仏様にあいたい これにまさる深い願いが 人間にあるでしょうか

今月の言葉 (令和七年八月) – 仏様にあいたい これにまさる深い願いが人間にあるでしょうか

仏様にあいたい
これにまさる深い願いが
人間にあるでしょうか

(『親鸞に出会うことば』より)

この言葉に寄せて

八月のことばは、元大谷大学学長の寺川俊昭先生(一九二八~二〇二一)のお言葉です。この言葉は、過酷なシルクロードを旅して仏教を伝えた求法僧たちの、純粋でひたむきな情熱に思いを馳せたものです。「仏様にあいたい」という一つの願いが、いかにして人を動かし、歴史を動かしてきたのか。そして、その根源的な願いが、現代を生きる私たちの「聞法」や「念仏」の歩みと、どう繋がっているのかを深く問いかけます。

(解説:井上 陽)

インドを目指す求法僧

言葉の解説

命がけの「仏陀の道」

仏教は、インドから中国へ、シルクロードと呼ばれる道を通って伝えられました。それは、峻険な山脈と広大な砂漠を越える、想像を絶するほど過酷な旅路でした。法顕や玄奘三蔵といった求法僧たちは、命の危険を冒してまで「仏様にあいたい」、そして「その教えを正しく伝えたい」という純粋な願いに突き動かされていたのです。

教えに遇うことは、仏に遇うこと

お釈迦さまが亡くなられた後、仏教徒たちはその不在をどう乗り越えるかという課題に直面しました。そして、遺された教え(法)そのものに、ブッダの存在を見出すようになりました。私たちが経典を読み、法話を聞くことは、単に知識を得るだけでなく、時代を超えてはたらき続けるブッダの心に出遇うことなのです。

「聞法」から「念仏」へ

寺川先生は、「仏様にあいたい」という切ない心が、私たちを「聞法(もんぽう・教えを聞く)」の歩みへと向かわせると言います。そして、阿弥陀如来の「必ず救う」という願いを聞かせていただき、その願いがすでに私に届いていると気づかされた時、その喜びが「南無阿弥陀仏」というお念仏となって、自ずと口からあふれ出てくるのです。

人間の根源的な願い

この言葉は、私たちが心の奥底で本当に求めているものは何かを問いかけます。日々の生活の様々な願いの根底には、究極の安らぎ、真実の拠り所を求める「仏様にあいたい」という、いのちそのものの根源的な願いがあるのではないでしょうか。

解説全文を読む(井上 陽 師)

一、今月のことばについて

大谷大学の学長でもあった寺川俊昭(一九二八~二〇二一)先生が、親鸞聖人の語られたことばを選びとり、意訳と随想でわかりやすく解説したのが『親鸞に出会うことば』(東本願寺出版、二〇〇六)です。今月のことば「仏様にあいたい これにまさる深い願いが人間にあるでしょうか」は、この本の〈四日〉「ひたむきな聞法」と題された随想の最後のことばになります。

寺川先生は、真宗学をご専門とし東京大学で学ばれたのち、大谷大学で教鞭をとられました。先生のご専門は親鸞思想で、多くの著作をのこされています。

寺川先生の随想「ひたむきな聞法」は、NHKのシルクロードシリーズをビデオで先生がご覧になったところから始まります。紀元前五世紀、インドのガンガー(ガンジス)河中流域に開花した仏教は、紀元前三世紀のマウルヤ朝第三代アショーカ王のころにはほぼインド全域に、そして紀元前後ころには異文化世界へと流出することになります。

年間を通じて温暖で、多雨なインド世界から中国へ仏教が東漸するには、インドの玄関口にあたるガンダーラ(現パキスタンのペシャーワル盆地)からそのまま北上し、パミール山塊中のクンジュラーブ峠、カラコルム峠を越えなければなりません。天山山脈と崑崙山脈に挟まれたタクラマカン沙漠に出てからは、そこから西域北道、南道を東進し、中国の西方の玄関口である敦煌から河西回廊を経由して中原(黄河中・下流の平原)へとつながる道をたどることになります。

これらの道は一般にシルクロード(絹の道)と呼ばれるものですが、私たちにもっとも影響をおよぼしたものという観点からみると、それは「仏教の伝えられた道」(仏陀の道)であるほかありません。ここを通じて、仏教が中国へもたらされ、また中国からも求法僧たちがインドをめざしました。寺川先生がご覧になった「NHK特集シルクロード」は、厳しいといっては余りあるこのルートの自然環境が映しだされていたのでしょう。そのような厳しい環境を超え、仏教を伝えようとした仏教者たちの姿を想像すると胸を熱くされたと述べています。それは「仏様にあいたい」という願いに収斂することができます。

二、中国への仏教伝播

中国への仏教初伝は、伝説によれば後漢(二五~二二〇)の明帝(在位:五七~七五)が夢に金人(ブッダ)を見て、西方に使節を遣わせたところ、迦葉・摩騰(Kasyapa-matanga、生没年不詳)と竺法蘭(Dharmaratna、生没年不詳)が洛陽にやってきたことによるとされます。そこで最初に伝えられた仏典が『四十二章経』で、最初に建てられた寺が洛陽の白馬寺であったといいます。

史実によれば、後漢の桓帝(在位:一四六~一六八)の建和二年(一四八)洛陽に入った西域出身の安世高(生没年不詳)が二十年にわたり、小乗に属する三十四部四十巻の経典を中国語に翻訳したことに始まります。また、桓帝の終わりころに洛陽に入った支婁迦讖(Lokaksema、一四七頃~没年不詳)は、大乗に属する十四部二十七巻の経典を訳出しています。

この二人は、中国仏教史上における最初期の訳経僧であり、経典が翻訳されることによって仏教が伝わったとするなら、これが中国における仏教の初伝ということになります。ただ、この二人が訳出した経典は必ずしも読解しやすいものではなく、そのためインドの言葉で語られる仏教の思想を、中国語に翻訳するという作業にかなり苦労した痕跡がうかがえます。

翻訳というのは、決してことばの置き換えではありません。その言語には、その言語が持つ固有の意味の他、その意味を成り立たせるための文化的な基盤が存在します。インドと中国では、文化的な基盤も異なるわけですから、最初期の翻訳が上手くいかなくてもそれは当然のことなのです。むしろ、その試行錯誤に仏教への思い、それを伝えようとする熱意を感じるのです。

ところで、先の伝説の中に登場する迦葉摩騰と竺法蘭、そして史実として伝わる安世高と支婁迦讖は、いずれも中国の人物ではなく、インドもしくは西域に関係する人たちです。そのような人たちが中国の洛陽で翻訳するには、それぞれの土地からはるばる中国に来なければなりません。峻険な山を越え、からっからに乾ききった沙漠をわたり、やっとの思いで中国にやって来ました。それを思うと、翻訳に対する情熱に胸を打たれないわけがありません。

三、インドをめざした中国の求法僧

何も、常にインドや西域から人がやってきて仏教を伝えたばかりではありません。やがて中国からもインドをめざす僧侶が登場します。

歴史上、最初にインドをめざそうとしたのは、三世紀中葉、魏(二二〇~二六五)の朱士行(生没年不詳)という人物でした。彼は中国人で最初に出家した人物でした。彼は『道行般若経』を学んでいましたが、訳が不十分で理解できないところがあり、完全な原典を中国に将来するために、インドをめざそうとします。

実際、中国の僧侶がインドに行ったのは、東晋(三一七~四二〇)の法顕(三三七~四二二)が最初になります。彼が六十歳の時、インドをめざします。一行が敦煌からタクラマカン沙漠に出た時、法顕は「沙河には悪鬼、熱風多く、皆死に絶え一人も生命を全うするものはない。上には飛ぶ鳥なく、下には走獣なし。見渡す限り渡ろうとせん所を探すも何もなし。死者の枯骨を道標にするだけ」と語ったほど、その旅の厳しさを述べています。法顕たちがインドにたどり着いたのは、中国を出発して実に六年後のことでした。

七世紀、唐(六一八~九〇七)の玄奘(六〇二~六六四)もまたインドをめざします。観世音菩薩の名と『般若心経』を念じながら、幾度となく訪れる災難を乗り越え、大迂回をしてまでインドをめざそうとした玄奘の情熱に胸を打たれてしまいます。

もちろん、彼らの目的が、サンスクリット原典を得て、中国語により正しく翻訳することにあったことはいうまでもありません。ただ、もうひとつ彼らの目的をあげるとするなら、それは仏跡の巡礼と、それによるブッダの追体験でした。ブッダとの出遇いは、そのまま法との出遇いになるのです。

四、ブッダとの出遇い

私たちが法(dharma、真理、教え)に出遇うことができるのは、ブッダという存在があるからです。逆の見方をすればブッダの存在なくして、私たちは法に出遇えることはありません。その意味でブッダと法は同一の存在なのです。

ブッダとて有限のいのちであることにかわりありません。八十歳で涅槃に入り、この世から姿を消すことになります。これは仏教徒にとって一大事でした。ブッダの不在は、法の不在を意味するからです。このブッダの不在をどうするのか、古来より、仏教徒は腐心してきました。時に仏塔として、時に経典として、あるいは法の内容そのものにブッダの存在を認めてきたのです。ブッダをどう見るのかということを、仏陀観といって、身体をともなったブッダを色身といいました。この色身は、入滅と同時に失われるわけですから、理念としてのブッダ、つまり法としてのブッダの存在を認めてきたのです。私たちが教えに触れる時、それはそのままブッダとの出遇いになるのです。

五、念仏もうさんとおもいたつこころ

話を寺川先生が著された「ひたむきな聞法」に戻しましょう。寺川先生は、人が生きていくにはあまりに厳しいシルクロードの自然を乗り越え、そこを往来した仏教徒たちに思いを馳せながら、「私にもふと動いた〈仏様にあいたい〉という切ない心、それが聞法の志となって私を歩ませるのです」と、その時に浮かびあがった心象を語っています。「仏様にあいたい」という願いが、そのまま聞法の歩みであるというのです。

『教行信証』の総序のおわりに、親鸞聖人は次のように述べておられます。「ここに愚禿釈の親鸞、慶ばしいかな、西蕃・月氏の聖典、東夏(中国)・日域(日本)の師釈に、遇いがたくしていま遇うことを得たり、聞きがたくしてすでに聞くことを得たり。真宗の教行を敬信して、ことに如来の恩徳の深きことを知んぬ。ここをもって聞くところを慶び、獲るところを嘆ずるなりと」(『註釈版聖典』一三二頁)

インド・中央アジアから中国にもたらされた経典、中国・日本の諸師たちが著した論釈をとおして、親鸞聖人は、阿弥陀如来のいつくしみの徳を聞くことをよろこび、感激されています。寺川先生は、それは、「仏様にあいたい」という願いが、み教えを聞くよろこびへと転ずると述べています。

この「仏様にあいたい」(=聞法)という願いが本当に満たされる時こそ、「念仏もうさんとおもいたつこころ」が湧き起こった時だとも述べています。「念仏もうさんとおもいたつこころ」というのは、『歎異抄』第一条に述べられることばになります。「弥陀の誓願不思議にたすけられまいらせて、往生をばとぐるなりと信じて念仏申さんとおもいたつこころのおこるとき、すなわち摂取不捨の利益にあずけしめたまうなり」(『註釈版聖典』八三一頁)

聞法とは、阿弥陀如来の願いを聞かせていただくことであり、その願いがすでに私に届いていると気付かせていただいた時、「南無阿弥陀仏」のお念仏が私の声となって出てくるのです。

(井上 陽)

日常生活に活かすヒント

  • ご縁のありがたさを思う: 今、私たちが当たり前のように仏法に触れられるのは、命がけで教えを伝えてくださった先人たちのおかげです。その歴史に思いを馳せ、ご縁に感謝してみましょう。
  • 自分の「あいたい」を探す: 日々の忙しさの中で、自分が本当に求めているものは何かを静かに問い直す時間を持ってみましょう。それは、心の深い安らぎかもしれません。
  • 聞く姿勢を大切にする: お寺の法話や仏教書は、現代における「シルクロード」です。積極的に教えを聞く場に身を置くことが、「仏様にあう」ための大切な一歩となります。
  • お念仏をとなえてみる: 難しい理屈は一旦横に置き、「南無阿弥陀仏」と声に出してみましょう。それは、仏さまの願いが自分に届いていることへの、素直な応答かもしれません。

よくあるご質問

なぜ「仏様にあいたい」が人間の最も深い願いなのですか?

人間が心の底から求める究極の安らぎや真実の拠り所を象徴する言葉だからです。それは、単なる知識欲や好奇心を超え、いのちそのものが真理と一体になりたいと願う根源的な欲求であると示唆しています。

現代の私たちが「仏様にあう」にはどうすればよいですか?

お寺にお参りしたり、法話を聞いたり、お経や仏教書を読んだりすることが、現代における「仏様にあう」具体的な行いです。教えの言葉を通して、時代を超えてはたらき続ける仏の心に触れることができます。

「念仏もうさんとおもいたつこころ」とは、自分で努力して起こすものですか?

いいえ、浄土真宗では、この心は自分で起こすものではなく、阿弥陀如来の「必ず救う」という願い(本願)を聞かせていただく中で、仏さまの側から与えられるものだと考えます。聞法によって、すでに自分に届けられている願いに気づかされるのです。

シルクロードの求法僧の話は、現代の私たちとどう関係がありますか?

命がけで教えを求め、伝えてくれた先人たちがいたからこそ、今私たちが安穏と仏法に触れることができる、というご縁のありがたさを示しています。また、彼らのひたむきな姿は、私たちが何を本当に大切にして生きるべきかを問いかけてくれます。

ポッドキャスト

カテゴリー: 法語カレンダー解説 | 仏様にあいたい これにまさる深い願いが 人間にあるでしょうか はコメントを受け付けていません

2025年7月のことば 老いや病や死が人生を輝かせてくださる

{お寺の名前} 今月の言葉 (令和七年七月) – 老いや病や死が 人生を輝かせてくださる

老いや病や死が
人生を輝かせてくださる

湯浅 炭幸 師

(『病死の生に学ぶ』より)

この言葉に寄せて

七月のことばは、真宗大谷派の湯浅炭幸師(一九三〇~二〇一八)のお言葉です。師は熊本県に生まれ、鹿児島教務所長などを歴任されました。この言葉は、著書『病死の生に学ぶ』からの一節です。一般的に避けたいと願う「老・病・死」が、いかにして私たちの人生を輝かせるものとなるのか。苦しみが苦しみのままで終わらない、仏法が示す逆説の真理を問いかけています。

蓮の花と水面

言葉の解説

苦の自覚から始まる道

仏教の開祖であるお釈迦さまは、城の外で老人、病人、死人に出会い、自らも避けられない生・老・病・死という「苦」を深く自覚されたことから、真理を求める道へと入られました。このように仏教は、この世の苦しみを直視することから始まります。

「涅槃に至る仕事」としての病

湯浅師は、あるお婆さんの「この病気がばばの毎日の仕事でございます」という言葉を紹介します。これは、病や老いといった苦しみをただ受け身で耐えるのではなく、それこそが仏の悟り(涅槃)へと至る「生きる道(仕事)」であると能動的に受け止める姿勢を示しています。

抜苦与楽と阿弥陀如来の大慈悲

仏教は「抜苦与楽(苦を抜き、楽を与える)」の教えですが、それは私たちが実践するものではありません。私たちは小さな慈悲さえも持つことが難しい凡夫です。この抜苦与楽は、ひとえに阿弥陀如来の大いなる慈悲のはたらきによるものです。私たちはそのはたらきをただ聞かせていただくのです。

苦楽を超えた世界

仏教が説く「楽」は、苦しみの反対にある一時的な快楽ではありません。「楽(sukha)」の語源は「良い車軸の穴」がスムーズに回ること。それは、苦しみを無くすことではなく、老・病・死という苦を抱えたまま、それにとらわれず、ものごとが調和している安らかな状態を指します。苦楽の二項対立を超えた、仏の世界の「楽」なのです。

解説全文を読む(井上 陽 師)

一、苦の自覚

現在のインドとネパールの国境付近にあったカピラ城を居城とするシャーキャ族(釈迦族)の太子として誕生したガウタマ・シッダールタは、仏伝文学などによれば、妻子をもうけ、何不自由なくカピラ城で暮らしていたといいます。

二十九歳になったシッダールタは、初めて宮殿の外に出ることになりました。そこで出会ったのが、東門の老人、南門の病人、西門の死人でした。それまで老人にも、病人にも、死人にも出会ったことがなかったシッダールタは、おおいに当惑しました。これらはわが身にもおこることなのだろうか。もしそうだとしたら、これからどうして生きていけばよいのだろう。どうせ老いるのに、どうせ病むのに、どうせ死ぬのに、生きる意味はあるのだろうか、と。それは紛うことなく苦しみであり、その苦しみから解放されるにはどうしたらよいのかと思い悩みます。そして、北門で出会った遊行者の姿を見て、出家の道を選ぶことになりました。

苦行を続けて三十五歳の時、ナイランジャナー川(尼連禅河)畔で沐浴をしていたシッダールタは、村娘のスジャーターから乳の布施をうけました。それによって体力を回復したシッダールタは、それまで続けていた苦行を捨て、近くのピッパラ樹(菩提樹)の下で瞑想に入り、真理に目覚めたことよってブッダとなりました。

ブッダとなったシッダールタの出発点が苦の自覚であったことは、その後の仏教を方向付けることになります。つまり、生・老・病・死、愛別離苦・怨憎会苦・求不得苦・五蘊盛苦の四苦八苦をどう解決していくのか。仏教の出発点がこの世の「苦」を直視することから始まるのは、シッダールタの出発点が苦の自覚にあったからなのです。

二、今月のことばについて

さて、今月のことば「老いや病や死が 人生を輝かせてくださる」は、湯浅炭幸(一九三〇~二〇一八)著『病死の生に学ぶ~無量寿の花が開くとき~』(東本願寺出版、二〇〇五)の中の「涅槃に至る仕事」と題された随筆から簡抜されたことばになります。

湯浅さんは、一九三〇(昭和五)年熊本県生まれで、真宗大谷派山田寺前住職、真宗大谷派鹿児島教務所長、鹿児島別院輪番を歴任された方です。著書も多く、『人間解放への道』(法藏館、一九九四)、『【伝道ブックス68】親鸞さまのみ教え~「真宗宗歌」に聞く~』(東本願寺出版、二〇一一)などを上梓されています。

この「涅槃に至る仕事」で、まず援用されているのが、曽我量深(一八七五~一九七一)先生の「願に死して願に生きん」「願に死し願に生きよ」ということば(※)です。

このことばを湯浅さんは「真実に目覚めたところから、つまり、真実の信心から真に生きんとする、いのちの願力をいただくのでしょう」と味わわれています。あるおばあさんのことばとして「この病気がばばの毎日の仕事でございます」を述べられ、「『目覚めた』というところに止まることを許さない、気付いたところから、いのちの願いがはたらく」とし、それは「生死の矛盾に気がついたら、その生死の場が涅槃に至る道」、つまり「涅槃に至る仕事」と述べています。

ここで述べられる「仕事」は、そのまま「生きる道」と同義で扱っています。先のおばあさんのことばは、「この病気を病気として受けとめることが、ばばの毎日の生きる道でございます」という意味で受けとめているのです。

三、抜苦与楽

仏教は、抜苦与楽の教えであるといわれます。この点は、冒頭で述べたとおり、シッダールタの苦の自覚が出発点となっていることに起因していると考えてもよいでしょう。

曇鸞(三八五〜四三三)訳『大般涅槃経』巻十五「梵行品」には、「もろもろの衆生のために、無利益を除こうとすることは、これを大慈という。衆生に無量の利楽をともにしようとすることは、これを大悲という」と説かれています。

龍樹(約一五〇〜約二五〇)が造ったとされる『大智度論』(鳩摩羅什訳)巻二七「釈初品中四十二種字後大慈大悲義」には、「大慈とは、一切衆生に楽を与えることである。大悲とは一切衆生の苦を抜くことである」と説かれています。

曇鸞大師(四七六〜五四二)が著した『無量寿経優婆提舎願生偈註』、つまり『往生論註』には、「苦を抜くこと(抜苦)を慈といい、楽を与えること(与楽)を悲という。慈によることで一切衆生の苦を抜き、悲によることで、衆生の心が安らかでないことから遠離させる」と説かれています。抜苦と与楽のどちらが慈で、どちらが悲であるか、いまはそれにこだわる必要はありません。両方を合わせ、抜苦与楽が慈悲のはたらきであると受けとめてよいでしょう。

もちろん、私たちがその慈悲を実行することは、なかなか難しいものです。親鸞聖人はご和讃の中で「慈悲の心はさらになし」(『註釈版聖典』六一七頁)と述べておられるように、私たちは小さな慈悲さえも持つことが難しい存在です。

ところが、阿弥陀如来の慈悲は大いなる慈悲なのです。『仏説無量寿経』には、「身を観察するをもってのゆえにまた他心を知見したてまつる。他心とは大慈悲これなり。無縁の慈をもって、もろもろの衆生を摂したまう。」(『註釈版聖典』一〇二頁)と説かれています。阿弥陀如来が大慈悲をもって衆生を摂受するのは、抜苦与楽のためであることが示されています。親鸞聖人は『正像末和讃』の中で、「往相回向の大慈より 還相回向の大悲をう 如来の回向なかりせば 浄土の菩提はいかがせん」(『註釈版聖典』六〇九頁)と述べられておられます。これは大慈も大悲も阿弥陀如来のはたらきであり、小悲すらままならない私たちを、抜苦与楽する阿弥陀如来の姿が述べられています。その阿弥陀如来のはたらきをそのまま聞かせていただくのが、浄土真宗のみ教えということになります。

四、真実信心の目覚め

湯浅さんは、この一節の中で親鸞聖人の『浄土和讃』から次のご和讃を引用されています。「真実信心うるひとは すなはち定聚のかずにいる 不退のくらゐにいりぬれば かならず滅度にいたらしむ」(『註釈版聖典』五六七頁)というものです。

このご和讃を引用されたあと、湯浅さんは「真実信心の目覚めは、現前の生活の場が『聞法不退の場(絶えず真実に耳を傾け心を注ぐ生活)』となって『正定聚(自分にとって都合のいいことも悪いことも、矛盾を引き受けて生きる人間関係)』に住し、必ず『滅度(涅槃)』に至る完全燃焼の生活をいただくのでしょう」と述べています。

さらに、この聞法について、「教えを聞くということは、単なる教義や教理の理解ではない。その道に生きている人との出会いがいかに大切であるかということ。現在、自らが抱いている具体的な問題を抜きにしてはあり得ない。非常に身近な事実が、また、老病死をわがいのちとして生きる人間の、いのちの問題であろうと思われます」と自らの心象を述べています。

先に触れた大慈大悲は、阿弥陀如来のはからいで、自らなしうるものではありません。ですから、苦を抜き、楽を与えるのは、私たち自身ではなく、阿弥陀如来のはからいの中に生かせていただくことになるのです。私たちはそのように聞かせていただくことが、すなわち真実信心の目覚めであるのです。

五、苦楽をこえて

ところで、「楽」に相応するサンスクリットはsukha(スカ)といいます。阿弥陀如来が住する極楽もsukhavati (スカーヴァティー楽を有するところ)といいます。このsukhaは、「幸せ、喜び、安らぎ、安楽」といった意味もありますが、もともとは「良い車軸の穴」を意味します。つまり、車軸の穴を車軸がぎくしゃくすることなくまわることが「楽」だということを意味しています。またこれとは反対に車軸がぎくしゃく回ることをduhkha(ドゥッカ苦)といいます。

老・病・死といった苦しみは、duhkhaとsukhaが二項対立で考えるなら、老いることがない、病むことがない、死ぬことがない、これらが楽ということになるでしょう。できることなら、いつまでも快適に車軸が回り続けた方がよいに決まっています。しかし、老いを止めることも、完全な無病でいることも、まして死なないことなどあり得ません。永遠の若さや、必要以上の健康、生へのこだわり(あるいは死のうとすることも)、それらは煩悩として仏教は否定します。

仏教が説く「楽」は、車輪の軸がうまく回ったりするような「楽」、つまり不老、無病、不死になるような「楽」を説くのではありません。最初期の仏教以来、この世界は無常であり、すべてのものは苦を本性としていると説いてきました。ですから、抜苦与楽の「楽」は、決して苦と対立する概念としての「楽」ではありません。この「楽」は、そういった二項対立する苦楽を超越した仏の世界の「楽」を述べているのです。

六、老病死が生きる人生

湯浅さんは、「私たちにとっては、老いも病も死も、除かれるもの、不幸なことではなく、老病死によって生の豊かな営みを教えられるのです」と述べています。

老いるから、病になるから、死ぬから不幸なのではありません。もしこれらがまったくの不幸なら、私たちは生きている限り不幸せでしかありません。もっといえば、生きる意味を感じることすら難しくなってきます。そうではなく、如来の大悲を聞かせていただくこと、このことによって、老いや病や死が、苦しみや不幸のままに終わるのではなく、私たちの人生を輝くものにすると気付かせていただくのです。

※教学研究所編(二〇一二)『曽我量深集上 聞思の人一』(東本願寺出版、二三七頁)

(井上 陽)

日常生活に活かすヒント

  • 苦と向き合う: 老いや病、避けられない困難を、ただの不幸と捉えるのをやめてみましょう。それらがあるからこそ気づけること、学べることがある、という視点を持つことが第一歩です。
  • 教えを聞く場を持つ: 法話を聞いたり、本を読んだりする時間を作りましょう。教えは、自分の悩みや苦しみを照らし、新しい生き方を示してくれる光となります。
  • 「楽」の捉え方を変える: 目の前の快適さや快楽だけを追い求めるのではなく、困難の中にも見出される穏やかな心や、物事との調和に目を向けてみましょう。そこに揺るぎない「楽」があります。
  • はからいを手放す: 自分の力で全てを解決しようとせず、「阿弥陀さまのはたらきの中に生かされている」と聞かせていただく姿勢が大切です。思い通りにならない現実を、そのまま受け入れる心が安らぎに繋がります。

よくあるご質問

なぜ老いや病や死が「人生を輝かせる」のですか?

それらを単なる不幸と捉えるのではなく、いのちの有限性を知り、真実の教えに出遇うための大切なご縁と捉えるからです。苦しみを通して阿弥陀如来の慈悲に触れることで、苦が苦のままで終わらず、人生を深く豊かにする縁となると説かれています。

仏教の「楽」とは、楽しいことや快適なこととは違うのですか?

はい、違います。私たちが思う「楽」は苦しみの反対にある一時的な快楽ですが、仏教でいう「楽」は、苦しみや悩みを抱えたままで、それらを超えたところにある穏やかで揺るぎない安らぎ(涅槃の境地)を指します。苦楽の対立を超えた世界です。

「抜苦与楽」は自分で実践するものですか?

いいえ、浄土真宗では「抜苦与楽」は私たちが実践するものではなく、阿弥陀如来のはたらきそのものであると教えられます。「慈悲の心はさらになし」と親鸞聖人がおっしゃるように、私たちは他者の苦を真に抜くことはできません。その私たちを救おうとする阿弥陀如来の大慈悲を、そのまま聞かせていただくことが大切です。

解説にある「願に死し願に生きよ」とはどういう意味ですか?

曽我量深師の言葉で、「自分の小さな願い(我願)に死んで、仏さまの大きな願い(本願)に生きよ」という意味です。自分の都合や欲望で生きるのではなく、それを超えた真実の願い(阿弥陀如来の救いの願い)に生かされていく生き方への転換を促す、力強い言葉です。

ポッドキャスト

カテゴリー: 法語カレンダー解説 | 2025年7月のことば 老いや病や死が人生を輝かせてくださる はコメントを受け付けていません