2026年7月のことば 浄土とは違ったものが違いをもったまま 調和することができる世界

坂東性純先生

七月の法語は、東性、純先生の著書「親業和談倍心をうたう」(二〇10年 NHK出版)の中から選ばれた言葉です。

坂東先生は、一九三二(昭和七)年、東京都台東区の報恩寺(真宗大谷派)にお生まれになり、東京大学文学部インド哲学科を卒業、同大学院を修了され、イギリスのオックスフォード大学に留学されました。その後、大谷大学の教員となられ、同大学教授、上野学園大学教授を歴任され、二〇〇四(平成十六)年一月、七十二歳でご住生されました。

先生は英語がお得意で、木太輔博士の英訳「数行倍証」の出版ではグロッサリー(用語解説)部分の翻訳を担当されたり、財団法人仏教伝道協会の仏典英訳事業の中心メンバーを務められたりと、深奥なる仏教学の知識と卓越した英語力を発揮され、仏教の国際化に大きく貢献されました。

また、坂東先生が住職を務められた報思寺は、熟聖人の主者「お第行、熊女類」の草稿本(通称「製東本」を伝えてきた寺院で、二十四龍(親葉理人の二十四人の高弟)の筆頭である性信が開基したことでも有名です。

浄土という世界

さて、七月の法語は、海土という世界が「違ったものが違いをもったままに調和することができる」と教えてくださっています。そこで、まず、その意味について考えてみたいと思います。

「調和」という言葉を国語辞典「辞海」(三省堂)で調べると「矛盾または衝突がなく、互いにほどよく和合すること」とあり、「広辞苑」(岩波書店)には「うまく釣り合い全体がっている。矛盾なく、互いに程良い」とあります。「離える」、「触らぐ」という漢字の意味からしても、もの同士の釣り合いが取れて調い、和合している様子がイメージできます。

そうすると、違ったもの同士が、その違いのままに釣り合い、衝突することなく仲良くしている。違いを違いのままにお互いが尊重し、そこに良好な関係を築きながら一つの空間をつくっていく、それが浄土の世界であると解釈できます。

「仏説無量寿経」には、浄土の世界が、阿弥陀さまの「四十八の願い」によって成就されることが説かれています。「四十八の願い」とは「生きとし生けるすべてのものを救いたい」という阿弥陀さまの悲願のもと、その救済を実現するために選び抜かれた四十八の行(手だて)のことです。

この四十八の行が浄土を完成させ、その浄土の功徳が「生きとし生けるすべてのもの」の救済を成立させるのです。「四十八の願い」の中、第三番目の願いと第四番目の願いには、次のように誓われています。

第三願文(悉告金色の願)

わたしが仏となるときに、わたしの国の人々が、ことごとく金色とならないならば、わたしは決してさとりをひらきません。

(著者意訳)

第四願文(無有好の願)

わたしが仏となるときに、わたしの国の人々が、容姿に違いがあり、それによって好き嫌いや美酸の思いをいだくようであれば、わたしは決してさとりをひらきません。

(著者意訳)

この両願によって、阿弥陀さまの浄土の人々は、みな金色に光り輝き、その容姿は端正で、互いに「好き、嫌い」とか「美しい、醜い」というような執着を持たないことがわかります。

私たちの世界では、誰でも「好き嫌い」の一つや二つはあるものです。食べ物の「好き嫌い」、音楽の「好き嫌い」、洋服の「好き嫌い」、そして人間の「好き嫌い」。

多くの人が、自分の幸福のためにと、好きなものばかりを追い求めて、嫌いなものを遠ざけようとしますが、実は、嫌いなものばかりではなく、好きなものにも苦しみは伴うのです。試しに頭の中で、一番嫌いな人と一番好きな人を思い浮かべてみるとよいでしょう。

嫌いなものに関する苦しみは、おそらく説明は不要だと思いますが、嫌いなものが江づいてくる苦しみと、嫌いなものが離れていかない苦しみです。嫌いな人が向こうからやってきたときの気持ち、嫌いな人が居座って帰らないときの心境を思うと、確かに苦しいものです。

次に、好きなものに関する苦しみは、好きなものが遅づいてこない苦しみと、好きなものが離れていく苦しみです。大好きな人が近づいてこないときの気持ち、また、大好きな人が離れていくときの心境を思い浮かべると、確かにこれも苦しいものです。

このように、「好き嫌いことらしくしまうと、とここ必ず苦しみが生まれます。

そして、これは「好き嫌い」に限ったことではなく、美醜・優劣、善悪・正邪の意識にも通じます。

「説無量寿経」や「心』弥経」には、「浄土は苦しみのない世界である」と説かれていますが、それはこの二つの願いに誓われているように、浄土の人がみな平等に輝き、好嫌・美醜などといった分別にとらわれないことが要因の一つと考えられます。「好き・嫌い」、「美しい・醜い」といった分別にとらわれると、必ず苦しみは生まれます。そのような分別を離れ、すべての存在を「平等に尊い」と受け止めることができたなら、すべてのものがありがたく見え、すべてのことをありがたく感じられるのではないでしょうか。

浄土とは正反対の世界(矛盾と衝突の世界)

それでは、私たちが住む世界はどうでしょう。坂東先生の著書の中には手を認めようとしない。自分とは違う意見を嫌い、否定して、最後はそれを排除する、それが不協和音です。

目己を愛し、自己を正当化して自分の久点や過ちを認めないばかりか、他者に勝利し、他者を支配しようとして相手の矢点や過ちを許さない。そのような姿勢を変えようとしないから、違ったものを排除しないと安心ができないのです。これは、まさしく「矛盾と衝突の世界」といえましょう。

一方、海士に不協和音がないのは、どのような性質をもった人が集まっても、みな互いを尊重し、譲り合って、一つにまとまることができるからです。自他の違いにこだわることなく、自分の意見や考えにもとらわれない、そのような自由で調和的な環境が浄土だというのです。

浄土の中には、美醜もなければ優劣もなく、善悪もなければ正邪もない。なぜなら、そのような分別は、本来、存在そのものにはないからです。

存在に美醜や優劣、善悪や正邪をつくるのは娑婆の人間で、その分別は、他ならぬ「私たち」の見方によって生まれるのです。「私たち」の見方は、いつも自分の価値観によって都合のいいように対象を分別しますから、とても身勝手で自己中心的なものといえましょう。それなのに、その分別にとらわれ縛られて、「思い通りにならない」と苦しんでいるのが現実です。

違ったものが違いをもったままに調和する世界

タンポポがバラの花を咲かせることはできませんが、バラもタンボボの花を咲かせることはできません。タンポポがバラの花を咲かせる必要はありませんし、バラもタンポポの花を咲かせる必要はないのです。タンポポはタンポポとして輝き、バラはバラとして輝く。違う者同士、それぞれが唯一無二のものとして、最高の輝きを放ちながら共存している、それが浄土の世界です。

「仏説阿弥陀経」には、海土の世界について、決のように説かれています。

道のなかの選剰は、だきさ車輪のごとし。背色には青光、黄色には黄光、赤色

には赤光、白色には自光ありて、無効を潔なり。

(「註釈版聖典」一二二買)

浄土の池には、大きな車輪のような達の花が咲き、青い花は青い光を、黄色い花は黄色い光を、赤い花は赤い光を、白い花は白い光を放って、それぞれにかぐわしい香りを放っている。

(著者意訳)

の花の色はそれぞれ違っても、それぞれの色でそれぞれに輝き、みなが何とも言えない芳しい香りを漂わせます。それぞれが個性を発揮し、ともに「浄土」という世界を作り上げているのです。

そして、この浄土の逆を輝かせているのが、阿弥陀さまの光のはたらきなのです。

阿弥陀さまの光に照らされなければ、蓮は輝くことができません。阿弥陀さまの光のはたらきこそが、違ったものを違いのままに輝かせ、調和させているのです。

私たちは、こうして浄土という世界を知ることで、自分の見方や考え方がいかに誤っているか、自分の住む世界がどれほどあてにならないか、自分がいかに自己中心的であるのかを思い知らされます。

違ったものが遠いをもったまま調和することのできる世界、そのような浄土が、私の住む娑婆世界の問題点を明らかにしてくれるのです。

(緒方義英)

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2026年6月のことば 人間とは自分で自分の始末を仕切れぬ者の別名である

六月のことばは、真宗大谷派の僧侶、高光大船さんのお言葉です。

この言葉が掲載されている「高光大船の世界道ここに在り」(東本願寺出版部)

に高光さんの略伝が掲載されてあり、その中にたずねますと、高光大船さんは、一八七九(明治十二)年、現在の石川県金沢市北間町にお生まれになりました。幼少の頃、生家の邸内に設けられた道場から寺院となった専称寺の養子となり、九歳で得度されています。

大谷大学に入学され、昭島線さんに師事し、大谷大学初代学監(学長)の営沢蔵こさんの教えを深く学ばれます。その生涯は「自己とは何であるか」という人生の根本問題を問いながら、極限まで自己を内省しつつ、仏法の中に身を置き、仏法の中に生活を送られる仰に生きられた人でした。また、高光さんが兄事された暁鳥敏さんと同い年の藤原哲乗さんとともに「加賀の三羽鳥」と敬われた御方でした。

そして、多くの後進も出されます。特に高光さんの思想を表す言葉があります。

仏法をずるとは、報恩報徳できる生活を身心に充たすことである。報謝とは、返礼することではない。おかえしすることではない。報謝とは不借身命のことである。身心を挙げて一事一事に処していくことである。

(「不惜身命」「真人(五)」)

「不慣射能」とは、「新集 浄土宗大辞典」(海土宗出版)によれば、元は『法華経」に説かれ、仏法を受持するために身命を惜しまないことという意味です。一見すると「真宗的」でないと思われるかもしれませんが、「同辞典』には続けて、

「一般には『法華経」受持に対して用いる場合が有名。浄土宗義においては、善導が深心釈に「一心にただ仏語を付じて身命を顧みず、決定して依行せよ」(「観経琉」散善義、聖典二・二八九/浄全二・五六下)というところの、「不顧身命」も同義と理解されている。また法然は「「仏法に逢いて身命を捨つる』といえる事を」(聖典六・四八二/昭法全八八〇)と歌に詠んでいる。(中略)不借身命の逆に、仏法を体得して、むしろ身命を大切にして、ながく人々のために法を説き広めることを「但倍身命」ともいう。

とあり、あながち真宗念仏者とは関係なくもないと思われます。むしろ、現代において真宗念仏者においては大切な示唆だと思います。

また、近頃は殺謝を「ありがとう」とか「感謝」とする傾向にありますが、そんな短絡的なものではないことも意識しておきたいと思います。

さて、今月のことばは、「高光大船の世界道ここに在り」(東本願寺出版部)に掲載されている言葉です。本書に掲載された部分は「あとがき」によれば、高光さんが全身全霊を投げ出し、後半生をささげて出版した個人雑誌「直道」に掲載された自らの生活日記録「白日生活」を一九四•(昭和十五)年に「白日抄」として出版したものを「生活者」「死・生」「実相」「開法」「倍」の五つのテーマのもとに分類編集されたものです。そのうち「死・生」の中に収められている「自己を知るには」から抜き出された言葉です。

「人間とは自分で自分の始末の仕切れない者の別名」

この言葉の意を私が解説するよりも、元の「自己を知るには」を全文紹介するほうが適切だと思います(現代では不適切と思われる個所もありますが、全文紹介します)。

自己を知るには

久しぶりに友達に誘われて街を歩いた。自分では自ら健康者だと自認しているが、人と歩いて見るとまだまだ一人前でないことが痛感される。本当に自分を知るには、やはり人という鏡がなくてはならない。今日までその人々をうるさい者としていた自分の愚かさがつくづく思われる。自分という狭苦しい殻の中にいる間は、自分を押し立てるために他人が邪魔になるけれど、自分という殻が自分を苦しめる正体であることが分かってこの殻を破って出てみると、他人という鏡がなくては自分の殻は破れない奴だとつくづく思われる。ここに人々のいろんな生活態度が善かれ悪しかれ、自己を内省する自己の生活資料として尊からさるものはない。人間が上は大臣から下は人事相談所のお役人まで、人のお世話を焼くことをやめて自分を反省するようになったら、国家も社会ももっと円滑であるのではなかろうか。否こんなことを考えることがお世話さまなことである。こんなことによってまでも、自分の生活を披露させてもらえるのである。

何かと力みたい人に人間の貧弱さをつくづく思う。彼の心が如何に貧之であるかをつくづく思う。富める人のやつさないのと借金持ちのやつしたがるのと、内に貧弱なる者ほど力みたがるのである。力もうが力むまいがたかが人間同士のことである。人間とは自分で自分の始末の仕切れない者の別名であって、自分で自分の始末を仕切れないことで人間ほど長い歴史を持ったものはなかろう。

世移り時変わり、時は千九百三十年になっても、人間は人間であって、自分で自分の始末をつけ得ないのが人間の悲しさである。その人間の中で力んでみても始末がつくものでもなく、やり込められたって始末がつくものでもない。その証拠には、人間の逃げることのできない死の一事件にさえも、何の解決ついていないのでも解る。昔孔子は「我未だ生を知らず、いづくんぞ死を知らんや」と言ったが、せめて今の人は力んだり騒いだりする暇があったら「死は遂に来るべし、いづくんぞ生を知らんや」位は言ってもよかろう。生死の解決は直ちに自分の解決であり、そのまま人間の解決である。

一九三〇(昭和五)年

(「高光大船の世界道ここに在り」一一〇頁)

私たちは、生まれてくることも死していくことも、何一つ自分の思い通りにすることはできません。また「仏説無量寿経」には、ん、世間愛欲のなかにありて、独り生れがり死し、独り去り独り来る。

(「註釈版聖典」五六頁)

とあり、人のいのちというものは究極的に「独り」であると教えられます。

その「独り」たるいのち同士がであい、関係し合って、支え支えられながら生きています。けれども、最期はまた「独り」でいのち終えていくのです。

「独り」で生まれた初めの頃は、食べることも、排便することも、着替えることも何一つ自分でできることはありません。そして、成長するにつれ、知力や体力、財力等いろいろな「力」を得て、何でも自分でできるように「錯覚」していきます。

しかし、今まで得たさまざまな「力」は衰え失われ、また誰かの支え無しには生きていけず、最期は得てきたすべての「力」は私から離れ、いのち終えていかなければなりません。そんな私の本当の「力」になるのは「本願力」すなわち南無阿弥陀仏でした。

あなたは、ご自分のお誕生日をご存じですか?

「当たり前だ!」とお叱りを受けるかもしれませんが、では本当にその日にお生ま

れになったのでしょうか?

実は、自らのいのちが生まれた日も、どこで生まれたのかも、誰から生まれたのかをも、自ら知ることはできません。全部「あなたは〇月〇日に、〇〇で生まれたのよ」と聞かされたままに「倍じている」のではありませんか?

また、いつ、どこで、どのように死ぬのかも知りません。「自分のことは自分が一番わかっている」と思っていても、実際自分の「いのち」のことは何一つわかっていないのではないでしょうか。

さらに、何のためにこの世に生まれ、何のために生き、何のために死んでいかなければならないのでしょうか?そして、死んだらどうなるのでしょうか?

これらの「こたえ」を持たないままに過ぎ行く人生を「むなしく過ぐる」という

のでしょう。

仏法に出遇う以前に、私たちは学校や社会の中でいろいろなことを学び、経験することによって知恵や世間的な常識、さまざまな「力」を身につけます。しかし、そのどれもこれらの「こたえ」を示してはくれません。前にご紹介した高光さんのお言葉の最後の「「死は遂に来るべし、いづくんぞ生を知らんや」位は言ってもよかろう。生死の解決は直ちに自分の解決であり、そのまま人間の解決である」は、死の解決あってこそ生の解決もつく、すなわち「自分・人間の解決」を剛弥陀さまのみ教えに問い訪ねて解決することを勧めてくださっているのではないでしょうか。

阿弥陀さまは、救いのめあてを「十方衆生 (すべてのいのちあるもの・みんな)」と願われました。それは「すべてのいのちあるもの・みんな」が救われる状態ではなかったからです。「みんな」の中に「私」が含まれていなければ「みんな」にはなりませんので、阿弥陀さまの願いは「私」を救いたいとの願いです。阿弥陀さまがお出ましになられた理由は、「十方の楽生」それは「むなしく過ぐる私」を救わんがためでありました。私以上に私のことを心配し、私がむなしく過ぎないように私にかかり果ててくださる阿弥陀さまが「死んだらどうなるのか」を知らない私に「お浄土に生まれさせ、仏のいのちと成らせる」といのちの行方を知らせ、はたらいてくださっています。

この阿弥陀さまに、私たちはたまたま逃わせていただきました。しかも、私の方から求めて会ったのではなく、阿弥陀さまのほうから南無阿弥陀仏の名号となって私のもとへ遇いに来てくださいました。その名号は私の称えるお念仏となってくださいました。「週」という字には「たまたま遇うた者どうしが、一緒になって歩むこと」という意味があるそうです。今、私たちはお念仏申して阿弥陀さまと共に人生を歩んでいます。

私は何のために生まれてきたのか。それは阿弥陀さまに出遇わせていただくためでした。私は何のために生きているのか。それは仏道を歩むためでした。私は何のために死んでいかなければならないのか、そして死んだらどうなるのか。それは、お浄土に生まれて仏のいのちに成るためでした。

この「こたえ」をいただき、「自分で自分の始末を仕切れぬ」「独りの」「無力な」私が南無阿弥陀仏と共に生き、南無阿弥陀仏と共に死ぬるいのちであったと味わわせていただきました。

(石崎博敍)

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2026年5月のことば 信じるということは聞くほかはない

五月のことばは、桐渓順忍さんのお言葉です。

桐渓順忍さんは、一八九五(明治二十八)年富山県に生まれられました。一九二四(大正十三)年龍谷大学研究科を修了され、中央仏教学院講師、龍谷大学教授を歴任し、一九六六(昭和四十一)年定年退任されて後は名誉教授に。また、ご実家の光雲寺住職、浄土真宗本願寺派の勧学寮頭を務められ、一九八五(昭和六十)年十月四日にご往生されました。

数多くの論文や著書を執筆されるなか、今月のことばは「桐渓和上最期の法話』(教育新潮社)の中から選び取られた言葉です。この御本の発行者である小端静順さんの「あとがき」によると、

證誠院釈順忍和上は、昭和六十年十月四日、午後容時四十分、数え年九十一歳で、お浄土へおりになられました。

九月三十日の、午前と午後の二回、奈良県宇陀郡室生村の正定寺で、ご法話をされ、翌一日の早朝、九州方面の伝道へと旅だち、その日の午後、博多の万行寺で、ご法話をされました。

二日も、万行寺で、ご法話をなさる予定になっていたので、その夜は、博多の旅館で就寝されました。翌朝、脳の血管が破れて、皆睡状態になっていたのを、宿の人に発見されました。それから、わずかに四十八時間、福岡市中央区の済生会病院のベッドにあって、一言も発せられずに、ご家族の見守るうち、静かにお海士へ、お戻りになられました。

と記されてあり、正定寺さまの九月三十日午後の御座でお話しされた、まさに「最期のご法話」の中のお言葉です。

このご法話の前段では、仏教は「苦しみを除く法」と説かれてあります。その苦しみとはものの道理がわからないからで、ものの道理がわかるように智慧をみがくことが仏教の基本です。しかし智慧がつくことにより、自己の悪さに気づく。しかも、その悪さは今に始まったものではなく、昔から備わっていたもので、ちょっとやそっとでは直らない。その悪さを抱えた私を救ってくださるよろこびを、親鸞聖人は感じいかな」と表現されました。

親鸞望人の主著「職北意先物、郷」総学のご文の、

態ばしいかな、西煮・用支の聖典、東夏・日域の前釈に、選びがたくしていまあことを得たり、聞きがたくしてすでに聞くことを得たり。

(「註釈版聖典」一三二頁)

を引かれ、

これは、よろこびというのは、めったに遇わないものに遇った、そういう場合に、よろこびというものがでてくる。ところが、これは、わたしにいいますと、外側のもの、外のものが、ありがたいとか、聞きがたいとかいう。これを内の問題にすれば、救われがたい、救われ、助けられがたい、となる。

救われがたいものが、いま、救われるところに、よろこびがでてくる。よろこびが深くなれば、なるほど、むしろ、わたくしに、救われる力がない、わたしの力のなさが、わかればわかるほど、よろこびが深くなる。

(「桐渓和上最期の法話」五一頁)

と悪人の救いのよろこびを語られます。それを受けて、自力で往生できない凡夫のために阿弥陀さまが、倍じさせ、称えさせ、往生させるとご本願を成就して、南無阿弥陀仏のよび声となって私に届いてくださっている。それを聞くことがじることよりも弱い。それを他力回向の倍心と言われます。

また、倍心は「うたがいがはれる」「うたがいがまじわらない」(疑無雑)ということと言われます。それは、「明日のお天気は晴れです」というのを「倍じる」のではない。「今のお天気は晴れです」と言われることを「僧じる」ともいわない。「今のお天気は晴れです」と言われたならば、「はい、そうですね」と、疑いようがないと「聞く」(頷く)以外にありません。

そして、

僧心とは、うたがいはれること。(中略)倍心とは、如来の本願に、うたがいはれるんだということだけは、考えておいていただきたい。

うたがいはれるということは、だれが、はれるんですか。それは、このわたくしが、はれるんじゃないですか。

(「桐渓和上最期の法話」五五頁)

と述べられた後に続いて「職」すなわち「倍じるということは、聞くほかはない」と仰せになりました。

親鸞聖人は、聞くことがそのまま心であり、聞のほかに倍はないと「聞即」とぶっせつじりょうじゅうよう

いわれます。それは、「仏説無量寿経」に説かれる第十八願成就のの

(その名号を聞きて信心戦喜せんことが般せん)

(「註釈版聖典」四十一頁)

の「開」と「信」について、「教行証文類」「信文類」に、

「職」といふは、果生、他職の生起札末を聞きて疑心あることなし、これをと

いふなり。「信心」といふは、すなはち本駅が前の獄心なり。

(『註釈版聖典」二五一頁)

と述べられ、また「ゴ銀欲画」にも、

「脱美名号」といふは、本職の名号をきくとのたまへるなり。きくといふは、

本願をききて疑ふこころなきを「開」といふなり。またきくといふは、微心を

あらはす御のりなり。

(「註釈版聖典」六七八頁)

と述べられているように、聞くということが即ち心「即」と示されます。

桐渓さんが、あえて「即聞」と言われるのは、「上の文字を、下の文字が、限定する。中身を決める」からとして、

だから、この場合には、倍じるということは、どういうことか。倍の中身を決めるのに、深く聽聞させて、いただくだけだよ、と示す。

この場合、聞くということは、どういうことか。うたがいはれるまで、聞かせていただくことだよ。

だから、上の文字の意味を、下の文字が変える。すなわち、倍じるということは、聞くほかにないんだぞ。しかし、問題になるのは、だれが聞くんか。わたくしが聞くんじゃないのですか。

(「桐渓和上最期の法話』五六頁)

と言って、聴開が大事であることを勧められます。

そして後半には、岡弥陀さまの救いは無条件であるがゆえに「絶対他が」であり、

心も如来から賜る「如来週前の倍心」と述べています。

それで、如来週向の心というのを、もういっぺん、考えなおしてみると、わたくしが、ずるんだったら、それは、条件になりはしないか。

僧じたものを、助けてやるといったら、信心は、条件にならないか。それを、親鸞聖人は、そういう問題から、如来週向の心といわれた。

自分が、やっておりながら、如来のおかげで、といわれるところに、親鸞聖人は、ものの味わいかたが、深くなるんだと、教えられている。

(「桐渓和上最期の法話」七二頁)

と、「聞く」という私の行為も阿弥陀さまから仕向けられたことで、故に「如来週向の信心」とお示しになられます。

さて、私事で恐縮ですが、この五月のことばを読んで、祖母のことが思い浮かびました。

祖母は、二〇一五(平成二十七)年四月十七日に、お浄土に還らせていただきました。戦中戦後に四人の子どもを育て、七人の孫の世話をし、十人の曾孫をよろこび、満百一歳を生き抜かれました。

私はたった一人の内孫でかわいがられた「おばあちゃん子」で、幼い頃、祖母に手を引かれ本堂にお参りしたのが、お念仏とのお出遇いでした。私が見る祖母は、いつもお念仏されているイメージでした。本堂での御法座でお聴開しているときには「受け念仏」がこぼれました。朝夕のお内仏でのお勤め、康製でも、外での畑仕等の際も、しょっちゅうお念仏されていました。

晩年は認知症を患い、転倒による骨折もあり、介護施設でお世話になりました。

四月十七日、私が理髪店で散髪してもらっている最中に父から電話がありました。

「おばあちゃん、もうすぐやからおばあちゃんとこに行ってやり!」なんでそんなことがわかるのかと不思議に思い「お父さんはどうするの?」と尋ねると、「ワシは本堂で臨終のお勤めするから」と…・・・・・。なんと気の早い!と思いながらも、祖母のいる施設に向かいました。

そこには近所に住む従妹が一足先に駆け付けていて、祖母の身体をさすっていました。もう目は閉じたまま、息をするのがやっとの祖母の様子を見て、父の「もうすぐや」と言ったことを理解しました。私も、

「おばあちゃん、ありがとうね。本当にお世話になりました。ありがとうね…・・・・・」と言いながら、同じように腰や細くなった足をさすりました。そこに息子も到着しました。

しばらくすると、息の間隔が長くなり、いよいよかと思われ、「おばあちゃん、ありがとうね。いよいよお浄土参りやね。ボクも後から往くからね」と声をかけ身体を抱きしめるようにさすっている最中に、祖母は息を引き取りました。施設の職員さんにケアをしていただき、自に連れて帰りましたら、一緒に付き添ってくれた従妹が、

「なあ。おばあちゃんは、あれだけ元気なときはナンマンダブ、ナンマンダブってお念仏してはったけど、今日は最期の最後までナンマンダブのナの字も言わんままに亡くなったね。あれで大丈夫なん?」

と尋ねてきました。確かに、祖母の部屋に駆け付けてから息を引き取るまで、祖母の口からお念仏は出ませんでした。

「うん。大丈夫よ!阿弥陀さまは私たちのことをよ~く知り尽くしてくださっていて、たとえ十過でもお念仏してねとおっしゃるけど、私たちがお念仏できないと人間の力(自力)では往生できない私に、阿弥陀さまから向けられた(他力向)南無阿弥陀仏のお救いは、ただただそのまま疑いなくお聞かせに写かるばかりでありました。

そのことを桐渓さんの「倍じることは、開くほかはない」のおことばに味わわせていただきました。

(石崎博敍)

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2026年4月のことば 聞法するということは 結局自分を聞くことなのです

四月のことばは、仲野良俊さんのお言葉です。

仲野良俊さんは、一九一六(大正五)年、京都市にお生まれになりました。一九三九(昭和十四)年に大谷大学文学部を卒業され、同大学の講師を勤められました。一

九四二 (昭和十七)年にビルマ(現在のミャンマー)で日本語学校の教師になられました。帰国後の一九五六(昭和三十一)年、真宗大谷派の教化研究所の所員に就かれ、一九六六(昭和四十一)年に同派教学研究所副所長に就任されました。北海道教学研究所所長を経て、一九八一(昭和五十六)年に真宗教学研究所所長になられました。

また、京都市の真宗大谷派専念寺のご住職を務められ、一九八八(昭和六十三)年一月六日にご往生なさいました。

この四月のことばは、「急化側講義皿」(法蔵館発行)に収められていることばです。この本の「後記」(伊藤英倍さん著)によると、「正念仏偈講義」三巻は、仲野さんが一時病床に臥され再起された後の一九七〇(昭和四十五)年から、「正信偈講義」の内容を記録作成されたものです。「(前略)天親善産と製影がのご遺徳を通して海土真宗が苦薩道であることを御教示なされると共に、宗祖親聖人の御生を貫き支えたものとは何であったのかを訴え続けられると共に、私共をして同じ道に導かれようとされた御苦労」を示してくださる内容です。

さて、「聞法するということは、結局自分を聞くことなのです」ということばは、

「正念仏偈講義町」の中で、親葉聖人が「正念仏偈」依釈既において激が師を

お読えになる「朧大な魔大智漁」の文言を味わわれるところに出てまいります。

「常無明正意(普導、独り仏の正意を明かせり)」と善導さまだけが本当に仏の

お心というものを明らかにされた。その内容は「粉定与道悪(定散と逆悪とを

粉哀して)、光明号蹴因縁(光明名号の因縁たることを頭かしたまう)」。そして「開

入本願大智海(本願の大智海に開入すれば)」と続き、これが善導さまのお仕事と言われます。

「開入」というのは「離示替入」の略で、「法華経」にも「開示悟入化見」と出てまいります。仏の智慧を開示して、そして染生をしてそれに悟入せしめる。紫生のために仏の智慧を開き、そしてその智意の世界へ衆生を悟り入らしめるという意味の言葉ですが、「法華経」にはどのようにして開示し悟入せしめるかということについては書かれていません。しかし、善導さまは「仏説無量寿経」について仏のお心を明らかにされ、定散と逆悪とを粉哀して、光明名号が因縁であることをあらわし、そして本願の大智海にわれわれを開入せしめてくださったのだと示されたのです。それとともに、これが二重の意味を持っており、本願の大智海に開入したならば、「行者、正受金前心(行者はまさしく金剛心を受ける)」というふうに続いていく。

つまり「開入本願大智海」は、善導さまのお仕事を結ぶという意味の言葉であるとともに、「行者正受金剛心」という次を呼び出してくる、前にも後にもかかる意味の言葉なのです。

親鸞聖人は、本当に開示悟入せしめる具体的なものは、本願の宗教、いわゆるお念仏の道だけであるということを見極められたのです。それは、仏の世界を開く唯一の方法であるところの光明と名号なのだということを、善導さまから教わられたのです。仏の世界を開く唯一の方法は、光明と名号、それが因縁である。仏の世界を光明名号をもって開示して、そして悟入するのは借心による。光明名号をもって如来の世界を開き、倍心をもってその世界に悟入せしめるのです。

しかし、浄土真宗の倍心の場合は、悟入というよりもむしろ選入であり「開示廻入」、その方が念仏の道の入り方としては正しいのです。それは、心の利益を述べられた「正念仏偶」依経段の一節に「成要道謝茶選入」とあり、「法華経」に悟入といっていることは、その方法は念仏の道から言えば心であり、心によって入るという入り方は、必ず入という入り方です。運入というのは廻心して入る、すなわち自分に気がついた、自分というものを思い知って(知して)仏の世界に入る唯一の入り方だと仲野さんはおっしゃいます。

さて、私たちは、生まれてこのかたいろいろなものを見聞きし、学び、経験することによって多くの知識を得て、賢くなってきました。そして何でも知っているように思い込み、特に自分のことは自分が一番わかっているつもりでいます。しかし、大きく見誤っていたり、勘違いしていることも少なくありません。

例えば、世間では「一寸先は闇」と言いますが、仏法に出遇い気づかされることは、一寸先が闇ではなく「今が闇」であるということでしょう。「今が闇」であるということは、自分自身が見えていないということです。その闇を破してくださるのが、光明名号(お念仏)です。

「前」と「後」という漢字があります。「まえ」と「うしろ」と読みますが、「さき」と「あと」とも読みます。これを時間の概念(過去・現在・未来)で考えてみますと、皆さんは「未来」といえば、ご自分の「前」にあるとお思いですか?「後」にあるとお思いですか?指さしてくださいと言われたら、どちらを指されますか?多くの人が、未来は「前」を指されるのではないでしょうか?果たして未来は「前」にあるのでしょうか?

昨日のことは「一日前」と言います。一昨日のことは「二日前」と言います。去年のことは「一年前」と言います。逆に明日のことは「一日後」、明後日は「二日後」、来年は「一年後」と言います。つまり、未来は「後」、「前」は過去なんですよね。そもそも中世までの日本語は「後」には「未来」の意味しかなくて、「前」には「過去」の意味しかなかったようです。その証拠に「前(過去)」は見えますが、「後(未来)」は見えませんね。「昔はこうだった」とか「あの時はこんなだった」とか「前(過去)」のことは見えて(覚えて)います。しかし、明日のことも、明後日のことも「後(未来)」は見えません。

ということは、私たちは生まれてからどのように人生を歩んできたのかというと、前向きに歩んできたのではなく、後ろ向きに後ずさりしながら歩んできているのです。後ろ向きに歩むってどんな感じでしょう?怖いですね。不安ですね。でも、その怖さや不安を感じることも気づくこともなく、毎日を過ごしています。後ろ向きですから、時に人にぶつかって人を傷つけたり、何かにぶつかって自分を傷つけたりしながら生きています。そして、この人生、いのちがどこに向かっているのかも知らずに生きています。つまり、人生のたどり着く所、いのちの目的地がわからないままの人生を送っています。こういう目的地がない人生を「迷いの人生」というのでしょう。しかも「迷っている」ということにも気づいていない、これを本当の迷いというのでしょう。

私たちは普段、目的地をもって行動していますし、最終的にはお家という目的地があります。迷っていることに気づけば、目的地はどこか、今どこにいるか、どうすれば行けるかを探したり開べたりしますが、気づくことがなければ彷徨い(さ迷い)続けるだけです。これこそが本当の迷いです。

阿弥陀さまは、そんな後ろ向きで後ずさりしながら迷いの人生を送り続けている私(たち)をご覧になって、放ってはおけず、すくわずにはおれないと、願を立てられました。今、私たち一人ひとりに「南無』弥陀」という言葉と声の仏さまが至り届き、抱きしめて、抱き上げて、

「あなたのいのちはお浄土に往き生まれて、仏さまといういのちに成るのだ」と告げてくださっています。阿弥陀さまが、私以上に私のことを案じてくださり、「あなたのいのちの全責任を負う」と、私のいのちの目的地「お浄土」を知らせ、私の身体といのちに入り満ちて、後ろ向きの人生をご一緒してくださっているのです。

お念仏申すときに、阿弥陀さまがご一緒と知らせていただきます。

善導大師は「観経読」の中で、

経教はこれをふるに鏡のごとし。しばしば読みしばしば尋ぬれば、智慧を開発す。もし智慧の眼開けぬれば、すなはちょく苦をひて湿築等を成楽することを明かす。

(「註釈版聖典(七祖窟)」三八七頁))

(経典はこれを喩えていうと鏡のようであって、たびたび読み、たびたび尋ねたならば智慧が開ける。もし智慧の眼が開けたならば、よく迷いの苦を厭い、涅槃の楽を放うことを明かすのである)

とお示しになりました。「経典に説かれるみ教えは鏡のようである」と。

私たちはほぼ毎日、鏡を見て暮らしています。鏡を見るといっても、ウチの鏡は丸いとか四角いとか鏡自体を見ているのではなくて、鏡に映る私を見ています。そして、鏡は私を映すのと同時に、私の背後(未来)も映します。後ずさりしながらの迷いの人生を送っている私を知らせ、すくわずにはおれないと私のいのちの目的地「お浄土」を知らせ、連れてゆくぞと抱き上げてくださる仏さま(南無阿弥陀仏)を知らせてくださいました。

「開法するということは、結局自分を聞くことなのです」のことばの後には、「自分の姿が見えてこなければ、人間は助かってみようがありません」と続きます。「開法」とは「法を聞く」よりも「法に聞く」という方が適切ではないでしょうか。仏法を知識として聞くのではなく、仏法に自分自身を聞いていく。そこには、後ずさりしながら、いのちの目的地を知らず、迷いの真っ只中にいる自分の姿が見えてきます。

そして、そのような私をめあてとして今、私をすくう仏さま「南無阿弥陀仏」が届いてくださっていました。そうお聞かせいただいたときからは、もう阿弥陀さまのすくいの真っ只中の人生を歩ませていただくのです。

それがお念仏の人生であり、今までとは違う生き方に育まれていくのでしょう。

(石崎博敍)

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2026年3月のことば 一人の人生であっても決して独りではなかった

三月のことばは、藤澤量 正先生のお言葉です。

藤澤先生は大正十二(一九二三)年、滋賀県に生まれ、龍谷大学文学部(仏教学専攻)を卒業、本願寺派布教使、滋賀県浄光寺住職として活動され、平成二十四(二〇一二)

年にご往生されました。

浄土真宗本願寺派伝道院研修部長、同講師、中央仏教学院講師など、宗派の要職を歴任し、ご自身は国内・海外の各地に赴き布数につとめ、後進には数敷聖の数えを人々に伝える「伝道」の要をご指導くださいました。

身近な表現で味わい深くみ教えを伝える数多くの著述には、日々の生活のなかに感じ取られるお念仏のあたたかさが溢れています。藤澤先生の、一つ一つの言葉を大切にしながら、相手の思いを尊重してみ教えをお伝えしていく姿勢は、親鸞聖人のご教化を身近にさせていただける印象深いものと言えるでしょう。

今月のことばは、本願寺出版社から平成十九(二〇〇七)年に刊行された「ことば仏教語のこころ1」の一節です。

この言葉に先立って、藤澤先生は人間の姿について、このように述べています。

思えば、人間は極めて自尊心が強く、自分の弱みを見せまいと、いつも構えて生きようとします。しかも、「おのが生活が罪のなかにある」ということを考えようともしないほどに慢です。生きるままが、いつも罪をつくっているということを知ろうともしないもの、それが愚かな私たちのすがたかも知れません。

(「ことば1仏教語のこころ1」二〇〇七年、本願寺出版社)

日常の生活では、自分の弱みを見せずに構えて生きることが、ときに必要になることがあります。罪をつくりながら生きているということを毎日毎日気にしていたら、心の平衡を保つことはできないでしょう。

現代の生活では、どこにいても必要な情報をすぐに手に入れることができますが、外部から入ってくる情報があまりに多すぎて、それをそのまますべて入力していたら制御できないほど心が乱されてしまいます。

若い世代の方に多い、ヘッドホンやイヤホンをした外出時の姿は、外から入ってくる音を拒み、外部との接触を遮断して、心のアンテナの感度を鈍らせているのではないかと指摘する人もいます。そうして自然に自分の心を守っているのだと。

自尊心とは自分を尊いと思う心のことですから、自分の価値を認め、大切に思うのは素晴らしいことであり、生きていくために重要な感情です。昨今、自己肯定感が低いということが問題になるように、他人からの評価や短絡的な判断によって自分を不当に扱ってしまうのは、とても悲しいことです。

ただ、自尊心が行き過ぎると、他者に対して優位性を強調したり、過剰な自倍や自己中心的な態度につながってしまいます。それを慢と言うのでしょう。

一人の人生であっても

先の言葉に続いて、藤澤先生は「正倍念仏偈」のの言葉を取り上げ、大切な受けとめ方を述べられます。

極重の悪人はただ地を称すべし。われまたかの摂取のなかにあれども、賞・

眼をへて見たてまつらずといへとも、犬悪、儲きことなくしてつねにわれを

照らしたまふといへり。

(「註釈版聖典」二〇七頁)

「きわめて罪の重い悪人はただ地すべきである。わたしもまた同系化の光明の中に携め取られているけれども、菌がわたしの腰をさえぎって、見たてまつることができない。しかしながら、前弥陀のだいなる慈恵の光明は、そのようなわたしを見捨てることなく歯に照らしていてくださる」と述べられた。

(「頭浄土真実教行証文類(現代語版)」一五一頁)

「極重の悪人」とは、自分そのものが言い当てられてあり、そのような私にこそ仏さまのはたらきは南無阿弥陀仏となって届き、照らし続けてくださっていることが示されています。

ここには、自らの姿をごまかすことなく見つめ、悲しむとともに、本題の真実に

出退うことのできたよろこびが語られているのです。

今月のことばに「一人の人生であっても」とあるように、私たちは人生の歩みのなかで孤独を感じずにはおれないことがあります。現実の苦悩を、他の人に成り代わってもらうことはできません。

また、どれだけ相手のことを思っても、相手に成り代わって悲しみ苦しみを引き

受けることはできません。

人は一人で生きているのではない、そのように先人方はいただいてこられました。

自分一人の力で生きることなどできない、支え合って生きているのであって、他の方のために何かをするのは、まわり回って自分のためになることである、という大切なことを受け継いでこられました。

過去のテレビドラマで人気のあった、学校の先生が生徒に熱いメッセージを送る有名なセリフに、「人という字は、互いに支え合って人となる」というものがあります。

人は一人では生きていけない、他者と協力し励まし合いながらともに成長するのだ、だから仲間を大切に。それが感動的な名言として、語り継がれました。

時代が流れ、この「人という字」の名言はドラマや漫画で取り上げられ、さまざまに解釈されてきました。

たとえばこういう解釈があります。

人という字は支え合っているのではなく、支える者がいて、その上に立つ者がいます。大きなプロジェクトでは数多くのスタッフがかかわって、一つの仕事を成し遂げます。宇宙飛行士はまさに上に立つ者であり、その人が宇宙へと旅立つのを多くの職員が支えます。職員たちは上に立つ者が飛び立つための発射台となり、宇宙へ送り出すために全力で支える人となります。

これは、文字の形をただ対等に支え合うものとせずに、互いに支え合う関係性を前向きに受けとめた解釈となっています。

あるいはこういう解釈もあります。

人という字は支え合うなどと言いながら、片方が寄りかかっていて、支えている者はただ我慢を強いられている。誰かが犠牲になることを容認しているものだ、というのです。

悲しい見方ではありますが、社会を客観的に見れば的を射ているのかもしれません。

さまざまな解釈ができますが、辞書的な説明では、人という字は「一人の人が立っている姿を横からみた形」ということになります。複数の人が支え合っている形と説明している辞書は見つけられません。

これは人の形をかたどっている象形文字ということになります。象形文字は何千年も前から使われてきたもので、ものの形をかたどって描かれた文字のことです。

はるか昔の人が、人という字を描こうとするときに、支え合ったり争い合ったりする複数の人で「人」というものを書き表すのではなく、「一人の人」の姿を用いて表現したということになります。

親鸞聖人が「真実の教」といわれた「仏説無量寿経」には、光のように説かれています。

世職愛欲のなかにありて、独り生れ独り死し、御り去り狙り来る。特に当りて

音楽の地に至り意く。身みづからこれを当くるに、代るものあることなし。

(「浄土三部経」「註釈版聖典」五六頁)

心は世殿の備にとらわれて生しているが、裁局独りで生れて独りで死に、独りで来て無りで去るのである。すなわち、それぞれの行いによって苦しい世界や楽しい世界に生れていく。すべては自分自身がそれにあたるのであって、だれも代ってくれるものはない。

(「仏説無量寿経」巻下、「浄土三部経(現代語版)」九九真)

私たちは一人で生まれてきて、一人で死んでいかねばなりません。生まれと死は思い通りにできず、誰とも共有することはできません。思い通りにならないからこそ、不安にもなり、思い悩みます。
そして、誰も代わることはできません。まさに、一人の人生なのです。

人という字が一人の人の姿で表されているように、私たちの人生は誰も成り代わることができません。どれだけ愛する者であっても、何とかして代わってやりたいと思っても、どうすることもできないのです。

ですが、代わることはできなくとも、ともに悲しむことはできます。

私たちは悲しみのなかにあるとき、寄り添ってともに泣いてくれる人がいると、

そこにぬくもりを感じます。

相手の悲しみを自らの悲しみとして、ともに悲しむところに、他者を思う心は熱しみとなり、愛おしむ思いになるのです。相手を思い、放っておけないはたらきにこそ、本当の慈愛があるからこそ、熟悪という言葉には悲しみの文字があるのです。

親鸞聖人が「正信念仏偈」に明らかにされたのは、自らの姿を悲しむとともに、私を摂め取って捨てない思いがあることを、大悲のはたらきのなかに感じ取られた喜びだったのです。

独りではない歩み

人という字は、一人の人生であることを表している形でした。ですが、私たちは相手を思い、悲しみ、慈しむことができます。そして、他者から思われ、悲しまれ、願われているのです。

相手を思って支えているときは、支えていることを知ることができますが、相手から思われて支えられているときは、そのことに気づかないことがあります。

私たちはときに支え、ときに支えられながら生きていることを、一人で生きてい

るのではない、支え合って生きているのだといただいてきたのです。

藤藩先生は、親駕望人の「明文」の次の言葉にふれて、仏さまとともに歩むあたたかさをお示しになっています。

かならず摂取して捨てたまはされば、すなはち正定の位に定まるなり。このゆえに信心やぶれず、かたぶかず、みだれぬこと金剛のごとくなるがゆるに、

こんに人

金前の信心とは申すなり。

(「註釈版聖典」七〇三頁)

阿弥陀仏は必ず摂め取って捨てないからこそ、私の心は破れることなく、衰えることなく、乱れることがない、それを金剛の倍心というのです。

仏さまの大悲に照らされて、仏さまとともに歩む人生を恵まれている私です。悲しみは酒えてなくなるわけではありませんが、一人の人生であっても、決して狐独で寂しい歩みではないことを、仏さまの大いなる慈悲のなかに感じ取らせていただけるのです。

(佐々木隆兄)

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2026年2月のことば 一切衆生の救われる道でなければ自分は救われない

二月のことばは、釜子が先生のお言葉です。

金子先生は明治十四(一八八一)年、新潟県の真宗大谷派の寺院に生まれ、東京へ移転開校していた真宗大学(現大谷大学)に入学、卒業後は新潟に帰郷して寺務に従事しました。その後、東洋大学教授、大谷大学教授、広島文理科大学(現広島大学)専任講師、大谷大学教授(復職)を歴任し、昭和五十一(一九七六)年にご往生されました。

真宗大谷派の僧侶であり、仏教思想家である金子先生は、清沢澈之氏の私塾、満を洞に学び、清沢氏が創刊した雑誌「精神界」の編集責任者を務めました。

同期の曽我量氏と親交を深めるとともに、教え子の安田理氏、松原相善氏、山崎俊英氏などと一緒に京都に私塾、無法学園を開設し、後進の指導に尽力しました。

教学理解の相異によって、一度は大谷大学を辞任しましたが、後に復職し、真宗大谷派最高の学階である講師を授与されました。そして、大谷大学名誉教授、真宗大谷派宗務顧問となっておられます。広範な学識と深い自己省察にもとづいて、伝統的な仏教、浄土真宗の教えを近代思想界にひろめたのです。

今月のことばは「金子大楽対話集」(一九七九年、弥生音房)の一節です。この書は

和大氏や故出@鉄氏、武感素ご氏といった方々との対話で構成されています。

仏教の教えにふれるとき、その専門用語の難しさから、人々に敬遠されることがあります。この書は対話集ですので、ずっと話し言葉が続いていて、比較的読みやすいです。

金子先生の信仰が、身近な出来事を通して柔らかく語られていくのですが、そこには仏教、浄土真宗の教えを自らの人生に照らして深く洞察された先生の、み教えとの出会いの喜びがうかがえると言えるでしょう。

金子先生には、一般の人にも語り継がれる有名な言葉がいくつかあります。

「やり直しのきかぬ人生であるが、見直すことはできる」

「花びらは散っても花は散らない、形は滅びても人は死なぬ」

これらは浄土真宗のみ教えを伝える言葉ではあるのですが、悩み多い現代社会を

生き抜くための、教訓のようなものとして受け取られることも多いようです。

人生には、出会わなければならない悲しみや苦しみがあります。いくら涙を流しても尽きないほどの悲しみのどん底にある方に対して、どれだけ力になりたいと思っても、なかなかかける言葉は見つかりません。少しでも励まそう、男気づけようと思っても、悲しみの只中にある人の心にはとても届きもそうもありません。

そんなとき、その悲しみはどうしようもないものなのだから、乗り越えてがんばって生きていきましょう、というのはあまりにも酷なことです。

教訓としては、いろいろな考え方があるでしょう。

この世に喜びばかりだったら、日常をありがたいと思うこともなかったかもしれない、今の悲しみにも学ぶことのできる意味がきっとある、いつか悲しみを乗り越えて生きていけます。このような言葉は、まちがってはいないのかもしれませんが、悲しみの淵にある方には酷な言葉です。

自分がこれまでしっかり考えてこなかったからだろうか、学ぼうともせず甘えているだけなのだろうか、いつまでも泣いていないで、深をこらえてがんばって生きていかねばならない。そのような思いを持たせてしまうなら、それは溺れて今にも沈みそうな者に泳ぎ方を指導するようなものであり、あるいは溺れていること自体を責めて反省させるようなものです。

金子先生の言葉は、親鸞聖人が明らかにされた他力の念仏、阿弥陀如来のはたらきのなかに生かされる念仏者のこころを伝えるものであって、人生をうまく生き抜く教訓を教えるものではないでしょう。

私の悲しさを知る仏さまの悲しみ

金子先生の言葉に、次のようなものがあります。

悲しみは悲しみを知る悲しみに救われ、涙は涙にそそがれる涙にたすけらる。

(「数異抄領解」一九五六年、在家仏教協会「金子大栄選集」第十五巻)

これは、「数異抄』に対する金子先生自らの受けとめを述べる著述のなかの言葉で

す。

この著述では「数異抄」の本文を現代語に訳し、親鸞聖人の言葉に対する解説が記されているのですが、金子先生独特の時的な表現で語られているので、その言葉自体が情感豊かな響きを持っています。それが読む人に対してさまざまにメッセージ性を持って、時に教訓的に読まれることになるのかもしれません。

「悲しみは、悲しみを知る悲しみに、救われる」この言葉は、「数異抄」後序の火の言葉を解説された部分に出てきます。

聖人(親業)のつねの側せには、「弥陀の五期思僧の職をよくよく染ずれば、ひとへに親紫ールがためなりけり。さればそれほどの業をもちける身にてありけるを、たすけんとおぼしめしたちける本殿のかたじけなさよ」と御述懐使びし(「註釈版聖典」八五三頁)

親心がつねづね側せになっていたことですが、「障弥陀地が五期もの長い間、思いをめぐらしてたてられた本願をよくよく考えてみると、それはただ、この親紫で人をおいくださるためであった。思えば、このわたしはそれほどに重い罪を背負う身であったのに、数おうと思い立ってくださった弥陀の本職の、何ともったいないことであろうか」としみじみとお試しになっておられました。

(「数異抄(現代語版)」四八頁)

「数異抄」の著者といわれる唯円が、親鸞型人がいつもおっしゃっていた言葉を懐かしく思い出して語っています。

親聖人が、自分ではどうすることもできない迷いの深さ、愚かさを悲しみながら、このような私を包んで支えようと願いをおこしてくださった仏さまの、大悲に対するかたじけなさが示されています。

それを、「ひとへに親一人がためなりけり(ただ私をお救いくださるためであったのだ)」といただいていかれたのです。

今のこの悲しみがなかったら、日常をありがたいと思うこともなく、あたりまえに過ごしていたかもしれない。この悲しみは自身が立派な人間になるために必要な試練だったのだ。こんな悲しみは早く忘れて元気に生きていこう。

このように思うことができるなら、それに越したことはありません。

ですが、気の持ちようでなんとかなるような、そんなことでは済まない、どうすることもできない悲しみに、出会わなければならない私たちです。

いのちあるものは、必ず死ななければならない。そんなことは誰もが知っていることです。自分が死ぬ、ということについては、ひょっとしたら考えようがあるかもしれません。そこそこ年令を重ねれば、残りはどれくらいであろうか、いつまでも生きていられるものではない、そんな覚悟も少しはできてくるということもあるでしょう。

世の中では、人間死んだらおしまい、という言い方があります。

死は誰も避けることができないのだから、生きている間にできることを精いっぱいしようというような、そんな前向きな思いを表しているのなら、意味のある言葉だと思います。

本人にとってはそう言えるかもしれません。死は一つの区切りであり、それまでにできることをしよう、というのはわかります。でも、そのようにおっしゃる方がいたら、私はこう申し上げたいのです。あなたの死を悲しむ人にとっては、死で終わりではないのです。あなたが亡くなった後も、あなたのことを忘れずに、涙を流さずにおれない人がいるのです。どうぞそんな悲しいことを言わないでください、と。

一切無生の救われる道

私たちはこれまでの人生で、まわりの方々を見送るという経験をしてきました。

年が上の方もいれば、同世代の方であることもあるし、時に自分よりも年が下の方であることもあります。

身近な方々を見送るということは、私たちに大きな傷が残ります。

どうしてこんなことになったのだろうか。

何かしてあげられることはなかったのだろうか。

あれでよかったのだろうか。

それは見送った後も続きます。他人だったらすぐに忘れることができるかもしれませんが、「死んだらおしまい」などと忘れてしまうことはできずに、痛みを持ち続ける人のことを遺族というのでしょう。

死別の悲しみは、早く忘れて、乗り越えて元気に生きていくものではありません。

悲しみを抱きつつ、亡き人の思いとともに歩んでいくものと言えます。

私のどうすることもできない悲しみを、ともに悲しんでくれる方がいるとき、悲しさはなくならなくとも、支え合って生かされていく道が開かれます。

自分ではどうすることもできない迷いのなかにある私を、救わずにおかない、包んで支え、ともに歩もうと願いをおこしてくださった仏さまのが悪です。

それを金子先生は、「悲しみは、私の悲しさを知る仏さまの悲しみによって救われる」と示してくださったのでした。

そして、そのような大悲を一切菜生の救われる道といただいていかれました。

死の悲しみは自分一人の悲しみではなく、ともに悲しむものでありました。仏さまとともに歩み、海土へ生まれ往くという道において、自分も救われ、ともに救われていくといただくことができるのです。

それが、親鸞聖人がお示しになった自らの迷いを悲しむ思いであり、仏さまのはたらきを喜ぶ思いでもありました。

すべての人の救われる道であったからこそ、私も悲しみのなかではありますが、しっかりと歩んでいくことができます。

ともに歩んでいく道だからこそ、この先に浄土という行き先が開かれていきます。

私が仏さまとともに歩んでいく海士への道を、親鸞聖人がお示しくださったことを、金子先生は一切衆生の救われる道、私が救われる道と教えてくださったと味わわせていただきます。

(佐々木隆晃)

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2026年1月のことば み教えによって自分のありのままの相が知らされるのです

一月のことばは、酸田総文先生のお言葉です。

藤田先生は昭和十六(一九四一)年、大阪府に生まれ、龍谷大学大学院文学研究科

真宗学専攻を修了、広島県の浄土真宗本願寺派光徳寺住職を昭和五十五(一九八〇)

年から平成十八(二〇〇六)年まで務められ、その後、前住職として寺院を中心に全国で布教活動を行われました。

長く宗派の要職に就かれ、浄土真宗本願寺派門徒会運動・同朋運動の両本部事務室長、両運動を一本化した基幹運動本部事務室部長、浄土真宗本願寺派伝道院部長・主任講師を歴任されました。

令和元(二〇一九)年には仏教伝道協会より「第五十三回仏教伝道文化賞」を受賞されています。法味豊かな数多くの著述にも見られるように、わかりやすい語り口で「日常の仏法」をテーマに、広くみ教えを伝える活動に取り組んでこられました。

今月のことばは、「はじめて仏教を聞く人のための13章」(一九八四年、本願寺出版社)の一節です。タイトルにある通り、はじめて仏教に出遇う人の入門書として、生活のなかの人々の思いを出発点にして、懇切に語られています。

また、如上人の法語を伝える「如上人御ご代記開書」のなかに、「化法者申さ

れ候ふ。わかきとき仏法はたしなめと候ふ」(「註釈版聖典」一二五二頁)と、仏法は若

いうちに心がけて聞きなさいと示されているように、若い世代の方々に読んでいただきたいとの思いでこの書は書かれています。

藤田先生は、自分の確かなよりどころとなるものは、結局自分しかないと考えている人も多いのではないか、と語りかけます。

たしかに日常の生活では、自分しか頼ることができない、人に迷惑をかけてはいけない、弱さを見せられない、このような感覚が強く根付いています。しっかりすること、我慢強くあること、人に頼らないことが、いわゆる「自立」であると強調される傾向にあります。

これはある意味、過去の経験から学んだ知恵であり、社会を生き抜くために必要な武器、自分を守る鎧のようなものとも言えるでしょう。

こうしたことが求められる一方で、頼りにすべき自分自身に対して、弱さや不確かさを思い知らされ、大きな不安を抱えてしまうことがあります。

自分のことを、どれだけ人の役に立てるか、どれだけ我慢できるかで、その価値を測るとなると、何もできない自分では意味がない、外部に助けを求めてはいけないと、自分を追い込んでいってしまいます。

そして、自分とは違って甘え上手な人を見ると相手に不満を抱き、それでも自分はがんばり続けなければならないという関係性をつくり出して、八方ふさがりな状況に陥ってしまいます。

藤田先生は水のようにおっしゃっています。

他人は用できないといいますが、それ以上に用できないのが自分です。倍用できないものを用できると思いあやまって、自分に固執して、結局、自己と人生の方向を見失っているのが私たちではないでしょうか。

(「はじめて仏教を聞く人のための13章」本願寺出版社)

私たちはこれまでの人生でさまざまな経験を積み、知恵を身につけてきました。

それは社会を生き抜くうえでは必要なものであり、私を支える力になることは事実です。

そして、このやり方でうまくいったという経験があると、同じやり方にこだわりを持って、それを離さず握り締めてしまうところがあります。

私たちはそれぞれに、これまで培ってきた「ものさし」を持っていて、その「ものさし」で物事を測って判断します。

しかし、自分の「ものさし」にこだわり、それを自分の正しさとしてふりかざすと、他者の「ものさし」との違いに苦しむことになり、他者の思いを受け入れられなくなってしまいます。

「ものさし」を問う

仏教では、自分の「ものさし」で問うのではなく、自分の「ものさし」を問うこ

とを教えています。

若い頃には自分の「ものさし」が頼りなく、不安も多かったけれども、経験を積んできた今ならもう大丈夫、いろいろなことがわかるようになってきた。普段の生活ではそういうこともあるでしょう。

ですが、しっかりと準備をしていればすべて安心、自分のことは自分が一番よくわかっている、そのように思ってこれまで過ごしてきたとしても、やはり、思いもよらない出来事に出会わなければならないのが私たちの人生です。

自分の作り上げてきた「ものさし」を大事にし、これこそまちがいないと思っていた私が、思いもよらない出来事に出会ったとき、根底から揺さぶられます。

なぜ私がこんな目にあわなければならないのか、こんなにがんばってきたのに何が悪かったのだろうかと、その苦しさ、悲しさを受け入れるのは簡単ではありません。

今たよりとしている若さも、健康も、生命も、確かなものはありません。いつまでも若くありたい、できるだけ健康でいたい、長く生きていたい、そのような自分の切実な思いに自分自身が、裏切られなければなりません。

藤田先生は「宗教は、一時しのぎの道具ではありません。どんなことがあっても、びくともしない確かなよりどころをあきらかにするのが宗教です」と述べられます。

自分の「ものさし」で物事を測ろうとするとき、私たちは自分の都合のいいように、自分の心地よいものを選んで測ってしまいます。

すべては自分から見た見方、自分の都合で見えてくるものを見ているのですね。

それはちょうど、自分の都合という色メガネをかけて見ているのと同じです。

同じものを見ていながら、自分の見ている色と違う色だと言う人がいたら、その人の見方はおかしいと思うでしょう。白いものを見ているのに、私自身が色メガネをかけて見ていたら私にはその他にしか見えません。相手もまた同じように自分の色メガネで見ていたら、それは何であるとその人と言い合いをしても、いつまでも平行線です。

世間では、他人を変えようとしても変わってはくれない、自分が変わらなければ何も変わらない、ということを言います。

それはそうでしょうが、自分が変わることは本当にたいへんです。自分のかけている色メガネが、これまでの経験で身につけてきた自分の武器であるなら、それを捨て去ることはとても難しいものです。自分を変えること、自分の「ものさし」を手離すことは、自分でしょうとしても本当に難しいものです。

自分の「ものさし」にこだわり、そのこだわりが自分を苦しめていることに気づかされるのは、自分から出てくるのではありません。外から気づかされるはたらきが、私に届いていたのです。

み教えに照らされて

今月のことばの「み教えによって、自分のありのままの棚が知らされるのです」という藤田先生の言葉は、倍心について記されている箇所に出てきます。

浄土真宗の心とは、自分の「ものさし」で判断するのではなく、自分の「ものさし」が問われ、明らかになったところに頂戴しているものなのです。

藤田先生はおっしゃっています。

僧心とは、寒らかになることなのです。

真実のみ教えを聞いて、鶏らかになることが心です。

み教えに照らされて、私と、本当に確かなものがらかになることが信心なのです。

(「はじめて仏教を聞く人のための13章」本願寺出版社)

「審」とは「審査する」「審理する」などの言葉に見られるように、あきらかにする、くわしく知る、という意味の文字です。

心とは、何かにすがって一時しのぎをするためにお願いをするものではありません。み教えを聞き、み教えに照らされて、自分の「ものさし」にこだわって苦しんでいた自らの姿があきらかになる、そのような私であることを受けとめることを言います。

そして、自らの愚かさが知らされて、ただ絶望するのではありません。闇を照らしだし、気づかせるはたらきは、闇を破る光であり、真実に導くが火なのです。

親鸞聖人は、私の姿を審らかにするはたらき、私を照らし導く光のことを、次のようにお示しになっています。

無明 長夜の灯なり

智眼くらしとかなしむな

生死大海の船筏なり

罪障おもしとなげかざれ

(「正俊末和護」三時護、「註釈版聖典」六〇六頁)

弥陀のはたらきは、暗く長い夜の闇を照らす大きな灯火である。部数の腿が暗く閉ざされているといって悲しむことはない。阿弥陀仏のはたらきは、迷いの大海を渡す乗りものである。罪のさわりが重いといって嘆くことはない、とおっしゃっています。

「灯姫」という言葉について、親望人は漢字の読みや意味などを傍に記す左訓を付してくださっています。そこには、「常のともしびを弥陀の本願にたとへまうすなり。常のともしびを灯といふ。大きなるともしびを短といふ」とあります。

「灯」は灯火のことで、明るい光を表しています。「姫」は炬燵などというように、あたたかい光を思い浮かべることができます。

仏さまのはたらきを、智慧と慈悲という言葉で示すことがあります。智慧とは物事を正しく見きわめることをいいます。慈悲とは相手を憐れみ悼んで何とかしてやりたいと思う思いやりの心をいいます。

明るい光は私を照らし、真実の姿を教えてくれる智慧のはたらきを表しています。

あたたかい光は私を包み、真実の歩みに導いてくれる慈悲のはたらきを表しています。

ありのままの相

み教えによって照らし出された、自分のありのままの相とは、自分の「ものさし」が問われて明らかになる、真実の姿でした。

仏さまのはたらきに包み込まれた、自分のありのままの相とは、「何があってもあなたを見捨てることのない私がいます」と言ってくださる仏さまとともに生きる、真実の歩みでした。

あてにならない私であることと、本当に確かなものである仏さまのはたらき、その二つが審らかになって、自己と人生の方向が明らかになることを、藤田先生は「心とは、審らかになること」とお示しになったのです。

み教えによって、自分のありのままの相が知らされるという、念仏者としての確かな歩みが、私には恵まれているのです。

(佐々木隆見)

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2026年表紙のことば これからが これまでを決める

表紙のことばは、藤代先生のお言葉です。

藤代先生は明治四十四(一九一一)年、福岡県の真宗大谷派の寺院に生まれ、単量 深氏のもとで仏法にふれられ、平成五(一九九三)年にご往生されました。

曽我量深氏は大谷大学学長を勤め、明治から昭和にかけて伝統的な仏教、浄土真宗の教えを、時代の風潮を踏まえて広く人々に伝えた方です。濃沢議之氏、通常観氏、銘子犬楽氏などの方々と親交を深め、当時の思想的、哲学的な受けとめのなかで、幅広い視野と深い念とによって仏教の教えと仰をひろめました。
その曽我氏に随行し、薫陶を受けた藤代先生の言葉に次のようなものがあります。

今日であるあること難き今日である

(「藤代聡麿先生法語集』九州鶯音会

この言葉は、あること難い今日なのだから、二度とない今を大切に精いっぱい生きましょう、といった教訓のような内容を仰っているのではないでしょう。

あること難しとは、ここにあるということが、私自身、思いもよらない巡り合わせのなかで、たまたま恵まれて生かされている身であることを表しています。有り難いいのちであり、おかげさまで生かされている私であることを教えてくれる言葉です。

ところが現実の私は、おかげさまの心を忘れ、あたりまえに過ごしてしまっています。浄土真宗の教えにふれ、有り難いご恩のなかに生かされていることを教えていただきながら、日々の生活を改めることなく、慌ただしさに追われて毎日が過ぎていきます。

大きな恩ほど忘れやすい、と言います。身近なところには「ありがとう」と言えても、ご恩があまりに大きいと、そのご恩を有り難いことと感じるのは難しくなるようです。

朝、目が覚めて「あぁ、よく寝た」と眠りに感謝することはできても、夜が明けて一日が始まる朝陽を「有り難い」ものだとは思えません。食事をするとき、ごはんを作ってくれたことに「ありがとう」と言えても、いのちをいただいて今日を生かされるご恩に「おかげさま」とはなかなか思えません。一日を無事に終えて今日起こった出来事の気づいたところに感謝することはできても、見えないところで様々に支えていただいた思いもよらない多くのかかわりに、「あること難い」一日であったといただくことはとても難しいものです。

生かされているご恩があまりに大きすぎて、あたりまえになってしまっている私です。その私が浄土真宗の教えを聞き、手を合わせるなかで自らの姿に気づかされるのです。

一日の始まりの朝に、食事の前後に、一日の終わりの夜に、手を合わせてきた先輩方の後ろ姿を通して、あたりまえではなかったことを私たちはこれまで教えられてきました。手を合わせ、南無阿弥化と申しあげるところに、仏さまのはたらきが届いているのです。

そう簡単に生き方を改めることはできません。それでも仏さまのはたらきのなかにあることで、今日の私の生活はそのままに、あること難い今日を生かされていることに気づかされるのです。

今日という日は、感謝を忘れ迷いのなかで危なっかしく生きている私であると、自らの姿に気づかされる日であり、また、手を合わせ南無阿弥陀仏の声とともに、仏さまのはたらきのなかにあることを実感する日ともなるのです。

「今日であるあること難き今日である」。この言葉には、生き方や処世術、教訓としてではなく、南無阿弥陀仏に込められた仏さまのはたらきを、しっかりといただいていかれた藤代先生の、よろこびの心がうかがえるのではないでしょうか。

仏さまのはたらきのなか

「これからがこれまでを決める」という表紙のことばは、一見すると、これからの行いがこれまでの価値を決める、これからの生き方次第でこれまでのあなたの人生は良いものにも悪いものにもなりますよ、という教訓のような言葉にも見えます。

今後のがんばりがこれまでの努力を活かしもするし、無駄なものにもする、だからこれからをしっかりと生きていきましょうという前向きな人生訓は、ときに大事な心構えにもなります。

過ぎてしまった過去は変えられないけれども、これからの未来は自分次第で変えられる、それによって過去の価値も変わる、大事なのは今なのだというのは、社会においてはもっともなことです。

その延長線上に表紙のことばを見ると、今後の生き方によって過去におこった出来事も、見え方や感じ方が変わる、と読むこともできそうです。しかしそれでは、すべては気の持ちよう、考え方次第でどうにでもなる、と言っているのと同じになってしまわないでしょうか。

藤代先生のこの言葉は、『藤代聡麿先生法語集」に決のような形で収められています。

これからがこれまでを決める

得度を祝して

春が来る 正月が来る と申します

南無阿弥陀仏があれば 浄土は来る

南無阿弥陀仏は 向こうから来て

目の前を 浄土にするので

未来は 歳と共に だんだん明るくなる

長崎県大村市〇〇寺の御正忌にて

(「豚代聡磨先生法語集」九州鸞音会)

長崎県大村市のあるお寺で行われた「御正品」において述べられたものでした。

御正忌とは「御正記報思議」のことで、製聖人の雑用命日におつとめされる、浄土真宗で最も重要な年間行事の一つ、親鸞聖人の恩徳に報謝する法要です。

法語集を発行する「九州鶯者会」は、曽我量深氏のご命日の法要である「焼音忌法要」を、現在も九州大谷短期大学で開催していて、藤代先生の言葉を伝える者を複数刊行している集まりです。

藤代先生を浄土真宗のみ教えに導いた曽我氏の、そのご命日の法要を大切に伝承してきた方々が、親鸞聖人の恩徳を偲び、浄土真宗のみ教えにふれる「報恩講」での藤代先生の言葉をご紹介くださっているのです。

きっとそこには、南無阿弥陀仏に込められた仏さまのはたらきをいただいた、藤代先生のよろこびの心があるはずです。

仏道を歩むということ

藤代先生の言葉には、「得度を祝して」と添えられています。

得度とは僧侶になることで、剃髪し師僧について定められた儀式にそって出家の許可を受けることをいいます。

得度の「度」は渡る、渡すという意味で、迷いの世界からさとりの世界へ渡り到ることを表します。そのような教え、歩むべき道を「得」るので、得度といいます。

仏さまの教えに生きるということであり、仏道を歩む始まりとなるのが得度です。

浄土真宗の寺院では、毎年の報恩講の際に本堂に「御絵」を掛けて、親紫聖人のご生涯を偲びます。「御絵伝」とは親鸞聖人のご生涯を図絵で表した絵巻物を掛軸にしたものです。

「観絵伝」の一番最初の場面は、親鸞望人が九歳の時の「出家学道」の図絵です。

聖人の九十年のご生を偲ぶにあたり、最初の場面が誕生のシーンや幼い頃の様子なのではなく得度のお姿であるのは、九十年のご生涯が仏さまの教えに生きた日々であり、仏道の歩みであったところに、私たちの念仏者としての日々の歩みを教えていただいていると受け取ることができます。

さらに申しあげると、「御絵伝」の二番目の場面は「吉水入室」です。親鸞聖人の

師、法然聖人がいらっしゃった京都東山吉井の草庵を、二十九歳の親鸞望人が訪ねるシーンです。このとき親鸞聖人は、阿弥陀仏の本願のはたらきのなかに生かされる、他力念仏の教えに出遇われました。

親業型人の人生は仏さまの教えに生きた九十年であり、その仏道は他力念仏の教えのなかにあったのです。

そのような得度を祝して藤代先生が述べられた法語が、「これからがこれまでを決める」です。そこには仏道を歩むということが、どのような道であるかが述べられていると言えるでしょう。

言葉は、「春が来る正月が来ると申します」と続いています。春が来るのは、私ががんばって暖かくしてその季節がやってくるのではありません。寒い冬を過ごす私に、あるとき気がつくとやって来て、暖かさに私を包み込んでくれる。そのとき、春が来たと感じるのです。

正月もそうです。私ががんばって春にするのではない、私が正月に向かって行くのでもない、春も正月も自然のはたらきとして、私にやって来るのですね。

「南無阿弥陀仏があれば浄土は来る」。浄土は、私ががんばって作り上げる世界ではありません。親鸞聖人のみ教えは、生活を改め、より良い生き方をして人生を価値あるものにすることを教えるものではありませんでした。

お浄土は、仏さまの真実の世界です。そして南無阿弥陀仏は、海士へ生まれてきてくれよと願う仏さまのよび声です。

南無阿弥陀仏が私に届いているということは、私を導き、育てる仏さまのはたらきのなかに私はあるということであり、そこに、浄土へ生まれ往く人生であることを私は実感できるのです。

がんばって世界を浄土にするのではない、浄土に向かって懸命に進み行くのでもない、仏さまのはたらきとしてのお浄土が私の人生に開けているのです。

これからがこれまでを決める

南無阿弥陀仏の六字には、擽め取って捨てない仏さまの慈悲のはたらきが矢けることなくそなわっています。「南無阿弥陀仏があれば浄土は来る」と述べられているように、藤代先生にとって南無阿弥陀仏があることは疑いようのないことであり、私には南無阿弥陀仏が届いているのです。

これからの毎日が、お浄土へ生まれ往く人生であるといただくことができるのは、南無阿弥陀仏のはたらきのおかげです。

これまでの日々の生活で手を合わす身へと育てられてきたのも、南無阿弥陀仏のはたらきのおかげです。

おかげさまで生かされている私であるという大切なみ教えに出遇いながら、迷いのなかに感謝を忘れる私です。そのような私がそれでも仏さまとともに歩む人生であり、そのままお浄土へ生まれ往くまちがいのない仏道を歩ませていただけるというよろこびがあることを、藤代先生の言葉は教えてくれるように思います。

(佐々木隆晃)

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2025年12月のことば 確かなものは 今もはたらいている如来の本願力

十二月の法語は、龍谷大学名誉教授であり、浄土真宗本願寺派勧学であられた村上速水和上のお言葉です。

村上和上は一九一九(大正八)年に岡山県にお生まれになり、後に鹿児島県の永照寺に入寺されました。龍谷大学研究科、本願寺派宗学院をご卒業後、一九八七(昭和六十二)年まで龍谷大学文学部、龍谷大学短期大学部、中央仏教学院に奉職され、二〇〇〇(平成十二)年三月にご往生されました。

しょうしんげさんごう

今、手元に和上のご著書『正信偈護仰」(永田文昌堂)を置いています。色褪せた表紙を開くと「正信偈」の解説のページに赤鉛筆でラインが引いてあります。一九八六(昭和六十一)年、龍谷大学短期大学部仏教科の一回生だった私は、龍谷大学での和上の最終年度に、この「正讃仰」をテキストにして、和上から「正信個」のご講義を賜ったのでした。和上はその頃、ご病気の後遺症もおありになり、「正信偈」の一句ずつをゆっくりと解説してくださいました。大学生になったばかりの浅はかな私にはじれったく思えましたが、真摯に語られるお言葉には力があったのでしょう。赤鉛筆でテキストに幾筋もラインが引いてあります。ともあれ、本願寺教団にとっても、龍谷大学にとっても、大いなるご功績を残された和上のご講義を直接賜ることができたことは、大変ありがたいことでありました。

さて、この法語は、村上和上のご著書「蕗の墨ーこころの巻頭言集ー』(本願寺出版社)からの一節です。この本は一九八八(昭和六十三)年四月から一九九二(平成四)年三月号までの約四年間にわたって、和上がご執筆された「大乗」の巻頭言をまとめたものです。巻頭言ですから、一編一編は短い文章ですが、どのエピソードにも滋味あふれるお念仏の薫りが漂ってきます。

確かなものは、今もはたらいている如来の本願力

(村上速水「蕗の墓1こころの巻頭言集」一•九真)

この法語が書かれてあるのは、一九九一(平成三)年五月号の巻頭言です。「現生正定聚」と題されたその一編には、私の父が和上にお送りした寒中見舞いの葉書の文面が紹介されています。父は龍谷大学在学中に和上にご教授を賜ったそうで、そのご縁で毎年年賀状をお送りしていたようですが、その年は年賀状ではなく、寒中見舞いを出していたのです。その文面とは、

寒中御見舞い申し上げます。

「今が確かなのですネ、だから先も確かなのですネ」日頃このように話していた坊守が、如来さまの確かさの中に生き、昨年七月病気で急逝しましたので、賀状失礼いたしました…・・・・・。

(村上速水「蕗の薬ーこころの巻頭言集」一〇八頁)

という一文です。和上はこの一文を読んでくださり、思わず素晴らしいと感嘆の声を上げられたとあります。

一九九〇(平成二)年七月十四日、私の母はくも膜下出血で倒れ、五十二歳で今生の縁を終えました。当時私は大学を卒業し、実家から仕事に通っていました。その日の朝も、いつもと変わらず手作りのお弁当を持たせてくれた母が、自宅で倒れたとの連絡を受けて、急いで帰宅しました。母は痛みに苦しんでいましたが、かろうじてまだ意識はありました。しかし、救急搬送される時にはもう意識はなく、搬送先の病院で検査をしていただきましたが、手術もできない状態でした。結果、倒れてから二十時間余りの後に、一度も目を開けることなく、一言も話すことなく、臨終を迎えました。

私は到底母の死を受け入れることはできませんでした。大好きな母、大事な母、私のいのちの源なる母、その母が死んでしまうなんて想像もできなかったのです。

母とずっと一緒にいたいと思っていました。まだまだ教わりたいこともたくさんありました。もっともっと長生きしてほしかった。けれど、それはみな叶わぬことでした。

その後、私は結婚し、長女を出産しました。長女が三歳の頃、夜寝かしつける時に、「ママがしんだらやだぁ。ママがしんだらどうしよう」と泣くことが数日続きました。私は健康でしたが、おそらくアニメでそういうシーンを観たのでしょう。私は泣きじゃくる長女に、「ママは死なないから大丈夫だよ」

と言ってあげることができませんでした。三歳の子どもですから、そう言えば安心して泣き止み、眠りについたかもしれません。けれど、私はどうしてもそう言えなかったのです。なぜなら、私も長女と同じように思っていたのに、大好きな母はあまりにも急に今生のいのちを終えてしまったのですから。

村上和上も「確かなものは、今もはたらいている如来の本願力」というお言葉に続けて、

確かなものはー中略ー私の希望や思いではありません

(村上速水『のーこころの巻頭言集1」一〇九ー一一•頁)

とお示してくださっています。母が急逝したことによって、私はつくづくこのことを思い知らされました。だから、「ママがしんだらやだぁ」と泣きじゃくる幼い長女をただただ抱きしめ、今在る温もりを伝えるしかなかったのです。

では「確かなもの」とはなんでしょう。

母が倒れた時、父は他県に布教のご縁で出かけていました。病院に駆けつけた時にはすでに母は危篤状態でした。呼びかけても返事もせず、目を開けることもありません。温かくやわらかな手を握っても握り返すこともありません。しかし父は、母が意識のない体全体で、そして今生の縁つきようとしているいのちのありったけで、

今が確かなのです。だから、先も確かなのです。

とメッセージを送ってくれていると聞いた、と後に法話で話していました。このメッセージの言葉は、母が倒れる十日ほど前、夫婦でお茶を飲みながら世間話をしているうちに、話が阿弥陀さまの摂取不掛のおはたらきのことに及んだ時に、母が語った言葉です。

摂取不捨とは、阿弥陀さまはかぎりない光明の中に、私たちを携め取って決してお捨てにならない、というおはたらきのことです。私の生きざまの丸ごと全体が、今、ここで、阿弥陀さまの光明の中に摂め取られ、つつまれ、抱かれているのです。

たとえ私の側にどんなことがあろうとも、見捨てることはないというおはたらきです。

それは、ただ摂め取られているということではありません。親鸞聖人は「御消息』の中で、

それは、ただ摂め取られているということではありません。親鸞聖人は「御導真実感心の行人は、摂取不格のゆゑに正定の値に住す

(『註釈版聖典」七三五頁)

とお示しくださっています。

南無阿弥陀仏のお心とおはたらきを知らせていただき、お念仏のみ教えに生きる人は、阿弥陀さまの摂め取って決してお捨てにならない、まちがいのない救いのおはたらきの中につつまれているのですから、この世界(現生)において正定聚(正しくお浄土に在生して仏になることに定まった仲間)に入らせていただくのです。

そして、親鸞聖人は「顕浄土真実教行証文類』「証文類」の中で、

正定聚に住するがゆゑに、かならず滅度に至る

(『註釈版聖典」三〇七頁)

とお示しくださいました。

私たちは、今生で正定聚という確かな身にならせていただくのですから、かならず滅度に至る(お浄土に往生し、仏さまのさとりをいただく)というまちがいのない確かさをいただいているのです。

そのようなことを夫婦で話していた時に、母は深い感動をもって「今が確かなのですネ。だから先も確かなのですネ。ありがたいことですネ」と語ったそうです。

危篤状態の母を看ながら、父は十日前の母の言葉を思い出し、

今が確かなのです。だから、先も確かなのですよ。お念仏申すことも、仏さまのことを思うこともできぬ状態を迎えました。でも、私がどのような状態になろうとも、摂め取られ、どんなことがあっても見捨ててくださらない阿弥陀さまの確かさの中に、今、このままがつつまれているのです。だから、いつ、どのようなことで今生を終えようとも、往生浄土という確かさをいただいているのです。

と、母がいのちのありったけで伝えてくれていると聞いたのでした。そして父は、臨終を迎えた母の顔を見ながら、阿弥陀さまの摂取不捨の確かさの中に自らを知らせていただくことができた母の五十二歳の人生を「よかったな」と讃えたそうです。

村上和上は、この母の言葉から、

確かなものは、今もはたらいている如来の本願力と、力強く教えてくださっています。学生時代の「正信偈」のテキストのように、赤鉛筆でラインを引いておきたいお言葉です。

「不確かなあなたをかならず救う仏がここにいます。だから安心してこの仏にまかせなさい。なもあみだぶつ、なもあみだぶつ…・・」と、今、ここに至り届き、摂め取ってくださる阿弥陀さまの本願力の他に確かなことなどないのだという和上のお言葉は、「ママがしんだらやだぁ。ママがしんだらどうしよう」と泣きじゃくっていた長女と、ただただ抱きしめることしかできなかった私を、今つつんでくれています。

時が経ち、長女は龍谷大学で真宗学を学び始めました。一人暮らしの寂しさからか、はたまた頼りない私を案じてか、初めの頃は毎日のように電話がかかってきていました。ところがある時、何日も連絡がないことがありました。初めは忙しくしているのだろうと思っていましたが、長女の身に何かあったのかとだんだん心配に
なってきました。そこで携帯電話のメールで、

「もはや滅度か!」(もしかして、もうお浄土に往生し、仏さまのさとりをいただいているの?)

と送ってみたところ、数時間経って長女から、「まだ現生!」(今、現生で阿弥陀さまのおはたらきの真只中です)

と返信があり、安堵したことがあります。お互い、いつ、どのような縁で今生の別れを迎えるかわかりません。私の希望や思いは打ち砕かれてしまい、深い深い悲しみに沈むでしょう。けれど「なもあみだぶつ…・」とお念仏を申す中に、阿弥陀さまの確かさの中に生かされたお互いの人生を「よかったね」と讃えることができるのだと思います。

確かなみ教えに出遇えたことを今、親子で慶ばせていただいています。

(徳平 亜紀)

あとがき

親鸞聖人御誕生八百年・立教開宗七百五十年のご法要を迎えた一九七三 (昭和四十八)年に、真宗教団連合の伝道活動の一つとして「法語カレンダー」は誕生しました。門徒の方々が浄土真宗のご法義を喜び、お念仏を申す日々を送っていただく縁となるようにという願いのもとに、ご住職方をはじめ各寺院のみなさまに頒布普及にご尽力をいただいたおかげで、現在では国内で発行されるカレンダーの代表的な位置を占めるようになりました。その結果、門信徒の方々の生活の糧となる「こころのカレンダー」として、ご愛用いただいております。

それとともに、法語カレンダーの法語のこころを詳しく知りたい、法語について深く味わう手引き書がほしいという、ご要望をたくさんお寄せいただきました。

本願寺出版社ではそのご要望にお応えして、一九八〇(昭和五十五)年版から、このカレンダーの法語法話集「月々のことば」を刊行し、年々ご好評をいただいております。今回で第四十五集をかぞえることになりました。

二〇二五(令和七)年の「法語カレンダー」では、「宗祖親鸞聖人に遇う」というテーマを設け、これまでお念仏を称え人生を生きぬかれた、先師の言葉を選定いたしました。本書では、これらのご文についての法話や解説を四人の方に分担執筆していただきました。繰り返し読んでいただき、み教えを味わっていただく法味愛楽の書としてお届けいたします。

本書をご縁として、カレンダーの法語を味わい、ご家族や周りの方々にお念仏の喜びを伝える機縁としていただければ幸いです。また、各種研修会などのテキストとしても幅広くご活用ください。

二〇二四(令和六)年八月

本願寺出版社

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2025年11月のことば 浄土へ生まれたいというのは 浄土へ生まれよという如来の命令なんだ

十一月の法語は

真宗大谷派の僧侶である仲野良 俊先生の講義録 『 浄土真宗―往生と不退―』( 東本願寺出版)からの一節です

仲野先生は一九一六 ( 大正五)年に京都市の真宗大谷派専念寺でお生まれになり大谷大学文学部をご卒業の後

大谷大学講師、大谷専修学院講師、真宗大谷派北海、道教学研究所長

真宗大谷派真宗教学研究所長などを歴任され一九八八 ( 昭和六十三)年一月にご往生されました。

『 浄土真宗 ―往生と不退―』は

一九八三 ( 昭和五十八)年十一月から翌年の十二月にかけて行われた名古屋東別院での五回にわたる研修会の講義録です

あとがきによりますと

先生はこの研修会の前後から体調を崩されたため講義録としては最晩年のものとなったのだそうです。

全編を拝読しますと、まとまった生涯をご教化に尽くされた先生の力強いお声が聞こえるようでした

さて今月の法語から私はふと

「 すなの しろ」という仏典童話を思い出しました。

白く美しい砂浜に子どもたちが駆けてきて、喧嘩をしながら場所取りを始めた。

やがてめいめいの場所が決まると子どもたちは思い思いの城や家を作った。子どもたちはみな自分のものを大事に守り、他の子に触らせなかった。ところが一人の子どもが他の子の城をうっかり踏み潰してしまい、また争いが始まった。

いつの間にか夕暮れ時になり、松林の向こうから「ゆうごはんだよ。はやく、かえっておいで」と母が呼ぶ声が聞こえてきた。その声の方に子どもたちは駆けだした。大事にしていた城も家も踏み潰していることにも気づかずに帰っていった。子どもたちが帰った後、波が寄せてきて城も家も残らず崩してしまった。

その様子をずっと見ていた男が言った。

「人間のしていることと、そっくりだ」

「ほとけさまのありがたい説法だ。うかうかしては、いられない」

(花岡大学「仏典童話全集七」二〇〇一二〇六頁、著者要約)

仲野先生も、

浄土に生まれたいというのは、浄土へ生まれよ、という如来の命令なんだ。

(仲野良俊「浄土真宗 1往生と不退ー』一五六頁)

というお言葉に続けて、ただ自分の都合のいいようにしたいと願っている私たちが浄土へ生まれたいなどとは到底思ってはいない、そんな心が発るというのが不思議なのだ、と語っておられます。

私たちはみな、前出の子どもたちのように、生きている間は欲や怒り、愚痴の心を燃やしながら、生きることに必死の日々を送っています。先生がご講話の中で度々言われるように、都合のいいこと(生)が好きで、都合の悪いこと(死)が嫌いなのが私たちの有りようです。

私事ですが、私は臨終間際の父から、そのことをよくよく知らされました。

私の父は、二〇〇三 (平成十五)年五月に六十五歳で往生しました。四月に急性肝炎で入院したのですが、良くなることなくひと月足らずで今生の縁を終えました。

私は父の入院の報せを聞き、すぐに家族で島根まで里帰りをして父を見舞いました。

肝臓の病気なので辛そうではありましたが、父は私たち家族の訪問を喜んでくれて、起き上がって病状などを話してくれました。

「わしは六十五年もこの肝臓を腹の中へ据えとったが、肝臓や腎臓が体の毒をきれいにしてくれておったとは少しも思わずにおったなぁ」

と言い、

「体の毒は肝臓や腎臓が働いてきれいにしてくれるし、それがだめなら、治療や薬できれいにもなるだろう。でも心の毒というものは、死ぬるが死ぬるまで、この身からもこの心からも離れることはないけえのう」と話してくれました。その時はまだ私も、おそらく父も、まさかひと月も経たぬうちに今生のお別れをしなければならなくなるとは思ってもいませんでしたので、父の話も何気なく聞いていたのでした。けれど後から、あの時父は親鸞聖人のお言葉を病の身に実感しながら自分の言葉で語ってくれたのだと気づきました。その親鸞聖人のお言葉とは、

「夫」といふは、無明、殲われらが身にみちみちて、欲もおほく、いかり、

はらだち、そねみ、ねたむこころおほくひまなくして、脇約のごにいたる

まで、とどまらず、きえず、たえずと、製処二酒のたとへにあらはれたり。

(『註釈版聖典」六九三頁)

いちねんたねんもんい」

という「ご文意」のお言葉です。父の言う心の毒とは、食欲・眼憲・愚類の三毒の煩悩です。この身に満ち満ちている煩悩は、死の瞬間まで消えることも離れることもないというのです。まさに煩悩具足の凡夫であることを、病の身をもって知らされたのでしょう。

その後、父の容態が悪化し、医師からも今夜が危ないと告げられる日が来ました。

父のもとに駆けつけた私は、病室で父の六十五年の人生最後のお夕事をしようと思いつきました。父に、

しょうしんげ

「お父さん、お正信のおつとめをしようかねぇ」と言い、小さな声で、

「帰命無量寿如来南無不可思議光渋蔵書成位時様地自在玉佐所..」

と「正園」のおつとめを始めました。父は島根県の山間のお寺で生まれ、幼くして父親が戦死したため、龍谷大学を卒業後すぐに住職継職して以来四十年余り、ご門徒や青少年への教化をひたすらにつとめてまいりました。私たち姉弟にもご法座の時には本堂でお参りするように厳しく言っておりました。そんな父ですから、自らの人生最期のひと時に家族と「正傷」のおつとめをすることをきっと喜んでくれると私は思ったのです。ところが、父は苦しそうに顔をしかめて、「はぁ、そがあな難しいことはいい…」(もうそんな難しいことはいらない)

と言ったのです。私は父が「正信偈」を跳ね除けたことに驚き、とても残念に思いました。けれど、父の様子を見ると残念な気持ちも消えました。生と死とのせめぎ合いの中で、死の瞬間を迎えるその時まで、生きたい、生きたい、生きよう、生きようと父の体は戦っているのです。そのせめぎ合いの真最中には、到底「正」を喜ぶことも、お念仏を称えることも、お浄土を成うこともできないのだと、父は身をもって教えてくれました。まさに、親鸞聖人のお言葉通りでした。

親鸞聖人は先掲の「一会多念文意」のお言葉の後に、導犬前の「観経強」「散鬱業」から三瀬が道の比喩を出されるのですが、そこでは、このような嘆かわしい私たちも、食欲をあらわす大水の河と志をあらわす大火の河に挟まれた一筋の白道を一歩二歩と歩いていくなら、何ものにもさまたげられない阿弥陀さまの光明に携め取られ、かならずお浄土に往生することができる、とお示しになられています。ここから、我欲に溺れ、怒りの炎を燃やしながらの私たちの生きざまや歩みが、もうすでに白道に喩えられる阿弥陀さまのご本願の中だったと窺えます。

善導大師は「散善義」に、

また西の岸の上に人ありて喚ばひていはく、「なんぢ一心正念にしてただちに

来れ。われよくなんぢを譲らん。すべて水処の難に癒することをれざれ」と。

(「註釈版聖典(七祖篇)」四六七頁)

と阿弥陀さまが大慈悲心をもって、「なもあみだぶつがあなたをお浄土へ生まれさせます。だいじょうぶ、もう二度と迷いの世界へ沈ませはしません」

と召喚してくださっていると説かれています。阿弥陀さまのお喚び声が聞こえたなら、そのまま帰ってゆけるのです。安心して帰ってゆけるのです。「すなのしろ」の子どもたちのように。

ほどなく臨終を迎える父ですが、その前に少しだけ状態が安定した時間がありました。その時、父は、

あんにょうじょうど

「この身このまんまで、安養の浄土へ参らせてもらうだけぇ(参らせていただくのだから)、安心、安心」

と、付き添っている私たちに言ってくれました。

「正園」も跳ね除けてしまうこの身、一声のお念仏も称えられなくなったこの身、生きたいと願い続けるこの身、心の毒が離れることがないこの身です。父に限ったことではありません。私も同じです。この身をひっさげた私のまるごとそのま

まが、阿弥陀さまの機取不橋のおはたらきのまん中に抱かれて、安らけきお浄士へと生まれさせていただくのだから、安心、安心、と父はほんとうの安心を教えてくれました。

いよいよ臨終間近、もう話すこともできなくなった父に、お見舞いに来てくださ

った隣寺のご住職が、

「ご院家さん、長いことお世話になり、ありがとうございました。またお会いし

ましょう」

と声をかけてくださり、父は小さく頷きました。

今まさに臨終を迎えようとしている人に対して「また会いましょう」と言うのは、一般常識ならおかしな話です。けれど、お念仏をいただき、お念仏のみ教えに生きる者同士であれば、いつであろうともお互いに「また会いましょう」と言えるのです。何故なら、みな等しく阿弥陀さまの御手の中にあり、かならずお浄土に生まれ

させていただけるからです。

私たちは誰しもが愛しい人、大切な人を、何人も何人も見送ってまいります。そのたびに深い悲しみの底に沈みます。空っぽになった手を合わせ、灰かな温もりを探します。会いたくて会いたくて、この胸が打ち展えます。けれども「また会いましょう」と言える世界があるということを、その人たちが教えてくれるのです。仏さまとなって教えてくれるのです。

仲野先生のお言葉をお借りすると、都合のいいこと(生)が好きで、都合の悪いこと(死)が嫌いな私は、お浄土とは真反対の生き方しかできませんが、お浄土に生まれて、あなたに会いたい…そう思う心もそのまま阿弥陀さまのおはたらきの中、「かえっておいで」という、頼もしくやさしいお喚び声だったのだと知らせていただきました。

さあ、うかうかしてはいられません。南無阿弥陀仏のお心を聞かせていただきましょう。

(徳平亜紀)

カテゴリー: 法語カレンダー解説 | 2025年11月のことば 浄土へ生まれたいというのは 浄土へ生まれよという如来の命令なんだ はコメントを受け付けていません