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11月6日、ポカポカ陽気のこの日、当山 青蓮仏教若婦人会 秋の研修会を開催いたしました。 お勤めの後、ご法活を聴聞し、お楽しみ会としてフラワーアレンジメントを学びました。 昨年までは生花を使っていましたが、 … 続きを読む
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11月6日、ポカポカ陽気のこの日、当山 青蓮仏教若婦人会 秋の研修会を開催いたしました。 お勤めの後、ご法活を聴聞し、お楽しみ会としてフラワーアレンジメントを学びました。 昨年までは生花を使っていましたが、 … 続きを読む
あるがまま
秋の深まりとともに、見事に色づいた葉っぱが自然のままにパラパラと散っていく姿は、いろんなことを問いかけ教えてくれます。
はからいを超えた自然そのものであり、あるがままのすばらしさでしょう。葉っぱも春に芽吹いて、夏には青々と繁り、そして季節とともに色を変えながら、最後は散っていくのです。私も間違いなく、いのち終わっていかなくてはならないのですが、葉っぱのようにパラパラとはいきそうもありません。握りしめて放したくないものばかりです。若さを握りしめ、健康を、家族を、財産を、地位を、名誉をというように、挙げたらきりがありません。何よりいのちそのものを握りしめているのですから。ありのままに散っていく葉っぱは、「あなたは何を握りしめているのか」と問いかけます。
現代の私たちの生活は、ますます窮屈で生きにくくなるばかりです。頼りになるのは自分だけだと、脇目もふらず、財や地位を手に入れようと必死で働いています。その頼りであるはずのわが身が突然の病に倒れたり、そうでなくても衰え病んでいくのです。まったくあてにならないものを頼りにし握りしめて、その挙げ句に、こんなはずではなかったと涙を流し苦悩しているのが、私たちのあり方にほかなりません。さらに悲しいことには、あてにならないとわかっていても、あてにせずにおれないのです。
しかし、そんな何でも私が私がと力んで、私の確かさを根拠にしようとする生き方から解放されている人がおられます。こんな私をそのまま受けとめ、何があろうともしっかりと支えずにはおかないという大いなる願いのなかに、自在に生きる道があるのだと教えてくださっているのが、妙好人(みょうこうにん)と呼ばれた人びとです。
妙好人才市さん
今月は、そんな妙好人としてよく知られている浅原才市(さいち)さんの言葉です。才市さんは、嘉永三(一八五〇)年に島根県温泉津町(現大田市)小浜に生まれ、若い頃は船大工として働き、五十五歳の頃から下駄職人として生計をたてていました。若い頃から聴聞を重ねたようで、南無阿弥陀仏のこころをどこまでも聞きぬいたに違いありません。六十四歳の頃から、ご法義の味わいを自ら「口あい」と呼ぶ歌にして、ノートに書き残し始めています。下駄作りのかたわら、心に浮かんだことを仕事中はかんな屑などに書き留め、夜になってからノートに書き写したものです。そして、昭和七(一九三二)年に八十三歳で浄土往生を遂げるまでの約二十年間に、いまわかっているものだけで、六千首もの法悦(ほうえつ)の歌を残しています。
これら才市さんの多くの歌に満ちあふれているのは、「南無阿弥陀仏」にほかなりません。その歌のほとんどは、「南無阿弥陀仏」か「ご恩うれしや 南無阿弥陀仏」で結ばれています。それは、才市さんが称えるよろこびあふれるお念仏であることは言うまでもありませんが、南無阿弥陀仏そのものが才市さんの上にいきいきとはたらいている躍動感あふれる姿と言えるでしょう。
才市さんは、いま現にこのわが身に届いてはたらきつつあるもの、わが身を揺り動かし目覚めしめつつあるものを、南無阿弥陀仏といただいたのです。それは私からのアプローチではなく、徹底して仏さまの側からのはたらきかけです。私が理解したから、私がつかんでいるから、私が思っているから、ということではありません。それはみな私が前提となっています。いつの間にか、私を確かなものとしているのです。
才市さんは、南無阿弥陀仏の確かさを聞きぬきました。私が理解したから間違いがないと、私を確かさの根拠にするのではなく、不確かな私を救わずにおれないという南無阿弥陀仏の救いにおまかせしたのです。
才市さんの数多い「口あい」のなかから、少しその味わいをうかがってみましょう。
あなた わかしを どうしてすくう
わたしゃ ひとつも 合点がいらぬ
合点がいらずば その機のままよ
ご恩うれしや 南無阿弥陀仏『ご恩うれしゃ』二二頁)
阿弥陀さまを「あなた」と呼んで、二人だけの対話を楽しんでいるような歌です。
こんな私をどのようにして救うのか、私の理屈で理解したから救われるとか、救われないとか、そんな私の理解(合点)などとっくに超えているのが、この南無阿弥陀仏の救いです。どこまでもあてにならない、わが身やわが心を当てにして苦悩している私(その機)を、そのまま救うというお慈悲がありがたくて、よろこばずにおれないのです。
忘れても
あらためて今月の言葉である才市さんの歌をみてみましょう。
忘れても 慈悲に照らされ 南無阿弥陀仏
私が阿弥陀さまのお慈悲を思っている時間など、たかが知れています。思い起こすどころか、忘れっぱなしです。思い出しても、すぐに忘れてしまいます。私はいつでも煩悩の虜になって、欲にまみれ、腹立ち、自分中心の愚かさで一杯です。恥ずかしいけれど、私から出てくるのはこれしかありません。阿弥陀さまが先にはたらきだして、こんな私が照らし出され、教えられて、私が忘れても、忘れられないとはたらき続ける親さまがすでに私の声となって、南無阿弥陀仏と名告(なの)りをあげていてくだざるのです。
この才市さんの心を、もう少しつぶさにうたった歌があります。
南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏
忘れて暮らす わたくしに
南無阿弥陀仏が さきにでて
思い出すのは いつでもあとよ
わたしゃつまらん(だめだ) あとばかり
わしのこころが さきならだめよ
おやのお慈悲が さきにある
おやのお慈悲は さきばかり
わしの返事は あとばかり
ご恩うれしや 南無阿弥陀仏(『ご恩うれしや』一五九頁)
いつも先に出てくださるお念仏。自分のことで精一杯、自分の都合ばかりで、右往左往している私を揺り動かし、呼び覚ましてくださるお念仏。どこまでも、この私を照らして止まないはたらきなのです。そのはたらきが私の声となり、響きとなっているのがお念仏ですから、才市さんは私が称えるのではないと歌っています。
名号(を) わしが称えるじゃない
わしにひびいて 南無阿弥陀仏(『同』一五一頁)
それは、私の全身に満ち満ちていてくださるはたらきですから、仏さまが称えてくださるお念仏だとよろこんでいます。あるいは、この私が仏さまに拝まれていることがお念仏であると、受けとめているのです。
さいちがほとけを 拝むじゃない
さいちがばとけに 拝まれること
南無阿弥陀仏(『同』六〇頁)
摂取不捨のはたらき
いつも仏さまのはたらきが先にあります。その仏さまのはたらきであるお慈悲のなかにあることの実感を歌ったものがあります。
如来さん あなたのお慈悲は
摂取不捨の お慈悲でありまするな
ありがたいな
南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏(『ご恩うれしや』 二六六頁)
ここでは、お慈悲につつまれていることを、こんな私を摂めとって捨てないという、はたらきのなかに生かされているという実感をもって、そのよろこびで表しています。阿弥陀仏とは、そういうはたらきそのものなのです。
親鸞聖人は、ご和讃の左訓に「摂取」ということをわかりやすく説明して、
摂(おさ)めとる。ひとたびとりて永く捨てぬなり。摂(せつ)はものの逃ぐるを追はへとるなり。
摂はをさめとる、取は迎へとる(『註釈版聖典』五七一~五七二百・脚註)
と示されています。
阿弥陀さまのお慈悲は、いかなるものでもすべて拒まず受け入れるために、じっと待っているというような受け身ではなく、どこまでも追いかけてつかまえるという、じっとしておれない積極的な能動態のはたらきであると言えるでしょう。
捨てないとは、本当にそのものを生かそうとする積極的な意味があります。私が私のまま生き抜いていくことのできる道が開かれていることです。
念仏は
さいちが ほとけに とられた
ぶつの念仏
南無阿弥陀仏(『ご恩うれしや』 一六○頁)
「仏にとられた」とは、南無阿弥陀仏が私にはいり込んできたのです。気づいてみれば、摂取不捨のお慈悲のはたらきの真っただ中にあったのです。私たちは、そのはたらきのなかにありながら気づくことなく、相変わらず、私が私がと、私からのアプローチに終始しているのです。「わしの心が先ならだめよ」と、才市さんは教えています。不確かな私の心を、そして私の身体をあてにして苦しんでいる私の姿に気づかせてくださるのです。
わたしや こまったことがある
どこをむいても 向き場がないよ
あしをぬべて すまんことであります(『ご恩うれしや』六〇頁)
才市さんの姿が思い浮かぶようです。どこにいても、どこを向いても、如来さんのはたらきのなか、もうすでにここにきてくださっているのです。
如来さんは
ひとつも 寝やしなさらんがの
ご恩うれしや 南無阿弥陀仏(『同』六一頁)
こっちが忘れても、こっちが寝ていても、忘れられない、寝てはおれないはたらきどおしのお慈悲のただ中にいるのです。才市さんが出遇った「如来さんのお慈悲」に、私たちも出遇わせていただきたいものです。
(才市さんの歌で、一部平仮名は漢字に書き改めております)
(後藤明信)
『仏説無量寿経』に、世の人のあり方を「薄俗(はくぞく)」という言葉で示してあることを思いおこします。
しかるに世の人、薄俗にしてともに不急の事を諍(あらそ)ふ。(中略)〔欲〕心のために走り使はれて、安き時あることなし。
(『註釈版聖典』五四頁)
私たちは、せっかく人という深いいのちをいただいたのに、うわべだけの薄っぺらな生き方に終始しているのではないでしょうか。真なるものに触れることがないと、そうでないものを真であるかのように思い込んでしまいます。本当に出遇うべきものを見失って、目先のことにとらわれて、血眼になって争って過ぎていきます。欲張りの心のために、この身が走り回らされて、安らかな時のないままに終わっていくのです。
まさに現代は、「欲心のために走り回らされて」いる時代と言っていいでしょう。
そして、この肥大化した欲望、飽くなき利益の追求が引き起こしたものが、原子力発電所の事故だったのではないでしょうか。取り返しのつかないことになってしまいました。私たち人間の愚かさ、傲慢さを思わずにおれません。
確かに、電気がないと、現代の生活は成りたたなくなってしまいました。便利で快適な生活を象徴するものが電気と言えるでしょう。夜の地球を衛星から撮った写真を見て驚きました。小さな日本列島が、どこよりも明るく光っているのです。こんなにも電気を使わなければならないのだろうか。日本に住んでいると、いつの間にかそれが当たり前になってしまいます。
普段何気なく使っている電気が、いのちを脅かす危険きわまりないものの上に成り立っていたことに気づきませんでした。目に見えない放射能の脅威と、最終的に処理することのできない核廃棄物を、何世代も先の子孫にまで押し付けてしまう無責任さを思うと、このまま、このような生活を続けていいのだろうかと考えざるをえません。
この大震災を機に考え直さなければならないのは、あまりにも経済優先で突っ走ってきたこの社会にあって、一人ひとりのいのちを何よりも優先し大事にするとはどういうことだったのか、ということではなかったでしょうか。
人智と仏智
今月の言葉は、浅田正作さんの念仏詩集『骨道を行く』のなかの「人智(じんち)」と題されているものです。仏さまの智慧、仏智に対して、人間の智恵ということでしょうか。仏智は、とらわれを離れ、すべてをありのままに知り徹(とお)した智慧です。それは、いかなるものも分けることがありません。分けることがありませんから、対立も争いも生まれません。すべてがひとつであると、如実に見抜く智慧です。人間の智は、自分にとって都合の良いもの悪いもの、好きなもの嫌いなものとを分けて、執着します。そこに対立が生まれ、けんかもします。智恵の限りをつくして人を非難し、戦争までするのです。仏智は、すべてがひとつに融け合う智ですから、そのままが、本来のあるべき有りように背き、私という小さな殻のなかに閉じこもって生きる者を気づかしめ、本来のあり方へ導き救いとらずにおかないという、はたらきそのものです。
便利な世の中が困ったことと思えないのが、人間の智恵なのでしょう。便利になって良かったとよろこぶばかりで、それが将来どのようなことになっていくのかさえわかりません。現に、人間の智恵を尽くして過去に作り出した化学物質が、人間も含めた地球環境に及ぼす悪影響は、はかり知れません。それが困ったことという認識さえないというのが、人智の愚かさでしょう。また便利という言葉は、どこまでもいまを生きる人間にとって都合が良いように見えるということでしかなかったのです。現代の私たちは便利で快適な生活を追求するあまり、自分たち人間の都合のみを優先して、後の世代の人びとや、あらゆる生きもの、地球のことを省みなかったのではないでしょうか。
いのちの本来のあり方を見失わせ、困ったことであったと気づかせてくださるものこそ仏智であり、南無阿弥陀仏のはたらきそのものなのです。人間はどこまでも自己肯定(自分か間違っているとは思わない)するものです。それを打ち破るものに出遇わないと、気が付かないまま一生を過ごし、破滅するまで突き進む世の中になってしまいます。それを打ち破ろうとするのが、仏の智慧(真実そのもののはたらき)と言えるでしょう。
当たり前という闇
便利で快適な生活を求め続けてきたのが、人間の歴史と言えるのかも知れません。
夢でしかなかったことが一つひとつ現実のものとなり、あくなき追求の果てに、現代の生活があります。リモコン一つで、テレビ、エアコンから明かりの調節まで簡単にできます。また以前は、身体を動かして時間をかけなければできなかったことが、スイッチ一つでできるようになりました。ある意味、怠惰な時代と言えるのではないでしょうか。それこそ、忙しい忙しいと働きまわっていて、怠けているという認識はないでしょう。でも、私たちが身を置いているこの時代そのものが、怠惰なのです。身体は使わないで、結果だけは良いものを手に入れたい。汗水流すことなく、楽で快適な生活をしたい。こんな思いが蔓延している時代ではないでしょうか。本当は時間をかけ、手間ひまかけて初めてできるようなことなのに、それができていることがいつの間にか当たり前になってしまいました。
浅田さんの念仏詩集には、お念仏とともにあふれ出る多くの詩が収められています。
そのなかから、「当たり前が」と題されたものを紹介してみます。
当たり前が拝める
当たり前が
当たり前でなかったと当たり前が拝めるとき
どうにも始末のつかん
わが身から
ひまもらえる(『骨道を行く』四七頁)
いままで当たり前とも何とも思わずに過ごしてきたことが、何かをきっかけに、これは当たり前ではなかったのではないかと、気づかされることがあります。本当はよろこぶべきことであり、感動すべきこと、感謝すべきことではなかったのか。でも、ありがたいとも何とも思わないまま過ごしてきた。そういうなかで、「始末のつかん」ことに悩まされ苦しんでいるのです。実際、始末がつかないことばかりです。思うようにならないことばかりのなかで、思うようになることを当たり前としているのではないでしょうか。こうなることが当たり前なのに、どうしてそうならないのかと苦しんでいるのです。
いつの間にか、みんなそうだから、いままでそうだったからと、そのことを前提にして、そうならないことに腹を立てたり、愚痴をこぼしたり、あるいは人を恨んだり憎んだりしているのではなかったでしょうか。自分の思いで、自分をがんじがらめに縛り上げているのです。自分で自分を不自由なものにしてしまっているのです。しかも、このことになかなか気づきません。人から束縛されることや周りから抑圧されることには、すぐ反発するのに、自分を自分で縛り上げることについては、本当に鈍感としか言いようがありません。気づかないまま身動きがとれなくなってしまいます。でも、そのことが当たり前でなかったと頭が下がる時、自分中心の欲に振り回されていたことに気づかされ、いつの間にか自分で自分を縛り上げてしまう、不自由な生き方から解放されるのです。
束縛からの自由
「ひまもらえる」とは、自由になる、解放されるということでしょう。自分の思いにがんじがらめに縛り上げられていた者が、その思いを打ち破ってくれるものに出遇い、思うようにならないままを引き受けていくことのできるところに立たされるのです。打ち破ってくれるものが仏の智慧で、すべてをありのままに照らし出すはたらきそのものです。その仏智に照らされて、自分勝手な小さな思いに縛られて自由を失い、せっかくいただいたいのちをいつの間にか過ごしてしまっている、わが身に気づかされるのでしょう。
仏の智慧に照らし出されて初めて、人間の智恵の暗さに気づかせてもらいます。現代の私たちは、便利で豊かな生活に慣れきってしまい、当たり前という深い闇のなかに、闇を闇とも気づかないまま過ごしているのではないでしょうか。人間の智恵の限りを尽くしたこの世の中の便利さが、実はその人間本来のあり方を見失わせ、人間性をも奪い取ってしまう困ったものだったのです。そのことを常に教えてくれるものに出遇っていかないと、その深い闇に飲み込まれてしまいます。
(後藤明信)
細江町の光明寺(泉哲朗住職)の欄間が二日、京都へ修理に出される。本格的な修理は初めてという。
欄間には唐獅子とボタンの花が描かれており、本堂に七枚飾られている。横はいずれも約180センチで、縦約110センチが四枚、約90センチが二枚、約60センチが一枚。欄間の上にはそれぞれ寄木造りの天人が見守るように置かれている。
天人を見た長門市出身の童謡詩人、金子みすゞは「ひとり日暮れの草山で夕やけをみてゐれば、いつか参った寺のなか暗い欄間の彩雲に、笛を吹いてた天人の、やさしい眉をおもひ出す―」と詠んだという。
欄間は同寺が1732(享保17)年に建て替わった際に付けられたとされる。寄木造りで、金箔(きんぱく)がはがれたり、木が折れて落ちたりして傷みが激しかったことから、京都の仏具店に修復に出すことになった。
泉住職によると、何度か補修したとみられるが、大掛かりな修理は初めてという。修復を終えて同寺に戻ってくるのは来春になりそう。
同寺は1863(文久3)年に幕末の萩藩士久坂玄瑞ら50人が集まり、奇兵隊の前身「光明寺党」を結成した場所として知られている。
細江町1丁目の日和山のすそにある光明寺(浄土真宗本願寺派)は江戸時代に「宗門(しゅうもん)改め」が行われた寺です。
宗門改めとは、江戸幕府がキリシタン禁圧のため、民衆を何らかの仏教宗派に所属させ、証明させた制度です。光明寺では毎年7月26日にあり、それに先だって4、5月ごろ、町政を担っていた大年寄、小年寄が町民から誓紙血判を取りまとめ、幕府役人の検分を得ていたようです。
家ごとに家族の名前と年齢を記し、キリシタンではない証明として寺の印が押されるのが一般的でした。発行された宗門手形は住民の行動を保証し、身分の証しとなる何より大切なものでした。
また光明寺には幕末、高杉晋作と共に「松下村塾の双璧」と呼ばれた久坂玄瑞(くさかげんずい)率いる「光明寺党」の本営が置かれました。
光明寺党は有志党とも呼ばれ、50~60人ほどいたようです。1863(文久3)年、米国の商船ペンブローク号が来航した際、長州藩の軍艦・庚申丸(こうしんまる)で砲撃。第一次下関攘夷戦の火ぶたを切ったことで有名です。
下関は太平洋戦争の空襲で市街地の大部分が焼失しましたが、光明寺は戦火を逃れました。戦災直後の写真には寺の大屋根が姿をとどめています。
境内には明治期に私塾を開いた広井良図(りょうと)の顕彰碑、大洋漁業関係者の慰霊塔もあり、歴史散策を楽しめるスポットです。
下関市立中央図書館長・安冨静夫
ここ数年、下関の街には記念碑や文学碑が次々に建てられて道行く人びとを和ませている。新しいところでは、今夏、赤間神宮前の公園で除幕した「朝鮮通信使上陸た淹留之地」碑があり、来春には『くじらさんありがとう』と刻んだ「感謝碑」も建立の予定だという。かつて私自身も、山陽本線の車窓からよく見える旧彦島上水の丘に「平家最期の砦」、下関中央病院の一郭に「大洋球団発祥地」などの碑を建てたいと幾つかの紙面に書き、細江町の石ぶみ郡は私の散策場所の一つでもある。
ところがその一方で「手厚い保護を」と訴える石ぶみもあちこちに点在していることを忘れてはならぬ。
たとえば大歳神社の「七卿烈士潜寓画碑」は、幕末の急進派公卿七人の「都落ち」で知られる画碑だが風化が激しく、このままでは何年ももたないだろう。
そして今、最も危険なのが下関最大の甍を持つ光明寺境内の「広井良図顕彰碑」だ。これもまたかなり風化していて碑文は読みづらいが、それよりも崩壊寸前で、いつ事故が起きてもおかしくない状態。写真に見るとおり、上部は既に欠け落ちて、その下の中ほどには三ヶ所、鉄線による補修が施されたものの完全ではなく、何かの拍子に崩れるのではないかと、寺院や境内の保育園関係者は日夜、心を痛めている。建てられっぱなしの石碑を勝手に処分するわけにいかないからだ。
これに関して何とかならないものかと、いろいろ当たってみたが、今のところラチがあかない。
小月小学校、下関商業、豊浦中学校、山口中学、徳山中学(現高校)や私塾・硯湾学舎などで学んだ人びとによって明治38年(1905)に建てられたこの顕彰碑にも、新しい石ぶみ設置と同じ温かさで手をさしのべて欲しいとの願い切である。どなたか光明寺の石ぶみを救ってください、と。
文・都美多ギコ 写真・富田義弘
日和山公園ふもとの「光明寺」とその境内に建つ「広井良図顕彰碑」は、既に清水唯夫さんが平成8年1月26日と2月23日の紙面で紹介済みだが、この寺院の美しい反りを持つ大甍が修復されたので重複を恐れずに書いてみよう。
周旋直前の二度にわたる焼夷弾爆撃で廃墟と化した下関の中心部に、遠くからでもそれと判った建造物といえば、山陽ホテルと下関警察署、山陽百貨店と光明寺の聳えたつ大屋根くらいのものであった。幸いにも要塞司令部による厳戒態勢の白昼、官憲の目を恐れつつ決死の覚悟で焼土を撮りまくった上垣内茂夫さんの貴重な戦災写真の何枚かに、光明寺の大屋根がはっきりと写し出されている。
その頃から復興の槌音が更に大きく響きはじめたころ、光明寺の境内に立つと海峡は米軍投下の機雷で沈められた船舶の数々が舳先(へさき)を波間に突き出して天を仰ぎ、さながら「船の墓場」であった。それでも、海峡の女王と呼ばれた白亜の関門連絡船や外輪を回しながら波を漕ぐ貨車航送船などが映画に見るような水柱を唐突に噴きあげた。ユニークな水上警察署ビルの手前には貨物専用引込み線の「跳ね橋」が手持ち無沙汰そうにいつも空を見あげていた。そして、門前の石段を見おろすと、焼夷弾にいぶされた煙痕が赤黒く、あるいは茶褐色ににぶっていた。
いま、境内に立っても海は殆ど見えず、屹立するビルの上には海峡ゆめタワーがヌッと顔を出していて、灼熱の苦しみに耐えた石段は除去されて触れることは出来ない。しかし、見事に修復された甍は正面から見あげても壮観だが、入江側から眺めると更に美しい。
11月1日から慶讃法要が営まれるという。
文・都美多ギコ 写真・吉岡一生
光明寺(細江町)境内、石段を登ったすぐ左手に一基の碑があります。風化で碑文が読みずらくなっていますが、明治初期の下関教育界に大きい足跡を残した広井良図の顕彰碑です。
良図は、文政十年(1827)に清末藩士広井良弼の子として上小月に生まれ、名は初め少吉、字が子重、硯湾・赤水・進修斎などと写しました。
清末藩の儒者で私塾「柳渓精舎」の主宰者広井良徳の孫に当たり、父の早逝で祖父に薫陶を受けて育ちますが、幼児より明敏で、十歳のとき萩に出て藩校明倫館に学び、十四歳で早くも明倫館舎長となります。
修学を終え、小月村の柳渓精舎で子弟教育に当たりますが、二十歳のときから十数年、美濃・安芸などを巡って遊学。元治元年(1864)藩命により江戸に出て国事周旋に務めますが、政変の渦中に巻き込まれて幕府方に拘囚され、二年後ようやくに放免されて帰藩します。以後、清末藩校育英館の舎頭を務め、維新後は藩の権大参事として藩政にも参画。明治五年(1872)新しい学制施工で小月小学校開校に際し初代校長に迎えられました。
校長在任一年。その後、光明寺の地に私塾「硯湾学舎」を開設。さらに明治十年(1877)から二年間は赤間関市庁に出仕し教育行政に尽しました。
そして明治十七年(1880)から十七年間は私塾のかたわら赤間関商業学校(現下商)や豊浦・山口・徳山の各県立中学校(現高校)で教鞭をとり、晩年は田中町に漢学の塾を開いて余生を送り、明治三十六年(1903)八月、七十七歳で没しますが、「業を翠うもの前後三千」と言われています。
光明寺境内の碑は、明治三十八年(1905)十月、教え子や関係者によって建立されたものです。
文・写真 清永 唯夫
維新史跡の一つに「光明寺」があります。
常陸国(茨城県)の人釈正善の開基により、大永年中(1521~1527)豊浦郡西市村(豊田町)に一宇を建立。のち内井村・幡生村(下関市)と転じ、享保17年(1732)に細江町高台の現在地に移されたと伝えられる浄土真宗のこの寺、昭和20年7月の大空襲では、周囲は火の海と化し、炎は石垣まで迫りましたが、本堂は焼失をまぬがれ、維新時の姿を今に伝えています。
文久3年(1863)の下関攘夷戦の際には、久坂玄瑞率いる浪士隊約50人がこの寺に駐屯しており、5月11日未明、アメリカ商船ペンブローク号に対して庚申・癸亥両艦で海峡に乗り出し、また亀山八幡宮境内に築かれていた砲台から攘夷の第一弾を射ち出したのが彼たちでした。今日この浪士隊を「光明寺党」とも呼んでいます。
『白石正一郎日記』の中に
6日(文久3年4月)、中山公子今日又狐狩ニ御出長府より御猟方来ル、得もの狐壱疋光明寺へ御持行被召上候
という記述が見られます。
中山公子とは、悲劇の死をとげた急進派公卿中山忠光のことで、狐を食べたとは少々荒っぽい話ですが、一党を激励する意味での訪問であったのでしょう。
また、癸亥丸(英国より購入した長州藩軍艦)を飾っていた「艦首像」を切り取って来て、光明寺本堂の階段下に据え置き、出入りのたびごとにその像を蹴とばし、攘夷の思いを高揚させていたとも伝えられています。若者らしい稚気ではありますが、これもある意味で強い結束のための踏絵であったと言えましょう。
若き志士たちの足跡が刻まれたこの古刹、下関における重要な史跡としてもっと顕彰されてよいのではないでしょうか。
文・写真:清永 唯夫
阿弥陀仏の本願とは
この歌は、甲斐和里子さんの『草かご』の詩集から引かれた言葉です。
親鸞聖人の『教行信証』教文類には、
それ真実の教を顕さば、すなはち『大無量寿経』これなり
(『註釈版聖典一三五頁)
と述べられています。
この『仏説無量寿経』(『大無量寿経』)には何が説かれてあるかと言いますと、あらゆる人を念仏ひとつで救おうという、阿弥陀仏の本願が説かれています。その阿弥陀仏の本願とは何かと言うと、阿弥陀仏という仏は、もと法蔵という菩薩が四十八の願いをおこし、長い修行を経て、理想の浄土を建立して仏となられました。その浄土を極楽と名づけ、その仏を阿弥陀仏と名づけられたのです。
その四十八願の十八番目の願を、特に「本願」と呼んでいます。この本願は、あらゆる衆生に対して、「われを信じ、わが名を称える者を、わが国に必ず往生させる」という誓願であります。
この阿弥陀仏の誓願が成就したことを、釈尊が説かれだのが成就文(じょうじゅもん)です。第十八願の成就文には、
あらゆる衆生(しゅじょう)、その名号を聞きて信心歓喜(しんじんかんぎ)せんこと、乃至一念(ないしいちねん)せん。
(『註釈版聖典』四一頁)
とあるように、何を信ずるのかというと、名号のいわれを信じることで必ず救われていくのです。したがって、あらゆる人びとを念仏ひとつで救うと誓われた阿弥陀仏の本願を説かれた経典が、『仏説無量寿経』ということになります。
『仏説無量寿経』の終わりには、
それかの仏の名号を聞くことを得て、歓喜踊躍して乃至一念せんことあらん。まさに知るべし、この人は大利を得とす。すなはちこれ無上の功徳を具足するなりと。
(『註釈版聖典』八一頁)
と、「名号を聞いて歓喜踊躍する者は、無上の功徳を具足する」と説かれてあります。
名号のいわれを聞くものは、無上の功徳を得ることができるというのです。この無上の功徳とは、浄土に生まれて仏と同じ覚りを開くということです。親鸞聖人は、この経典によって、凡夫が阿弥陀仏の本願力によって信心をめぐまれ、正定聚不退の位に定まり、浄土に往生して仏の覚りを開くことを、明らかにされました。
仏願の生起本末を聞く
名号のいわれをどのようにして聞くかというと、親鸞聖人は『教行信証』信文類に、
しかるに『経(きょう)』(大経・下)に「聞(もん)」といふは、衆生、仏願の生起本末(しょうきほんまつ)を聞きて疑心あることなし、これを聞といふなり。
(『註釈版聖典』二五一頁)
と示されます。仏願の生起本末を聞いて疑う心のないことを「聞」と言われるのです。
「仏願の生起」とは、阿弥陀さまの本願を起こされた理由ということです。本願の起こりは誰のためのものかというと、それは煩悩に振り回され真実の心を持たない私のために説かれたものです。「仏願の本末」とは、その起こりと結果ということで、阿弥陀さまは五劫もの長い間修行されて、本願を立てられた苦労(本)の結果、覚りを開いて阿弥陀仏(末)となられました。阿弥陀さまは、あらゆる人びとを救うために名号を誓われました。そして、阿弥陀仏の本願を信じて、念仏を称えることによって救われていく教えを明らかにされたのです。
このように、名号のいわれを聞くということは、聞き流したり、自分の思いで聞くことではありません。聞くということは、阿弥陀さまのまことを聞くことです。聞こえたということは、まことが受け取れたということです。まことが受け取れたならば、それは仏のおおせにすべてをまかせたということになります。阿弥陀さまと私との接点が結ばれるためには、仏の喚び声を聞くしか方法はありません。
そのことを『歎異抄』後序には、
聖人(親鸞)のつねの仰せには、「弥陀の五劫思惟(ごこうしゆい)の願をよくよく案ずれば、ひとへに親鸞一人(しんらんいちにん)がためなりけり。さればそれはどの業をもちける身にてありけるを、たすけんとおぼしめしたちける本願のかたじけなさよ」と御述懐候(ごじゅつかいそうら)ひし
(『註釈版聖典』八五三頁)
と言われています。
南無阿弥陀仏の喚び声
聞くとは、阿弥陀さまの私たちを救わずにはおれないという喚び声を聞くことであります。
親鸞聖人は『教行信証』行文類に、善導大師の「六字釈」を引いて、
「南無」の言は帰命(きみょう)なり。(中略)ここをもって「帰命」は本願招喚(ほんがんしょうかん)の勅命(ちょくめい)なり。
「発願回向(はつがんえこう)」といふは、如来すでに発願して衆生の行を回施(えせ)したまふの心なり。
「即是其行(そくぜごぎょう)」といふは、すなはち選択本願これなり。
(『註釈版聖典』一七○頁)
と延べられておられます。
「南無」とは帰依することで、「よりかかる」という意味です。「帰命」とは「本願招喚の勅命」とあるように、招喚とは、念仏を称えて浄土に生まれてほしいと、阿弥陀仏が「我を信ぜよ」と招き喚んでくださっているということです。すなわち、「この弥陀にまかせよ」と喚んでくださる阿弥陀さまからの喚び声です。「発願回向」とは、阿弥陀さまがわれらが往生するための名号を与えてくださる、大悲のこころを言います。「即是其行」とは、阿弥陀さまが与えてくださった功徳、すなわち、名号が行者の上に称名となって現れている姿を言います。
このように、阿弥陀さまの上にできあがった万行の徳(名号)が、帰命の信心のところに領受されて、私たちの往生が決まるのです。南無阿弥陀仏とは、「念仏ひとつで必ず救う、我にまかせよ」という阿弥陀仏の喚び声です。すなわち、「よりたのめ、よりかかれよ」と、私を呼んでくださっている喚び声です。私の心に届いた名号が信心ですから、口には称名となって出てきます。このように、私たちの救いは、名号の独りばたらきということになります。
『歎異抄』第一条には、
弥陀の誓願不思議にたすけられまゐらせて、往生をばとぐるなりと信じて念仏申さんとおもひたつこころのおこるとき、すなはち摂取不捨の利益にあづけしめたまふなり。
(『註釈版聖典』八三一頁)
と、親鸞聖人は「阿弥陀仏の誓願は、不思議なはたらきによって必ず浄土に生まれさせてくださると信じて、念仏を称えようと思い立つ心の起こる時、ただちに阿弥陀さまは摂取して見捨てることなく抱き取ってくださいます」とおっしゃっています。
さて、私が本願寺派の宗学院で学んでいる時のことです。『教行信証』の講義は故大江淳誠(じゅんじょう)和上でした。和上がいつも言われていたことがあります。
「名号は動いている。名号は動的存在で固然たるものではない。じっとしているものではなく、常に活動しているものである。名号は死にものではない。我らの口には念仏が出てくるはずがないのに、念仏の声がいつの間にか口に出てくるようになったということは、名号が私にはたらいて、私の口を動かして称えさせているのである。
たとえば、太陽は常に全世界の生きとし生きるものに向かって照らして、地上のものに芽を出させ、花を咲かせ、実を実らせている。このように、念仏を称えているのは念仏者の声であるけれども、名号が行者の信後の上に相続として生き生きと出てくるよろこびの声となり、称名となって現れて出てくるのである」(『教行信証講義録』趣意)
このように、大江和上はおっしゃっておられました。
信心と称名
浄土真宗の信心とは、阿弥陀仏のいわれを聞いて疑いなく信じる心を言います。また、「つつしんで往相の回向を案ずるに、大信あり。大信心は、すなはちこれ」(『教行信証』信文類 『註釈版聖典』二一一頁)といって、十二の名前を挙げ、そのなかに「証大涅槃(しょうだいねはん)の真因(しんいん)」という言葉を出し、覚りを開く因(種)が信心であることを述べています。また、「『信心』といふは、すなはち本願力回向の信心なり」(『同』二五一頁)
真実信心うるひとはすなはち定聚のかずにいる
不退のくらゐにいりぬれば
かならず滅度にいだらしか
(『註釈版聖典』五六七頁)
とあり、親鸞聖人は「真実信心の人は正定聚の数に入って、不退の位に就いて必ず滅度に到る」と述べられます。信心をよろこぶ人は、煩悩を持つたまま「正定聚」という浄土往生の仲間となり、阿弥陀さまの大きな慈悲に抱かれながら、生き生きといのちを輝かせながら生きていく生活が展開してくるのです。
浅原才市さんは、
かぜをひけばせきが出る
さいちが御ほうぎの風をひいた
念仏のせきが出る(鈴木大拙編『妙好人 浅原才市集』一四七頁)
と言われました。信心をよろこぶ人として生きていかれた人の言葉です。
たとえば、ススキの穂がゆれているのは、風がある証拠です。風は私たちの目には見えないけれども、ススキの穂がゆれていることで、風のあることを知ることができます。ススキの穂をゆらしているのは、風の力がススキに宿ったからであります。
私たちは、如来の本願力によって名号をめぐまれ、わが心に届いたところが信心です。その名号には、私たちが成仏するための功徳が込められていますので、この功徳がわが心に満入しますと、信心となります。その信心には、必ず念仏(称名)がついております。
煩悩にまみれた私の口から出るはずのないこの尊い念仏が、私の口から出てくるということは、ひとえに阿弥陀仏の大いなる力によるもの以外にありません。南無阿弥陀仏、おかげさまと、よろこばさせでいただく念仏であります。
(石田雅文)