこれをジャケットに付けて仏教をひろめてくださいね。仏教にはアイがないですから」と言われました。私はおっしゃった意味がよくわからず、〔「アイ」とは「愛」のことなのかなあ?〕などと怪訝に思いながら、手に取って見れば、そこには銀色の表面に白字で「there is ni i in buddha」と彫り込まれた文字があり、それを読んでなるほどと納得できたのでした。
仏教ではあらゆる事物は因と縁によって生じるものであり、不変の実体としての「我」は存在しないと説いています。これが「諸法無我」の道理です。ですから、自我を肯定する西洋的スタンスとは違って、英文法で讐えれば主語がない、いわゆる「i」がない、ということになるわけです。

後日、軽い気持ちでバッジを付けて外出したところ、「それ、なんて書いてあるんですか」と尋ねられたことが何度かあり、「現代人に対する仏教からの問いかけとして、私自身は受けとめています」と伝えました。時には無我の教えや大乗仏教の自利利他の精神について、また世の中の「自分ファースト」の風潮や、「今だけ、金だけ、自分だけ」といった経済至上主義への偏りについてなどさまざまに話題が及ぶことがありました。こうしたさりげない工夫がもたらす伝道の効用について、再認識させていただくご縁となっています。

辞書によれば、世間とは「世」が遷流、破壊、覆真の義、「間」は中の意とあり、世の中の現象は定まりがなく、移ろい壊れゆく存在であり、真実がない、と説明されています。

先に挙げた『高光大船の世界 道ここに在り』の文には、「我ほど知りがたいものはない」「世の中の人々の主張ほど侈いものはない」とあります。
「世の中≒人々」とは他の誰かではなく、他人や世の中の出来事をつい自分ぬきで

評論し、「我」「他」「彼」「此」と分けへだてをし、とらわれの生活を繰り返す私自身のことです。自分のものさしに固執するあまり、自分勝手な言動が表出し、相手を損ない、傷つけてしまうのです。こうした自己・他者・事物に対して執着するという、やっかいな自分自身にいったいどう向き合い、対処すればよいのか。まさに煩悩渦巻く世俗に生きる凡庸な人間にとっては至難のことといわねばなりません。
仏教では教法を聞信し、さとりの智慧をこの身に獲得することをめざします。智慧とは事物の実相を見通す明晰な視野、ありのままを知る心のはたらきをいいます。
智慧は光明であり、煩悩の心を内側から照らし出し、対立や争いによって生じる迷いや苦しみ、その愚かさへの目覚めを促すのです。そして目覚めによって、自分中心の凝り固まったものの見方が破られ、とらわれの縄から少しずつ解き放たれていくことになります。

妙好人源左

『親なればこそ』と考えなされや、そがすりや有難いがのう」と言い、「悪いことは我にこそ付けりや、お慈悲に傷がつかんけえなあ」とも返答されたということです。
「堪忍してくださるお方」とは、直接的には阿弥陀さまのことをさしています。源左さんは、いつも「親様」と慕うみ仏がお助けくださるから「こそ」であり、「お慈悲」に許され包まれていれば「こそ」とよろこばれたのでした。ですから、「われ」が堪忍している、耐えて辛抱しているのだ、という我情が折れてしまって、そこに相手の辛抱がかえって知られるという心の転換がなされているのです。
「有難う御座んす」とは常の言葉でしたが、相手の気持ちや立場に思いを寄せるこうした心の視野は、ひとえに仏法聴聞の積み重ねによって培われたものであったといえましょう。

おごりからご恩への転換

かく私たちの無知の闇、煩悩の妄念妄執を打ち破ってくださるはたらきが仏さまの光明です。阿弥陀さまの智慧は我見を砕き、自己に執着する縄を解き放ち、やがて苦から楽へ、おごりからご恩へと、人間精神の高みに導いてくださいます。執着のつよい私たちにとっては、生涯無我の境地に至ることはありえないことですが、教法に遇うことで凝り固まった心を解きほぐし、衆縁に生かされている身を体感しつつ、心和らぐ生き方をめざすのです。
高光師は、

  夜明けの前は闇にきまつて居る。闇に先立つ夜明けはないことである。人生に  迷はぬ限り人生の闇は知る限りでなからう。  (「信に教学なし」『真人』二号)

といわれ、自身の名利や僑慢の心に涙されました。そして自らの罪業を「暗愚無才な性分」と表現し、

  掃いた畳はきれいになったようだけれど打叩けば埃はむくむくと立上るやうに  久遠の自性が煩悩           (『精神界』 一九一三〔大正二〕年一月)

と告白されています。人間の奥底に潜んでいる偽善を見抜く眼力の鋭さは一流だった、といわれています。
明るさ来たって闇が去るという理かあるように、

  仏に逢ふたら人間闇黒の無能を自覚し、其無能者に神力自在の躊躇なき光明生活を発見せしめられるこそ仏教生活である。  (「信に教学なし」『真人』二号)

と示されたのでした。
ご往生は一九五一(昭和二十六)年九月、七十三歳のご生涯でした。
(貴島 信行)

カテゴリー: 法語カレンダー解説 | 2021年7月のことば 人間は我を知らず 我ほど 知り難いものはないのである はコメントを受け付けていません