2024年7月のことば 行いと言葉の背後に 世間があるか如来があるか

深川倫雄師の「行いと言葉の背後に世間があるか如来があるか」ということばは妙好人として知られる浅原才市のことば、

ぐちがをきたらねんぶつもをせぐちの明やくなむあみだぶつ

はらがたうたらねんぶつもをせぶつはひのてのみずとなる

なむあみだぶつ

を味わう中で述べられたものです。

妙好人とは、ご存じの通り、真宗の教えに生きた篤の念仏者と知られている人々のことです。また補恭編『妙好人 才市の歌』(※1)によれば浅原才市は、昭和二十年頃に鈴木大拙ら当時の宗教学者によって、彼の内面を見る鋭さや信仰のあり様が注目され、彼の歌を、解釈を添えて紹介されたことで広く知られるようになった、とあります。同書には、

妙好人というのは、大体学問のない人々で、信仰に厚いのをいうのであるから、彼等の表白はいずれも自らの心の中に動くものが主となる。(中略)彼等の口に出し筆に写すところは、各自の胸襟そのものから流出するのであるから、その中には自ら人に迫るものが感じられる。錐でえぐるようなものがある、また綿で包まれるようなものがある、また水の澄んだようなものもある。彼等の云うところには倍りがない。感情的圧力で向って来るのであるから、知性の上であれこれとそれをあげつらう余裕を与えてくれない。火で焼くようなもので、熱いも寒いもない、直ちに手を引かないと焼け爛れてしまう。禅者の言い草で「大火の如く近傍すべからず」

ということがあるが、如何にもその通りである。

才市の言葉には実にこのようなものがある。直ちに人の肺腑を突くのである。

と、鈴木大拙による妙好人の解釈が述べられています。

また浅原オ市は、江戸末から昭和初期、石囲(現在の島根県)の大工を生業とした人で、才市の父が昔、役僧をしていた手継ぎ寺の門徒となり、京都の本願寺(西本願寺)で帰敬式を受けた後、仕事の合間などに自身の信心を詠んだ歌(「口あい」と称する)を記すようになったと伝えられる人物です。

晩年に真宗の話をするときによく才市を取り上げていた鈴木大拙は、思索と反省を繰り返す中で得られる宗教体験を重視していたとされますので、そのような人物が特に注目し、世界的に紹介された才市の信仰のあり様がどれほどのものかは、彼の側境を深川師が「私にとって遥かに遠い」と述べているように、私たちには想像することも容易ではないでしょう。しかし、一方では、彼のことばを通して、法を聞く悦びを感じることができるのではないでしょうか。

さて、才市が愚痴や立腹の妙薬(「明やく」)と捉えているものが「なむあみだぶつ(南無阿弥陀仏)」ですが、「愚痴」とは仏教では根本的な煩悩として挙げられる三毒の一つです。愚かなこと、迷い(迷っていること)といった意味で捉えると良いと思います。また、立腹(「はらがたうたら」)も同じく三毒の一つで怒りを意味する「瞋表」のことと読んで良いでしょう。

これら二つの根本的な煩悩と、何でもむさぼるように欲しがる「食欲」とを合わせて三毒と言いますが、三毒は生きている中で常に私たちを悩ませる頃悩であり、容易には取り除けないものです。

仰に生きた才市においても三毒に悩まされる日々だったのだと思われます。

あさましが、ないならば、

わたしや、をてらにまいるま[い]。

あさましが、わしがしやわせ。

なむあみだぶつ、なむあみだぶつ。

この才市の歌(※2)からは、自分自身のあさましい様を率直に詠んだ彼の思いが読み取れるのではないでしょうか。自分の肖像画を、角を生やした姿で描いてもらったという彼は、自分の頃悩や、煩悩によって生じた苦に悩むことが多かったのだと思います。逆に自分の煩悩や苦悩が、それによって生じていることに気付かない人には、自らを省みる機会も少ないのではないでしょうか。つまり、才市のように苦悩を抱えている自分と向き合う人ほど、迷いからの解放(解脱)を真摯に願うことができるのであって、一人ひとりにとって大切なものに出会う機会も多くなるのではないでしょうか。

日常的に自分を悩ます愚痴や「志といった、火が燃え広がるように沸き起こる煩悩を鎮めてくれる水こそが阿弥陀如来であり、「南無阿弥陀仏」であると受け止めた才市の法悦とは、自分にとって大切な教えに出会えた悦びであり、それこそが他力の教え、一切の衆生を救いたいという阿弥陀如来の願いを聞くことができたということなのでしょう。そう考えると、「南無阿弥陀仏」とは、才市の悦びを表したことばとして聞くべきである、ということが深川師の伝えたいことだと思います。

それと同時に、お称名(南無阿弥陀仏)を愚痴や順恚を打ち消してくれる妙薬、言い換えると「もの」として語るべきではないし、用いるべきではないということも読み取れるのではないでしょうか。何故なら、お称名がもののように捉えられ、話られるようなものであるとするならば、お称名を便利で都合の良い、自分の思い次第で用いることができる道具のようなものにもなりかねないからです。

「南無阿弥陀仏」と称えることで自分を悩ませる愚痴や患といった煩悩が鎮まったという経験をお持ちの方もおられることと思います。ただ、「南無阿弥陀仏」と称えることの目的が自分の煩悩の火を鎮めることであるならば、それはいわゆる対症療法的なものとなり、それではいつまでたっても順悩が沸き起こる状況は続くことになってしまうのではないでしょうか。一時の煩悩の鎮まりを得る喜びと、才市の阿弥陀如来に出会えた悦びとが同じものといえるでしょうか。

先に引用した鈴木大拙の解釈の中には、妙好人とは言い難い私たちのことを次のように述べられています。

(前略)学問のあるといわれる人々の場合では、その学問の故に自らを(ることを知っている。それは何故かというに、その学問のおかげで、他人の事でもわがことのように言いなすすべを覚えているのである。彼等の論議なるものは、それ故に、自ら抽象的になる。自分の体験から割り出すことのかわりに、何か抽象的・一般的原理とかいうものを持ち出すのである。それが誠に結構でもあり、また甚だ然らずでもある。抽象的であるから、あてはまる点は広いが、徹底を久くのが常である。従ってそれを聞くものの胸の奥に突き通るということはない。知性が主となっているところでは、もとより然るべきである。(後略)

ものごとを冷静に、かつ客観的に捉えることが良いことと教わりながら日常を過ごすことが多いのが私たちではないでしょうか。

それは一面では正しいことではありますが、自らの頃悩によって引き起こされているはずの自身の苦悩を、他者によってもたらされているものとすり替えてしまうことも起こりえます。どうしてそうなるかというと、「他人の事でもわがことのように言いなすすべを覚えている」私たちは、そのすべを客観的に自分自身を捉えようとする場合にも用いることがあります。そうすることで、自分の苦悩も、それを起こしている自分自身の煩悩も他人事のように考えてしまうことがあります。しかも、その考え方にある客観的とは、私たちが日常の中でものごとを捉える範囲の中にとどまるものですから、世間的な価値に基づいたものごとの捉え方に他なりません。

ですから、そのような捉え方を日常的にする私たちの言動の根底には世間を意識したものがあるといえるでしょう。

私たちの容易に拭い去れない順悩と、そこから起こる苦悩を解決したいと考えた時に、日常を超えた、つまり世間を超えた仏陀の覚りの智の目という視点が重要になります。しかし、覚ることが困難であるのが私たちです。そのような煩悩を身にまといつづける私にとって阿弥陀如来への帰依とは、私たちの世間的、日常的な生活の中の苦悩を取り除いてくれることを期待してのものではなく、成仏にまで導いてくれるという後生の一大事をお任せすることに他なりません。

ですから、「南無阿弥陀仏」が、私たち自身の煩悩に染められた日々の言動をその都度、都合よく消し去ってくれるものなのか、煩悩に覆われた私たちが覚るまで傍らにいつづけてくれるという阿弥陀如来に出会えた悦びの中から出てきたのかについて、才市の悦びとは何かを考えながら自らを振り返るとともに、日々の私たちの言動がどのようなものか改めて考えたいものです。

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2024年6月のことば いい人いい雨いい天気 みんな私中心

6月のことばは、大神信章師のお言葉です。

大神師は一九四九(昭和二十四)年にお生まれになり、龍谷大学文学部仏教学科大学院修士課程を修了され、浄土真宗本願寺派光林寺住職を務められました。二〇一三(平成二十五)年にご往生されています。

師が住職をされた光林寺は、福岡県築上郡上毛町にあります。大分県の八面山という名峰をのぞむ、福岡県と大分県の県境に近い農村地域です。広がる田んぼの中、こんもりとした緑の大木に囲まれたお寺でした。お寺の脇には村を抜ける道が通っていて、その道に面したお寺の壁には掲示板が掛けてありました。師の人柄があらわれたような大胆で思い切った、そして温かい字であったように思います。

なぜそんなことまで知っているのかといえば、筆者の郷里が師の隣の市だからです。親戚が光林寺の門徒で、筆者の兄が、お寺の脇を抜ける道を通って高校に通学していたのです。そんなこともあり、筆者は光林寺の掲示板を道を通るたびに見せてもらっていました。

小学生の頃、師に遇ったことがあります。近隣のお寺の日曜学校でミニキャンプに行くことになり、車で光林寺に立ち寄った折でした。優しそうな笑い顔を、今でもはっきりと覚えています。その頃、師はまだ三十歳なかばの青年でした。

今月のことばは、「学仏大悲心ほとけのおしえ詩と言葉』(探究社)の中の掲示板法語です。他にも、

見えねども

いのち育む

春来る

(『学仏大悲心ほとけのおしえ詩と言葉」四二頁)

いつのまにか

優秀ないのちのほうがそうでないいのちよりも

尊いと思ってしまう

いつのまにか

有能ないのちのほうがそうでないいのちよりも価値があると信じてしまうそうでないいのちたちは

いつかまた

幼いころのほほえみを消している

(『同』四三頁)

苦労をすれば苦労をにぎる我慢をすれば我慢がたまる

我がはげめばはげむが残る積んだそれらが他人を泣かす

放す力がナモアミダブツ

(『同』四三頁)

などの法語もあります。師の道心に淳い心を知らせてもらいます。

ご子息も「あとがき」で触れておられるように、師の掲示板を見て首をかしげた方もおられたように思います。しかし当時、浄土真宗の教えを全く知らなかった筆者は、師の思い切ったお言葉を理解できていませんでしたが、読んで確かに元気と新たな視野をもらっていました。今、少し教学を学ぶ身になって改めて拝読させてもらいますと、どの言葉も師の念仏生活から出た豊かな法味であったといただけます。

「美味いもん食ったら、こらあ美味い!なぁ、あんたも食っちみない!つちなる

やろ?」

(「同』一六一頁)

師の豊弁の言葉にある通り、お念仏に遇った慶びは、慶びが大きいほど、人にも勧めたくなります。師とお念仏の味を語り合ってみたかったと思います。

今月のことばは、

いい人

いい雨

いい天気

みな私中心

善い人悪い人といいますが、それはその時の私の都合やその時の気分で決めているのが、私の現実です。だから、同じ人や同じ雨なのに、私のおかれた状況によって、善い人や悪い人、いい雨や困る雨に変わります。しかも、それで当然だと思っている私がいます。

師の法語集は「学仏大悲心」といいます。

学仏大悲心

仏の大悲心を学して

(「净土真宗聖典全書』六五五頁)(「註积版聖典(七祖篇)』二九八頁)

七高僧の第五祖、中国唐時代の阿弥陀仏浄土教家である善導大師(六一三ー六八一)のお言葉です。「正念仏園」には、

善導独明仏正意

(『浄土真宗聖典全書」六三頁)

善導大師お一人が仏さまの本当の御意を明らかにしてくださいました。

(筆者意訳)

と親鸞聖人は讃談されておられます。親鸞聖人の先生である法然聖人(二三三ーーニーニ)は、五百年の時を超えて、書物を通して善導大師に会い、

偏に善導一師に依る。

ひたすら善導大師お一人を依りどころとしています。

(『註釈版聖典(七祖)』一二八六頁)(筆者意訳)

とおっしゃっています。直接会えなくても、お言葉を通して、その方の心に会い、その方に本当の意味で会うということがあるのです。

「学仏大悲心」について、善導大師は尊敬すべき仏教徒とは「仏の大悲心を学んで、永久に退くことのない人である」とおっしゃっています。仏教徒とは仏教を学ぶ者のことであり、それは「大慈悲心」である仏さまの御心を学ぶ者のことです。仏教を学ぶ方々は、大慈悲について、「慈を与薬」「悲を携帯」と味わってきました。つまり、「慈」とは、すべての者に愛と憎しみを超えたまことの平安を与えようと願う心であり、「悲」とは、すべてのものの痛みを共に痛む、痛みの共感を意味すると味わったのでした。だから、「大悲心を学ぶ」とは、人の痛みのわかるものになろうと努めることでした。

そうした仏さまや仏教徒の生き方は、仏さまの智慧、すなわち自己を超えた「いのち」の目覚めから必然的に出てくるものです。それを善導大師は、「大悲心」の「大」の字で顕されています。

仏さまの智慧に根ざした大慈悲なる生き方や、大慈悲を学び続ける仏教徒の生き方に触れた者は、自分の現実が仏さまや仏教徒のあり方とは真反対であることを知らされます。まさに「みんな私中心」にしか考えられない痛ましい私の現実です。

自分では直視できない現実とは、自分本位の想いをもって、利益になるものは際限なく取り込み、邪魔者は正義の名において抹殺しようとして、互いに憎み合い、恨みあって、果てしない抗争に明け暮れている自分の姿です。

浄土真宗の教えを聞く者にとって、仏さまとはお釈迦さまと阿弥陀如来さまに代表されます。お釈迦さまの生き方は、さとりのお言葉としてのお経です。具体的には「浄土三部経」です。阿弥陀如来さまの生き方は、念仏となって私の上に実現しています。念仏を税え聞法する者は、私の上で活動し続ける阿弥陀如来さまの生き方に呼びさまされ、大慈悲心に育まれることで、自分だけのしあわせを求めている自分の愚かさに気づかさせていただき、少しでも仏心を学び、仏意にかなった生き方をしようと努めるようになります。それが念仏を称える者の生き方です。

さらにその念仏者の生き方は、自分が念仏を称える以外は仏意にかなわない生き方ばかりする者であることを明らかにします。その仏意にかなわぬ私を捨てておけない仏さまの心を大慈悲心といいます。その大慈悲心に育まれ、また念仏を称えて開法し続け、仏意にかなおうと生きてゆく。この繰り返しを摂取不捨の利益とも味わいます。

親鸞聖人は、摂取不捨について『浄土和護」に、

十方微塵世界の

念仏の衆生をみそなはし

摂取してすてざれば

阿弥陀となづけたてまつる

(「註釈版聖典」五七一頁)

と和讃されて、その「摂取」文字の横に、

摂めとる。ひとたびとりて永く捨てぬなり。摂はものの逃ぐるを追はへとるな

り。摂はをさめとる。取は迎へとる。

(「註釈版聖典』五七一~五七二頁脚註)

と説明されています。

念仏を称え仏さまの生き方を受け容れた者を、永久に見捨てずに、仏さまはナモアミダブツ・ナモアミダブツと育み続ける。それは、すぐに仏意に背いて仏さまから逃げようとする私を、追いかけていって、抱きしめるような仏さまの生き方であるとおっしゃるのでしょう。

師の掲示板法語には、

いだかれて

煩悩のまま

五月晴れ

(『学仏大悲心ほとけのおしえ詩と言葉」四三頁)

ともありました。

あの笑顔で念仏にいだかれて生きられた大神師がしのばれます。

(濱畑 僚一)

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2024年5月のことば 仏さまの光に照されて 私の心に明りがつく

五月のことばは、山本仏骨和上のお言葉です。

山本和上の俗名は山本清、一九一〇(明治四十三)年八月十五日、石川県金沢駅近くの浄土真宗の在家に末子としてお生まれになりました。しかし、世界中でまん延したスペイン風邪で、ご両親をはじめお兄さんたちをつぎつぎに失われ、小学生だった和上を残して、最後にお母さんがご往生されたそうです。ご家族を失い一人になって親類にあずけられた和上の学歴は、高等小学校卒業、行義校卒業です。しかし和上はその後、行倍教校教授、本願寺派勧学、龍谷大学教授、本願寺派伝道院院長を歴任され、大阪東淀川区にある定専坊住職を務められました。そして一九九ー(平成三)年二月六日午前四時頃、八十歳でご往生されました。和上のお人柄やエピソードなどについては、『一味638・639合併号・常照院仏骨和上追悼号」(一味出版)に先生方、お同行さま方によって紹介されています。

今月のことばは、『浄土真宗を語る』(本願寺出版協会・一九七八(昭和四十三)年出版)に掲載されている対談中のお言葉です。その頃、行教校で講師をされていた、京都大学の井上智勇先生、宮崎円連和上、利井興弘先生、山本仏骨和上、梯實圓先生、高田慈昭先生、岡邦俊先生が対談の出席者でした。

対談当時の世界情勢は、混迷を極めていたといってよいでしょう。ベトナム戦争は一九六四(昭和三十九)年に全面戦争に突入し、一九七五年アメリカ合衆国が負けて撤退し、戦争は北ベトナム軍が、南ベトナム軍の首都サイゴンを陥落するまで続きました。一九六七年に中国が水爆実験を行い、一九六八年にはアメリカ軍機がグリーンランド油に墜落し、水爆四個が行方不明になったともいわれています。日本では所得倍増計画・経済成長に伴う公害が深刻化していました。

そんな状況の中で、山本和上は、

他力にめざめるということは、さきほど梯君もいわれたように、相対的な人間のエゴイズムの対立する争乱の世界をやぶって、それを超えた仏の絶対の真実の世界に眼をひらかしめられることです。仏さまはその絶対平等の立場から、つねにあらゆるものをわけへだてなく平等につつみ、これらを完全に生かそうと働いておられるわけです。

そうした仏さまのめぐみに気づかされたものは、つねに浅ましい煩悩をおこす自分をはずかしく反省せしめられ、またこういう自分をかぎりなく大悲して救うてくださる御恩をよろこびながら、真実の人生を開いていくわけです。

こういうふうに人間のみにくいエゴイズムを深く恥じ、仏さまの智慧と慈悲にかえって、あらゆる人々を愛しつつ生きようとされたのが、親鸞聖人の他力のみ教えであって、このみ教えこそ混乱と斗争にあけくれる現代の社会にもっとも大切なものだというべきでしょう。

とおっしゃっています。現在の状況に通ずる大切なお言葉です。

その後、高田慈昭先生が話題をかえて、「心のことについてご意見を聞かせていただきたい」と提案されます。それに利井興弘先生が、

浄土真宗の心は、「安心せよ(南無)必ずたすける(阿弥陀仏)」という仏の仰せ(法)だから、それをいただく心(機)は「きっと助かる(阿弥陀仏)」と安心する(南無)ことだ、と仰せを聞き受ける倍心である

と答えられます。信心について、「必ず助ける(法)」を一人ひとりが「必ず助かる」といただくことだと、利井鮮妙和上よりの伝統の定義をされています。

その信心について山本和上が、

親鸞聖人は信心を「遇(あう)」とか「聞(きく)」という言葉で顕されていますね。だから信心ということは、仏さまの光に照らされて、私の心に明かりがつくことだというように味わうと、一ばん有難いんですよ。

とおっしゃいます。その山本和上のお言葉を梯賞園先生が、

なるほど「心に明かりがつく」という表現は、ありがたいですね。何かこう人生にほのぼのとした暖かみと明るさが感じられますね。

と恩師のお言葉を味わわれます。

親鸞聖人は、『正像末和」に

智慧の念仏うることは

法蔵願力のなせるなり

信心の智慧なかりせば

いかでか涅槃をさとらまし

(「註釈版聖典」六〇六頁)

仏さまの智慧の結晶である念仏を私が称えることは、法蔵菩薩の本願が力となって、はたらいているということです。

智慧である念仏をいただくのが居心ですから、心も智慧でありました。その儲心なくしては、どうして本当の安らぎを実現することができるでしょう。

(著者意訳)

無明 長夜の燈炬なり

智眼くらしとかなしむな

生死大海の船筏なり

罪障おもしとなげかざれ

(『註釈版聖典」六〇六頁)

(そのような智慧の念仏。心の智慧は、真っ暗な絶望の長き夜にあって、消えることのない大きな灯火です。

智慧の眼がひらけないから希望なんかどこにもないと悲嘆しないでください。

念仏をいただく個心は、生死の苦しみの海を渡り超えてゆく船や筏のようです。

自業自得だと絶望することはありません。

(著者意訳)

と心を讃えられます。『頭浄土真実教行証文類』総序にも、

無礙の光明は無明の闇を破する恵日なり

(「註釈版聖典」一三一頁)

何ものにもさまたげられない光明は、私の根深い暗闇を破ってくださる暖かな恵みの太陽です。

(著者意訳)

とお書きになっています。

山本和上の「人間に花ひらく」(八~十二頁)(永田文昌堂)には、「星がうつる」と題された文章があります。日中戦争を舞台とした小説『麦と兵隊」を書いた火野葦平の文章に感した、と書かれたものです。戦後すぐの廃墟の都市にいた戦争孤児の少年が、クツみがきをしながら生きのびてゆく姿を描いていて、その少年はクッをみがきながら「ぼくのみがいたクツには、天上の星がうつるんだよ」と活きいきと目をかがやかしていたというのです。

和上は、その少年の生き方はあわれかもしれないけれどとされながら、

しかし、彼の小さい手で、一生けんめいにみがくそのクツに、大空にまたたく星がうつっているというところに、彼の手と天上とむすばれるものがあり、そこに誇りを感じ、希望が湧き、そして、みすほらしいと見える中にも、大きな生きがいにはずんでいたのでしょう。

お念仏をする心にも、これに通じるものがあると思うのです。誰も知らぬ仕事場の中に、ひとり夜道を帰る町の灯の下に、しずかにお念仏を称えるとき、そこに、仏の心が通い、仏の心がうつっているのです。そこにこそ、ひろびろとしてはてしない、宇宙の真実ありだけをはらんで、わたしのためにねがいをかけてやまない、仏の全生命が流れそそがれているのです。

お念仏は単にお寺や、お仏壇の中にだけあるものでなく、こうして一人、一人の、70いかなるささやかな生活の中にも、生きているのであり、光っているのです。

と味わっておられます。

きっと山本和上は、クツみがき少年に、一人はっちで生きてきたご自身の姿を見られたのでしょう。和上のお母さんは、肺炎をおこして人生を終わってゆかねばならぬなか、十一歳の我が子を前に、

「わたしは死にません。お浄土に生まれさせていただくのです。おさとりの身にしていただいて、この子の一生をまもりつづけます。みんなに可愛がってもらいなさいよ」

と言い残してご往生されたそうです。

山本和上は、一人ぼっちになって生きのびてゆかねばならなかった自分と、孤独に生きねばならぬ人々に、優しく言い聞かせておられるのでしょう。

「一人ではあるけれど、お前には母さんが遺してくれた念仏がある。念仏の温もりは母さんの温もりだよ。お前を支えているものの温もりだよ」「苦労をしても、ひがんだり、ごうまんにならないようにお育てくださるのが、如来さまである」

といつも和上はおっしゃっていたそうです。

(濱畑 僚一)

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2024年4月のことば まことに浄土真宗とは 聞法がいのちであった

四月のことばは、近田昭夫師のお言葉です。

近田師は、一九三一(昭和六)年に東京浅草に生まれ、法政大学経済学部経済学科を卒業し、一九五五(昭和三十)年より真宗大谷派顕真寺住職を務められました。その間、真宗大谷派総会所教導・同朋会館教導を歴任され、二〇一八(平成三十)年+月二十六日に往生されました。

この四月のことばは、師の「仏さまはどこにおられますか?」(東本願寺出版部)の中に、

如来したまう本願は、相手の身になって、その身の事実を引き受けて立ち上がる力となろうという、未曾有の救済プランだと言ったら言い過ぎでしょうか。

大悲の仏心にめざまされたら、「面ア洗って出直しだ」と、身の事実から歩み立てます。弱い者に弱いまま立てる心がおこります。まことに浄土真宗とは聞法がいのちであったと知らされるではありませんか。

とあるお言葉からです。

その前のところでは、「人の死でなぜ経が読まれるか」と、宗教が身近ではない方を想定しつつ、宗教の根源に戻るような問いを立てられて、

本来、お経というのは教えの言葉ですから、お亡くなりになった方に対して語られたものでないのです。

と仏教の基本を示されます。さらに「そういうもの(教えの基本)が、人の死においてなぜ大切に読まれてきたのか」を問われ、

それは、人間の言葉が間に合わなくなったからです。言葉を失うという体験にあっては、仏さまのお言葉のお出ましをいただくしかないのです。仏さまのお言葉はまことの言葉であろうという倍頼の念に裏付けられて、そういうことがおのずと行われてきたのです。

と、仏さまのまことの言葉であるお経の言葉でしか間にあわない場面、まことの言葉があらねばならない場面を、端的に示されます。そしてさらに、「では仏さまのお言葉がなぜまことの言葉と言えるのか」と、厳しく問われます。その答えを仏さまは、大いなる心で悲しみたまうからなのです。

と示されます。まことの言葉とは、相手の身になって共感する、大いなる悲しみの心だとおっしゃるのです。そのまことの言葉こそが、法蔵菩薩の本願であると明かされ、今月の言葉を含む文章へと続いてゆくのです。

師は、「素人感覚が大切」とも言われておられたようで、具体的な生活の場面から考え始められ、素人という前提条件の一切ない、誤魔化しのきかない方の問いを重ねてゆかれます。

「なぜお経を読むのか」は、まさに思わず「お葬式って本当にしなきゃならないのかなあ」とつぶやいてしまう具体的な場面を想像させます。また確かに、お葬式とは、人間の言葉が間に合わなくなる状況でした。大切な人の死に際して、私達は悲しみの中で、その悲しみを表現する言葉を失わざるをえません。また自分の死について、死とは何かを明確に説明する言葉を持ちません。師は、その人間の言葉が尽きた世界こそ、この仏さまのお言葉が必要な世界だとおっしゃるのです。

人間は言葉で自分の世界を作り出しています。だとすれば、言葉を失った世界とは、意味を失った私の世界のことです。無意味な世界を生きねばならないことを、人は絶望というのではないでしょうか。「仏さまはどこにおられますか?」に対して、師は、「一切が無意味になった私の絶望の場におられるのが、仏さまである」と言われているのでしょう。

絶望の場に間に合うのは、仏さまのまことのお言葉しかない。まことのお言葉とは、ウソのない言葉です。ウソとは、言っていることとやっていることが異なっていることです。まこととは、言葉と行動が一致していることです。意味を失った絶望の世界が必要としているのは、言葉と行動が一致した仏さまのお言葉なのです。

そしてそのお言葉は、相手の悲しみに共感する仏さまの悲しみの心から出たお言葉でなければならない。また、いつでもほんとうのことを言えばいいわけではありません。ほんとうのことを指摘したウソの無い言葉が、人を深く傷つけることがあります。良かれと思い言った言葉が、相手を傷つけてしまうのです。そこには、相手の身に立った言葉が必要なのです。しかし、残念ながら私は、相手の悲しみを本当にはわかることができません。痛ましいことです。

相手の身になって相手のすべてを知り、相手の安らぎの為に生きる方こそ、仏さまです。親鸞聖人の先生である法然聖人は、「選択本願念仏集』本願章に、

弥陀如来、法蔵比長の昔、平等の熱悲に催されて、あまねく一卵を摂せんがために、(中略)ただ称名念仏一行をもつてその本願となしたまへり。

(『註釈版聖典(七祖備)」一二〇九頁)

阿弥陀如来さまには、法蔵と名のられていた求道者の時代がありました。その時に、平等の慈悲によって、すべてのあらゆる者に本当にしあわせな生き方をさせようと、すべてのあらゆる者にただ南無阿弥陀仏と称える生き方をさせること、それを最も大切な願いとされました。

(著者意訳)

と明かされました。

このお言葉の中の「平等」とは単なる公平ではありません。絶望して苦しむ者と阿弥陀如来さまは、同じ場に立つ者、同じ価値を持つ者だという意味を含んでいます。例えばそれは、相手より優位に立とうとするマウンティングが無い世界です。

つまり「平等」とは、強者がエラくて弱者がダメなのではない、上下関係にならない仏さまのさとりの境地です。ひとつひとつ「いのち」は、かわりのきかない、かけがえのない存在だとする、仏さまのさとりの世界を「平等」といいます。

「慈悲」とは、相手の悲しみ苦しみを自分の悲しみ痛みとして共感する者が、見返りを一切求めず純粋な思いで身をつくして行動し続ける、その心のことです。つまり阿弥陀如来さまは、言葉を失った絶望の世界に生きねばならぬ者のかけがえなさを知り、その苦しみをはっきりとわかりつくした仏さまであったのです。その仏さまの最も大切な願い(本願)が、人々に南無阿弥陀仏と称えさせて仕合わせにすることだったのです。

そのことを近田師は、「ここ(言葉を失った場所)が、法蔵菩薩が南無阿弥陀仏という本願を立てざるを得なかった場所」とも「如来したまう本願」ともおっしゃいます。如来とは、私の所に届き来ている仏さまのことです。仏さまは私の身になって、私の上におこる悲しみや苦しみなどの生活事実を自分のこととして引き受けて、南無阿弥陀仏と称える生き方となって届いている。それが本願、つまり最も大切な願いであるというのが、師の「如来したまう本願」です。そしてまたそれが、無意味な絶望の世界から立ち上がらせる力である。そして、南無阿弥陀仏と称え生きることは、阿弥陀如来さまの私に対する未曾有の救済プランだともおっしゃる。

その救済プランは、仏さまのさとりの境地が、私の悲しみ苦しみへの共感となって動き出した心です。その仏さまの心が、私の苦しみを共にして解決しようと南無阿弥陀仏と私の上に実現していることを知った時、はじめて、私は絶望から立ち上がり、絶望の現実を背負い歩むことができるのです。

「浄土真宗」とは、南無阿弥陀仏と称えて生き、浄土に生まれてゆく真実の教えのことです。「浄土」とは、仏さまのさとりの境地です。浄土に往き生まれる南無阿弥陀仏と称える生き方をするのが、浄土真宗という教えです。仏さまは、私に浄土に往き生まれるような生き方をさせて、私をしあわせにしようとされる。その浄土真宗を、師は仏さまの救済プランだとおっしゃるのです。

そこで、近田師の「月々のことば」です。

まことに浄土真宗とは聞法がいのちであった

「聞法」とは、法を聞くこと。法とは仏さまの教え。仏さまの教えとは本願のことです。「聞法」とは、「私が南無阿弥陀仏と称えて生きること」について、「仏さまの最も大切な願いが、私に実現していることである」と聞くことです。念仏を称えていることは、仏さまの本願の心が私の上に実現していること。そのように聞き容れながら生きることが、浄土真宗そのものです。そうした聞法の大切さを、師は「いのち」とおっしゃるのでしょう。

また、私が絶望から歩み始めることは、仏さまの最も大切な願いと共に生きることです。念仏申していても、私が仏さまの願いを聞き容れないまま生きることは、仏さまのことを知らぬままに生きることです。仏さまの願いは、仏さまの「いのち」です。私が念仏を称え生きることは、仏さまの「いのち」です。絶望の世界では、仏さまの「いのち」を見失います。私がしあわせになることは、仏さまの「いのち」です。その意味で、開法は仏さまの「いのち」です。

近田師は、「まことに」とおっしゃいます。このお言葉には、師が御自身の生活事実の中ではっきりと確認された、浄土真宗という教えの実在性への確かな実感があるのでしょう。

(濱畑 僚一)

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2024年3月のことば南無阿弥陀仏が私の救われるしるしであり証である

梯實園氏は、兵庫県の出身で、一九二七(昭和二)年十月に出生され、二〇一四(平成二十六)年五月に八十六歳で逝去されました。氏は本願寺派の多くの教学機関で尽力され、また膨大な教学に関する自著、共著を執筆されています。さらには伝道に関しても多くの著書を出版されました。

ずいぶんと旧事のことになりますが、梯先生と地方の教学振興の一環として開催されていた勉強会でご一緒したことがあります。梯先生は安心論題、私は七祖教義の講義でした。講義は先生が先、私が後で、それぞれの講義の途中に休憩を入れるという予定でした。講義が始まり私は控え室で待機していたのですが、途中休憩の時間を大幅に過ぎても、先生はなかなか控え室に帰ってこられません。少し心配になっていると、先生は中休みの時間を大幅に超過されて帰ってこられました。そして少し休憩されて再び後半の講義に向かわれたのですが、後半の講義の時間は大幅に少なくなったのでした。時間を忘れて講義をなされていたその姿勢は、先生の真宗の安心を伝えようとする真剣な熱情の表れであったのだろう、という記憶が残っています。ちなみにこの時の私の講義については、「七祖教義の背景となる周縁の話が多かった」といういささか不満足の意を含んだ感想を後日、聞かされたことでした。

さて「南無阿弥陀仏が私の救われるしるしであり、証である」の標語は『季刊せいてん』(本願寺出版社)一二二号に、朝日カルチャーで行われた「『教行証』を読む」(九九八(平成十)年七月)の講義を要約して掲載されたものです。(連載は、『正信偈講座」としてまとめられ、本願寺出版社より二〇二三 (令和五)年六月に刊行)それは「正信偈」の講義として、依釈、戦の中の善導大師について述べられるものであり、

善導大師はただ独り、これまでの誤った説を正して他の教えの真意を明らかにされた

(『顕浄土真実教行証文類(現代語版)』一五〇頁)

という偈で、韋提希夫人にお釈迦さまが救いの教えを説かれるなかで教示されるものです。

すなわち苦悩する韋提希夫人に対して、阿弥陀仏による救いをお釈迦さまが説示されるのですが、その阿弥陀仏は『仏説無量寿経』に説かれる住立空中尊として姿を顕現している仏であるといわれます。『仏説観無量寿経」は、仏の世界を視覚的に表現される経典なので、阿弥陀仏を姿・形で示されているのです。そのなかで示される形を持った阿弥陀仏は、同時に『仏説無量寿経』で教示される法蔵菩薩が四十八の願を建て成就した阿弥陀仏であり、その阿弥陀仏は名として、すなわち名号として成就した仏なのです。

標語で示される「南無阿弥陀仏」とは、『仏説無量寿経』で示される名として成就した名号であり、『仏説無量寿経」の第十七願では、諸仏たちがすべての衆生を救うと大いなる誓いを建て成就された阿弥陀仏の名前を唱えて讃嘆しなければ、法蔵菩薩は阿弥陀仏にならないと誓われているのです。このように誓われた名として成就した陶弥陀仏、すなわち名号は、如来から他力として私たちに回向されるのですから、名号、すなわち南無阿弥陀仏は私の救いの「しるし」であり、また同時に「証」であるといわれるのです。

なお、この言葉自体は蓮如上人の「蓮如上人御一代記問書」に「証拠は南無画系陀仏なり」(『註釈版聖典』一二五八頁)に基づいて示されたものです。

衆生の救いの「しるし」であり、また「証」である南無阿弥陀仏は、名号すなわち南無阿弥陀仏という名前として成就されたのです。「名は体をあらわす」といわれるように、名前は本質を示しているといわれます。その本質を示しているということについて、今少し親鸞聖人の南無阿弥陀仏、すなわち仏の理解に関する教示をうかがってみたいと思います。

親鸞聖人は、「一念多念文意』に、

一実真如というのはこの上なくすぐれた大いなる涅槃のことである。涅槃とはすなわち法性である。法性とはすなわち如来である。宝海というのは、どのような家生も除き捨てることなく、何ものにもさまたげられることなく、何ものも分け隔てることなく、すべてのものを導いてくださることを、大海がどの川の水も分け臓てなく受け入れることにたとえておられるのである。

この一実真如の大宝海からすがたをあらわし、法蔵菩薩と名乗られて、何ものにもさまたげられることなく楽生を救う尊い誓願をおこされた。その誓願を因として阿弥陀仏となられたのであるから、阿弥陀仏のことを報身如来というのである。

(「一念多念文意(現代語版)』三十二頁)

と示されています。

さらにはまた「唯信鈔文意」には、

法性はすなわち法身である。法身は色もなく、形もない。だから、心にも思うことができないし、言葉にも表すことができない。この一如の世界から形をあらわして方便法身というおすがたを示し、法蔵菩薩と名乗られて、思いはかることのできない大いなる誓願をおこされた

(『唯信文意(現代語版)」二十三頁)

と明かされています。親鸞聖人の如来の明示からいえるのは、法蔵菩薩は、色もない形もない法身である涅葉の一如から姿を表して法蔵菩薩となのり、本願を建てられたのであるということです。すなわち法蔵菩薩とは、人間の思慮の及ばない一如、真如そのものから現出した菩薩であると捉えられているのです。

一加とは真理そのもの、今日的な表現をすれば絶対ということであろうと思います。絶対というのは、人間には把握し理解することはできないものです。なぜなら、人間は相対世界にある存在です。相対なるものをいくら積み重ねても、絶対になることはできません。そのように絶対に至ることはできない衆生のために、絶対世界から相対世界の菜生にわかるように、法蔵菩薩として現出されたといわれているの44です。

いわば法蔵菩薩は、一如の絶対を根拠としているということです。このような理解は、前述の『一念多念文意」に、方便というのは、すがたをあらわし、み名を示して、衆生にお知らせくださることをいうのである。すなわちそれが阿弥陀仏なのである。この如来は光明である。光明は智慧である。如来の智慧は光というすがたをとるのである。智慧はまた、すがたにとらわれないから、この如来を不可思議光仏というのである。

(『一念多念文意(現代語版)」三十三頁)

と示されています。阿弥陀仏は、真理の世界から衆生が理解できるように、法蔵菩薩として現出し、阿弥陀如来となったといわれ、さらにその現出した阿弥陀仏は、光であり、智慧であるとされます。そして智慧は、限定のある相対的な智慧ではなく、広大な絶対的な智慧であり、それゆえ限定をするかたちもないので不可思議光ともいうのである、と示されているのです。

如来を智慧の光明として捉えることは、如来の像や形の周像にとらわれないということであり、それはまた人間の我見によってつくられる如来ではなく、人間の思惟を超勝した如来ということであろうと思われます。すなわち、南無阿弥陀仏という如来は、絶対の世界から生を救おうとして現れたものであるから、私を救う「しるし」であり、また「証」ともなるといわれるのです。

一如である真理が真理のままであるなら、真理は絶対ですから、相対の衆生には全く無関係であり認識することさえできないものとなるでしょう。苦悩する衆生を救済するためには、絶対的な一如が相対の紫生に理解できるように、そのありようを現出しなければ、絶対的な一如は真理としてはまちがいなく真理ですが、楽生と無関係の真理ということになるでしょう。南無阿弥陀仏が一如、真理からの現出ということは、紫生を救済するということを表そうとしているのであろうと思います。

では、阿弥陀仏が衆生を救済するということは、具体的にはどのようなことなのでしょうか。

号機の「赤」は「止まれ」を意味するものである、と私たちは認識していますが、本来、「赤」という言葉は、色を示すものであって、「止まれ」を意味するものではないでしょう。しかし信号機の「赤」は「止まれ」を意味するものであることを、私たちは知っています。これが「赤」という色に、「止まれ」という意味が付与されているということです。

「母」という言葉にも同じことがいえます。直接的には、生物学的な意味の、自分を生んだ親ということを意味する言葉です。従って本来の「母」という言葉は、慈愛を意味しているのではないでしょう。しかし幼子が「お母さん」と呼ぶとき、その「お母さん」という言葉は、自分を慈しみ愛でる、慈愛そのものを表しているということができるでしょう。さらにいうなら、「お母さん」と呼ぶときの幼子は、お母さんという言葉に合意された、母の慈愛の中にあるということでしょう。それゆえ幼子にとって「母」という言葉は、慈愛を表す「しるし」であるとともに、「証」そのもの、ということだと思われます。

このような意味において、念仏はしるしであると共に、そのしるしは救いの証でもあるということなのではないでしょうか。

『異抄」第九条に示される、親鸞聖人と唯円の対話において、唯円が、「念仏をするようにはなりましたが、喜びや、浄土に往生したいという心が起こってこないのです。このようなありようはどのように考えたらよいのでしょうか」と尋ねています。問いについて、親鸞聖人も同様な思いであったと言われました。

「よく考えてみますと、浄土に往生したいという喜びの心が起こらないのが、衆生の真の姿であって、そのような衆生の実相を見越して弥陀の本願はたてられているのですから、ますます本願が確かなものであるといえるでしょう」と答えられているのです。南無阿弥陀仏すなわち名号は、衆生の思いに先立って建立されたものである、と示されているのです。

「仏説無量寿経」ではこのような仏のありようを、「先意承問」すなわち、相手の気持ちを先だって汲み取ってよく受け入れるありようだと示しているのです。

南無阿弥陀仏は、生に先立って真実を証明するものであり、同時に真実そのものであるのです。すなわち、衆生に先立つ真理に基づく阿弥陀仏の真実のありようを、念仏は真実を証明する「しるし」であると同時に、「証」、すなわち真実そのものであるといわれたのでしょう。

(川添 泰信)

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2024年2月のことば 念仏をはなれて仏もなく自分もない

金子大榮氏は新潟県の出身であり、一八八一(明治十四)年五月に出

生され、一九七六(昭和五十一)年十月に九十五歳で逝去されました。氏は、清瀬之氏や賞我量深氏などと協働して研究・活動された、真宗大谷派における真宗学の泰斗のお一人です。

氏は、一九〇一(明治三十四)年に京都より東京に移転し開校した真宗大学(現大谷大学)に入学して、初代の学長であった清沢満之氏の影響を受け、一九〇四(明治三十七)年に卒業されました。以降、生地に帰り自坊の寺務に従事しつつ、同郷の曽我量深氏と親交を深められました。一九一五(大正四)年には、上京して清沢満之氏が創刊した雑誌『精神界」の編集責任者となり、一九一六(大正五)年には東洋大学教授となられました。翌年には大谷大学教授に就任し京都に移られるのですが、教学理解の相異によって一九二八(昭和三)年、同大学を辞任し、その後、広島文理科大学(現 広島大学)で専任講師を務められました。一九四二(昭和十七)年には、再び大谷大学教授に復職されました。

私はかつて、親鸞聖人が開示された浄土真宗の肝要な教えである「聞即信」の「聞」について、一文を書こうとしたことがあります。それは浄土真宗における「聞」とはどのようなありようなのか、ということを明らかにしたいということだったのですが、そのときに参考にした資料の中で述べられていた、金子氏の次の言葉に強く教えられたことがあります。それは、

仏法は聴かねば聞こえぬものであるに違ひない。されば聴く者のすべてが、必ずしも聞き得るものではないようである。それは聴く事は聴く者の力であり、聞ゆることは仏法そのものの用きであるからである。それ故に聴は聞の機縁ではあるが、しかも聴から聞へと連続するものではない。ここに求めずば与えられず、されど与えらる、ものは求めたるものにあらず

というものです。「聞」は「聴聞」ともいいますが、「聴」は自ら聴くという事態を示し、「聞」は仏の方から聞こえてくる様を示す言葉です。浄土真宗の「聞」というのは、仏のはたらきによって聞こえてくるありようをいうのであり、それは私が聴こうとして聴いたものとは異なっている、という教示です。この金子氏の浄土真宗の「聞」の理解によって、改めて親鸞聖人が示された「聞即」の信仰的意味を教えられたように思ったことがありました。

さて、氏には多くの著書がありますが、本標語は「浄土真宗とは何か『教行証」のこころ1』(二〇二一(令和三)年十二月東本願寺出版)に掲載されたものです。

ちなみに本書は、一九八〇(昭和五十五)年初版発行の『真宗入門 ー『教行信証』のこころー』を東本願寺出版の責任の下、書名も若干の変更を加えて文庫化して出版されたものです。本書の内容は、最終章を加えて九章で構成されており、内容は「教行信証(顕浄土真実教行証文類)』の構成を始めとして、『教行信証』全体を開示している「総序」から始まり、「教巻」「行巻」「信巻」の主たる部分について明かされています。

「念仏をはなれて仏もなく自分もない」の標語のことばは、この本の第六章 七高僧のお言葉のなかで示されています。それは「行巻」の龍菩薩の『十 住婆沙論」の「疑心をもって、執持して名号を称すべし」(「註釈版聖典(七祖能)」六頁)

の文を、念仏の意味を明らかにする導入の引用文としながら、念仏について、七高僧の明かす念仏、直接的には親鸞聖人の開示する念仏とはどのような意味なのかについて述べられたものです。

ところで念仏という場合、仏を心で念ずることを意味する場合もあり、また法蔵菩薩が成就した阿弥陀仏の名前としての名号を指す意味のこともあり、さらには阿弥陀仏の名号が回向されて、衆生の信となり、称名となって顕現する意味を示す念仏もあります。したがって念仏といわれる言葉は、それぞれ表現される場面において、多様な意味を表すものです。標語でいわれる念仏は、このように多様な場面で示される念仏の本質的な意味についてのものです。

『浄土真宗とは何か『教行信証』のこころ』では、標語の前後にその文の意味内容が説明されていますので、その理解について見ておきたいと思います。

すなわち、念仏といえば、念じられるのは阿弥陀仏であり、念ずるのは衆生、つまり私です。ですから、阿弥陀仏と私というものがあって、そこに念仏ということがあるということは、間違いのないことです

と述べられるように、一般的概念的な仰の対象としての阿弥陀仏、そしてその仏を念ずる私、そしてそこに念仏があるといわれています。

このような説明は誰しもが考える、仏と私と念仏の関係であろうと思われます。

さらに続いて、

阿弥陀仏があり、またここに自分がいるということがわかるのは、念仏によるのです。ですから、念仏の他に、阿弥陀仏がましまし、また自分があるということを知る道はないのです。

と言われています。それは阿弥陀仏という救済する仏があり、また救われる私がいるということは、念仏することによって、初めて仏も私も救うものと救われるものとしてあるということがわかると言われているのです。それゆえ、

念仏する心になってみると、そこに仏があり自分があるということになるのです。仏があるから念仏するのではない、念仏するから仏があるのだといってもいいでしょう。

と示されています。そしてまたさらには、

私がいて、そこに念仏というものが出てくるのに違いないのですが、しかしそれはどうしてわかるかといえば、念仏しなければわからない。これをいいかえますと、仏は私たちの前に、念仏として現れてくださるのである。その南無阿弥陀仏によって、私は自分がここにいるということを知らせていただくのだということになるのです。

と述べられています。本質的な念仏の意味の開示ですが、その意味は「念仏する心」でと言われるように、私を救わんとする阿弥陀仏に南無と帰依し、念仏するとき、初めて阿弥陀仏は活動する姿、すなわち念仏として顕現するということです。そしてまた私は、阿弥陀仏によって救われる、罪悪深重の凡夫としての私としてあると言われているのです。

それは、念仏の本質を活動する仏のはたらきとして明かされるものであり、それゆえ「念仏をはなれて仏もなく自分もない」と言われているのではないかと思われます。このことは、念仏とは衆生の念仏する実践において、念仏としての真実の意味が顕現されるのである、ということを明かそうとされたのではないかと思われます。

このような氏の明かす念仏についての意味は、真宗の法話でたびたび耳にする、

原口針水氏の「われ称えわれ聞くなれど南無阿弥陀つれてゆくぞの親のよびごえ」と詠われた言葉にも通底するのではないでしょうか。それは、念仏は私が称え私が聞くものではありますが、私の称える念仏の意味は、仏がまさしく私を摂取して救おうとする呼び声であるという味わいです。

親鸞聖人は、阿弥陀仏について、「浄土和讃」弥陀経讃に

十方微塵世界の

念仏の衆生をみそなはし

摂取してすてざれば

阿弥陀となづけたてまつる

(『註釈版聖典」五七一頁) 34

と詠われています。それは念仏する紫生をみて、摂取して決して捨てないからこそ阿弥陀仏であるということですが、「摂取不捨」の言葉に左訓を附して「ひとたびとりて永く捨てぬなり。摂はものの逃ぐるを追はへとるなり」と説示されるように、阿弥陀仏は、煩悩に狂わされてさとりの世界を避し逃げ回っている来生を、仏の方から追いかけて救おうとしている活動態と見ておられるのです。

念仏は、このように仏の方から救おうとする、仏の顕現ということではないかと思われます。そしてさらには、妙好人として著名な浅キボさんは、自問自答して、

わしや(私は)まん太(まだ)ごくらくをしらんがごくらくわ(は)どこかな

こんなばかをどりや(あなた) まん太(まだ)ごくらくをしらんか

太いぶ(大分)ばか太(だ)のごくらくわ(は)なむあみ太(だ)ぶがごくらく太や

ふんそをかいそりやそりや(そうそう) ありが太(た)いのありが太(た)い

と詠嘆されるように、南無阿弥陀仏が極楽であると言われているのです。そしてさ

らには

「わ太しや(わたしは)ごくらくみ太こ太(見たことは)ないがこゑ(声)で太のしむ(楽しむ)なむあみ太(だ)ぶつ」

と、法味愛楽されるように、称名念仏による喜びを示しておられるのです。

それはまさに念仏が、私を摂取する仏のはたらきであるという受け止めによって顕現する心の世界であるでしょう。

同じ味わいは、山口県下関の六連島のお軽さんが、

鮎は瀬に住む小鳥は森にわたしゃ六字のなかに住む

と詠った言葉にも、同様の味わいを見ることができるように思います。

念仏は一般用語として存在します。それは私の救いとは無縁の存在としての言葉です。そのような私の救いと無縁の念仏は、歴史的に伝えられてきた仏の名前であり、それは知識としての仏名の言葉ではないでしょうか。

しかし、ひとたび、私の救いが問題となったときに発する念仏は、私を済度するはたらきとしての念仏です。このようなありようを「念仏をはなれて仏もなく自分もない」と教示されているのではないでしょうか。

(川添 泰信)

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2024年1月のことば 帰ってゆくべき世界は今遇う光によって知らされる

浅井成海氏は一九三五 (昭和十)年五月に福井県で出生され、二〇一〇(平成二十11)年六月に七十五歳で逝去されました。

氏は、筆者にとって極めて身近な存在でした。というのは、大学の先輩の先生であったとともに、教えをいただいた指導教授が同じであったのです。浅井先生は指導教授の初期の学生であり、私は指導教授の最後の学生でした。それゆえ同一の指導教授に教えを受けたので、私にとっては先輩であるとともに同門でした。そのような関係でしたので、真宗学の教育・研究はいうまでもなく、極めて精力的に活動されていた伝道についてのさまざまな仕事も微力ながらご一緒させていただくという、私にとっては忘れがたい因縁の深い先生でした。

「帰ってゆくべき世界は今遇う光によって知らされる」の言葉は、氏の著書『法に遇う人に遇う 花に遇う』(本願寺出版社)に教示されるものです。この書名は、氏が日本の四季の美しさにしばしば心をうたれ、その変化のなかで自然のこころに触れることを「花に遇う」とされ、そのような自然の美しさに触れて、人生を味わってきた先師のさまざまな生き方に学ぶことを「人に遇う」とされたのでしょう。さらに人生において必然である、人との出会いと別れがあります。その出会いと別れを超えて人間の出遇いをまさに真実の出遇いとするものは、念仏法に遇うことであるとされ、それを「法に遇う」という意図のもとに上梓されたものです。

元原橋は月刊誌である「大乗』(本願寺出版社)に掲載されたものですので、内容は折々に先生の胸中に去来したテーマに基づいて書かれてあります。今月の言葉は「光をうけて共にいきる」という話の中の一文であり、書籍のタイトルでいうなら、「法に遇う」の具体的な内容として記述されたものといえるでしょう。

第一段の「光をうけて共にいきる」とは、仏教の基本的教えである「縁起」についてです。すべてのものに固定的自性はなく、あらゆるものは変化するということであり、人間もつねに変化してやまない存在であるという、仏教の基本的理念が示されています。また第二段の「療養生活の思い出」は、自らの絶対安静の療養体験を通じて、自然の花の美しさと、人間の親子の慈愛あふれる優しさについて述べられたものです。最後の第三段の「入れ物がない両手でうける」は、死を目前にした孤独の現実のなかにありながらも、人間の優しさを両手で受けるとして、他力に生かされた人間のありようを示されているものです。

今月のことばは、このような三つの内容で書かれた中の、第三段の「入れ物がない両手でうける」に出てくる教示です。

「帰ってゆくべき世界は今遇う光によって知らされる」とはどのようなことを示されているのでしょうか。内容としては、三つのことに気をつける必要があると思われます。一つ目は「帰ってゆくべき世界」であり、二つ目は「今週う光」であり、三つ目は「知らされる」です。

ではまず「帰ってゆくべき世界」とは、どのような世界を意味しているのでしょうか。

親鸞聖人は「帰ってゆくべき世界」、すなわち弥陀の浄土について「つつしんで、真実の仏と浄土をうかがいますと、仏は思いはかることのできない光明の如来であり、浄土はまた限りない光明の世界である」と示されています。親鸞聖人にとってさとりの世界は光明、すなわち光の世界だったのです。まさに浄土は光り輝く光明の世界であり、反対に迷いの来生の世界は闇に包まれた黒闇の世界とされます。それはさとりと迷いの象徴的表現です。

ところで、親鸞聖人は迷いからさとりの世界に往くことについて、特に「来迎」の語句について注意をされています。「来迎」は「臨終来迎」などといわれるように、死に臨んだ楽生を、仏が菩薩方を伴って迎えに来ることを示すものです。衆生が臨終において、気が動転してどのような世界に行くのかわからなくなるというような状況のなかで、仏が迎えに来てくれるならば、安心して往生できるということですので、鎌倉時代でも大いに歓迎された教えでした。

親鸞聖人はこのように理解されていた臨終来迎について、そのような来迎による往生は、諸々の行を修めて往生しようとする諸行往生のあり方であって、真実の往生ではないとされています。このような諸行往生の「来迎」について、親鸞聖人は「唯信文意」に、次のような独自の理解を示しておられます。

 

「来迎」というのは、「来」は浄士へ来させるということである。(中略)また「来」は「かえる」ということである(中略)「迎」というのは、「おむかえになる」ということであり、待つという意味である。

(「唯信鈔文意(現代語版)」九~一〇真)

 

いわば「来」とは「浄土に来させる」ということですが、それは「本願」をあらわす教えであり、それゆえ「他力」を示す言葉であるとされています。そしてさらには「来」は「かえる」という意味であり、それは真実のさとりに至るということです。真実のさとりを得るということは、そのさとりの場に止まることなく、再び迷いの衆生世界にかえって人々を救うはたらきを得ることであり、それを「来」といい、「かえる」という意味であると教示されているのです。

また「迎」の意味は「おむかえになる」ということであり、待つという意味であり、それは如来の本願を聞いて、疑う心がない真実の肩心をいうのです。そして心を得るならば、如来は摂めとって決して捨てることがないのであり、そのようなありようを正態の位に定まるというのです。このような層心ですから、倍心は壊れることのない金剛のような心といわれるのです。

ここでは「来迎」を「来」と「迎」に分けて、「来」を浄土に往生させるということと、海士に往生したならば、そのまま浄土に止まるのではなくて、婆婆世界に再び帰ってきて来生救済をすることであると示されています。それは、往することは同時に構することである、という浄土真宗の教えの基本構造である往還の二種回向として示されているということです。また「迎」は、如来が「むかえる」ということであり、それは心を得るということです。そのような人は正定界の位についているということであり、そして阿弥陀仏は真実信心の正定の人を摂めとって捨てることがない、ということであると明かしているのです。このような金剛不焼の心のありようを「迎」というのであると示されています。

「帰って行く世界」とは、いわば光り輝く清浄の世界であり、そしてそれは単に光り輝く世界としてあるのでなく、再びこの娑婆に帰って、苦悩の生を救うというはたらきをする世界であると明かしているのです。

しかしそのような光り輝く「帰ってゆくべき世界」は「数異抄」に、

苦悩に満ちたこの迷いの世界は捨てがたく、まだ生まれたことのない安らかなさとりの世界に心ひかれない

(「異抄(現代版)」一六頁)

と示されるように、人間的実感としては力なくして終わるときに生まれる世界でもあったのです。

さらに「今週う光」とは「迎」の意味として、如来の本頭を聞いて疑いがないことを言心といわれるように、光り輝くさとりの世界を教示する仏、すなわち阿弥陀仏を具体的に顕現する名号に出遇うということであろうと思われます。そして名号に出遇うということは、具体的には浄土の教えを伝えた、聖典や七高僧に出遇うということでしょう。親鸞聖人は、「教行証」の「総序」に、

よろこばしいことに、インド・西域の聖典、中国・日本の祖師方の解釈に、遇いがたいのに今遇うことができ、聞きがたいのにすでに聞くことができた

(「顕浄土真実教行証文類(現代語版)」五頁)

と示されています。そして「遇う」ということは、「一念多念文意」に、

「遇」はまうあふといふ。まうあふと申すは本願力を言ずるなり

(『注釈版聖典」六九一夏)

と教示されるように、すべての苦悩する米生をう如来の本願のはたらきをじることでもあったのです。

さて、法語の最後の言葉である「知らされる」ということについてですが、それは具体的には遇いがたき聖典や高僧の教えに出遇い、そして知らされるということです。聖典や高僧に遇い、そして念仏の教えを教示されて、知ることができたということであり、その知ることができた内実そのものは、他力回向の言を獲得し、念仏に出遇ったときといえるでしょう。

念仏に出遇い、を得るという個人の内的な宗教的体験は、人によってさまざまでしょう。覚醒的な自覚的体験とは、凡夫にとってはなかなか困難なことではないかと思われます。極めて過酷な行を修められた行者さんから「仏を見た」という体験談を聞くことはありますが、世俗のただ中に人生をおくる凡夫である生にとっては、ほぼ不可能な体験であろうと思われます。日々の生活を在家として生きる楽生にとって宗教的実感は、人生を振り返ったとき、初めて知ることができるのではないでしょうか。

卑近な例で申し訳ないのですが、私の個人的な念仏との出遇いは、かつて幼い頃、本堂の仏前でお参りしたときに、母から「なんまんだぶつといいなさいよ」と、日常の生活の中で念仏することを教えられたことであったように思います。またガンに冒された父が、検診のために行った有院のベッドの上で言った「今日が最後だな」という非日常の状況での別れの言葉にたじろぎながら、父の念仏する姿を見たことにあったように思います。

そのときには気がつかなくても、あのときに教えられたと後に振り返って気がつくことが、帰るべき世界を教示する念仏としての如来、すなわち「光に出遇い」「知る」ということではないかと思います。

(川添 泰信)

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2024年はじめのことば 光明と名号がからみ合い妙なる音楽を奏でている

「熱夫日記」(桂書房)で極めて著名な青木新門氏は、歴史的に真宗の信仰のあつい富山県の出身であり、一九三七(昭和十二)年四月に出生され、二〇二二 (令和四)年八月に八十五歳で逝去されました。氏は作家であり、また同時に詩人でもありました。その生は波乱にみちたものであったようです。数種の職を経られた後、冠婚葬祭会社に入社し、納棺専従社員(納棺夫、今日では納棺師と呼称)となられ、葬儀の現場の体験を一九九三 (平成五)年に「納棺夫日記」として出版し、ベストセラーとなりました。

二〇〇八(平成二十)年九月に公開され、多くの人が鑑賞されたであろう映画「おくりびと」は、当初「納棺夫日記』を原案とすることを承諾されていました。しかし、二〇一四(平成二十六)年に出版された「それからの納棺夫日記』(法館)によると、著者のもっとも明示したかった真宗的宗教観が反映されていなかったようです。

「著作権を放棄してでも原作者であることを辞退したのは、納棺の現場で死者たちに導かれるようにして出遭った、仏教の真実が消されていることへの反抗でもあった」

との青木氏の思いにより、最終的に『納棺夫日記』とは異なる内容・作品として、「おくりびと」というタイトルとなり、映画化されたのでした。

標語の「光明と名号がからみ合い、妙なる音楽を奏でている」の言葉は、二〇一八(平成三十)年に東本願寺出版から発行された『青木新門の親鸞探訪』にあるものです。それは親鸞聖人の生を写真と文で構成されていて、「聖人の足跡には、回向がはたらいていて、常に慈光が漂っていました。その光に導かれて辿ればいいだけの親鸞探訪であった」

とあり、「第一章京都編」「第二章越後編」「第三章関東編」「第四章帰京編」という内容になっています。標語の文章は「第四章帰京編」の真宗本廟 (東本願寺)の探訪として記されたものです。具体的には、東本願寺の御影堂を参拝されたときの氏の心象風景が示されたものであるということができます。

「親鸞探訪』の「はじめに」には、

私が念仏の教えに出遇ったのは、仏教に関心があったからでも、真宗教学を学んだからでも、誰かに勧められたからでもなかった。葬式の現場で納棺夫として働いていて、真夏に一人暮らしの老人が亡くなって、そのご遺体を処理している時に、蛆が光って見えた不思議な体験をし、その光に導かれるように親麗聖人の二種の回向のみ教えに出遇ったのであった。要するに、光明の縁に出遇って育てられて名号のいわれを知り言を賜った在家念仏者である。

と自身の体験と現況について明かされています。氏はこのように、遺体を処置する仕事を通じて光を見たと語られました。

人は直接的・間接的の違いはあるとしても、人の死について何らかの縁を少なからず持つでしょう。ただ現代社会は、人の死がきれいに覆い隠された社会であるともいわれています。それは嫌なものは見たくないという現代人の思考が、そのまま社会のありようとして示されているということではないでしょうか。そのような現代社会において、氏が体験された事実。誰もが忌避している人間の死、端的に言えば遺体の処理を通じて、ウジが光って見えたということ。この光について、氏は納夫の仕事の体験を通じて二つの光を見ておられます。

一つは、遺体の周りに湧き広がったウジが、掃除をしようとする手から必死で逃げようとしている場面です。「ウジも生命なのです。そう思うとウジたちが光って見えた」と明かされています。二つは、遺体の処置が終わって外に出ると藪の竹に一匹のトンボが止まっていたのを見たこと。そのトンボは「青白く透き通ったトンボの体内いっぱいに卵がびっしり詰まっている」「数週間で死んでしまう小さなトンボが、何億年も前から一列に卵を連ねて、いのちを続けている」と言われるトンボの体内の光る卵です。このような体験と感慨は、遺体が腐乱し悪臭が漂う中でのことです。そのような中で、ウジとトンボの光に遭遇しておられるのです。

氏はウジにもトンボの卵にも限りない「いのち」の荘厳さを見ておられるのです。

そしてさらに氏にとってそれらは、事実として光り輝くものであったのです。

「死に近づいて、死を真正面から見つめていると、あらゆるものが光って見えてくるようになるのだろうか。それはどんな光だと言われても、説明のしようがないもののように思えた」

と言われるような、永遠の生命の輝きとしての光の原体験です。氏はそのような光に導かれて、仏に出遇われたのです。

表紙の言葉は、納棺夫としての原体験を元として、御影堂の灯明の光、さらにはかすかに差し込む外光の様子がクロスオーバーして見られた心象風景ということでしょう。いわば十方微塵といわれる生命あふれるこの世界は、光明として象徴される阿弥陀仏の輝きに満ちあふれているということ、それは一切の苦悩の製生を救わんとする仏の智慧の象徴であろうと思われます。

親鸞聖人は「仏の光明は智慧のあらわれであり、この光明はすべての世界を照らして、何ものにもさまたげられず、あらゆる人々の闇を除いてくださるのであって、太陽・月や珠の光がほら穴の闇を破るようなことと同じではないということである」

と、天親菩薩の「浄土論」から、詳細な意味を明かそうとされる曇鸞大師の言葉を引用されています。その意味は「光とは智慧の姿であり、すべての世界を隈なく照らし、紫生の真実を真実として知ることができない無知性を取り除くものであり、そのような仏の光はただ単に洞窟の暗闇を照らすような光ではない」と示されているのです。それは、阿弥陀仏のはたらきは無限・無量の絶対的なものとして受け止めておられるということです。

また名号とは、法蔵書が一切の悩めるものを救わんとして四十八の誓願を建立し、その願いが成就して阿弥陀仏、すなわち名号として成就したものです。諸仏はその成就した阿弥陀仏の名である名号を護嘆している、四十八願のなかの十一願には誓われていると教示されているのです。このような光明と名号がからみ合い一体となって、妙なる音楽を奏でていると言われるのです。

さらに、音楽は「仏説無量寿経』には、法蔵菩薩が「重誓偈」を説かれた後に地面が震動し、天から妙なる華を法蔵菩薩の上に降らして「自然の音楽、笠中に読めていはく、(中略)無上 正覚を成るべし (『註釈版聖典』二六頁)」と言われたと教示されています。音楽はいわば、阿弥陀仏の浄土の様相を象徴的に開示したものということです。すなわち「光明と名号がからみ合い、妙なる音楽を奏でている」というのは、阿弥陀仏の世界を光と阿弥陀仏の名号と妙なる音楽として、象徴的に表示されたものであるということができるでしょう。

寺院の本堂にある須弥量は、仏教の世界観である須弥を可視化したものであり、それゆえ寺院の本堂は、阿弥陀仏の浄土を人間世界に具体的世界観として可視化したものとされています。そして「心識派に経」には、阿弥陀仏は「今現在説法」されていると示されています。

このような仏の世界は寺院だけではなく、各家庭の仏壇においても同じでしょう。

讃岐の妙好人庄松さんが、ある年の夏、自宅にそなえてあるお仏壇のなかはさぞかし暑かろうと言って、絵像を風通しのよい廊下に懸けられたという話は、現代の常識人には考えられないことかもしれません。しかし主松さんにとって、仏は今ここ存し生きている存在であり、自身の生活の身近に常に存在するものでした。

光明と名号は、「正信側」に「光明と名号が縁となる」と示され、また「親鸞聖人御消息』には、

本願の名号は浄土往生の因であり、それは父にたとえられます。大いなる慈悲の光明は浄土往生の縁であり、それは母にたとえられます

(「親鸞聖人御消息恵信尼消息(現代語版)』一一八頁)

と教示されています。このように、名号は紫生に与えられた言心の因となり、光明はこの人を照らしてまもる縁となる、という救済のありようをいいます。青木氏が御影堂で見られた世界は、氏の心象風景であると同時に、今ここに現前する苦悩の紫生を救済しようとするはたらき、すなわち阿弥陀仏の他力回向の現出であったということができるのではないでしょうか。

かつて、高僧とされる方の次のような講演録を読んだことがあります。近代の建築様式で新しくできた立派なホールでの講演は、そこで称える人々の念仏の声が聞こえます。多くの年月を経た寺院で念仏を称えますと、今そこで人々が称える念仏と、先人の念仏の声が響き合ってこだまして聞こえてくる、というものです。

この話も象徴的な表現であろうと思います。長い年月の間、先人たちが称えた念仏の声は、本堂の柱や梁のあらゆるところに染みこんでいると言われているのです。

そしてその念仏が、今私が称えている念仏に呼応し、反響して聞こえてくると言われるのです。いわば念仏による響生の世界の現出です。このようなことは単に宗教的象徴ではなく、念仏世界の真実の顕現であるということができるのではないかと思います。

青木氏が見た「光明と名号がからみあい、妙なる音楽を奏でている」という世界も、念仏世界の真実の顕現であったと思われます。

(川添 泰信)

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2023年12月のことば 一人一人がお浄土を飾っていく一輪一輪の花になる

花のいのち

十二月のことばは、梯實圓師(ー九二七ー二〇一四)の「一人一人が海士を飾っていく一輪一輪の花になる」というお言葉です。梯實圓師は、本願寺派勧学・行教校校長をはじめ、浄土真宗教学研究所長を歴任され、深い洞察と学識をもって種々の著書を世に出してくださいました。

著書である『花と詩と念仏」のなかで、曇鸞大が著してくださった「往生論註」の、

同一に念仏して別の道なきがゆゑに。遠く運ずるに、それ四海のうちみな兄弟とするなり。眷属無量なり。いづくんぞ思議すべきや

(「教行証類』「証巻」引文、「註釈版聖典」三一〇頁)

というお言葉を引かれた後に、

私どもは阿弥陀如来さまを共通のみ親と仰ぐ兄弟であり、姉妹であって、お互いにみ仏の眷属(仏・菩薩につき従う者)の一人として、如来さまの浄土難厳の聖なるみわざに参加しているものであるといわれているのです。ですから私どもも一人一人が浄土を飾っていく一輪一輪の花になるのだと味わわせていただきましょう。

(四〇頁)

とお示しをくださいました。

一人ひとりが浄土を飾っていく一輪一輪の花になるといわれるのですが、花を綺職だと思うことはありますが、なかなか花の「いのち」にまで目を向けるということは難しいことだと思います。ついつい「この花はいくらくらいするのだろうか」と花を経済的価値で測ってみたり、同じ花であっても「こちらの花のほうが花びらが大きくて綺麗だ」などと、そのすがたや形によって優劣をつけてしまいます。

赤松麟作という日本画家がこのようなことをいわれたといいます。

私ども絵描きというものは、青い木を描くのに墨で描けるんですよ。素人さんに青い木を描けというと、みんなすぐ緑青をぬって、それで青い木が描けたと思っていらっしゃる。しかし、それじゃあ青い色は見ているけれども、本当の青さというものは見ておらんのです。我々、絵描きというものは、その青い色の奥にもう一つ、青さというというものを見ているんです。したがって墨絵で青さが表現できる。そうならないと絵描きとはいえません。

(野口宗英著「生と死をささえる」一九三ー一九四真)

表面的なすがたを見ているのではなく、その木の奥にある生き生きと躍動する「いのち」そのものを見ておられるのだ、と感心させられたことを思い出します。

たしかに水墨画を見ますと、そこには、あたかも雪が降り積もっている景色があるかのように感じられるのが不思議です。

「仏説阿弥陀経』の一節に、

青色青光 黄色黄光赤色赤光白色白光微妙香潔

(『日常勤行聖典」一〇八ー一•九)

(青色には青光、黄色には黄光、赤色には赤光、白色には白光ありて、微妙香潔

なり。『註釈版聖典』一二二頁)

とあります。「青き色には青い光、黄なる色には黄なる光赤き色には赤き光、白き色には白き光」ということです。お浄土には色とりどりの蓮華が咲き乱れ、清らかな香りを漂わせています。おのおのが独自の光に輝いて、青い花が赤く光らなければならないのでも、黄色い花が白くならなければ輝かないというわけでもありません。みんなが同じ色にならなくてはならないのではなく、それぞれが自分の個性のままに、しかもまわりと見事に調和して、何者にも評価されることなく、排除されることなく、絶対の尊厳を持ちながらそこにあり続けることができる。それがお浄土の蓮華のすがたであるといわれるのです。

この経説は、お浄土の蓮華の話をしているわけではありません。この蓮華のすがたを通して、私たちの真実のありようを知らせようとしてくださっているのです。

そもそも私とはいったい何色なのでしょうか。世間では「私らしく」や「自分のカラー」などといわれますが、私自身いったい何色に輝けばよいのかと戸惑うことさえあります。「自由という名の不自由」という言葉も聞いたことがあります。自分色をもって自己を確立していくということも、考えようによっては生き辛さにつながっていくのかもしれません。

私たちは、育った環境も、受けてきた教育も、なにより生きてきた経験も異なった、かけがえのない歴史をもって今を生きているのです。そのすべてが受け入れられていく世界、それがお浄土であると私はいただいております。

分陀利華

親鸞聖人は「正信偈」のなかで、

一切善悪凡夫人聞信如来弘誓願

仏言広大勝解者是人 名分陀利華

(「日常勤行聖典』一五頁)

(小城悪の夫人・如来の弘誓願を信すれば、4、広大解のひととのたまへふんだりけり。この人を分陀利華と名づく。『註釈版聖典」二〇四頁)

と詠われています。

蓮華は、仏さまを象徴する花といわれます。なぜなら、蓮華は山菜のように清流には咲きません。また、乾燥した大地にも咲きません。汚い泥沼に花を咲かせるのです。その泥沼のなかに根を下ろし、泥を養分として美しく咲くのです。しかも、泥沼にありながら泥に染まらず、清らかな気高さをもって、その泥沼を花園へと変えるのです。そこから仏教では、仏さまの智慧と慈悲のお徳を讃えて、分陀利華と表わします。泥沼とは、私たちが身を置く世界そのものです。この世界は私利私欲に満ち溢れ、それぞれが自分の都合を押し付け合って、時に他を傷つけ、自ら傷つき、ともに傷つけ合ってしまう世界です。仏さまは、その醜い煩悩にまみれた私たちを導き育て、蓮華のような美しい人に転換させようとしてくださるのです。このように、もともとは仏さまのお徳を醬えて表わされていたものを、「正信偈」では私たちのような泥にまみれた凡夫の念仏者をほめたたえる言葉として用いられたのです。

それは、阿弥陀さまの「必ず救う」「我にまかせよ」と喚んでくださる本願のお心を受け入れたならば、いのち尽きるまで煩悩を抱えてしか生きられない存在でありながら、仏になる尊い徳を宿しているといわれるのです。そして、阿弥陀さまのお徳を仰ぎ尊ぶ者は、ものの考え方が根本から変革され、価値観が少しずつ変わっていくのです。

親鸞聖人は『入 出二門領』のなかで、

煩悩を具足せる凡夫人、仏願力によりて倍を獲得す。

この人はすなはち凡数の摂にあらず、これは人中の分陀利華なり。

(『註釈版聖典』五五〇頁)

と詠われています。順悩を具足している凡夫人も、阿弥陀さまの本願力によってを得れば、もはや凡夫であって、凡夫の数には入らない。だからこのような人を人間のなかの白蓮華と讃えられたのです。

僧を得た者は、今まで自分の都合だけでものを考え行動していたことを、あさましく恥ずかしいことであったと、わがすがたを顧みるようになります。これは、すでに阿弥陀さまのすべてのものを救おうという願いが至り届いているからです。

相も変わらず煩悩は沸き起こってきますが、煩悩を肯定しながら生きる生き方が、「恥ずべきことであった」と慎みをもって生きていくような生き方へと転換されます。煩悩をなくせるかどうかの問題ではなく、そのことを肯定するか、否定するかが大切なのです。

『教行証文類』に、中国の唐代の高僧、法照禅師が書かれた『五会法事讃」が引かれていますが、そのなかに、

この界に一人、仏の名を念ずれば、西方にすなはち一つの蓮ありて生ず。

(『註釈版聖典」一七ニー一七三頁)

とあります。今この世界で、一人の信者が仏の名(南無阿弥陀仏)を称えるならば、西方(極楽浄土)に一輪の蓮華の花が生じるというのです。法照禅師は、自ら称えるお念仏のなかに、阿弥陀仏の喚びかけを聞く感動を言い表されたのです。このお言葉を拝読するたびに、一人の念仏に生きたお方が思い出されます。

熊谷次郎直実というお方がいました。この方は法然聖人のお弟子で、もとは『平家物語』にも登場する、武蔵国、熊会期の武士です。特に平。乾盛との出会いは有名な話で、「敦盛最期」と題して伝えられています。「平家物語』ではこの段の最後に、

それよりしてこそ熊谷が発心の思ひはす~みけれ。

(「平家物語1』三八頁、岩波文庫)

とあって、敦盛との出会いの後、法然聖人のお弟子になられたようです。そして法名を蓮生と名のりました。

法然聖人のおられる京都と関東を往来する際、多くの逸話を残した方ですが、そのなかに「十念質入れ」というエピソードがあります。

あるとき、蓮生は急いで京都を出発してしまい、途中の路銀にも苦労したようです。また久しぶりの帰郷でもあり、一族に土産の一つも買って帰りたいと思い、藤沢の駅で宿の主に銭一貫文の借用を願いでたのでした。ところが宿の主は不審に思い、やんわりと断ったのでした。

「それでは質物を入れようと思うが、なにぶん持ち合わせがないので十念の念仏を質に入れよう」

「いえ、念仏など千遍いただいても、一銭もお貸しすることはできません」

「いや、わが称える念仏は一遍で一蓮生じ、十遍で十蓮を生じるが」本気にしない主に対して、蓮生は合掌して力強く念仏を称えると、不思議にも庭先に忽然と蓮華が生じたのでした。それに驚いた主は、「これは弘法大師の再来、銭はいかほどでもお使いください。もちろん返していただく必要はありません」

と申しました。そこで蓮生は最初の願いどおり一貫文を借りて、熊谷に向かいまし

た。

その後、蓮生は京都に戻る際に、一貫文を返しにやって来たのでした。

「借りたものをお返し申しあげたによって、預けた質物を返却願いたい」と言いますと、主は、

「ご勘弁願いたい。蓮華を切るのには忍びませぬ」

「いや、さにあらず。預けたのは十念の念仏、そなたが念仏を十遍称えてお返し願いたい」

すると主が喜んで「南無阿弥陀仏」と十遍称えると、蓮華は一茎も残らず消えていったのです。驚いた主が、

「どうかもう一称なりと念仏したまいて、わが家に蓮華をとどめられたい」とたのみ込むと、蓮生は、この世はかりの宿り、きのふ開きし花もけふは消失。穢土の現世に蓮華生ぜんよりは、永々未来極楽浄土の蓮華こそねがふべきことなり。ただ心こらして

称名念仏する人は、必ず海士の蓮華生ふること疑ひなし。

(『直実入道蓮生一代事跡」)

とご教化された、と伝えられています。

この世に咲いた花は必ず滅んでいかなければならない。求むべきは滅ぶことのない真実なる浄土なのだと。浄土に生まれ往くいのちを今生きているのであって、決して滅びゆくいのちを生きているのではないことを教えてくださっているように思います。梯實圓先生が生前、「私もいのち終わる時、お浄土で仏さまにならしていただくんやから、気の毒な者にはなりません」と言われていたことが思い出されま

す。

(宮部 雅文)

あとがき

親鸞聖人御誕生八百年・立教開宗七百五十年のご法要を迎えた一九七三 (昭和四十八)年に、真宗教団連合の伝道活動の一つとして「法語カレンダー」は誕生しました。門信徒の方々が浄土真宗のご法義を喜び、お念仏を申す日々を送っていただく縁となるようにという願いのもとに、ご住職方をはじめ各寺院のみなさまに頒布普及にご尽力をいただいたおかげで、現在では国内で発行されるカレンダーの代表的な位置を占めるようになりました。その結果、門信徒の方々の生活の糧となる「こころのカレンダー」として、ご愛用いただいております。

それとともに、法語カレンダーの法語のこころを詳しく知りたい、法語について深く味わう手引き書がほしいという、ご要望をたくさんお寄せいただきました。

本願寺出版社ではそのご要望にお応えして、一九八〇(昭和五十五)年版から、このカレンダーの法語法話集「月々のことば」を刊行し、年々ご好評をいただいております。今回で第四十四集をかぞえることになりました。

二〇二三(令和五)年の「法語カレンダー」では、「宗祖親鸞聖人に遇う」というテーマを設け、これまでお念仏を称え人生を生きぬかれた、先師の言葉を選定いたしました。本書では、これらのご文についての法話や解説を四人の方に分担執筆していただきました。繰り返し読んでいただき、み教えを味わっていただく法味愛楽の書としてお届けいたします。

本書をご縁として、カレンダーの法書を味わい、ご家族や周りの方々にお念仏の喜びを伝える機縁としていただければ幸いです。また、各種研修会などのテキストとしても幅広くご活用ください。

二〇二二 (令和四)年八月

本願寺出版社

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2023年11月のことば 生の依りどころを与え死の帰するところを与えていくのが 南無阿弥陀仏

宗教に遇い自らを知る

宗教のことを RELIGIONと英訳しますが、本来違うものではないかともいわれています。語源をみてみますと、強く (RE)結ぶ (LIGI)こと (IO)、 つまり、「自らを信仰に縛ること、神への信仰」という意味があるそうです。神さ

まと名づける存在と人間と名づける存在とがあって、この二つの存在を結びつける、むね。

それが信仰というものであるというのです 一方、宗教とは宗とする教えでありま す。「教え」とは、正しい道理を説いて、人々をさとし導いていくものです。また、「宗」とは「心」であり「中心」ということですから、教えを人間生活の中心としていくことといえます。

もし、阿弥陀仏という仏が向こうにいて、こちらに人間がいる。その阿弥陀仏と 人間を結びつけるものが念仏なら、それは人間の要求でしかないのかもしれません 。

現代では、多くの人が、自分の苦脳や、この世をどう生きるか、

幸せになるにはどのような宗教が自分にふさわしいのか。その解決法を情報収集するような態度で

宗教に触れています。しかしそれは情報の消費であって、

へたをすれば次から次へ と情報を取り込んだことで、かえって迷いを深めてしまうことにもなりかねません 。

どのような教えであっても、それを利用し、何かに至るための道筋のように考え るのではなく、その教えそのものが私たちの行きつくところ(目的)なのです。宗 教 に遇うということは、自分が何者であるかが知らされるということです。そして自分の考えを中心に生きてきた生き方が、教えを中心にして生きていく生き方へと転 換されるのです。それこそが救いなのです。その教えのように生き抜くということ ができて、初めて人は宗教のなかに生きているということがいえるのだと思います。

浄土真宗は阿弥陀仏の本願を宗とする教えです。本願とは、私たちにかけられた 阿弥陀仏の願いです。すべての悲しみ、苦しみを超えた平等なる世界 (極楽浄土) に生まれしめたいという願いを受け入れてお念仏させていただく、これよりほかに はありません。浄土真宗では、教えを利用し役立てようとする心から離れられない私たちに、生の依りどころを与え、死の帰するところを与えてくださるのが、南無

阿弥陀仏のお念仏であると、金子師はいわれたのでした。

念仏とは自己の発見

金子大榮師は、 一八八 (明治十 四)年に新潟県 に生まれられ、真宗大谷派での教学の近代化に尽力された仏教学者で、 一九七六(昭和五十一)年にご往生されました。師は 『歎異抄』 の解説書のなかで、

念仏の心において、まず明らかになることは自分というものです。念仏とは自 己を発見することであるわたくしはそういいたいのであります。 (中略) 自分を見出したということにおいて、その見出さしめた光として、そこに仏というものが感知されるのです 。 (「歎異抄 」 四六頁 、 徳間書店 )

ともいわれています。阿弥陀さまによって見出されたすがたは「凡夫」というすがたでした。

『教行証文類』(「顕浄土真実教行証類』)「行巻」に「凡夫道は究して星戦に至ることあたはず」(「註釈版聖典」一四七)

とあるように、凡夫であるとは仏に成れない身ということであり、それは仏道を歩もうとする者にとっては大いなる悲しみなのです。

小説家の幸田露伴氏が、

一切の人は皆愚人なり、皆凡人なり。若し人ありて我は愚人にあらずといはご其の人は既に真の愚人にして、又人ありて我は凡人にあらずといはご其の人は既に真の凡人たればなり。

(「牛庵夜譚」、『明治大正文学全集」第六巻、六五九頁)

といわれています。仏法に遇わせていただいて初めて「我は凡夫なり」と顧みることができるのです。

善導大師は、そのことを

「経教はこれを喩ふるに鏡のごとし」(「観経疏』「註釈版聖典(七祖備)」三八七頁)

と鏡に替えてくださっています。昔の鏡は今の鏡とは違って、銅鏡ですからつねに磨いていないと鏡が出て、顔がうまく映らなくなります。そこで絶えず磨き続けることが大事です。鏡をよく磨けばすがたが明らかに映るように、幾度も仏法を聞かせていただきますと、自分は真実について何も知らない愚か者であるということと、その愚かな者を捜め取り決して捨てないという阿弥陀さまの大いなるお慈悲がかけられたわが身であることが、知らされます。

大悲無倦常照我が親鸞聖人の「正偈」には、

「大悲無常照我」(大悲、倦きことなくしてつねにわれを照らしたまふといへり。「註釈版聖典」二〇七頁)

とあります。阿弥陀さまの大悲は、「無」(ものうきことなく)照らしてくださいます。

この「無総」とは、衆生(私)が阿弥陀さまの思いのままにならない状況であっても、嘆いたり、あきらめてしまうことがないという意味です。また「照」とは育てるという意味と、今まで気づかなかったことを気づかせるという意味があります。私が阿弥陀さまの願いに背くような状況であっても、阿弥陀さまは嘆いたり、あきらめたりすることなく、私を一方的にさとりの身になるまで育て続けられていらっしゃいます。このように、「無倦常照我」とは慶びとともに私のありようが知らされ続けられることでもあるのです。

私は今から十八年前に、夫婦二人で入寺をさせていただきました。当時、右も左もわからない私にご住職は優しく、丁寧にご指導くださいました。

毎朝、ご住職から「今日はAさんのお宅にうかがって、お勤めはお正偈さま。

それから何月何日にお寺の法要があるから、お参りに来ていただけるようご案内をして、帰って来てください」と言われておりました。私は言われたとおり、日々お務めをさせていただいておりました。またご住職自身も、ご門徒さまとお会いする際は、「今度の法要には必ずお参りください」とお誘いをされておりました。

しかし三年が経過しても、ご住職は私に毎朝、同じことを言われるのです。私は、「さすがに毎日同じことを言われなくてもわかっているのに・・・・・」と思いながら、少し聞きにくく感じておりました。特に、「お寺の法要にお誘いをしてください」という言葉が、徐々に聞きにくくなっていました。なぜなら私には、「僧侶として自分が聞かせていただいた仏法を、ご門徒の皆さまにも聞いていただきたい」「仏法に遇えた慶びをご門徒さまとともに分かち合いたい」という思いが、心の中に沸き起こっていたからです。

ですから、「そんなことは住職に言われなくても、自らの思いでご門徒さまにはお誘いいたします•••••・」と言えたかというと、そのようなことは口にはできず、心の中で何度も呟いていました。

それから数年が経ち、私は住職を継職させていただきました。いつものように法要のご案内をしておりますと、あることに気づかされました。それは毎回お参りをしてくださる方には、何度でもこの言葉を言えるのです。しかし、いくらお誘いをしても、まったくお参りになられない方やお誘いすることを拒絶するような方に対して、「今度の法要にお参りしてください」という言葉が言えなくなっている自分に気づいたのです。お誘いに応じてお参りに来てくださる方には言い続けることができますが、そうでない方には、「この人はいくらお誘いをしてもお越しになられない」「お誘いしても意味がない」と、なかば諦めた気持ちになり、魁を投げてしまっている私がいたのです。

一方、前住職は、「あなたがお参りになろうが、なるまいが、そのようなことは関係ない。むしろ、お参りされないのなら、お参りになるまで私はあなたをお誘いし続けます。それが住職として果たすべきことであります」と、どのような方にも同じことを言い続けておられたのだと思うと、改めてお誘いし続けることの難しさと尊さを感じるのでありました。

阿弥陀さまは、私が願いに気づいているか、そうでないか。いや、仏法に背を向け、煩悩を抱えてしか生きられない私を、決してあきらめることなく照らし育て続けてくださっているのです。

念仏者の生き方

ときに、私たちは「凡夫」という言葉に座り込んで漫然と過ごしがちです。しかし、浄土真宗に「凡夫だから仕方ない」といった言葉は存在しません。同じ善導大師に、

学仏大悲心

(仏の大悲心を学して「帰三宝偈」『註釈版聖典(七祖)」二九八頁)

 

という言葉があります。仏の大悲心を学ぶと読みますが、また「仏の大悲心に学ぶ」と聞かせていただいたことがあります。「広辞苑』では、「まなぶ」と「まねぶ」とは同義語とあります。したがって、学ぶということは真似ることでもあるのです。また、ご門主はご親教「念仏者の生き方」のなかで、仏さまの真似事といわれようとも、ありのままの真実に教え導かれて、そのように志して生きる人間に育てられるのです。と表してくださいました。

「凡夫」とは、自己中心的なものの考え方によって他を傷つけ、自分自身をも傷つけているすがたを表します。ですから「凡夫だから仕方がない」という言葉は、相手に対しても、自分に対しても、たいへん申し訳ない言葉なのです。本当の意味で、お念仏にも自分自身にも出遇っていないのではないでしょうか。

今、自他ともに傷つけていくようなわが身の愚かさに気づかせていただき、その愚かなものを見捨てず、一方的に育て、救おうとしてくださる阿弥陀さまのお慈悲さに心開かれたならば、少しでも身を慎み、言葉を慎んで、自己中心的なあり方を改めていこうとする、新たな方向性が恵まれるのです。

(宮部雅文)

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