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2025年5月のことば 仏さまというのは向こうから私のところへ いつも来ているはたらきです

浄土真宗で一番大切なのは素人感覚

六月は、近田昭夫先生のお言葉です。まず先生のお姿を知るために住職を務められていた寺院をお訪ねしました。東京都豊島区南池袋の閑静な場所にあり、二代目のご住職であった近田昭夫先生が、まったく何もないところに、本堂など全部仕上げられたそうです。本堂には浄財された方の名が多く掲示されていました。先生が念仏者として、内にも外にも躍動感あふれる活動をされたことを、本堂に座りながら感じることができました。三代目で現住職の近田聖二さまには、突然の訪間にも関わらず、先生のお話をお聞きかせいただきました。

近田先生は、一九三一(昭和六)年に東京都浅草でお生まれになりました。法政大学経済学部経済学科を卒業され、一九五五(昭和三十)年より真宗大谷派顕真寺住職になられました。その間、真宗本廟総会所教導や同朋会館教導を歴任され、去る二〇一八(平成三十)年十月二十六日に、八十六歳でご往生されました。

近田先生は「浄土真宗で一番大切なのは素人感覚だ」と言われました。素人感覚とは、「わかったことにしない」ということです。

小さい子どもは「どうして」「なぜ」と連発します。ですから子どもの世界は新鮮なのです。大人になると、わからないことをわかつたことにしてしまうから、驚きもなく感動もないのです。

確かに浄土真宗のお話は「なぜ」と考えるところから、新鮮なお念仏の味わいが出てくるように思います。

真宗の本尊はなぜ絵像・木像

巻頭の言葉は、二〇〇八(平成二十)年三月二十二日に真宗本廟(東本願寺)春季永代経総経において、「なぜ、絵像・木像の阿弥陀如来を本尊とするのか」という講題でお話をされた講演録の中に出てくるお言葉です。

親鸞聖人は「南無阿弥陀仏」という六字の名号を、あるいは「帰命尽十方無碍光如来」という十字名号などをご本尊として礼拝されていました。ところが現在はなぜか、浄土真宗の本山をはじめ、どこのお寺でも木像の阿弥陀さまをご本尊とされています。またご門徒宅のお内仏は、絵像の阿弥陀さまです。親鸞聖人は名号をご本尊とされていたのに、今はなぜ阿弥陀さまの木像。絵像がご本尊とされているのでしょうか。

浄土真宗本願寺派の本山である本願寺の阿弥陀堂に安置されているご本尊の阿弥陀さまはお木像で、蓮の台の上にお立ちになっている立像です。しかし知恩院をはじめ、浄土宗の阿弥陀さまはお座りになっています。なぜ浄土真宗では立ち姿なのでしょうか。

阿弥陀さまは仏の座(お浄土)から、今まさに降り立とうとするお姿で、少し前かがみになっています。人間の迷いの世界のど真ん中に、阿弥陀さまは降り立たれ、煩悩のあやうさや浅ましさを知らせ、呼び覚ましを与えてくださるのです。

なぜ絵像。木像のご本尊なのかというと、あのお姿を拝することによって、「阿弥陀さまは私の姿をご覧になって、仏の座に落ち着いてはおられなかったのだ」と気づかせるためです。そのことを私たちに知らせるため、お立ち姿をご本尊としてお敬いするのです。

言葉となった仏さまが招き喚ぶ

この後に

仏さまというと私たちと懸け離れた尊いお方とお敬い申しあげるけれどもそれは尊敬しているといっても、実は敬遠しているだけなのです。生きた仏さまのはたらき、おこころというものが全然わかっていないわけです。(乃至)実は、仏さまというのは、向こうから私のところへいつもきているはたらきです。

と言われています。

お寺にある木像の阿弥陀さまやお内仏の絵像は、仏の座を降りて、この泥にまみれた娑婆世界にお出ましになります。仏さまらしい姿形をまったく滅し去って、言葉となった仏さま「南無阿弥陀仏」の六字の姿なのです。「いつでも、どこでも、だれでも」と出遇ったらならば、平等に目覚めることができる、これこそ生きた仏さまです。その仏さまというものを、お釈迦さまが『仏説阿弥陀経』に語り遺されたのが「言葉となった仏さま。南無阿弥陀仏」であるといわれました。

「南無阿弥陀仏」は中国語で「帰命尽十方無碍光如来」と翻訳されました。 一般的に「帰命」とは私たちがおこす信心のことで、仏のみ名とはしません。しかし親鸞聖人は「帰命」ということまで仏のみ名とされ、無碍光如来は、その智慧・慈悲のお徳から私たちの信心まで施し与えてくださる仏さまと仰がれたのです。この私に阿弥陀さまの方から先手をかけて、何もかも整え、どうか救われてくれよと願ってくださったのです。

このような仏さまであるから「帰命尽十方無碍光如来」と呼ぶようになったのであり、またこの名のあるところには、いつでも、どこでも、だれにでも、阿弥陀さまはいきいきとはたらいて、私を摂取してくださるのです。

親鸞聖人の「行文類」の六字釈に「帰命は本願招喚の勅命なり」(『註釈版聖典』一〇七頁)といわれています。「南無阿弥陀仏」というのは、仏さまが私を招き、喚び覚まし続けている勅命であるとおっしゃっているのです。

この「招」というのは「まねく」ということです。私を阿弥陀さまの方へ招いてくださり、私は阿弥陀さまから「わが国に生まれ来たれ」と招かれている人間なのだということです。

「喚」は「よぶ」という字ですが、親鸞聖人はこの「喚」を「ヨバウ」と読んでおられます。「ヨバウ」は「よぶ」という動詞に、「ウ」という動作の継続をあらわす助動詞を付けておられます。つまり阿弥陀さまは、私を喚び続け、招き続けているのです。 一回だけではなく継続して喚び続けている相が、私が「南無阿弥陀仏・南無阿弥陀仏」とお念仏を相続している相なのです。だから念仏を相続しているということは、阿弥陀さまのはたらきが私に至り届いていることなのです。

それを明治時代の仏教学者であり、僧侶の原口針水和上は、われ称え、われ聞くなれど、南無阿弥陀仏、連れて行くぞの親の呼び声と言われました。

阿弥陀さまの私を喚ぶ仕事を、私がさせていただくのです。阿弥陀さまのお仕事を、阿弥陀さまに代わって私がさせてもらつて、そして阿弥陀さまのお言葉を私が聞かせてもらっているのです。これはありがたいことです。

磁石の警えなほ磁石のごとし、本願の因を吸ふがゆゑに。

(『註釈版聖典』二〇一頁)

と親鸞聖人は阿弥陀さまの救いを磁石で喩え、磁石が鉄釘を吸いつけるようなものだと言われています。普通の鉄釘は絶対に動きません。ところが磁石を近づけた時に、鉄釘は磁石の方に向かって動いていきます。これは鉄釘が磁場の中に入ると、外面はただの鉄釘ですが、内面は変貌して磁石になっているからです。同じ鉄釘でも、磁気を帯びた鉄釘と磁気を帯びない鉄釘とでは、鉄の原子は同じなのですが、原子の配列が違ってくるのです。親鸞聖人はそれを、阿弥陀さまの本願の救いの模様を顕わすのに使っておられます。

阿弥陀さまの本願力というのは磁石のようなものです。「本願の因を吸うがゆゑに」(『註釈版聖典』二〇一頁)と、阿弥陀さまが救おうとされた救いの対象を、自らに吸いつけていくというのです。磁石に引っついている鉄釘に、他の鉄釘を引っつけると、その鉄釘が引っつくのです。これは鉄釘が既に磁石になっている証拠です。電子顕微鏡で見ると、磁気を帯びると原子の配列が瞬間に変化します。そうなると単なる鉄ではなく、磁石になっているのです。

内面的な大きな変革

本願を聞き、そして本願を信じたということは、その意味で外面は煩悩具足の凡夫のままの姿なのですが、内面に大きな変革を受けているのです。どんな変革を受けるかというと、阿弥陀さまと同質のものになっていくので、阿弥陀さまの方に向かって親しみ近づく親近性をもつようになるのです。そして仏さまに向っていくような人間に育てられるのです。錆びた釘も曲がった釘も磁石に引き付けられるように、阿弥陀さまの本願も、賢かろうが愚かであろうが罪深きものであろうが、無条件に引き付けてくださるのです。

どのような変化が起こるのかというと、第一に、教えを聞くことを少しずつ楽しむようになっていきます。私たちは教えを聞くことを嫌がり、聴こうともしなかったけれど、少しずつ教えを聞くことが楽しくなって、教えに対して親近性が出てくるのです。

第二に阿弥陀さまのみ名を称え、阿弥陀さまを思い、浄土を思う人間になっていきます。これは内面に変革を受けている証拠です。鉄釘が磁石に変わっていくように、外見は少しも変わりませんが、内面には大きく変革しています。曲がった鉄釘も折れた鉄釘でも、磁気を帯びた鉄釘は、他の釘を吸いつける能力を持ちます。

そのように阿弥陀さまの教えを聞き、そして阿弥陀さまに向かった存在に変化をうけます。また有縁の人たちを阿弥陀さまの方に向きを変えていくようなはたらきをする人間に変わっていきます。このように大きな変革が行われていくのです。

救われるということは、外面はあまり変わりがないように見えますが、内面が質的に変わっていくのです。質的に変われば、もちろん外面にも変化はあるでしよう。

教えを聞いて慶ぶ人間

まずは教えを聞いて慶ぶ人間になります。そして人々に「共にこの教えを聞いて、共に阿弥陀さまの子であることに目覚めていきましょう」という呼びかけも出てくるようになります。そして阿弥陀さまの教えにしたがって、「行ってはいけない」

「言ったらダメだ」「思ってはいけない」と、身にも口にも心にも慎んでいこうという嗜みがおこってきます。ここに変革を受けている姿が出てきます。

煩悩具足の愚かな者を、そのままで救おうと思し召す阿弥陀さまの教えに触れた時に、私たちは大きな変革を受けます。磁石は折れた鉄釘でも曲がった釘でも、鉄ならば引きつけます。阿弥陀さまの本願もその通りで、賢かろうと愚かであろうと罪業深き者であろうと、その人が、クいのちクあるものであるが故に、阿弥陀さまは無条件に引きつけてくださるのです。そして阿弥陀さまと同質のものに仕上げてくださいます。そのはたらきが、阿弥陀さまの救いなのです。

そして阿弥陀さまの本願を聞いて、教えをいよいよ慶ぶ人間になり、教えを聞くことを楽しむ人間になって、そして仏さまに親しみ深くなって来るのです。

阿弥陀さまにお礼を申し、お念仏を申すようになって、阿弥陀さまに対する馴染みが深くなっていくのです。

「南無阿弥陀仏」

(大野孝顕)

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2025年4月のことば この私のいのちにいつも 如来のいのちが通い続けている

ほくほくと生きる

藤澤量正先生は一九二三 (大正十二)年、滋賀県永源寺町(現・東近江市)でお生まれになりました。龍谷大学文学部(仏教学専攻)を卒業され、鉄道道友会講師、浄土真宗本願寺派伝道院研修部長、同講師、中央仏教学院講師などの要職を歴任。

本願寺派布教使、滋賀県浄光寺住職としてご活躍され、二〇一二(平成二十四)年七月に、九十歳を一期としてご往生されました。

先生は先代より住職を継職されてから、親鸞聖人のみ教えを多くの方にお伝えすることに尽力され、国内はもとより海外まで布教に行かれ、また多くの本を執筆されました。その著作を拝見すると数多くの方々とお念仏との出遇いがあり、またさまざまな書物からの引用の多さに驚きました。

四月のお言葉は「ほくほく生きるー九十歳の法話一』(本願寺出版社)の中に出てくる一節です。榎本栄一さんの『光明土」「下根夫」の詩の中に、

(「念仏のうた光明土』七十頁心社)

大悲の中をほくほくあるいている

と、作者ののびやかで安らいだ心情が表れており、毎日の日暮らしの中でゆとりとよろこびを失わず「ほくほくと生きる」人生を続けたいと、これが本の題名になりました。人生は順境の時も、逆に孤独と苦悩の中に身をさらされても、仏さまはこの私から決して離れることなく、大悲の中に包まれていることを知らされたなら、いつでも、どこでも、どんな時でも、よろこびの見える人生が開かれるのです。

ここに、

この私のいのちにいつも如来のいのちが通いつづけている

と、この事実を決して忘れてはいけないといわれました。

生死を超える

生まれてきた意味も知らず、いのち終えていく方向もわからない私には

十方の衆生、至心信楽してわが国に生ぜんと欲(おも)ひて、乃至十念せん。もし生ぜずは、正覚を取らじ。

(「註釈版聖典」一八真)

(生きとし生けるものよ、本当に疑いなく私の国お浄土に生まれると思って、たとえ十声でもよいから私の名、南無阿弥陀仏と称えてくれ、もし命終えて私の国お浄土に生まれないようならば、私はさとりを開きません)

と阿弥陀さまの本願の言葉が響いてくるのです。この阿弥陀さまのおおせをその通りいただいた時、「本当に疑いなく阿弥陀さまの世界に生まれさせていただきます」という心が生まれてくることを「心」というのです。

この「倉心」は、私の生きることの意味と方向を明らかに定めていきます。「あなたはどちらに向かって生きていくのですか」と訊かれたら「私はお浄土に向かって生きております」と答え、「あなたは死んだらどうなるのですか」と訊かれたら「私には死はありません。お浄土に生まれさせていただきます」と答えるのです。

これは正しく私の生と死の迷いの闇を破って、生と死を超えた阿弥陀さまの智慧が届いているのです。本願をずることについて、親鸞聖人は「心の智慧にいりてこそ」「正像末和讃」(『註釈版聖典』六〇六頁)の「心の智慧」に「信ずるこころの出でくるは智慧のおこるとしるべし」とご左訓にてお示しくださっています。

つまり阿弥陀さまの智慧をいただいて、それによって私の生と死を超えるような視野が開かれるのです。そして生きることも尊いことならば、死ぬことも尊いといえるような視野を開こうとされたのです。

衆禍の波転ず

藤澤先生は、一九九五(平成七)年九月、暖頭がんの手術を受け、声帯も切除し声を失うことになりました。四十数年にわたって布教され教壇に立たれていただけに、声を失うことは人生が終わったような思いだったでしょう。住職でありながら読経もできず、法話どころかお念仏を称えることもできない身になられた絶望感は、想像を超えたものでしょう。この身体でなにか具体的な生きる道を見出さねばと思っていた時、一通のお見舞い状が届きました。そのお見舞い状の最後に「先生の話しておられたグットマン博士の言葉を実践していただくことを期待しています」と書かれていたのです。それは先生がかつて講義や布教などでよく語っていたもので、パラリンピックの提唱者であるといわれたイギリスのグットマン博士の

失ったものを追い求める前に、残されたものの価値を見出せ

という言葉でした。先生はこの言葉によって入院中の孤独と愚海を抱えていた気持ちが振り払われたということです。そして病気にならなければわからなかったこと

悲しみに遇わなければ知ることのできなかった貴重な経験ができたことを慶ばれたのです。その時に健康な時と病気の時とでは、受け取り方に大きな差異があることに気づかれました。

まことの阿弥陀さまの「智慧」は、すべての物事を固定的な実体ととらえることがありませんから、私たちの物事を一義的に限定してとらえて身動きがとれなくなるような考え方を読め、さまざまな見方や考え方、受け取り方があることを教えてくれます。憎い人の中に如来を見、不遇の人生の中で阿弥陀さまのお育てを感ずることのできるような智慧を与えてくれます。空しく苦しみに打ちひしがれていくのではなく、苦難に耐える力と、苦難の意味を転換する智慧とを与え、人々を救っていくのが阿弥陀さまの大悲智慧のはたらきです。

親鸞聖人のお言葉に、

しかれば、大悲の願船に乗じて光明の広海に浮びぬれば、至徳の風静かに衆禍の波転ず

(「行文類」「註釈版聖典』一八九頁)

とあります。お念仏に出遇った一生は、無得光の光につつまれて、あたたかい大悲を仰いで、静かにお浄土へと歩み続けます。そして人生には絶えずさまざまなわざわいや悩みの波風がおこってきますが、無碍光の智慧と慈悲に抱かれて、その波風に沈むこともなく、一つ一つのできごとがおかげさまと慶びに転じ超えさせていただくことができるのです。このようにして阿弥陀さまの救いの慈悲の中に生きる念仏の行者は、障りや禍を豊かに深く生きる意味に転ぜしめられつつ、さとりの彼岸へと近づくのです。

慚愧のこころ

『教行証文類』の「文類」に慚塊ということがいわれています。

諸価世つねにこの言を説きたまはく、立つの甘法あり、よく熟生を抜く。でつには・子つには塊なり。はみづから罪を使らず、塊は他を数へてなさしめず。慚はうちにみづから羞恥す、懐は発露して人に向かふ。慚は人に差づ、愧は天に差づ。これを慚塊と名づく。無慚愧は名づけて人とせず、名づけて畜しょう生とす。

(『註釈版聖典」二七五頁)

これは父を殺し、母親を宮殿の奥に閉じ込めた阿闍世が、自らの罪の恐ろしさに気がつき、嘆き悲しみます。全身に瘡蓋ができ、心因性の皮膚病にかかりました。

それを名医の春婆が、阿閣世を導いてお釈迦さまのところに連れて行くのです。そしてお釈迦さまの教えを聞いて、阿闍世は蘇ります。

その時に春婆が、阿世を慰めるため「二つの白法あり」と言葉をかけます。

「白法」とは、清らかな真理の法ということです。「慚愧」の心とは、まず「慚」は自ら罪を作らないこと、自分で恥ずかしいと気がつくこと。「塊」は人に教えて罪を作らせないこと、恥ずかしいことをしましたと人に謝ること。また「慚は人に差づ、愧は天に差づ」とは人天に恥ずるということ。「天」に恥(差)ずとは、見えないものに恥じることです。

関西で「マンマンちゃんが見てはるで」と言われるように、人は見てなくても、仏さまが見ているのです。慚愧ある者を人といい、慚愧のない者を畜生というのです。畜生とは、犬や猫のことではありません。犬や猫は宗教がなくても、大きな罪を造らず生きていけます。しかし人間は宗教がなければ、何をするかわかりません。

慚愧の心を持たなければ、どんなことをするのかわかりません。ですから人間には、宗教が与えられているのです。

人の皮をかぶっていても、慚塊がなければ畜生なのです。慚愧のあることによって父母、あるいは目上の人を敬い尊ぶ心が出てきます。真実を知ることによって自らの恥ずかしさに気づき、恥ずかしさに気づいた人は尊いものに気がついているのです。慚塊があるから、倫理があるのです。父母・兄弟・姉妹、夫婦、あらゆる人間関係は慚塊の心なくしては存在しえないのです。

人間が宗教を持たなかったら、ブレーキが壊れた自動車に乗っているようなもので、怪我をします。また他の人も傷つけます。だからブレーキが一番大事なのです。

このように慚愧の心を生ぜしめるのが、仏さまの教えなのです。

仏さまのはたらき場所

仏心とは大慈悲これなり

(『仏説観無量寿経」「註釈版聖典』一〇二頁)

といわれます。慈悲とは相手の苦しみを自分の苦しみと感ずるから、その苦しみを何とか取り除いて、相手の幸せを本当に願っていく、心だといわれます。「湿薬経』に

例えば七人の子を持つ親があるとしなさい。父母の心は平等に七人の子どもを思っていますが、もしその内の一人が病になると、その病気をした子に、特に親心は深く関わっていきます。そのように仏さまも、全ての人々を平等にご覧になるけれども、罪深いものに仏さまの心は、より深く関わっていきます。

(『註釈版聖典』二七九頁著者意訳)

とあります。親は病気に苦しむ子に、全身全霊をかけて関わっていきます。その時に子の善し悪しは関係ないのです。子の病気が治らなければ、親は決して心が休まりません。子の痛みを自らの痛みとして、親は関わっていくのです。

同じように、阿弥陀さまの救いは病が重ければ重いほど、苦しみが深ければ深いほど、そこに大悲の心はより深く関わっていくのです。どんなに阿弥陀さまから遠ざかり背いて生きていこうとする人も、絶対に見捨てることなく、必ず救い取るとの強烈な大悲をかけられているのです。阿弥陀さまのはたらき場所は、煩悩悪業の真っただ中を生きている私の人生だということを教え示してくださいます。その私に「南無阿弥陀仏」のお念仏を選び取られたのです。

私たちは、お浄土がわかってから、お浄土を願うわけではありません。阿弥陀さまがわかってから、阿弥陀さまに委ねるのではないのです。何もわからないかな私の煩悩の真っただ中に、阿弥陀さまは「南無阿弥陀仏」となって顕現してくださるのです。煩悩の危なさ、浅ましさを慚愧せしめ、お浄土への迷わぬ道をはっきりと定められるのです。阿弥陀さまのお慈悲のなかで感謝と喜びの人生が開かれるのです。

この私のいのちに、いつでも、どこでも、どんな時でも、阿弥陀さまは「南無阿弥陀仏」となってはたらいてくださるのです。

「南無阿弥陀仏」

(大野 孝頭)

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2025年3月のことば 真の智慧はそのまま大悲でもある

上山大峻先生の生涯

三月のことばは「平等への視座ー対談・歴史的課題と教団ー』(本願寺出版社)に出てくる上山大峻先生のお言葉です。

上山先生は一九三四(昭和九)年に、山口県長門市にある浄土真宗本願寺派浄泉寺にてお生まれになりました。一九六二 (昭和三十七)年に龍谷大学大学院を単位修得退学された後、本願寺派宗学院で研鑽。その後、龍谷大学に奉職され、三十七年間にわたって仏教学を中心とした教育研究に従事されました。その間には海泉寺住職としてご門徒をご教化いただく傍ら、大学の要職を歴任され、一九九九(平成+一)年には学長として大学運営にもご尽力なさっています。また先生は大学を退官後も、宗派の教学伝道センター所長や筑紫女学園大学学長などの重責を担い、宗門内外に多大な貢献をなされました。

このように数多くのご功績を残された上山先生でしたが、二〇二二(令和四)年十二月十九日、ご家族が看取られる中で、眠るように静かなご往生を迎えられました。御年八十九歳のことでした。

ことばの背景

先ず、この言葉の意味を知るために、言葉が出てきた背景を紹介します。この書物は副題が表すように、上山先生自らがご執筆されたものではなく、お二人の先生による対談を書籍化されたものです。対談のお相手は、元教学伝道センター所長であり、本願寺派勧学(真宗教学の最高学階)の梯實園先生(一九二七ー二〇一四)です。もう少し詳しくいえば、対談という体裁を用いてありますがその中身は、上山先生による梯先生へのインタビュー的な色彩が強い内容です。

以上のようなことから、三月の法語は、両者の間に通底するお考えを、上山先生が確認された言葉だと受け取った方がいいでしょう。また、この対談が企画された理由については、この本の前書きに簡潔に記載がありますが、その要点は次の通りです。

(前略)差別や戦争を容認し肯定してきた教学(み教えの受け取り方>の問題として、その枠組み全体を現代の視座から見直し、克服していく必要が生じました。さらには、むしろより積極的に「差別・被差別からの解放」をめざす教学を、また、戦争に協力してきたあり方を見直し、「平和を創造する教学」として、「御同朋の願いに応える教学(御同期の教学)」をたずねる必然性が出てきたのです ※<>内著者追加(同署十頁)

さて、この対談の企画意図が前述した通りであるため、その内容は書籍全体を通して、「真宗を学ぶ者へ新しい示唆を与える」ことを意識した内容となっています。

このような書籍作成の経緯を十分考慮しながら、今月の法語の意味を訪ねてみたいと思います。

智慧と大悲

法語の言葉は「真の智慧は、そのまま大悲でもある」ですが、ここでいわれる智

慧とは智(仏さまの智慧)のことです。また大悲とは、阿弥陀仏の惣悲心を略した言葉です。思徳識に出てくる言葉なので、ご存知の方も多いと思います。さて、この智慧と慈悲の関係について、対談では次のように語られています。

(真実の智慧の無い)私どもは、いつも自己中心的に物事を考え、自分の都合を相手に投影して、いいとか悪いとかと騒いでいますが、要するに自分の心の影に踊らされているのでしょうね。私どもの本当の「いのち」は、私の妄念の手垢の付かない向こう側に厳然と輝いているのでしょうが、残念ながらそれを妄念が隠してしまっているわけでしょう。(同書四五頁)

つまり、私の煩悩が自分を中心とした世界を作り上げ、自分と他人を区別して、本当のいのちの輝きや尊さを見えなくしてしまっているといわれるのです。自分の都合によって「いい人」「悪い人」「役に立つ人」「立たない人」などと勝手に作り上げ、愛欲と憎悪を繰り返しながら毎日を生きているのです。親鸞聖人はご自身のこととして

無明煩悩が激しくおこり、数限りない塵のように満ちわたっている。ほしいままに愛着や憎悪をいだくありさまは、まるでそびえ立つ高い峰や缶のようである。(「正像末和護』「三帖和議(現代語版)」一七)

と述懐なさっています。山の峰が高ければ高いほど、その谷底は深くなっていきます。このように、愛が深ければ深いほど、裏切られたときの憎悪は大きく、激しい炎となって自他のいのちを焦がしてゆくのです。これを虚不実の「わが身」だと嘆かれました。

真の智慧とは

このように、無明であるが故に、自分の妄念(分別心)によって描き出した世界を真実だと思い込み、そこに捕らわれながら日々の生活を繰り返している、私たちの悲しい姿があります。

しかし、そのような生死(迷い)の苦海に浮き沈みする私を呼び覚まし、真実に向かわせるはたらきこそが、真の智慧であるとおっしゃるのです。また、その智慧は必ず大悲心となって私のいのちに顕現してくださるのだとおっしゃっています。そのことについて

慈悲の慈とは(語の)マイトリの訳語であり、悲とはカルナの訳語だそうですね。マイトリは純粋な友愛、相手の幸せを心から願うことをいい、カルナは相手の悲しみをわがことのように痛む心ですから、要するに痛みの共感です。

とりわけ人の痛みを自らのこととして共感し響く心、これが仏教の本体なのでしょうね。その根底には、自他の隔てを超えた自他一如といわれるような智慧の領域、すなわちまことの「いのち」の領域が拡がっています。(同者四五頁)

と語られ、また、その智慧の領域は必ず「平等の大悲」としてはたらくのだともおっしゃっています。

平等とは

私たちは「平等」という言葉を何気なく使っていますが、よく考えるとこれはなかなか難しいことです。何故なら条件によって人間の平等は変わってくるからです。

例えば、ここにさまざまな人たちがいて、その人たちに「同じ量のパンを一人に一つずつ配分」すれば、これは確かに平等です。しかし、そこに「お腹を満たす」という条件が加わると、まったく平等ではなくなってしまうのです。赤ちゃんはそのままでは食べることはできないし、大食漢の人にとっては腹の足しにもならないでしょう。もともと平等の平とは秤(はかり)という意味だそうです。対談ではそのことについて、ジャータカ(お釈迦さまの前生譚)を引用してお話しされています。

飢えた鷹に追いつめられた鳩が、救いを求めてシビ王の懐へ飛び込んできました。そこで、シビ王は鳩を助けるために、鳩と同じ分量の自分の肉を鷹に与えて、(鳩と鷹の)両方を生かしていこうとします。しかし、シビ王が鳩と同じ分量の肉と思ってわが身から切り取って提供した肉も、天秤ばかりにかけますと鳩の方が重くて、釣り合いが取れません。そこで(最終的には)鳩を片方の秤皿に載せ、片方の秤皿にシビ王自身が乗ると、初めて秤は水平になり、重さが等しくなったという説話です。

そこでは、鳩の重さもシビ王の重さも鷹の重さもまったく等しいというのですから、その重さは物理的な重量ではなくて、「いのち」の重さを意味していたことは明らかです。(中略)仏教徒が「いのち」を考えるときには、常にこのシビ王のジャータカを思い起こして考えていったのでした。仏界とは「いのち」の重さが平等であるような領域なのです。(同善四〇頁)

真の智慧は、そのまま大悲である

阿弥陀仏が浄土を建立し、私を喚び続け、喚び覚まして、念仏の楽生へと成し遂げなければならない道理はここにあったのです。そのお心を親鸞聖人は、

阿弥陀仏が願いをおこされたおこころを尋ねてみると、苦しみ悩むあらゆるものを見捨てることができず、何よりも回向を第一として大いなる慈悲の心を成就されたのである。(「正像末和護』「三帖和議(現代語版)」一五二頁)

と詠われています。「回向を第一」というのは「仏さまが先手であった」ということです。私から拝まれるべき対象であった阿弥陀仏が、私を拝んでくださる、私の人生の主人公へと転じられたのです。これを回心といいます。

このような浄土からの智慧の念仏に喚び覚まされ、大悲のお心を信知させられたとき、絶対的に愚かなる私が、真実なる大悲の浄土を慕う私に育てられていくのです。

田中 信勝

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2025年2月のことば 「名号」は私たちの地獄に響く 阿弥陀のいのち

亮先生の生涯

二月のことばは「悲の海は深く』(東本願寺出版)に出てくる高史明先生のお言葉です。

先生は一九三二 (昭和七)年に、山口県の下関市にて誕生されました。三才のとき母親と死別され、高等小学校を中退後、さまざまな職業を経ながら独学にて文学を会得。元来より持ち合わせておられた、いのちを見つめる深い洞察力とその表現力によって、作家としての道を歩み始められたのです。一九七五(昭和五十)年には一人息子の真史さんが十二才で自死をするという深い悲しみの中に、「戦異掛」を縁として親鸞聖人の教えに出遇い、海土真宗に導かれたのでした。数多くの作品や講演会などを通して、あまたの人々に真のいのちのあり方や生きる意味を問い、阿弥陀仏の願いに生きることの尊さを伝え続けてこられた先生でしたが、二〇二三(令和五)年七月十五日、神奈川県の自宅にて、お念仏の中に往生されたのでした。御年九十一才のことです。

ただ弥陀をたのむこころ

この書籍は、真宗大谷派佐世保別院報恩講でのご法話をまとめられたものです。

このご法話全体を通して語られていることは、自力(自分中心の世界)に固教して人間が暗闇を作り続けることの罪業の深さ、そしてそれに対する阿弥陀仏による絶対他力の救済です。先生はそのキーワードとして道知上人の「御安童」(大谷派では「御文」)を用いられておられます。少し長い文章なので、肝要な部分を抜き出して紹介します。

(前略)弥陀如来の悲願に帰し、一心にうたがいなくたのむこころの一念おこるとき、すみやかに弥陀如来光明をはなちて、そのひとを摂取したもうなり。

これすなわち仏のかたよりたすけましますこころなり。またこれ心を如来よりあたえたまうというもこのこころなり。さればこのうえには、たとい名号をとなうるとも、仏たすけたまえとはおもうべからず。ただ弥陀をたのむこころの一念の心によりて、やすく御たすけあることの、かたじけなさのあまり、如来の御たすけありたる御恩を報じたてまつる念仏なりとこころうべきなり

(中略) 寛正二年三月

(「御文章集成(帖外御文章)」「浄土真宗聖典全書(五)相伝・下』二二九頁)

このお手紙を発布された「寛正二年」とはいったいどのような年だったのでしょうか。

この年の二年前、一四五九(長様三)年は全国的な干ばつや京都への台風の直撃などで、西日本を中心に大飢催が発生した年です。翌年にも大雨による水害と干ばつが交互に訪れた上に、虫害と疫病も加わって、飢が全国に拡大していました。

京都への台風直撃では、加茂川が氾濫して多数の家屋が流出し、数え切れないほどの死者が出たほか、二年後(寛正二年)には飢催がより深刻化し、この年の最初の二カ月で、京都市中で八万二千人もの餓死者が出たと資料には記されています。

道ばたには、桁ち果てた数多くの遺体が折り重なり、それが洪水によって加茂川に押し流されてゆく。あの大きな川が遺体によって塞き止められ、川の流れが止まったとさえ、当時の資料は伝えています。街中には死臭が漂い、病人はその苦痛にのたうち回り、死を待つ人々のか弱きうめき声が街中を覆っていたのです。それは病苦とともに死に向かう恐怖と不安の「助けてください」の祈りの声だったに違いありません。このような惨状の只中に出されたのが、先の蓮如上人のお手紙なのでした。

たとい名号(念仏)をとなうるとも、仏たすけたまえとはおもうべからず。ただ弥陀をたのむこころの一念の心によりて、やすく御たすけあることの、かたじけなさのあまり、如来の御たすけありたる御恩を報じたてまつる念仏なりとこころうべきなり

なんと厳しいお言葉なのでしょうか。しかし、ここにたすけられた世界に生きる如上人の、揺るぎない心の表白が聞こえてくるのです。上人が「たのむ」という語をお使いになる場合は「まかせる」という意味ですから、「弥陀をたのむこころ」とは「阿弥陀仏にまかせるこころ」のことです。それは「必ず救う、われにまかせよ」と私の口に届いてくださる大悲の奥び声「南無阿弥陀仏(名号)」を、そのままに受け入れたこころです。ですから、私が申す念仏は「ありがとうございます」と「御殿をじたてまつる念仏」に他なりません。人知を越えた苦悩を救い送げることができるのは、人知を超えた仏智不思議の名号、南無阿弥陀仏しかないのです。

悲しみを縁として

高先生はこの「ただ弥陀をたのむ(阿弥陀仏にまかせる)こころの一念の心」によってのみ、人は救われるのだと語られています。逆にいえば、自分をたのむ

(人間中心の)心によってこの世を地獄と化し、人々は鬼となって、この世を果てしなき暗闇の世界へと墜落させていくのだともおっしゃるのです。

一人息子の真史さんを、十二才という若さで自死で喪ったとき、深い悲しみの中で先生は自らに問われました。それは真史さんが中学生になったときに、父親とし

て、「今日から、君は中学生だ、これからは自分のことは自分で責任を取りなさい・・・他人に迷惑をかけないようにしなさい」

と励ましの言葉を贈られたそうです。しかし、その人間中心の一言が彼を地獄に追い込んだのではないかと。あのとき何故、

「人はひとりでは生きていけない、迷惑をかけねば生きていけない存在なのだ」と言えなかったのか…・。ここに自らの無明の根本があるのだと気づかれたそうです。

その後「数異抄』に導かれて親鸞聖人に出遇い、阿弥陀仏のお救いにあずかられた先生は、これからを生きる子どもや青年たちに、他力に生きることの大切さを伝え続けられるようになります。

地獄に響く名号

真史さんが遺した多くの詩を「ぼくは十二歳』(筑摩書房)という詩集にして出版されたのも、そのような心からではなかったでしょうか。ここに朝日新聞への先生の寄稿があります。

ー自分支える足の声、聞いてー

ほくだけはぜったいにしなない

なぜならば

ぼくは

じぶんじしんだから

三十一年前、ひとり息子の真史は、人知れず詩を書きためた手帳の最後にこう春いて、自死しました。十二歳でした。「なぜ!」という自問をくりかえしながら、息子が残した詩を妻とともに「ぼくは十二歳」という詩集にまとめました。読者から多くの手紙が届き、訪ねてくる中高生も後を絶ちませんでした。

ある日、玄関先に現れた女子中学生は、見るからに落ち込んだ様子でした。

「死にたいって、君のどこが言ってるんだい。ここかい?」と頭を指さすと、こくりとうなずきます。私はとっさに言葉をついでいました。

でも、君が死ねば頭だけじゃなく、その手も足もぜんぶ死ぬ。まず手をひらいて相談しなきゃ。君はふだんは見えない足の裏で支えられて立っている。足の裏をよく洗って相談してみなさい。

数カ月後、彼女からの手紙には大きく足の裏の線が描かれ、「足の裏の声が

聞こえてくるまで、歩くことにしました」と書かれてありました。

思えば、真史が最後までこだわった「じぶんじしん」とは、足の裏で支えられた自分ではなかった。そのことに気づかせてあげていれば・・・・・・。(中略)

命は一つだから大切なのではなく、君が家族や友人たちと、その足がふみしめる大地でつながっている存在だから貴重なのです。切羽つまった時こそ、足の裏の声に耳を傾けてみてください。

(『朝日新聞二〇〇六年十一月二十二日掲載」)


また、先生は東京大学へ特別講義に招かれた時の心情を、書籍の中でこのように紹介されています。

(エリートの道を歩んできて)挫折を知らないものが挫折した時が、一番危ない。

すぐ死にたくなる。どうかこれからの問題として、そういうときは「たすけてください」と叫びなさい、と私は(学生たちに)言いました。叫んで、叫んでいくと「仏たすけたまえとは思うべからず」このようにおっしゃっている蓮如聖人のお言葉に出遇うことができる。その時、人生が本物になってくるのであります。

(「悲の海は深く』)

この若者たちがこれから先の人生で、いくたびも出遭うであろう地獄への悲嘆。

先生は「生きる」という世界に捕らわれ苦悩する若者たちに、「生かされているいのち」への気づきを強く促されています。それは「たすけてください」と叫ぶより先に「かならずたすける」という阿弥陀仏のいのちの叫び(名号)が、もう既に私たちの地獄に響いているという真実への誘いでもあったのです。

(田中 信勝)

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2025年1月のことば いつでも どこでも 誰でも たすける行 それは念仏

竹中先生のご生涯

一月のことばは、「浄土真宗の葬儀』(東本願寺出版)に出てくる竹中智秀先生のお言葉です。

先生は一九三二ー(昭和七)年、兵庫県市川町に所在する、真宗大谷派光園寺に誕生されました。一九五九(昭和三十四)年に京都の大谷専修学院を卒業の後、縁あって大阪に所在する真宗大谷派定久寺に入寺されました。先生は大谷専修学院指導や同学院主事を経て、一九八八(昭和六十三)年には同学院長に就任され、数多くの真宗学徒を教導なさいました。また、海土真宗の葬儀をはじめとする儀礼についての見識は広く、真宗学はもとより民俗学の知見から、浄土真宗に相応しい儀礼のあり方について、常に新しい視点で示唆や提言をなさったのです。

このように多くの功績を残された先生でしたが、二〇〇六(平成十八)年十月、御年七十四歳にてご往生されました。

仏教と神道

さて、今月の言葉は前述した『浄土真宗の葬儀』からの引用ですが、目次は「真宗の数学と薬送後札」となっています。つまり、この言葉が出てくる背景は、海士真宗という「み教え」と、私たち真宗門徒が行う葬儀という「儀式・儀礼」の関係性について語られた場所にあるということです。

現在、日本の伝統的な仏教宗派は「十三宗五十六派」と呼ばれています。このように数多くの仏教宗派には、その宗派の教えや考え方に基づいた儀礼・儀式がそれぞれに制定されてあり、私たちの宗派(浄土真宗本願寺派)においても、葬儀については「葬儀規範」という取り決めによって葬送の儀礼が定められています。

一方で、日本には仏教以前より神道という神観念が存在し、その概念は現在でも共同体仰という形で生き続けているのです。全国各地で執り行われているお祭りや神事など、例を挙げれば切りがありません。そのことが、葬儀という人生において殊に厳粛であるべき儀式へ大きな影響を与えてきたことを、先生は次のように指摘されています。

(神道における)「禁別」、これはしてはならないことを決めることです。神道というのは共同体仰なのです。共同体仰というのは怖いのです。(略)神道を共同体仰として共同体が提んだという時には、その神道に「私はノーだ」と言えば、その共同体から排除されるのです。(略)共同体の禁忌を破った者を自分たちの手で殺してしまう(居ても居ない者と扱う)のです。(『浄土真宗の葬儀」)

つまり、神道が持つ「死」(死を穢れだと考え、忌み嫌う)という概念を共有する地域には、死を畏れるが故に取り決められた「禁尽」事項が暗黙の了解として存在しています。そして、そこに住む住民である限りそれを守らねばなりません。しかし、そのことが仏教の葬儀やそれにまつわる習俗を神道化させている、という現実があるのです。例えば、葬儀の際の清め塩や忌中札、正月年賀の久礼など地域によってその形はさまざまですが、根本的な考え方に差異はありません。

先祖の行方

さて、死をどのように受け取るかによって、その後の仏事のあり方も変わってくるのは当然のことです。これは宗派の考え方によってまちまちのようですが、例えば年回(年忌)法要を「追善供養」という呼び方で言い表す場合があります。「追善」を辞者で引くと「死者の冥福を祈って、生存者が善根を修めること。特に、仏事供養を営むこと」と出てきます。「冥福」とは「冥土の幸福」ということであり、「冥土」を再び辞書で引けば「死者が行く暗黒の世界」となっています。つまり、死者は暗黒の世界でさまよっている存在なのです。ですから後に残る者が、死者を暗闇から救い出すために追善の供養を行う、これが追善供養というものです。

これに対して、私たち浄土真宗を生きてゆく者に開かれている死後の世界は、まったく違います。親鸞聖人は

すべての世界に至り届いている阿弥陀仏の無光は、無明の闇を明るく照らし、信心を得て風弥陀仏の救いを喜ぶ心に、必す化のさとりを開かせるのである。
(「高僧和讃』「三帖和讃(現代語版)」九〇頁)

と示されています。そして、「無光」という阿弥陀仏のはたらきについては

「無」というのは、栗生の煩悩や悪い行いに少しもさまたげられず、そこなわれないことをいうのである
(『一念多念文意(現代語版)』三二頁)

というご解釈をいただいています。ここで、今月の言葉との繋がりが出てきます。

いつでも、どこでも、誰でもたすける行、それは念仏

つまり、時と処と人のあり方を選ばれない救いのはたらきが念仏なのです。ここで気をつけたいことは「たすかる行」と「たすける行」という言葉の違いです。

「たすける行」という言葉の中には、念仏を称えているのは私ですが、その念仏は「あなたを必ずたすける」という阿弥陀仏のはたらきを感じ取ることができます。

また、「無明の闇」(暗闇)とは、死者がさまよう世界ではなく、今現に智慧なき(無明)の私が、自らの頃悩によって描き出している虚妄の世界のことです。その世界が阿弥陀仏の智慧の光明によって照らし出されるのです。自分自身を、そしてまた他者を、ありのままに受け止めることができず、対立し、私たちは常に地獄を作り続けながら生きています。しかし、そのような世界が照破されるのです。

犬は跣足なり

ある日みんなと縁側にいて

ふいにはらはらと涙がこぼれおちた

母は眼に埃でもはいったのかと訊き

妻は怪訝な面持をして私をみた

私は笑って紛らそうとしたが溢れるものは隠す術もなかった

センチメンタルなと責めるなかれ

実につまらぬことが悲しかったのだ

愛する犬 綿のような毛立をふさふささせ

私たちよりも怜悧で正直な小さな魂が

いつも足で地面から見上げているのが

可哀相でならなかったのだ

『丸山薰全集』(角川書店)

犬が裸足で地面から人間を見上げているという光景は、いたって当たり前の光景です。しかし、作者の中ではその当たり前の世界が翻されたのです。それはとても不思議な出来事です。飼い主と思い上がっていた自分が、飼い犬と見下げていた「怜悧で正直な小さな魂」によって照破されたのです。「虚例不実で傲慢な私」が照らし出された出来事でした。

阿弥陀仏の光明に照らされた者も、その智慧のはたらきによって、未代無知な私であることが眼前にさらされ続けます。それは、救われようのない、お恥ずかしい私であることが知させられることなのです。

報恩の仏事

私のありのままの姿を知らしめ、私に「煩悩具足の凡夫」だと自覚させたのは阿弥陀仏の智慧でした。そして、この智慧は真実であるが故に、あらゆる来生の迷い(苦悩)を我がこととして引き受け、背負い、見捨てることができないという大悲心として成就されたのです。これが十方来生を救うという如来の本願でした。

ですから、私より先にこの世を出て行かれた方々(先祖)も、残された私たちも、阿弥陀仏の世界の中では、ご子地(一人子)のような大切な存在なのです。

また、親鸞聖人は

阿弥陀仏の浄土に往生すると、速やかにこの上ない涅槃のさとりを開き、そのままだいなる慈恵の心をおこすのである。このことを風弥陀体のはたらきによる回向というのである
(「高僧和讃』「三帖和談(現代語版)」八一頁)

とお慶びになっています。

この世で阿弥陀仏の本願に出遇い、硫、のその時に往生し、覚りの仏さまと成られたのがご先祖さま方でした。そして大悲心を起こし、「いつでも、どこでも、誰でも、たすける行」(念仏)となって私を西方の浄土へといま現に誘い続けてくださっています。

浄土真宗の葬儀は、そのような亡き人のおはたらきに「ありがとうございます」とお礼を申す、報恩の仏事なのです。

(田中 信勝)

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2025年はじめのことば 宗教とは生死を貫くまこと一つの教え

表紙のことばは「お念仏を申す人生を生きる」(自照社出版)に収められている中西智海先生のお言葉です。この本は兵庫県に所在する、浄土真宗本願寺派善教寺さまにおいて執り行われた報恩講法要でのご法話を、そのままの言葉で文字起こしされた書物です。先生晩年の領解(お味わい)が、本堂での臨場感の中に伝わってくる内容となっています。

中西先生のご生涯

先生は一九三四(昭和九)年に、富山県氷見市にある浄土真宗本願寺派西光寺に誕生されました。幼少年期は第二次世界大戦の最中にあり、終戦後は国の復興という混海とした世相の中にありながらも、先生は真華に学業に励まれ、一九六一(昭和三十六)年に龍谷大学大学院文学研究科博士課程を修了。そのまま同大学に講師として就任されたのでした。また、西光寺のご住職を務められる傍ら、龍谷大学以外にも本願寺派関係諸学校にて永年にわたり教鞭を執られ、真宗僧侶・同行の育成にご尽力を賜りました。その間にはブラジルで南米開教区の開教総長を務めるなど、海外における伝道教化にも貢献されています。その後も本願寺築地別院(現・築地本願寺、東京都中央区)の輪番、また載学(真宗教学の最高学階)として、私たちに浄土真宗のみ教えを現代的な視点で説き明かし、導いてくださいました。

このように数多くのご功績を残された先生でしたが、二〇一二(平成二十四)年にご往生なさいました。御年満七十八才のことでした。

法話の主題

さて、このご法話におけるお話の中心は、講題によって明らかです。講題は「浄土真宗の二つの恵み」となっています。これは浄土真宗というみ教えの根幹を成すもので、親鸞聖人のお書き物の中に

つつしんで、浄土真宗すなわち浄土真実の法をうかがうと、如来より二種の棚が回向されるのである。べつには、わたしたちが~北に街生し応はするという往標が向されるのであり、ごつには、さらに迷いの世界に還って熟生を救うという還相が回向されるのである。
(『顕浄土真実教行証文類(現代語版)」九頁)

とある、阿弥陀如来から賜る二つの恵み、すなわち「街機前」と「還棚回向」のことです。

私をお浄土に往き生まれさせる阿弥陀如来のはたらきを「往相」といいます。そして浄土に往生した私が、阿弥陀如来と同体のさとりを開き、あらゆる迷いのいのちを救い遂げるために、この世に還り来てはたらきかけることを「還相」というのです。私が苦悩の世界であるこの世から離れて浄土に往生するということは「部和」(自らが救われる)の成就です。しかし自らが救われるということだけで完結するならば、それは真の仏教(成仏道)とはいえません。「和他」(悪心の成就)がなければ真実の教えであるとはいえないのです。つまり、自らの救いが他のものへの大悲のはたらきとなって(自利利他円満)、はじめて智識と慈悲の完成をめざす大乗仏教と呼べるのです。また、この二つの回向について親鸞聖人が出信側に

往棚も還相も他力の前である
(「顕浄土真実教行証文類(現代善版)」一四八頁)

と教示されておられる通り、往相回向も還相回向も私の功徳ではなく、阿弥陀仏の不可思議な大慈大悲心のおはたらきに他ならないことを忘れてはなりません。

先生の自省

先生はご法話の中で、あるキリスト教の立場の人から指摘された次のような言葉を紹介されています。それは「仏教というのは、この世を、この人生を、苦しみの世界とか迷いの世界だ、人生は苦なりということを言って(中略)この世が苦しい迷いの世界だから、そこから脱出する。その解放、脱出をさとりということで教えるのが仏教でしょう。(中略)自分の仰しているキリスト教は逆である。神のメッセージをこの現世の底の底へぶちこんで、救いを説くのがキリスト教である」というものです。この指摘に先生は、「非常に考えさせられたし反省もさせられた。

・・ある一面ではこの仏教に対するイメージは当たっているのではないか」ともおっしゃるのです。そして、そのことに対して、

「親鸞聖人はお浄土に行きっぱなしではない、還ってくると言われたんです。「還来団」汚れた煩悩に、濁りの多い世の中にまた還る。還るということは、この人生やこの世を捨てられないということでしょう。目覚めさせて翻して、真実のさとりの世界にまで高めてゆく命のありがたさを教えてくださったのでしょう。この世に還ってくるところが、全然伝わってないんじゃないですか」

と、還相回向をあまり積極的に説いて来なかった、これまでの伝道のあり方を、自らのことも含めて反省していらっしゃるのです。

宗教は生死を貫くまこと一つの教え

ドイツの哲学者マルクスが残した「宗教はアヘンである」という言葉は大変有名ですが、もし仏教がキリスト教の方が指摘されたような「この世の苦悩から逃れて、来世における自分の幸福だけを求める教え」であるならば、この世が作り出す罪業やその罪業に喘ぐ人間に「あきらめ」と「なぐさめ」だけを与える、まさにアヘンのような教えにと凋落してゆくことでしょう。

先生は真実の宗教「海土真宗」とは「生死を貫くまこと一つの教え」だとおっしやっています。「貫く」とは貫通するということです。人間は無知(無明)なるが故に、そこが自らの煩悩によって描き出している迷いの世界であることに、気づくことができません。心底は死に怯えながらも、まだ見ぬ幸福を信じて、暗闇の中を手探りで歩いているのです。

しかし、その暗闇が阿弥陀如来の智慧の光明(はたらき)によって照破(貫通)されるのです。それは、光によって、暗闇が暗闇であったことを知らされることであり、暗闇が暗闇のままに光に包まれることでもあります。愚かなる私が、ありのままに照らし出され、抱かれ、暖め続けられてゆく(摂取不捨)、そんな世界への目覚めです。そして、それはこのような私が阿弥陀仏の不可思議なはたらき(回向)によって浄土に生まれ、必ず仏にならせていただく身であることを、知せしめられることでもあります。そのことを親鸞さまはお書物に

念仏の生は他力の金剛心を得ているから、この世の命を終えて浄土に生れ、たちまちに完全なさとりを開く。
(「顕浄土真実教行証文類(現代語版)」二五七頁)

とお示しくださいました。私たち念仏者にとって、職約とは成仏(阿弥陀如来の光に溶け込み、還相の仏となる)のことなのです。

今年で東日本大震災から十四年の歳月が流れました。震災直後には全国各地から数多くのボランティアの方々が現地に入り、その姿が毎日のようにメディアで報じられていました。その中で、特に私の心に残っている場面があります。

それは、休日だけではなく会社の有給休暇をすべてボランティア活動に使っているという男性の言葉です。テレビ局の方が、「どのような気持で、いつもここに来られているのですか」と尋ねると、その男性は、

「被災された人たちのことを考えると、家で何をやっていても楽しくないんですよ。ここの方々の笑顔が、今の私の生きがいです」と応えたのでした。私はこの言葉を聞いて自問しました。また、それとは逆に、まだ現地に行ったことがないという女性との会話では、そのことの後ろめたさに毎日が何となく憂鬱で、テレビをあまり見たくないとの本音も聞かせていただいたことでした。

親鸞聖人がおっしゃった、

聖道門(自力で成仏をめざす人)の慈悲とは、すべてのものをあわれみ、いとおしみ、はぐくむことですが、しかし思いのままに救いとげることは、きわめて難がしいことです。が、

海士限(他力の街生地に生きる人)の慈恵とは、念仏して速やかに仏となり、その大いなる慈悲の心で、思いのままにすべてのものを救うことをいうのです※()内著者意訳(「歎異抄(現代語版)」九頁)

という歓びの言葉の中に、浄土真宗の救いが「往相」と「還相」の二つの恵みであることを、もう一度深く味わってみたいと思います。

(田中 信勝)

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2024年12月のことば 貴方の感じられている虚しさこそ 真実の世界への強烈な憧れなのです

十二月のことばは、米沢英雄師(一九〇九ー一九九一年)の言葉です。米沢師は、開業医のかたわら浄土真宗の伝道者として多くの方から支持された方です。一九八九年に第二十三回仏教伝道文化賞を受賞しておられます。多数の著作があり、全国各地での法話・講演などで、多くの方々に影響を与えられました

私が、この執筆をきっかけとして抱いた米沢師の印象は、まさしく「伝道者」です。なぜなら、社会を深く凝視することによってあらわれてくる人間の苦悩に寄り添う姿勢をもって、親鸞聖人のみ教えを深く学び、それを依りどころとして人生の方向性を明らかにされた方であると感じたからです。

「それぞれの人生においてどこに向かって歩んでいくことが大切なのか?人間が人間らしく生きる方向性とは何なのか?」

これが米沢師において重要な問いなのだと思います。そのことをみ教えに問うていかれた方と受けとらせていただきました。

さて、今回のことばは、一九六七年九月発刊の雑誌「同朋」(真宗大谷派宗務所出版部)に掲載されたもので、当誌で三回にわたって組まれた特集「若い世代」の最終回に、「若き友へ」という講題で、米沢師が語られた文章からです。この内容を見ながら今回の言葉の意味について味わっていこうと思います。

まずこの文章は日常に苦悩を抱えた一人の青年が、米沢師に相談したことがきっかけになっています。その青年は、一流企業に入って三年が経ち、日常が空虚に感じる日々を過ごしていることを米沢師に訴えています。すなわち自分のいまの日常に生きる意味を見出せない辛さです。これは誰しもが感じる苦悩でありましょう。

そして歳を重ねるにつれ「人生はそういうものだ」と自分に言い聞かせ、胸の内にしまい込んで我慢しています。我慢するが故に歳を重ねた時、この青年のように思い悩む若者を見れば「経験すれば贅沢な悩みとわかる」「そういうものだ」といいたくなる類いのものともいえます。つまりこの悩みは、エネルギーに溢れた若い時ほど表に出やすく、年齢を重ねるほどに表には出にくくなる特徴をもっていますが、年齢問わず多くの人が共通して抱えている苦悩です。加えていえば、昨日・今日・明日の違いが見いだせず、日々同じことの繰り返しに感じ、生きる意味を見失うことです。いま私が説明しました「誰しもが抱える苦悩」であることを、米沢氏は青年に対し簡潔に語りかけられます。そして何故青年のような悩みが起こるのか、その原因について自分の考えを述べていかれます。

ここで一旦、米沢師の文章全体に見る特徴について触れさせていただきます。この文章を読み終えた時に私が感じたことは「法話」であるということです。このことは、米沢師の他の著作等でも窺えるもので、最初に私の印象が「まさしく伝道者」と申した理由でもあります。なぜ法話と感じたのか。それは提示こそされていませんが、この文章にはご讃題が見受けられるからです。我々僧侶は、ご法話をさせていただく際、最初にご讃題をいただきます。ご護題とは、話のテーマ(主題)をお経や親鸞聖人の御言葉から一部引いて具体的に示すものです。ご法話のご縁を「お取り次ぎ」とも言いますが、自分の考えを述べるお話ではなく、み教えから自分のいただいたところを取り次ぐという意味があるからです。今回の文章には、先に申した通り冒頭に示されてはいませんが、ご讃題があることがわかります。そのご讃題は「恩徳讃」です。

如来大悲の恩徳は

身を粉にしても報ずべし

師主知識の恩徳も

ほねをくだきても謝すべし

(『正像末和讃』『註釈版聖典」六一〇頁)

つまり米沢師は、青年の悩みについて自分が答えるというのではなく、「親鸞聖人の御言葉を通してその問題を一緒に考えていきましょう」という立場をとっておられます。「あなたの悩みの解決は、恩徳讃に示されていますよ」ということです。

さてここからは、恩徳を手掛かりとして米沢師のお心を読み解いていきます。

話を元に戻しましょう。米沢師が、青年の悩みが起こる原因について語られるところからです。その原因は一言でいうと「人生一貫して命がけになれるものがないことだ」との指摘です。その意味を社会状況に照らしながら丁寧にお話しされています。視点を「恩徳讃」にすれば、「身を粉にしても」「骨を砕きても」と親鸞聖人が命がけで出遇われたものが何なのかを見ていきましょうという前段であります。恩徳讃で窺える親鸞聖人のように、「あなたが人生一貫して命がけになれるものとであうことが、その虚しさ・生きづらさを超えていく道です」と論されているのでしょう。

さらにここで注視することとして、米沢師はおそらく相談者である青年の悩みを、若き日の親鸞聖人の悩みと重ね合わせておられることが想像できます。聖人の青年期は、比叡山において命がけの仏道修行を続けられたにもかかわらず、聖人ご自身にあらわれたものは、仏さまと自分のかけ離れた相であり、命がけになるものを見失われた迷いのお姿でした。相談者の青年でいえば、自分の幸せをじて命がけで一流企業に入ることをめざしてきたが・・残ったのは空虚という姿です。これはあくまで私の想像の範囲ですが、この文章の後半にも米沢師が若き日の親鸞聖人と、この青年を重ねる意図を感じる箇所が出てきます。それはこの青年の空虚がそのまま、空しくない人生を求める姿であり、生きることを放棄していない証拠と苦しみさえも意味付けされるところです。聖人において比叡山時代は、法然聖人(如来大悲の恩徳)と出遇うための大切なご縁であったということと重ねておられるのでしょう。

次に米沢師は、恩徳護にあらわされている親鸞聖人の気迫の背景をみていかれます。それは「後生の一大事をこころにかける」ことです。私が死ぬことと対面する、平たく言えば自分の死について真剣に向き合うということになります。人間は「死ぬ」ということを理解しています。しかし私が死ぬことには目を背けます。私が死ぬことと向き合うためには、また一段階上の学びが必要になります。私は僧侶としての日常で、時に自らが死ぬことと向き合っている方とのであいがあります。

一昨年の十一月、私が日頃から大変お世話になっている隣寺の坊守様が、ガンを思い八年間の闘病生活の未、往生を遂げられました。五十四歳でした。亡くなられた時、多くの方がもう少し共にすごしたかったと悔やんでおられましたが、ご住職をはじめご家族は毅然とした姿でお念仏申しておられました。壮絶な八年間で、ご家族はきっと数えきれないほど生きるということについて語り尽くされたことでありましょう。その内容を私は知ることはできませんが、共に生きる一瞬一瞬を大切にされたのだと思います。お勤め後のご挨拶で、ご住職が亡き坊守様をはじめ、ご家族お一人お一人に対しても心からお礼をおっしゃっていました。

「本当にあなたがいてくれてよかったありがとう」と。私は家族に対して「いてくれてありがとう」と伝えた記憶がありません。ご住職のそのお姿に頭の下がる思いでした。今思えば、それはまさしく阿弥陀さまのいのちへの目線であります。あなたの存在そのままが大切ですといういのちの見方です。坊守様が仏さまとなられ、ご住職を通して私にみせてくださったいのちの景色といただいています。

坊守様の八年間は、私にとっては何気ない一日としか感じないものを、今しかない一瞬一瞬として大切に過ごしてこられたことと思います。私の二十四時間と坊守様の二十四時間は同じであります。しかし、見ている景色は全くの別物です。私にとっては何気ないもの、すぐ忘れ去るもの。しかし坊守様にとっては、一回一回の食事も、一人一人とのであいも今しかないものとして大切にしておられたことでありましょう。そのお姿は、死を見つめながら生きることの大切さを噛みしめようとする気迫を感じます。八年間でご家族と一緒に流された「なぜ私が」という坊守様の涙は数えきれないものであったと思います。しかしその涙を流すたびに、阿弥陀さまと向き合われた日常があったことでしょう。つまり、「あなたのいのちが大事」という声を日々聞いていかれたのではないでしょうか。

米沢師はこのような姿を「命をかけるところに人は深い感動をおぼえる」と表現されています。そして、「『如来大悲の恩徳は』ここに深い感動が脈をうっているでしょう。いのちをかけた美しさがあるではありませんか」

と、ここではじめて恩徳讃を引いて味わっておられます。これは、この気迫にあふれ感動を覚えながら一日一日を送る姿こそ、今回のことば「あなたの憧れの世界」だと示していらっしゃるのです。そしてこれが本当にいのちを大事にする姿なのです。

ここで米沢師が言わんとされることを、私の師の一人である内藤昭文和上からみ教えの上でご教示いただいたことがあります。その内容は次の通りです。

み教えで「生きる」ということは、「生・老・病・死」と示されます。生まれ、歳を重ね、痛み、死んでいく。私が生きるということの真実の姿です。しかし我々はこの真実に逆らうのです。「歳はとりたくない」「痛みたくない」「死にたくない」と。本当にいのちを大事にするということは、老いる私も、痛む私も、死んでいく私も大切にするということでしょう。それが大事にできないということが「苦」を生みます。そしてその「苦」を生む原因が煩悩(自己中心性)であります。

米沢師は、その気迫と感動に満ちた時間を、特別な日ではなく日常にしていくことがあなたの空虚を埋めることだ、と青年に示しておられるのです。つまり、本当にいのちを大事にする日常ということです。ただ、同時に、それが最も人間にとって難しいことであると嘆かれます。つまり私が煩悩具足の凡夫であるということです。しかし難しいということが憧れを生みます。

「貴方の感じられている虚しさこそ、真実の世界への強烈な憧れなのです」その憧れの世界への道しるべが恩徳讃であるということです。すなわち、煩悩具足の私が空しからざる人生を歩むために、お念仏する日常にあることを米沢師はお取り次ぎくださっています。

あとがき

親鸞聖人御誕生八百年・立教開宗七百五十年のご法要を迎えた一九七三(昭和四十八)年に、真宗教団連合の伝道活動の一つとして「法語カレンダー」は誕生しました。門信徒の方々が浄土真宗のご法義を喜び、お念仏を申す日々を送っていただく縁となるようにという願いのもとに、ご住職方をはじめ各寺院のみなさまに頒布普及にご尽力をいただいたおかげで、現在では国内で発行されるカレンダーの代表的な位置を占めるようになりました。その結果、門徒の方々の生活の糧となる「こころのカレンダー」として、ご愛用いただいております。

それとともに、法語カレンダーの法語のこころを詳しく知りたい、法語について深く味わう手引き書がほしいという、ご要望をたくさんお寄せいただきました。

本願寺出版社ではそのご要望にお応えして、一九八〇(昭和五十五)年版から、このカレンダーの法語法話集「月々のことば」を刊行し、年々ご好評をいただいております。今回で第四十四集をかぞえることになりました。

二〇二四(令和六)年の「法語カレンダー」では、「宗祖親鸞聖人に遇う」というテーマを設け、これまでお念仏を称え人生を生きぬかれた、先師の言葉を選定いたしました。本書では、これらのご文についての法話や解説を四人の方に分担執筆していただきました。繰り返し読んでいただき、み教えを味わっていただく法味愛楽の書としてお届けいたします。

本音をご縁として、カレンダーの法語を味わい、ご家族や周りの方々にお念仏の喜びを伝える機縁としていただければ幸いです。また、各種研修会などのテキストとしても幅広くご活用ください。

二〇二三(令和五)年八月 本願寺出版社

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2024年11月のことば 仏の救いのはたらきが 私の声となったお念仏

十一月のことばは、内藤知康師(一九四五一二〇二二年)のお言葉です。師は、大阪府生まれ。龍谷大学名誉教授、本願寺派勧学、福井県三方上中郡若狭町覚成寺のご住職を務められ、二〇二二年二月二十八日に事故によりご往生されました。

現代において本願寺派が誇る研究者であられた内藤師は、その代表的な業績・功績の一つとして、本願寺派の聖典編纂事業があげられます。つまり、我々がいま目にしているお聖教は、私の手に届くまで、親鸞聖人をはじめ多くの念仏者の方々の命がけが込められていますが、内藤師もそのお一人ということです。詳しく知りたいと思われる方は、一昨年発刊の「季刊せいてんNe139(二〇二二年夏号)』で、内藤師をしのぶ特集が組まれています。

この中には、内藤師と有縁の方々が師のお人柄とご功績をしのびつつ、尊敬と感謝の念を綴っておられます。当書の冒頭で編集者の方も紹介されていますが、その内容は、内藤師が一流の研究者であり、すぐれた教育者・伝道者でもあるという側面を、さまざまなエピソードをご紹介いただきながら拝見することができます。ぜひ皆さまもご一読いただければと思います。

ところで、この特集号の表題には「真宗を学ぶ姿勢」とあります。私が、この特集を読み終え、この表題を見返した時にあるエピソードが思い出されました。私もわずかながら、内藤師にご教授いただいた一人です。数えるほどのご縁しかなかった私でも、脳裏に焼き付くいくつかの内藤師とのエピソードがあります。それだけの影響力をもった偉大な方であったのだと今更ながら頭が下がる思いですが、そのうちの一つが、「真宗を学ぶ姿勢」についての学びをいただいたことです。

その日私は、内藤師並びにお二人の研究者の先生とご一緒するご縁がありました。

その時、どういった話の流れだったかまでは覚えていないのですが、内藤師が師弟関係ということについて熱くお話を始められました。その中で師が、「弟子にはお聖教を開く大切さを伝えることが最も重要なこと。読むか読まないかは本人次第。ただ、その大切さを知らないというのは師に責任がある」とおっしゃった言葉が、今でも脳裏に焼き付いています。

この言葉が象徴するように、何よりご自身が、何事もお聖教に常に立ち返るという念仏者の姿勢を人生一貫して体現され、多くの門弟に、いや門弟を超えた私にまでお伝えいただいたことが師の大きなご功績であるといただいています。

さて、その内藤師が示された今月のことばは、「どうなんだろう?親鸞聖人の教えQ&A』(本願寺出版社)に掲載されたものです。その中で、内藤師が、

聞法すれば念仏はいらない?

念仏は呪文のように感じられ、称えることに抵抗があります。お参りして聴聞していれば、称えなくてもよいのではないでしょうか。

という問いに対してお答えになられたところにあります。

当書では、最初に「呪文」とは何かを語られ、「声に出すことによって何らかの効果が期待できるもの」と定義づけられます。これは、お念仏することを呪文と同じとするならば、いわゆる、自力の念仏になるということをおっしゃっているのです。

私が内藤師より直接ご指導いただいたとき、師は自力の意味について次のように教えてくださいました。

「浄土真宗でいう自力とは、努力したことを役立出たせようとすることを自力といいます。努力することを言っているのではありません。その努力を何かに役立たせようとすることが自力です」

すなわち、内藤師は最初に、お念仏を呪文と同じとすることは、浄土真宗の他力のお念仏ではないと示されているのです

さらに内藤師はその後に、お念仏とは口に出して称えることが確かに基本であるが、私が声に出して称えること(努力)が阿弥陀さまの救いの条件(役立つもの)とするならば、口に出して称えることのできない者は救いから滑れ、全てのものを救うとされる阿弥陀さまの教えと矛盾するということを指摘されます。その上で宗祖親鷺聖人の著書である「尊号真像銘文」に親鸞聖人が尊敬される七高僧のお一人、中国・善導大師の「下至十声」という言葉を解釈しておられるところを引かれます。

「下至十声」といふは、名字をとなへられんこと下十声せんものとなり。「下至」といふは、1声にあまれるものも脱名のものをも、往生にもらさずきらはぬことをあらはししめすとなり。(『註釈版聖典』六五七頁)

ここで「十声にあまれるものも聞名のものをも、往生にもらさずきらはぬことをあらはししめすとなり」と、十回以上お念仏した者も、聞くだけの者も、救いからもれることはない、という親鸞聖人のお示しを出されて、自力の念仏(呪文のようなもの)では全ての者は救われないが、親鸞聖人のいただかれた他力のお念仏は全ての者が救われることを明示されます。

そして後半に、他力のお念仏とは何かということを示されていきます。そこでは、他力のお念仏には二つの側面があるとご教示されます。その一つ目が今回の言葉である「仏(阿弥陀仏)の救いのはたらきが私の声となったお念仏」であるということ。二つ目は阿弥陀仏が私を救うためにはたらいておられることをお聴聞したところで生まれてくる感謝や喜び、その感謝のおもい、喜びのおもいを声に出したのがお念仏であるという二つの側面です。

ではここでおっしゃる、「救いのはたらきが声となる」とはどのようなことなのでしょうか。私事ですが、現在七歳の長女と四歳の長男の二人の子どもがおります。

この二人は、いつも「おとうさん、おとうさん」と私のことをよんでくれます。よんでくれることは、もちろんうれしい、かわいいと思うのですが、時に鬱陶しいと思うこともあります。

例えば、私はスポーツ観戦が好きなのですが、テレビで夢中になって観戦している時に、たびたび「おとうさん!おとうさん!」とよびかけてきます。「何?どうした?」と問いかけると、七歳の娘は「見て見て」と変な踊り(状況によってはかわいい踊りと思う)を満面の笑みで見せてきます。下の息子の場合は、一生懸命何かを訴えてくるのですが「ガォーと言って、かっこいいけど怖いでしょ?」等、内容の九割ぐらいはわけがわからない(これも状況によってはかわいいと思う)ことを言ってきます。

ある日、楽しみにしていたテレビでのスポーツ観戦中に、子ども達から幾度となくよばれて、ほぼテレビを見られなかったことがありました。その直後、子ども達に対して鬱陶しい気持ちを持つなか、ふと一人になって考えたのです。「子ども達は何故私のことをあんなに「おとうさん!おとうさん!』と繰り返しよぶのだろうか?」そのことを突き詰めて考えてみると、本当に単純で当たり前の答えがありました。それは「私が子ども達と共にいまここにいる」ということです。私が親として存在していること。そして子ども達が私の子どもとして存在してくれていること、そこに「おとうさん」と呼んでくれるすがたが成り立っています。私は、子ども達から大切なことを学ばせてもらいました。

「南無阿弥陀仏」とは阿弥陀さまのお名前です。そのお名前が私の声となったのがお念仏です。つまり私の口から声となってお念仏が出てくるということは、阿弥陀さまが私と一緒にいらっしゃるという証明であります。そして大切なのが、阿弥陀さまは、いついかなる時であっても、私のように鬱陶しい等とは思わない方であるということです。それは自分(阿弥陀さま)よりもあなたが大事という立ち位置で常にいらっしゃるからであります。私は我が子を見る時、かわいい、鬱陶しいと自分の都合で立ち位置が変わります。自分の都合が大事なのです。阿弥陀さまのそのようなおすがたは、『仏説無量寿経」第十八願文 (本願文)をみれば明らかであります。

たとひわれ仏を得たらんに、十方の衆生、至心信楽してわが国に生ぜんと欲ひて、乃至十念せん。もし生ぜずは、正覚を取らじ。ただ五逆と誹謗正法とをば除く。(『註釈版聖典』十八頁)

わたしが心になるとき、すべての心が心からじて、わたしの囲に生れたいと願い、わずか十回でも念仏して、もし生れることができないようなら、わたしは決してさとりを開きません。ただし、五逆の罪をしたり、仏の教えを謗るものだけは除かれます。(『浄土三部経(現代語訳版)』二九頁)

つまり、私が必ずあなたを救う仏であるということを疑いなくじてお念仏する

(あなたの声となり、あなたと共にいる)ことがないならば、私は仏とはならない。ということは、あなたのために仏と成りますということです。すなわち、私がお念仏しているすがたは、必ず救うとはたらいてくださる阿弥陀さまと私が共にある証明なのです。そして、あなたが大事とご一緒してくださる阿弥陀さまのことを聞かせていただくのがお聴聞であります。

(藤川 頭彰)

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2024年10月のことば 人間が人間だけでやっていく 現代の問題はそこにある

十月のことばは、対田興師(一九001一九八二年)の言葉です。この言葉は、

「服思の人⑤安田理深集(上)」(東本願寺出版部・教学研究所編二〇一四年)の中に掲載されたものであります。その書の最後には、安田師の以下の略歴が紹介されています。

安田師は兵庫県生まれ。本名は、安田治というお名前だったそうです。一九二四(大正十三)年に大谷大学に入学し、一九三〇(昭和五)年大谷大学選科修了。この同年、大学を辞した曽我量深師、金子犬菜を中心とした興法学園が設立され、安田師はその園長として就任されました。そして雑誌『興法』の編集・発行を担われました。その後、一九三五(昭和十)年に私塾「学仏道場相応学舎」を開かれます。

一九四三(昭和十八)年に東本願寺で得度。曽我量深師より法名を命名され「理深」と名乗られたそうです。一九四四年から一九四六年まで大谷大学に奉職。一九六〇(昭和三十五)年に、当時世界的に影響を与えていたドイツのプロテスタント神学者パウル・ティリッヒ(一八六六ー一九六五)と対談。ティリッヒは、さまざまな宗派の高僧と対談したそうですが、自身の仏教への関心に、「明確に答えられたのは安田理深だけであった」と言っておられたようです。そして、一九八二 (昭和五十七)年に往生を遂げられました。真宗大谷派贈講師であられます。

安田氏の感化カ

さて、私が師の功績を伺うべく師と有縁の方々の話を調べていた時、講義が難解・難しい・わからないが、何故か多くの人が感化されたといったような不思議な魅力が述べられていました。その一つを紹介します。これは安田師の講義を身近で長くきいてこられた本多弘之氏の著書で「師安田理深論』(大法輪閣二〇一九年)から、書籍案内にも抜粋して紹介されているものです。

浄土という問題に絞って親鸞教学を構造的に解明したのは非常に珍しいことです。安田先生はこの話を、お百姓さんも聞いておられる会座で三日間なさったのです。先生の営みは、存在の故郷を明らかにするべく、自分のあらゆる疑難をぶつけながら思索していく。その営みは何処に行っても行われる。聞いている方は皆ほとんど分からない。分からないけれども、安田先生の思索に触れると、今まで聞いていたものがどうも嘘臭い。だから、いよいよ聞かずにはおれないということになって、先生と一緒に存在の故郷を解明する会座が相続されていくのです。

この中の「いままで聞いていたものがどうも嘘臭い」というこのすがたは、安田師を通して、正しく人間(私)が教えにであった証だったのでしょう。言い換えますと、私が日常でみているもの、聞いているものの危うさを、阿弥陀さまの智慧と慈悲に知らされた営みとでもいうのでしょうか。

僧ということ

そこで今回のことばですが、先に申しました通り、「安田理深集(上)」で発せられている言葉です。その前後の内容は、教団と教学について安田師が言及される中、仏・法・僧の三宝、特に僧(僧伽)について述べられた箇所に出てきます。そこで安田師は現代の問題は「僧伽」(共にみ教えを聞かせていただく仲間、教団、御同朋・御同行)にあることを指摘しておられます(※筆者は安田師ご在世当時の問題ではなく、現在さらに深刻化した問題と感じている)。その啓発の言葉として「人間が人間だけでやっていく、現代の問題はそこにある」という今回のことばが出てきます。

このことばの前後の文章を読んだ最初の私の印象は、正しく先に紹介しました「難しい」というものでした。しかしその内容に感化され、記憶から呼び起こされた自身の出会いと経験が浮かんできました。そのことは、私にとって自分がそれまで見ていた「仲間」の概念をひっくり返された経験だったのです。その経験がなければ、今回のこの安田師の文章を理解することはおろか(※今も安田師の言葉を全て理解したとは言い難い)受け入れることすらできなかったかもしれないと感じています。同時に安田師の社会を見通す目線の鋭さの一端を感じました。ここでその経験を紹介します。読者の皆様にとって、この度の安田師のことばを味わうヒントになればと思います。

私が仏教を学びだして間もない学生時代の話です。ある日の講義で、仏教徒の宝として示される「三宝」(仏・法・僧)の説明がありました。それは、当時の私にとって大変驚く内容でした。仏教徒における宝(三宝)とは、一つ目が「仏」仏さまです。そして二つ目が「法」仏さまのみ教え、またはみ教えがまとめられた経典等のことを言います。と、ここまでは「仏教徒として宝とするのは当然」という思いですんなり受け入れられました。そして最後の三つ目は「僧」といいますが、これはお坊さんではなく「僧伽(サンガ)」といって、仏さまを敬い、み教えを共に聞き・喜ぶ仲間のことを言います。仏さまを敬い、教えにであう前提での仲間のことです。

仏さまとその教えにご縁が無いところには僧はありません。といった説明がなされ、そこに大きな疑問を抱いたのです。

「私は、幼いころから祖父母や両親に、仏教は全てのものを救うみ教えと聞いてきた。そういう教えが「仲間」に何故条件を出すのだろうか。私にとっての「仲間」は、仏教の教えを聞いたことがない人もたくさんいる。中には「うちはキリスト教です」という人もいる。自分にとってはそういう方々も宝と思うのに、何故枠組みを作っているのだろうか」というものです。その後、折々にその疑問を尋ねたこともありました。しかしどこか釈然とせずに、とうとう卒業するまでこの疑問がなくなることはありませんでした。

その後、九州の実家のお寺に帰りしばらくたったある日のことです。「僧伽とは?」というテーマの研修会を受講するご縁がありました。ご講師は、武蔵野大学並びに筑紫女学院大学で教類をとっておられたご講師でした。最初に小山師が問題提起をされました。

親鸞聖人は、関東での生活で聖人を慕うたくさんの方々とのであいがありました。しかし聖人は、その方々に対して「親鸞は弟子一人ももたずそうろう」との立場をもっていらっしゃいます。これは、聖人にとってこの方々は、お弟子ではなくお仲間とみていらっしゃったのですが、我々が見る仲間と同じでしょうか、違うのでしょうか。

その後グループワークになり、参加者の先輩方のお話を伺いました。

「どのお寺さんにもご法座では頭の下がる方がいらっしゃいますね」

唯一記憶に残っているのがこの意見だけで、当時の私にはわけがわからないものでした。親鸞聖人の「弟子一人ももたず」という立場も、大変謙虚な方というイメージでした。講義の最後に質疑応答の時間となり、思い切って小山師に先の疑問をお尋ねしました。師は丁寧に私の疑問を何度も確かめながら答えてくださいましたが、それでも私は納得できませんでした。その私の納得いかない顔を見て、小山師は自身のエピソードをご紹介してくださいました。

先に述べました通り、師は大学で仏教の講義をなさっていましたが、必ずその日の講義の感想文を生徒に書いてもらっていたそうです。ある年の講義でのことです。

一人の生徒が毎回その感想文に、講義内容への文句を書いてきたそうです。

「先生の講義は全く意味がわからないです。私は仏さまなんていないと思っています。お浄土?先生は夢でもみられたのですか?」といったものでした。師は「当時、正直私はその生徒が嫌いでした」とおっしゃっていました。師のお気持ちは理解できます。一度や二度「わからない」と言われたぐらいでは嫌いにならないでしょうが、毎週・毎回講義の度に反論されると「この人は私の話を聞く気がないのだな」と思うでしょう。

そうした中で一年間の講義が終わりました。終了後に、その生徒の最後の感想文を読んで、小山師は驚かれたそうです。

「先生、一年間お世話になりました。私はプライベートで、辛いこと悲しいことがたくさんあり、人生を投げやりに思っていました。しかし先生のお話を聞くたびに、疑問を持ちながらも、生きる力をいただいた気持ちになりました。仏教って素晴らしいと思います。毎回失礼なことばかりいいまして大変申し訳ありませんでした。

またどこかで先生のご講義をお聞かせいただけることを楽しみにしています」

といった内容のものだったそうです。小山師は、その話をご紹介いただいた後に私の疑問に対してこうおっしゃったのです。

「私は、指導者として教えながら、その生徒から本当に聞くという姿勢を教えていただきました。感想文を読む度、わかりやすいです。楽しく聞かせていただきました等、講義に対し肯定的な意見を言う生徒が聞いてくれている人と私は思っていました。しかし、最後の感想文を読ませていただいたとき、その反論ばかりの生徒こそ私の話を一番聞いていてくれたのだということを知らされました。私は教壇に立って教えながら、本当に聞くという姿勢をその生徒に教えていただいたんです。私とその生徒は、世間で言えば今でもこれから先も元先生と生徒という関係でしかありません。しかし、仏さまの眼からみれば、互いに教えあう仲間とみていらっしゃるんでしょうね。僧とは仏さまの眼を通した仲間であります」

教えを通した風景

み教えを聞かせていただくと、煩悩をもつ身とは、自己中心にしかものを見れないと知らされます。私の目線での仲間は、結局自分にとっての都合の枠から抜け出ることはないのです。もし仏さまの目線がなければ、小山師も、嫌いな生徒が思ったよりいい生徒だったという変化しかなかったはずです。「世間での生徒が実は師であった」という風景があったでしょうか。

もう一度申しますが、あの人は良い人、悪い人と悩具足の私の基準は、しょせん都合の枠にしかありません。そしてその都合が真実でない故に、良い人が悪い人へ、悪い人が良い人へと、ころころ変化します。それは一対一の関係であっても大きな集団となっても、「人間だけ」の関係である限り同じです。故に、共に歩む日常は良かった、間違いだったを繰り返し、前進・後退の連続で道を見失い生きづらさを感じずにはおれない社会(人生)があります。

「人間が人間だけでやっていく、現代の問題はそこにある」この安田師の言葉を通して、仏さまを仰ぐ日常の大切さを多くの方とご一緒に考えられるご縁となればと思います。

(藤川顕彰)

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